01
ある日のこと
ここ東方司令部から人がいなくなるなんてのはありえない。たとえそれが草木も眠る丑三つ時であっても。ただ、誰もいないんじゃないのかと感じることは偶にあった。特にこんな風にがらんとした司令室に大佐と二人でいる深夜には。昼間の喧騒がどんなものだったか。その記憶がひどく遠い。省エネを掲げる大佐が不必要な電気を消してしまったせいで司令室の半分が暗闇に包まれてるからかもしれないし、誰もいないせいでさっきからお互いの声が響き過ぎてるからかもしれない。
「まだ終わんないんスか?」
「終わってたまるか」
「終わってくれないとオレがいつまでたっても帰れないんスけど…」
残業。残業…。するべきことが勤務時間内に終わらなかったらそれをすることはやむなしだ。と、さすがにオレだってそう思うことができる。でも、これはそういう類のものではない。オレのやるべきことはちゃんと8時間も前に終わっていた。終わっていないのは、一人で残業させても確実にサボって書類を山と積み重ねていくだろうと信頼篤い東方司令部司令官のマスタング大佐だ。
その結果、大佐の残業には誰かしら監視員が必要となり、不運にも今回そのお役目をいただいたのはオレだった。そして、大佐はこのお役目の虚しさをちっとも分かってくれてなかった。
「そこに座っているだけで残業代がたっぷり付くのだからいいじゃないか」
「その金を使う時間がねえんスけど。それに、これほど残業してんのうちだけだし」
「それでも残業代が付くんだから文句を言うな」
「はあ? 残業代ぐらいどこでも付くでしょ」
「――おい、ちゃんと残業代が付く部署の方が圧倒的に少ないぞ」
何それ。
「知らなかったんだな。上司の心を部下が慮ることはないのか。私の苦労も知らずに、こいつは毎月の給与明細をにたにたと見ていたというわけか…」
「………………」
「ああ…! 所詮、私は中間管理職というわけか。なんて孤独なのだろう。こんな気持ちでこれ以上この書類たちにサインすることなどできない。うっ、涙で書類が見えない…」
両手で顔を覆ったせいで、これまでサインをするために順調に動いていた右手の動きが止まった。どんな与太事を言っても手さえ動いてれば、オレは大佐に寛大でいられた。もちろんいつも相槌を打つ気はなかったけど。
「アンタ、余裕っスね。そんなんでマジにホークアイ中尉が来るまでに終わるんスか? 遊んでないで、手ぇ動かして下さいよ。全く…」
後たった5時間しかないんスけど。この残業でのノルマを達成させることができなかったら、このお役目は続行されることになっていた。実に不毛だ。やってらんねえ。
そう思った瞬間、オレの心の声を聞いたかのように、ペンが飛んだ。大佐のでっかい机をはさんで向かいに座る、至近距離にいたオレ目掛けて。鋭い軌跡で鼻頭を掠めたそれはかつんと高い音を立てて床に転がった。辺りに黒い染みを点々と作って。
「バカアホマヌケ垂れ目!」
「あー、もう、ペン投げない。インク飛んでるし。誰が片付けると思ってんスか」
「お前」
「………………」
「ペンを拾うのも飛んだインクを拭くのもコーヒーをいれるのもお前だ。書類が終わらないのも帰れないのもホークアイが静かに怒るのもお前のせいだ。私だってがんばっているだろう。連日連夜、残業している。お前は仕事をしていないと言うが、お前が言うところの仕事とは一体何なんだ? 常に身体を動かしていなければ仕事をしていないとでも言う気か?」
「………………」
「ああ、そうだな。少尉殿の仕事は身体を動かしていれば事足りるものな。私の仕事も同様だと考えれば、私がちっとも仕事をしていないと考えられるだろう。はっ! これだから、沈思黙考を知らない奴はっ!」
「………………」
「私も目の前の少尉殿のように書類の全文に目を通さずさっさとサインだけをしてこの仕事を終わらせたいものだ!」
「大佐…」
「あああああー、もう私だって帰りたいっ! 何でこんなに仕事が終わらないんだ!」
「………………」
それはオレのセリフだ。アンタが日中サボってっからこうなんじゃん…。逆ギレなんてしてんじゃねえっての。こっちは特別手当がほしいくらいなのに。
「言いたいことがあるならはっきりと言いたまえ。ハボック少尉。でかいのは身体だけかね?」
「――日中にお仕事なさったらこんな時間まで引っ張ることはねえんじゃないんスかね、って言ったんスよ」
「日中!? これ以上どこに仕事をする余地があると言うんだ!? あるなら、是非教えてもらいたいところだね!」
「はあ? 何言ってんスか? アンタが司令室やら執務室やら抜け出して昼寝してる時間は何なんスか?」
「ここ1ヶ月の話だぞ」
「昨日だって、オレが外回りから帰ってきてすぐの仕事はどっかで昼寝してたアンタを探すことだったんスけど? 報告書、書く前にまず司令部中アンタを探して確保して連行するって一体どういうことなんスか?」
オレのあまりに当たり前の疑問に、大佐が怪訝そうに眉を顰めた。顔にでかでかとお前はバカかと描いてあるような気がするのはオレの被害妄想かもしれない。
「―――最近の私のシフトを知らないのか、お前は?」
「はあ?」
「私が何日ここに泊り込んでいると思っているんだ。私はそれこそ夜も昼もなく働いている。日中の仮眠なくして、こうも働けると思っているのか!」
「………………」
「だがまあ、お前が焔の錬金術師である私にそれが可能だと思ってしまったことは仕方がないことだ。なにせ、私は焔の錬金術師だからな。わはははは!」
日中のあれは仮眠だったのか。でも、何で通常勤務時間にそれを行う必要があるんだろう。それは普通の疑問だったけど、眠気のピークでテンションが高くなってしまっている人の言うことだった。素直にはいそうですかとは言えるものではない。
「あー、もう眠い…」
「コーヒーでもいれてきますよ、ええ、はい。寝ないでくださいよ、マジで! 終わんなかったらオレも怒られるんスから!」
「―――知るか、そんなの…。ノンカフェインにしてくれ。肝臓に優しいものが飲みたい…」
「それじゃあ意味ないでしょ」
「意味はある…。種々の副作用の伴った刺激物質による覚醒ではなく、お前の優しさによる、半ば反射的な覚醒が好ましいと言っているんだ…」
「優しさねえ…」
顔面にペンぶっ刺そうとして、ねえ。
それでも、がっくりと肩を落として項垂れる姿から本当に疲れが滲んで見えた。この人は連続8時間ずっとトイレにも立たず机に向かっていた。そろそろ本当に休憩が必要なのかもしれない。
このまま一気に残りの書類にもサインさせたい気持ちをぐっと抑え、席を立った。コーヒーと雑巾を持ってくるために。それに、この人がまき散らかしたインク染みも乾いてしまう内に拭き取ってしまわないとならない。
「何か話せ、そうしないと本当に眠ってしまうだろう…」
小さくやや擦れ気味で、もう眠いと言っている声でも司令室内にいる限り、聞き取ることに苦労はなかった。
「あー、もう…。えーっと、残業代付かない部署って本当にあるんスか?」
「普通は付かない。それが慣習になっている」
「えー、うそ! でもオレの同僚でもらってる奴いますけど?」
「それは東方司令官である私が付けているから、それにならっているんだ。私のことがムカつく方々は決して慣習を破ったりはなさらない」
「アンタって本当に東方司令官だったんスね…」
「お前は直属の上司の肩書きを今までなんだと思っていたんだ…」
「ははははは…、そうっスね…」
「………………」
「あー、でも、残業代って付くの当たり前だと思ってましたよ、オレ」
「私もそう思っている。当たり前のことを当たり前にすることはとても大切なことなのだ…」
「おおー! ちょっと感動しました。はい、どうぞ」
話の合間でごちんと音が聞こえてた。項垂れすぎた頭が机にぶつかった音だろう。
額を擦っている大佐に、笑顔でカップを差し出すと釣られるように子供のような笑顔がにこっと浮かんだ。眠気が極限状態にあるのは手に取るように分かる。
「――コーヒーは…?」
でも、カップの中を覗き込むと、その笑顔が見る見る内に曇って、眉毛が八の字になってしまった。
「ノンカフェインがいいんでしょ?」
「………………」
しかも心なしか見上げる目が潤んでる。
「がんばってる東方司令官どののお望みにお応えしたかったんスよ。でも、何がノンカフェインで何がカフェイン入りなのかわかんなかったんでお湯です。でも、ただのお湯じゃないっスよ。オレの優しさ入りですからね!」
「―――あ、ありがと、う…」
「いいえ、どういたしまして!」
「残業代のお礼です。さすが焔の錬金術師! オレは立派な上司の下につけて本当に嬉しいっス。頑張りましょう! マスタング大佐どの!! オレは勤勉で部下思いで当たり前のことを当たり前にしようとする上司につけて本当に幸せです。さあ、続きをしましょう!」
「………………」
「お疲れなら肩でもお揉みしましょうか?」
オレはもちろん笑顔で言った。この人がどれほど疲れていようがノルマを達成することは、果たさなくてはならないことなのだ。そのためには歯が浮くようなことだって言おうとも!
「………………」
疑わしそうな視線にも笑顔で押し切る。これはこの人から何回も面白いように扱われて、学んだ手法だ。
「………………」
「………………」
交錯する視線。後一押しは怒涛の言葉攻めが効果的だ。
「我らがマスタング大佐が締め切りを破って関係各所に残業を強いるなんてことはないですよね? 残業代が付かない部署もあるのに、残業を無闇に増やすようなことはないですよね? マスタング大佐ともあろう人が、ね! 残業代が付かない部署に好きで入った奴らはいないと思うんスよ。不可抗力で入った部署に残業代が付かなくて、ってことで。だったら、そんな部署にいる奴らのことも考えて、残業そのものを減らす方向で動くってのが真の東方司令官ですよね。ああ、これはオレなんかが言うことじゃないっスね。はい。センエツでした。スンマセン。あ、東方司令官どの。さっきから手が止まってますよ」
力なく垂れた腕を机の上において、その手にペンを握らせる。このままがガムテープで固定しちゃいましょうかと聞いてみると、さすがに手に力が戻った。そして、8時間ずっと座っていた大佐の向かいの席に戻る。
「はあ…。―――ハボック…」
「はい?」
机の上の書類の山の一つが、その上に東方司令官の印章を乗せて、ずずずっと近寄ってきた。
「これに判子を押せ。それだけなら誰が押したって変わらん」
「いいんスか? 原則、アンタしか押しちゃだめなやつでしょ、それ?」
「そんなことを言っていたら今日は仮眠すら取れないだろう…。ほら、東方司令官さまのお役に立ってみせろ」
「ばれたらオレ知りませんからね」
私も知らない。そう言って、さっきまでとは明らかに違うスピードで書類を捲りサインをしていく。それは集中力が増したとかノってきたとかいうより、読んだり吟味したりする時間を省いたためだ。それをオレはわが身かわいさもあって、聞こえない、見えない振りをした…。
でも、それも30分ともたなかった。黒い頭が力なく、垂れ下がっていく。
「あー、もう飽きた…」
戦慄の一声と共に大佐の動きが完全に止まった。まるで電池が切れるかのように。
「はあ? ねえ、ちょっと! アンタ!! 突っ伏さないで! マジで!」
「―――私も偶には外回りとかしたいなあ…。身体も動かしたい。力仕事をして疲れて気絶するように眠るなんて、いいなあ。いや、そんな贅沢は言うまい。そうだなあ、走ったり殴ったり投げたりするだけでがまんしよう…。ハボック…」
「そんな風に書類の上に突っ伏すと書類にアンタの涎が付いて書き直しになりますよ! ついでにアンタの自慢の顔にインクが付きますよ!」
手遅れになる前に机から身体を引き離す。起きられないなら椅子にガムテープで固定しますよと言っても、うーんとしか返ってこない。
「うん…」
「うんじゃねえし…。ちょっと、大佐!」
「う〜ん」
「寝ないでくださいよ、マジで! 判子ぐらいオレが押しますから。ちょっと!」
「それは何よりだ…。――ハボック、うるさい…」
「うわあああああ! マジで寝る気だし、この人! ちょっと! ちょっと!!」
頭を掴んで直接的に脳に刺激を与えてみても、もう目は開かなかった。
「触るな…。揺らすな…。上官侮辱罪だぞ…」
「眠りそうな上官起こして、侮辱もなにもないでしょ!?むしろ恩人だし! ねえ!」
カラスが一鳴き。
窓に意識を向ければ空がもう明るんでいた…。
「ねえ! ちょっと、マジで!! 急いでってばっ!!」
02
また、別のある日のこと
ここ東方司令部から人がいなくなるなんてことはありえない。例えそれが草木も眠る丑三つ時であっても。ただ、誰もいないのではないかと感じることは稀にありえた。特にこんな風に秒針の音まで聞こえてきそうな静かな司令室にハボックと二人でいる深夜には。昼間の喧騒がどのようなものだったか。その記憶がひどく遠い。省エネのために不必要な電気を消してしまったせいで司令室の半分は暗闇に包まれているからかもしれないし、誰もいないせいでさっきからお互いの声が響き過ぎているからかもしれない。
「えーっと、はい?」
「『どう書いたらいいんスか?』というのは質問ではないと言っているんだよ。ちゃんと頭を働かせた上で分からないことがあるなら、この私に質問でも何でもしたまえ」
「………………」
残業。残業…。それは勤務時間などあって無きが如しの私には無意味な概念である。司令部に残って行うか、自宅に持ち帰って行うかの違いでしかない。それも効率を考えて判断する事柄であった。
しかし、ハボックにとっては違う。平均的な尉官にとって勤務時間内に行い得ると考える仕事内容を当たり前のように終わらせられず、日々堆積していくそれを消化せざる得ない重要な時間だった。
部下の能力を並列化して理解したいわけではない私は、何故ハボックがこうも残業を強いられているのか知る必要があった。ハボックが真にこれらのデスクワークに負担を感じていて、その他の業務にまで支障をきたすのであれば何らかの対処を取らなくてはならない。ハボックが残業を行う際にしばしば同席をするのは、それを見極めるためでもあった。
「ハボック、脳はね。使わなければ本当に退化していくものなのだよ」
「………………」
「ああ、ちょっと難しかったか?」
「………………」
暢気な顔が少し顰められる。僅かな反応だったが、私の言葉がちゃんと聞こえ、理解していることの証明でもあり、少々安堵した。
「そうだな。――例えば、お前は毎日走る。それは雨の日でも雪の日でも、どれほど暑い日でも関係ないだろう?」
「………………」
今度は目を見開いて、まさにポカーンという擬音語が聞こえてきそうな顔をするハボックに、今更ながら不安になってきた。
「―――ハボック、手は動かしながら聞け」
「……………… 」
「ああ、それが高度すぎるのならば、手を止めて私の話しを聞くことを許可する」
「………………」
「お前のその鍛えられた身体は毎日走っているからこそ保たれている。もし身体を動かすことを長い間、しなかったらどうなる? ――そうだ。お前は背が高いだけのもやしになってしまうだろう。しかも、お前なら豆もやしだ。頭が黄色いから」
「………………」
「わはははははは!」
「………………」
「―――ここは笑うところだぞ。笑え」
「ははは」
乾いた笑い。お前の脳内の緊張を解そうとしているにも関わらず。
「………………」
「………………」
交錯する視線。ハボックは私の言おうとしていることを理解できていないから、それは仕方がないことなのだ。
「――まあ、いい。つまり私が言いたいことは、こういうことは身体を鍛えることと同じで、日々の鍛錬が重要だということだ。人の手を借りていてはいつまでたっても満足にデスクワークができないままだぞ? 今は時間がかかっても良いから、一枚一枚丁寧にやるんだ」
そうすれば、こんなにも残業をすることは減るだろう。お前だって、学習能力が全くないわけではない。ただ人より多くの学習を要するというだけなのだ。
「あ、そうだ、大佐。明日からオレと一緒に走りません? こういっちゃあなんですけど、アンタだって軍人なんスから…」
「………………」
突然の話題転換。思考が一つのことへ留まっていられないのは、婉曲的な不快表現か。それほどまでにお前はデスクワークが嫌なのか。
「日々の積み重ねが重要なんでしょ?」
「………………」
「手遅れになってから体鍛えるの辛いですよ? 今からはじめた方がオレ的にはいいと思うんスけどね。一日、30分。身体を動かすだけでも随分違うと思いますよ?」
「―――ハボック、手を動かしたまえよ…」
「あー、そうっスね…」
ぽりぽりと頭を掻く仕草。いつまで経っても残業を終えられないことや、強引な話題転換による自分にとって不都合なことを幼稚に回避しようとしたことに対する、自信喪失感の高まりのサイン。このままでは益々デスクワークが嫌いになり、苦手になってしまう危険性があった。私はハボックの自己効力感を高める必要性を感じた。
「――でも、毎日走るのは悪くないかもしれないなぁ。うん。よし。時間的に余裕があるときは私も走ろう」
「えー…」
「楽しくなってきたぞ。そうだな。こんなに一日中椅子に座りっぱなしというのは良くないな。人間、時には走り殴り投げることが必要だ。お前の言うことは正しい」
「………………」
笑顔をそえて共感を現し、エンパワーメント。しかし、私の好意はハボックに伝わらなかった。
「――いつも好き勝手してんジャン。これ以上好き勝手してどうすんだって…。アンタもいい加減、仕事に戻ってくださいよ」
小声でぼそぼそと呟かれる言葉。しかも小声で話すことで自らの意識化では私への配慮をしているという自己擁護感を作り、しかしちゃんと私に聞かせるように小声で話すところが小利口なやり口だった。平たく言うと、ハボックがこんな方法を使うことにちょっといらっと感じたことは否めない。
「私はお前と違ってちゃんと手を動かしながら話していた。終わりは近い」
「えー! うそ!? まだまだあるでしょ!? 」
「確かにまだまだある。しかし全てが全て今この時に終わらせなくてはならないものではない。お前と違ってな」
「えー……」
「わははははは!」
さあ、私はもう帰るのだ。ここにいてももう楽しくもなんともないのだし!
ハボックがこれ見よがしに机に突っ伏した。
「あー、もう…。飽きた…。これ以上字なんて見たくも書きたくもねえ…。あー、辛い…。誰もこの辛さを分かってくれないし…。オレだって好きで頭が悪いわけじゃねえのに…」
「………………」
「理解されないって辛いなあ…。悲しいなあ…。寂しい…」
「………………」
確かに、私にはハボックほどの頭の悪さをなかなか理解しがたく感じている。故にこのように時間を割いては、理解しようと勤めてきた。そう。私には絶対的なところでハボックの気持ちに共感できない自信があった。
「………………」
「………………」
確かに私は頭が良い。しかし、頭の悪い人間と容易く共通理解を結ぶことはおろか、頭の悪い人間の思考を容易く理解できるほど、頭が良いわけではないのだ。
「………………」
「………………」
それでも、お前を理解したいと思うからこそ、こうしてコミュニケーションを図ろうとしているんだ。だから、そんなことを言わないでほしい。私が寂しくなってしまうだろう。
「―――ねえ、大佐…」
「………………」
「バカな奴って嫌いですか?」
「………………」
何て答えにくい質問!
「まあ、嫌いですよね。アンタ、そういう人だもんね…。――――はぁ…」
「………………」
答えを分かっているのなら質問しないでくれ。私はできる限りお前には嘘をつきたくないと思っているんだ。しかし、重要なことはそんな一般的な好みではあるまい。何事においても例外はあるのだ。
「オレの実家じゃあね、いや、オレが育ったような場所じゃあね、オレはこれでもなかなか優秀な奴だったんです。だからつい士官学校なんか受験しちまったんですよ。そんでその受験の日はなんの因果か今までにないほどカンが冴え渡っていたんです。それが間違いだったんですよ。そもそも明日の天気が分かったり、ザリガニ上手に釣ったり、どこにカブトムシがいてどうやったら捕まえられるか、アンタ知ってます?」
「………………」
カンというものは経験の中でしか培われないものだと考えている。お前が士官学校の入学試験に受かったのなら、それなりに勉強してきた結果ではないのか? それとも本当に勉強せずに受かったというのならそれはカンというより、もはや一種の特殊能力に近いのではないだろうか?
「あ、もう徹底的に無視する気なんスね? バカの話には相槌も打てないってことなんスね。もう田舎に帰りてえよう。都会は世知辛くて…。ときどき、っていうかよく嗤われてんのは知ってますよ。こんな頭が悪いのがアンタの副官の一人だなんて、って…」
「………………」
それは私も知っている。代替として、頭の良い護衛官を推挙されたことも少なくない。
「確かに四則計算ぐらいしか満足にできませんよ、オレは。でもフツーそれでちゃんと上手くいくんだから問題ないと思うんスけど、どうなんスか?」
どの辺りで上手くいっているのか教えてほしいぞ。どうしてお前は今この時のこの現状を無視してそんなことが言えるんだ。―――せめて確率統計ぐらいできてほしい。分数の説明からしなくてはならないとは思いたくもないんだ。ハボック、私の苦しい胸の内も察してほしい。
「何スか! オレに聞こえないように悪口言うの止めてください!」
「悪口なんか言っていないだろう?」
思ってもいない。私は客観的事実を述べ、模索しているのだ。
「―――しかも、何か帰り支度してるし…」
「本日の業務は終了したんだ。後は帰るだけだ」
「アンタの仕事はまだ終わってないでしょ!」
「はあ? 後、何が残っているというんだ?」
「オレの手伝い!!」
「………………」
「………………」
お前の手伝い? 誰が? もしや、私がか?
「コーヒーでもいれてきて欲しいのか…? 」
「ここ! 隣に座ってください! んで、ヒント! 流れるようにタイミングよくオレに分かるように出す!」
「――――お前なあ…」
「オレはペンを持つだけで、もうこんなにもがんばってるんスよ! 手伝ってくれなきゃ、マジで田舎に帰るっ!!」
「はあ…。コーヒー、いれてくるから待ってろ…」
「早くしてくださいね…」
「………………」
カラスが一鳴き。
窓に意識を向ければ空がもう明るんでいた…。
「でも、まだ夜は明けない…