※注意:リタイアハボックのお話です
公園にある湖畔を連れ立って歩いていた。
青い空を映した湖面が陽射しを反射してキラキラと輝き、子どもの甲高い歓声が辺り一面に響く。その楽しそうな声に、自分まで気分が高揚し出す。行楽日和だから子連れが多いんだろう。踏み固められた遊歩道が白く乾いていて、照り返しが目を差す。一瞬、甘い香りが風に乗って漂った。見えないけれど近くにプラムかスイセンが咲いてるはずだ。それすらオレをムズムズさせて、思いっきり走り出したい気分にさせた。季節は変わっていた。冬は過ぎたのだ。――違和感があった。違和感を感じることに、違和感を覚えている自分に気が付く。そう、視界が低い。だけど、それはいつものことだろう? 針葉樹の日陰に入ればまだ空気が冷えていて、首元がなんとなく寂しくて襟があるものを着てくれば良かったと思った。
「どうした?」
さっきからあっちにふらふらこっちにふらふら歩いていた大佐が、オレを振り返る。
軍人なのに一定の速度で歩かない人だった。興味を引くものがあれば迷わずそれに向かっていくから、そんな歩き方になる。湖面近くのむき出しの地面や芝生の隙間から、いくつもの芽が出ている。それが何の花を咲かせるか、気になるんだろう。興味のあるものしか見ないから、当然、足元が疎かになってよくちょっとした段差に躓いたり、目の前の階段を踏み外すことになるんだ。
「ほら、前。アンタが躓きそうな段差がある」
湖面に反射した陽射しが逆光になって、大佐の表情を隠す。でも、間違いなく大佐はオレの言葉に眉を顰めたはずだ。見慣れた表情を思えば口元が緩む。実物を見るために、車輪を回して大佐の横に並んだ。見上げた表情はやっぱりいつもと同じ。いつもと同じ。
大佐が小言を言い出す前に、大佐の背後を指差す。
「桜が咲いてる」
これを見に来た手前、大佐は小言のために開いた口を閉じ、眉を顰めたまま、しぶしぶオレの指差した方向へ顔を向ける。
大きな桜の木だった。薄いピンク色の花びらで埋め尽くされた、ファンシーな木。満開だった。
「ああ、きれいだな」
大佐は苛立ちを忘れ、そうしみじみと言って、桜の木に近づいていく。
オレは大佐の感想にいまいち賛同できなくて出遅れた。
「まあ、きれいですけどね。オレにはポップコーンが弾けた感じに見えるんスけど…」
だから、そんなに感傷的になる理由が分からない。オレの独り言がちゃんと聞こえたらしい。大佐が目を見開いて、振り返る。その目は、お前は何を言っているのかと雄弁に語っていた。
風が吹く。
その風に煽られた桜の枝が大きく撓んで、そのピンク色の花びらを一斉に散らした。
「ハボック?」
オレを呼ぶ、その人を覆い隠すほど、一斉に花びらを散らした…。
夢。そう、ただの夢。
こんなところで車椅子に座ったまま、うたたねなんかするから、夢を見る。窓が開いていた。そこから吹き込む風は思いのほか冷たかった。実家の一室。日が落ち切った暗闇の中の、車椅子生活のために、一階に移されたオレの部屋でしかない。カーテンが翻る。大きく。大きく翻って視界を覆う。まるで夢で見た、桜が散るように。
歯を喰いしばるのは、声が漏れないようにするため。車椅子の手すりをぐっと握る。もう力を籠めることができるのはここだけだったから。痛みも感じなくなった下半身に涙が落ちる。それが熱いのか冷たいのかすらもう分からない。
でも、知っていることがある。大佐は変わらない。オレが歩けなくなっても驚くほど変わらないで接してくれる。オレたちの関係も、大佐がオレを見下ろして、オレが大佐を見上げる程度しか変わらないんだろうと思う。オレは相変わらずあの人に小言を言って、あの人に煩そうに邪険に扱われる。あの人は器用な人ではないから、オレが歩けなくなったぐらいで変われる人じゃない。オレが変わらなければ、いつもと同じだ。
ほっとして、背筋が震えた気がした。身体から力が抜けそうになって、また手すりを握る手に力を込めた。頬を濡らす涙が止まらない。オレはその確信にほっとして泣いてんのか? あの人との関係が変わらないことにほっとして泣いてんのか?
違う。そうじゃない。それは違う。それはオレの未来じゃない。何が根拠に思うのかは分からない。でも分かることがあった。自分は治る。また歩けるようになる。それがいつかは分からないけど、自分はこのままではないだろう。そういう未来はオレにはない。また歩けるようになったとき、自分は今の自分を何て思うだろう。また歩けるようになるのに、オレはもう二度と歩けないと拗ねて、何もしないで、あの人たちの邪魔にならないようにしているだけのか? そんなんで、また歩けるようになったとき、オレはどんな顔をしてあの人の前に立つ気だ?
何か。窮地に立つあの人たちに何かできるはずだ。オレでも。オレだからできることがあるはずなんだ。手の平が熱い。身体が熱い。火が灯ったように。大きく息を吸い込んだ。
でも、それを冷まそうとするように大きく風が吹き込み、またカーテンを揺らした。涙が溢れる。どうしてそれを見てこんなに感傷的になっている? 涙が止まらない?
自分への問いかけに、返る言葉があった。自分の声で。
桜なんてポップコーン程度の感想しかなかったのに。あの一斉に散る様がきれいだと思ったのだ、自分は。生まれて初めて。大佐みたいだと思った。大佐もきっとこんな風に散るのかななんて思った。きっとこんな風にぱっと潔く。それは美しい生き様で死に方で、あの人に相応しいと思ったのだ。あの人には意地汚く長く生きて欲しいと思っているくせに、そんなの無理だと思っている自分がいる。これもまた揺るぎない確信があった。
家族が遠方の町へ仕入れに出かけていて不在だったことをふと思い出して、顔を覆って泣いた。大佐がいつか死ぬ日のことを思って。
――でも、きっとそれは今じゃない。今じゃなくするために、オレは、オレができることをいつだってなんでもしなくてはならないんだ。あの人に意地汚く生きてもらうために。やっと目が覚めた気がした。