夏だから暑いのは当然だし。夏が暑いことに文句を言う気はさらっさらないし。大佐と違って…。それに暑いのはもともと嫌いじゃない。――でも、だからと言って寝苦しいほど暑い夜が続くと文句の一つも言いたくなるような、そういう日が長く続いて、漸く風が吹いた。
もちろん司令室にも風が吹き抜けて行く。いつも西日がじりじりと入って夜中になっても熱が篭ったままの部屋が涼しい。椅子に座っていても汗がにじみ出てこなかった。心なしかホークアイ中尉の表情も柔らかくなっている気がする。そして、いつもは干からびたかえるにような様相な大佐は、今日に至っては鼻歌まじりで落書きなんかしてしてた。久しぶりに見る、普通の司令室の光景だった。
「――あ、そうだ」
鼻歌まじりに大佐がつぶやく。落書きから顔を上げて見る先はオレの向かいの席のブレダ。1分に一回は暑いとつぶやくのが癖になってる暑苦しいヤツ…。
「前にブレダ少尉が言っていたこと、どうにかしたいなあ」
ランニング姿で、ペンよりも団扇の方を規則正しく動かしてたブレダは首を傾げた。前に言ったことってなんですかね、と。
「阿呆が多すぎると言っていた件だ」
ブレダがだるそうにオレを視界に入れてから、大佐を振り返る。その動作はいつもよりのっそりとしていた。
「あー…、使えない奴が多すぎるって件ですか」
「そうだ。個人の能力を高めて悪いことはない。いや。いやいやそうじゃない。軍はそもそも個人の能力を運動能力に特化しすぎなんだ。もちろん、それが不必要だとは言わないが、極端すぎるのもまた確かだ。そのせいで、軍の優秀なる一部の者に大きな負担がかかっているのだから。つまり、少尉の言うとおり、頭を鍛えるプログラムは必要不可欠だろう。だが、だからと言って、日々小テストや中間テスト、期末テストを行うわけには行かないのが我々の辛いところだな。――よって、昇級試験で点数が低かったものを降格処分するとかしたら、ちょっとは勉強する気になるんじゃないのかなあって考えたんだが、ハボック?」
「………………………」
どうしてそこでオレを見るんだ。言葉に詰まったオレを見る大佐の顔には人を心底馬鹿にした笑みは浮かんでなかった。あくまでも真剣に意見を求めているのだ。それが益々オレになんて言ったらいいのか分からなくさせた。
「昇級試験を毎年強制にしましょう、大佐」
オレの沈黙にブレダが声を上げる。じゃなかったら、こいつは勉強しませんよ。そんな声にならない声すら聞こえてしまった。卑屈っぽくなってる自分に叱咤激励する。そんなオレの顔をじっと見ながら、もっともらしい顔で大佐が頷いていた。オレは運動能力しかない軍人のオーソリティとして声を大にして言わなくてはならないと瞬時に分かった。味方はここにはいない。この部屋を出たら9割9部味方なのに。
「きょ、強制的に勉強したってどうにもなりませんよ…」
でも、連日の寝不足が祟ってなんて言ったら効果的なのかイマイチ分からないオレの言葉は力なく尻すぼみに消えていった。
「お、ハボック、プラトンか」
ブレダが言えば、ファルマンが隣で待ってましたとばかりに声を張る。
「『強制された身体の運動は体に害を及ぼさないが、強制的に学ばされたものは心に残らない』ですね」
斜め向かいでフュリーがファルマンに、すごいですねと純粋にその知識を称える。スーパー技官は頭がいいだけの軍人よりも上としてここでは扱われてるから、昇級試験で点数が低かったものを降格処分するとか自分に関係ないことを十分知っているんだろう…。
「む、無理やり勉強したって身につきません」
味方がいないばかりか、ここには敵しかいないのか。ますますオレの責任が重大になってきた。来年に迫った昇級試験のプレッシャーが毎年訪れるとかありえないし。
「筋肉とは違って?」
「―――大佐…」
目に哀れみを浮かべてオレを見るのをやめてくれ。大佐のそのオレをからかっているわけではない口ぶりが大佐の本気を感じさせる。いやな汗がにじみ出てきた。
「無理やり勉強したら心に深い傷を負いそうかよ」
くくくくく。笑うブレダにオレができたのは恨みがましい視線を向けることだけだった。もし毎年試験が行われることになってしまえば、頼れる相手はなんといってもこいつなのだから。うな垂れたオレにさらに追い討ちを掛けるように穏やかな声が響く。
「だが、ハボック。かつての偉人はこうも言った。『確かなものは覚えこんだものにはない。強いられたものにある』。したくないからしませんで一体何が得られるだろうか」
「………………………」
「『確かなものは覚えこんだものにはない。強いられたものにある。強いられたものが、覚えこんだ希望に君がどれ程堪えられるを教えてくれるのだ』。ヒデオ・コバヤシです」
ファルマンの言葉に大佐が重々しく頷いた。ブレダも、フュリーも、神妙な顔をして頷く。
ああ、絶対絶命だ。風前の灯だ…。
そう思った正にその時、天の声が司令室に厳かに響いた。
「全く持ってその通りですね。マスタング大佐。では、そのお言葉に則って」
背筋をまっすぐに伸ばし、衣服にも結び髪にも寸分の乱れもないその神々しいまでの冷ややかな立ち姿。オレたちの誰よりも高いところからその言葉は下された。その細腕に恐ろしいまでの書類を抱えて。
「………………………」
邪神は沈黙し、自分の机の上に築かれた書類の山を見上げることしかできずにいる。もちろん、その子分たちも沈黙した。他に強いられたいものはいるかと問う、その視線に下に。
そして、また誰ともなく黙々とペンを動かしはじめると、司令室はいつもの喧騒を取り戻しはじめる。ただ時折吹き抜けていく風だけがいつもと違っていた。