| 過去のちょいから (`▽´) ショート日記 |
| <2009秋> 9・10・11月 |
| 2009 9月 「私の授業計画・ビフアフ(アフ編)」 「ビフアフ」とは、「ビフォー・アフター」の略。牛肉っぽい料理ではありませんよ。(それ、前にも聞ーたから。) 今年の1月に「私の授業計画・ビフ編」を書いて、あのあとしばらく「アフ編」を書かなかったもんだから、 「それで、アフ編はまだかいな(`A´)?」 というお声をちらほらいただいていたが、あれから8ヶ月。もう最近では言われなくなったから、このネタも皆から忘れ去られているのだろう。(無理もない。) さて、塾講師を始めたころは授業準備にものすごく力を入れていて、尋常じゃないほど綿密な計画を立てていた私だが、今はどうかと言うと、わりかし大雑把(おおざっぱ)である。かつて、数々の失敗から、計画がカンペキだと、かえって効果があがらないということを学んだからだ。 計画が綿密すぎれば、その通りに進めようとしてしまい、生徒に合わない一方的な授業となってしまう。「今日はここまで進まねばならない」という思いに縛られ、生徒が想定外の反応を示した時にも、即座な対応ができにくくなる。 って話、前にも書いたっけ(・ω・) 今の私が時間をかけるのは、授業前の計画作りではなく、授業後の反省会。反省会っつっても私ひとりしかいないから、ひとり反省会。 私は塾講師をして12年目だが、これまでの講師経験から、ある程度の予測がつけられるようになった。例えば、「この場面で、生徒はこういった疑問を持つだろう」とか、「ここでは、こんな勘違いをするだろう」といった具合だ。 また、それらはクラス単位ではなく、生徒単位で出来たりもする。「あの子は、きっとここで戸惑うだろう」といった感じだ。 こういう予測は経験からくるものだから、年月を重ねれば重ねるほど予測もきめ細やかで的確なものとなり、授業運びもより上手になってくる。 それでも生徒は十人十色。同じ人間はひとりとしていないのだから、塾講師を何年やっていようが、必ず「こちらが予想していなかった反応」にも出くわす。 それを、授業後、ノートにつけておくのだ。そして、そのトラブルにその時はどう対処したのか、その結果どうだったのか、ということも記録しておく。 また、反省点も振り返り、どうするべきだったか解決策を講じて記しておく。 それを次の授業時に見たり、1年後、2年後、同じ単元の授業をおこなう時に見たりするのだ。 私の授業マニュアルは、自分自身が過去につけた授業記録ノート。今も、未来の自分の授業のためにと、せっせと授業後に記録をつけ続けている。今の私は、この作業に時間をかけることが多い。 「生徒が混乱したようだったので、先にこの説明を挟(はさ)めばよかった」とか、「今年はこうしてみたが、イマイチだった」とか、「次から、ここは入れ替えてみたほうがいいかも」とか、何年やっていても、反省点や新たに思いつくアイデアはあるんだなあ。 2009 9月 「アドリブはコピー機から」 私の指導のキーワードは、アドリブ。 前の日記と内容がかぶるが、スケジュールに縛られると一方的な授業になってしまい、効果はあがらない。だから私は、スケジュールは念頭に置きつつも、目の前の生徒に合わせることを優先とした授業をおこなうようにしている。 それで時には、その場でスケジュールを大幅に変更することもある。年間計画の中で都合をつけるため、時には何かを省(はぶ)く決断を強いられることもある。 絶えず生徒の様子と年間スケジュールを兼ね合わせながら、どう授業を進めていくべきか、その場で瞬時に判断することの連続、つまり、それがアドリブ。 「芸能人は歯が命、講師はアドリブが命」 (`ω´)ニヤリ。 例えば、同じ生徒でも日によって調子は違う。生徒にとって、なんとか頑張ろうとしているのに、調子が悪くてどうにも頭が回転しない、という日もある。 やる気がないということではなく、なんだかそんな日ってあるのよね。特に中学生なんかは、成長期の関係でバイオリズムが狂ったりしやすいのかな。たまに生徒たちがボケボケの日がある。 私は以前、そんな日に、「今日はどうしてもここまで進めておきたい」というこちらの気持ちを優先し、無理やり授業を進めたことがあった。しかし、結局は生徒たちがついてこれていなくて、その日の内容はちんぷんかんぷんで、後日やり直さねばならず、意味がなかった、という失敗を味わった。 今は、生徒のようすを見て、彼らの調子や理解度にリアルタイムで合わせていくようにしている。そして、場合によっては、その日の授業予定をガラッと変えることがある。そして、そんな私のやり方には、教室内のコピー機は必需品である。 プリゼミを開校する以前に私が所属していた塾では、教室にコピー機がなく、授業中にコピーをとることは不可能だった。まあ、それはそれで、それなりにやれたし、プリゼミを開校してからも、しばらくは「授業中にコピーをとるのは良くないことだ」と思っていた。 しかし、授業中に生徒の様子を見て、パッといい説明法が浮かんだり、いいことを思いついたりすることがあり、そんな時に、その場でコピーがサッととれるっていうのは、すごくメリットなことなんじゃないかな、と気づくようになった。 そうして、生徒の反応によって、あらかじめ用意していたプリントより「こっちのほうがいいな」と思うものがあった時、それを授業中にコピーするようになってくると、あらかじめ用意していたプリントがどっさりと無駄になることが多くなってきた。 だから、授業前にコピーはあまりとらなくなっていった。そのかわり、コピーの候補をいくつか用意するようになった。そして、授業中に生徒のようすをみて、その候補の中からぴったりくるものを選び、その場でそれをコピーするようになっていった。 それによって、生徒の理解度に合わせてその場で授業の進行を考えるという「アドリブ授業」のスタイルは、どんどん強化されていった。 そして、最近とってもラクなのは、そのコピーの候補を用意する手間がなくなってきたことだ。なぜなら、長年それをやってきているので、もう頭に入っているからだ。つまり、いろんな素材を手にとって探し出しておかなくても、全てその内容や場所が頭に入っているから、いつでもすぐに授業が始められて、あらゆる生徒の反応にぴったりのコピー原稿を、頭ひとつでピックアップすることができるのだ。 ・・・と、ちょっと抽象的な表現で、わかりにくくて申し訳ない。というのも、「コピーをとっている」ということ自体について、あまり明記できないことが含まれているから、どうしてもスッキリしない遠まわしな言い方しか出来ぬぞよ・・・。 とにかく、今の私の「アドリブ授業」というスタイルは、コピー機なしでは成し得ない。いうなれば、コピー機は私の相棒かな☆ 2009 9月 「生徒のもちものに思うこと」 いつも、しみじみと思うことがある。 「なんて恵まれているんだろう。」 「なんて贅沢(ぜいたく)なんだろう。」 「なんて豊かなんだろう。」 プリゼミに来る子のくつ、かばん、下敷き、ペンケース、えんぴつ、消しゴム・・・ 私が子どもの頃もそうだった。かわいいイラストのついたふでばこ、様々な色や形のえんぴつ、香りつきの消しゴム、、、。私たちの年代も、そういうものに囲まれて育ってきた。 でも、当時はそんなこと自覚していなかった。それらを当たり前のように持ち、そんな自分が恵まれているだなんて、感じたことがなかった。 それが今、大人になった私は、当時の自分と同じようにカラフルで凝ったデザインの文房具を携えてやって来る生徒たちを見ると、あまりにも贅沢すぎると感じられて、溜め息が出てしまうのだ。 今の文房具は、私たちの頃以上に凝っているかも?生徒の持つえんぴつは、表面の塗装だけでなく、軸の木の部分自体がカラフルで削るたびに違う色が出てきたりする。消しゴムは、中に小窓が付いていてベルのような飾りが揺れていたりする。カラーペンは、ラメが入っているだの、書くと自動的にふちどりになるだの、書いたあとにキャップなどでこすることによって色が変わるだの、特殊な専用ペンでなぞると一旦消えてヒミツのメッセージが完成するだの。 私らが子どもの頃、こんなん全然なかったし( ̄。 ̄;) 工夫に工夫を凝らされたデザインや仕様の文房具を見ると、「日本は平和だなあ」と思う。きっと生徒たちは、これらの文房具が並ぶ店内で、どれにしようかとわくわく選び、気に入ったものを購入して満ち足りた気持ちになるのだろう。こんな魅力的な文房具のひとつひとつに胸をときめかせられるなんて、この子たちはなんて幸せなんだろう、と思う。そして・・・ ・・・「幸せ」を通り越して、「のんきすぎる」と思ったり(・ω・) ・・・「果たしてこれでいいのだろうか」と考えてみたり(・ω・) とにかく、いつも私は生徒たちの持ち物を見るたび、なんともいえぬ溜め息が出てしまうのだ。それと同時に、子どもの頃に自分がその贅沢さを自覚していなかったことを思い知らされるわけで。 こういうのって、大人になってわかるんだなあ、と思う。でも、もしそれを子どもの頃に理解していたとすれば私はもっとかしこい人間に成長していたんじゃないかなあ、なーんて思ったり。 子どもが、恵まれた環境にいながらその有り難さを理解できないのは、ふだん身をもって感じる苦労があまりないからだと思う。 やりにくさ、失敗、反省、後悔。そういった経験がたくさんなきゃ、子どもは物事の本質を知ることができず、幸せなものに対した時にその「幸せ」を「幸せ」と認識できないだろう。むしろ、その「幸せ」を「迷惑なこと」と認識してしまうことも。 大人と子どもの価値観のズレは、そういうところから生ずるんだと思う。親が子どもにとって最高の環境を与えているつもりが、子どもにとっては何も感じていなかったり、当たり前のことと受け止めていたり、むしろ不満だらけだったり。これじゃ、がんばる気持ちや根性は育たないだろうなあと思う。 子どもたちが素晴らしい文房具を持っていること自体は悪くないと思う。でも、その幸せを本人が自覚できるように持っていってやらなきゃ、と思う。 やはり不便な思いや失敗、くやしい思いなどは、子どもには必要で、そのためには、それを見守って手を出さない我慢強さが大人には必要だろう。 大人も子どもも、たくましく成長しないとね p(`・ω・´)q |
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| 2009 10月 「最適人数」 プリゼミは少人数制で、1クラス5名までとしている。 今日の日記には「最適人数」というタイトルをつけているが、一般的な話ではなく、あくまでも私個人の話、つまり「私にとっての最適人数」という話として受け取っていただきたい。 それで、結論から言えば、まあ、子どもにもよるけれど、平均すると私にとっては3人がいちばん見易い人数だろう。 本当のところ、1人というのも捨てがたいと思っている。ことこまかく100%その子のことを見守っていられるからだ。だから、いっときは、塾講師ではなく家庭教師という道も考えたことがある。 だが、私には、「私のことを必要としてくれる子をなるべく多く見たい」という思いもある。そうすると、家庭教師では、担当できる生徒数が物理的に少なくなってしまうので、この思いが叶わなくなる。 また、家庭教師として生活していくには、授業料として、単価を高く設定せねばならない。そうなると、限られた子しか見られなくなる。 一概にはいえないが、私は、ご家庭の経済状況と子どもの学力との間には、相関がある(密接なかかわり合いがある)と思っている。私は、経済的な要素が学力に影響しているような子こそ多く私に出会ってほしいと思っているが、ひとりあたりの授業料が高い家庭教師では、そういう子に出会いにくくなる。 ここでひとつ誤解されないように加えておくと、私は家庭教師を否定しているのではない。いろいろな子どもがおり、それぞれの子に合ったスタイルがある。子どもごとに「いちばん良いもの」というのは違ってくる。だから、子どもにとっての選択肢は多いほうがいいだろう。世の中には、家庭教師、集団指導の塾、個別指導の塾、少人数制の教室、通信添削、などなど、いろいろ選択肢があるほうが良いと思う。全てが世の中に必要なものなのだ。そして、私は、その中のひとつなのだ。 そうして、結局、そんな私が選んだのは「5人までの教室」というスタイルだった。5人という人数は、ひとりずつじっくり見たいという思いと、子どもにとって来やすい授業料設定をという思いを兼ね合わせて出てきた数字なのだ。 プリゼミを開講して6年目だが、周囲から「ひとクラスあたりの人数をもっと増やせばいいのに」とか、「教室のやり方を変えて、ひとクラス30名くらいの教室にしたら?できるでしょ?」と言われることもある。 また、満席のクラスへの入会希望者がちょくちょくあったりするので、予約していただいて空きが出るまで待っていただくことになるのだが、そんな時には入会希望者からも、在籍生の保護者の方たちからも、「何とか受け入れ人数を増やせませんか?」という声をいただいたりする。これは非常にありがたい声です(^0^)。 たしかに、プリゼミを開講する前に所属していた塾では、10名以上のクラスを受け持っていたこともあるので、出来ることは出来るのだ。 でも、そうすると指導方針を変えなくてはならず、そうなると「プリゼミ」ではなくなってしまうのだ。指導方針を変えて教室を続けるのは、パラドックスが生じて、教室を運営する意義がわからなくなる。自分が信じる指導ができなきゃ、私の人生、なんのこっちゃってなるだろう。 やはり私は、今の指導スタイルそのものが「プリゼミ」そのものであると思っているので、それは貫いていきたいのです。 さて、5人と設定していつつ、冒頭で3人がいちばん見易いと書いたが、そのことについては、次回か次々回にくわしく述べたいと思う。 また、もし授業料の問題を考えなくていいなら、いっときは「1人が最高」と思っていたのが、今では「子どもによっては1人はかえって良くない」と思える時があり、そのことについても次回(次々回)に併せて述べようと思う。 2009 10月 「出まして来まして」 プリゼミ生の女の子が履(は)いてきた靴下が、あんまりにもかわいかったので、思わず撮ってしまいました。 ![]() アクビちゃんですね♪ 彼女はこれ以外にも、いつもキュートな靴下を履いてくるので、「今日はどんな靴下かな?」と見るのが私の楽しみのひとつとなっているのですが、履き主である彼女自身も、とってもキュートな女の子。 なかなか利発で明るく、お茶目で、一緒に勉強するのが楽しい子であります。 oooooooooo ちなみに、大学生の頃の私です。 ![]() 手に持っているのは。。。 2009 10月 「おひとりさまは最高か?」 ただ今、金10で、「おひとりさま」というドラマが放映されている。主演の観月ありさは、かつて私が若かりし頃(約10年前)に、当時の生徒から「みわこ先生て、ナースのお仕事の人にそっくり!」と評判だった(ウソじゃないよ、ホンマの話よ!)ことから、他人とは思えない女優さん。 そんな彼女が演じている「おひとりさま」は、その役柄が「教師」であることと、年齢が私と近いことと、独身であることなど、かなり私と状況がかぶるので、これまた余計に他人事とは思えない。 ま、役柄の彼女は「立派に自立した女性」という設定だが、そこが私とは違った点かな〜。まだまだ私はおっちょこちょいで頼りないですから(・ω・)っっ また、教師は教師でも、彼女は日本史の教師だから、そこも私とは正反対。(私は理数派。歴史は大きらい。) と、「おひとりさま」のドラマの話をしている場合ではない。今回のタイトルの「おひとりさま」というのは、私のことではなく、生徒のことだからだ。 つまり、前々回の日記で書いた「指導最適人数」の話で、生徒がひとりというのは果たしていいのか悪いのか、という内容なのです、今回の日記は。 授業で、相手にする生徒の人数は、かつて私は「1人が最高」と思っていたのが、今では「子どもによっては1人はかえって良くない」と思える時がある。 それは、ほぼ小学生に言えるが、生徒が新規入会生徒だった場合。さらにまた、自立できていない子だった場合。 ただ教え込むとか、先生に学ぶとか、それらだけからでは得られないことがある。それは、空気を読む力。学力をつけるには、とても大事な力だ。 「雰囲気を察する」、「周りを見る」、という視野と、「それによって自分がとるべき行動を決める」という判断力。 そういうものが身に付いている子は、かしこい。そして、それとは対極(正反対)にある子というのは、「言われなきゃできない」、「自分で判断できない」という子である。 人は、ひとりだと、自分の欠点に気づけなかったり、自分の弱点に気づけなかったりする。人は、他人を見て、初めて自分自身の異変に気づけるものだ。周囲の中で自分だけ浮いていることを自覚できれば、自分が今すべきことは何なのかを、おのずと知るはずである。 つまり、自分を客観的に見ることができるということ。 それが、ひとりだと、今の自分の姿を客観視できず、全く自分のペースとなってしまい、そこに嵌(は)まったまま、向上できなくなってしまう。 無意識のうちに他人と自分を比較し、自分を修正していくということは、人間が成長していく中でとても大事なことで、それは人間形成にも学力にも影響してくる。かしこい子に育てるためには、家族や友達など身近な人から学ぶ、学び合う、という機会を、小さい時に意識的にたくさん作ってあげる必要があると思う。 ふだん大人から「ああしなさい」「こうしなさい」と指図されることに慣れ、失敗する経験をあまり味わっていない子は、マン・ツー・マンはかえって効果が上がらないなと感じる。周囲の子がどんどん失敗しながら学んでいる、という環境に放り込むほうが、効果があがると思う。周りの子に感化され、自分で考える力、というものが付いてゆくからだ。 プリゼミのように数人で勉強していれば、子ども同士、お互いが鏡に映しあっているみたいになり、新規入会の子などは、周囲の子を見ながら、自分がすべきことをおのずと悟ってゆく。そして、プリゼミの指導スタイルにも自然と慣れていく。 たとえば、他の子がすぐに私を呼ばずに、とことん考えてから「みわこ先生〜」と呼ぶ姿を見たり、わからない字や言葉があったら「辞書を貸してください」と発言する姿を見て、「あ、そうか、そうすればいいのか」と気づき、それを参考にして、自分の行動を決める。それが、友達の姿から学ぶ、ということ。 マン・ツー・マンで、先生から「こういう時はこうしたらいいのですよ」と指示されることと比べれば、頭の使い方が違うというか、考えられる子になる要素がぷんぷん♪ もちろん、一概には言えず、時には「マン・ツー・マン」でみた方が効率が上がる小学生もいて、実際に今もプリゼミにそんな子がいる。 その子は、入会したての頃は、自分の行動を決められず、時にハチャメチャなこともしていたが、周囲の子に揉(も)まれて、だいぶ要領良くなってきた。今では大変しっかりして、逆にマン・ツー・マンで教えるほうが大変有意義だと思う。 とまあ、結局は子どもそれぞれなのだ。だから、マン・ツー・マンのほうが「良い」とか「良くない」というのは、その子次第なのだ。 ひとりひとりの子に合った指導法を見極め、その通りに出来るのが理想(*^^*)♪ |
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| 2009 11月 「フリスクのCM」 フリスクのCMは、いつもおもしろい。 少し前の「お医者さん篇(聴診器に気づく)」等も好きだが、現在オンエア中の、「アイデア」をテーマとした一連のCMも、とても好きだ。 その中のひとつ、「Idea Place篇」は、共感するCMである。 ↓↓↓↓↓ ♪:*:・・:*:・♪:*:・・:*:・♪:*:・・:*:・♪:*:・・:*:・♪ アイデアが生まれるのは、どこですか?
Hello, Idea
フリスクの映像 ♪:*:・・:*:・♪:*:・・:*:・♪:*:・・:*:・♪:*:・・:*:・♪ 最後の「会議室」のオチが皮肉を含んでいるけれども、そこがまたいい♪ 確かにアイデアとは、生もうとして生まれるよりも、意識をそこから外している時に生まれるほうが多い。 私の場合は、CMの中にもあるように、ふとんの中でひらめくことが多い。 あと、道を歩いている時や、自転車をこいでいる時など。 だいたい、私が考え悩むことというのはプリゼミのことが多いのだが、部屋でウンウンうなっているより、教室から離れたときのほうが、良い案が浮かぶ。 例えば、プリゼミ毎年恒例の「数学・さんすうイベント」や、数ヶ月おきに実施している「さんすう工作」のネタ。それらは、私が考え出す手作りのもので、オリジナルが多い。プリゼミでは、世間一般にあるネタを引っ張ってくるより、できるだけ私独自のアイデアでやりたいと思っているからだ。そして、これまでのそれらのアイデアのほとんどは、ふとんの中で生まれている。 ふとんの中でうつらうつらする中で、何の前ぶれもなく唐突に 「セロハンに線を描かせて丸めさせたら、おもろいやろな」な〜んて頭にポッと浮かんだりなんかするのだ。 ・・・みなさまのアイデアは、どこで生まれますか(’’?) |
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