| 過去のちょいから (`▽´) ショート日記 |
| <2007陽春> 4・5月 |
| 2007 4月 「ちまちま、穴のヒミツ」 前回の日記のつづき。 小学生の算数クラスで使用している副教材「頭の準備運動」は、とても素晴らしいのだが、それが級方式であることが、唯一の難点。表紙にばっちり表示されている、級の数字。これが、子どもたちの心を乱してしまう。たかが数字、されど数字。このちょっとした数字が、勉強の本質をねじ曲げてしまうほどの効力を持っている。何度も言ってシツコイが、「“かしこくなろう”という意欲」と「“級をあげていきたい”という意欲」は、似ているようで、全く別のもの。ヘタしたら、対極のものにもなり得るだろう。 という話は今回おいといて、私は、このジャマな級をどうしようかと、何かいい方法はないか、いっろいろ考えてみたが、結局は「級の数字を、いっこいっこ切り取る」という、ものすごく単純で原始的な方法しか思い浮かばなかった。 級の数字は、表紙についているだけなら切り取るのもラクチンなのだが、ごていねいなことに、中身にも、全てのページに級が印刷されている。しかも、どのページも同じ場所に印刷されていれば、バツンと一発で穴をあけるなど出来るのだが、腹立たしいことに、それはページごとに、ちょっとずつずれてやがる、コノヤロー。しかも、おもての級の部分を切り取ると、うらにひびいて、問題が欠けてしまうページも。 でも、私はちまちまと、級を切り取っているのであります。これしか方法が思い浮かばなくて。 この副教材は、4ヶ月に1冊のペースで、次々と新しいものを渡している。生徒も、最初のころは、穴のあきまくった教材に「ぎょっ」とし、乱雑な穴に、「ここ、ちぎれそうや。」と不服そうな顔をしたり、「問題にまで穴があいてるやんか。」と文句を言ったりしたもんだが、だんだん慣れてしまって、今では、たまにすごい穴のあき方をしたものを渡しても、怒ることもなく、素直に受け取りながら「雲みたいやな。」と淡々と言ってのけ、ほとんど動じなくなった。むしろ、もはや生徒たちは、自分の新しい教材に、どんな歪(いびつ)な穴をあけられていようと、「カスタマイズや、カスタマイズ。」と肯定するほどの度胸。どうやら、穴があいているのが当たり前、みたいな空気が定着したようだ。 つづく。 2007 4月 「ちまちま、暗号絵のヒミツ」 上のつづき。 国語の副教材も、表紙や各ページの級を、ちまちまと切り取っている。これは作文系の教材で、「頭の準備運動」とは全く別の出版社の教材だが、こちらは、名前をふせておくことにする。なぜかというと、これと同シリーズの算数のほうの教材は、私自身、ぜんっぜん納得していないものだからである。これの算数バージョンは、私が憎んでやまない教材であり、まさに、2月に述べた「サイアク教材」なのだ。もちろん、これをプリゼミで採択しているわけないが、こんな教材を世に出しているということ自体、本当に許しがたい。事実、これを採択している塾もあるわけで、それって、「塾の便宜を追求するがために、子どもに害をふりまくことはおかまいなし」という、非常に罪深いことで、私は、業湧いて(ごうわいて)たまらない(業湧く=煮えくり返る?)。 しかし、教科が変われば、その作用も変わってくるもので、これと同シリーズの作文バージョンは、まあまあ良いのである。不思議ですか?余談だけれど、ついでなので言うと、プリゼミの採択教材は、いろんな教材会社の寄せ集め状態である。特に中学クラスなんか、数学はメイン教材がT社、副教材がME社、英語のメインはB社、副はMO社、そして入試教材はA社、と、見事に「バラバラ」である。どこの教材会社でも、「あの会社の、あのシリーズの英語は素晴らしい!」と思っても、それと同じシリーズの数学も素晴らしいってことは、あんまりなかったりする。 で、この小学国語の作文教材についても、同シリーズの算数があまりにも業湧く教材なので、それと同シリーズの作文バージョンを使用するのは非常にシャクにさわるのだが、しかし、いろんな作文教材を比較検討した結果、これが一番よいと判断したので、イマイマシイ思いを抱きながらも、しかたあるめぇと、割り切って採択しているのである。 話を戻して、国語も算数も、1冊1冊、ページ全ての級を、穴あけパンチやカッターを駆使して、切り取っていくのだが、さて、それをすると新たな問題が発生する。それぞれ、級がちがっても表紙のデザインは同じなので、級を切り取ってしまえば、どれが何級かわからなくなるのである。もちろん、それが狙いなのだが、私までもが、「これ、何級だ?」とわからなくなってしまっては、困るのだ。生徒にはわからないようにしつつ、私にはわかるようにしておかねばならない。 そこで私は、級の数字を切り取ると同時に、その穴の横に、ちょっとしたイラストを描き加えてゆく。各級ごとに、それぞれの数字に対応したイラストを決め、それを描きこむことによって、何級か判断できるようにしているのだ。それぞれのイラストは、私が考えて決めたものだが、もちろん、それは私にしかわからない暗号になっており、生徒には、どの絵がどの数字を表しているのか、わからないように設定している。でも、私自身までもが「えっと、この絵は、何級だったっけ?」と、しばし悩んでしまったりせぬよう、私には、パッと見てわかるようにしている。つまり、絵と数字とは、一定のルールで関連性を持たせているのだが、それは生徒に絶対バレない自信はある。しかし、ひょっとしたら、保護者にはその暗号を解かれてしまうかもしれません。もし、これを読んで興味を持たれた保護者の方は、お子さまの副教材を見て、暗号解きに挑戦してみてください?なんじゃそりゃ?何の話やら。なんだか今回は、話がそれてばっかりです。 今回の、「ちまちま切り取ったり、ちまちまイラストを描き込んだりする」という話を通して、私が一番言いたかったのは、「こんな地道すぎる(いや、はっきり言って、めちゃくちゃ面倒くさい)作業をしてまでも、私は教育上よかれ、と思うことは、実行する人間だ」ということです。そしてまた、この話を通じて、「ちょっとしたことでも、そこに潜む深い問題点を見出す」という私の鋭さも、伝えようと思いました。 “本来の勉強の意義”ってものを貫きたいという私の思い。本当に子どものことを最優先に考えているという姿勢。教育へのこまやかさ。感性の鋭さ。そういう私の教育観を、こんな穴あけのエピソードからも、感じ取っていただけたら、と思います。 ・・・で、保護者のみなさま、もし暗号が解けてしまっても、お子さまにはヒミツに。 2007 4月 「スイセンが咲かない!」 プリゼミの前には、鉢やプランターを置いている。そもそも、私には植物を育てる心得がなく、まるでド素人なのだが、せめて春には、ちょっとでも華やかになるようにと、秋のうちに球根を植えてみたりする。 比較的やさしい「チューリップ」は、毎年植えている。それでも、最初は、「なぜゆえに?」と思うほど、へんな形のチューリップが咲いたり、「地面から即、花」みたいに背丈の低すぎるのやら、ミニチュアのように小さいのやら、はなびらの先がとんがったように変形して別の花みたいになるやら、なんだかいびつに育ってばっかりで、まるで品種改良の実験でもしているのか?というような、バイオ研究プランター状態。 それでも、こりずに毎年植え育てているうち、だんだんマシな花が咲くようになってきた。おととしなんか、調子に乗って、複数種の花を咲かせるという、球根の“寄せ植え”に挑戦したが、一斉には咲かなかった。花の種類によって開花時期がずれまくり、寄せ植えの意味がなく、「2度とやるまい」と思った。どだい、私にはレベルが高すぎたのだ。 そこで、去年の秋は、シンプルに植えることにした。3つの鉢のうち、2つにはチューリップの球根をたくさん植え、1つには、スイセンの球根をたくさん植えた。そして、土がかわかぬように気をつけたり、肥料を追加してみたりしながら、咲き誇る様子を思い浮かべては、春を楽しみにしていた。 で、4月は今、チューリップは、あいかわらず、おかしなのもあるが、2鉢とも全体的には比較的よく咲いており、まずまずの出来である。 ところが、スイセンは全く咲かないのである。球根は10個ほど植えたが、1個だけひょろんと咲いたっきり、あとは、つぼみすらつかない。たしかに、早い時期から、葉っぱの先が黄色くなっていたので、ひょっとしたら水のやりすぎで、球根が腐っているのかなあ、と思う。華やかに咲くチューリップの横で、細長い葉っぱばかりの鉢。生徒が「ナニコレ?にら?」と、真顔で言う。 そんなおり、車で出かけた時に、山沿いの道に、勝手に咲いている自生のスイセンをたくさん目撃した。なぬっ、ほったらかしにされても、こんなにキレイに咲きほこるなんて!私のスイセンは、私がきちっと植えて、肥料やって、水やってと、栽培してやっているのに、なんでいっこも咲かんのじゃ〜!と、腹立たしく思った。 ああ、これって、子育てと一緒なのかなあ、と思った。親は、子どもに尽くせば尽くすほど、子どもが思い通りになってくれないことに対し、「こんなけやっているのに!」と腹立たしくなってしまう。 つづく。 |
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| 2007 4月 「“愛情”のつもりが、“理想の押し付け”に」 上のつづき。 ひょっとしたら、球根が粗悪品だったとか、スイセンのほうに問題があった可能性も考えられるが、たぶん、私に原因があったというほうが、可能性は高いと思う。咲かなかったスイセンが悪いより、私に非があったのだろうと思う。だけれど、ついつい「買ってきたサラピンの土に植えたのに!」「がんばって水をやったのに!」「肥料もやったのに!」という思いから、「このスイセンめ!何が不満なんだ!」と、腹立たしく思ってしまう。最初は、すくすくと葉っぱを伸ばし、順調に育っているように見えただけに、裏切られた感じもヒトシオ。でも、スイセンからしたら、私のヒドイ育て方に苦しみ、表立っては順調そうに葉を伸ばしつつ、その地下では球根が悲鳴をあげており、それでもなすすべなく、私にされるがままで、とうとう腐ってしまい、なのに、そこへ「なんで咲かへんのよ!」と責められ、ひょっとしたら、かわいそうなのかもしれない。 親は「お前のために、こんなにしてやっているのに」と、子どもに非があるように責めてしまう。でも、「子どものためにやっている」と思っていることは、本当は親自身の自己満足のためにやっているだけなのだと思う。そして、それは、親の理想の、一方的な押し付けになっていたりする。それなのに、最後に責められるのは子どもだったりする。 また、スイセンは植物だけれど、子どもは意志のある人間だから、余計に、親の思い通りにはならないものだ。その時に、親は、子どもに腹を立ててはいけないと思う。親が自分を振り返るべきだと思う。また、常日頃から、親自身、子どもにかまいすぎる姿勢を、自分で戒(いまし)めなければならないとも思う。 と言っても、子どもも人間なら、親だって人間。「わかってても、ついつい、かまってしまう。」ていうのも、仕方ないかなあ。 でも、そんな時は、子どもにちゃんと愛情が伝わっていれば、親の「ついつい」の言動も、子ども側から見て、「自分のことを思ってくれるがゆえなんだなあ。」と、子どもが親の気持ちを余裕を持って受け止められると思う。しかし、親の思いが強すぎるあまり、理想の押し付けが先走ってしまって、子どもに愛情が伝わらなければ、ただ単に、子は親を疎(うと)み、かまわれることに不満を抱き、子ども自身が自分の意志を働かせなくなったりしてゆくのだろう。 どうやったら、子どもに“愛情”が伝わるのか?少なくとも、口でうるさく「あんたのためよ」「こんなけ思っているのよ」と言うもんではないと思う。それは、各家庭でさぐっていくものじゃないかな。「愛情を伝えようと一方的になる」のは、実は愛情を伝えることではないかもしれない。「伝えよう」じゃなく、子どもの気持ちを「知ろう」とか、「聞こう」、子どもから「汲み取ろう」という姿勢が、結局は愛情を伝えることになるのかも。葉っぱだけ見ても、子どもの心には触れられない。土の中にある球根のようすを把握できていますか。 なーんて言う私は、スイセンを咲かすこができませんでしたが。 枠にあてはめた機械的な評価ではなく、周囲のうわさや見栄のものさしで測るのではなく、他人がつける評価の鵜呑みではなく、また、それらに惑わされることなく、親として、自分の子どもを正しく評価できていますか。 ん、書いていることが、少し抽象的になってきましたか?わかりにくいですね。次回は、具体的なことを書こうと思います。 4月 「あとから来た子が、パズルを取り上げる」 上の話のつづきの前に、今回は、ちょっと違うお話を。 以前、「プリゼミに先に来た“おとなしい子”が遊んでいるパズルを、後から来た“やんちゃな子”が、「貸せ!」と言って、取り上げてしまうことがある。」という話を、この日記に書いたことを、お覚えでしょうか(3月の日記「子どもは大人の思い通りにならん」の中で)。 こんな時、私はそのやんちゃな子をいさめるのでなく、取り上げられた子のほうに力を貸し、「今度、貸せって言われたら、『なんで?』って聞くか、『私がつこてんねん』て言うか、はっきり『いや』って断ればいい。」とアドバイス、それでも、その子が実行に移せなければ、ほっとくようにしている。という話をしましたね。 この、気の弱い子というのは、いつも1番に教室に現れる、ある女の子のこと。いっぽう、やんちゃな子というのは、その気弱な子より学年が上の男の子。あとから来て道具を取り上げるくらいなら、1番に来りゃあいいのに、必ず2番目に現れる。だいたい、子どもの登場する順番は決まっていて、ほぼ毎回、このふたりがワン・ツーを飾る。 で、その後どうなったかという話。結局、気弱ちゃんは私のアドバイスを実行することが出来ず、やんちゃ君に取り上げられては、私のところへ何か言いたげに近よってきて、体をクネクネさせる、ということをくり返した。私は、時には、そんな彼女に構(かま)うこともせず、知らんふりをし、そして、時には、アドバイスとして、「“いや”とか“今わたしが使っているんや”って言ったらええねんか。」と、同じセリフをくり返した。大人は、真理をついている言葉なら、子どもに何度くり返して言ってもいいと思う。 私のこと、冷たいと思いますか。以前、マジックの話を書きましたが、第三者の目から見て、冷たいとか無神経な人間に映るとき、だいたい私はマジックを仕掛けていたりします。 ところで、実はマジックのタネあかしになるが、この「“いや”とか“私がつこてるから”って言ったらええやん。」というアドバイスは、気弱ちゃんに言っているように見せかけて、実は、やんちゃ君へのメッセージも含んでいたりします。私と気弱ちゃんとのやりとりは、すぐそこにいるやんちゃ君の耳にも入っているはず。だからこれは、気弱ちゃんへのアドバイスでもあり、また、やんちゃ君に対する「取り上げられたほうの気持ちも知りたまえ」というメッセージでもある。もし仮に、直接やんちゃ君を「取り上げたらダメでしょ。」とか、「あとから来て、ひどいだろう。」ってなふうにいさめれば、気弱ちゃんのほうが味をしめて「先生に言ってもらえばいい、先生にチクればいい、」と考えてしまい、今後、自分でなんとかしよう、という意志が育たなくなるだろう。やんちゃ君にしても、気弱ちゃんを飛び越し、先生から口で注意を受けたって、表面的な解釈しかせず、心にひびいて納得、とはならない。子ども同士のことは、子ども同士で解決できるようにと、私は、そんな糸口を、こっそり作ればいいだけなのだ。 先に変化したのは、気弱ちゃんではなく、やんちゃ君のほうだった。毎回、あとからやって来ては、道具を横取りするやんちゃ君。彼は、その時にとる気弱ちゃんの態度に、だんだん気づき始めたようす。時々、先生から「いやって言えば?」というアドバイスを何度か受けながらも、実行できず、自分(やんちゃ君)に何も言ってこない気弱ちゃんの姿。また、そんな彼女が、時には先生にも構(かま)ってもらえず、中途半端な場所に立ちながら体をクネクネさせているだけで、そんな時には教室もし〜んとなっている、なんだか妙な空気。それらに気づき始めたやんちゃ君。ある日のこと…。 いつものように2番目に来て、「かせ!」と、パズルを取り上げるやんちゃ君。そして、これまたいつものように、席を立とうとする気弱ちゃん。そのとき、やんちゃ君が、「オレが1回したら、次オマエな。」と言った。私は、おっ!と思いながら、何も知らないふりして、さりげなく2人に注目した。 席を立ちかけた気弱ちゃんが、イスに座りなおした。やんちゃ君が一方的に、こう続けた。「そんで、オマエが1回したら、今度オレな。ルール決めよう。1回ずつや。」 最初は、無言のまま、それに応じていた気弱ちゃん。でも、1回ずつかわり番こしているうち、お互い、相手がやっている時に「ここは、こうしたらええねん」などと口出ししたり、茶々入れたりするようになってきて、そのうち、ふたりでケタケタ笑いながら、楽しそうに遊んでいた。 コミュニケーションとは、そういうこと。大人がやんちゃ君に「○○ちゃんが先に使っていたんでしょ。」「取り上げたらダメでしょ。」と口で教えてやるのでなく、そのことに自分で気づくようにもっていく、このほうが、子どもたちは様々なことを感じ、考え、学んでゆく。 子どもの国語力の低下が心配される今日(こんにち)、それは、繊細なコミュニケーションの欠如が原因ではないか、と私は思う。繊細なコミュニケーションから得られる「空気を読む力」や「相手の気持ちを察する力」、「感受性」というものが育たなければ、鋭い観察力や洞察力、深い思考力、把握する力、関連性を捉える力、というものも育たないだろう。 大人は、子ども同士、または兄弟同士の係わりにまで、「命令」や「指示」をしてしまい、それによって、子ども同士が自分たちで考えてコミュニケーションする機会を奪っていないだろうか。 それにしても、あれは私も想像しなかった展開やなあ。私が予想していたのは、「おそらくやんちゃ君は、ある日、横取りしなくなるのだろう」という結末。それが、突如やんちゃ君が提示した、「ルール決めよう、1回ずつや。」という、どちらが独り占めすることなく、仲良く分け合おうという、あの見事な解決策!(まあ、心の一方では、「あとから来たくせに、何をエラそうに!人が使っているもん取り上げて、『オレの次、オマエな。』もクソもあるかい!」という気も、せんでもないが。いや、オッケー、オッケー。この場合は、万事オッケー。) |
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| 2007 5月 「成績は、中学生から」 前々回に書いた 枠にあてはめた機械的な評価ではなく、周囲のうわさや見栄のものさしで測るのではなく、他人がつける評価の鵜呑みではなく、また、それらに惑わされることなく、親として、自分の子どもを正しく評価できていますか。 の話のつづき。 これでは、表現が少し抽象的でわかりにくかったですね。今回は、このことを具体的に書いてみようと思います。 たとえば、通知表。保護者の方たちは、学校の通知表の評価を、どれくらい重要に感じていらっしゃいますか。 私は、あまり通知表の数字に、まどわされすぎてはいけないと思います。はたして、子どもの能力をどうやって評価するのか。はたして、それは数値化できるものなのか。時々、(私は、特に小学生の場合)、生徒に対する私なりの評価と、その子の学校の成績とに、ギャップを感じることがあります。保護者の方も、そんな思いを持たれたこと、ございませんか。それとも、通知表の示すがままに、自分の判断をゆだねておられますか(つまり、親として子どもを評価するとき、通知表を判断基準の全てにしていますか)。 私は、通知表を否定しているのではありません。通知表の数字は、つける側の人間よりも、受け止める側の人間のほうが、慎重にならないといけないと思います。数字を表面的にしか受け止めず、「上がった、下がった」や「良かった、悪かった」ということで、安易に「だから勉強ができる」「だから勉強ができない」という判断に直接結びつけるのは、正しい考えとは思えません。 今の通知表は、1教科ごとが、「観点」というもので細分化され、こまごまと成績をつけ、合計をその教科の点としています(観点別評価)。観点とは「知識・理解」「関心・意欲・態度」「思考・判断」「技能・表現」などのことですが、最初の1つはテストで測れるものの、うしろの3つは客観的には測れないものだと思います。それを先生の主観でつけることになるのですが、より正確につけようと思えば、先生は生徒ひとりひとりへの理解を深めなければならないと思います。しかし現実的なことを考えると、学校の先生がひとりの生徒に対し、いろんな観点から見つめ、その子の特有さを発見したり、深く見極めるなんて、かなり難しいと思います。まして、それを全ての生徒との間で、それぞれで築いてゆき、すべての子の思考回路を把握するということになると、不可能ではないでしょうか。だから、先生方は困られているのしょう。本来ペーパーテストで測るべきでない観点も、ペーパーテストに盛り込んで数値化されている先生、たくさんいらっしゃいます(テスト問題を4つの観点に、例えば、問1は「知識・理解」を問う内容、問2は、「意欲・態度」を問う内容、問3は……ってな具合にふりわけ、観点ごとに得点の小計を出し、それを評価の判断基準としている)。 そういったことを考えると、成績表なんて、アテにならないかもしれないです。…と言うと語弊がある(誤解をまねく言い方)かもしれませんが、私は学校を否定しているわけでも、学校の先生を悪く言っているわけでもありません。ありきたりな意見ですが、人間を一定のモノサシで測って公平に判断しようというのが、そもそも不可能な話だと思うのです。 と言っても、中学生の場合、この学校の成績が高校進学にひびくのだから、そうも言ってられません。中学生では、成績を上げるというのは、とても重要です。また、中学生の場合は、小学生よりも、本人の能力がテストに反映されやすいとも感じます。なので、中学生に関しては、成績表の数字と本人の実力に、あまりギャップを感じたことはありません(あるとしたら、それは提出物の遅れや忘れ物など、納得の理由によります)。ということで、中学校の通知表は、小学校のものよりかは、学力の判断材料になりますし、何よりも高校入試に絡むので、大いに成績は気にしてゆくべきでしょう。 しかし、小学生の場合は、別です。 つづく。 2007 5月 「AくんとBくん、どちらが、勉強のできる子でしょう」 上のつづき。 たしかに、通知表は上がるほうがいいでしょう。上がれば喜ぶべきですし、それで子どものモチベーションも上がってきます。また、下がれば、反省すればいいでしょう。 ただ、成績表に振り回されてはいけません。中学生の場合は、別ですよ。先にも述べたように、高校入試がかかっている中学生は、成績は大事です。上げる努力をせねばなりません。しかし、小学生のうちは、中学受験をするなどではない限り、成績は「ひとつの目安」程度に捉えてほしいのです。 というのは、中学生よりも小学生は、成長過程から見ると、「まだ整理のついていない、まとまりのつかない状態」といいましょうか、つまり、「ひとくくりには出来ない年代」なのです。また、小学時代は中学の土台作りとして、とても重要な時期です。なるべく頭をつかって欲しい、じっくり考えて欲しい、いろんなことに疑問を持って欲しい、知恵をつけて欲しい、そんな時期です。それらをおろそかにすると、必ず中学生で崩れるからです。小学生時代があっての中学生時代です。 たとえば、ここに2人の小学生がいるとします。今から挙げる例は、わかりやすく強調したフィクションであることを、心に留めながら読んでください。 2.3×3.7を計算しなさい、という問題を与えられたとします。 ちなみに、正解は8.51です。 Aくんは、すらすら、「8.51」と書きました。 Bくんは、悩んだ末、「8.41」と書きました。 さて、高く評価されるのはどちらの子か?と聞かれると、みなさんは何と答えますか。当然、たいていはAくんだと思いますよね。正解したAくんは○をもらい、きっと「よく出来ました」というハンコを押してもらえるでしょう。そしてBくんは×をもらい、「計算ミスに気をつけましょう」と言われるでしょう。 では、優秀なのはどちらの子か?と聞かれると、どう思いますか?先程と、ニュアンスが違いますね。やはり「Aくんだ」と思われますか?それとも、「ここでAくんだと当たり前すぎる、実はBくんだと言うんじゃないか?」と、勘ぐられますか?? …実は、これだけではわかりません。この場合、テスト用紙だけでは判断不可能なのです。そこで、ふたりに、解いた過程を説明してもらうことにしました。 Aくんは、筆算した結果、数字は「851」と出てきたとのこと。次に、小数点をどこに打つかで、「式の、2.3はうしろから一つ目、3.7もうしろから一つ目。かけ算の場合、答えには、それを合わせた、うしろから二つ目にうつ。」と考えたそうです。そこで、Aくんに、「じゃあ、かけ算ではどうして点をそんな風に動かすの?」と聞いてみたところ、Aくんは、「そう習ったから。なんでかは、わからない。」と、うまく答えられませんでした。 一方、Bくんの場合、彼も筆算したのですが、「841」と出てきてしまいました。しかし計算ミスには気づかず、次に、小数点の打つ場所を考えたそうです。彼は、8.41か84.1かで迷ったとのこと。そこで、こう考えてみました。「2.3と3.7は、23の10分の1と37の10分の1だから、かけると答えは841の100分の1になるんじゃないかなあ。だから、8.41かな?」それでも、ちょっと不安なBくん、今度は、「2.3は、ほぼ2だ。3.7は、ほぼ4だ。すると、ほぼ2×ほぼ4で、答えはほぼ8になる。」と考え、「だから、8.41で間違いないだろう。」と、最終決定を下したとのこと。 小数を根本的に理解しているのは、どちらの子でしょうか?数のしくみを、きちんと捉えているのは、どちらの子でしょうか? この話はフィクションですが、実際にも、一見、小数の計算が抜群に出来る子が、 31.859 と 241.3 で、どちらが大きいか と聞くと、31.859のほうが大きいと答えたりします。計算は、機械的に小数点を動かすことだけを覚え、それで出来ているのですが、実は小数というもの自体を理解していないのです。めずらしい話ではありません。 正確な答えを書けることも大事ですが、それ以上に大切なのは、思考回路です。しかし、学校の先生が、思考回路まで鑑(かんが)みて成績をつけているとは考えにくいです。一度に大勢と接する中で、個々の思考回路まで観察するのは、不可能でしょう。 つづく。 2007 5月 「真の底力は、見えにくく、評価されにくい。」 上のつづき。 算数が嫌いな人は、上の話、読むのがしんどかったかもしれませんね。ひょっとして、読み飛ばされたかもしれませんね。なので、もうひとつ、例を。 たとえば、お米。課題は「米を炊く」だとします。Aくんは、電気炊飯器で炊きました。ボタンを押せば、自動的に炊き上がりました。Bくんは、土鍋で炊きました。自分で火加減を調節しました。 どちらの子が、すごいと思いますか?炊き上がったご飯だけを見比べると、Aくんの炊飯器のご飯のほうが、ふっくらつやつやしているかもしれません。Bくんのほうは、底が焦げすぎたり、ややシンが残っている部分があったりするかもしれません。しかし、炊く作業にまで視点を広げると、どちらが「ご飯を炊くこと」をよく理解しているかといえば、「火加減」ということを意識したBくんですよね。極端なことを言えば、実はAくんは、頭の中で電気と火力が結びついておらず、ご飯を炊くのに熱が必要なことすらわかっていなかったとします。それでも、ボタンを押せば、なぜかわからないけれど、炊けてしまったのです。でも、先生がもし、どんな風に炊いたかを知らず、炊き上がったご飯だけを比べたとしたら、Bくんより、Aくんのほうを高く評価するかもしれません。しかし、この先、どちらの子が、料理の応用をきかせることができるでしょうか。 小学生では、結果が全てではないのです。結果よりも、それまでの過程や、頭の使い方が重要なのです。しかし、通知表は、ほとんどが生徒の最終的な発言や紙上に示したもの(つまり結果)を見て、つけているので、真の実力とギャップが生じたりするのです。 また、このことを逆手(さかて)にとる、という問題も発生します。つまり、成績を上げるためには、過程はどうでもいい、結果さえ出せばよい、という愚かな考えです。それは、テクニックで手っ取り早く点数をアップさせるという考えです。 塾などの先生にとって、表面的な点数を取らせたり、見せかけの成績を上げてやることは、小学生の場合、ある程度は簡単なことでしょう。炊飯器のボタンを押すことを教えるのは簡単で、それで、すぐに上手くご飯を炊かせることができてしまいます。先程の小数の例だったら、「小数点をこんなけ動かせ。」とテクニックを教えるのは、とても簡単です。本当は、数のしくみを意識させつつ、根本的なところから理解させることが大事ですが、それは誰にでも出来ることではなく、難しいのです。でも、理屈ぬきに「こういう時は、こうしろ。」「こういう言葉が出てきたら、こうしろ。」と、機械的な作業をうながせばいいだけなら、先生も苦労しませんし、生徒も悩みません。意味も考えず、ただ当てはめれば、なぜかわからないけれど、答えは出せてしまうのです。頭を使わずにいい点数が取れ、手っ取り早く成績を上げることができます。しかし、そんなやり方では、成績が上がるのはその場だけです。 悩んだり頭を使ったりせず、わけがわからないまま出た答えを書き、それがいくら正解していたとしても、それはとても無意味なことですよね。そんな行動を、小学生の間にとらせるべきではありません。その場しのぎであって、到底その先へつながっていきません。中学、高校での知識へとつながっていきません。 たとえば中学の数学なら、それは極端に言うと、小学校の算数の復習&応用です。中1の最初は、数の勉強から始まります。そして、たし算、ひき算を習います。その次はかけ算、わり算(中1ですよ)。その後に習う文字式や方程式、関数、図形、どれも真新しいものはありません。小学校で習ったことの反復だったり、応用だったり、上乗せしたものだったり、反対に、小学校で習ったことをもっと効率よく処理できるように利便化したものだったり。つまり、小学校の勉強あっての、中学校の勉強なのです。このことは、小学校時代の勉強の仕方が、いかに大事か、ということを意味しています。 いっぽう、小学校で習う算数は、子どもにとって、真新しいことが盛りだくさんです。それらを、どれだけ自分のものに出来るか、が勝負です。その度合いが、中学以降の人生を左右します。つまり、「最初が肝心」ということです。ひとつひとつ、じっくり取り組んでほしい時期であります。だから、小学生の間に、目先の点取りに走ったり、テクニックに走ったりは、してほしくないのです。 つづく。 2007 5月 「成績は、小学生では気にしないほうが良い」 上のつづき。 確かに、うちは塾です。塾は、成績を上げてやるべきところでしょう。ただ、プリゼミは、目先の点取りに走る塾ではありません。 能力が伸びれば、成績は、あとからついてきます。しかし、個人差はあります。すぐに上がる子もいれば、長い期間、地下でエネルギーを蓄え続ける子もいます。また、地下で蓄えている子の中には、不器用だけれど本当は素晴らしい可能性を秘めている子もいます。さっきのBくんの小数のように、素晴らしい考えを持っているのに、計算ミスをしちゃうというのもそうですが、あれはわかりやすく出した極端な例であって、実際は、もっと複雑です。複雑ゆえ、親御さんには我が子の秘めた才能や、人とは違う光ったものに、気づかれないことが多いです。そして、その才能を伸ばす方ではなく、目先の点を伸ばす方へと走ってしまわれるのは、非常に残念なことです。 学校の成績表は、そこまでお子さまを深く見てつけられていることは、ないと思います。(これは、学校否定ではありませんよ。)最初にも言いましたが、成績表を受け止める側の意識の持ち様が重要です。 小学校の通知表は、中学校の通知表と違うのだ、と思ってください。小学生のほうが、子どもの個性も発揮の仕方も、中学生より豊かです。それゆえ、平均的なものさしでは、良い意味で「計測不能」な子もおります。ですから、成績表の数字が、そのままお子さまを表しているなんて、思わないでください。むしろ、正しくないと思われたほうがいいかもしれません。それぐらいの気持ちで受け止めてください。小学校の通知表に、神経質になる必要は全くありません。小学生のうちに点取りに走らないでください。手っ取り早く炊飯器を与え、子どもがわけもわからぬままボタンを押すだけでご飯が炊けて、親は「これで、うちの子も炊けるようになった」と喜び、子どもはどんどん頭を使わなくなる…。そんなことをすると、テクニックで武装したその中身はすっからかん、という土台が出来てしまい、成績をキープできるのは小学生のうちだけ、そんな子は必ず中学でつぶれます。 お子さまによっては、小学校の成績はさっぱりだけれど、本当は力を持っている、という子も結構います。ひょっとしたら、子どもにではなく、ものさしに原因があるのかもしれません。とにかく、あせって今の成績をすぐに上げることはないのです。確かに、悪い成績表を見ると不安になる気持ちはわかりますが、本当にそれが、真の学力どおりなのか、親も本当に我が子のことを理解しているのか、冷静になって、惑わされず、親の観点で子どもを見つめ直してみることも必要です。ゆっくりゆっくり進むべき子もいます。よその子と比べてはいけません。あせると、大事なものが見えなくなります。小学生には、点数や成績に現れない真の実力を持っている子が多く、それゆえ、思うより成績が低いと、その力は見落とされがちです。お子さまにとって、今一番大事なのは何か、何をさせてやるべきなのか、慎重に見極めてあげてください。親のあせりや、勝手な心配が、お子さまの芽をつんでしまわれませぬように…。 今回、算数の話にかたよりましたが、来月は、小学生の作文の話をいたしましょう。 |