過去のちょいから (`▽´) ショート日記


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 <2007早春> 3・4月
2007
3月 「武勇伝・その7」

♪Bちゃん答えを言ったげて♪おぅ聞きたいかうちの珍解答♪そのすごい珍解答をゆったげて♪うちの伝説ベストテン!♪レッツゴー。
中学クラスより、理科の授業にて。生徒Bさんの場合。
問題≫銅粉(銅のこな)を十分に加熱したところ、黒色の物質ができた。この黒色の物質は何か。
Bさんの解答≫
なぬ?!銀が黒色ってかー!!しかも、を熱したら、になるとは!
 びっくりした私は、きっと何か勘違いをしたのだろうと、「もう一度、冷静に考えてみ。」とうながした。だって、Bちゃんは、けっこう利発な子だから、こんな突拍子もない答えを言うなんて、想定外だったのである。
 しかし、問題をゆっくり読み直した彼女は、「うん、銀。」と、ますます自信ありの表情。なんでやねーん。ちなみに、答えは「酸化銅」です。
 たしかに彼女は、利発なわりに、時たまナゾの天然発言をする子。今回も、いろいろ話していると、どうも本気で「銅が銀になる」と思い込んでいるらしいことがわかった。そのくせ、ちゃんと「酸化・還元」のしくみはわかっている。だから、この問題も、解説したら、「酸化銅になる」ということを、Bちゃんは頭では理解した。しかし、感覚的にしっくりこないようで、頭では「酸化銅」とわかっても、感覚的には「でも、だって、銀やもん。」という感情が消えないらしく、彼女の頭をかしげさせる。
 そこで私は、彼女の雑念(?)をリセットするべく、「銅って何だったっけ、銀って何だったっけ」と、思い出させることにした。「銀はどんな色や?黒いか?」とか、「オリンピックの銅メダルの銅やで。銀メダルの銀やで。」「銅が、銀に変わるなんて、ありえへんくない?」と、まずはイメージさせることによって、異空間へぶっとんでしまっている彼女の頭を、日常の感覚に戻させようと試みた。
 しかし、それでもBちゃんの反応は、「うん、それで?銅が銀になって、何がおかしいの?」てな具合である。男子生徒が、「銅メダル熱したら、銀メダルになるんかよ!」とツッコミを入れる。「ならへんの?」とBちゃん。「銅と銀の価値が一緒やったら、メダルを分ける意味ないやんけ!」「なんで?」「じゃあ、黒はどう説明すんねん。」「だって、熱したら、こげるやん。」
 うーん、オリンピックでは、いまいち現実味がなかったか。金属がこげるとまで言い出したぞ。目を覚ませ、Bちゃん。
 うーん、もっと身近なもので…、そうだ、これならどうだ。
私:「10円玉は銅やで。」
B:「知ってるわ〜。」
おお、良かった、知っているのか。ならば、話は早い。
私:「想像してみ、10円玉を。熱して銀になるか?」
すると、Bちゃん、しばし考える。そして…
B:「だって、なったもん。」
…ええっ?!なぜゆえ、“なった”と過去形なのだ。
B:「学校で、やったもん。」
ああ、わかった、学校でいろいろ実験をして、記憶違いしているんだ、Bちゃんは。
私:「それって、“美しい『銀』が酸化して黒い『酸化銀』になる実験”と、“黒い『酸化銅』を還元して美しい『銅』にする実験”が、ごちゃまぜになっとるんちゃうか?」
たしかに、記憶がぐちゃぐちゃになっているのも、無理ないのは、わかるよ、わかる、わかるけれど、でも、銅が銀になるなんて、いくらなんでも。
B:「ううん、銅が銀になったって!」
私:「それはありえへんってこと、わかってくれぇ。そんなこと出来たら、金持ちなるって。」
B:「信じて。うちの学校で出来たんやって!」
私「そうか、あんたとこの中学の理科室では、銅を銀にできるんやな?ほんならBちゃん、私の10円玉、今あるだけ渡すし、ぜんぶ銀貨に変えてきて〜!」
B:「ええ、マジ?!あ、でも、よう考えたら、そんなん無理やわ〜。」
おお、わかってくれたか。そやろ、無理やろ、10円玉が銀貨に変わるなんて。
B:「だって、勝手に理科室、入れへんもん。」
…まるで、コントのオチのような、本当の話。

武勇伝、武勇伝♪ ぶゆうでんでんででんでん
To be continued.
(※Bさんに、このエピソードをここに載せることは、了承済み。)


2007
3月 「勉強は、競争させるべき?させないべき?」

 そもそも、私は勉強で競争させることは、あまり賛成でない。といっても、この言葉を臨機応変に解釈してもらいたいのだが、競争を全否定しているのではなく、“場合によって”の話である。場合によっては、競争させたほうが良い時もあり、事実、中学生クラスでは、夏と冬に「プリゼミ一斉英単語バトル」というものを恒例で催している。これは、夏期講習や冬期講習中に毎回おこなう英単語テストの得点合計を、皆で競い合い、教室に順位を貼り出すというものだ。
 これなんかは完全に競争だが、テストに出る単語リストを事前に配り、それを暗記してくるという、単純な形式のもの。理解力を問うものではないので、努力しだいで、誰にでも1位になれるチャンスがある。
 このバトルを導入してから、毎夏毎冬、みんなすごく頑張って単語を覚えてくれるようになった。普段から励んでいる子は、一位を目指してさらに頑張り、また、普段さぼり気味でよく覚えられていない子は、せめて最下位にならないようにと頑張り、みんな意欲的に挑んでくれる。この前の冬なんかは、ひとりを除く全員が90点以上をとるという、こちらも驚異の好結果を生んだ。ひとり70点台だった最下位の子については、これは実力はあるのにさぼっていた結果なのだが、本人いわく「みんながこんなに頑張るとは思わなかった。まさか自分が最下位になるとは思わず、余裕をこいていた。」とのこと、この子にも、いい経験になったことだろう。
 このように、競争させてもいい場面というのは、「努力が純粋に反映されるもの」に関してだと思う。
 そして、逆に競争させてはいけない場面とは、「理解力を問うところ」だと思う。「理解力」とは、「努力」に比例するものとは限らないからだ。こちらの場合は、せっついたりプレッシャーをかけるのは禁物で、ひとりひとり、その子のペースに応じて、じっくり取り組ませるべきところである。
 そもそも、プリゼミの基本方針は「じっくり」であり、教え込むことではなく、考えさせる姿勢を重視している。勉強というものは、暗記する部分より、考える部分の方が多いと思うからだ。すなわち、勉強では、競争する場面より、個人のペースでじっくり取り組むべき場面のほうが比重が大きいと思う。
 競争は、ポイント、ポイントに使うのが効果的であり、勉強そのものにおいて競争させることは良くないと思う。時には逆効果にもなるだろう。
 要するに、「競争」自体が良いか悪いか云々(うんぬん)ではなく、競争させていい場面と悪い場面を、上手に使いわけることが大切だと思う


2007
3月 「プリゼミが取材を受けました!」

 大ニュース!「ほっとあさ」の表紙で、プリゼミが紹介されることになった!バンザイ。
 「ほっとあさ」というのは、1ヶ月に1度発行される、朝日新聞の折り込み紙。地域情報として、いろいろなジャンルの店舗や施設などが、2行ずつのメッセージを載せている。そして、その表紙には、月ごとに、編集者の目にとまった素敵な店舗が、取材記事やイラストと共に、大きく紹介されている。いや、店舗の紹介というより、そこの経営者がクローズアップされる形で、その経営者の考えや人柄というものが綴(つづ)られている。その文章に添えられる経営者の似顔絵(編集の方が毎月かいていらっしゃる)も、いつも印象的で、とっても味のある紹介記事なのである
 我が教室も、開校当初から、「プリゼミも表紙に載らないかしらん」とあこがれつつも、塾という業種柄、「それは、ないだろなー」なんて思っていた。それが今月、とうとう、ほっとあさの編集の方から、「表紙の取材を」という依頼が来た。
  来た、キタ、ついに キタ━━━━(゚∀゚)━━━━ッ!!
そう、この突然の依頼は、プリゼミにとっては、私にとっては、天から降ってきたような、すばらしき朗報。「なぜ、うちが?!」という気持ちと、「ヤッタァ」という気持ちが渦巻きつつ、私は有頂天に。
 私のささやかな夢として、プリゼミは、小さな小さな塾だけれども、教育に対する私の思いやメッセージが、世の中に発信できる場になっていくといいな、という気持ちがある。今回のほっとあさ掲載の話は、その一歩を実現した感じ。みわこ先生に100の質問(これまた、このホームページの、どこかにあるコーナー)の56番にも書いているとおり、このホームページへの期待として、「記録を残せる。自分の塾や教育に対する姿勢を、世に発表できる可能性を秘めている。」という気持ちが常にある。私は、目先の点取りに走りがちな今の教育業界のあり方に、きっと世間が疑問を持つ日が来て、世の中全体の傾向が見つめなおされ、教育の本質が問い直されたとき、きっとプリゼミのやり方は素晴らしいと認められる時が来るだろうと、ささやかに夢見ている。そして、私が今やっていることは間違っていない、正しいのだと、自信と誇りをもっている。
 さて、ということで、先日プリゼミに、編集の方が取材に来られました。この方は、うちのホームページを熱心に見てくださっていたようで(ありがたいことです、ナムナム)、私の塾に対する信念に対して、大きな理解を示してくださいました。そのため、伝えきれないだろうと思っていたプリゼミの精神の、おおよそのことをスムーズに伝えることが出来、私は大満足です。また、たいへん話のわかってくださる方で、その点でも、話を有意義にすすめられたと、大感謝しています。とても楽しい時間でした。なんだか、夢のようなひとときでした。
 この記事が載るのは、5月ですよ。わくわく。
 皆様、5月5日の「ほっとあさ」を、お見逃しなく!お楽しみに♪
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2007
3月 「子どもは大人の思い通りにならん」

 わかっている、とってもよくわかっている、子どもは大人の思い通りに全然ならぬことは、よくわかっておる。苦しゅうない。だがしかし、苦しゅうないはずが、今回、そのことをイヤというほど実感して、ひとつまた、私は成長した。
 何のことかというと、ひとつ上で書いた、「ほっとあさ」の取材の件。実は、私への取材のあと、生徒への取材もあった。事前に、それも見越して、取材の終盤に子どもの通塾時刻がかぶるよう、取材の時間を設定していたのだ。
 ところが、この「生徒への取材」は、私の予想していたものと、全く違う展開をみせた。時間帯の早いほうのクラスだったため、低学年の子が多く、恥ずかしがりやさんも多いので、インタビューにテキパキと答えられることはないだろうと予測はしていたが、私が想像した以上に、もっともっと、みんなは緊張したのである。教室に入ると、全員がイスにちょこんと座り、真面目〜にしているので、その時点で、私は「ありゃ?」と思ったのだが…。
 このクラスのみんなには、あらかじめ、この日に取材が来ることは伝えていた。だが、インタビューの練習みたいなもんは、もちろんしていない。「こう聞かれたら、どう答えるの?」のような予備練習をさせるという、“やらせ”みたいなことは、私の心が絶対に許さない。自然のまま、ありのままがプリゼミらしさなのだと思うし、また、子どもたちがどんな態度をとろうと、何も答えられなくとも、また逆に、何を言おうと、私は一向に構わないという気持ちもあった。それは、きっと自分のやってきたことに、プリゼミというものに、自信と誇りを持っているからだろうと思う。
 とカッコイイことを言いつつ、いざその時になると、実際には、私は非常にハラハラすることとなった。まず一つ、みんなが、まんべんなく答えるだろうと思っていたら、ひとりの生徒が独り占めしてしまう、という展開におちいった。この子をGくんとする。Gくんは、何でも答えたくて仕方ないらしく、自分への質問じゃなかったり、自分の答えられない質問でも、何かしら発言して、他の子の発言チャンスを、全部横取りしてしまう。他の子たちは、それでも、あまり気にしていなかったが、私は「みんなに発言させてあげたい」という気持ちでハラハラしてしまった。特に、Hちゃんのことが気になった。彼女は、本来この曜日に来ている子ではないが、振り替え授業を利用して、わざわざ、インタビューのために、この日にやってきたのである。ハキハキと答えるのが好きな子で、はりきってこの日を楽しみにしていた彼女だが、当日ふたを開けると、Gくんが仕切ってしまい、彼女はほとんど発言権を得られなかったのである。
 そして、もう一つ、私がヤキモキしたのは、子どもたちが、私の望む答えをしてくれなかったことである。取材のおじさん(←失礼な表現ですみません、でも、子ども目線では、こう書いたほうが、しっくりくるので…)が、“プリゼミの魅力”を子どもから聞き出そうとするのだが、最初、子どもの口からは、あまりいいのが出てこないのである。横で見ている私は、心の中で『あれもあるやん!これもあるやん!』と、いっぱい浮かんで、『あれを言え言え!これを言え言え!』なんて思って、はがゆくて仕方ない。おじさんが、“みわこ先生の魅力”をたずねた時なんか、みんな、首をかしげやがる。私は、『なんでやねん!あれもこれも、いっぱいあるやんか!ぜんぶ言ったれや!』と、心の中で叫ぶのだが、生徒には届かず、みんな、もじもじ。やっと出たと思ったら、そのセリフは「みわこ先生におこられた」だと。トホホ。
 しかし私は、みんながプリゼミの魅力を「いちごがり」くらいしか言えなくても、何も口出しせず、見守った。横から「○○もあるやろ」「△△はどうなん?」と、誘導尋問みたいにしたら、それは生徒のことばでなく、私のことばになってしまう。“やらせ”になってしまう。
 また、Gくんが独り占めしてしまっている状態でも、これも私は、極力、口を出さなかった。みんなが平等に発言できるようにと、大人があつらえてやるなんて、そんな必要はないと、私は思う。何度か私は、Gくんにストップをかけそうになったが、「だめだめ、ほっとこ」と、自分をセーブした。子ども同士の貴重な係わり合いなのだ。大人が口をはさむべきでない。
 確かに、発言できず損をする子のことを考えると、大人の目線では「もったいない、せっかくのチャンスに。」と、みんなにチャンスをあげたくて、どの子も平等になるようにと、あつらえてしまいがちだ。しかし、そんなことをしたら、きつい言い方だが、「あかんたれな子は、いつまでもあかんたれ」になってしまう。「自分の発言力のなさで、自分が損をする」という経験も、成長のひとつなのだ。
 だから、はりきっていたのに発言できないHちゃんを、私は気の毒に思いつつも、「何でも言いや〜。」くらいの声かけをして小さな助け舟を出すのが精一杯の譲歩で、それ以上のことは、何もしなかった。
 Hちゃんは、ちょっとイマイマしかったらしく、インタビュー中に、顔は笑っていながらも、さりげなくGくんへ八つ当たりしていたが、彼女も、このくやしい経験を、今後につなげて強くなっていってほしい。負けずに、自分も積極的に口をはさめばいいのだと。
 話は、ずれるが、プリゼミに先に来た、おとなしい子が遊んでいるパズルを、後から来た、やんちゃな子が、「貸せ!」と言って、取り上げてしまうことがある。こんな時、私はそのやんちゃな子を、いさめたりしない。取り上げられてあきらめている子のほうに、力を貸すようにしている。「今度、貸せって言われたら、『なんで?』って聞いてごらん」とか、「『私がつこてんねん』て言ったらええやん、はっきり『いや』って言ったれ。」とアドバイスする。それでも、その子が実行に移せなければ、ほっとくようにしている。この時の後日談は、またの機会に。
 そんなこんなで、生徒への取材の間は、ほとんど私は介入せず、おじさんと子どもたちに任せていた。はたから見たら、何のフォローもしない、とりつくしまもないような先生と映るかもしれないが、プリゼミの精神を理解してくだっている取材のおじさんは、きっと私の意図をわかってくださっているだろうと思う。おじさんも、そんな中でも、うまく生徒から引き出そうとしてくださり、ひとりの子(Iくん)が、有意義な話をひとつしてくれたので、これで充分だろうと思った。また、Hちゃんも、最後のほうに、ひとつ光る発言が出来たので、これも充分だ。
 そう思えると、私も、何か学んで、成長した気がする。
 また、あらためて思ったのは、子どもって、こちらが思うような発言はしてくれないな〜ってこと。でも、それが普通なんだろうと思った。子どもとは、そんなもんなんだ。こちらの希望どおりの言葉をポンポン並べてくれるほうが、こわいかも。
 プリゼミで、いつもこちらが浴びせているシャワーを、子どもたちは、常に、確かに受けとめているはずなのに、こういう時に、発言として出てこない。プリゼミの魅力、私の魅力、語りだしたらキリがないはずなのに、子どもの口から、それらがほとんど出てこない。初めはそれがちょっぴりショックだった。
 しかし、これは何も、子どもに届いていなかったってことではない。また、子どもの中に残っていないってことでもない。ある家庭教師(私の友だち)に、こんなエピソードがあります。

 …数年前、この家庭教師の方が、注射を怖がる幼少の娘さんに、ある話をしたら、注射を怖がらなくなったそうです。しかし最近、娘さんに注射の話を覚えているか聞くと、まったく覚えていないとのこと。いい話をしてあげたのに、そして、娘さんの心には確かに響いたらしいのに、また、それで注射を怖がらなくなったのに、娘さんは、勝手に注射が怖くなくなったと思っているらしいのです。でも、この先生は、娘さんに「覚えていない」と言われ、「さびしい」と思うのではなく、「わが意を得たり」という気分だそうです。なぜかというと、これは子育ての本質を突いており、「親に言われたから、子どもがそれに従う」というのは、子育てとしてレベルが低いと感じられるからだそうです。そして、この先生が言うには、
「親の言葉なんて、残っていないくらいでちょうどいい」と。

 私は、今回の取材を通し、あまり答えられない子どもたちを見て、この家庭教師の先生の言葉を思い出しました。きっと、私の指導も、そうなんだろうな、と。子どもの口から、プリゼミの魅力が、ついて出てくるほうが、うわっつらで、ニセモノなんだろうな、と。強がりでも、いいわけでもありませんよ。深く響くものほど、記憶の表面には残っていないものなのだ、と。きっと、プリゼミの精神や私の指導は、子どもの深層心理には、ちゃんと焼きついているのでしょう。
 Gくんも、Hちゃんも、Iくんも、ほっぺに手をあてながら思い出そうとしてくれたJちゃんも、恥ずかしくて自分の学年くらいしか言えずそれでも頑張って答えてくれたKくんも、みんなみんな、インタビューに答えてくれたみんな、ありがとね!
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2007
4月 「教材くばり」

 さて、4月。希望に満ち溢れる新学年スタート。新しい年次教材(1年間つかう教材)を手渡す時期。
 前学年の教材は、表紙がヨレヨレになり、1年間の使用で相当やわらかくなっているが、そこに受け取る新教材は、まっさらで、シャキーンとしている。
 私は、毎年、事前に教材会社に注文し、それが教室に届き、箱を開け、ピカピカの教材の山を目にすると、ものすごいガッツが湧いてくる。まっさらな教材を手にすると、「がんばりたくて、たまらん!」と、高鳴る希望に、ウッキウキする。
 …渡す立場の私さえ興奮するのだから、受け取る子どもたちは、それはそれは、もう。こわいほどの盛り上がりを見せる。みんな、真新しいテキストのカッチリ具合に、「やったあ!新しい!」、「うわ〜、きれい!!」、嬉しさいっぱい、夢いっぱい、きゃあきゃあ、わあわあ。表紙に書いてある教材の名前を大声で読み上げてみたり、「4年って書いてある〜」と言って新学年の数字に陶酔したり、表紙をじ〜っと見つめてみたり、てのひらでなでて、そのツルツルした感触を味わってみたり、鼻をくっつけたり(何をしている?香りを楽しんでいるのか?)。…このまぶしいテキストを、これから自分が使っていくのだー!と思うと、嬉しゅうてしゃあないって感じ。学校でも、新しい教科書をもらって、同じ気分を味わうだろうが、この新鮮な気持ち、保護者のみなさまにもご経験があるだろう。
 そして、新しいテキストに傷をつけまいと、だいたいの子は、その表紙をめくるのさえ慎重で、確実な折り目をつけるように、そーっと指で筋(すじ)をつける。これも、保護者の方にも、身に覚えがあり、気持ちがわかることでしょう。また、名前を油性マジックで記入するのだが、必ず何人かは、学年の欄に、うっかり旧学年を記入してしまい、私に「もっかい同じ学年やりなおすんかー?」とツッコまれ、「ぎゃ〜〜!」と悲鳴をあげる。ドキドキ、ワクワク、とにかく、いろんな意味で、盛り上がるひととき。
 この“教材くばり”は、れっきとしたイベントやろなあ。毎年の光景なのだが、私は、1年間のサイクルの中で、これが最も好きかもしれない。
 プリゼミでは、普段から刺激を与える工夫はしているが、どんな刺激も、この“教材くばり”には敵(かな)わない。例えばお正月を迎えると、自然にキリッと新たな気持ちになり、また1年がんばるぞという気持ちになるように、何事においても、定期的にびしっと気をひきしめるため、「節目(ふしめ)」というものは、重要だと思う。だから、プリゼミにおいて、1年に1度の“教材くばり”は、非常に大事な行事。子どものスイッチを押す感じ。級方式教材では味わえない、だから、級方式ではマンネリ化してくるんじゃないのか、それも級方式の問題点やなあ、と思うのだが。(おお、また「級方式」の話か?!)
 年次教材特有の、「1冊の重さ」も、ちょうどいい。その、ほどよい「ずっしり感」が、1年間という区切りを意識させ、新たな緊張感を呼び起こさせる。ページをひらき、「うわー、小数や!」「うわー、割合や!」「うわー、ナニコレー!」と言いながら、これからの1年に思いを馳(は)せる子どもたち。そして、新しい教材を手にした子たちが共通して持つ、「ぜったいにがんばるねん!」という、非常に前向きな気持ち。…意欲と希望で満々。
 ただ、その、満々な興奮も、半月ほどでおさまってしまうのが、悲しいのだが。まあ、でも、それは大した問題じゃないから、別にええねんけど。一瞬でも、気合が入ったという事実があれば、いいのです。スイッチを切りかえる時とは、そういうもの。


2007
4月 「カスタマイズ・ぶた・プリン」

 プリゼミの教材は、ほぼ私の理想に近いものを採択しつつも、それらには、まだ気に入らない部分があるので、私が勝手に加工したりしている。加工といっても、そんな大したことではなく、ページの、隠したい部分に、黒い紙をのりでベタッと貼ったり、私の手で書き加えたり、削除したり。これを、ある日、ひとりの小学生が「カスタマイズや!」と言ったのをきっかけに、私もこの言葉を気に入り、以後、こうやって私が教材を加工することを、みんな「カスタマイズ」と呼ぶようになった。
 たまに、神経質な子などは、自分の教材に私の手を加えられることを敬遠する。無理もない、私の加工は、あまり丁寧でなく、パパパっとやってしまうので、ななめにいがんでしまったり、はみでたりと、じじくさくなる(かっこわるくなる)ことが多いからだ。しかし、そんな時、「何言ってんの、カスタマイズやん。」と言うと、この「カスタマイズ」という響きに、かっこ良さを感じるのか、文句を言わず、すんなり応じてくれるようになったりする。

 そういや、話はそれるが、このコドモダマシのような手は、中学生にも使えていたりする。宿題を指示するとき、ホワイトボードに書いて、写させるのだが、かつて「○ページの問題を全部」と書くと、たいがいの子は「全部」という言葉に反応して、「え〜、多いやんか〜!」と文句を言ったもんだった。実際には、大して量がなくても、「全部」という言葉の響きが、多く感じさせてしまうようだ。それが、ある時、ふと思いついて、「全部」の「部」の字を、ブタのイラストにかえてみたら、こちらの思惑どおり、みんなの意識はブタにそれて、「はは、全ブーや!」と笑いながら写して、そのまま気分良く帰ってくれた。それから、私はずっと、ブタのイラストを描くようになったのだが、これをするようになってから今まで、「全部は多い!」なんて発想をする子は、ひとりもいない。みんな、「またブタ?」と言いながら、にやにやして、書き写している。生徒自身、自分のメモ帳にも、ブタの絵を描き写していたりする。楽しそうだ。また、こんなのもある。宿題をテキストから指示するのではなく、プリントを渡すこともあるのだが、プリントはとっつきにくいイメージがあるらしく、「えー、プリントはいやや〜」という反応が返ってきて、文句を言われたもんだった。これも、ある時から、まずプリントを配る前に、ホワイトボードに「宿題、プリント」と書くところの「プリント」の部分を、プッチンプリンのイラストに「ト」と描くようにした。すると、「プリン・トや!わはは!」と、これまた嬉しそうに写すので、その時に「さくらんぼ乗ってへんけど〜」とか言いながらプリントを配ったら、笑ったまま受け取り、そのまま帰って行くようになった。「プリントはいやや」という発想をする子はいなくなった。これって、一種の催眠術やろか?イメージとは、すごいものだ。パッと目に映る印象で、本質から意識をそらさせるんだから。
・・・ああ、中学生も、このホームページを見ているので、ひょっとしてこれを読まれたら、ネタバレして、今後「全ぶー」も「ぷりんト」も通用しなくなるかも?

 で、カスタマイズの話に戻る。カスタマイズという言葉のかっこいい響きに釣られ、自分の教材を私に預け、加工されるがままの小学生たち。
 その中でも、プリゼミのみんなに浸透しているのは、ちょっぴり奇抜な、副教材のカスタマイズである。
つづく

※カスタマイズ・・・既存の商品などに手を加えて、好みのものに作り変えること。by大辞泉


2007
4月 「プリゼミの副教材は、なんと?!」

上のつづき。
 プリゼミの小学生では、算数クラスでも、国語クラスでも、メイン教材のほかに、「副教材」を使っている。そして、この副教材は、算数も国語も、級方式のものである。
 と聞いて、「なぬっ?!」と驚かれた方は、2月のちょいから日記を読んでくださった方だろう。
 プリゼミが採択している教材は、小学クラスも中学クラスも、私自身が、いろいろな教材を比較し、選んでいる。本屋さんへ見に行くのはもちろんだが、一般で市販されている教材の他に、世の中には「塾専用教材」というものがあって、こちらは通常、カタログやインターネットでしか確認できず、手にとって詳しく見ることができない。なので私は、直接、教材会社に足を運んだり、各教材会社が一堂に集まって開催する大きな展示会に足を運んだりして、実際に見に行く。(余談だが、教材会社のある場所や展示会の会場は大阪が多く、普段は「すっぴんにトレーナー&スニーカー」というラフなスタイルに、いつも同じテキトーな髪型の私も、この時ばかりは、ちょっと化粧し、スカートをはいて、ジャケットなんかを羽織って出かけます。知られざる姿?)
 そうやって、吟味に吟味を重ね、選ぶのだが、世の中にわんさかと教材の種類はあれど、自分の理想を100%満たしている教材というのは、1冊も見つからない。自分で教材を作る以外に、100%思ったとおりの教材に出会う、というのは、不可能であり、それは当然だろう。なので、どこかで妥協しないといけない。
 先にも述べたように、小学算数と国語の副教材は、どちらも級方式である。級方式を、あれほど否定している私ではあるが、算数も国語も、これらの副教材は、そんな私が「級方式である」という部分を妥協してでも、「使いたい理由」がある教材なのだ。

 算数の副教材は、言っちゃっていいのか、ずばりその名を言うと、「頭の準備運動」という教材。授業の最初の10分〜20分ほどで使用する小冊子。余談だが、この教材、「あたまのじゅんびうんどう」という名前は長いので、プリゼミでは「アタマ」と呼ぶだけで通用している。たとえば、私が「みんな、アタマ出して〜」と言えば、みんな、この教材を出してくれる。お察しの通り、こう言うと、「ハイッ」と言いながら、嬉しそうに、自分の頭頂部をこちらに向けてくる子が、必ず数名いる。さすが京都の塾。(生徒がツッコミを期待してボケるのは、関西圏ならでは。)
 話がそれた。閑話休題、この「頭の準備運動」は、学校で習う算数の勉強とは違うもので、ものの大きさを素早くとらえる練習や、関連づける能力を養う問題、図形を頭の中で動かすトレーニング、立体の見えない部分を想像して考える訓練、といった感じのもので、これは算数の底力にはかかせない要素であり、日々の積み重ねとして、毎回これを使用することを、私はとても大事に感じており、また、楽しく取り組めるので生徒にも大人気、頭のエンジン始動にも一役買う、、、もうもう、本当に褒めちぎっておりますが、これは絶対にハズせない、というくらいの教材であります。ところが、これが残念なことに、私の否定する級方式!
オーマイガッ。
つづく。


2007
4月 「級方式を克服」

上のつづき。
 「頭の準備運動」は級方式だが、それを妥協してでも、使う価値がある、いや、使う必要があると思う、素晴らしい教材だ。ああ、それにしても、級がじゃまだなあ。
 ただ、プリゼミでは、これを授業の最初に全員が一斉使用し、1回の授業で進めるページ数というのを決めている。つまり、全員の進むペースを同じにしている。全員が、毎回、固定されたページ数ずつ進めるので、「先に進みたくて、躍起になる」という問題は避けられる。
 だが、問題なのは、生徒たちが「おまえ何級?」「わたし○級やで!」と、ランクをつけてしまうこと。たしかに、級があがるほど、内容も難易度があがってくるが、私は、それで士気(集団の意気込み)を高めたいわけでも、生徒をランクづけしたいわけでもない。
 級を上げていくことをむやみに促進したくはないし、また、級によって生徒を刺激したいとも思わないし、そもそも、そういう方向の教材ではなく、あくまで生徒のペースに合わせ、着実に取り組ませるほうが、この教材の使い方として正解だと思っている。
  もちろん、それは、「どの子にどの級を渡すかは、テキトー」ってことではない。4ヶ月で1冊を終えるペースなのだが、1冊を終了した時、子どもによっては、次に渡す級を飛び級させたり、または、級を下げたりする。その子に合った級というのがあり、ようすを見て、子どもごとにその子にふさわしい級を決めている。生徒の能力やペースに合わせるという面では、どの子に何級を渡すかは、重要である。しかし、その把握は、私の心の中でおさめておきたく、子ども自身に意識させたくない、こんなことで無駄な刺激を与えたくないと思っている。つまり、どの子に何級を持たせているかは私のみが知っていて、生徒本人には判らないようにしたい、ということである。この教材へは、生徒自身には、級を気にすることなく、楽しく、のびのびと取り組んでもらいたいのだ。
 さて、私は、この問題をどのように解決したか。それが、副教材カスタマイズ。その方法を、次回の日記で・・・。


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