過去のちょいから (`▽´) ショート日記


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 <2006夏> 6・7・8月
2006
6月 「武勇伝・その5」

♪Eちゃん答えを言ったげて♪おぅ聞きたいかうちの珍解答♪そのすごい珍解答をゆったげて♪うちの伝説ベストテン!♪レッツゴー。
中学クラスより、国語(俳句)の授業にて。生徒Eちゃんの場合。
問題≫次の俳句から、それぞれ季語を抜き出し、季節を答えなさい。
Eちゃんの解答≫「かぶとむし」の季語⇒春、「梅」の季語⇒夏
答えは、「かぶとむし」は夏、「梅」は春です。ちなみに、私が梅は夏ちゃうよと言うと、Eちゃん曰く「じゃあ、秋?」とのこと。「梅ぇは〜咲い〜た〜か〜、サクぅラぁは〜まだかいな〜♪」と歌ってあげると、「じゃあ、冬?」(見事なはずしっぷり&ヒントが逆効果になっている例)。

 今の子は、いろんなものの“旬”がわからない。いや、子どもだけじゃなく、今の大人も、案外知らない人が多いと思う。恥ずかしながら私だって、実を言うと、旬を知らないものがたくさんある。テレビやゲームが遊び道具の主流で、自然と触れ合う機会がめったになく、食べ物なども、たいていの種類を1年中いつでも手に入れることが可能な時代、野菜や魚、植物、虫、などから季節を感じることは、今の人々には難しいと思う。
 だからと言って、いくらなんでも、かぶとむしや梅の季節がわからないなんて、うそでしょ?!と思われるかもしれません。しかし、これは特別な話ではないのです。Eちゃんに限ったことではなく、案外、最近はこんな子が多いのです。去年も、おととしも、こちらがびっくりするほどの子が、たくさんいました。
 今までで最強なのは、「せみ」の季節がわからない子がいたことです。自然の少ない都会から引っ越して来た子でしたが、だからといって、夏になったらあんなに騒がしく鳴くセミを、知らないはずはないと思うので、「知らない」のではなく、「無頓着」なだけだと思いますが。セミの声を聞いて、ああ夏だなあというふうには思考回路がまわらず、要するに、季節なんか気にしちゃいないのでしょう。でも、その子に問題があるのではなく、そんな世の中になっているだけなんだと思います。今の便利な世の中では、ものごとを季節に結びつける習慣が、育ちにくいだけなのでしょう。

季節感に限らず、あらゆる面において、便利さは、時として、人間らしさが育たない要因になります・・・。

武勇伝、武勇伝♪ ぶゆうでんでんででんでん
To be continued.


2006
6月 「すぐに壊してしまえる」

 このごろのニュースを見ていて、最近の人は、すぐに人を殺してしまうんだなあ、と思う。自分の欲求を満たしたい気持ちを抑えられず、恐ろしい行動をおこしてしまう人が多い。
 人間には、「こうなればいいのに」「こうしてみたい」「こうしたくない」など、いろんな願望がある。でも、内容によっては、それは行動に移してはならなかったり、がまんしなければいけない。それが理性というもので、人間らしさであります。なのに、それをおさえられず、実際の行動に移してしまう人たち。
 今の世の中は、とっても便利になって、ボタンを押すだけで何でも出来てしまいます。間違っても、これまたボタンひとつですぐ修正できたり、極端な時は、簡単にリセットもできます。だから、「慎重になる」ということが、あまり必要でなくなってきています。そんな中で育つ人には、「地道にがんばる」という苦労や経験がなく、だから、すぐに「壊す」ことも厭(いと)わないのかもしれません。それから、この「便利さ」というものは、人と協力し合う機会を減らし、人間同士の関わり合いを薄れさせます。また、便利なものに囲まれて苦労を感じないところからは、他人を思いやる心や痛みを知る心は生まれません
 その一方で、子どもに悪影響をもたらすものが、いや、子どもにだけでなく、人々に悪影響をもたらすものが身近に氾濫しています。例えば、未成年相手やその他の猥褻行為を奨励させてしまうような違法行為や情報なんかは、最悪ながら、あとを絶ちません。麻薬などもそうですが、求める人間がいる限り、それを相手に利益を得ようとする人間もおり、イタチゴッコなのです。悪いことであろうが、お金儲けのためなら構わないという考え方をする人、それは何も違法な事柄に限らず、便利なものを追求する日常にも、あふれています。
 「ゲームばっかり良くない」と言いながら、最新のゲームがどんどん開発され、人々の欲求を刺激します。ゲームには、刺激が強ければ強いほど、よく売れるという性質があります。さらに最近のゲームは、あまりにもリアルでバーチャルな世界に人々をどっぷり浸からせ、仮想と現実の区別がつきにくい人間を生みます。また、近年その発展がめまぐるしい携帯電話も、みんな頭のどこかでは「子どもにはあまり良くない」とわかっていながらも、携帯電話会社は利益のために開発競争を繰り広げ、子どもによる乱用もお構いなしで、また、悪質メールや悪質サイトが青少年に与える問題点も未解決のまま、最新機種をどんどん世の中にあふれさせています。消費者は、それに踊らされ、その魅力にのめりこみ、子どもが自主規制のない使い方をしてしまっても、それはむしろ生産者の思う壷で、このイタチゴッコは、延々とくり返され、次第にエスカレートさえしてくるのです。つづく。


2006
6月 「求める人間と提供する人間のイタチゴッコ」

上のつづき。
 違法なものにしろ、違法なものでないにしろ、それらを氾濫させているのは、大人たちです。悪影響を及ぼすとわかっていながらも、儲け主義の世の中が、自分の利益を、己の欲求を、優先させてしまい、子供に悪影響を与えるかどうかは、二の次なのです。

 先に述べた“便利さ”の問題。子供にとって、大人があつらえてしまった便利さは、人と協力し合う機会や、苦労を知る機会を奪い、痛みを感じる心、他人を気遣う心につながりにくく、人間らしさが育たない要因であります。
 それに加え、大人たちが利益優先で差し出す、さまざまな誘惑。悪質なものも規制しきれず、良からぬ物が望まずとも手に入ってしまいます。
 便利さを追求するあまり、がまんする心や他人の痛みを知る心が育ちにくくなったこの世の中で、しかも大人が身勝手に差し出す誘惑に晒(さら)されながら、どうやって強い理性が育つのでしょうか

 最近の、「誰を信用してよいのかわからない、恐ろしい世の中だ」と思わせるニュース。利己的な理由で他人を、肉親までをも殺(あや)めてしまう人たち。彼らは、日本の近代化の中で育ってきた世代の人間です。「便利さと快楽を求める人々」と、「そこに利益を求め、さらなる便利さと快楽を提供する人々」と、その両者のイタチゴッコが続く限り、その中で生きる人々の個人の人間らしさは育ちにくくなり、こんなニュースや事件は、これからも増えていくのでしょう。
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2006
7月 「道具を使うのがヘタな子」

 定規や分度器、コンパスを使うのが、ヘタな子がいる。まあ、誰でも最初はうまく使いこなせず、へんなところに力が入ったり、押さえるツボを間違えて、線を描いている最中に定規が動いてしまったり、分度器なら片方を合わせるともう片方がずれたり、一番コツを要するのはコンパスなのだが、くるっと回せず、手をねじれさせているうちに針が浮いてしまったりと、なかなかピタッとはいかないものである。もちろん、自動車の運転を覚えるのと一緒で、頭で考えるだけではうまくいかず、何度も練習して、感覚を身につけ、体で覚えていくものなのだが、でも、いくらやっても、なかなか上達しない子がいる。そんな子は、「こうしたら、こうなるから、」とか、「こうすれば、うまくいく」というような考えなしに、ひたすら手を動かしているだけなのである。左右の手の、または道具の、どこに力を入れれば失敗し、どこに力を入れればうまく動かせるのか、また、なぜそこに力を入れたら失敗するのかという理由、そんなことを考えながら道具を使う子は、みるみる上達する。それは、分析力であり、私は、道具をうまく使いこなす能力も、算数力のひとつだと思っている。
つづく


2996
7月 「くそぉ、がちゃがちゃ、ビリッ!」

上の話のつづき
 大人でも、日常生活において何かする時に、ちょっと手間取ると、すぐ力まかせに、ムヤミにひっぱったり、ぐいぐい押し込んだり、バンバンたたいたりする人がいる。それで、しわくちゃになったり、ビリッとやぶれてしまったり。こんな人を見ると、私は「もうちょっと頭つかえや〜」と思ってしまう。力を入れりゃあ解決するとばかりに、「くそぉ、くそぉ」と言いながら、ぐしぐしと同じ動作を忙(せわ)しなくくり返し、こういう時の原因は往々にして、はさまっていたり、つっかえていたり、ひっかかっていることが多いのだが、それを確めることもなく、力を入れ続けて結局は何とかおさめてしまうが、そのせいで物がしわくちゃになっていること多し人、なぜいつも一旦手をとめて、確かめようとしないのだ。
 こういう人は、考えるより、手を動かした方が早いと思ってしまうのだろう。でも、面倒くさくても、うまくいかないな、と思った時は、手を止めて、どんな状態になっているのかを確かめたほうがいい時もある。何よりも、人間は、むやみやたらな行動をせず、知恵を使うべきだと思う。
 でもまあ、「できりゃあいいのよ、気にするか気にしないかの問題」という考え方もあり、小さな問題とも思える。でも、それは大人にとっての話。
 子どもの成長にとっては、大きな問題になってくると思う。真面目な話だが、一度手をとめて原因を確めるという姿勢、日常での、そういった積み重ねは、物事の構造を理解する力につながる。冷静に物事を分析する習慣は、目の前のことだけに捉われない、ものごとを大きく把握する視野を養う。
 つまり、考える力をつけるには、机に向かっての勉強においてではなく、日常生活での全ての作業において、常に知恵を使うよう意識することである。実際、算数が得意な子は、日常生活の中で常に考える機会を見出すよう、小さい頃から仕向けられている子から、生まれていると思う。
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2006
8月 「セミ vs クワガタ」

 男の子は夏になると、昆虫採集に胸をときめかせる。プリゼミに来た子が、「こないだキャンプでカブトをつかまえた」だのと、自慢してくれる。最近の子はゲーム漬けで、昆虫なぞには興味がないのかと思いきや、案外そうでもないと知り、ほっとする。
 さて、プリゼミには、オリジナルの「折り紙」がある。ただの折り紙ではなく、ペーパークラフトの要素を取り入れたもので、名付けて「おりがみクラフト」という。デザインなど私の手作りなので、種類は少ないが、これがなかなか子どもたちには好評。そして今まで6種類だったのが、この夏、新たに2種類がデビューし、8種類となった。その新しい2つとは、季節にふさわしい「せみ」と「くわがた」である。折り上げる難易度としては、クワガタのほうが高い。
 これが教室に現れるやいなや、男の子たちは率先して折りたがり、人気沸騰この上なし、といった状態だった。折り紙であれど、昆虫モノならとにかく胸が踊るらしい。ところが、なんということか、みんな「せみ」には見向きもせず、「くわがた」ばかりに群がっている。私としては、セミのほうが折り方がシンプルで、とっつきやすいと思うし、フォルム的にもデザイン的にも美しく、完成度はクワガタよりも高いと思うのだが、子どもたちには、そんなこと問題ではないようだ。彼らには、昆虫の品格の問題であるらしく、クワガタに比べてセミはしょぼいイメージがあるのか、私が「セミは折らんの?」と声をかけても、「はん。」と、バカにしたような反応。くそ〜。
 クワガタは、折り上げるプロセスにわりと難しい作業がいくつか含まれていて、みんな、なかなかの苦戦を強いられるにも関わらず、めげずに「折り方図解説明」とニラメッコしながら、あ〜だこ〜だと言いながら、必死に折っている。折り紙が苦手な子も、クワガタばかりは何とか作り上げたいらしく、友だちに聞きながらでも、挑んでいる。
 これには、私は、嬉しい反応だと喜ぶ反面、正直、セミのほうがデザインに苦労したので(特に、羽の部分は、思考錯誤した)、「ちょっとぐらい、セミも折ってくれよ〜」と、さみしかったりもする。

★折り紙クラフトの詳細は、こちら


2006
8月 「えんぴつけずりのナゾ」

えんぴつを削ると、どうして境目の形がぎざぎざになるの?
 私が子どものころ、このことを不思議に思ったことがある。小学校低学年の時だった。円柱形のえんぴつは、削るとその境目はまっすぐなのに、六角柱形のえんぴつだと、ぎざぎざになる。私は、その秘密をさぐろうと、えんぴつを何度もけずったことがある。もちろん、ハンドルを回す式の削り器ではなく、よく色えんぴつのおまけに付いているような、手でくるくる回す式の削り器を使ってである。それをスローモーションのようにゆっくり回しては、えんぴつが削られてゆく様子を、目を近づけて、一生懸命に観察したものである。今から思えば、地味な子だったなあ、と思う。えんぴつも、六角形と円形、四角形のものを用意し、その削られ方を比較してみた。また、カッターを取り出し、六角形のえんぴつを、円形のえんぴつのように境目がまっすぐになるように削ってみたらどうなるだろう、という実験もしてみた。指を切ってしまっても、こりずに何度もくり返しては、こっそり観察した。なぜ“こっそり”なのかというと、子供心に、こんなバカげたことに夢中になるなんて、きっと笑われる、と感じたからだったが、今から思えば、こういうことが算数好きになる原点であり、貴重なことだったのだ。バカげたことでは全くなかった。
 こうして、ぎざぎざのナゾは解けたのだが、今度は、ハンドルを回すタイプの削り器に好奇心が移り、一体どういう仕組みで、ハンドルを回せばえんぴつが削られてしまうのか、非常に興味を持つようになった。また、削りカスの形状にも、疑問を持った。手で回す小さい削り器でだと、削りカスは、花かつおのように、うすっぺらくて大きい形をしているのに、ハンドル式でだと、ちりちりと、細かいらせん形になるのが、大いに不思議だった。つづく


2006
8月 「えんぴつけずりのナゾ2」

上のつづき。
 そこで、熱心に観察し始めた。ハンドル式の削り器は、削りカスを受け入れるケースの部分がある。それを引き抜いたところから、削り器の内部をのぞく格好で、下から眺めながらえんぴつを削り、その刃の動く様子を熱心に観察した。ナナメにたくさんミゾのついたローラー型の刃が、不思議な角度を保ちながら奇妙に回転するさまを見つめたが、それでも、なぜえんぴつがそれで削られるのか、なかなかわかりづらかった。ハンドルを回しながら、見やすい角度をさがしてあっち向けこっち向けさせ、顔面に削りカスを受けながらのぞきこみ、そのうち、下でゴミ箱でカスを受け止めることも忘れ、部屋のカーペットを汚しまくりながら、(ちりちりした削りカスは、カーペットにからみ、掃除機ではなかなか吸い込めず、粉状になった芯も、カーペットを真っ黒に染め、母に叱られた)、それでもとにかく夢中で観察した。私は、興味を持ったことにはとことんのめりこみ、その集中力もすごい子どもだった。削れる仕組みを解き明かした時は、それはもう大発見をしたかのように酔いしれたものだったが、かと言って、それを誰かに自慢することも出来なかった。先ほども述べたように、自分では、それは第三者にとってバカげたことだろう、と感じていたからなのだが。
 えんぴつ削りだけではなく、不思議なものに出会うたび、「仕組み」を知りたがっては、しょっちゅう「これはどうなっているんだろう?」と、人知れずいろいろと実験をくり返していた私。人に聞いたらバカにされるとの思いから、ほとんど自分でこっそりとナゾを解き明かしていたが、実はそれが算数頭を作っていたのだなあ。

 電動のえんぴつ削り器ほど、くだらないものはないなあ、と思う。大人が使うのはいいが、子どもに使わせるべきではないと思う。便利なものは、成長の妨げになり、子どもに持たせるべきではない。子どもは、便利なデジタルではなく、少々不便なアナログ物に触れることによって、私のえんぴつ削りのエピソードほど大事(おおごと)にならなくとも、同様のことを小さなレベルで体得すると思う。それは無意識の世界での話であり、表面だった効果として見えるわけではないが、「こうしたらこうなる」という因果関係を形として手に持って使用すること自体で、意識をせずとも、いつのまにか、その因果関係が体得されるのである。つまり、別に実験をするところまでいかなくとも、深く考えたりしなくとも、せめて、アナログな道具を持って使用しているだけでもいいってこと。その小さな小さなことの積み重ねが、能力開発のキーとなり、「考えられる子ども」を作る。子どもに、便利すぎるものを与えてはいけない。


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