| 過去のちょいから (`▽´) ショート日記 |
| <2007夏> 6・7・8月 |
| 2007 6月 「いちご狩りは、失敗だったか?」 先月におこなったプリゼミのイベント「いちごがり」。そのようすをこのサイトにのせるべく、ただいま画像を交えたページをコツコツと作成しながら、今回をふりかえると、今年は失敗が多かったと反省。 …大きな失敗は、2つあった。 1つは、車での移動に時間をとられてしまったこと。 今年の参加者は、一度の移動で運べない人数となり、子どもたちを2回にわけて運ぶこととなった。そのため、すべての移動に通常の3倍の時間がかかった(2倍ではなく、3倍。なぜかというと、1回ですむはずの片道を、行って、戻って、また行くから)。移動は、教室からイチゴ畑、イチゴ畑からイモ畑、帰宅時もイモ畑から教室や生徒宅へ、とあるのだが、それぞれに3回ずつの移動を課せられ、これが、イモ畑が遠いことと相まって、その分、野外で過ごす時間が大幅に削られてしまった。 秋の「芋ほり大会」は、イモ畑は広く、駐車スペースもあるため、保護者の方々のご協力で車を出していただいて対応してきたが、イチゴ畑には車を停める場所がないため、これまで春の「いちごがり」には、保護者さまの参加をご遠慮していただいてきた。また、毎年「いちごがり」のイベント内容は少しずつ変わるのだが、昨年までは偶然うまいこと避けられていた問題が、今年はイベント内容によって条件がぶつかり、こういう結果となってしまった。 もちろん今年は、事前に参加人数を把握した時点で、今回の移動の問題を予測した。だが、うまくいくと思っていた。なのに実際には、移動時間が見込んでいたより長かったり、生徒の思いがけない行動で時間配分にくるいが生じたりと、当日でしかわからない出来事が重なり、あまり予測どおりにはいかなかった。何事も、やってみて初めてわかる、ということは、よくあることだが、私はこのいちごがりに関して、「来年からは、改善策を案じなければ」と、反省した。 このことで一番申し訳なかったのは、最後、イモ畑から帰宅する時の、第1グループの生徒に対してである。この子たちは、楽しい時を過ごしている中、第1グループとして先に畑を発つのを嫌がった。ここで、私の一番の失態は、第1グループの人選を、私が一方的にしてしまったことである。帰宅予定時刻をオーバーしていたこともあり、少しでも車の移動時間を縮めるべく、畑から家までの距離がなるべく短い子を選んだのだ。勝手な都合で選ばれてしまったこの子たちは、納得いかない表情を浮かべながら、それでも私にうながされるまま、車に乗った。その聞き分けのよさが、かえって痛々しく、すまない気持ちでいっぱいになった。みんなで盛り上がっている中、自分たちだけ先に畑をあとにするのは、つらいことだっただろう。自分たちが帰途についている間にも、自分たち以外の第2グループの子たちが引き続き畑に残って楽しんでいることを想像し、どんなにか不満を感じていたことだろう。 私は、この第1グループだった生徒に、「次の授業時、心から謝罪しよう」と思った。 つづく。 2007 6月 「失敗して、大成功」 上のつづき。 そして、次の授業日、彼らが教室に入ってきた時、そのうちのひとりが開口一番「イモ畑で、ボクらが帰ったあと、みんな何してたん?」と聞いて、すると他の子が、いかに楽しかったかを語ったりしたものだから(まさに泣きっ面に蜂)、それを聞いて表情をゆがめたり、別のひとりが「こないだのイチゴ狩り、ワタシが家に帰ったとき、○○○(←プライバシーの問題上、内容は明記できず)だった」という苦情っぽいことをぶつけてきたり。やはり、聞き分けよく帰っていながら、本当はあの時、相当つらい気持ちを味わいながら帰途についていたんだなあと、改めて思った。 私は彼らに、うまくいくと思っていた今回のいちごがりの計画が、結果的にはうまくいかない部分があったこと、帰宅時の先発者を、家の近い順に選んでしまったのは間違いだったこと、そのことを私があとから悔やんだこと、そして、ごめんなさい、と…。すると、最初は先日の不満をひきずっていた彼らも、正直な姿勢で対面して素直に謝った私を、許してくれたようだった。そして、そのうちのひとりの子が、授業後に、そっと「先生、ありがとう」と書いて帰った。私は、その子が帰ったあとに、このメモ書きに気づいてびっくりしたのだが、これは私の謝罪する気持ちに対してだろうと思っている。ちょっといい話でしょう? 私は、このメモ書きの純粋な言葉を見て、今回の失敗は、かえって良かったのかも、とすら思えた。イベント的にはちょっと失敗だったとしても、そこから得たものは大きい、ということかな。また、自分が失敗から学べることは、生徒と共有できるものなんだと思った。彼らも、あの出来事を「自分らだけ帰された」という単なる不満として認識するのでなく、私が彼らの不満にちゃんと向き合ったことによって、何かしら考えるところがあってくれるはず、そして私の反省を彼らの肥やしにしてくれるはず、と思う。何もトラブルがなく、順調に進行するのも大成功といえるけれど、トラブルに見舞われても、それと引き換えに何か学ぶところがあれば、さらなる大成功といえるだろう。 子どもには、誠心誠意、ごまかしなく接する、というのは、教育上とても大切で、そんな大人の姿から、子どもは大きなものを学びとってくれると思う。大人が失敗してしまった時、子どもは、そんな大人を不審な目で見たり、「大したことないな」とみくびったりするかもしれない。しかし、そこで大人がごまかしたり隠そうとすると、よけいに子どもは軽蔑(けいべつ)し、信用しなくなるだろう。大人が自分の失敗を受け止め、反省している姿を正直に見せれば、子どもはかえって信用してくれ、尊敬すらしてくれるものだ。また、そういう大人の姿勢そのものが、直接、子どもの糧(かて)となる。 次回はこのつづきで、もうひとつの失敗談、「いちごシルツブレ」のお話を。 2007 6月 「いちごシルツブレ・前編 “持ち帰り”」 いちごシルツブレとは何か。漢字で書くと「苺汁潰れ」。つまり、読んで字のごとく、「やわらかいイチゴが、果汁を出しながら潰れちゃった。」という意味。実は、悲惨な出来事なのだが、その悲しさを少しでもやわらげるべく、おしゃれな響きをかもし出す感じで、私が美しく命名してみた。フランス語か?(そりゃぁ、“シルブプレ”だ。ちなみに、「いちごシルブプレ」はフランス語で「イチゴちょうだい」)。 今年のいちご狩りで、後悔する、私のもうひとつの失敗。それは、イチゴを水で洗おうとする生徒たちに、深く考えず、次のような言葉をかけたこと。 「洗う前に、いちご持って帰りたい分を先に取っておきや。いったん水洗いしたやつは、持ち帰るとフニャフニャになるからね。」 でも、私はすぐに思いなおし、「やっぱり、今日のイチゴはやわらかくて、すぐに潰(つぶ)れるから、持って帰れへんわ。」と訂正した。 …数分後、私は、最初のセリフのことを、「いらんこと言ってしまった〜っっ!」と、非常に後悔することになった。 何が起こったかと言うと、ほとんどの子が、「全部持って帰る」と言い出したのだ。ここで食べずに。あちゃ〜。 だいたい、持って帰らなくてもよいのに、私はいらんことを言ってしまったのだ。なぜなら、摘んだイチゴを持って集まった時には、「ここで食べる」という流れが自然と出来ていて、子どもたちに「持って帰る」という発想はなかったからだ。それなのに、先回りした私の「持って帰りたければ…」という、安易な声かけ。このセリフを聞いて、「持って帰る」という発想に一気に心をつかまれた子どもたちは、もう、次に私が「やっぱり、つぶれるから持って帰れない」と訂正したセリフは、もはや耳に入っていなかった。 私が「しまったなあ。」と気づいた時には、すでに遅し。“味わいタイム”のはずが、何も食べずに座っている子が続出。 子どもたちには、私がいくら口で「すぐに潰れるよ」と忠告しても、実感として伝わらない。子どもには、スーパーで売られているイチゴと同じように、「今の状態を保ったまま家に持って帰れる」という気持ちがある。また、おうちの人に見せたい思いも相まって、私が何と言おうと、「なんで潰れるのだ。潰れるわけがない。大丈夫。」という解釈に走ってしまう。 … 私は、この場で摘みたてを食べることのほうが、ずっと価値のあることだとわかっている。持ち帰ろうとすれば、イチゴがすぐに潰れることも、予測できる。だから、子どもたちの、ひとつも食べずに持ち帰ろうとする姿を見て、「何ともったいない話なんだ」、と心底思う。しかし、それは子どもには伝わらない。 つづく。 |
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| 2007 6月 「いちごシルツブレ・中編 “通じない価値観”」 上のつづき。 私は、「こうなったら仕方あるめぇ。子どもの納得いくようにさせるしかない。」と考えた。私がどんなに忠告しても、持って帰ると言い張る子たちを、強制的に阻止できない。ただ、「じゃあ、持って帰ったらいいけど、全部とは言わんと、少しでいいから、ここで摘みたてを、ちょっとだけでも食べてくれへんか。」とお願いしてみた。子どもいわく「じゃあ、いっこだけ。」私いわく「いやん、そんなん言わんと、もうちょっと。」子どもいわく「じゃあ、にこ。」 子どもたちのこの気持ち、おわかりになりますか?また、私のとった行動をどう思われますか。「つぶれることがわかっていて持って帰らせるなんて、なぜ、そんなもったいないことを、子どもにさせてしまうんだ。」と思われますか。 確かに、持って帰らないように強要したら、「つぶれてもったいない」という事態をさけることができ、子どもに摘みたてを味わわせることができますが、それは子どもが満足するのではなく、大人が満足するだけなのです。子どもの気持ちを無視すれば、子どもは何のありがたみも感じず、「何だよ、持って帰りたかったのに。」と思うだけでしょう。そんなふうに、ただ不満気に食べるのは、やはりそれも、イチゴのもったいない食べ方であると、おわかりいただけますでしょうか? 大人の発想で「いい」と思うことを、子どもは「いい」と感じることができない、という時があります。それは、大人はその価値を知っているが、子どもはその価値をわかっていない、という時です。それなのに大人は、「どうだ、この方がいいだろう?」「これで良かったろう?」と、子どもと価値観を共有しているような錯覚に陥り、「子どもも喜んでいる」「子どもは幸せだ」「子どもにこんな思いをさせてやることができて、良かった」と満足していることがあります。しかし、当の子どもにはその有り難さや価値が通じておらず、何にも感じていなかったり、時には、かえって「迷惑なこと」としか認識されていないこともあります。大人の価値観を優先するのではなく、子どもの気持ちを尊重し、失敗させる覚悟も含め見守ってやるという、大人の我慢強さも必要だと思います。 子どもにとって、当たり前のように与えられる幸せの中では、その貴重さや価値、ありがたさは、理解できないと思います。身をもって感じる苦労がなきゃ、ありがたさを感じることもできません。やりにくさ、失敗、反省、後悔。そういった経験からのほうが、子どもは物事の本質を知ることができます。そうして次の時には、その価値を最大限に意識しながら行動することができるでしょう。 一定の価値観を持っている子は、あらゆる判断力にも優れ、ポイントをおさえるのが上手で、かしこいです。一方、親に価値あるものを与えられながらも、その価値を認識していない子というのは、今、自分が置かれている状況がわからず、自分のことなのに自分で決められなかったり、ボーっとしがちです。そんな子は、勉強にしろ、周囲から「やりなさい」と言われ続けても、自分でその必要性を感じることができず、なんとなく中途半端になってしまうのです。 2007 6月 「いちごシルツブレ・後編 “捨てられたイチゴ”」 さて、イチゴの運命。持って帰ろうと、たくさんのイチゴをビニール袋に取り分ける子どもたちはウキウキしているが、反対に私は、ひとりガックリ。 さらには、イチゴの入ったビニール袋を「リュックに入れる」と言って聞かなかった子もいた(Rくんとする。リュックだから、「R」)。リュックには水筒やら筆箱やらも入っており、そんな中に一緒に入れて背中でゆすられたら、そりゃもう、ひどいことになるだろう。私がそう言って聞かせても、Rくんはちっとも聞かず、そしてイチゴ袋をリュックに入れた。私はそれを見て、「せっかくのイチゴが…。」と、苦しい気分になったが、「今のRくんには通じないのだ。実際に潰れたイチゴを目にしなきゃ、Rくんは理解しないのだ。」と、それ以上はとめず、見守ることにした。ただ、私が残念そうな、さみしそうな目でそれを見ていたことは、Rくんも把握していたと思う。 さて、みんなのイチゴは、言わずもがな、車の中で揺られ、いちご自身の重みもあり、時間と共にじゅくじゅくになっていった。赤い汁に、潰れたイチゴが漬かっている状態、しば漬けっぽくなっていた(泣)。 そこでやっと、現実を理解した子たちが、「あ〜あ。」と残念がった。私は、「ほれ、言わんこっちゃない。」という思いで、ため息が出た。でも、こういう苦い経験を味わえば、お互い、来年からは2度と、私も安易に「持って帰る」という言葉は発しないだろうし、子どもたちも持って帰らずその場で食べようとするだろう。また、摘みたての貴重さを理解し、次から大事に味わうことができるだろう。 と思いきや、子どもは千差万別。みんなが同じ反応を示すわけではない。中に、「うわ、きたね〜。捨てよ。」と言った子がいた(Sくんとする。すてよの「S」)。 これは聞き捨てならなかったので、私はみんなを集めた。ただ、その問題発言を、あからさまには取り上げず、みんなに話かけた。 …イチゴが潰れてしまったことと、その反省。家にたくさん持って帰りたい気持ちはわかるけれど、その結果がこうであることも、よくわかっただろう。そして、これが、買ったイチゴと摘みたてのイチゴの違いだということ。また、イチゴは突然あるものではなく、ここまで育つまでに、過程があるということ。それに関連して、イチゴを育てたおじさんの苦労話もちょっと聞かせた。だから、「摘んでおしまい」ではなく、それを大事に食べるべきだということ。「潰れるよ」という忠告を聞きつつ、それでも持って帰る道を選んだのから、結果「潰れたから捨てる」「捨てておしまい」では、いかんということ。潰れてしまっても、ジャムにするなど、食べ様(よう)はあること…。 ただ、この話をしているとき、みんな真剣に聞いていたが、「捨てよう」と言った張本人Sくんには、あまり響いていない感覚があった。 さて後日、教室にて、持って帰ったイチゴをどうしたか、みんなに聞いてみた。すると、そのまま食べたとか、ジュースにしたとか、ジャムにしてもらったという返事。 ところで、Rくんがリュックに入れたイチゴ、どうなったか気になりますか。途中で見せてもらった時、彼のいちごシルツブレは最強で、早くもイチゴは原形をとどめず、まるでユッケ(号泣)。Rくん、リュックから取り出したそれの、あまりもの変貌ぶりに、「ぎゃ〜」と悲鳴。いったんは「きもちわる〜」と言って、彼も「捨てよ」なんて言っていたが、そのあとの、私がみんなを集めて語った話を、神妙な顔つきで聞いていたこともあり、Rくんの場合は、家に帰って「あれは、お母さんが牛乳をかけてくれて、イチゴミルクにして食べた。」とのこと。 しかし、Sくんは、と言うと…。やはり、「捨てた」とのこと、オーノー。悪びれる様子なく、当然な様子、何も感じていない様子が、気になった。 そこで、再度、みんなでシルツブレ騒動を振り返った。厳しいかもしれないが、今回はSくんに対し(つまり名指しで)、メッセージを送った。また、前回の内容(イチゴが育つ過程うんぬんかんぬん)に加え、いちご狩りに君たちを連れて行った私が、君が簡単に「捨てる」とか「捨てた」とか言うのを聞いて、どれほどイヤな気分になるか、ということも、正直に話した。ましてや、イチゴを作ったおじさんが聞けば、どんなに悲しい思いをするか、とも話した。恩着せではない。そういったことも、教育の大事な要素だと思う。 「私がイヤな気分になった」という事実が効いたらしく、Sくんは真顔になった。子どもにとって「きれいごと」めいた理屈で説得するより、こういうアプローチのほうがいい場合もある。私本人の生きた言葉に、Sくんは、自分の「捨てた」という行為に、残酷さを感じとってくれただろう。 物事には、理屈だけではなく、人の心だって常に付随するもの。「食べ物を簡単に捨ててはいけない」という説得を、「私はイヤな思いをした」という角度から伝えるのも必要だろう。人との心の駆け引きも、かしこさにつながってくると思う。頭と心はひとつ。深い思考は、思慮深い人間から生まれる。それは、ひとりよがりな世界では形成されにくく、いろんな人と心で接する中で、培われると思う。子どもたちの成長過程で、プリゼミがその一端を担えたら、と思う。 2007 7月 「お月謝の効果」 プリゼミは、お月謝制。毎月、最初の週、教室で子どもたちに「よろしくお願いします」と言って、お月謝袋を渡しているのだが、その袋の中には、“お月謝計算書”というものが入っている。これは、その月の請求額について、うちわけを明記したもの。だから、当然「保護者が目を通すもの」という認識がある。 でも、子どもの多くは、このお月謝袋を私が渡すと、勝手にフタのクリップをはずし、中の計算書を出して広げ、見たりする。私は、子どもたちのこの行動を見て、最初の頃は(つまり、プリゼミが始まった3年半前)、「こらこら、おうちの人への手紙を勝手にあけて、お行儀が悪い!」と、たしなめたものだった。 しかし、よく考えると、子どもが袋をあけて手紙を見ることは、当然のことなんだ、と気づいた。事実、お月謝袋には、生徒名を記入している。中の計算書にも、「〇〇 〇〇様」という宛名には、生徒の名を記している。そう、これは、生徒本人への請求書(計算書)なのだ。 授業というサービス(ここでいう“サービス”とは、社会科の公民用語での意。無形商品という意味)を受けているのは、保護者でなく、子どもである。だから、実際に払うのは保護者だとしても、本来の請求相手は、子どもなのだ。 だから、月謝袋をあけて、中に入っている計算書を見るのは、生徒の当然の権利なのだろう。そう気づいた私は、考えをあらため、それからずっと今まで、見たい子は、自由に見させるようにしている。むしろ、時々、お月謝袋を受け取って、そのままカバンにスッと入れる無関心な子には、「ちょっと、見てごらん。」と声をかける時もある。 そうして、今では計算書自体も進化してきて、今後の予定や月々のお知らせ等を盛り込むようになり、大事なお手紙を兼ねるようになってきた。特に中学生には、夏期授業のスケジュール、模擬テストの案内、など、生徒自身が把握しなければならない要素も盛り込まれており、「あなたたちが見るべきもの」として、必ず目を通させるようにしている。 毎月、そういうことをしているうちに、小学生でも、子どもの中には、「あれ?なんで今月は、いつもと金額が違うの?」と気づいて質問してくることもある。計算書を確認させ、「あ〜、今月は、この教材もらったからか〜。これ、〇〇円か〜。」と納得したりする。私は、これが生きた教育だと思う。 前々回の日記で書いた、価値観の話と同じである。 「子どもは、当たり前のように与えられる環境では、その価値、ありがたさを、理解できない。親に価値あるものを与えられながらも、その価値を認識していない子というのは、今、自分が置かれている状況がわからず、自分のことなのに自分で決められなかったりと、ボーっとしがちだ。そんな子は、勉強にしろ、周囲から「やりなさい」と言われ続けても、自分でその必要性を感じることができず、なんとなく中途半端になってしまう。」 お月謝のことを他人事のように受け止め、「親の問題であり、自分の問題じゃない」というように、スッとカバンにしまって無関心でいる子より、月謝袋をパカッとあけ、中の手紙をたしかめる積極的な子のほうが、勉強においても、深く考える姿勢を持っていたり、総合的に判断できる能力が優れていたりすると思います。 |
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| 2007 7月 「KinKi Kids、とんねるず、あと何がある?」 深い日記が続く中、ちょっとここいらで、コーヒーブレイク。大好評の「武勇伝」は、続編を待ち焦がれておられるファンも多いであろうが、最近ネタが出ない(生徒がなかなか珍解答してくれない)ので、今回は、他の楽しいお話を。 さて、中1の英語で、「複数形」なるものを学ぶ。「複数形」とは、数えられる名詞で、2つ以上になると、おしりに「s」をつけるという、アレ。日本人にはない概念なので、授業で導入するときに、生徒にすんなり受け入れてもらえるようにと、いろいろ例を挙げる。芸能界ネタが一番よい。 ところが最近は、なかなか良い例が思い浮かばない。つまり、最近のユニット名には、「s」がつかないのだ。ひと昔前なら、「ジュン・スカイ・ウォーカズ」とか、「ワンズ」「バービーボーイズ」「チェッカーズ」「ウルフルズ」「ポケットビスケッツ」「ゴーバンズ」「シャネルズ」「サザンオールスターズ」「キャンディーズ」「ザ・ドリフターズ」「ザ・リリーズ」「ジャッキー吉川とブルーコメッツ」「和田弘とマヒナスターズ」(…ここまできたら「ひと昔前」ではない。)、などなど、「s」がつくグループ名は、いくつかあった。それが、最近のユニット名には、ほとんどついていない。 昨年の中1には、かろうじて通じていた「ウルフルズ」も、今年の中1には通じなかった。いつの世代にも通ずるであろう「ビートルズ」も、中1には早すぎるのか、イマイチ反応してくれない。私が『これならどうや!』という気持ちで挙げた、とっておきの新しい「仲間由紀恵withダウンローズ」も、知名度がイマイチだったのか、生徒はハテナ顔。 …生徒の知らない名前ばかり挙げていると、しまいには、「先生、何歳?私らとは世代が違うなあ。」と、こちらがオバサン呼ばわりされるから、たまらない。そんな彼らに唯一通じたのは、「キンキキッズ」。「とんねるず」もなんとなく通じたが、ギリギリな感じ。 もう、芸能界で探すのは無理なのか。「タイガース」「ジャイアンツ」「ヤクルトスワローズ」「ドラゴンズ」「横浜ベイスターズ」などの、球団名ぐらいしかないのか。 …これは、去年の中1だったかな、私が、「最近のグループで、sがつく名前、ないかなあ。」と言えば、生徒が「あ、ゆず!」って、それは、「ゆ」に「ず」がついているのではありまへん。 2007 7月 「いつまでいけるか、だんご3兄弟」 上のつづき。今度は、『算数・数学編』。 中1といえば、数学では、円周率として、「π(パイ)」が初登場する。それと同時に、今までの3.14を使ったかけ算の筆算から解放されるので、いつの時代の中1にも、この「π」は大歓迎される。ただ、これの読み方「パイ」は、すぐには覚えられない。授業3回目くらいになって定着する感じである。 だから、最初のほうは、生徒が「えーっと、何て読むんやったっけ。」と言うので、私が「アップル」と声をかければ、「パイや!」なんて思い出してくれるのだが、それが、2、3年前から、通じなくなりかけてきている。 そして、とうとう去年は、私が「アップル」と言っても「は?りんご?」と返ってきて、むしろ生徒を混乱させる始末。でも、次に「森永エンゼル」と言ったら、「パイ。あ〜。」と納得してくれた感じだった。 それが今年は…。やはり同じく「π」の読み方に詰まって「なんやったっけ。」と困る生徒Aに、私が「アップル」と言ったら、生徒Aは不可解な表情をして、「りんご?は?」と、やはり、昨年の生徒と同じ反応。なので、次に、奥の手のつもりで「森永エンゼル」と言ってみると、なんと、「なに?わけわからへん。先生、何の話をしてんの?」と、路線はますます「π」から離れてゆくばかり。と、そこへ、読み方を覚えている生徒Bが、横から「三角チョコ」と言った。すると、生徒Aは、すかさず「パイ」。 なぬ〜っっ?!くやしい! …生徒たちに、「先生とは感覚が違うね。」と言われてしまった。まあ!三角チョコパイぐらい知っていますわよ。マックの新メニューでしょう?くやしい! ちなみに、私が「森永エンゼルパイは知っているやろ?」と聞くと、みんなに「知らない」と言われてしまった。え〜っ、本当に?! 「代入する前に、与式(よしき)を簡単にしておくほうがいい。ヨシキって言っても、X JAPAN(エックス ジャパン)じゃないで〜。」と私が言えば、生徒がワハハっと笑ったころが、なつかしい。 小学生の算数指導で大活躍の、「だんご3兄弟」という作戦。主に計算問題で活躍しており、いかに集中力をアップさせるかという、私の裏ワザである。たまに「ちゃっ、ちゃっ、ちゃっちゃちゃ…♪」「いちばん上はチョーナンッ♪」という、私が口ずさむBGM付きで、生徒は「よぅし!」と、やる気アップ。慎重に計算してくれる。今のところ、この作戦は未だ(いまだ)生徒に好評で、長いこと人気を保っており、プリゼミの算数で定番なのだが、ここ数年、生徒も喜びつつも、「もう古いで」とのシビアな声がちらほら。 これも、そろそろかもなあ…。 2007 8月 「子どもにはまだ早い?」 小学生のクラスでは、ときどき「算数工作」をおこなう。この算数工作で、以前「メビウスの輪」に取り組んだことがあった。しかし、インターネットで検索していると、「メビウスの輪は、小学生に取り組ませるべきではない」と書いているホームページを見つけた。 メビウスの輪とは、紙テープを一回ねじって輪にしたもの。この輪の真ん中を切ると、不思議な結果になるという実験は、保護者の方も、経験があるかもしれない。(プリゼミ算数でおこなった「メビウスの輪の研究」は、こちらから。)また、興味のある方は、インターネットにて、「メビウスの帯」で検索すると、たくさんのホームページが見つかるだろう(「メビウスの輪」より、「メビウスの帯」での検索がオススメ)。メビウスの輪は、小学生から大人まで手軽に楽しめるものだが、それらの検索ページにざっと目を通すだけでも、実は、「つきつめると、幾何学(きかがく)の研究材料にもなるほど、奥深いものである」ということが、わかるだろう。 さて、「小学生に取り組ませるべきでない」と書いてあったホームページについてだが、その理由は「小学生にはまだ早い」とのことだった。メビウスの輪の奥深いしくみは、小学生には理解できないから、安易に取り組ませるべきではないと。わかりもせずに、輪を切って「わ〜、ふしぎ〜、たのしい〜」という程度では情けない、これでは、その奥深さを知らずに、メビウスの輪を、単純で浅いものとカン違いする危険性があり、逆効果だ、、、と、きっついことが書いてあった。 私は、「わ〜、ふしぎ〜、たのし〜」でも、いいと思う。生きている人間全員が、メビウスの輪の奥深さを知らなければ、取り組んじゃダメ、ってことはないと思う。 まずは、なんでもそうだけれど、「ふしぎ!」という好奇心があって、それから、「なんでだろう?」「ナゾをさぐってみよう!」という探究心へと発展してゆくものだ。先に論理があるのではない。まずは好奇心を刺激され、のめりこみ、そして自分なりに研究する。論理は、その先に見つけるものだと思う。 小学生にはまだ理解できない論理も、将来、高校や大学などで、また出会う時が来るかもしれない。その時に、「ああ、あの時にやったことは、こういうことだったのか!」と、小学時代の記憶と融合させることができると、それは心底の理解になるだろう。そして、喜びや感動につながり、ますます探究心をそそられるだろう。 また、いろんな子がいるので、実際にプリゼミで「メビウスの輪」に取り組んだ時、それこそ「なんだか楽しかったな」だけで終わる子も、確かにいた。でも、それはそれで、いいのだと思う。それが、その子のペースなのだ。こういうものは、無理強いして理解させるものではない。一方では、メビウスの輪の不思議さにとりつかれ、いつまでも熱心に研究している子もいた。何回もくり返しては、自分なりにいろんな実験をしていた。興味を持った子は、自ら理解し、新たな発見をしていくものだ。今は、それでいいのだ。「メビウスの輪は、小学生に取り組ませるべきでない」とは、全く思わない。 プリゼミの「算数工作」で私が重視しているのは、「直感」や「勘」、「センス」を養うこと。頭の中のみでの理論だけでなく、体感し、体得し、感覚を養うというのは、非常に大事なことだと思う。自動車の運転は教科書を読むだけでは覚えられないのと同じで、「体でつかむ感覚」や「勘を養う」というのは、算数を上手にあやつれるようになる上で、必要不可欠なことだと考えている。 もちろん、「直感で分かることを、論理的に説明できる力」も大切だが、やはりそのためにももちろん、あらかじめ「直感で分かる」という能力は必要だ。 プリゼミの算数パズルや工作で好奇心を刺激され、数学の魅力に惹かれ、のめりこんでいく子がいるかもしれない。こういうことがきっかけで、将来、科学探求の道へ進む子が現れるかもしれない。天才とは、案外、こういうことから生まれたりするもんだ。 そんな思いを込めながら、私は「パズル・工作」を、プリゼミでの算数指導に取り入れているのです。 |