サプライズ☆ナイト
01

定時過ぎの東方司令部。

定時上がりの者たちの波に逆らうように、挨拶を交わしながら鼻歌交じりに司令室にたどり着いたが、そこは予想外にも閑散とした雰囲気に包まれていた。そんな中、一人、親友だけがどんよりとした暗雲をその頭上に立ちこめていて、周囲に遠回しに倦厭されていた。そして、机の上には相変わらず書類の山脈が出来上がっている。
いつもと変わらない風景。
部下たちは理不尽な残業につき合わされまいと、できるだけ奴から目を逸らし、帰り仕度をしている。

「―――アラ?」
確か今日付けの昇進だったと思ったんだが‥‥‥。
めでたい宴会前の雰囲気とはあまりにかけ離れた司令室。扉の前に、首を傾げて佇む中央の佐官に絡まれまいと、そそくさと挨拶をして司令室を後にしていく部下たち。
「お先に失礼します。ヒューズ中佐」
その挨拶で、やっと親友は俺の来訪に気づき、書類から顔を上げる始末だ。
「―――ヒューズ?」
書類の山々の間から、少し首を傾げるようにして顔を見せる。
「いよう!マスタング大佐!!でいいんだよな?今日からだろう?」
机の前で問いかける友人を見上げるロイの目が涙で揺らいだ。
「‥‥‥‥‥」
だが、すぐに俯く。面前にさらされるつむじがこの親友を幼く見せた。コイツは、自分の童顔の効用を知っていて、わざと幼さを強調するように振る舞いことが多いが、10年来の親友としては、その幾分かは地であることを知っている。
再び顔を上げれば、そこにはもう、眼差しはいつものように鋭いものに変わっていた。
「―――何をしに来た」
「ええっー!?えっとぉ〜」
思わず言葉を濁してしまったは、ここで、宴会は?などとは言ったら燃やされそうな感じがしたからだ。
「やっと、大佐だ。祝ってやりたくてさ、わざわざ出張帰りに寄ったんだが‥‥‥」
自分の言葉に肩をすくめ、司令室を見回しながら、手土産に持ってきたスィートなウチの家族写真の最新版のフォトフレームを懐から取り出し、書類の山を少し除けてロイの執務机に飾る。何かある度、つうか、何かにつけて持ってくるこのフォトフレームはもうそろそろ片手ではすまなくなってきているはずた。しかし、眉をしかめながらも、いつものように文句を言わないのは、一応は祝いの品として認識しているからだろう。
「―――ホークアイ中尉は?」
美しくも、厳しい監視官の姿が見えない。副官の、片付けられている机の上に、アレレと思いながらも、こんなめでたい日に親友をほっとくようなことはない‥‥‥
「‥‥‥‥‥‥帰った」
憮然とした表情が、さらに憮然としたものになっていく。
ロイのじっとりとした視線に、言葉が続かなくて、さりげなく司令室を見回すと、面白いように、一勢に視線をはずされた。
ここの奴らは本当にイイ性格をしている。そのリアクションの良さがお前らの敗因なんだよ。絶対に泣かせちゃうだろうから言わないけど、つい、いじりたくたくなるという気持ちが拭えない。俯く司令室の面々の中には、親友のお気に入りの煙草臭い金髪の遊び相手の姿もなかった。
「お前のわんこは?」
「真っ先にっ!帰ったぞっ!!!」
ロイは、白い頬をピンクに染めて、怒り、勢いよく立ち上がった。が、そのせいで、書類の高い山が崩れそうになったのを、どうにか二人で食い止める。
怒りが削がれてしまったロイは、今度は山脈を揺るがさないように慎重にイスに座り直して、面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「―――ふん。宴会はなしだ。残念だったな、ヒューズ。‥‥‥ホークアイが、大佐に昇進したけじめだから、先に、この書類を終わらせろって言うんだっ!!」
「‥‥‥お前ならできる」
いや、無理だってば。誰だって無理。こんな量、ちゃちゃとできてたまるかよ。
と、思いつつも一応は言ってみる。周囲の手前。
「無理だ。やる気も気力も起きない」
やる気と気力でできる量でもねえし。でも、やる気と気力があればできると思わせとくことは大切だ。
「―――さっきから、これしかできていないのに?」
そう言って、ロイはわずか数枚の書類を摘みあげた。
「宴会はなしだ。今日も明日も明後日も。―――そもそもっ!宴会する気がないんだ‥‥‥‥‥」
「宴会好きな奴らが、それはないんじゃないの?ほらほら、書類がこんな山になってんのいつものことじゃん。きっとさあ、頑張る姿勢を示せってことじゃないの?」
「じゃあ、何で先に帰っていくんだ?」
目がどんどん拗ねたものに変わってくる。
「ほら、それは、アレだ。アレ。先に準備して、お前を待っていようという心積もりがあってだ」
「では、奴らは、どこで、私を待っているというんだ?私は、場所など聞いていないぞ」
「お前を驚かすつもりなんだよ。きっと。この山が片付きそうな頃合に連絡が入るようになってんだぜ?」
「それはありえん。私は中尉から宴会の予算の見積もりを聞いていない。それとも何か?奴らは自腹で宴会を開いて、あまつさえ、その場で私の昇進を祝うとでも?はっ!!そんな天変地異の前兆のようなことがあってたまるかっ!!奴らは何が起ころうと自腹で宴会など開かない」
親友とその部下たちは固い信頼関係で結ばれていた。
「―――あー、まぁ、一理なるなぁ。ロイ、続きは執務室で聞いてやるよ。明日は明日の書類があるんだからさ。どの道、この山、片付けなくちゃならねぇことに変わりねぇんだし。―――終わったら、俺が久しぶりにいい酒飲ませてやるから。な?」
「‥‥‥‥‥‥‥‥」
ロイはしぶしぶといった態でイスから立ち上がった。書類の山を手分けして抱え上げ、オレたちは、執務室に移動した。



もちろん、これは偽装だ。人目を憚って脱走する口実の。
祝ってもらえないというのであれば、自ら祝うだけである。
心底憐れみを含んだ視線を投げかけ見送る部下たちを思えば、真面目に仕事をすると思わせるのは容易い。案の定、誰にも気付かれることもなく、監視官たちの不在の中、司令部を抜け、夜のイーストシティに駆け出した。


02

入り組んだ裏路地を足早に通り抜けて行く。



「何か、こういうのも久しぶりだな」
「あら?日々サボってんでしょ?」
「連れがいるって話だ」
「わんこは一緒にサボってはくれないか」
「奴は永遠に無理のような気がするぞ。奴に比べたら、まだホークアイの方が融通が利く」
「へー、意外!」
「ハボックはホークアイに従順だからな。犬の社会を見ているような気がするよ、時々」
「ああ、なるほど。上には絶対服従か?」
「私の言うことより、ホークアイの言うことのほうが奴にとって絶対のように感じる」
「ホークアイの目の届かないところでしか甘えてこないか?」
「そう。まさに犬だろ?」
「飼い犬たちに無視されて辛いな。自業自得とはいえ」
「ふん。たまにはいいさ。今の案件が一段落着いてから盛大に祝ってもらうから」
「そう思うなら、せっかく大佐になったんだ、書類溜めないでやれよ?」
「ヒューズ、その気持ちが私にないと思うのか?私はいつもそのつもりだぞ」
「―――奴らも大変だわな」

淀みのない足取りで細く暗い裏路地を抜けていく。2人で飲むなら店は決まっていた。
酒のつまみに、旬のものを中心に、こだわりを持って出す店はそう多くない。それに、それ相応の値段になるそのつまみに見合う酒が常備されてる店に外れはないことは、長年の経験から言えた。
尉官時代を東部内乱中に終えた俺や、尉官をスキップしたロイは給与が少ないと感じたことのない極わずかな一握りの軍人だ。そんな俺たちにとっては安い金でどれだけ多くの酒を飲めるかなどに腐心していた頃は学生時代ぐらいだけだった。大衆酒場などはそれこそ部下たちとの付き合い程度にしか行くことはなく、専ら俺たちが行く店は、尉官や下士官たちが自分のサイフでは気後れを感じるようなところだった。
―――長居できるほど時間に余裕がないからな。
そう言えば、部下たちの癪に障るだろう。その上、短い時間で俺たちが払う額と、長居して払う彼らが払う額では比べるまでもなく、俺たちの方が高い。
つまり、こうまで酒にかかる金が違うと、俺たちが行くような店と部下たちが行く店には大きな客層の差があり、しいては、その店がある場所も大きく違う。だからこそ、誰にはばかるまでもなく、大手を振って堂々と裏通りから表通りへ出ることができるのだ。

だが、確かに、書類をそのままに、さぼって司令部を脱走してきたことを見咎めるものはいなかったのだが、いつもの店に入ることはできなかった。貸切になっていたのだ。

それはまた豪勢な。
俺たちはは顔を見合わせて、興味に駆られるままに、辛うじて何とか中が伺える窓から覗き込んだ。そこには見慣れた青い制服がうようよしていた。
―――金のある部署だな。
寝ぼけたことを呟いた親友を、肘で突く。その青い制服の中には、ホークアイも、金髪のワンコもいる。よく見れば、定時に帰って行ったロイの部下が勢揃いしているようだ。
「なんだ?」
「いい奴らじゃねえか。ちゃんと準備してんじゃん」
にひひひ、と笑いが漏れたのは、ロイが俺の言葉の指す意味が俄かに信じられなくて、再び勢いよく、窓を覗き込んだからだ。でも、ちゃんとそこに自分の部下たちの顔を見付けて、ロイは柄にもなく本気で照れちゃって、頬が赤くなったのを自覚したように、俯いた。
そんな顔は久しぶりだった。思わず首に腕を回して抱き込み、頭をかき回しても、ロイは手を払いのけなかった。
「サプライズ仕立てだ。戻って、仕事終わらせっか?」
「私を驚かせようなんて10年早いっ!私が逆に驚かせてやるっ!」
憮然を装いつつも嬉しさを隠しきれず、頭をかき回された腕はそのまま、首に回った腕から抜け出した。そして、今度は、まるでクリスマスケーキをショーウィンド越しに眺める、子供のような憧憬を含んだ眼差しをその店内に向けた。

仕官と共に少佐となり、戦場でそれを祝うものなど皆無だった。中佐の昇進のときは、イシュバールから帰還してきたばかりで、身も心もボロボロで誰も彼も昇進を祝うどころじゃなかった。
人間関係を築いていくのにどこか不器用で要領の悪い奴がやっと作れた身内ともいえる部下たち。きっと彼らも、司令官職を中佐という低い階級で前例なく任官した上司が、他の司令官たちに理不尽なあつかいを受けることに、憤りを感じたことは一度や二度ではないはずだ。彼らにとっても、大佐への昇給は感慨深いものがあるだろう。

ロイの一番身近なものとして、こいつがちゃんと人間関係を構築できていることに安堵した。人間の成長を感じる。感無量だと長年の苦労を走馬灯のように思い出しながら、もう一度奴の頭を撫で回した。
思わず、こみ上げてきたものを拭うために、ポケットから白いハンカチを取り出す。珍しく照れた顔の親友を見ておきたくて、もう一度覗き込んだら、雰囲気ががらりと変わっていて、手が止まった。
「―――どうやら私の番ではなかったようだ」
静かな呟きと共に、まなざしはまだ、店内に向いていた。ただ、それはひどく遠いものを見るような目で。さっきまでは、あんなに子供さながらの喜色が浮かんでいた顔に、なんとも言えない透明な笑みがあった。

よく学生時代に見せた笑みだ。
自分の行うことを理解し、他の行き方など望みもしない。わがままの余地のない生き方。
あの頃はそれが大人なのだと勘違いしていた。
ただ今も昔も変わらないことは、オレはこの笑みが嫌いだった。幸せを包み込むような、距離を置いたその笑みが嫌いだった。
幸せから遠ざかったことを達観するようなそれが。

しかし、あの頃とは違い、その笑みが見る見る内に色を変えていく。眉が顰められ、鼻を鳴らす。―――子供の強がりのような。それが、嬉しくもあり、少し残念な気がした。

あの嫌いな笑みに、ヤラれた。ガキの頃。青い若さの象徴のようなそれ。



過去から意識を引き戻すように、ロイが見ている店内に意識を向けた。
もう酒が入っている。にぎやかに談笑する姿。
その奥に、店の内装に似つかわしくないものが目に入った。大きな垂れ幕。「フォーマー大尉、昇進おめでとう!」と書かれていた。今回、ロイと共に昇進を決めた部内でも信任の厚い奴だ。しかし、目に見える範囲に、垂れ幕は1つ。
大量の仕事と共に司令部に置いてきぼりをくらったロイ。日頃の行い、とか自業自得だとか言うには同情を誘った。
「あー、きっと、今日、これに参加できなかった奴らのために、2回に分けて昇進祝いするんだぜ。いいな。宴会2回も開けて、な?―――ちょこっと、顔出してくか?」
「馬鹿か?お前。自ら、サボリをばらしてどうする。私は、今頃、司令室で泣きながら書類と格闘してるのに?」
その拗ねた物言いが10年の重みを感じた。痛みを隠しもしない。それを隠しきれる奴だからこそ。
「安酒飲もうぜ、ロイ。たまには悪かないだろう?」
「―――そうだな」
部内でハブにされて、不機嫌さそのままのロイと連れ立って、その場から立ち去った。


03

自ら、大衆酒場に入るのは学生以来だった。カウンターで、適当に酒とつまみを注文して、ビールを受け取り、空いてる席に座る。ロイにビールなんか持たせたら、席に付く前になくなってそうだったから、液体は俺が持って、固体はロイに任せた。
安い酒場と言えども、つまみは美味しく、昔の話に盛り上がるのも悪くなかった。





「―――あー、マスタング‥‥‥大佐ですよね?」
その下士官たちのフランクさはすでにその隊のカラーとも言えた。隊長のフランクさが染まったように、あまり物怖じせずに上司の上司にも声をかけてくる。
彼らはすでにその店で飲んでいた。俺たちが店に入ったときから、俺たちに気が付いていたようだったが、こんなところに佐官が来るとは思わなかったのだろう。しばらく、お互いの顔を見合わせていた。

「そう!私は、マスタング、大佐だとも!」
そう、胸を張ったロイに口々に野次にも似た祝辞が飛んだ。大佐、大佐と過剰なまでに連呼され、沈んでいたロイの気分が浮上してくるのが隣にいて手に取るようにわかった。その内、その中の1人が、安酒でよければと前置きしつつも、言外に社交辞令を感じさせずに一杯奢らせてくださいと言い出した。

「あー、司令室は、今日、祝会しなかったんですね。てっきり、今日するんだと思ってましたよ」
「隊長、嬉しそうにしてましたから」
「酒だー!って、叫んでましたよ」
1人が酒を注ぎに来れば、後はもう芋づる式に人が集まってきた。予想外に、にぎやかな祝いの席になっていった。
「ぶっ!わははははは!こいつ、仕事終わんなくて置いていかれたんだよ」
「ヒューズ! あー、諸君、ちょっと抜けてきたに過ぎんよ。うん。気分転換に。うん」
「‥‥‥‥‥」
気分転換に酒を飲めるのが佐官と言うものだ。これが階級差である。
「――では、司令室は、主役抜きに祝会してるんですかっ?!それはまた、業腹ですね」
「主役はもう1人いるからな。まあ、これも日頃の行いってやつなんだろ。お前らの隊長が言うところの」
ふん、と言いつつ安酒を飲むロイに周囲が同情の眼差しを向けた。
「じゃあ、オレらが僭越ながら祝わせてもらってもいいですか?あー、安酒で恐縮ですが。大佐?」
晴天の霹靂だった。ロイの驚いた顔に下士官たちが照れを浮かべた。
「あー、オレらだって、大佐の昇進、なんて言うか、―――担ぐ神輿はでかいほどいいって言うじゃないですか。その、めでたいことです」
「―――そうか、ありがとう」
ロイのあまり見せない穏やかな笑みに、全く免疫のない、ごつい岩のような男たちが一瞬動きを止め、すぐ様、顔を赤らめていく。―――その凝視に耐えられなくなったロイはすぐさま、いつもの性悪な笑顔を浮かべてしまった。
それに、誰ともなく、ほっとしたように息を吐いた。

いつの間にか、店内の席が動かされ、一段高く作られた上座に促されるままに座った。貸切さながらの状態で、狂乱の宴が始まった。時間と共に、次第に、店内には軍人が増えていく。ハボック小隊がほぼ全員集まりつつあり、その上、仲の良いブレダ小隊にまで収集が掛かっているようで、どんどん下士官たちが集まってきた。



店内最奥に即席で作られた上座にすわり、次々に酒を注がれた。全員、かなりの酒が入ってきた頃合いに、下士官の1人が名乗りを上げた。
「昇進おめでとうございます!マスタング大佐に捧げる歌を作りましたっ!聞いていただけますでしょうかっ!」
「もちろんだとも!是非、拝聴させていただこう」
男はいい具合で酔っ払い、野太い声で歌いだした。

♪「たいさ〜 たいさ〜 ちゅうさじゃないぞ〜
  たいさ〜 たいさ〜 ちゅうさじゃないぞ〜
  どこからみても たいさだな〜」

騒がしかった店内が、一瞬にして水を打ったように静まりかえった。
ロイが懐に手を入れたからだ。阿呆な奴は発火布で燃やされるのだと誰もが思った。が、予想に反してそこから出てきたのは、サイフだった。それも、こいつらが見たことがないだろうほどぶ厚いサイフ。そこから、ロイは無造作に数枚の1万センズ札を取り出し、縦に4つ折りにした。
「感動した」
ロイに手招きされるまま、万死に値すると思われた男は近づいた。ロイはさらに手招きして、その細長く折られたお札を、背を屈めた男の耳に挟み込んだ。
「褒美を取らす」
それは4万センズもあった。その瞬間、我先にと一発芸を披露する争いが生じ、長い列が出来上がった。それを煽るように、ロイの隣りでそのサイフから札束を全部取り出し、次々にお札を4つ折りにしていく。円滑におひねりを配れるように。
お金をばら撒いていくロイは、まるでアホ貴族のようで楽しげだった。
もちろん、ロイが楽しければ俺も楽しい。
そして、思いがけない金一封を手にした者たちも文句なく楽しい。

夜が更けていく。
たくさんの笑い声と素朴で、心からの、飾らない言葉で語られる祝辞を聞きながら。


   +++


マスタングへの昇進パーティの連絡は、ヒューズが考えた通り、マスタングによって山のように築かれた書類の間に挿まれていた。サプライズ仕立ての昇進パーティ。日々サボリがちな上司に、お灸を据え、かつ、驚かせ喜ばせようという狙いだった。

「大佐、遅いっスね!」
大佐昇進!と書かれた大きな垂れ幕は、入り口のドアの上に張られてあったのだったが、その垂れ幕の下を潜るべき待ち人は今だ現われなかった。
皆、クラッカーを手に、今か今かとマスタングを待っていた。


EX

大佐昇進パーティは、サプライズ仕立てで。

誰が言い出したということではなかったような気がする。全体の流れで、そうなっていたのだ。最近、著しくサボリがちになってきた大佐の昇進を素直に祝うのは、司令部中が少々癪に障った。決して、祝いたくないと言うわけではない。

司令官を過去前例のない中佐と言う低い階級で任官した人への嫌がらせは、実に馬鹿馬鹿しくなるほど幼稚なものばかりだった。地方間での合同演習で大佐の席だけ用意されずにずっと立席だったり、会食で大佐の分だけ用意されなかったりと、まだまだある。こんなことを50過ぎの将官たちがやるのだ。他にやることがあるだろうと罵倒したくなったことは一度や二度じゃなかったが、それもこれも、大佐になってしまえば、その大部分は減るのだろう。待ちに待った昇進だった。

サプライズ昇進パーティで、大佐の驚いたマヌケな姿を写真に撮って街にばら撒こう!
いつしか、これが司令室での合言葉になっていた。

当日、大佐を司令室に置いて、オレたちが1人1人司令室の出て帰って行った時の、大佐の物言いた気な顔を見たときは気分がよかった。
―――何か、私に、言うことがあるだろう?
そう問いかける顔が終業が近づくにつれ、何も言わないオレたちに対する怒りに変わり、だんだんと懐疑的になって行き、次第には縋りつくような顔に変化して行った。まるで、締め切り間際の大佐のサインを貰おうとする、オレたちの表情そのものだった。

ホークアイ中尉が大佐の机の上に積まれた書類の間に、パーティの場所を書いたメモを挿みこんで、オレたちは作戦決行を胸に秘め、司令室を後にした。





大佐がよく行く、すごく入り難い高級店を貸し切って、店内を飾り付けをしながら、あの人がひょこひょことやってくるのを待つ。今日、昇進したのは、大佐だけではなかったことを口実に、早々に乾杯を済ませ、酒を飲んでいた。高級店をワリカンで貸し切った以上、払った値段以上のものを食って、飲まなくてはならないプレッシャーを抱えていたオレたちは、結構、必死だったのだ。はじめのうちはちゃんと大佐を待ち構えていたけど、次第に、時間を惜しむように飲み食いに夢中になっていった。
その最中、遅いわね‥‥とホークアイ中尉の冷たい呟きを耳にして、やっと、時計を確認する余裕ができた。店内には、時計なんぞなかったから、手持ちの時計で。

時間は、中尉の大佐到着予想時刻を大きく過ぎていた。嫌な予感がし始めて、司令部に連絡を入れたら、ヒューズ中佐が来ていることを報告され、嫌な予感は確信へ変わった。

あの人は、今日、ここに来ないかもしれない。
オレたちと祝うよりも、ヒューズ中佐に祝ってもらいたいのかもしれない‥。

「捜索!確保!連行!」
力強く響いた中尉の声が、一瞬怯んで、挫けがかったオレの気持ちを何とか立て直した。

大佐捜索のための人手を自分の隊のヤツらに頼もうと、ヤツらがよく行く酒場に電話を入れたら、いきなり、ヒューズ中佐が出た。なんだ、と静かな威圧感を感じる声に、受話器ごしでも背筋が寒くなる。しかし、電話から漏れ聞こえてくる盛大な大佐コールに、捜索対象を発見した。

「ロイが行ってもいいのか?お前ら、司令部に置いてったんだろう?俺が行ったとき、ロイは寂しそうにしくしく泣いてたぞ。こんなめでたい日なのに」
散々いやみを言いながらも、ヒューズ中佐は大佐を連れて来ることを了承してくれた。





ヒューズ中佐に背負われてやってきた大佐は泥酔していた。でも、ヒューズ中佐が体を揺すってソファに下ろしたら、子供がむずがるような声を漏らし、辛うじて起きたようだったが、まだ、半分以上眠っている状態だった。
「ロイ。ほら、お前のお待ち兼ねのとこに到着だ」

目の前の自分の昇進を祝う大きな垂れ幕をじっと見つめたまま、半分眠ってるような大佐がぽつりと呟いた。
「―――もう、金がない‥」
今日は皆に祝ってもらおうと、大金を持っていたんだが――、と。
「―――眠い‥」
そして、また、中佐に凭れかかって眠ってしまった。

今後は、各界の有力者たちを中心とした昇進パーティーが目白押しだ。それが一段落してくるころには、また、忙しい日々が繰り返されるだろう。全員が、こんな風に集まって祝える機会などいつ取れるかなんて考えるまでもなく、途方もない話に思えた。

「こういう身内の大規模なパーティ、初めてなんだよ、コイツ。士官学校の卒業パーティーも出れなかった奴だし。少佐に昇進したときも、中佐に昇進したときもそれどころじゃなかった。東方司令部に異動が決まったときも、何にもしてやれなかったなあ。就任祝いだって大したことしなかっただろ?お前ら」
それでも、一つ一つ、この人が階段を登り、野望に近づくたびに傍にいて祝ってきたんだろう。この人が、ずっと。
「昇進パーティ、すっげえ、楽しみにしてたんだろうなあ。ロイのサイフの中身、かつてないほどすごかったもん」
自分の肩に凭れてながら、片足を胸に抱えるようにして眠る大佐を見つめる中佐の目が優しかった。

本日の主役のために作られた、大佐昇進と書かれたホークアイ中尉手製のたすきと特別にモールで飾られた紙の三角帽、そして、鼻とヒゲの付いたおもちゃの黒縁の丸メガネを付けられても気づかず、眠る人。

今度起きたときが勝負だ。
手に持ったクラッカーを鳴らして、おめでとうと言って。この人の驚いた顔を見てやろう。
そして、長々と笑い話にしてやるんだ。

ホークアイ中尉も、大佐の顔に狙いを定めてクラッカーを構えていた。
10000HIT、ありがとうございます!
いつも、多くの萌えを読んでもらえてうれしく思ってます。
本当に、本当に、ありがとうございます!!
メモで、展開していたマスタング、大佐昇進の話の全編になります。

2005/9/17〜2005/10/29