01
誰が相手でも構わなかったハズだ。ヒューズ中佐は電話に出た相手を確認しないで話はじめ、誰にその無駄話をしているかやっと気に留めてくれたのは優に20分を超えてからだった。しかし、依然として電話から聞こえてくる話は途切れる気配を見せない…。
「まだあんだよ。なあ、ちょっと聞いてくれよー、最近さあー…」
精神的な限界をひしひしと感じて、事故を装って電話を切ってしまおうをしたときだった。――お前ら、そろそろ倦怠期じゃねーの?と、イヒヒと品のない笑い声と一緒に吐かれた暴言を受話器から拾ってしまったのは。思わず受話器を握る手に力がこもった。
「ロイは絶対そうだろうなあ〜。だって、お前って単純なんだもん。いっつも同じ。ロイちゃん飽き飽きってな?」
「………………」
「押して押してばっかじゃダメなんだよ。時には引いてみろ。そしたらロイちゃんだってドッキンだぜ!」
何がロイちゃんドッキンだよ…。と思いつつも、時には引いてみるのもアリなのかもしれないとか、あの人に追いかけられてみたいとか思う気持ちが全くないとは言えなくて。
気が付けば、周囲の視線から逃げるようにして電話を抱え込んで机の下にもぐりこんでいた。
「――引いてみてそのままってなったら、アンタ責任とってくれるんスか?」
そういう危惧が大いにあるから、オレとしては強く出れなかったりしてて…。
「オイオイ、やっとしゃべったと思ったらなんだよ。試してみたらいいだろ」
「オレたちの仲、裂きたいだけで言ってんでしょ?」
そう言いながらも、もう頭の中ではどうやって引こうかなんて考えがぐるぐる回っていた…。あなたって退屈な人ねと言って、オレから去って行った星の数ほどの女たちの面影が頭を過ぎった。星の数ほどなんて言い過ぎだけど…。
――でも、やっぱ、このままじゃ、大佐にとってもオレは退屈な奴なのかも?
「親友の恋路を充実したものにしてやろうと応援してやってるありがたいアドバイス以外の何ものでもないだろうがっ!」
そんな言葉は信頼に値しないが、参考にはなるかもしれないと思ってしまった。
「例えば、どんな感じっスか?」
「あー、ほら、呼ばれても返事しないとか?」
「仕事でそれはできないっスけど…」
「えー、んじゃあ、一緒にメシ食いに行かないとか?」
「月末で、それはちょっと…」
「何だよ、貧乏臭えな。んーと、口利かない?」
「護衛なんですよ、オレは。口利かないとかできるわけないでしょ?もうちょっと、ましなことを言ってくださいよ、中佐」
「あー、面倒臭くなってきやがったな。じゃあ、アレだ。ロイが普段やっている感じ?――あ、ヤベ。見つかっちまった」
唐突にそう言ってヒューズ中佐は電話を切った。止める間すらなく、さっさと…。
なんて勝手な人間なんだと切れた電話をまじまじと見ていたら、頭上からブレダの心底呆れた声が聞こえた。
「何、大佐みたいなことしてんだよ」
生活の質を高めようとしてるんだとオレは机の下から呟いた。
どうしたら『引ける』のか、その後オレは考え続けた。で、その結果、オレからはできるだけ話かけないで、大佐から話かけられたら、そっけない態度で。
そんな程度のことでも、オレはこのささやかなイタズラに少し浮き足立っていた。
ある日は昼を過ぎた時間にいつものように大佐に手招きされて。
「ハボック、昼は済ませたか」
にこやかに大佐に言われて、はあとだけ答えたら、そうかとそっけなく返された。
ある日は司令室を帰り際、いつものように大佐に残業手伝ってとその声色に滲ませながら。
「ハボック」
そう呼び止められて、隊で飲みに行くんですけどとそっけなく答えたら、またもや、そうか、とそっけなく返された。
ある日は大佐を家まで送って行って、いつものように大佐の家に上がりこまないでそのまま玄関先で帰ろうとして。大佐がもの言いたげにオレを振り仰いでも、気が付かない振りをしたら、静かに扉が閉ざされた。
そんなこんなが日々続いても、大佐は普段と変わりなく、もうヒューズ中佐が言うところの『引く』ことに飽きてきたころ、その原因の中佐から電話がかかってきた。
「――オイ、お前ら、何かあったのか?最近、ロイからの電話が引っ切りなしでよ。まあ、それはいいんだけど。でも、ハボックが冷たい冷たいってばっかなんだよ!俺様と話してんのに!うぜえから何とかしろ!酔っ払って、ネチネチネチネチネチネチネチネチ、ハボックがどうのこうのハボックのなにがなんでハボックのどこがどうでって、聞きたくもねえこと聞かされる身にもなれよ!」
アンタ、前にオレになんて言ったか忘れたのか…。
今度こそ、オレはムカついたまま電話を叩き切った。そして、自分がどうしようもなく面倒臭い人たちと関わっていることを思い出した。
02
いつもは昼を済ませていたって、私が誘えば、まだ食ってないんスかとかぶつぶつ言いながらも付いてくる奴だったのに。言葉少なに、はあとだけ言って視線を逸らしたハボックに、私は自分が思っている以上に動揺を覚えた。動揺しすぎて、そうかとしか口が動かなかった。
ハボックが冷たく私の前から立ち去ると、空腹のひもじい身に骨身に染みる寒さが襲ってきて、私から席を立つ意欲を奪って行く。私はこの動揺を収めるために新たな書類の山に手を伸ばした。
現実逃避さながら、背中を丸めてサインをし続けていると、山が半分崩れた時点でホークアイが呆れ顔ながらも遅いお昼に私を誘ってくれた。
本日2度目となるランチにホークアイは東方司令部の食堂で最も高い定食を頼み、この食堂では大きなエビフライをほお張りながら一部始終を見ていた彼女は言った。――ハボック少尉をいじめすぎたんじゃないのですか、と。
――いじめすぎもなにも、私はいつもと変わらないのだが…。では、私の何が悪かったのか。そう思い沈んで箸が止まった私に、ホークアイが大きなため息を付きながらも、2つしかなかったエビフライのもう1つを私のランチプレートに乗せてくれた。
ハボックは残業が溜まりまくってネコの手も借りたいような時、お願いハボックと言えば、比較的高確率で朝まで残業を手伝ってくれるような奴だった。なのに、その日は迷惑極まりないと言いたげに隊で飲みに行くんスけど…と返された。
まあ、そうだ。上司の残業の手伝いなんかをするよりも、気心の知れた隊で朝まで面白おかしく飲んだほうが面白いことは私も保証しよう。
――と、いつもなら考えただろう。しかし、こいつは隊で飲むとき、いつだって私を誘い、いくらかの飲み代をせしめようとしていた。ならば、今日のその飲み会は嘘の可能性が高い…。ハボックにこんなわかりやすい嘘を付かれる日が来るとは。動揺し強張る口は、またもやそうかとしか動かなかった。
ハボックは私の前から立ち去った。
私はその猫背の後姿が司令室から出て行くのを言葉もなく見送った。
静かに残業に手を付けはじめた私が、数時間をかけてその終わりの兆しを感じはじめた頃、同じく残業だったブレダがコーヒーと一緒にいつも机の引き出しにストックしているスナック菓子を1つ恵んでくれた。――ハボックだっていじめられたら時には噛みますよと言いながら。
そんなこんなが続き、私は多くのものにハボックをいじめすぎだと言われた。しかし、私はハボックをいじめたことはあっても、いじめすぎという自覚はなかった。
そんなに頻繁にいじめてなんかいない…。しかし、どうしようかと思い始めた頃、ちょうど運よく、ハボックが家までの送迎を買って出てくれた。
玄関に一歩入って。いつもはそこに私が立てばずるずると家に上がり込んでくる奴なのに。ハボックは家に上がる気などさらさらないと言いたげに、私から視線を逸らした。
私はもう何も言えず、静かに玄関を閉めた。
閉ざした扉によって世界から隔絶された殺風景なこの家がますます一層殺風景になった気がした。ハボックとの仲が収束して行く、静かな気配を感じた。
この家にある最も高い酒を持てるだけ抱え、足で毛布を引き摺りながら、書斎の電話の前に座り込んだ。こういう時は思いっきり愚痴を吐き出して、酒に酔ったまま眠ってしまうのが一番なのだ。明日はきっと私に優しい風が吹くと信じて。
「いいか、ヒューズ。アイツは元々根っからの巨乳好きなんだ。胸の平坦な私が奴に一体どのような魅力があるって言うんだ?」
「だからって、豊胸手術の名医を教えろとかって言うんじゃねえぞ」
「アイツは引き締まったくびれも愛している!ならば、私はっ!」
この完璧な私でも不可能はあるんだ…。女装なら十分なくびれを作ってやることはできても、服を脱げば女装は女装でしかかいことは明快なのだ。込み上がる無力感がこの家を益々寒いものにして行く。私は暖を取るためにまた酒を煽った。
「――私の…、真っ直ぐなウエストに胸を作っても滑稽なだけだ…」
「ハボックはお前のこと、胸のあるなしで好きなんじゃないと思うんだけど」
「当たり前だ!お前、私が巨乳に見えるのかっ!?」
「――飲み過ぎだ、ロイ…?」
「何だと?むしろ、酒が足りないぐらいだ!」
ハボック…。ハボック…!お前の好きな炭酸の抜けたビールが飲みたい…。
「もう、……………」
もう、これ以上考えたくない。今はもう眠ってしまいたい…。
「――ロイ、大丈夫だ。簡単なことだよ。ちゃんとハボックと向き合えばいいんだ。偶にはハボックの狭い犬小屋のような部屋でも掃除してやって…、お前に冷たくなった原因を家捜しろ。あ、洗濯物も忘れんな。女物の下着とか混ざってる可能性があるからな。キッチンとかにレアな調味料があったらビンゴだぜ。んで、ムカつくまま、気が晴れるまでハボックをぼっこぼこに殴って蹴るんだ。な?何か楽しくなってきただろ?」
酒で意識が朦朧としはじめ、俄かに涙腺が緩みはじめた頃、受話器から遠くに聞こえてきた言葉はまるで託宣のようでもあり、今の私には唯一の希望にも思えた。
「掃除洗濯に、食事の準備…?」
それをすれば全て元通りになるのか?そうとは思えなかったが、ヒューズ、お前が言うならそうなのだろう。私は受話器を大切に胸に抱えて、十分なアルコール量によって得られた酔いに身を任せた。
「――ロイ、お前、泣いているのか?」
こんなことぐらいでこの私が泣くか、馬鹿…。
最後の一言はちゃんと口から発せられたかは定かでなかったが、ヒューズ相手にそんなことはどうでもよかったから、そのまま意識を手放した。
翌日、仕事を超速で終わらせて、午後からハボックの部屋へ向かった。
ホークアイに偶には私がハボックの部屋の掃除洗濯しようと思うんだがと言ったら、快く司令室に預けられていたハボックの部屋の鍵を手渡され、半休扱いにしてくれた。
03
午前中は溜め込んだ書類をとにかく片付けて、午後は気が済むまで小隊を従えて訓練場を走り回った。そして、司令室に戻ってきたら大佐は帰ったと言われた。
こんな明るい内からとっとと帰るなんて?
虫の知らせと言うか無視できない胸騒ぎと言うかそんな不吉なものを感じてホークアイ中尉を目が探す。――が、彼女はドアから正面の最も目立つ大佐の、紙のタワーがなくなっている机を満足そうに拭いていた。
「あー、ホークアイ中尉。大佐は一体どうしたんスか?」
うふふふふと今にも歌い出してしまいそうなウキウキした中尉が今までちょっと見たこともないほどご機嫌に笑った。
「ひ・み・つ・よ!!」
……………。
オレはすがりつくように司令部中を見回した。できたら今聞こえたものがオレの幻聴に過ぎないと誰かに言って欲しかった。しかし、既に誰もが実弾訓練中のように低い姿勢を机の上に保っていた。裏切られた気が…。
ホークアイ中尉は司令室中の困惑など気にも留めず、歌うように言った。
「ふふふふふ!人間って成長する生き物なのね。素晴らしいわ!ハボック少尉、今日は寄り道をせずに真っ直ぐ自分の部屋に帰るといいわよ!」
このテンションの高さは一体。
この目の前の人は本当にホークアイ中尉なのだろうか?
昼に何か得たいのしれないキノコでも食ったんじゃないのか?
いや、食ったのはオレとか?
「これは単に単なる私の予感だけれどっ!」
別人なのかもと思って、はあと生返事を返したら、途端に彼女の雰囲気が冷たいものに変わって行った。そう、いつもの雰囲気に。
「――ハボック少尉、まっすぐ帰るのよ?」
ここで頷かない男は大佐筆頭にこんも司令室にはいない。でも、機嫌よく鼻歌を歌う中尉より、ブリザードを撒き散らす中尉に安心するオレたちって…。
日が暮れて、オレは自分の部屋に帰ることを余儀なくされた。嫌な予感をひしひしと感じて机の上の書類は遅々として進まなかったが、中尉に問答無用に司令室を追い出された。
ブレダとファルマンが司令部の廊下から、一歩一歩重い足を引きずりながら帰っていくオレを見送っていた。
立地条件の良い、相場よりちょっと高めのオレのアパートはいつもと変わりなく建っていた。なのに悪い予感はちっとも拭えず、益々酷くなって行く。アパートを見上げていれば、足元の影ばかりがどんどん伸びて行き、通り過ぎていく人の視線が徐々に不審者を見るものに変わって行った。
ここままずっとここに突っ立っていたら、間違いなく司令室に通報されてホークアイ中尉がやってくるかもしれない…。オレは大きく一つ身震いをしてから世間に背を押されるようにして、不吉な臭いがプンプンする自分の部屋に向かった。
意を決してドアを開ければ1DKの部屋の全貌がどーんと目に入ってきて、オレは玄関口に力なくよろよろと座り込んだ。
そう。あの愛すべきタバコのヤニで黄ばんだ壁紙も天井も…。
あんなもんでもオレにとっては財産とも言える洗いざらしのTシャツもGパンも…。
あるだけで日常が潤う、隊のヤツらからカードで巻き上げたすっごいエロ雑誌も…。
朝までは心地良い散らかり具合を保っていたハズのオレの部屋。どんなに小さくとも、ここはオレにとって居心地のいい部屋だった。だったのに…。
オレの部屋は劇的に変わっていた。芸術的なまでに半分剥がれた壁紙に、野戦病院に置かれてるかのような、柔らかいものなど影も形もなくなってしまった硬いだけのベッド。洗濯物と洗ったものを区別して積んでいた服の山はそのどちらもなく、ついでにお宝ものの雑誌の山すらない。それどころか僅かな家具以外はなぁ〜んにもなくなっていた。
ただ、閑散とした床の上に大佐が丸まって眠っているだけ。青い軍服を埃で白くして。
この人はこういうハンパないことを堂々とやれる人だ。恐ろしい。だけど、怒るよりも先に大きなため息が出たのは、ヒューズ中佐の戯言にうっかり乗って最近大佐と距離を取ってたせいかもしれない。ここしばらく大佐と一緒に遊んでいなかったし…。わざわざ、このオレに怒られるようなことをするということは、もしかしたらオレが引いたことにドッキンした大佐が押したかもしれないとか…?寂しくなって…?
それはウソでも素晴らしい想像だった。もしそうだったら、どんなにいじめられても堪えてきたかいがあるというものだろうに。
「――大佐、そんなとこで寝てて体痛くないんスか?」
自分の勝手な想像であっても心の奥底に何か暖かいものが灯って立ち上がる気力が湧いてきた。剥がれている天井の壁紙を避けながら大佐に近づきしゃがんで覗き込めば、ぱっと目が開く。大佐はオレと目が合うと正にしまったと言った態で眉を寄せた。
オレは込みあがる笑いを必死に押さえ込んだ。
オレが帰ってくる前に仕上げとく予定の嫌がらせの途中で眠ってしまったんだ。絶対!
大佐はのっそりと上半身を起こすと、目の前にぶら下がっている壁紙にさらに顔を顰めた。
「これはどういういじめなんスか?」
「――いじめ?」
「嫌がらせ?はらいせ?八つ当たり?」
何でも大差はないけど。大佐はじっとオレを見つめた。
久しぶりにこんな間近にこの人の黒い瞳を見て、今さらながら胸が高鳴る。もっと近くで見たことだって何回もあるのに。
「――これはいじめか?」
「いじめじゃないなら何なんですか?」
「―――そうか、これはいじめか…」
ゆっくりと今度は目の前に黒い髪の中のつむじが向けられた。
つむじ。あー、つむじだなあ。つむじ好きかも。いや、間違いなくつむじ好きだわ、オレ…。
「ハボック、キッチンに夕飯が…」
「あ、材料買ってきてくれたんスね。今作りますよ」
つむじを見てたらいつまでも飽きない気がして腰を上げた。つむじフェチってどうなんだろうと思った。背後で大佐がまた床に転がって丸まった。
キッチンは今朝使った食器だけが割れてゴミ箱に捨てられていただけで、比較的平穏を保っていた。そのキッチンのシンクには大きな紙袋が置かれていて、中にはワインのボトルが2本と数種のチーズに生ハム、オリーブの実にレバーパテの缶詰、クラッカーが適当に重なって入っていた。
一体、こんな酒のつまみで何を作れというんだろう、あの人は。
オレは家にあった残り物で適当に夕飯の体裁を整えて、めちゃくちゃになってしまった部屋に夕飯を運んだ。そしたら、大佐がむくりと起き上がるとオレの用意したものを見てまた俯いた。つむじだ。
大佐はありがとうと言うと、床に直接置いた夕飯を床に座ったまま食べはじめた。
終始珍しく大佐は言葉少なで、聞きたいことがたくさんあるのにオレは何一つ切り出せなかった。
「あのー、大佐、そろそろ今回のコレの説明をしてほしいんスけど」
食後にはワインを開けて大量のつまみを摘まみながら、酒の勢いを借りて差し向かいの大佐に水を向けた。
「――掃除洗濯に、食事の準備だ」
大佐はワインを鷲摘んで一気に煽った。酔いの勢いを借りなければ、こんなこと言えるかとばかりに。
「掃除?」
だけど、壁紙がこんなに剥がれていて、掃除と言われて正直面食らった。オレはこんな掃除の仕方は知らない。というか、誰も知らない。
「掃除だ。せっかくだからヤニに汚れた壁紙を白くしてやろうと思ったんだ」
で、何故か剥がれてしまったとでも言うのか。そんなことありえねえだろう。それとも何か隠された意味を感じ取らなきゃいけないとか、ってことなのか?
オレは次のヒントを求めた。
「えーっと、じゃあ、洗濯って?」
見るところ、窓には洗濯物が一枚も干されてないし。その洗濯物の影すら見えない。
「クリーニング屋を呼んで持って行ってもらった。せっかくだから洗えるもの全て」
「………………」
捨てられてなかったことをほっとするよりも、クリーニングに出されてしまったオレのパンツの方が気になる。どんな顔してクリーニングされたパンツを受け取ればいいんだろう。
「あー、その、食事の準備は?」
「してあっただろう。キッチンに」
「紙袋に酒のつまみが無造作に入ってはいましたけど…」
「あれは夕飯だ。加工しなくて済むものを選んだんだ。今日は失敗したい気分じゃなかったから」
「はあ?意味がよく分かんないんスけど…」
大佐はまたワインを煽ってから勢いよく床に置いた。
勢いが良すぎたために、ボトルにビシッっと激しくヒビが入った。
「あの……」
「お前とは永遠に分かり合えない気がしてきた…」
「えええっ!?」
ヒビからこぼれたワインが、オレの不安のようにじわじわと床に大きく広がって行く。
言葉を失うオレを一瞥もせずに大佐は立ち上がった。その踵は玄関に向けられていてオレの不安が最高潮に達した。何が一体この人の癇に障ったのか、オレには全く検討すらつかなくて慌ててその足にすがり付いた。もう体裁なんか構っていられない。
「――離せ」
嫌だ。離したらアンタは帰っちまう。
そうしたら、もう二度とここに来てくれない気がしてきた。
「離せ!」
「イヤだっ!」
「ハボック、トイレに行くだけだ」
「ウソだっ!オレ、何かしましたかっ!何か気に障るようなこと言いましたかっ!大佐、何でそんなこと言うんスかっ!!」
大佐が忌々しげに大きな舌打ちをした。この世の終わりが近づいてくる気配を感じた。
「ハボックっ!トイレだっ!!離せ!」
引きずられても、大佐をこの何もなくなってしまった部屋に留めておくためにオレは必死だった。絶対に離しちゃいけない気がして。
「何でっ!じゃあ、アンタは何のためにここに来たんスか!!」
「もれるだろうがっ!ハボックっ!!!」
「言ってくれるまで、オレは何があっても離しませんっ!!」
「ハボックっ!!――あー、くそっ!ヒューズがっ!それにみんな!私がお前をいじめ過ぎだって言うんだっ!お前、最近、よそよそしかったしっ!掃除洗濯に、食事の準備をすれば、元通りになるってヒューズが言うから、今までの分をまとめてしてみたんだっ!わかったなら離せっ!!!」
思わず体中の力が抜けた瞬間に、思いっきり蹴られて、オレの手が大佐の足から離れた。その隙に大佐はトイレに駆け込んで行った。
つまり、やっぱり、オレが引いて引いてしてたら本当に大佐ドッキンしちゃったってこと、かな?足りない頭をフルに使って漸く達した結論にオレは大佐に愛されていると確信した。
あまりに待ちきれなくて、トイレの前で大佐が出てくるのを正座して待つ。もう直ぐにでも抱きしめて、寂しい思いをさせてしまってごめんなさいと言ってあげたかったから。
足の痺れで意識が朦朧としてきた頃、さすがの大佐でもこんなにトイレに篭りっぱなしはおかしいと思って無理やりドアをこじ開けたら、そこはもぬけの殻で窓が開いているだけだった。大佐はトイレの窓から出て帰ってしまったのだ。
――それでも、オレの心は浮き足立ったままだった。
とにかく、明日が待ち遠しかった。