過去のちょいから (`▽´) ショート日記


もくじ 最新の日記


 <2006秋> 11月臨時号
「コンピュータ犬の話」

・はじめに
・プロローグ
・第1章「ブサイクなアニメ犬」
・第2章「くずれたバランス」
・第3章「思わぬ発展」
・第4章「たかが仮想、されど仮想」
・第5章「今度は大事に!」
・第6章「仔犬の運命」

・第7章「人間の悲しい性(さが)?」
・第8章「エスカレート」
・第9章「興奮した勢い」
・第10章「パソコンが凍った!」
・第11章「私の決断」
・第12章「本当は気づいている」
・第13章「生徒への説明」
・第14章「いじめ問題について」
・エピローグ
・あとがき


  ― はじめに ―


 プリゼミの小学生クラスで、最近、少し困った出来事がありました。それは、プリゼミのパソコンにまつわるお話です。今回は、臨時号としてこの問題をとりあげ、この数ヶ月に起こった一連の出来事を書いていこうと思います。
 
 ・・・プリゼミの教室内には、パソコンがあります。そして、今では、生徒が自由にさわっていいようにしています。
 最初に生徒にパソコンをさわらせたのは、昨年のことです。きっかけとなったのは、プリゼミのこのホームページでした。これを家で見ることが出来ない子もおり、しかし、「見た」という友だちから、とても楽しいサイトだと聞き、ぜひ自分たちも見てみたいとのこと、そこで、教室でこのホームページを閲覧できるようにしたのです。
 私は、生徒にさわらせるということで、事前にパソコンの掃除をしました。掃除というのは、外観のホコリをはらうことではなく、中身の話です。中古のパソコンなので、ゲームなどを含め、私の知らないソフトが、たくさん入っていました。それを個々に、消してよいものかどうかチェックしながら、整理しておきました。
 こうして、パソコンはきれいになったはずでした。ところが、この時、私はひとつのソフトを見逃していました。そのソフトのアイコンは、犬の形をしているのですが、ファイル名から、私はすっかりそれが、ただのデスクトップアクセサリーだと思いこみ、確かめることもなく、放置してしまったのです。
 それが、そもそもの始まりでした。


  ― プロローグ ―

 さて、生徒がパソコンを実際にさわり、プリゼミのホームページを見るようになったのですが、こちらが案ずるほどのこともありませんでした。というのも、我々が思うパソコンの定義と、この子たちの捉えるパソコンの定義とは違ったようなのです。つまり、パソコンをさわるといっても、彼らにとっては「パソコン=プリゼミのホームページ」という認識しかないようで、要らぬ操作はしない(というより出来ない)ようでした。
 ところで、プリゼミでは、教室に来た子が待ち時間に、読書をするか、あやとり・日本地図パズル・折り紙パズル・天然木パズルなどのいろんな能力アップ系あそび道具で遊べるようにしています。そこへ、パソコンでプリゼミのサイトを見るという作業も加わったのですが、みんなパソコンに群がったり偏(かたよ)ったりすることもなく、今までどおり、それぞれの遊び道具で、パソコンも、机上のあそびグッズも、バランスよく楽しんでおりました。
 こうして、何の問題もなく、平穏な日々が過ぎる毎日(?)、私は、パソコンをもっと有効に利用できる方向へもってけないかな?と思い、やがて、パソコンならではの思考系ソフトをとりいれてみたのです。線路ならべや、絵のしきつめ系など、頭脳を鍛える系統のソフトです。
 生徒たちは、それらも楽しめるようになって、いろいろな能力アップアイテムで過ごす待ち時間が、ますます充実してきました。それでも、やはり小学生たちはパソコンにたかることもなく、相変わらず、パソコンでも、机上のグッズでも、共にバランスよく遊んでいました。(ちなみに、中学生は、彼らも待ち時間に机の上のパズルで遊びますが、不思議とパソコンのパズルは全くやりません。教室のパソコンをさわるのは、プリゼミのホームページを見るためだけのようです。彼らは携帯電話を持っている場合が多く、小学生ほどパソコンにはあまり興味を示さないのでしょうか?)

 さて、これまで「パソコン=プリゼミのホームページ」としか認識していなかった小学生たちも、パソコンパズルをするようになって、他の操作を覚えると、今まで見向きもしなかったものに、興味を覚え始めます。
 ある日、とうとう、ひとりの生徒が、ひとつのアイコンに目をとめました。約一年間、誰も気にしたことがなく、ほったらかしにされたままだった犬のアイコンです。
 ・・・その生徒が、何気なくそれをダブルクリックすると、画面に、ヨレヨレっとした、一匹のぶさいくな成犬があらわれました。嵐の幕開けです。


  ― 第1章「ブサイクなアニメ犬」 ―

 クリックした生徒が、「おもろい犬が出てきた!」と、顔を輝かせました。机上のパズルを楽しんでいた他の子たちが、一斉にパソコンのほうを振り返りました。一匹の犬が、パソコンの画面上を、歩いています。画面上で7〜8cmくらいの、わりかし大きめの犬です。みんなは手を止め、「何が出てきたのだ?」という具合いに、しばらく画面を見つめていました。
 アニメチックな犬で、その様相といったら、痩せた体はねずみ色で、ボサボサとした感じ、目は出目金(でめきん)のように腫れており、ヨボヨボと歩き、ひとことで言うと「くたびれた老犬」といった感じ。ちっともカワイクないのです。生徒たちの視線は、この奇妙な犬の動きに釘付けとなっていました。
 やがて、「なにこれ」「なんや」「なんや」と、みんなはパソコンに集まり出しました。生徒たちが、「みわこ先生、これなに?」と口々に言うのですが、うしろからのぞきこむ私も、「なんやろ?」と、目をまるくしています。
 しばらくみんなは、その滑稽(こっけい)さに失笑しながら、犬の動きを見つめていました。えっちらおっちらと歩く、どんくさそうな動きや、ぶさいくな姿を、みんなニヤニヤとしながら眺めています。
 しばらく見ているうちに、犬のほかに、小さな四角いコマンドも出ていることに気づき始めました。コマンドの中には、10個ぐらいの小道具があります。赤いボールやら、ペンキの刷毛(はけ)、スニーカー、スプレー、エサ、水、ホネ、ドーナツ、カメラ、などなど。そして、これらの中から選んだ小道具に対し、そのブサイク犬は、いろんな反応を示しました。
 ・・・この犬のソフトは、いったい何なんだろう?どうしてこの犬は、こんなにブサイクなんだろう?とにかく、それは、あっという間に生徒の心をつかんだようで、それから生徒たちは、ほとんどみな、教室に来ては、毎回そのソフトを開いて遊ぶようになりました。
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  ― 第2章「くずれたバランス」 ―

 生徒たちは、いろんな小道具の、それぞれの意味が何なのか、よくわかりませんでした。生徒たちはただ、犬が小道具に反応する様を見て楽しんでいました。みんな「一体これ何なん?」と、わけがわからないながらも、むやみやたらに、色んな小道具を代わる代わる与え、そのたびに反応する犬を見るだけでした。その時々の犬のしぐさの意味も、わかりませんでした。いや、わかろうともしていなかったようです。ただ、「なんかワカランけれど、なんか小道具クリックしたら、なんか犬が動く」という世界。でも、子どもたちにはそれだけで充分おもしろいようでした。
 私は、正直「しまったな〜」と思いました。というのも、これまで私は、授業が始まるまでの待ち時間さえも、無駄にさせない教室作りを目指してきたからです。そして、教室には能力アップのためのいろんなアイテムを徐々に増やしてきて、事実みんながそれで楽しく遊んでくれ、素晴らしいと思っていました。なのに、それがこんな犬にジャマされてしまった感じです。それまで保たれていたバランスもくずれ、ほとんどの子が、パソコンに群がるようになりました。ただ単に、何の考えもなしに、やみくもに小道具をとっかえひっかえ差し出しては、それに反応する犬のしぐさを見て笑う。なんと無意味な時間に、とってかわってしまったのでしょう。
 と言って、私は、それを止(や)めさせることも出来ませんでした。大人の都合で取り上げることは、するべきでないと思ったからです。私がこのソフトを見落としてしまったことから、みんなに与えることになってしまった、犬あそびの時間。いったん与えてしまったものを、しかも、それで子どもたちが盛り上がっているというのに、子どもに納得させないまま、一方的に取り上げるなんて、いけないと思ったのです。
 何事も、「してはいけない」と口で言うのは簡単ですが、大事なのは、「なぜいけないのか」という理由を悟らせ、いけないということを認識させ、納得させることだと思います。でないと、大人の一方的な押し付けになってしまい、それは、物の道理がわからないことや、心が育たないことにつながり、その積み重ねは、思慮深さが育たないことに、ひいては、勉強にだって影響してきます。子どもには、「ダメなものはダメ」的な説得ではなく、ひとつひとつ、きちんと、子どもが納得するように説明し、教え、導いていかなくてはなりません。
 そんなわけで、プリゼミでの教育でも、そういう姿勢を大事にしている私は、今回のことについても、子どもたちがこのソフトをとても面白がっているので、少し見守ってみることにしました。「無意味だから」という理由は、盛り上がっている今の彼らには通用しないでしょう。それに、ひょっとしたら、すぐに飽きるかもしれませんし、また、こんなソフトでも、視点を変えれば、役立つように作用する面が現れてくるかもしれず、どうなるかわかりません。なので、口出しせずに、しばらく子どもたちにまかせてみることにしたのです。


  ― 第3章「思わぬ発展」 ―

 さて、やがて子どもたちは、さらなる面白さを追求し始めるようになりました。つまり、何をどうすれば、どうなるのか、この犬ソフトに関する具体的な情報や操作法を、私に求めるようになってきたのです。
 私は、ほっとしました。なぜなら、それまでは、みんなワケもわからず、いろんな小道具をやたらめったら差し出しては、その意味も考えず、ただ犬の動きを見て笑うだけという、そんな無意味なことのくり返しが続いていたからです。それが、「この小道具は何?」と聞いてくれるようになり、つまりは、ようやく小道具の役割を意識し始めてきたようなので、私は少しほっとしたのです。でも私は、生徒からいろいろ聞かれても、「さあ、私はわからない。」と答えました。どうせなら、この犬のソフトを、生徒たちにとって良い方向へ作用するように持っていきたい、と考えたからです。そのため、「子どもたちが自分で考えながらこのソフトを使っていけるように」と思ったのです。もし私が、「ここをクリックしたら、こうなるよ」とか、「この小道具は、こう使うんだよ。」「こうしたい時は、こうすればいいよ」などと言って、それで生徒が私に言われたとおりに操作するだけでは、何も進歩がありません。そんなことをしたら、結局はこのソフトが、無意味な物のままになってしまいます。それで、私は手や口を出さないようにしたのです。子どもたちは今、この犬に大いに興味を持っているのだから、ほっとけば、知ろうという意識から、子ども自らいろいろ試してみるに違いありません。
 そして、こちらの思惑(おもわく)どおり、やはり子どもたちは、「この小道具は、こうしたら、こう反応するんだ」「あの小道具は、ああしたら、ああ反応するんだ」と言い合いながら、いろんな発見をするようになりました。犬が喜ぶ時があったり、嫌がるしぐさを見せたり、その他いろいろと、小道具によって意味があることを知るようになりました。私は、みんながちょっとは知恵のある使い方をしてくれるようになったので、良きことだ、と思いました。私は常々、ルールや規則性を見つけ、因果関係や相互関係を理解していくという力は、判断能力に優れた賢い子をつくる要素であると考えています。また、「因果関係」というものは、あらゆる物事の土台となることで、それを把握する力は、人間が成長していく上で欠かせない、最重要要素だと考える私は、日常のちょっとしたことでも、それに結び付けていけるチャンスに変えていくよう、普段から努力しています。そういった中で、この犬ソフトの件も、その点では、好ましい方向へ持っていけたと、自負しかけていました。
 ところがです。直(じき)にそれが、思わぬ方向へ発展していってしまいました。なんと、みんなが、犬をいじめるようになってきたのです。いろいろな小道具の使用と、それに対する犬の反応を観察しているうちに、犬に意地悪したり、困らせたり、痛がらせたり、悲しませることなどを覚え、それが「犬いじめ」に発展していったのです。
 もともと、なぜかこの犬の姿がブサイクなだけに、かわいがるよりいじめる方向に走ってしまいやすかったのでしょう。この犬の喜ぶ姿より、困ったりするしぐさの方がこっけいで、みんなはそれを見たいがために、「おしおき道具」を乱用し、いじめまくるようになったのです。


  ― 第4章「たかがバーチャル、されどバーチャル」 ―

 毎日、子どもたちは待ち時間にパソコンにたかり、犬をいじめては、盛り上がっていました。彼らはまず教室に来ると、一目散(いちもくさん)にパソコンのスイッチを付けます。以前の、机の周りに座って、パズルや折り紙などで遊ぶという光景は教室から消え、みんなくっつきながらパソコンに集まり、よってたかって犬をいじめることに熱狂するようになりました。その様子は、少し異様でした。
 確かに、これは生身の犬ではなく、バーチャルの犬であり、そのへんは子どもも区別がついていることでしょう。現実と混同している子はいないと思います。なので、「子どものイタズラ心」と捉えれば、とりたてていうほどの問題ではないかもしれません。
 しかし、アニメ風の犬ですが、一挙手一投足に及ぶ細かなしぐさや鳴き声はリアルで、いじめられるたび、「きゅぅん」と鳴きながら、悲しそうな表情やポーズをとります。ひんぱんに痛そうな鳴き声をあげ、悲しむ姿もリアルなその犬を見ると、私は「ちょっとなあ・・・」と心が痛むのですが、子どもたちには誰も「かわいそう」と言う子はおりませんでした。見かねた私が、「そんなにいじめて。」「かわいそうやんか。」「ひどいなあ。」と声をかけてみるのですが、熱狂している彼らには、ちっとも届きません。女の子でさえも「ぎゃはははっ!!」と、テンションの高い笑い声を上げていました。
 その、悲しげな犬と、それを見て爆笑する生徒たちのコントラストは、いくらコンピュータの犬といえども、ハタから見ている私の目には残虐な光景として映り、ゾッとするものがありました。バーチャルの犬とはいえ、わりとリアルに悲しむ姿に、「かわいそう」という思いがどうして誰にもおこらないのか、不思議でした。また、この犬をとおし、みんなが、いじめることの快感を味わっている、ということが、私には気がかりでした。
 でも、私は、もう少しだけ我慢して待ってみようと思いました。今は熱していて、みんな見えていないだけだろう、しばらくして熱が冷めてきたら、その時にみんな、その残虐さに気づくのでは・・・?
 そうして、しばらく見守りながら、みんなの様子をうかがっていました。しかし、いつまでたっても、なかなか状況は変わりませんでした。いつもいつも、みんなは、教室に来ては犬をいじめて楽しむことに待ち時間を費やしました。よくもまあ、飽きひんなあ、と、感心するやら呆れるやら、それにしても、なぜそんなに、この犬いじめが、みんなの心をここまで捉えるのでしょう。プリゼミの休憩時間は、毎日、残虐な笑いが絶えない状態が、しばらく続きました。ああ、塾らしからぬ〜。
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  ― 第5章「今度は大事に!」 ―

 ある日、私は、まだ教室を開ける前の時間帯に、この犬の正体をきちんと調べてみることにしました。なぜ、犬はこんなにブサイクなのかも気になりました。
 すると、これは仔犬から育てるという飼育系ソフトで、愛情の注ぎ方や躾の仕方で、育ち方が左右される、いわゆる「たまごっち」のようなバーチャルペットらしい、ということがわかりました。このパソコンの前の持ち主(もともと、私のパソコンではなかった)が、飼っていたものと思われます。そして、このソフトにはヘルプという説明書のようなものも付いており、そこには、小道具の説明を含め、いろんな操作方法がくわしく書いてありました。
 さて、みんなが犬をいじめる状態が、あまり長引くのも良くないように思えた私は、みんなに、このことを伝えてみました。これはおそらくバーチャルペットだろう、つまり、この犬は、されたことを記憶し、学習しながら育っていくものだと。そしてまた、小道具の使い方や、その他いろいろな操作を「ヘルプ」で知ることが出来るから、自分たちでそれを読み、本来の使い方を理解しろ、と。
 みんなは、「育てる」という意義が見つかり、また、その育ち方はみんなの扱い方しだいだということを知って、犬への認識が変わったようでした。それからは、長ったらしい説明でうんざりしそうな内容にもかかわらず、みんな、わりかし積極的にヘルプを開いては、それを頼りに、犬に芸を仕込むことに挑戦してみたり、犬の毛色を染め変えてみたりと、「よく読んで、解釈して、実行する」みたいな、一連の流れをとるようになってきました。大人向けに書かれたヘルプは、小学生にとっては少し難解な部分もあり、私を頼ってくることもあったのですが、私は敢えて「自分で考えろ」とあしらったので、みんな、自力で何度も読み返したり、「これって、どういうこと?」と子ども同士で相談しては、文意を汲みとるべく、読解能力をフル回転させるようになりました。再び、素晴らしい方向へ転じてきたようです。よっしゃ、よっしゃ♪
 しかし、それからしばらくたたないうちに、今度もまた、それが思いもよらない事態へ向かうことになりました。
「新しい仔犬を飼おう!!」
 ヘルプには、犬に関する全ての情報が記されているのですが、「新しいペットに飼いかえる」という項目があり、そこに目を付けたのです。


  ― 第6章「仔犬の運命」 ―

 ただし、新しい犬を飼うと、今の犬は消去されます。しかし、そのことを説明しても、みんなは、どうしても新しい仔犬から、ちゃんと躾けたり、しっかり教育しながら、かしこくてカワイイ犬に育てたい、と言うのです。確かに、今の犬は前の飼い主のものであり、あまり良い犬にも育っていないようで、みんなの言い分は、もっともだと思いました。私は、みんなに大事に育てることを約束させ、新しい仔犬を飼うことを、思い切って許可しました。
 さて、子どもたちは、新しい仔犬を得る方法を、ヘルプで調べながら、パソコン上のペットショップへ行き、新しい仔犬を選んできました。そして、名前もつけました。生徒たちは、「良い子に育てるぞ!」と意気揚々で、ますますヘルプで熱心に調べては、育て方を研究しながら、仔犬を一生懸命かわいがりました。それは、特に女の子ほど強いようで、たまに一部の男の子がむやみにおしおきをしたがると、「悪いことしてへんのに、おしおきしたらあかん!ヘンな子に育つやろ!」と叱ってくれるようになりました。本当に、仔犬は大事にされました。
 ところがです。悲しいことに、そんなほのぼのムードは、たった2週間ほどしかもたなかったのです。たまごっちとは違い、この犬の成長は、時間がかかるようなのです。たまごっちなどは、最初のうちは1日単位で姿を変えながら成長していくみたいですが、この犬は、2週間たっても、さしたる変化を見せませんでした。芸を仕込むのも、くり返し根気強く覚えさせねばならないようで、なかなか身につけてくれません。それが子どもにとっては面白くないのか、気長に育てることに、早くも飽きてきたようでした。そして、なんと、またいじめて楽しむようになってきたのです。最初、あんなにかわいがっていたのに、その反動のように、今度は、まったく愛情を注がなくなり、私との「大事に育てる」という約束さえも忘れ去ったのか、とにかく、前の犬と同様、いじめまくって楽しむようになってしまったのです。


  ― 第7章「人間の悲しい性(さが)?」 ―

 ところで、話は少し外(はず)れますが、人は、「誉める」より「けなす」ほうが、本能的にラクなのでしょうか。「他人(ひと)の不幸は蜜の味」なんて、きつくも、人間の本質を言い当てている言葉があります。確かに、人間は、他人の悪口を言って「すっとする」感覚を得るところがあります。それでいて、他人を誉めて「すっとする」ってことは、あまり聞きませんね。そして、それゆえか、人のアラ探しは無意識にしていたりするのに、人の良い面を見つけようとするのは意識的だったりします。早い話、人間は、人の悪いところには勝手に目がいくけれど、良いところには、気づけにくいのです。
 この、とかく他人の長所より短所に目がいきがちな面において、これを、方向を変えて延長すると、子育ての上では、親が子どもを誉めることを忘れがちなことに通じていきます。自分では「なるべく誉めるように努めている」と思っている人でも、ちょっとしたことで「またあんたは!」とか「なんでやの!」「いつも言ってるやんか!」と、自分の想像以上に、随時ポンポン叱っているものです。叱るのは無意識なのですね。だから実際は、大半の親が、誉めているより叱っているほうが、ずっと多いのです。実際に、プリゼミの生徒に、ためしに、「おうちの人に叱られるのは、どんな時?」と聞いてみたら、すぐに複数の答えが返ってきたのに、「じゃあ、誉められる時は?」と聞けば、「う〜む」と、ほとんどの子が答えられませんでした。この話は、また後日に。

 閑話休題(それはさておき)、仔犬の喜ぶ姿より、困る姿に興味を示す子どもたち。仔犬を誉め育てるより、いじめるほうに魅力を感じる子どもたち。
 ごほうびをあげたり、誉めたり(なでたり)すると、仔犬は「ふぁ〜ん、ふぁ〜ん」とか「ふぉっ、ふぉっ」と嬉しそうに鳴きながら、しっぽを振ったり、寝転んだりと、かわいいしぐさを見せるのですが、子どもたちは、あまりそれに喜びを感じませんでした。じゃあ、なぜ一生懸命かわいがるのかといえば、ただ、それをすれば、「いい子に育つ」「大きくなる」「いろんな芸を覚える」などの見返りがあるためです。だから、かわいがる作業は、いわば義務的でした。それゆえ、「まだ大きくならへんの?」「まだ芸を覚えへんの?」「なんも変わらへんやん!」と、すぐに不満を言い出し、なかなか変化しない犬への「誉め育て」作業は早々に飽きられたのです。そして「いじめる」という安易な方へ、再び戻ってしまったのでした。
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  ― 第8章「エスカレート」 ―

 この頃から、子どもたちのパソコンの扱い方が、ぞんざいになってきていました。以前は、「電源つけていいですか」と、必ず私の許可を得ていたのに、だんだん、勝手に電源を入れる子も出てきました。
 ところで、子どもたちの顔ぶれは曜日ごとに変わるのですが、みんなのすることは、どの曜日でもだいたい同じでした。というのは、ほとんどの子が算数と国語の2曜日に来ており、算数と国語の組み合わせ具合でメンバーがかみ合い、子ども間で情報が伝わっていくのです。そうして、どの曜日でも、だいたい同じ行動パターンをとるのです。
 ですので、犬いじめの日々は、どの曜日にも復活しました。毎日、「これをくらえー」だの、「こうしてやるー」だのという残酷なセリフと、「きゃぅ〜ん」「きゅぅ」という悲鳴が、再び教室に飛び交うようになりました。そして、仔犬を逃げたり動かないようにする裏ワザなど、子どもたちの操作法は、以前より複雑化していました。さすがはゲーム世代、と感心している場合ではなく、もはやいろんな操作を知っている子どもたちは、やがて、してはならぬことを、とうとうしてしまうほどに、発展していったのです。ある日、ある曜日の子どもたちが、勝手にペットショップへ行き、新しい仔犬を飼ってしまったのです。
 もちろん、そんなことをすれば、今までの仔犬が消去されてしまうのは、承知の上です。画面上にも、警告として「いったん消去すると、2度ともどってきませんが、いいですか」と、念を押すメッセージが出てくるのですが、彼らは、それにも動じなかったようです。そしてさらに、彼らは、新たな仔犬を、飼ってくるなりいじめたのです。つまりは、いじめる新しい対象を求め、仔犬を変えたのです。
 さらに私が衝撃を受けたのは、次の日に来た子たちの反応です。「みんなの仔犬を、昨日の子たちが勝手に消去し、今日の子たちはショックを受けるだろう。」と想像したのですが、子どもたちは、「あれ、仔犬が変わってるー、わははっ」と興味津々、ショックどころか、大ウケ。誰も、前の仔犬に未練を感じる子はいませんでした。なんてこと!
 それからしばらくして、子どもたちは、また仔犬を飼いかえました。そして、さらにまたしばらくしたら、またまた飼いかえました。どの曜日の子もそれをするので、そのうち日替わりで、仔犬は毎日コロコロ飼いかえられる状態となり、そのたびに出る「今の犬は消去され、2度と戻りませんが、いいですか」という警告に、みんなは何のためらいもなく「はい」のボタンをクリックするのでした。飼ってきては、いじめ、捨て、また飼っては、いじめています。犬の種類が変わることによって、いじめる快感がリフレッシュされるのでしょう。とにかく、子どもたちの感覚が麻痺し始めていました。勝手に好き放題なことをするようになった彼ら。いじめに加え、消去もためらいません。大事にするという方向性が完全に失われた状況に、私はとうとう、口を出すことにしました。


  ― 第9章「興奮した勢い」 ―

 ある日、またもや今の仔犬を捨て、ペットショップで新たな仔犬を選んでいる子どもたちに、私は「大事に育てると、約束しなかったか。消去するなんて、話がちがうのでは。」と、厳しい口調で話しかけました。すると、「先生、ごめんなさい。でも、もう消去してしまった。どうしよう。」と、一応は素直に反省の言葉を口にしました。私は、『でも、どうも態度が軽いなあ。ほんまにわかっとんのかい。』と思いながらも、「じゃあ、今選ぶ仔犬で最後。もう飼いかえてはいけないよ。」と約束させました。(私は、同じことをどの曜日でも言ったので、生徒によってはこれを2回以上聞いている子もいます。)
 しかし、案じていたとおり、それからしばらくもしないうちに、子どもたちはいじめに興奮した勢いで、また仔犬を飼いかえてしまったのです。
 ところで、この「いじめに興奮した勢い」というものも、ここのところ、私が気になっていた事のひとつでした。
 例えば、いじめ方について。なんだか、以前(最初の成犬のとき)と、いじめるようすが違うのです。なんと表現すればよいのかわかりませんが、以前は「パソコンの操作による反応を楽しんでいる」というか、「マウス操作による、あくまでもパソコン内での話」というような、無機質的ないじめ方でした。しかし今回は、生々しいというか、有機的というか、現実味を帯びたようないじめ方なのです。この犬はバーチャルだと認識し、子どもには区別もついているでしょうが、いじめているうちに気が高ぶってくると、「このやろー」とか叫びながら、仔犬を平手でバンバンたたく、つまり、マウス操作ではなく、画面を手で直接たたいたり、マウスをクリックするにも「うりゃー!」と雄叫びをあげながらマウスをげんこつでなぐるなど、仔犬に対する現実的な感情を見せるようになったのです。かつては「先生、電源つけてもいいですか」と慎重に扱われていたパソコンが、この犬にかかると、キーボードは乱打されるわ、デスクトップはしばかれるわ、マウスは殴られるわ。また、電源ボタンをいきなり押して消す子も出てきました。“扱いがぞんざい”なんていうレベルではありません。ちょっとこれは、狂気的です。ひとりがおかしな行動をとっている、という話ではなく、数人で盛り上がりながら、という感じです。冷静さを失うにしても、ちょっと度が過ぎているのでは。
 「おまえなんか、こうしてやるー!」
興奮した勢いにのって、パソコンの扱い方として、ありえない行動をとってしまう子どもたち。また、これも興奮ゆえ、最後の約束を忘れ(つまり、また仔犬を飼いかえ)てしまう子どもたち。
 そこまで過熱させるほど、この犬ソフトは、いや、犬いじめは、私の想像を超えた影響力を持っていたのです。


  ― 第10章「パソコンが凍った!」 ―

 そんな矢先、パソコンが動かなくなりました。例の「電源ボタンをいきなりバチッと押して切る」という行為を、厳しく注意したにも関わらず、その後も2人の生徒が2回やってしまったのです。その2回目に、とうとうそれが原因で激しく凍り(フリーズし)、パソコンがうんともすんとも反応しなくなりました。凍り度合いはきつく、電源を切ることもできませんでした。
 とりあえず、私はあえて放っておき、週末までそのままの状態で、凍ったパソコンを生徒に公開することにしました。自分たちの行動が招いた結果を、認識してほしいと思ったのです。
 さて、何も知らずに教室にやってきた生徒たちは、いつものように、まっ先にパソコンの前に座りました。しかし、パソコンは全く動きません。私が、事の成り行きを説明し、凍ってどうにもならないことを告げると、生徒たちは無謀にも、自分なりの方法で復旧を試みようと、めいめい思いつくだけの操作(と言っても、キーやマウスをあちこち押してみたり、電源ボタンを押してみたりするぐらいですが)を試しました。もちろん、生徒が何をしようが、変化なしです。(中には、パソコンを思いっきりチョップした子がいました。昭和のテレビじゃあるまいし、イマドキの子が、こんな荒ワザを使うとは。パソコンをマジで壊されるかと、私は青ざめました。)
 子どもたちは、せっかく犬を起動させようと思ったのに、パソコンがどうしても動かないので、残念そうです。しかし、誰も文句をいう子はいませんでした。パソコンが凍るきっかけとなった最後の電源切り行為が、誰によるものなのか、みんなが私に聞いてきたときに、私は答えず、そのかわり、「それが直接原因とはいうものの、今までの扱い方も影響しているんじゃないかな。すごい凍り方やもんな。今までもずっと、誰か、乱暴な扱いしていた人、おったんちゃう?それで、パソコンへの負担が蓄積していたんやろう。」と説明したからです。そして、だいたいの子が、「おまえや」「おまえや」「おまえや」と言い合いながらも、お互い適当に受け流すと、それ以上、パソコンの話題に触れようとしなくなりました。それから各自、テキストをぱらぱらとめくってみたり、机にエンピツを並べてみたり、カンペン(金属製の筆箱)のへこみを直してみたりと、おのおの、“どうでもいいような作業”をし始めました。
 「電源ボタンを押しているのに切れない」という状況は、彼らにとって理解不能な事態のようです(わかる気がします)。だから、パソコンユーザーの我々にとっては日常茶飯事のフリーズも、彼らにとっては大惨事に感じられたのでしょう。自分たちが何をしても、さらに、先生ですら何をしても動かないというパソコン、また、そのパソコンが高価なものだと認識している彼らにとっては、「どうしよう!」と、おそろしかったのかもしれません。だから、余計にうしろめたかったのでしょう。みんな、もくもくと、その“どうでもいいような作業”に没頭するふりをしていました。まるで、責任のがれをするように・・・。
 動かなくなった原因の「乱暴な扱い」には、みんな、身に覚えがあるのです。
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  ― 第11章「私の決断」 ―

 私は、パソコンを、週末まで凍ったまま放置していました。詳しく言えば、水曜日から金曜日までです。この間に、プリゼミに通う小学生の約半数が、教室に2回来ています。つまり、水曜日の国語に来て、凍ったパソコンを見ていた生徒たちが、木曜日や金曜日の算数に来た時に再び、いまだ凍って電源がついたままのパソコンを見たのです。彼らは、水曜日からずっと、このままという事実に、絶句していました。
 ところで、凍ったパソコンを週末まで公開している間、今後どうすべきか、私は悩みました。ソフトを取り上げてしまうか、みんなで話し合ってもう1度だけチャンスをあげるのか。
 私は、“待ち時間は能力アップアイテムや思考系ゲームで過ごしてくれる”という、以前のプリゼミの状態に戻したいと思っています。でも、私がひっかかっているのは、「かといって、取り上げるのは、良い手段ではない」という気持ちでした。本当は、子どもが自ら気づく方向へと、持っていってやるべきだ、というのが、私のポリシーだからです。取り上げるのは簡単なことです。
 しかし、害のほうが大きければ、強制的に取り上げるのも、時には妥当かもしれません。子どもの負の心を育ててしまうのなら、そうせざるを得ない時もあるのかも、とも思います。
 そして結局、私は「取り上げる」ことを選択しました。ただ、「よくない⇒取り上げた」、だけでは単純すぎます。しかし、今回の場合、どうよくなかったのかということを生徒はきちんと理解し、その上で、取り上げられたことを納得するだろう、と思いました。このソフトには、問題がありすぎます。そのことを伝えるのに、今までは、「熱している彼らには、届かないだろう」と様子を見守ってきましたが、今、パソコンのフリーズをきっかけに、彼らは落ち着いているので、今の冷静な彼らになら、私の趣旨が届くのではないだろうかと思いました。


  ― 第12章「本当は気づいている」 ―

  さて、休みにパソコンを復旧し(←これがまた、すこぶる大変だった)、犬のソフトを使えないよう、複雑なフォルダの中に隠しました。(削除しなかったのは、万が一アゲアシとりの生徒に「先生だって、犬を消去するんじゃ〜ん、いっしょじゃ〜ん、説得力ないね〜」なんて言われたときに、困るなあ、と思ったから。子どもと話をする時は、大人目線からの圧力ではなく、子どもと対等にならなきゃ本意は届かないので、大人にしか理解できないような複雑なイイワケをしなくて済むように。)。これで、生徒たちに伝える準備は万端です。
 そして、休み明け、とりあえず、いつものように、生徒がやってきました。 「あれ?パソコン直ったん?」と、今日は赤いランプが消えているパソコンに、生徒は直ちに気づきました。そして、「先生、電源つけてもいいですか?」と聞いてきました。久しぶりに聞くセリフです。近頃パソコンの扱いがぞんざいで、電源も勝手に入れるようになっていた彼らに、変化が見えました。フリーズ事件が効いて、生徒も初心にかえったようです。「いいよ。」という私の返事を聞いて、生徒は電源を入れました。
 さて、この時点で、生徒はまだ、犬が隠されてしまったことを知りません。パソコンの復活を知り、電源を付けようとするのは、もちろん犬を起動させるためです。
 ところが、いつもの場所に、犬のアイコンがありません。生徒は、首をかしげながら、フォルダをクリックしては、何度も開いたり閉じたりしました。
 「先生、犬がいつものところにあらへん。」
 「うん、私が隠したんや。もう、会えへんよ。」
 「なんで?」
私は、「なんでやと思う?」とだけ返すと、なんとなく感じるところがあるのか、その子はそれ以上、聞いてきませんでした。そして、他の生徒が教室に現れるたび、「先生が犬のソフト隠さはってんて。」と伝えていき、「なんで?」「さあ。」「言ってくれはらへん。」などと、生徒同士で教室のうしろにかたまり、ひそひそと問答しあっていました。そして、やがて沈黙しだしました。
 私の「ソフトを隠したという行為」は、知らない人から見れば、大した事じゃないように思えるかもしれませんが、プリゼミの生徒にとっては、妙な恐怖を感じさせるものだったようです。それは、私が、「突然取り上げる」という、普段しないような行動をとったからです。いつもの人物が、ある日、その人らしくない行動をとった時ほど、不安になることはありません。また、熱している時には平気だった自分たちの行為(犬いじめや、パソコンのぞんざいな扱い)も、冷めた時に振り返ると、うしろめたさを感じ始めたりして、みんな、心のどこかで、私の意図に気づいているのでしょう、よけいに不安な気持ちが高まったようです。誰もが、口では「なんで?」と言いながら、本当は、それぞれの子が、自分に思い当たるところがあるのです。
 みんなで後ろにかたまっているものの、口をつぐみ、お互いの顔色をさぐるようにしながら、首をふったり相手の肩をこづいて苦笑(にがわら)いをしたりと、教室には気まずい空気が流れていました。プリゼミに、こんな空気は初めてです。生徒たちも緊張しているようですが、私まで緊張してきました。

  ― 第13章「生徒への説明」 ―

 生徒がそろったところで、私はみんなに、「今日は、話がある。」と、切り出しました。みんなは、上目づかい気味に私を見ました。これから私が話そうとしていることは、おおよそ見当がついているのです。そうでなければ、「なんだろう?」「どうして犬を隠したんだろう?」と、私の顔をまっすぐ見るはずです。
 私がソフトを隠したのは、いろんなことを総合して判断した結果ですが、直接的な理由は「約束を守れなかった」ことでした。1番には、あの時「仔犬を飼いかえるのは、これが最後」と警告したのに、それを守れなかったことです。そして2番目には、電源切りの約束を守れなかった子がいたことです。それで、私は取り上げることを決意したのだと、子どもたちに伝えました。また、約束を破った場面は他にもあったことと、それを含めた他の問題点も挙げました。
 仔犬を大事に育てるという約束を守れず、ほとんどの人が、再びいじめて楽しんでしまったこと。また、いじめて楽しむという行為は、非常によろしくない、有りえない、ということ。ただ、みんなが現実とバーチャルの区別はついているだろうと、私が思っていること。しかし、区別がついていようが、ついていまいが、どっちにしろ、「いじめる快感を味わっている」こと自体に問題があると判断したこと。そのうち、だんだん、みんながエスカレートしてきたこと。みんなの興奮したようすが異様だったこと。パソコンの扱い方にも悪影響が出たこと。これらを総合し、問題点が多すぎること。そして、私が何度か「取り上げようか、どうしようか。」と悩んできたこと。途中で何度か警告を発し、それでみんなが自分で気づき考えるほうへ導こうとしたこと。しかし、それがうまくいかず、最後の約束も簡単に破られたこと。これらのことから、「取り上げる」という判断に至ったこと。
 話を聞いているうちに、生徒はだんだん顔をあげ、じっと私を見ていました。私の話は、みんなにとって痛いところをついているだろうけれど、私はみんなをなじるでもなく、責めるでもなく、叱るでもなく、注意するでもない口調で、ただ淡々と、これまでの事実を語っただけだからです。それに、「もし、こうしたら、こうなる」という架空の説明ではなく、「こうしたから、こうなった」という、実際に自分たちが経験してきた話だから、心に響くものがあるのでしょう。
 私は、こうしめくくりました。「ということで、犬のソフトは、2度と使えません。もしそれで不満を感じる人がいたら、よく考えてみてください。その上で、私に言いにきてください。」
 その後、このことについて、不満を言いに来た子は誰もいません。もちろん、もし不満があったとしても、本当に言いに来る子は、まあ、いないでしょう。でも、みんなは本当に納得してくれたと思います。単に「取り上げられた〜」というのではなく、「取り上げられて当然のことをしてきたんだなあ」と認識していることでしょう。
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  ― 第14章「いじめ問題について」 ―

 ところで、みんなに説明している時、話の中で、「いじめがよくない」という問題に触れた際、その理由を、「あ、わかった。今、“いじめ”が問題になっているからやろ?」と言った子が、どのクラスにもいました。
 鋭い指摘?いや、それはちょっと違います。確かに、“いじめ”が最近、世間で大きな問題となっていますが、私はそれに便乗したわけではありません。私は、こう答えました。「ただ単に、心配だったから。この犬をとおして、みんなで弱いものいじめをすることの快感を味わっているのが、心配だったから。」
 単純に、「非道だから」というだけです。世間で注目されている問題だから云々(うんぬん)というものではありません。

 話が少しずれますが、最近、世間では、いじめの問題に真剣に取り組まれるようになりました。そして、いじめた側を処罰する法律案が出ています。しかし、これは対症療法にすぎず、根本解決になりません。いや、それどころか、なぜいじめが悪いかという理由を、「罰せられるから」だと、子どもたちに解釈させかねません。また、そこから発展して、「罰せられなければ、何をしてもいい」という思いにつながっていきます。
 え?極端ですか?でも、身近なところで、そういう考え方が形成されている場面、多々ありますよ。「校則で禁止されているから、してはいけない」だとか、「お母さんにおこられるから、しない」なんて言う声、よく聞きませんか。これでは、本末転倒ですね。中には、「先生が何も言わへんし」ということを理由にして、校則違反さえ平気でしている子も、よくいます。まさに、「罰せられなければ、何をしてもいい」と同じです。彼らは、「なぜ、いけないのか」を認識していません。
 良し悪しの判断とは、罰せられるか罰せられないかでつけるものではありません。良いか悪いかの判断は、心でつけるものです。いじめ問題にしても、「いじめてはいけないこと」を、「罰する」ことで教える前に、人間の心を育てる方向から解決する姿勢のほうが重要ではないでしょうか。
 人間が共同で社会生活を営む場合、まず、そこから様々な問題が起こり、そして、それに対して、規則や罰則というものが生まれます。しかし、それが本末転倒となって、「罰則があるから、してはいけない」という図式になってしまっているのが、今の世の中かもしれません。そんな思考回路が、現代のあらゆる問題を引き起こしているのだと思います。
 さらに話が飛躍しますが、子どもをしかるとき、「そんなことしたら、お父さんにおこられるよ。」と、脅迫するお母さん、よくいらっしゃいますよね。「罰せられるから」と同じです。これは、よくある叱り方ですが、これでは、心は育ちません。それどころか、子ども心に、この言葉にはお母さんのずるさが感じられ、不信感を募らせるだけでしょう。その証拠に、こう言われた時の子どもの顔は、納得の表情ではなく、不満だらけの表情か、悔しそうな表情をしていると思います。「圧力で言い聞かせる」のではなく、「諭(さと)す」ことが、特に今の世の中では、大事になってきていると思います。


  ― エピローグ ―

 プリゼミの待ち時間は、以前の状態に戻りました。みんな、授業が始まるまでの時間、再び机上の能力開発グッズなどで楽しく遊ぶようになりました。中にはパソコンをつけ、思考力系ソフトで遊ぶ子もいます。その子たちも、今ではまた、電源をつける時には許可を求め、自分で判断できない操作の時には、「これを押していいですか」と確認し、ていねいな扱いを心がけています。それは、「そうしなさいと言われてやっている」のではなく、生徒自身が、「そうすべきだと自分で理解してやっている」のです。

 パソコンに触る子どもたちの間で、先日、こんな会話がありました。同じものをうまくかためながら、消していくパズルをしている時です。
 A「これを消そか。」
 B「アカンアカン。これが1コ残ってしまう。」
 A「じゃあ、ここは?」
 B「ん〜、ちょっと待て・・・。」(考え中)
 A「ポチ。(←マウスをクリックする音)」
 B「あ゛!待て言うたやろ!(怒)」
 A「とりあえず消していこうや!」
 B「むやみに消すなよ。頭つかえや。まず考えろ。」
 A「そっか、ソフトは、知恵のある使い方せなアカンもんな。」

 これを聞いて私は、思わず吹き出しそうになりました。でも、私の「考えよう」という教育観が、子どもたちに浸透したのかなあ、と、嬉しく思いました。
 犬のソフトは、結果的には好ましくないソフトでした。しかし、それに翻弄(ほんろう)されていたこの数ヶ月間、この犬は、ただ有害無益なだけのソフトだったわけでなく、生徒たちにも私にも、「いじめ」や「約束」、「自分の行動をみつめること」、「原因と結果」、「むやみやたらの無意味さ」、「責任」などなど、いろんなことを考えさせてくれたソフトでもありました。
 以前に比べると、生徒たちは、パソコンのソフトに対して、じっくり考えて取り組もうとするなど、有意義に使おうと意識するようになったような感じがします。
 ・・・雨降って地固まる?


  ― あとがき ―

 今回の、この犬ソフトにまつわるエピソードを、みなさまはどんなふうに受け止められたでしょうか。「みわこ先生は、こまかいなあ。」と思われたのではないでしょうか。「なんてことはない事を、いちいち大げさじゃないか?」と思われたかもしれません。でも、私が伝えたかったのは、「教育とは一方的に教えることではなく、子どもに考えさせることだ」ということと、「いかにして考えさせるかは、あえてその機会を作らなくとも、チャンスは四六時中転がっている」ということ、「だから、日常生活そのものが、なんでも考えさせる材料になり、それは大人のもっていき方次第だ。」ということです。そういった意図を含め、私の教育観を伝えたかったのです。たったひとつの「犬のソフト」をめぐって、ここまでふくらますことが出来ます。どんなことにおいても、どんな小さなことでも、すみずみまで、「生徒に考えさせる方向へもっていこう」とする私の姿勢を、わかっていただけたと思います。
 何をするにしても、子どもが、「それをする理由を認識しながらするのと、「言われたからする」とでは、違ってきます。大人の声かけ次第で、同じ行為でも、それにともなう頭の使い方に差が出ます。そして、普段からの、そういう頭の使い方は、学力にも反映されていきます。
 「成長」とは、「大人から教えられていくこと」ではなく、「子どもが、自分の行動や反省の中から、自分で新発見していくこと」だと思います。「しつけ」とは、「それを促してやること」だと思います。プリゼミでは、私は、そんなふうなことに重点を置いて子どもと接するよう、絶えず気をつかっています。
 ひとつひとつは、小さな小さなことですが、日常生活でこれを積み上げていくことが、子どもに大きな影響を与えるということは、想像していただけると思います。子どもにとって、生活の基本の場である家庭は、その役割を大きく担(にな)っています。ですので、ぜひ、保護者のみなさまにも、「考えさせる教育」を心がけていただきたいと思います。


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