過去のちょいから (`▽´) ショート日記


もくじ 最新の日記


 <2007秋> 9・10・11月
2007
9月 「日本地図ジグソーパズルは、オススメ!」

 授業が始まるまでの待ち時間を、生徒が有意義に過ごせるようにと、プリゼミにはちょっとしたパズルなどを置いている。その中のひとつ、「日本地図のジグソーパズル」は、かなりのロングセラー。設置した当時から現在までずっと、いついつまでも、人気が続いているグッズである。小学生も中学生も、パズルを完成させては、「もっかい、やろっと!」と言ってバラバラにし、あきずに何度もくり返し遊ぶ子が多い。
 天然木パズルも何種類か用意しているが、その中では「しきつめ」系の天然木パズルが、子どもは何度もくり返し遊びたがる。人間は本能的に、「形をぴたっと嵌(は)める」という作業が好きなのかもしれない。嵌まった時のスッキリ感が、やみつきになるのだろう。

 さて、パズルというものは、それ自体、能力開発に大いに貢献し、「数理」の色が濃いものであるが、この「日本地図ジグソー」には、他のパズルと違い、文系面でのメリットもある。言わずもがな、それは「都道府県の位置が覚えられる」ということだ。これはスバラシイ!
 プリゼミの生徒がこれで遊ぶ様子を見ていると、本当に楽しそう。誰も「勉強している」とか、「都道府県の位置を覚えている」とかいう意識は当然なく、単に、“夢中になってジグソーパズルで遊んでいる”だけなのだ。それでも、しぜんに県の位置把握が染みこんでゆく。

 ある日、ひとりの子が「いいこと考えた!」と言って、プリゼミの本棚から地図帳を持ち出してきた。「岡山はどこや〜」とか言いながら、地図帳でその位置を探しては、パズルに嵌(は)めてゆく。それを見た他の子も、「ずる〜、カンニングや〜!」と言いながらも、自分たちもマネをするようになり、それからはみんな、地図帳を開いて都道府県を探しながらパズルをするようになった。
 この光景を傍(はた)から見ると、熱心に地図帳を広げて、普通に勉強しているのと変わらない様子なのだが、本人たちは「遊び」だと思って夢中になっているところが、この「日本地図パズル」のすごい効果。

 みんな、「このジグソーパズル、欲しいなあ。」と言います。だいじょうぶ、誰でも手に入れられますよ。実は、プリゼミの、この「日本地図パズル」は、百円ショップで買ったものなのです!!!
 ダイソーで売っています。一家に一枚、いかがでしょうか。百五円で得られる、このすばらしい効果を、ぜひどうぞ。
 お部屋で遊ぶのも良いですが、「お風呂で遊ぶ」というのが、超オススメです。(というより、もともとこれは、お風呂で遊ぶように作られている)。スチロールみたいな素材で、お湯に浮かびます。ぬらしたタイルの壁にくっつくので、湯船につかりながら、パズルを楽しむことができます。実は、教室用とは別に、私用にもうひとつ持っており、私もお風呂で、これで遊んでいます。(大人が挑戦しても、結構おもしろいです。保護者のみなさま、都道府県、カンペキに覚えていらっしゃいますか?)
 ただ、お風呂そうじの時には、ご注意を。私の場合、タイルに貼り付けていたのが落下し、「埼玉県」が排水溝に流れていってしまいました・・・

★子どもたちが、このパズルで遊んでいるようすは、こちらから。
 「頭の良くなる待ち時間」


2007
9月 「プリゼミに、ピラニア?」

 プリゼミには、いろんな電話がかかってくる。「勧誘系」が多い。
その中には、名乗らず、しかも用件も言わずに、いきなり「もしもし、代表者の方いらっしゃいますか?」とか、「もしもし、社長様をお願いします。」と、だしぬけに切り出してくるような電話が時々ある。どこの誰なんだ。しかも、「社長」って何だ。うちにはそんなのおらぬ。うちは会社ではない。
 私が「どちらさまですか。」とか「どういうご用件ですか。」と尋ねても、たいがいこの質問を無視されて、「代表者の方をお願いします。」「社長様に替わってください。」と、ぶしつけにくり返される。授業中なら、「今、手が放せませんので。」とシャットアウトするが、授業時間外では、仕方なく「私ですが。」と言って用件を聞く。すると、こういうのはたいがい、ただの「勧誘」なのだ。それも、「代表者と直談判(じかだんぱん)しなきゃいけないなんて、どれほど重要な用件なんだ」とイヤミを言いたくなるほど、つまらない内容だったりする。
 「資産運用はいかが」だとか、「融資しますよ」だとかは日常茶飯事。時には、「社員のモチベーションも、これでアップしますよ!」と、磁気ブレスレットの一括購入をすすめてくる。また、時には「おたくのオフィスには、姿見用の鏡を設置しておられますかね。」と聞いてきて、“身だしなみの重要性”をトクトクと語り、鏡の設置をすすめてくる。
 プリゼミには、全く必要ない物ばかり。また、「社長」だとか「社員」だとか「オフィス」だとか言うけれど、プリゼミを塾だとわからずにかけてくるのも、失礼だな〜。

 さて、つい最近、授業中のプリゼミにかかってきた電話。私が「はい、プリズム・ゼミナールです。」と出ると、電話の相手が、唐突に、こう言った。
「おたくは、観賞用のピラニアや、大きい水槽は置いておられますかね。」

…ピ、ピラニア?!…あまりにも唐突すぎて、私は、しばし絶句した。
 またもや、「名乗らない系」の業者か。しかし、奇抜で新しいパターンだな。“ピラニア”だとは、なんとまた、意表を突いた出方なんだ。
 …観賞魚のセットを購入させようという魂胆だろうか。「巨大水槽と珍(めずら)しい熱帯魚で、玄関を飾れ」と、すすめてくる気だな。さては、うちを、おしゃれなオフィスだと思っているのか。うちを『塾』と知らずに、かけてきているのだな。
 そう思った私は、澄まして「どちらにかけておられるのですか?」と言ってみた。すると、相手は…
「あれ?熱帯魚のお店じゃなかったですか?すみません!間違えました!」

…な〜んだ。ただの間違い電話じゃないか。

 それにしても、なぜ、ピラニアなんだろう?


2007
9月 「車をギリギリにしか避(よ)けない人たち」

 プリゼミの前の道路は、車の交通量が少ない道である。しかし、時々であれ、車が通ることは通るので、生徒の行き帰り時は、出来る範囲で見守るようにしている(生徒のマナーを見届ける意図も含んでいるが)。
 プリゼミを開校する前に、私は他の塾で講師をしていたが、そこは駅前に教室を展開しており、私が担当していた複数の教室も、目の前を車がよく通る所が多かった。そして、登下塾の生徒の、車を避(よ)ける様子が、とてもあまかったので、「もっと下がれ」と注意したものだった。しかし、たいがい子どもたちは「通れるやん」「大丈夫やん」とクチゴタエをしてきた。確かに、車が通れる幅は空けているだろう。だが、ドライバー目線からは、それが「ギリギリ」に見え、コワイのである。なので、「車の中から見る距離感は、あなたたちの見え方とは違うのだ。その程度の距離では、運転手からは、ぶつかりそうに見えるのだ。運転手は、非常にコワイ気持ちになる。あなたたちが良くても、運転手はちっとも良くないのだ。」ということを、どこの教室でも、どの学年でも、いろんな子に説明してきた。毎年そんな子たちが必ずいるので、ずっと、たくさんの子に、教え続けてきた。プリゼミでも、特に中学生でそんな子が出てくるので、彼らにも説明してきた。
 みんな、こちらが「ドライバーからはギリギリに見える」という事実を説明すれば、クチゴタエをすることもなく、素直に注意を守るようになってくれた。

 ・・・これは塾生に限らず、私が車を運転している時に、昔から感じることだが、歩行者で車をギリギリにしか避(よ)けない人は、多いと思う。道路の真ん中にいて、車が来たことに気づいた時、道路の端に避けるのが「ちょっと」すぎて、ドライバーをヒヤヒヤさせる。特に、子どもや学生が多い。(あと、おしゃべり中のおばさんも。)彼らの共通点は、車を運転した経験がない、ということだ。

 車を運転する人ならわかるだろうが、車で、障害物のそばを「すり抜ける」という行為は、とても難しい。車外から見る距離感と、車内から見る距離感とは、違う。運転席から「ぶつかりそう!」と思った距離が、車を降りて見てみると、だいぶ余裕があったりする。特に、運転席とは反対側にある障害物の横をギリギリに通るのは、至難の業だ。
 ギリギリにしか避けない歩行者の空けた道幅は、彼らにすれば「車が通れる」と認識できる距離であり、ちゃんと「よけている」つもりなのだろう。しかし、ドライバーからすれば、それは「ぶつかりそう」と恐怖を感じる距離である。また、実際には通れる距離であるにしろ、何が起こるかわからず、例えば歩行者が「けつまずく」とか「バランスをくずして、フラッとする」などのハプニングが起きる可能性だってある。ギリギリは、やはり危険だ。

 また、子どもでも、中学生以上になってくると、「オーバーリアクション」を好まなくなる、という思春期的な問題もある。「物事に動じないのがクール」という価値観が芽生え、オーバーな言動を見せるのは「ダサい」とか「カッコワルイ」と感じるようになる。なので、彼らは一人の時より、友達どうしで溜(た)まっている時、なおさら「動じない」ように意識する。だから、車が来た時、道を避(よ)けるのでも、集団でいる時の彼らは、「あえて」少ししか道を空けないのだ。 「歩行者の過信」は、非常に危険だ。歩行者と同じ感覚を、運転手も持っている、という思い込み。こちらから見えているのと同じように、運転手からも自分が見えている、という思い込み。

 大人が子どもに教えていかなければならないと思う。単に「車が来たよ!」「もっと下がりなさい!」だけではなく、運転手からは見え方が違う、だから、充分な距離をとって避けなさい、事故につながるかもしれない、などということを、ちゃんと説明しなければならないと思う。
 また、出来れば実際に子どもを車に助手席に乗せ、車の中からは、どんな風に見えるのか、助手席から見て運転席側の障害物との距離はどれくらいに感じるのか、などなど、具体的に教えることも必要だろう。
 距離感だけではなく、夜道で黒い服を着ている人は、運転手にとって本当に見づらいこと、雨が降っていれば、なおさら見えにくくなること、車からは見えない範囲(死角)があること、など、子どもに助手席から見させて、理解させておくべきだろう。

 運転席に座った時の感覚は、歩行者の感覚とは全く異なるという事実。それを理解すれば、車はもっと怖いものだと知ることが出来るだろう。子どもの命を守るためにも、歩行者と運転手の感覚のズレを具体的に教え、子ども自身に交通安全への意識を高めさせる努力をするのも、親の役目だろう。
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2007
10月 「歩行者を避(よ)けない生徒たち」

前回の話と、少し関連した話。

 生徒たちは、車だけでなく、他の歩行者をも、ちゃんと避(よ)けなかったりする。
 さて、こないだも、こんなことがあった。
・・・中学生の授業終了後、プリゼミの自転車置き場から、生徒たちが、しゃべりながら自転車を出していた。昼間は人通りの多い塾前の道も、この時間になると、少ない。なので、たいがいの中学生は、自転車を道路に出したあと、さっさと乗って帰らず、その道で立ち話をする。みんな自転車を持ったままなので、塾前の道に、少し屯(たむろ)した格好となる。授業も終わり、友達と楽しくおしゃべりしたい気持ちもわかるが、時間が時間だけに、「早く帰れ」と、塾の前から出発させるのに苦労する学年もある。そして、この日の生徒たちも、自転車を片手に、道に広がりながらしゃべっていた。
 向こうから、ウォーキングらしきご夫婦が歩いてきた。生徒たちは、ご夫婦に気づき、少し避(よ)けるような反応を示した。しかし、それは「こころもち程度」で、動いたか動いていないかわからんような、ほんの少し自転車をずらしたっぽい動作をしただけ。自転車を前に動かすことが簡単に出来る状態だったにも関わらず、彼らはほとんど動かなかったのだ。そして、逆にご夫婦が塾生を避けて歩かれた形となった。それでも全く気にもせず、しゃべり続けている彼らに、私は、「そやけど、あんたらは人に道を避(よ)けさせるんやなあ。」と、さらっと一言だけ言った。彼らには、自分たちが楽しくしゃべっているところへ、私が放ったセリフは突然だったようで、一瞬「へ?」と反応したが、すぐに悟ったようだった。
 確かに、生徒たちは道幅にすっぽり広がっていたわけではない。だから彼らは、「道の半分はあいているんだから、通れるやん」という考え方をし、自分たちがジャマになっているとは考えなかったようである。だが、実際はご夫婦の進行の妨げになっており、事実、ご夫婦は彼らをよけなければならなかったのである。占領していたのは道幅の半分だけだったとはいえ、ジャマはジャマなのだ。自分たちの井戸端会議のために、他人に自分たちを避けて通らせ、その人たちに会釈も何もなく、平気でしゃべり続けるとは、なんて偉そうな行為なのか。今回は、そのことを生徒に認識させる、いい機会になったと思う。私がかけた一言で、一瞬は「へ?」という顔をした彼らだったが、すぐに「はっ」とした表情をした。そして、気まずそうな顔をしながら帰って行った。

 今の子どもや学生に多い、道をあいまいにしか避(よ)けない、という行為。車に対しても、他の歩行者に対しても、「通れるから、これでええやろ」と思ってしまう、身勝手な解釈。
 この子たちに、そんな『無関心で冷めた心』ではなく、「相手の立場や気持ちを考え、道を大きく空けよう」という、『譲り合う心』を、育ててあげなくちゃなあ、と思う。そして、その心が、結局は自分を守ることに返ってくるのだ、ということも、教えてあげられたら、と思う。


2007
10月 「赤福」

 雪印やミート・ホープ、不二家、白い恋人、などなど、食品偽装の発覚が相次ぐ今日このごろだが、赤福の不祥事発覚は、あまりにもショッキング。赤福は、私の愛してやまない大好物のひとつだったのに・・・うぇっ、うぇっ(号泣)。
 どうして、こういうことが起こるのだろうか。もちろん、単純な話につきつめていくと、最終的には「生産者が利益を優先したから」ということになるのだろうが、果たして、原因は、生産者側ばかりにあるのだろうか。被害者である私たち消費者側は、実は、加害者でもあるんじゃないだろうか。
 食品偽装だけでなく、犯罪や事件、いじめ、などなど、様々な社会問題が起こった時、その責任は、直接的な関係者など、身近な範囲内での人間ばかりに問われる。しかし、そういう問題が起こるには、必ず社会的な「背景」があるのだ。例えば、いじめの問題だと、いつも責められるのは、いじめた生徒や保護者、先生、学校ばかりだ。しかし、いじめの本当の原因は、世の中にあるのではないか。利益優先の世の中。売れるために、悪影響を及ぼすであろう物も平気で社会に浸透させていく世の中。特に、若者の価値観をゆがませるようなメディアの戦略。学園を題材とした近頃のドラマひとつをとっても、若者の価値観を大きく左右していると思う。校則違反っぽい髪型が正当化された主人公、乱れた制服の着方をした「まじめな」ヒロイン。常識に反した生徒像を「イケてる」風に作り立てた、これらのドラマ。
 心の教育をほどこすことより、「ウケ」を狙い、モラルがなく、外観を重視するような価値観を育ててしまう、今の社会。

 さて、食品偽装の話に戻る。これも、そんな社会が生んだ「騒動」だと思う。もちろん、一番悪いのは、当の生産者たちだ。でも、ワガママな消費者も、大いに影響しているのではないか。
 食べ物が売れ残るというのは、本当にもったいない話。みんな、それをわかっているはず。なのに、買い物する時には、「なるべく新しい物」を欲しがるでしょう?期限がギリギリな物は、割り引きにならないと、選ばないでしょう?
 実は私も、食べ物を買うときには、製造年月日の新しい物を何気なく選んでいた。牛乳など、手前にある古い物ではなく、後ろの方に手を伸ばし、陳列されている中で一番新しい日付の物を、奥から取っていた。
…私たち消費者がこんなことをするから、いけないのだろう。「新しくて、きれいな物しか売れない」という世の中を作っているのは、消費者だ。
つづく。


2007
10月 「中国製の割りばし」

上のつづき。
 日本の「竹製の割りばし」の95パーセントは、中国から輸入されているという。そして、中国は、その割りばしを製造する最終過程で、信じ難いことをしている。何かというと、劇薬で漂白するのだ。これは、テレビのドキュメント番組を見て知ったことなのだが、取材を受けている割りばし製造業者の中国人は、「日本人は、白くないと買ってくれないから。」とコメントしていた。しかも、日本人が安いものを要求するから、コストを下げるため、キツイ薬、つまり劇薬を使うらしい。そして、劇薬は洗い流されず、そのままなのだそうだ。
 口に入れる割りばしなのに劇薬を洗い流していないなんて、中国はめちゃくちゃ過ぎる。もちろん、これについては、弁解の余地はない。ただ、そもそも漂白するという行為自体については、それは無意味なことだと思う。しかし、「白くなきゃ、日本人は買わない」というバカげた事実があるばかりに、中国は、漂白せざるを得ない。その部分については、やはり日本側にも、問題があるのだ。むしろ、この「日本の消費者の、度が過ぎた外観重視の姿勢」が、諸悪の根源だったりして。
 スーパーなどで、みかんやりんごに「ワックス」が塗られて売っているのも、異常だと思う。しかし、塗っていないものより、塗られてツヤツヤしているほうが売れるという事実があるから、塗られるのだ。

 現代人は、何においても、物事の判断基準や、重視すべきところが、どこかずれている。見た目、きれいさ、新しさ、ブランド。そういった表面的な要素ばかりを重視しがちで、その基準に満たない物は排除したがる。そんな私たちの価値観が、食品偽装や、いじめの問題を生み出しているのだろう。また、みせかけの成績アップや、その場しのぎの点数アップという、そんな嘘っぱちな教育をほどこしてまで上をねらうという教育がしきりに施されるのも、その「ずれた価値観」のせいだろう。
 食品偽装問題、中国の割りばしや農薬まみれの野菜の問題などは、元をたどれば、私たち消費者が行き過ぎる要求をしたために、発生したことだと思う。つまりは、私たちは、「自分で自分たちの首を絞めている」のだろう。
 先日、私は豆乳を買うとき、いつものクセで無意識に新しい日付のものを探していた。でも、はたと気づいて、古いものを選び直した。みんなが、「売れ残るともったいない」という意識で古い日付の物から買うように心がけるだけでも、だいぶ違ってくるんじゃないかな。食品業界に大きな変化をもたらすのでは。そして結局は、みんなのこういった意識が好循環を生み、信用できる食品が消費者自身の元へ返ってくるのだと思う。「自分で自分たちの首をほどく」っていうのかな?

 何事も、「自分だけ良ければいい」というワガママな気持ちではなく、社会全体で協力し合う気持ちを持てば、今のすさんだ事件なども起こりにくくなって、健全な世の中へと変わっていけるんじゃないかな。こういった世の中の状況は、教育にも大きく影響してくる。今の日本は、モラルに欠けた資本主義って感じじゃないかな。物事の本質や中身の大切さが伝わりにくい、そんな社会で育つ子どもたちは、将来、どんな大人になるのだろう。そして、大人になった彼らは、どんな社会を作るのか。
 私たち大人は、子どもに何を求めるべきだろう。きっと、それは私たちに返ってきます。求めるものを間違えると、彼らの作る「大変な将来、大変な世の中、大変な私たちの老後」が待ち受けているかも。
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2007
11月 「浅田舞ちゃんと真央ちゃん」

 今月は毎週、フィギュアスケートのグランプリシリーズが開催されていますね。ところで、浅田舞選手と真央選手の姉妹、インタビューを見るたび、「このふたり、しゃべり方がそっくり。」と思われる方は多いだろう。声のトーンや抑揚、発音の仕方、しゃべる時のしぐさが瓜二つ。そんな彼女たちを見ていて、ふと、「今度の日記は、兄弟姉妹がそっくりだという話を書こう」と思った。なので、今回の日記は、こんなタイトルをつけながら、実は舞ちゃんや真央ちゃんの話でも、フィギュアの話でも、何でもなかったりするのだ。
 ……余談だが、私は真央ちゃんに似ていると言われたことがある。
 (えーっ( ̄◇ ̄;)!! という声が聞こえそう。)

 では、本題に。プリゼミには、兄弟姉妹で通(かよ)ってくださる場合が多い。ありがとうございます。
 さて、私が生徒宅へ電話をかけたとき、たまに生徒本人が出てくる。しかし、声を聞いただけではほとんどの場合、兄弟のどちらが出てきたのか区別がつかない。どこのご家庭にかけても、同性の兄弟姉妹ではもちろんのこと、異性の兄弟姉妹(「姉と弟」など)でも、どっちが電話口に出てきたのか、本当にわからないものだ。声、イントネーション、発声の仕方、しゃべるリズム……、ほとんど同じだ。
 授業でも、兄弟姉妹ではよく似ているなあと感じることが多々ある。口ぐせも同じだし、ミスをした時に出す「あ゛〜!」という叫び方や、言葉の間に挟(はさ)む息のつき方など、細部まで本当によく似ている。しゃべり方の他にも、似ている部分がある。うなずく時の頭の動かし方や、振り向く時の首の角度、イスの背にもたれる動作などの、ちょっとした仕草がそっくりだ。
 ところが、考え方、性格、趣味やセンス、好み、価値観などはどうだろう。確かに似ていることもあるが、兄弟姉妹によっては、これは似ていなかったり、正反対だったりするパターンもある。

 兄弟姉妹で似る理由は、同じ親に育てられたからである。
 しかし、考え方や性格、趣味、好み、センス、価値観は似ていないことがあるのは、どうしてか。一方、しゃべり方と仕草は、必ずと言っていいほどそっくりなのは、どうしてか。
 ……両者には、どういう違いがあると思われますか?
つづく。


2007
11月 「根本的にはそっくり」

上のつづき。
 しゃべり方や仕草というものは、生まれた赤ちゃんの時から、親をみて覚えていくものであり、ほぼ「親からの影響100%」という状態になる。それに対し、考え方や価値観などは、成長の過程で、親以外の人からも影響されながら身につけてゆく。
 考え方や性格、趣味、好み、センス、価値観は、親の影響というより、育つ環境が大きく作用し、『兄弟姉妹なのに性格は正反対』というパターンが生じる。「第一子として生まれてきた上の子」と、「兄や姉がいる状況で生まれてきた下の子」とでは、すでにその時点で環境が異なり、やはり、何か違うんだろうなあ、と思う。親の接し方も、初めての子と、2番目の子とでは、大なり小なり、違うと思う。ちょっとした差だったとしても、それは兄弟間の大きな性格の違いにつながったりするんじゃないかな。だけれど、言葉だけは、上の子と下の子で親が発声法を変えるとかはないから、どんなに性格の違う兄弟姉妹でも、しゃべり方はそっくりなのだろう。 電話口に出てきた生徒が兄弟姉妹のどちらかわからないことは毎度だが、たまに、保護者か生徒かもわからないことがあったりして、保護者が出てこられたのに、生徒と思って話しかけてしまい、恥ずかしい思いをしたことも何度かある。生まれた赤ちゃんは、親の声を聞きながら発声(のどの使い方)や発音(舌やくちびるの使い方)、声色、イントネーション、リズム、などをまねていくのだから、親子兄弟姉妹でそっくりになるのだ。
 つまり、しゃべり方や仕草は、早くに完成されて、なかなか変わるものではないが、考え方や価値観は、成長にともなって変わっていったりする。

 ところで、しかしながら、性格が正反対に見える兄弟でも、彼らの思考回路の元をたどると、根本的には同じかな、と感じる時もある。
 たとえば、以前、こんな兄弟姉妹がいた。ひとりは、いつもどんどん発言する子だが、もうひとりの子は、いつも少し冷めている感じ、という兄弟姉妹だ。ふたりは正反対のように見えるが、それぞれの要因を探ると、共通の問題点が出てくる。それは、ふたりとも「じっくり考えない・がまん強さがない」というところだった。どんどん発言する子のほうは、人の話をちゃんと聞いていなくて、考えずに思いつくまま一方的に発言し、また、すぐに飽きてしまうところがあった。もう片方の子も、すぐに「わからない」とあきらめ、だまりながら答えを待とうとしたり、考えることを拒んで「もういい」とか「知らん」とすぐに言ってしまう子だった。お母さまが、「全く正反対の2人だ。」とおっしゃった時、私が「でも、よく似ていますよ。」と答えると、「ええ、本当ですか?似ていますか?」と不思議がられたものだった。
 この兄弟姉妹は、今ではだいぶ変わったので、やはり性格とは、成長過程で変化するものだなあ、と感じる。今では、ふたりとも「じっくり考える」という姿勢で勉強に取り組んでくれるし、何度でも考え直したり、くり返すことを拒まず、がんばる根性もついたなあ、と思う。
 ちなみに、この子たちの家に電話をした時、どっちが出てきたかわからないのは今も同じで、それは変わらない。相変わらず「○○?(←生徒の名前)」「ううん。」「□□?」「そう。」と、たいてい一回はハズしてしまう。
つづく。


2007
11月 「血液型による性格分類」

上のつづき。
 他の兄弟姉妹の例。片方の子は、思い立ったらすぐ行動に移すが、いつも落ち着きがなく、何事も中途半端になりがちだ。もう片方の子は、じーっと考え込み、なかなか行動を起こさない。正反対に見えるこのふたりの共通点は、「好奇心旺盛・でも整理がつけられない」というところ。先の子は人見知りしない子なので、とても積極的に行動に移す反面、せっかちなので、いつも伝えたい気持ちばかりが先走り、うまく表せないまま中途半端で終わってしまう。後の子は、少し人見知りする子なので、興味や疑問がむくむくわいても、人にどんどんきくことができない。いもづる式に出てくるひらめきや疑問に、どうしてよいか困っても、それをなかなか聞けないので、ひとり凝り固まってしまう。ふたりとも、いろんなことに常に興味があると同時に、次々アイデアがひらめいて整理がつかない、という点では同じなのだが、人見知りするかしないかで、それを表(おもて)に出せるのと出せないのと、という差が生まれ、一見、正反対のふたりに見えてしまう。でも、いつも好奇心いっぱいで、立体なんぞを作って見せる私の一挙手一投足を、キラキラした目で、身を乗り出しながら見つめる眼差しは、ふたりそっくりだ。
 性格などは、成長過程や、環境、出会う人々の影響で、どんどん変わっていくものだけれど、根底に流れるものは同じかな、と思う。そして、その土台にあるものは、幼児教育の段階で培われるのかな、と思う。それは、しゃべり方と同じで、完成されてしまい、一生変わらないのかな、と思う。

 ところで、「血液型による性格の分類」というものがある。「A型は几帳面で、B型は細かいことにこだわらなくて、、、うんぬんかんぬん」というアレである。いろいろ見解はあると思うが、私は信じる派である。科学的な根拠から、血液型によって性格が分類されるのは、納得できるからだ。その根拠というものについてだが、それは遺伝子の話になり、このことについては、ひとつの別テーマとしてたくさん書けそうなので、詳しくは、また今度の機会に。とにかく、私は「血液型で性格は分類される」と信じている。だが、だからといって、世の中の人間がきっちり4タイプの性格に分類されるとは思わない。事実、私は人の血液型を当てるのが、ヘタクソだ。
 血液型だけでなく、人間の顔かたちも、遺伝子で決まる。しかし、成長するにつれ、性格によって顔は変わってくると思いませんか。優しい心持ちで過ごしていると、顔つきまで優しくなる。逆に、不満をいっぱい抱えながら過ごしたり、ずるく生きていると、目つきはするどく、コワ〜イ顔の人間になったりする。生まれ持った遺伝子で顔の設計図は決まっていながらも、心持ちで顔は変わってくるのだ。遺伝子は一生変わらないのに。
 それと同じで、血液型も、生まれ持ったものではあるが、そして、それによる4種類の性格分類は、基本的には確かにあるが、それを根底に持ちつつも、それを越えて、人は変わってゆける。つまり、顔も性格も、人は遺伝子を越えて、変わってゆけるのだ。なんだかすごい話になってきましたね。へへ。

 遺伝子を乗り越えるのと同じで、幼児に身に付いたものも、乗り越えてゆけると、私は思う。「三つ子の魂百まで」という言葉があるが、根底の人間形成は、幼児教育で、ほぼ完成してしまう。でも、それを根底に持ちつつも、生きていく中で、環境、出会う人、周囲の影響などによって、人間はどんどん変わってゆける。だから、子どもにレッテルを貼ってはいけないと思う。「この子はこういう性格だから」という具合に、周囲がレッテルを貼ると、子ども自身もそのレッテルに縛られ、変わってゆけなくなる。

★根底の人間形成が完成する幼児教育も、非常に大事だ。
★また、それを乗り越えて変わってゆくのだ、という視線を持つことも、大切だ。

 両方とも、非常に大事。

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