| 過去のちょいから (`▽´) ショート日記 |
| <2006秋> 9・10・11月 |
| 2006 9月 「武勇伝・その6」 ♪Fくん答えを言ったげて♪おぅ聞きたいかオレの珍解答♪そのすごい珍解答をゆったげて♪オレの伝説ベストテン!♪レッツゴー。 中学クラスより、理科の授業にて。生徒Fくんの場合。 問題≫850m離れたむこうの山に向かって叫ぶと、山びこは何秒後に聞こえるか。 Fくんの解答≫170秒後 答えは、5秒後です。ちなみに、音の速さはおよそ秒速340m。これは、1分野の「音」からの出題だが、極めて数学的要素の強い問題である。Fくんは、式を間違えてしまったらしい。おまけに、計算ミスもしたようだが、でも、それはいいのだ。式や計算を間違えてしまうのは、まだ構わない。何がダメって、出た値を答えの欄に書いた時点で、気づかなかったこと。 その前に、先日、とあるお笑い番組で、陣内智則の「やまびこ」をネタにしたコントを見た。ネタの中で、忘れかけたころに返ってきたやまびこに対して、陣内が「おそいわ!」とツッコミを入れていたが、Fくん、きみの答えは、まさにそれと同じやぞ。170秒後って、およそ3分後ではないか!「ヤッホー」と言って、3分後に「ヤッホー」と返ってくるってか?おそいわ! ちなみにFくんも、この陣内のやまびこコントを見ていたらしい。ならば気づけ〜。 普通に考えて答えがおかしい、ということに気づかない子。そんな子は、数字だけで解いている。頭の中に場面をイメージしながら解く、ということがない。それは、それまでの勉強法に問題があるのだ。 「こういう時には、こういうふうに解く」 という「やり方」を伝授される勉強法。そして、式と答えが合っていれば○をもらいながら、ひたすらペーパー問題の数をこなしていくという、機械的な勉強法。大半の人が口にする 「こんなの勉強して、将来何になるの?」 という気持ちは、こういう勉強法をクセづかせてしまうような、現代の学習形態からきていると思う。 勉強は、紙上だけでするものではない。紙上と実生活を兼ね合わせなければ、そして、世の中の現象や道理を意識しながらでなければ、本物の思考力はつかず、勉強の値打ちや必要性も理解できない。 武勇伝、武勇伝♪ ぶゆうでんでんででんでん To be continued. (※Fくんに、このエピソードをここに載せることは、了承済み。) 2006 9月 「何も考えない子たち」 以前、地域のふれあい祭に行った時のこと。その中で、中学生の、とある部活による催しものがあった。それには、プリゼミに来ている子の出番もあるので、楽しみにして見に行った。 それは体育館で行なわれた。ひとつ前の演目が終わり、次にその中学生たちのクラブ演目に移るにあたって、しばしの休憩がはさまれた。その間に、部員たちは舞台の準備をしていたが、ここで、行動力のない生徒たちの姿を目撃することとなった。 舞台に、イスや道具をたくさん並べなければいけないその作業。指示している先生は1人で、生徒は40人ほどいたが、先生に指示されるまで、動くでもなく、ボーっと立っているだけの子が多い。また、道具を運びこんでも、要領が悪く、小さいものから運んで舞台に点々と設置し、あとから大きいものを運びこもうとした時には通す道がなく、また小さいものを一旦外に運び出すという具合。イス並べも、間隔がせますぎて、それでは間を人が通れないだろうと、見りゃわかるのに、そのイスの前で何もせず立っているだけの子たち、先生に「そのイス、もっと前に出して」と言われて、やっと動く。言われなきゃわからない、自分たちでは何も考えない子たちである。 彼らにとって、これが初めての催し物ではなく、これまでも、このクラブにとって、こんな催しはしょっちゅうあったことだ。みんな慣れているはずだろうに、なぜこんなに動けないのか、と思った。先生ひとりテンテコ舞いで、準備が進まず、15分の休憩が、30分くらいに伸び、観客席はイライラしていた。 私のうしろの席にいる人たちも、そんな生徒たちの姿に気づいているらしく、「普段、先生は何を教えているのか」という声が聞こえた。 その後始まった演目自体は素晴らしく、名誉挽回といったところで、いざ始まると大いに盛り上がり、すごいなあと、演目には感銘したが。 2006 9月 「料理番組」 料理番組は、いいなあ、と思う。あんなんやったら、いつでもやりたい。材料が器にあらかじめ用意され、調味料も分量がきちっとはかられ、小分けされて置かれている。必要な調理器具も目の前に並んでいる。料理する人は、「ここで、砂糖を大さじ2杯入れま〜す」などと言いながら、用意された材料をポンポン入れていくだけ。何てラクなんだろう! と思ったりしたことありませんか? 実際には、料理というのは、いろんな材料を準備することから始まる。そして、通常では、あらかじめ調味料などを、はかりとって机の上に並べておくなんて、有り得ない。料理しながら「ここで醤油」という時に、さっとはかって入れたりする。また、2品以上を作る時は、こっちでゆがいている間に、こっちで他の材料を切る、みたいに、調理と材料準備を同時進行したりもする。こういうのが、とっても頭を使い、料理の腕に結びついてくるんです。 ところで、もし仮に、これから料理を勉強しようという人が、料理番組のようなシチュエーションで料理の練習をしたら、どうなるか?おそらく、腕は上がらないだろう。 たとえば、「塩を入れる」という作業。料理番組風なら、目の前に並べられた小皿から、何気なく塩の小皿を選ぶだけ。自分で、普段塩が置いてある棚などから、塩のケースを取ってくることと比べれば、どちらが、「ここで塩を入れる」ということを、自分の身に印象深く刻めるか。また、その分量にしても、同じだ。例えば「小さじ2杯」だったとして、準備された塩の小皿をかたむけ、なべにサッと入れることと、スプーンで2杯すくいながら自分ではかって入れることと、どちらが「小さじ2杯」ということを覚えられるか。 お膳立てされる、ということは、苦労を知っている人には有り難いことだが、その苦労をまだ知らなくて、これから学ぼうという姿勢の人には、あまり良くない話なのだ。頭や体を使わないので、その分、身につきにくく、また、発見や工夫も生まれない。失敗しなければ、「失敗から学ぶ」ということすらも、出来ないのだ。きっと、これではぜんぜん向上しないであろう。 …ちょっと話の展開が唐突でしたか? |
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| 2006 10月 「お膳立て」 実は、9月の「3分後に返ってくるやまびこの話」、「先生の指示がないと自分で動けない中学生の話」、「料理番組の話」、この3つの日記は、話題がバラバラのようで、本当はひとつの話でつながっていた。共通のキーワードは、「お膳立て」です。 3つめの料理番組は、お膳立てされると、自分で考える機会がうばわれる、という話。そこからつながって、2つめの行動力のない子どもは、そういうところから生まれる、という話。さらにそこからつながって、1つめのヤマビコの話は、それが勉強にも影響してくる、という話。 「膳立て」・・・「すぐにとりかかれるように準備をすること」(by 大辞泉) 3つめの料理番組の話は、「お膳立て」ということの例そのもの。お膳立てされた上での作業は、素早く、失敗も少ない。物事をスムーズに進めたい時には、必要不可欠の行為だと思う。しかし一方、お膳立てされると、頭を使うことがさほどなく、失敗もないので、そこから得られるものはあまりなく、何かを学ぶ際には禁物だと思う。 子どもに何かをさせるとき、大人の都合でスムーズに行くようにと、大人がお膳立てしてしまうことが多い。また、親が「子どものため」と思って、逆効果になることを知らずにお膳立てしてしまうケースも多い。それが続くと、そういうクセがついてしまい、子どもは自分で考えることができないようになり、大人の指図を受けなきゃ、行動できないようになるのである。それが、2つ目の行動力のない子どもたちの話につながっている。何をしたらいいのかわからない、どうすればいいのかわからない、という子は、大人が子どもに失敗させないようにと取り計らってきた、つまりお膳立てしてきたために、子どもは自分で考える機会を得られず、判断能力が育っていないのである。 お膳立ては、子どもがより快適に過ごせることをイメージしてのことであろうが、それは成長のチャンスを奪う。 つづく 2006 10月 「ほっとけばいい、黙って見とけばいい」 上のつづき。 あまりよい例が浮かばないが、わかりやすいように、少し極端な例でお話ししようと思う。たとえば、遠足でお弁当を食べる時に、大人が座る位置を決めて用意してやる必要はない。大人が「みんながあの山の見える位置に座れるように、席をわけておこう」とか、「おしりが痛いだろうから、石を取り除いといてあげよう」とか、「子ども同士の腕がぶつからないように、左利きの子と右利きの子の席を決めておこう」とかは、いらない。よけいなお世話である。 子どもは、座ってみておしりが痛けりゃ、「なんでだろう?あ、石があるからだ」と発見し、ひとつ賢くなるだろう。そして、自分で石を取り除くなり、シートをずらすなり、解決策を講ずるだろう。座ってみて山が見えなければ、じゃあどこへ行けば山が見えるのかと探す。場所によっては見えたり見えなくなったりするのだなあ、ということを体で知り、また、快適さを得るには、ちょっとした行動力や努力も必要なんだなあ、ということを知るだろう。右利きの子と左利きの子の腕がぶつかれば、「なぜ今ボクたちは、こんなに食べにくい事態に陥っているのか。あ、なるほど、右利きと左利きが隣同士に座ると、こんなことになるのか。」という事実を発見し、「じゃあ、席を交換すればいいんじゃないか?」という知恵や工夫も生まれる。 このように子どもたちが考える前に、子どもが席に着いた時点で、大人が「そんな風に座ったら、お互いの肘が当たるでしょ。食べにくいから、席を交替しなさい。」と口出ししてはならない。ほっとけばいいのだ。黙って見ていればいい。 お膳立てされれば、確かに子どもは困ることも少なく、一見、子どものために良いようにも思える。しかし困ることがなければ、解決しようとする思考力や、工夫しようとする知恵も生まれない。 つづく 2006 10月 「親の自己満足」 上のつづき 子どもにとって負担が大きいだろうと想像し、前もって取り除いてやったり、こどもが少しでもラクなようにと、事前に取り計らってしまうのは、結局は親の勝手なエゴであり、それでラクになるのは子どもではなく、親の心なのだ。子どもはラクになるのではなく、自分で行動する能力が育たず、のちに苦労する。他人の指示がないと行動できないようになり、自分では何も考えない子になってしまう。 そして、それは勉強にも影響する。日常生活において自分では何も考えられない子が、どうやって勉強に「考える頭」を使えるというのか。この子たちには、勉強は自分の頭を使ってするものではなく、人に伝授される「やり方」でするものだ、言われる通りにすればいいものだ、と捉えられてしまう。つまり、自分から行動をおこすという能動的な姿勢ではなく、人から与えられるという受動的な姿勢で、勉強に接してしまうのだ。そして、紙上だけでの機械的な「あてはめ」戦法に徹してしまい、考えたりイメージするような取り組み方はできない。それが、1つ目の、実体のないやまびこの話につながっている。 (ところで、なんだかこう書いていると、「やまびこのFくん」が、「とんでもなく問題児」のように聞こえるかもしれない。だが、彼は決して特別なわけではなく、ごくごく平凡な話であり、今回1つの例としてたまたま挙げられただけで、むしろこういった話題を持っている子は、今や多数派になっていると思う。Fくんの名誉のために言うと、彼は私にとって優等生のうちに入る1人です。) つづく |
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| 2006 11月 「私は何をする人か」 上のつづき さて、私は塾の先生だが、具体的には何をする人なのか。 もちろん、「学力を伸ばす」のが仕事である。では、「学力を伸ばす」とは、どういうことなのか、また、その範囲はどこまで及ぶのか。 私が生徒やその保護者に、教育方針や躾(しつけ)のあり方、日常生活における意識の持ちようなどについて、口出しすることがある。それに対して、めったにおられないが、「先生は勉強を教えてくれるだけでいい」と仰る保護者の方が、たんまにおられる。 だが、勉強と日常生活は、切り離せるだろうか。 日常生活で、すぐに飽きて何でもほったらかしにすることを許されている子が、勉強は粘り強くできるといえるのだろうか。 日常生活で便利なものを与えられ苦労を知らない子が、勉強ではがまん強く地道に努力できるといえるのだろうか。 日常生活で考えるクセのない子が、ここプリゼミに来て、勉強では一生懸命考え抜くことができるといえるのだろうか。 ふだん大人のいいなりで過ごす子が、勉強では自分の知恵を働かせることができるといえるのだろうか。 日常生活で無気力な子が、勉強には意欲的に取り組めるといえるのだろうか。 日常生活で約束をあまり守らない子が、勉強にはきちっと向き合えるといえるのだろうか。 お膳立てされた環境で過ごし、日常生活から得ているものがあまりない子が、勉強では柔軟な発想をひらめかせるといえるのだろうか。 ふだん受け身姿勢の生活を送っている子が、勉強には自発的な姿勢で臨む、なんてことは、まずない。 子どもに、うわっつらの学力ではなく、本物の学力を身につけさせるためには、勉強と日常生活は、持ちつ持たれつ、互いに深くかかわり合い、影響し合う関係にあることを、大人は認識すべきである。 つづく 2006 11月 「真の学力のために」 上のつづき そんなわけで、日常生活のことを切り離して、学力を伸ばしてやることなぞ、私には出来ない。出来る塾や先生がいるとしたら、機械的な「やり方」を押し付けているだけではないか。「やり方」を伝授する勉強法は、表面的に目先の成績を上げるが、中身がない。その場をやり過ごしても、いつか後に困ってくるのは、子どもなのだ。これでは、子どものことを考えている先生とは言えない。それは、自分のことを優先する浅はかな先生であるか、真の教育をわかっていない勘違い先生だと思う。 私は、塾の先生であるがゆえ、子どもの真の学力を伸ばすことが仕事であるからこそ、机上の勉強以外のところでも指導の必要性を感じ、日常のことにも口出しする。 学力を伸ばすことは、ご家庭のご協力なしでは、できません。子どもを、どんなに優秀な医者にかけても、家庭で好きなものばかり食べさせていては健康にならないのと同じです。家での食習慣も変え、医者と連帯して治療に当たることが必要なように、勉強についても、保護者と先生が協力し合うことは、必要不可欠です。 しかし、勉強にはご家庭での生活が影響するということを、保護者の方に理解していただけないこともあります。ご家庭での指導方針や生活態度、親の関わり方などを考慮に入れることなしでの「成績を上げるのが講師の腕だろう」とか、「先生は勉強を教えてくれるだけでいい」というご意見は、学力と日常生活を全く別物だと考えてしまっている保護者から出るのです。そして私は、時には、保護者にとって耳が痛いであろう話も、せざるを得ないのですが、誤解されることもあります。それで、お互いつらい思いをするだけのこともあります。しかし、今は理解を得られなかった保護者の方たちにも、いつかはわかっていただけると思っています。そもそも、今わかっていただこうというのは、難しいことなのですから…。そしてまた、教育とは、結果が出るのは、ずっとずっと後のことなのです。数十年先に、答えが出るものなのです。 だからこそ、保護者の方は、今は手探り状態であるのだろうと思うし、もし今誤解をされたとしても、私はそれを取り繕うより、子どものことを考えれば、数十年先まで保留にするほうを選びます。たとえ、その数十年間、誤解され続けたままだとしても、いいのです。いつか、振り返っていただける時が来て、「あの時、美和子先生のおっしゃっていたことが、今わかるわ。」と思っていただければ、幸いです。 つづく 2006 11月 「親の気持ち」 上のつづき。 このようなことを言いつつ、実は私、正直なことを言うと、保護者と話をすることに、まだまだ難しさを感じています。上手に話さなければ真意が通じず、上にも書いたように、誤解されてしまうからです。それはとてもつらいことです。つらいというのは、誤解されるという事実がではなく、それによって、子どもの可能性が隔てられてしまうことがです。往々にして、保護者にとって耳が痛いであろう話をせねばならない時というのは、子どもがひとつの試練の壁を乗り越えねばならない時期がやってきた時でもあり、親子ともども少し苦しい経験を味わわねばならない時です。そこで、保護者とうまく話し合い、良い方向へ進んで、この難関を乗り越えられれば、子どもは大きく成長できるであろうに、こちらの真意が伝わらず無駄に保護者の怒りを買ってしまうだけで終わってしまえば、みんなの(子どもだけでなく、親と、そしてまた私自身もの)大事な成長のチャンスを逃してしまうことになり、それは非常に残念なことです。 保護者にとって耳が痛いであろう話をしている時、もちろん私は、子どもをけなしたいのではなく、保護者を責めたいのでもありません。そうではなく、好ましくない方向へ子どもが向かってしまっているのを見過ごせず、軌道修正させたい一心で、話しています。しかし、こちらの意図と反して、保護者が「うちの子がけなされている」「親が非難されている」と感じてしまえば、こちらの本意が伝わらなくなってしまいます。親にとって、かわいい我が子がけなされるというのは、腹立たしいことでしょう。そして、保護者が一旦そう感じてしまうと、何を話しても「先生は、いいわけをしている」「子どもや親のせいにしている」「責任のがれをしている」と、腹立たしい気持ちでしか受け取られなくなってしまいます。なのに、こんなふうに保護者を怒らせる危険をはらんでまで、わざわざそんな話をするのは、やはり私はただ、子どもの歩む道や方角の間違いを、修正したいからです。 子どもの成長や学力や心理状態に問題を見出した時、そしてまた、それが普段の生活か、家庭か、保護者かに起因すると考えられる時、先生と保護者が話し合い、協力して問題に向き合っていくことが必要です。そのためには、その事実を保護者に伝えざるを得ないのです。「子どものため」という気持ちが、どう話せば通じるのか。 「なるべく保護者を傷つけないよう、どんな言葉を選ぶべきか」 「何から話せば、穏やかな心持ちで話し合っていただけるか」 「どんな順番で進めれば、怒りを買わぬまま話を核心にもっていけるか」 …そんなことを考えていると、私は慎重になってしまい、考えているうちに日が経ってしまって、保護者と話し合うキッカケをつかめるのが、ちょっと遅くなってしまうこともあります。ちょっとこれはいかんな〜と反省する今日このごろ。 つづく 2006 11月 「十人十色だから」 上のつづき。 (最近「つづく」ばかりで、チェーン日記のようになってきた。) いろんな子どもがいます。プリゼミのパンフレットにも指導方針として書いていますが、同じ算数の問題で、同じような間違い方をしているように見えても、その原因や考え方は、ひとりひとり違っていたりします。その人の思考回路は、その人にしかないものです。なので、指導法も、子どもごとに変えていかねばなりません。Aさんに効果的だったからといって、同じ対処法がBさんにも通ずるというわけではありません。 保護者対応にしても、同じです。いろんな保護者がいらっしゃって、考えも様々なので、どの方とも同じような方法で意思疎通をはかれるわけではありません。同じ話をして、みなが同じように受け取ってくださるわけではないので、保護者ごとに、どう対応すべきか、非常に悩みます。かといって、みなさんに全くバラバラの話をするわけではなく、教育に対する私の信念は一貫しているので、結局はどの方にも、基本的にはベースが同じな話をします。しかし、それをどのように伝えるかが、保護者ごとに、最善の方法を探らねばなりません。さらに保護者は、生徒より、はるかに会う機会が少ないので、いっそう個人個人の所思をとらえにくく、意思疎通をはかるのが、とても難しく感じられます。 そして、時には、意思の疎通に失敗することもあります。それは、私の未熟さゆえ話の持っていき方が悪く、保護者の怒りを買ってしまったという時もあるだろうし、また、今はどう話しても仕方がなかったという場合もあるだろうと思います。どんな考えや意見でも、万人に受け入れられるものは、ないからです。すぐに通じ合えて、私と意気投合というくらいまでの関係を築ける保護者がいらっしゃる一方で、何を話しても食い違ってしまうという保護者もいらっしゃいます。しかし、それは仕方のないことかもしれません。むしろそれは、こちらが、子どものためを第一に考えている証だとも言えるかもしれません。保護者によってコロコロ意見を変える八方美人ではなく、教育に信念を持っていて、子どもにとっての最善を考えるがゆえ、それが一貫性を保っているからこそ、どうしても通じ合えない保護者というのも発生するのだろう、と思うからです。 ただ、前回の日記にも書いたように、どんな場合でも、真剣に誠意を持って話せたという自己への納得があれば(決してひとりよがりではなく)、結果を未来に託すことができます。「今はわかってもらえなくても、いつかはわかってもらえる」と信じることができます。だから私は、常に誰に対しても、後悔のないよう、偽りのない正直な気持ちをお話ししようと心がけているつもりです。 |