| 過去のちょいから (`▽´) ショート日記 |
| <2006〜7冬> 12・1・2月 |
| 2006 12月 「塾のウラ世界」 ここのタイトルである「ちょいから」というとおり、久々にカラクチの日記。(ここのところ、だんだん遠慮がちになっていたつもり。) 私は、ここプリゼミの講師となる前、他塾で経験を積んできた。いわゆる雇われ講師の身だったわけだが、それが、今では自らが塾を運営する身となっている。そんな転身をきっかけに、雇われ講師だったころには知らなかった「塾の裏舞台」のようなものを、いろいろ見るようになった。「へぇ!」「ほぅ!」「なるほど〜、そういうカラクリなのねぇ。」などなど、驚きや発見がいっぱい。まだまだ私の知らない世界があったんだと、刺激を受けながら、視野が広がっていく日々。有効で良い刺激もありゃ、閉口ものの悪質な刺激もある。 さて、そういった様々な刺激の中のひとつに、「電話」なるものがある。自ら塾を運営するようになって、まず驚いたことは、「塾をしていると、たくさん電話がかかってくる」ということだった。これが、新規生徒の体験授業や入塾希望の問い合わせなら嬉しいのだが、そうではなく、いろんな「業者」からの勧誘なのだ。やれ、コピー機を買えだの、やれ、塾の広告を載せろだの、ホームページを作らせろだの、生徒の登下塾を保護者のケータイに発信するメールセキュリティの機械を導入しろだの、塾の名を入れたボールペンやクリアファイルなどの販促グッズを大量一括購入しろだの、資産運用しろだの、融資するから借りろだの、生徒が殺到するノウハウを伝授するウン万円の講習会に出席しろだの。「能力開発のサプリメントを、あなたの塾生に特別価格で!飲めば記憶力アップ!ぜひどうぞ!」なんてのもある。いかがわし過ぎる。 また、これらのことからわかる通り、だいたいどこも、うちの塾の規模を知らずに、電話帳を見るなどしながら、片っ端からヤミクモにかけているようだ。 ・・・講師の研修旅行は、ぜひうちのホテルへ宿泊を、だなんて、一体うちを、どんなけ大きな塾と思ってんだ? 2006 12月 「詐欺(サギ)電話」 上の話のつづき。時には、うちが塾ということさえ知らず、会社と思ってかけてくるところもある。「社長様はいらっしゃいますか?」だなんて言われることもしばしば。それだけで、うちには無用の相手だとわかり、早々に切らせていただく。 また、詐欺まがいのものもある。わざと難しくてまわりくどい説明をし、一見それらしく思わせながら、こちらの情報を聞き出そうとするもの。 その種では、「電話会社」を名乗ってかけてくるものが、一番多い。「このたび、京都の事業所を対象に、基本料金が安くなる回線工事を一斉にすることになった。」「そこで、そちらの塾でお使いのFAX番号も対象になるから、FAX番号をおっしゃってください。それから、塾の住所と塾長様のお名前もおっしゃってください。」とくる。本当に電話会社なのか、疑わしい。相手が欲しいのは、住所と代表者の名前なのでは? この類の電話は、しょっちゅうかかってくる。こちらが、「今のままで満足しているから。」と断っても、「安くなるのですよ。事業所優先のサービスで、無料なのですよ。」と、しつこい。「番号も住所も名前も言いたくないから。」と言えば、「義務付けられているから、言ってもらわないと困ります。」と食い下がってくる。これは、明らかにおかしい。 これは、一般家庭にもよくあるパターンではないでしょうか。似たような電話、かかってきませんか?正式なところなら、電話で、名前や住所などを聞いてくるはずがありません。こちらの情報を、むやみに電話で伝えてはなりません。いかにもそれらしく、有名企業の名を出したりしながら、うまく聞き出そうとしてきますが、だまされないよう、みなさまもお気をつけください。 こういった電話は、なかなか向こうが折れず、しつこいのですが、今までの私の経験から、相手があきらめてくれる一番効果的なセリフは、 「名前や住所、番号などの個人情報を、電話では言いかねます。」とか「そういった個人情報を、電話で話すことは、うちでは避けていますので。」です。 こう言えば、たいがい相手は言い返せず、「そうですか、わかりました・・・。」と、切ってくれます。 2006 12月 「電話のモラル」 上の話のつづき。こういった電話勧誘の中には、しつこ過ぎるものや、礼儀を欠いたものも、たくさんある。いい加減、こちらも腹が立ってきて、切ってやりたいと思う電話もあるが、子どもを預かっている塾として、あまり無駄なところで、相手の恨みをかうこともしたくない。今のご時世、いろんな人間がいるからだ。 ところで、いちばん困るのは、授業中にこういった電話がかかってくることだ。授業中は留守電にすればいいじゃないか、と思われる方もいるかもしれないが、保護者から、例えば「うちの子が、まだ帰ってこない」などの緊急連絡が入ってくるかもしれず、私は、これもまた子どもを預かる塾の立場として、授業中の電話は、出るようにしている。そして、業者からの電話だった時は、「今、授業中ですので」と言えば、たいがいその場は切ることが出来るが、たまに、しつこく話し続ける人もいる。その中で、強烈だったのをひとつ。 ある日、授業前に、とある業者から勧誘電話がかかってきた。ご存知の方もいらっしゃると思うが、塾にタイムカードのようなものを設置し、生徒がそれを打つことによって、生徒の登下塾を保護者のケータイに配信するという、セキュリティーのサービスである。その機械とシステムの導入を、すすめてきたのだ。とてもじゃないが、うちのような塾で購入できるような値段ではなく、私は聞く耳が持てない。「うちは結構ですので。」と断った。しかし相手は、「先日、桂駅でアンケートをおこなったが、答えてくださった方の中に、プリズム・ゼミナールに通われる保護者がいらっしゃって、塾にそういうシステムがないから、不安だとお答えでしたよ。」と言う。ほんまかなァと思いつつ、どっちにしろ、再度断った。しかし、昨今の子どもを巻き込んだ事件を例に挙げながら、「これで、このシステムを導入しないなんて、どうかしている。」なんて言い出した。なんて言い草だろう!私が、「もう授業が始まるので。」と言っても切らしてくれない。「あなた、塾として、子どもに何かあった時に責任とれるんですか?」と責めてくる。そして、授業時間が来てしまった。「すみませんが、授業時間ですので、切らせていただきます。」と言うと、「子どもに何かあったら、どうするんですか!え?!何かあってからでは遅いんですよ!」と、わめいてきた。まるで脅迫。この人、ちょっとおかしいな、と思った。なんだか、切るに切れない。うんざりしながら、「うちは、うちなりにちゃんと対策しておりますから。」と言ったら、「それは、どういう対策ですか!」と挑発される。目の前では、子どもたちが、授業を待ちながら私をじっと見つめ、聞き耳をたてている。 ラチがあきそうになかったので、「子どもたちが待っておりますので、カンベンして下さい。失礼します。」と言って、無理矢理切ることにした。受話器から「あなたの対策とやらを言ってくださいよ!本当に何があっても知りませんよ!いいんですか!」とわめき声が聞こえていたが、仕方がないので、「切」ボタンを押した。私は、この無礼極まりない相手の態度と、脅迫めいたセリフに、腹立たしかった。 ちなみに、プリゼミがちゃんと独自の安全対策をしているのは、ハッタリではなく、本当の話。時間通りに生徒が教室に現れないときには、必ず保護者に電話をかけている。また、生徒の帰りが遅い時には、保護者に、「プリゼミに必ず電話をかけてくださるように」とお願いしている。大したことではないように思えるが、では、セキュリティメールサービスと、どう違うのか?道理は全く同じである。相手に、そう言ってやりたかったが、授業が始まっていたのと、相手の挑発にのっているとキリがないのとで、切らせていただいたのだが。「生徒のことを思う」が売りのはずの、セキュリティーを提供する業者が、授業妨害をして生徒に迷惑をかけるだなんて、なんてこったい。 電話ごしにわめく男の声は、電話から漏(も)れて生徒の耳にも届いていた。恥ずかしいよね。大人なら、もっと大人としてのモラルをもって、子どもの前で恥ずかしくない大人でいてもらいたいと思う。 |
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| 2007 1月 「プリゼミの教材の選び方」 世の中には、多種多様な教材が出回っている。塾にとって、どの教材を採択するかで、その塾のカラーが決まったりする。その塾がどういった目的をもっているか、どのような方針で授業を進めようとしているのか。それによって、選ぶ教材というのは変わってくる。また、同じ教材でも使い方によって、有益にもなり、毒にもなる。そう、無益どころか、間違った使い方をすると、毒になってしまうから、こわい。雰囲気だけで安易に選ぶと失敗し、悪影響を及ぼすことだってあるので、教材選びにおいては、選ぶ側がしっかりした考えを持っていることが必要だと思う。授業の質は、教材次第。また、教材を、生かすも殺すも、講師次第。 プリゼミの教材選びは、もちろん私がしているわけだが、選ぶ基準は、「私に合うもの」である。むろん、生徒に合うことも重要だが、塾の場合、それ以上に大切なのは、先生と教材の相性が合っていることだと思う。ん?優秀な先生なら、どんな教材でも上手に教えられる?いや、そんなことはないと思う。講師のポリシーにそぐわない教材では、その講師の腕も発揮されにくく、生徒の能力を引き出しにくい。講師の方針にぴったりくる教材を探しあてた時こそ、その講師の能力も充分に発揮される。 私にとって「これはいい!」と、まるで宝を探し当てたような気持ちにさせる教材もあれば、「これはダメだ」と思う教材もある。 2007 1月 「私の気に入らない教材」 「私の気に入らない教材」だなんて横柄(おうへい)なタイトルだが、事実、私には使いづらい、という教材がある。 それは、ひとことで言うと、「ていねいすぎる問題集」。なぜだか、わかりますか? いろんなヒントや詳しい解説がついているものは、親切で良さそうに見えるが、反面、それらのヒント等がジャマにもなる。特に、塾での教材としては、なおさら。授業を進めていく上で、これらの小うるさい解説に茶々(ちゃちゃ)を入れられ、逆効果となってしまう。自学自習用とは違い、塾の問題集としては、多少「不親切」なもののほうがいい。 プリゼミの基本方針は「じっくり」。教え込むことではなく、考えさせる姿勢を重視しているプリゼミにとって、その方針にそぐわない問題集というのは、問題集のくせに、詳しい解説が満載のもの。これらは、生徒の考えるチャンスをうばってしまい、非常に使いづらい。ごていねいな「解き方の手順」や「ヒント」は、余計なおせっかいである。 これは余談だが、世の中には「塾向けの教材」といったものがあり、その中には、「どんな先生でも教えられるように」というコンセプトのもと作られたものがある。往往にして、これらは「先生なしでも、生徒自身で勝手にすすめられる」という内容になっており、先生はひたすらマルつけだけしていればいいような作りである。特に算数でこういった教材を使うのは、私は非常に許せない。ひたすら「やり方」なるものを模倣してペーパーをこなしていく訓練は、「意味もわからず、ただ、あてはめて解く」姿勢が身についてしまい、どんどん考えない子を育ててしまう。そんな教材を作るほうも許せないが、わりかし大きな塾で使われるのも事実。講師の能力を問わない教材だから、安易な採択教材として人気がある。そんな教材を採用し、毒になる使い方をしている塾は、最悪である。そこは、教育より利益優先の塾だろう。 2007 1月 「私の気に入っている教材」 上のつづき。今度は逆に、私の気に入っている教材について。 現在のプリゼミで、中学1・2年クラスで採用している数学教材のセレクションは、素晴らしいと自負している。3種類あるのだが、バランスがとれており、また特に、その中のひとつであるメイン教材については、私にとっては「宝を探し当てた」ようなシロモノ(以下、これを「教材M」と呼ぶことにする)。教材Mは本来、副教材や復習用に、フォロー教材として使用されるものなのだが、私はそれを、予習型のメイン教材として使っている。どこの塾も、こんな使い方をしていないだろう、いや、できないだろうと思う。この教材Mを通常授業のメイン教材として使いこなせるのは、私ぐらいだろう、だなんて、自画自賛し過ぎか?とにかく、自分にぴったりの使い方が出来る教材を探したら、これに行き着いたのである。 プリゼミの中学生クラスは、学校の先取り。でも、例えば推理小説やサスペンスを見ている時に、先に「犯人は○○だよ」だなんて誰かに言われたら、興ざめしますよね?それと同じで、授業だって、何もかも先取りし過ぎると、学校での授業がつまらなくなると思う。だから、私は敢えて、「教え残す」こともする。すると、通りいっぺんの教材を使ってでは、それが出来ない。教材にそって授業を進めると、教材にしばられてしまうから。私には、私なりの、オリジナルな授業の進め方がある。 私の授業は、最初の導入や新しい単元の説明は、教材を使わず、ホワイトボードだけを使うやり方なので、「予習型の教材」は、ぶっちゃけ必要ない。いや、私は、説明自体も、あまりしない。「教える」ではなく「考えさせる」がプリゼミの基本理念のため、“説明する”という行為そのものが、私は好きじゃない。なので、ホワイトボードを使いながら、問答を通して、生徒に考えさせるようにもっていきながら、導入する。私が一方的にしゃべるのではなく、生徒にも発言させる。どちらかと言うと、私が発言している時間の総合計より、生徒が発言している時間の総合計のほうが長いだろう。つまり、生徒から引き出す感じなのだが、そんなやり取りを通じながら、発見させ、理解させ、納得させてゆく。私は、どんな教材の解説よりも、私の導入のほうがうまいと思っている。 そして、生徒たちは教材を開かず、ホワイトボードだけの授業をさんざん受けたあと、もう一度ポイントをおさえるために、そこで初めて教材を開くのだが、そういった時、「予習型の教材」よりも、「復習型の教材」の方が、適している。それが、教材Mに、プリゼミが行き着いた理由なのである。 |
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| 2007 2月 「タブーな教材」 級方式は、塾の小学生用教材として、不向きであると思う。私は、無学年方式でよく使われる級方式の教材には、国語にしろ、算数にしろ、賛成できない。 確かに、一冊こなすごとに級があがっていくのは、子どもにとって励みになるだろう。しかし、その「早く上がりたい」という気持ちゆえ、落ち着いて取り組まなくなることが多い。小学生では、よほど目的意識のあるしっかりした子でなければ、早く一冊をこなしたい一心で、ちゃんと問題を読まなくなる。 また、特に算数の場合、子どもに合わせる指導ではなく、級に合わせた指導になってしまうという問題点もある。つまり、級の順番がどの子にも合うわけでなく、子どもによっては与える級の順番を変えるほうが良い場合もあるが、そうなると級の意味はなくなり、むしろかえって「級が下がった」などと無駄に子どもをヘコませ、こうなると、「級」が邪魔なものとなってくる。また、履修範囲が細かく各級に細分化されているため、その子にとって今必要な単元が、今持っている級には載っていなかったりし、そうすると「弱点をおさえる」などの融通がつけにくくなる。かと言って、その子に合わせようとすると、飛び飛びで複数の級を同時に持たせることになり、これまた「級」の必然性がなくなる。だから結局は、実際に級方式の教材を使っている塾では、たいがい基本的には級の順番どおりに進めていくことになり、その級にしばられる格好となることが多い。 つまりのところ、級式は、いかにも「ひとりひとりに合わせている」ように見えるが、いつのまにか、子どもにではなく、「級に合わせている」格好となってくるのである。本当の意味での「子どもに合わせる」ということは、レベルや単元を合わせることだ。しかし、いかにもレベルを合わせているっぽい級方式では、実はレベルが合っていない、という可能性が大いにある。年次教材(1年間に1冊の、学年に対応した教材)のほうが、その子に合わせて、ページを戻ったり進めたり、前にやったページをもう一度開いて思い出させたり確認させたり、関連する他のページも開かせてみたりと、柔軟な対応が出来る。それが、細かく仕切られた級方式では、1冊ごとの範囲がせまいせいで、単元を合わせる融通がつけにくく、実際にそういう教材を使って順番にこなさせている塾では、生徒が本当に今その子にとって必要な級を持たされているのかといえば、疑問である。 また、「級」をつけるということは、それ自体、一種の競争でもある。その証拠に、友だちどうしで「おまえ、何級?」などと、必ずひとの級が気になってくるものだ。「それが意欲につながる」という解釈が一般的かもしれないが、実は、それは「本物の意欲」ではなく、「空回りの意欲」である可能性が高い。勉強においては、競争させていい時と、悪い時があり、その判断を間違えると、「空回りの意欲」のほうを駆り立ててしまう危険性がある。 2007 2月 「空回りの意欲」 上のつづき。 級が低い子にとっては、恥ずかしさから「ごまかしたい」、「逃げたい」という気持ちが生じるもので、そのプレッシャーのせいで、その教科が嫌いになったり、ヤル気が喪失したりと、負の面も大きい。級の進んでいる子は、その優越感から、自分より低い級の子に、「おまえ、まだ○○級かよ。」と言ってみたりする。たいがいの小学生は、日常茶飯的に、こういうことを、しゃーしゃーと言うもんだ。しかし、言われたほうは、激しくプライドを傷つけられる。そして、少しでも遅れをとるのがイヤでたまらなくなり、一個一個やっている場合ではないという方向へばかり意識が走ってゆき、ひとつひとつ理解すべきところであっても、到底じっくりした姿勢では臨めなくなる。わかろうとする姿勢より、「そのために費やす時間を惜しむ」ことのほうに気をとられ、わからないところを「わからないまま」でもいいから、と、子どもたちにとっては、とにかく先へ進むことが最優先になってしまう。このように、級方式は、「本物の意欲」ではなく「空回りの意欲」を促進する。 勉強で大事なことは、「考える・理解する」ということだ。しかし、早く進むことに躍起(やっき)になっている子たちには、それがまどろっこしく感じられ、「数撃ちゃ当たる」という姿勢にどんどん移り変わっていき、考えたがらない姿勢を身に染み付かせていくようになる。「内容はどうでもいいから、級だけあがりたい」という思いで頭がいっぱいの子どもたちは、先生の説明を聞きたがらなくなったり、じっくり考えることを拒むようになる。「意欲があること」と、「先へ進むことに躍起になること」とは、全く違う。 「本物の意欲」とは、つまずいたところや、わからないところを、わかるようにしよう、理解しよう、と努める態度のことである。そのことをしっかり自覚している子なら、級方式の教材も、うまく活用していけるだろう。しかし、そんな子は一握り。大半の子は、目先の級に囚(とら)われ、 「早く進むことに躍起になる→じっくり取り組まない→納得しないまま進みたがる」 という、いつまでたっても、考えたり理解ができないという、悪循環に陥る。 つづく 2007 2月 「ベンキョーなんか、けっとばせ」 ちょっと、級方式のお話は、ひとやすみ。今回は、ちがうお話をしたいと思う。 教材の話がらみということで、国語のテキストの話題を。 プリゼミで採択している小学生の国語のテキスト(以下、「教材P」とする)は、その内容が、なかなか面白い。教材Pは、国語力をつける目的として、なかなか良い作りになっているが、それ以外の面でも、素晴らしいところがある。何かというと、読書の要素が充実している、という点である。いろんな文章が載っているが、そのセレクションが素晴らしい。それ自体、読んでいるだけで知識がつくような、秀逸な文章がたっぷり。例えば、ろうそくの発明の歴史、遺伝子の話、動物の能力、などなど、大人が読んでも「へぇ〜」と唸(うな)るようなものから、人間の葛藤や心情を書き著し、深く考えさせられたり自分を見つめなおしたりさせられるものなど。 時には、私自身も勉強になる文章がある。教材Pの6年生用に、「ベンキョーなんか、けっとばせ」(森毅(もりつよし)著)という論説の、抜粋文が載っている。その中の、この部分。(以下、文章からの抜粋。) 中学生あたりでは、自分にはイヤな性格があると思いこみ、それを他人に見せまいとイイコぶるのに疲れはてていることが、よくある。イヤなところを見せては、他人にきらわれるのではないかと、それがこわくて内に引きこもっていることもある。実際はたいてい、イヤなところを見せるより、イヤなところを見せまいと引きこもっているほうが、よほど他人にきらわれる。 それに、そのイヤなことというのは、自分が思うほどには、他人にいやがられるものではない。かりに、本当に他人にきらわれるとしても、そこをさらけだして、あの人はイヤな人だ、しかし、おもしろい人だ、とまでならなくては、一生イジイジし続けねばならない。そして、なんのイヤミもないと他人に好かれる、というのは、あまりないし、あってもたよりない感じで、イヤなところがあるが気に入った、といった目で見られるようになるほうが、ずっと味のある人柄になる。 だれにも悪口を言われないようにしている人というのは、そのこと自体で、みんなからよく思われない。他人を意識しはじめた中学生のころに、他人の悪口が特別に気になるのは仕方がないにしても、悪口を言われないようにしようという、その態度自身が他人の悪口の材料になりやすい、という事実には早く気づいたほうがよい。 ……すごく、言い当てている言葉だなあ、と思う。めちゃめちゃ共感する。私自身も、自分への教訓になる。 また、この「ベンキョーなんか、けっとばせ」には、さっきとは違う章に、こんな文もある。 ときには、だれかをいじめているという、加害意識のないことも多い。その集団が、いじめを作っている。いじめられるほうにしてみれば、そのほうがつらい。罪の意識なしに悪いことをするほど、困ったことはない。 それでも、やがて、もしもまともに成長すれば、そのときの自分が、こうした状況に強制されて、罪の意識なしに、だれかをいじめていた事実に気がつく。たいてい、そのときには、もう過去をとりもどすことができない。しかも、その自分は、そうした状況のなかで、弱くみじめで、その弱さのゆえに、そんなことをしていたことがわかる。 こうした、みじめな気持ちを持つようには、ならぬほうがよい。いじめられている子もみじめだろうが、あとになって考えてみると、いじめたほうだって、それに劣らず、みじめなものだ。 ( 中略 byプリゼミ ) 中学生の間で、いじめが増えているというのを、悪い子がいるからだとは、ぼくは思わない。いじめっこも、たいていは、普通の子だと思う。いまの中学生の状況が、そうした弱い部分を作っているのだとは思う。 それでも、もしもきみが、よく考えてみて、だれかをいじめているとしたら、すぐにやめたほうがよい。あとでかならず、それはきみにとって、とてもみじめな思いになる。相手にたいしてだけでなく、きみ自身の未来のために、すぐにやめたほうがよい。 そう、大人になって、子どもの時にとっていた行動を振り返り、その愚かさに気づいた時(特に、ずるい行動など)、それは人生の汚点となって一生消えなくなり、ずっと後悔となって残りますよね。 大人になった時、いじめていた自分を恥じ、弱さに負けていた自分を悔やみ、後悔にさいなまれ、そんな自分を正当化してみようと、無意識のうちに自分へのイイワケをしてみたり、そんな自分に気づいて、また余計にみじめになったり。そのことを、子どもたちに伝えることができたら、と思う。それは一生、心の片隅でくすぶり続け、苦しい思いをするのだと。 だから、ぜひこの文章は、みんなに読ませたい。 2007 2月 「わかっていなくても進むことができるメカニズム」 級方式教材のつづき。 さて、この級方式のさらなる問題点は、表面上の級だけが上がり、中身がともなっていないという子を、たくさん作ってしまうことである。 本来ならば、たとえ子どもたちが、躍起になってじっくり考えなくなったとしても、もしそれで、ゆくゆくつまずくようなことがあれば、「やはり理解せねば前にすすめない」と悟るだろう。そして、「ひとつひとつ考えながら、じっくり取り組んでいくほうが、結局は早道なのだ」と、おのずと気づくかもしれない。 しかし、級方式の教材では(全てとはいわないが)、だいたいが「考えなくても進めてしまう」「理解していなくても、解けてしまう」という作りになっている。そのせいで、子どもたちは、「躍起になることの無意味さ」に気づくこともなく、「考える大切さ」を感じることもなく、「当てずっぽう」な解き方に走り続け、先急ぐばかりなのである。 なぜそんなことが起こるのか?「級が上がるのは、力があるからこそじゃないの?理解していないのに級が上がっていくなんて、あり得るの?」と思われるかもしれない。 しかし実際には、往往にして級方式の教材というものには、さっき述べたように、理解しなくても一冊終えて、次の級に進めてしまうという難点がある。なぜそんなことが起こり得るかというと、いったん間違って×(バツ)をもらっても、考えずに数撃ちゃ当たる戦法で答えをとっかえひっかえ書いていけば、そのうち合ってしまうという、「当てもん」みたいな要素があるからだ。それは、これらの教材の傾向として、級方式という性質上、「やり方をまねて類題を解いていく」という作りになっていることが多いせいだ。そもそも、級方式の教材とは、“生徒が自分で進めていけるように”、“どんな先生でも、教えられるように(すなわち、極論すると、先生は解答を片手に○つけしていくだけで進められる、ということ)”というコンセプトのもとで、作られていたりする。 だから、「本当に理解していなくても、式や答えが合ってしまう」という状況が、必然的に発生する。この「考えなくても合ってしまう」という事実も、考えたがらない子どもを作る大きな要因となっているのだ。これは、算数だけだろうと思いがちだが、実は、国語にもいえる。 国語の読解や書き取りですら「わかっていなくても合ってしまう」という現象が起こるのは、想像しにくいことかもしれませんね。ここで詳しく説明すると長くなるので、具体的には述べませんが、でも、もしお子さまがこういうスタイルで国語の指導を受けておられるなら、お子さまをよく見れば(または、お子さまの解いた教材を見れば)、お気づきになれると思います。 2007 2月 「“出来ている”と勘違いする子」 上のつづき (その前にひとつ、ここで断っておきたいのは、私は級方式についていろいろ述べていますが、それは、想像で書いているのではないということです。私の実体験なのです。かつて、私がある塾の講師をしていた頃、その塾がこのテの教材を採択していたのです。また、さらに遡(さかのぼ)り、私が大学生だったころ、別の塾で講師のアルバイトをしていたのですが、そこも級方式だったのです。その他もろもろ、ここで明言できないことも含め、級方式の教材を、何種類か経験してきています。その中には、特例として「良い」と思える教材(具体的にいうと、「頭の準備運動」など)もあり、これについては、後日また触れようとは思いますが、私の経験からは、個別対応用の級方式教材には「良からぬもの」のほうが多いのが事実です。また、その教材を使う塾や先生のあり方にも問題があったりし、そんな現状を、実際に見てきました。今回は、それらの問題点について書いています。) そんな教材に振り回されても、子どもたち自身は、「自分たちが、勉強としてふさわしくない態度で、挑んでしまっている」ということを自覚することはできない。なぜなら、「早く級を進めたい」という思いから、“一生懸命”に類題を“模倣”し、せっせとページを進め、彼らにしてみれば“頑張っている”からだ。つまり、類題を真似ていくことが勉強だと思っているので、というか、そう先生に仕向けられているので、この勉強法が間違っているなんて、思いもよらない。与えられるままに、仕向けられたとおりのことをちゃんと頑張っており、彼らは「いわれたとおり、正しく勉強している」と信じ込んでいる。そのため、かわいそうなことに、彼らは一冊を終えて進級した時、まさか「ごまかし的に、表面上の級が上がっているだけだ」とは知るよしもなく、進級を「本当に自分のレベルが上がったのだ」と思ってしまい、空回りの達成感を味わわされてしまう。「自分はやったのだ!」と思ってしまう。 この子たちが、自分への評価を「自分が理解できているかどうか」でつけようとするわけがない。もちろん、それは子どもが悪いのではない。級方式の教材を使わされていれば、自分への評価を、級の数字と直結させてしまうのは、当たり前の話なのだから。 2007 2月 「先生は“○つけマシーン”?!」 上のつづき。 そして、それが当の子どもだけでなく、塾講師の中にもそんな人(進むことを、どんどん奨励する人)がいる。ひたすら「書かれた答え」だけを見て○ツケをする。その答えが、理解をともなって書かれた答えであろうと、当てずっぽで書かれた答えであろうと、合っていれば、この先生たちからすれば、同じ○なのである。それで指導をしているつもりになっている先生のことを、きつい言い方だが、世間は「○つけマシーン」と呼ぶ。 そして、間違ったところは“即やり直し”をさせるが、子どもは、「かけ算があかんのなら、割り算じゃ」的発想で、答えが“当たる”までとっかえひっかえ書いては、先生のところに持っていく。計算練習なら、時として、これが有効なやり方になると、いえることも、なくはない(←あいまい表現?精一杯の譲歩だからです。)が、算数の文章題や図形問題、数量関係、国語の読解までこの調子なのが、いちばん非難すべきところ。 ともかく、子どもたちは、この“間違いなおし作業”で、あれこれ書いてみては先生のところへ持っていき、○がもらえるまでそれをくり返す。それを、「根気よく頑張っている」とか、「自立心が育てられている」と勘違いしてはならない。子どもたちをよく見てください。いろいろ答えをテキトーにどんどん書いている風じゃありませんか?前ページの類題を見て、模倣(まね)しているだけじゃありませんか?そこに、知恵は働いていると思いますか? ところで、これらの先生はときどき、答えを間違えた子どもにアドバイスすることもある。だが、“○つけマシーン先生”に多いのは、「子どもに考えさせる」とか「子どもに気づかせる」という方向での指導ではなく、「答えや解き方を教えてしまっている」というパターンである。 ともかく子どもたちは、当てずっぽうであれ何であれ、最終的に○をもらえて次に進んでいけば満足し、「勉強した」気になってしまう。また、子どもが進んでいけば、“○つけマシーン先生”も、「指導した」気になってしまう。そして、両者とも、一冊終えれば「クリアした」気持ちになり、保護者も、級が上がれば「かしこくなった」と思い込んでしまう。 2007 2月 「“級”が進むほど、力が落ちてゆく?!」 上のつづき そんなメカニズムから、「級は上でも、力のない子」というのがたくさん発生する。しかし当人たちは、そんな事実に気づくわけもなく、この「級のひとり歩き現象」は、どんどん泥沼へとはまっていく。 ろくすっぽ問題も読まず、“要領よく”「パターン」でさっさと答えを書いていってしまう子は、どんどん級が上がっていく。一方、ちゃんと問題を読もうという子は、なかなか進まない。勉強の在り方として、どちらの子がふさわしいかといえば、後者の「なかなか進まなくとも、ゆっくり考える」子に決まっている。前者の「要領のよい」子は、わからずに答を書いても、○をもらえ、どんどんそれで進もうとし、それゆえ考える頭は一向に育たない。後者の「なかなか進まない」子は、一見「要領が悪そう」に見えるが、納得しながら進めるので、着実に本物の力がついてゆく。両者は、日々を積み重ねるごとに、大きく差がついてゆく。 「級が上の子ほど優秀」に見えるのは表面的な話であり、こんなふうに、本当のところは、「級の数字」と「本人の実力」は比例していないものなのだ。むしろ、「級が上の子」ほど「考える力が育っていない」という具合に、反比例している場合が非常に多い。 級方式の最大の問題点とは、このような「級ばかりが進んでいても、実力はついていない子」や、それどころか、「級が進むに従って実力が後退している子」さえ生んでしまうところである。わかりやすく表現を変えれば、「級が進むほど、考える力が失われていく」という、これこそ「毒になる教育」という例そのものだ。そして、級ばかり進み、全く力がともなっていない子が、自分を優秀だと信じ、「おれ、もう○○級やで。」とか、「おまえ、まだ○○級かよ」だなんて、鼻高々になっている姿を見ると、私は、こんな教材を採択し続ける塾が情けないやら、こんな教材に怒りを感じるやら。 こういうことを、重ねれば重ね続けるほど、級と実質的な能力との差がどんどん開き、そしていつかは、ドンヅマル日が来て、にっちもさっちもいかなくなる(たいがいの場合、「学校の勉強はちっともわからない」とか、「計算問題以外(文章題、数量関係、図形など)が甚(はなは)だしく出来ない」という形で現れる)。しかし、その時にはもう、非常に深刻な状態になっており、ちょっと遅いかもしれない。 2007 2月 「級方式が、もてはやされるのは」 ☆まとめ☆ 級方式には、さまざまな問題点があるのに、ほとんど保護者には認識されず、それどころか、比較的「良い」と思われてしまいがち。それは、級方式の、このような点によります。 ●いかにもひとりひとりに合わせているように見える。 ●級を進めようと躍起になる子どもの姿は、はたから見ればいかにも意欲的に見える。 ●内容がどうであれ、級が進めばいかにも力がついていっているように見える。 ●パターンの模倣を訓練するやり方はいかにも子どもの自立心を育てているように見える。 ●それらのことから、保護者を簡単に満足させてしまうことができる。 →類題をまねるだけで、子ども自身はとても勉強した気分になってしまいますが、親までも、我が子がたくさんのページ数をこなす事実だけで、満足してしまいがちなのです。 ★とにかく、級方式とは、子どもにも親にも、とても勉強した気にさせてしまうものなのです。 ●それでいて、ただ○をつけるだけでも授業が成り立ってしまうことから講師の能力をあまり問わずに済む。 つまり、 “「先生の教える能力」に自信のない塾”にとっては、都合のいい教材なのです。 ★保護者の方は、「先生の教える能力」を気にしたことがありますか?実は、塾選びで大事なのは、コースよりも、システムよりも、「先生」です。先生の能力を知らないまま塾に入れるのは危険です。塾に通わせたつもりが、「考えられない子になってしまった」など、かえって悪い事態に陥ることは、しばしば。塾に通わせるだけで安心してしまうのは、危険です。悪影響を及ぼす塾や先生もいることを、心にお留めください。無料体験時には、ぜひ同伴して、先生の教える現場を見ましょう。 |