過去のちょいから (`▽´) ショート日記


もくじ 最新の日記


 <2008春> 3・4・5月
2008
3月 「お月謝の効果・その2(3つ折り編)」

 お月謝制というスタイルが、生きた教育につながるという話。昨年の7月に、お月謝の効果について書いたが、あの時の内容は、「袋の中の手紙を確める子」についてだった。
 保護者にとっても、「引き落とし」という形ではなく、月謝袋という形で現金を毎月ご用意されるのは、「塾にこれだけのお金を払っているんだなあ」ということを、より実感なさることでしょう。ましてや子どもにとっては、自分の知らないところで払われているより、「教室でお月謝袋をもらう」ということを定期的に(つまり、月に1度)体験することは、「自分が塾に通うことによって、お金を請求されているのだ」、というしくみを実感でき、良いことだと思う。子ども本人が無関心でいるのではなく、自分のお月謝袋のことを認識することや、金額の内容を確かめることは、生きた教育であると思う。
 という話を、7月にしたのだが、今回はまた違った角度で、もうひとつの効果をお話ししたいと思う。

 お気づきの保護者もいらっしゃることと思うが、このごろのお月謝袋に入っている「計算書」は、生徒が折っている
 以前は、お手紙(計算書)を私が折りたたみ、袋に入れてクリップでふたを留め、それから子どもたちに渡していた。そして、受け取った子どもたちはクリップをはずして中身を出し、手紙をひろげて読んだら、また袋にしまってクリップで留めていた。
 私はいつも、手紙を3つに折っていたのだが、ふとある日、自分が毎月しているその何気ない動作に、「これって、つかえるかも?」と、ひらめいた。というのも、中学生の数学で、図形の勉強などを通じ、「最近の子は、紙を折るのがヘタだなあ」と、常々感じていたからである。そこで、「毎月のお手紙を、生徒自身に折らせる」ということを思いついたのだ。
 お月謝をご請求する内容の、かつ、保護者の手に渡る手紙を、折り紙がわりにするのは不謹慎かもしれない、とも思ったが、生徒が自分の親に渡す手紙を、自分の手で折って渡すというのは、「お父さん(お母さん)、ボクの塾のお金をよろしくお願いします。ありがとう。」という感謝の気持ちが、無意識に生じることにつながるかなあ、なんて思ったりもした。そして、まずは中学生に対して実行することにした。もう、1年ほど前の話である。

♪ポイント1♪…まず、折っていないままの手紙を渡すと、生徒はおのずと、その内容に目を通す。
♪ポイント2♪…そして、お月謝袋の大きさに対して、手紙はどうやって折れば一番いいか考えさせる。
♪ポイント3♪…そのあと、実際に3ツ折りに挑む。
♪ポイント4♪…「これは、親に渡すんだ」ということを意識しながら折れば、感謝の気持ちも、こもる?。
♪ポイント5♪…ついでに手紙のマナーも学ぶ。

 最大の山場、3ツ折り作業なのだが、「中学生だから、ある程度は出来るだろう」と思っていたら、なんのなんの。案外と子どもたちは苦手で、私も驚くほど、みんな難儀する。これは、私にとっても意外な発見で、勉強になった。
 折るのに難儀している子たちの中で、3ツ折りにするために、まず2ツ折りにして広げ、次はどう折るべきか悩んでいる子が案外いることに、とても驚いた。さらには、どうしても4ツ折りにしてしまい、広げては首をかしげ、前に進めない子も数人いる。既成概念か固定観念か、とにかく「四角い紙を折るときは、とりあえず2つに折っちゃう」という呪縛から抜け出せず、なかなか3ツ折りにつながらない。
 最近の子には「折り紙」が折れない子も多く、前々から危機感はずっと持っていたが、中学生で「紙の3ツ折り」がうまく出来ない子がこんなにいるなんて、これはどげんかせんといかん。この状況は、「図形を認識する能力」という観点から見ても非常に危ういと思うし、想像力や推察力、勘の良さや複雑な問題を処理する能力に関わることから考えても、こういう力をつけなければ、どの教科にも影響し、ある程度以上の発展は望めなくなるだろう。どげんかせんといかん。
 というわけで、中学生クラスでは1年ほど前から、月に1度の「お手紙3ツ折りタイム」を通じ、ちょっとでも図形認識の勘を養う一端にでもなれば、という思いを込めながら、紙の折り方を指導している。最初のころは、生徒によっては、折りすじだらけのお手紙を持って帰ることになり、見てぎょっとされた保護者の方もいらっしゃったかもしれない(そのワケを、ここを読んで初めてお知りになった方も、おられたりして?)。
 さて、これを実践していたのは中学生クラスだけだったが、最近、小学生クラスでもおこなうようになった。(小学生クラスの保護者の方々にこそ、すさまじい折りすじの入った手紙に、「美和子先生、こんな折りすじいっぱいつけて、どうしたんだろう?」と首をかしげていらっしゃった方は多いかも?お子さまが折っておられるんですよ〜。)
 最初はなぜ中学生クラスだけで、小学生クラスでは行わなかったのか、という話は次回に。また、3ツ折りの際、幅の見当をつける時のみんなのようすについても、次回のお話で触れる予定です。
 ちなみに、次回までのクイズがわりに、こんなのはいかがでしょう。みんなが3ツ折りの難しさを知った時、「4つに折るほうが簡単なのに、今までどうして美和子先生は、わざわざ3ツ折りにしていたんだろう?」って話になったのですが、、、。みなさんは、どうしてだと思われますか?(ヒントは、上で書いた中にあります♪)
 そのお話も、次回に。


2008
3月25日(火) 「ホワイトボードにメッセージをのこしてくれたキミへ」

 前回の話のつづきは、ちょっと後回しにさせてくださいね。
 
 今日の夜、中学生クラスの授業中に、ふとあるものを発見しました。それは、教室のホワイトボードのすみっこ、左下のほうに小さな文字で書かれたメッセージ。さっきの小学国語の生徒が書いて帰ったのかな?それとも昨日の生徒?いや、でも、このメッセージは・・・。
 はて、誰だろう。いえ、ひとり、思いあたる子はいます。でも、その子が昨日や今日に書いたというのは、ありえないのです。だから・・・。
 う〜ん、と私が首をかたむけていると、授業中の中学生が、「それ、先月からあるよ」と教えてくれました。ホワイトボードの、そのメッセージのすぐ上には、ミラーをコピーした用紙が磁石で留めてあり、それがぴらっとしています。164cmの背丈の私の目線からは、下の方にあるその小さなメッセージがこの用紙でかくれ、ずっと見えず、今まで気がつかなかったのです。先月から気づいていたという中学生たちも、彼らの距離からは字が小さすぎて読めず、「なんか書いてあるな〜」くらいの認識しかなく、ずっと、私に知らせるまではいかなかったとのことです。

 先月からある・・・。じゃあ、やっぱりこれは、あの子にまちがいない!私は、誰がこれを書いたのか、わかりますよ☆たしかにあの日、もう何週間も前のことですが、その子は授業後、「ホワイトボードにかいていい?」と私に聞いていました。「いいよ。」と私が返事すると、「見ないで」と言いながら、こっそり何かかいている様子でした。私は他の生徒を先に見送りながら、あなたが何をかくのか、楽しみにしていました。
 しかし、あなたが帰ったあと、ボードを見ても私の目の高さからは何も見えなかったので、「なーんだ、なにかラクガキしたけれど、消して帰ったんだなあ。」と思っていました。
 それが、実は紙でかくれた場所に、こんなメッセージを書いていたとは・・・!
 その子は、この私の日記を読むでしょうか?わかりませんが、その子にひとこと・・・。

・゛*.・☆"・.*゛・ ありがとう(●^o^●)/゛ ・゛*.・☆"・.*゛・
今ごろ気づいたよ〜。

 短いけれど、ジーンとくる、特別なメッセージでした。いつかは消さなければならないけれど、今夜は消さずに、のこしておきます。

 
日記のもくじへもどる
2008
4月 「3ツ折りを、中学生のみで実施していた理由」

先月の日記のつづき。
 さて、あっという間に四月。というわけで、今月の初めにも、恒例「お手紙3ツ折りレッスン」を実施した。中学生クラスでは1年以上前から実施しているが、小学生クラスでは最近(去年の暮れか、今年の初め?)から始めたばかり。このレッスンの機会は月に一度しかめぐってこないから、一ヶ月もたつと前回のことを忘れてしまって、「どうやって折るんだっけ?」と、小学生たちは唸(うな)る。
 さて、なぜ最初は中学生だけしか行わなかったのか、という話。単純に言うと、お手紙を生徒自身に折らせることを思いついた時に、とりあえず中学生で様子をみてみようと思ったからなのだが。しかし、最初はそれほど難儀するとは思わず、すぐに小学生クラスでも実施することになるだろう、と想像していた。
 ところが、実際にやってみると、私の想像以上に、中学生たちは悪戦苦闘したのである。私は軽く(いや、かなりかな?)衝撃を受けた。紙を3つに折る。「ただそれだけ。」と思っていた私自身も、甘かったなあと、反省もさせられた。
 私が最初想像していたのは、「中学生が困るのは、折り幅だろう。等間隔にすることに苦労するだろう。」ということだった。それが、実際に折らせてみると、「3つに折るということ自体がわかっていない子」が多いのに、驚かされた。
 「3つに折る」=「3回折る」という間違いをする子がいるかもしれない、という予想はしていた。しかし、そうではなく、「2つに折る」や「4つに折る」がきちんと出来るのに、「3つに折る」は、どうやって折るのかわからない、という感じなのである。前にも書いたが、既成概念か固定観念か、とにかく「四角い紙を折るときは、とりあえず2つに折っちゃう」という呪縛から抜け出せず、まずは2つ折りにして、そっからどう折るべきかと悩む子の多いこと!私は、この彼らの様子を目にして、「えぇっ、あんたら、そっからなの?!」と思ってしまった。でも、そう思ってしまう私が、あかんと思った。私が甘かったなあ、と。
 「大人にとって当たり前のことでも、子どもにしてみれば、『わかったようでわからない』ということは、多いものです。」というのは、私自身が肝に銘じていることであり、プリゼミのパンフレットにものせている言葉だ。これまで、「生徒の目線を察知し、そこに合わせるのは、得意中の得意だ!」と自負していた私だが、この3ツ折りの件を通して、「私もまだ甘いなあ」と、くやしいながらも認めざるを得なかったのは、私にとっても、いい刺激になった。
 みなさんも、「中学生なのに、たかが3つに折るくらい、できないなんて?!」と驚かれるでしょう。でも、そこで「これくらい、なんで出来ひんのよ!」と彼らを責める方向へ走るのではなく、「そうかあ、出来ないのかあ。」と受け止め、「今までそういうことを考えるチャンスを、与えてもらえなかったのかなあ。」という方向へ、そして、「私たちが、そういうチャンスを与えてこなかったんだなあ。」と、大人が自分を反省する方向へとつなげていくのが、本当の問題解決だろうなあと思う。3つ折りのことだけではなく、教育のいろんな場面に対してですよ。
 そんなこんなで、思いがけない展開を見せた中学生たちから刺激を受けた私は、小学生クラスで試す前に、もうちょっと中学生で様子を見てみようと思ったのです。
 以上が、しばらくは中学生クラスでしか3ツ折りレッスンを実施していなかった理由。つまりは、中学生は実験台になっちゃったんですね〜。

 次回は、「4つに折るほうが簡単なのに、どうしてわざわざ3ツ折りにするんだろう?」というナゾについて。日本人の和の心を感じる理由でございますよ。おたのしみに。。。☆


2008
4月 「3ツ折りの理由」

前回のつづき
 さて、今でこそ「3つに折る」ということは生徒たちに定着しているが、いちばん初めに手紙折りに挑ませた時には、「いくつに折ればいいか?」を考えさせるところから始まった。
 そこで、お待たせいたしました、なぜ3ツ折りにするのか、という理由。さっそくお答えいたしましょう。「お月謝袋の大きさに対して、手紙はどうやって折るのが一番いいか。」ということなのです。
 もちろん、お月謝袋に入るように折らなければならないので、プリゼミの手紙の場合、2ツ折りでは幅が太すぎて入らない。そこで、3ツ折りにしてみれば、ちょうど入る、というだけの話・・・。しかしここで、4つ折りでも入るのに?という意見が出る。4つ折りでも、垂直に(つまり、折りすじが十文字になるように)折るのではなく、平行に(つまり、下の図のように)細長く折れば、お月謝袋とのサイズのバランスも悪くないし、何より、折るのが簡単なのに?
3ツ折り → vs ← 4ツ折り
 結論を先に言えば、「マナー」の問題。「折り数は、なるべく少なくすること」が、手紙のマナー。しかも、折りたたむ順番にもマナーがあり、3ツ折りの場合では、まず下から1/3折り上げ、次に上の残り1/3を、下へ折り重ねる。それから、折った手紙を封筒に入れる時、「入れる向き」というのもある。

 これらのマナーは、何のためにあるか。それは、相手を思いやる心からきている。上に書いた手紙のルールは、すべて「相手が読みやすいように」という配慮から生まれたものだ。
★折り目を少なくするのは、文面にしわが少ないほうが読みやすいため。だから、封筒に入るのであれば、4ツ折りよりも3ツ折りが望ましい(4は縁起が悪いという意味もあるけれど、実際はあまり気にされない)。
★しかも、3ツ折りといっても、正確に3等分するのではなく、折り目が文字にかからないように配慮して折る。折り目に書かれた文字は読みにくいからだ。また、最後の折り合わせは、はしっこをきっちり合わせるのではなく、数mm(すうミリ)ずらす。はしっこが面一(つらいち)で揃(そろ)っていると、相手が開けにくいからだ
★封筒に入れる向きは、手紙の右上が、封筒の裏から見て右上にくるように。相手が取り出して開いた時に手紙が逆さまになったりしないよう、すぐ読める向きにするためだ
 ・・・そんなことを生徒に伝えながら、毎月の手紙折りレッスンをおこなっている。最初のころは、3つに折ること自体うまくできなかったが、それにも慣れてきたころから、これらのマナーについても意識しながら折らせるようにしている。
 ところで、よくありがちなのは、子どもたちがまるで定規で測ったかのようにぴちーっと等分することに、意欲を燃やしてしまうこと!月を重ねるごとに、「今月こそは、ぴったり賞をねらうぞ!」というがごとく、私が手紙を配るやいなや、手紙の内容には目もくれず、さっそく折り出す子が続出。(オイオイ、まずは手紙に書かれていることをチェックしてくれぃ!) 3ツ折りの虜(とりこ)となっている子どもたちは、マナー目線ではなく、幾何学(きかがく)目線で作業に取りかかり、ぴっちり折る快感にひたりたがる。図形のセンスを養うのには素晴らしい効果なんだけれど、本当はさっき説明したように、「しわが字にかからぬように」とか、「開けやすいように、最後はずらす」ということも意識してほしいんだな〜。
 ん?美和子先生はウルサイ?たしかに、マナーというものは細かい。だから、そんなにマナーをきっちり守らせようとは思っていない。みんなの「ぴっちり折りたい」と思う気持ちも理解できるので、「そうしたいのはわかるから、今月はそうさせよう。最初は、子どものやりたいようにやらせてみよう。」てな感じで見守っている。だから、まだまだ、こちらが伝えた通りにマナーを守って折る、というのが出来なくてもいいと思っている。なぜなら、形式よりも、気持ちが大事だからだ。強要するものではないと思う。また、子どもが聞く耳を持たないほど何かに集中する時ってあるが、そんな時にこちらの思惑を通そうとすれば失敗するもんだ。まあ、こちらがタイミングを見ながら接していれば、そのうち、おのずとマナーを意識して折るようになってくるだろう。
 その時には、「マナーというものは、細かいと感じることもあるだろうけれど、ひとつひとつに意味があり、それはすべて、“相手を思いやる心”から生まれたんだよ」ということを知ってほしいと思うし、理解してほしいと思う。そして、それを「美しい」と思える心が育ってくれたらなあ、と願っている。それは、あせって教え込むことではなく、毎回くり返して声をかけながら、徐々に身につけさせてゆけばいいと思っている。


2008
4月 「親の指図で発言する子」

 上に書いた手紙のマナー以外にも、日本のマナーは、いっぱいある。そのほとんどは、「相手への思いやり」を元に成り立ったものだろう。
 また、マナーの他にも、例えば「おはよう」「こんにちは」「こんばんは」のあいさつの語源も、相手への思いやりからきている、という話は、みなさんご存知でしょうか?
 しかし、私たちの世代の人々にとって、「マナー」や「あいさつ」というものは、その形式ばかりが気になって、まるで型どおりのマニュアルみたいになってしまっている趣がある。だからつい、心を込めるのを忘れ、事務的な扱い方をしがち。マナーがひとり歩きしているって感じだ。

 ところで、プリゼミ生の送り迎えなどで、保護者様が教室へ来られる時。子どもの傍らについていらっしゃるお母さまが、ハラハラされながら横から「ありがとうございましたは?」とか、「すみませんでしたってちゃんと言いなさい」とか、「よろしくお願いしますって言うんでしょ?」「さようならは?」などと、言わせちゃっているシーンを、よく経験する。でも、これは、私はお母さまのお気持ちがよくわかる!私も、お母さまの立場なら、ついそうしちゃいそうだなあ。きっと、お母さまは、「子どもに」というより、「私への気づかい」でいっぱいなのだろう。わが子が私に言わないことを申し訳なく感じてくださって、そのお気持ちが、「子どもに言わせようとする行動」となって出るのだろう。でも、どうぞお気遣いなく・・・。子どもがうまく言えなくても、私は気にしません。模範的なセリフが言えなくても、子どもなりに、別の形で気持ちを伝えてくれることがあります。表情や、テンションなどという形で、、、。
 まずは、言葉よりも、その心が大事。もし、その場ですぐに型どおりのセリフを言わせることをくり返すと、心が追いつかなくなり、やがては言葉に気持ちが伴(ともな)わなくなり、形式だけで物を言う、感情のうすい人間になるのでは、と心配です。
 もちろん、ハキハキとあいさつできる子は、立派に見えます。でも、必ずしも立派ではないのです。とてもきっちりあいさつができる子に会うと、おうちで親御さんがきちんと躾(しつけ)をなさっているようすが感じられます。しかし、形だけではダメです。
 まずは、相手によくしてもらったら、「ありがとうと言いましょう」に直結せず、まずは、「うれしいな」「よかったな」「この人のおかげだな」「この人がこうしてくれたから、ボクはこんなふうに助かるな」と認識できることが大事。そういう力は、子どものうちに育てるものでしょう。そして、その上でハキハキと「ありがとうございます」と言える子なら、立派だなあと思います。

 子どもの中には、恥ずかしがり屋さんもいて、そういう子は、最初、モジモジとして何も言えないでしょう。親として、やきもきすると思いますが、そこで、「こう言いなさい」「ああ言いなさい」と口出しすれば、お子さまは自分で表現する力がいつまでも付かないし、「こう言わなきゃいけない」「ああ言わなきゃいけない」という気持ちにもしばられ、ますます発言することに恐れを抱くようになります。
 また、「この子は、感謝の心を持っているかな?」と、確めるのも大事です。それは、その子の行動や表情、テンションなどを見れば、わかります。そして、そういう心を持つことが出来るようになった上で、それを言葉で伝えられるようになることを考えればいいのです。それまで私はゆっくり待っていますから、お母さまの前で、お子さまが私にきちんとしたセリフが言えなくても、お気になさらずに、、、。
 いえ、本音を言うと、親に言わされて子どもが口にする「ありがとうございます」や「ごめんなさい」などは、私は少しがっかりしちゃうのです。横からお母さんが、「よかったよね。先生にこうしてもらえて嬉しいよね。」とか「反省しているよね。もうあんなことしないよね。」と誘導尋問しているみたいな感じで、子どもが「ウン。」とうなずかされているのは、少し残念なのです。もし、本当に子ども自身が心で感謝してくれていたり、反省してくれていたとしても、お母さんが代弁してしまえば、子ども自身の心の声が私には通じてこないため、「うお〜ん、この子、親に無理矢理に言わされてるだけやし〜っっ」と私は思ってしまいます。
 うまく言葉にできなくてもいい、モジモジしていてもいい、その子の素直な反応を見せてくれるほうが、ずっとずっと私は嬉しいのです。そしてまた、そのほうが私と生徒との信頼関係も築いていきやすいのです。
 私に何か言うのに「親の指図を受けて発言する子」というのは、そのこと自体が私と生徒との間に距離を作ってしまいます。そして、お母さんが壁となってしまいます

 「ありがとうございました」とお礼をきっちり言えるけれども、それがどこか義務的で、あまり心がこもっていない子にも、ときどき出会います。
 本当に感謝しているのではなく、「とりあえず、こういう場面ではお礼を言う」みたいな感じで「ありがとうございました」という言葉を“セリフ”として言う子。子どもでこれは、こわいと思います。将来、どんな人間になるんだろう、、、。心が伴(ともな)わない言葉を子どものうちから口にしていると、人としての感情も育ちにくいでしょう。
 私は、子どもは不器用でいいと思います。素直なのが大事。「なんだか立派すぎる子」というのは、いつも本音を出していない感じです。そのような作られているっぽい子は、深く考えたり、ものの本質を理解することが苦手で、勉強においても、つまずきがちだと思います。心で深く感じることが出来なければ、かしこい人間にはなれないです。

 教育の場面では、何事も、形から入ろうとせず、中身を形成することや内容を充実させることを優先しなければなりません。また、とっぴょうしもない行動や、少々のお行儀の悪さ、奇想天外な失敗が許されるのは、子どもの特権です。
 だから、あせって表面を整えようとしなくても良いのです。
日記のもくじへもどる
2008
5月 「交通安全に関して」

 プリゼミのお月謝袋には、「お月謝計算書」と共に、時々「お手紙」を同封することがある。そして、毎年新学年がスタートする4月には、「プリゼミの登下塾に関する安全対策について」というお手紙を入れている。
 今年はちょっと事情があって(いや、ウソです。正直に言うと、4月に入れそびれました…)、この手紙を5月に入れさせていただいた。それと共に、もう1枚、少しそのことと関連する内容のお手紙(映画の紹介)も入れたので、ぜひ目を通していただきたい、と思っています。

 ところで、生徒の安全は、いつも気にかかっている。物騒な事件が頻発する世の中、事件に巻き込まれませんように。車社会の世の中、交通事故にあいませんように。塾を出る子に「気をつけてね」と一声かけるセリフが、ただの「帰る時の決まり文句」とならぬよう、いつも心をこめて言っている。
 ずっと前から何年間も私がしていること、それは、帰る子どもを外で見送ること。中学生クラスは授業が一斉に終わるので、必ず見送る。小学生クラスは個別指導ゆえ、終わった子からバラバラに教室を出て行くので、100%とはいかないが、出来るだけ外に出て見送るようにしている。塾前には生活道路が南北に伸びており、およそ200m先で曲がって生徒の姿が見えなくなるまで、塾前に立ち、その背中を見送る。「誰かが見ている」というだけで、違うと思うから…。微々たる効果かもしれないが。
 また、そうやって見送っていると、わずか200mほどの距離でも、生徒の帰る姿勢というか、安全意識というか、そういう様子がわかったりする。昨年(07年)の秋・10月の日記では、「車をギリギリにしかよけない子」や「歩行者をよけない子」について書いた。相手がよけてくれることを「当たり前」と考えていてはいけない。相手に道をゆずる気持ち、相手を思いやる気持ちが、結局は自分を守ってくれるのだ。そんなことを、10月の日記で書いた。

 しかし、自分がどんなに気をつけていても、交通事故に遭うこともある。今回は、そんな視点で書いてみたい。

 プリゼミは、表通りから少し中に入った住宅地にある。目の前は生活道路だ。そして、そこは近所の小学校の通学路でもあり、また高校も近くにあるのだが、そこに通う学生たちの通り道でもある。つまり、車は少ないが、歩行者がとても多い道なのだ。それにも関わらず、たまに、この道を速いスピードで走り抜ける車がある。
 日常、他の場所でも、いろんな場面で、こわい運転者を見かける。いまだに、ケータイを使用しながら運転している人。しかも、交差点で右折しながらケータイでしゃべっている人を見かけると、危なくてたまらない気持ちになる。あと、いきったような運転をする人。ブオオォンという轟音(ごうおん)と共に急発進し、そのままビューッと走り去る人。また、めちゃくちゃな追い越しをする人はしょっちゅう見かける。それから、さっきも書いたように、生活道路をアホみたいなスピードで走り抜ける人。(ほんまにアホちゃうかと腹が立つ。)
 勝手な過信が、心のどこかにあるのだろう。何の根拠もないのに「自分は事故を起こさない」と思い込んでいるのだろう。人の命を奪うかもしれないという自覚がうすいのだろう。
 こういう人がたくさんいれば、歩行者がいくら気をつけても交通事故は防ぎきれない。でも、そういう運転者が現実にいるという事実を、子どもたちには認識してもらいたい。「だから、本当に気をつけるんだよ」というメッセージをこめて…。
 また、この子たちが大人になって車に乗るようになった時には、「人の命を奪う威力のある物を操作しているのだ」ということを肝に銘じながら運転して欲しいと思う。そんな話をした。
 そう、今月の1週目は、お手紙を渡しながら、全てのクラスで時間(30分位ずつ)をとって、全ての子どもたちにそんな話をじっくりしました。映画の紹介、交通事故は意外と多い事実、そして、加害者のほとんどが不起訴となっているひどい現実も伝えながら…。
 もし、「勉強とは関係がないじゃないか、時間がもったいない」と思われてしまうと、私は少し悲しいです。

 人間形成は、バランスです。何かにかたよってはいけないと思います。確かに、上のような話は、国・算・英・数などの科目の勉強とは関係ないように見えるでしょう。そして、「プリゼミは学習塾なのだから、科目の勉強を教えてくれればいいのだ、人間形成なぞ余計なお世話、そんなことは頼んでいないのだ」と思われるかもしれません。
 しかし、本当にかしこい人間になるためには、心が育っていなければだめだと思うのです。勉強だけできても、思いやりのない人間では、かしこいとは言えないのではないでしょうか。どんなに難しい問題が解けたって、人の心が育っていなければ、むしろ、おろかです。いや、そんな人は、勉強ができると言っても、実は、それは表面だけの話で、核心にふれるような学力ではなく、そこ止まりになるはずです。
 奥深い思考力をつけるには、思いやる心、人の痛みがわかる心が必要です。その心と力が、勉強に向き合う態度にも変化をもたらしたり、結局は国・算・英・数などの深い知識をつけていくことにもつながるのです。人間形成があっての学力。第一に人間、第二に学力です。

 私は、ずっとこれまでも、この信念で、子どもと向き合ってきました。ここの日記を以前から読んでくださっている方には、その気持ちが通じているかな、と思っています(ときどき、読むのがうっとうしい文面になっている日記もありますが。←自分で言うのもなんですが。)。
 私はこれからも、「人間力」という視点での教育方針を貫いていきたいと思っています。小学生クラスのパンフレットに「学校の成績を重視していない」と明言している変わった塾ですが、どうかこのプリゼミの信念を理解していただき、ご納得の上でお子さまを通わせてくだされば、と願います。。。☆


2008
5月 「困っていること」

 今日の日記は、学校(いや、つきつめれば文部科学省までいったりして?)に対する批判みたいになってしまいそうで、書くのに躊躇(ちゅうちょ)する内容なのだが、プリゼミもだんだん困ってきているのと、子どものことを考えても教育上よくないと思う問題なので、ここに記してみたい。

 だいぶ前から気になっていることが1つある。それは、中学校のクラブ活動のスケジュールが事前に把握できないという現状だ。
 スポーツ系クラブは、たいてい土日や休み(夏休みなど)にも練習があるが、その予定が直前までわからないことが多い。
 ひどいケースでは、当日に知らされるというクラブもある。土日などはたいてい、朝に顧問からの電話が連絡網で部員に回され、その日の練習が有るか無いかを知らされるのだ。(んなバカな!という感じですが、実話ですよ。)
 このクラブ↑は極端だが、それでも、だいたいのクラブは、予定が前日になってやっと伝えられる。
 また、夏休みや冬休みの練習予定は、一括して「練習日程表」という形で知らされるのだが、それもやはりギリギリ(終了式の日など)まで配られない。また、配布されつつも、夏休みの途中でたびたび変更があり、半分ほどが予定どおりにいかなかったことも多く、日程表はあまり当てにならなかったりする。

 特別なクラブに限った話ではなく、これはほとんどの体育系クラブに見られる話なのだから、「個々のクラブの」というより、「学校の」問題だ。そしてまた、それは一校に限った話ではなく、複数の中学校に見られることなのだ。

 私が気になるのは、こんなふうに、「それが当たり前」みたいな空気になっていること。

 プリゼミでは、学校の定期テスト2週間前になると、対策授業が始まる。土日には「国社理」の補習を組む。そのため、生徒に事前にクラブの予定を聞くのだが、「さあ、知らん。」と、まるで他人事のように言う子が、とても多いのだ。もう、何年も前から、どの学年にも、ずっと。。。
 プリゼミは、クラブの予定を聞くこと自体も、子どもたちに予告している。例えば今月なら、「24(土)と25(日)は補習を組むから、その日のクラブ予定を、21(水)の授業日までに知らせてください」という具合だ。それを、もう5月に入ったぐらいのタイミングから、毎回の授業で予告しておく。いつもこんな風に早めから何度も予告し、約束の日を補習の一週間前以降に設定しているのだが、それにも関わらず、その約束の21(水)に聞けば、「さあ、知らん。」という返事なのだ。毎年、毎度、こんな調子の子がたくさんいる。

 誰の予定やねん?「わからない」と言うならまだしも、「知らん」てか!(←正直、ちょっぴりイラッともするけれど、そこはガマン。)
 でも、それよりも、その「まるで他人事」という態度に、私はとても危機感がつのる。

 私が「自分の予定やろ?」と聞くと、ほとんどの子が「だって、学校の先生がまだ言ってくれてへんもん。いつも言わはんのん、前日やもん。なあ。」と友達同士でうなずいたりする。
 おいおい、きみたち、待つのみなのかい?美和子先生が「21(水)までに知らせて」と言っていたけれども、学校の先生がそれまでに言ってくれなければ、「さあ、知らん」となるのかい?
 「ほんなら、自分から先生に聞きに行きぃや。」とも言いたいが(いや、実際に言うが)、ここで、これを読んでいる方は、どう思われますか。自分の予定を知ろうとしない無関心な彼らのことを、どう思われますか。「言われるがままで行動力がなく、今の子は、これだからダメなんだよな〜」と思われますか?
 …確かにそうなのですが、じゃあ、彼らをそういう態度にさせてしまっているのは、何が原因でしょう。
つづく


2008
5月 「無関心の原因」

上のつづき。
 さらに、こんなことも。
 ・・・私が生徒たちを労(いたわ)って、「クラブがあるんかどうか、前日までわからんかったら、いっつも土日の予定が立てられへんで、あんたら毎週困るやろう。」と言うと、たいていの子が「別に困らへんで?」との返事をする。。。みんな、あっけらかんとした顔をしながら。。。
 つまり、困る以前に、もともと、子どもたちには「予定を立てる」という習慣が身についていないのです。だから、クラブの練習スケジュールを事前に把握したいという気持ちも起こらないし、前日まで知らされないことに不満も抱かないし、困るという概念も、自覚もないのです。

 慣れっこになっているのです。危険でしょう?

 昔は、こんなにひどくはなかったです。わりかしきっちり、クラブの予定は事前に知らされていました。毎週毎週、ギリギリにならないと知らされない今の状況は、私からすれば異常です。しかし、その中にいる子どもたちには、それを異常と感じる術(すべ)がないのです。

 私には詳しい事情はわかりませんが、学校の都合もあるのでしょう。グラウンドの使用や、他校との練習試合との兼ね合いなど、いろいろあるのでしょう。また、顧問の先生にも事情があると思います。ここ数年の教育の改革で、資料作りや書類提出、研修会などなど、先生の教員業務は、本来の業務(現場)から離れた作業が増えていますから、そんなことも背景にあったりするのかもしれません。先生たちも苦しまれているのかもしれません。

 しかし、どうであれ、とにかく結果としては、学校の態度が「子どもたちの予定は知ったこっちゃない」という感じになってしまっています。学校がその場その場で決めて伝える予定に、生徒たちを従わせています。これでは、子どもたちはロボットです。
 そして、それが当たり前の日常となっているせいで、生徒たちは「そういうものなのだ。それが普通なのだ。」と思っています。
 自分のクラブ予定なのに無関心で、まるで他人事のような態度を示す子どもたち。でも、彼らを責めることはできませんよね。

 だから私は、これまで何度も、生徒たちに「学校が直前まで予定を知らせてくれないことは、本当はおかしいことなんだよ。異常なんだよ。」ということを教え続けてきました。まずは、そこからだと思うからです。
 また、「プリゼミに部活の予定を事前に知らせることができないと、困るのは誰か?プリゼミの補習や夏期講習、冬期講習の予定がうまく立たなくなるよね。そうすると、困るのは誰?もちろん、私(プリゼミ)も困るのだが、それで最終的に困るのは、自分たちなんだよ。また、自分だけでなく、他の生徒にまで迷惑が及ぶのだよ。他生徒にかけた迷惑は、やはりそれも『お互いさま』となって、自分に戻ってくるのだよ。」ということを、毎度毎度、教えてきました。
 子どもが危機感を覚え、自分のクラブ予定にもっと興味を持って、学校の先生に「もう少し早く教えてもらえないと、予定が立てられないし、家族や周囲の人にも影響して困ります。」と訴えられるぐらいの意志をもってくれたら、という思いを込めています。
 また、生徒だけでなく、保護者の方にも、クラブ日程がギリギリに知らされることに危機感を持っていただいて、その目線でお子さまを見守っていただけたら、と思います。

 自分の予定に自分の意志を働かせない子は、かしこくなれません。自分のスケジュールを意識する力がない子には、自分の目標を立てる力だってつきません。そうすると、ただなんとなく日々を過ごし、ただなんとなくイヤイヤ勉強し、言われた以上のことを自分から進んでする子にはならないでしょう。

つづく。


2008
5月 「中学クラスのみなさんへ」

上のつづき。
 
 ここのところ、中学校の前期定期テストの時期となっている。学校によって、もう終わったところ、今、真っ最中のところ、これからのところ、と、ズレがある。
 テストの2週間前からは、プリゼミで土日に「国社理」の補習をおこなうのだが、今回も、この「スポーツ系クラブの練習日程が、直前にならないと知らされない」という問題で、みんなのプリゼミ補習日時がなかなか決まらなかった。
 プリゼミとしては、とても困っている。いや、プリゼミが困るというより、プリゼミ生のみんなが困る、というべきだろう。

 今のところ、懸念しているのは、この夏の講習のこと。中学クラスの夏期講習の日程は、いつもクラブの練習を避けるように組んでいる。私は、クラブと塾の両立を大事にし、学校を優先してほしいとも考えているからだ。

 ところが、去年も、夏休みや冬休みのクラブ日程表が、学校の終了式の日まで、学校から配られなかった。また、いざ夏のクラブ練習が始まっても、その日程表どおりに行われず、夏休みの最中に、ちょくちょく練習日時が変更されることもあった。

 プリゼミでは、ひとつのクラスの予定が決まらなければ、他のクラスの予定も立たなくなってくる。学年ごとに、かわりばんこで教室を使うからだ。
 今回の定期テスト前も、実は、ある中学校のクラブ予定が決まらないため、プリゼミのみんなの補習日時がギリギリまで決まらず、他の中学校の生徒が困って、保護者の方が問い合わせてくるということがあった。非常に申し訳なく思っている。
 ただ、この中学校の子たちも、実はその前に逆のパターンで、やはり中学のクラブの予定が直前に知らされ、プリゼミの授業スケジュールにくるいが生じ、他の中学の子に影響した、という出来事もあった。

 結局、中学校同士、生徒同士で、迷惑をかけたりかけられたり、という状態となっている。私も、生徒が個人的な理由で欠席するのなら、それは考慮してあげられないが、クラブが理由となると、生徒自身に落ち度はないので、なんとかしてあげたい、と、ついつい授業進度などを調節してしまう。
 しかし、それで他方の生徒に迷惑がかかってしまうのも、良くない。どうしたもんか、、、と、悩む。
 いや、そうやって私がひとりで管理しようと、くるくると立ち回って、生徒に合わせて調節してしまうのが、良くないのだろう。
 なぜなら、実際に生徒たちは、どうも人任せというか、「みわこ先生がなんとか調節してくれる」と思って、いっこうに、自分で解決しようとしないからだ。「今度クラブの予定がまた変わったし、よろしくねー」「うちのクラブは、予定が前日までわからんしー」「だって、学校が予定言ってくれへんねんもんなー」といった感じ。。。他人事かいな。
私は、甘やかしすぎたかな?

 私は・・・
子どもたちが、学校に対して「これでは困る。早く言ってくれないと、自分のスケジュールが決まらないのだ。」と訴える意志を持ってくれることを望んでいる。
でも、それをこちらから強制はできない。
もし、こちらが「学校に求めてみなさい」と命令したら、子どもたちは、「美和子先生に言われたから」と他人事のように思って、自分の問題とは認識しないだろう。。。
「困るのは自分」という意識を持ってもらえるように働きかけなければ、、、。彼ら自身の予定なのだ。みんなの意思しだいなのだ。

 ちなみに、学校に働きかける時は、しょっぱなから親に頼って、親を通じて訴えるのではなく、まずは、自分たちで、、、という話も、ちらりと子どもに伝えている。それで学校が聞く耳を持ってくれなかったり、自分たちで解決できなかったりした時に、初めて親を頼るんだよ、と・・・。

 さあ、夏休みはもうすぐ。みんなが、なんとか行動をおこさないと、この夏、自分たちが困るゾ〜。


もくじ 最新の日記



教室へもどる    トップへもどる    こうばんへ行く