猫も杓子も
夏はなんと言っても日差しが問題だと思う。炎天下に30分もいれば、何の比喩でもなくボクは歩く熱された鉄板になる。触る人を火傷させてしまうし、近くにいるだけで猛烈に暑い。そして、競うようにみんな露出する夏…。もしポンとぶつかりでもしたらジュワっとウェルダンにさせかねない。大事故を起こすかもしれない夏は外を歩くのすら注意が必要で怖かった。

その人と会ったのは翳った裏路地でだった。ボクはあまり日に照らされないように、人にぶつかるリスクが少ないようにと選んだ裏路地を普通に注意深く歩いていただけだけど、その人は民家の垣根の隙間からひょっこりと頭を出したところだった。
「あ」
目がしっかりと合うと、その人はいつもの笑顔でいつものようににっこりと笑った。まるで普通に道で会ったかのように、片手を挙げて。
「やあ、アルフォンス君。イーストシティに帰っていたのか。ちょうど良いところで会ったな」
「こ、こんにちは、大佐…」
大佐は左右に人影がないのを確認してから、垣根を乗り越えて路地に降り立ち、ジャケットや頭についた小さな葉っぱとかくもの巣をぱんぱんと払う。その姿に大佐が通ってきたらしい道なき道を目が追うと、知人の家だよとすぐに答えが返ってきた。本当にそうなのかなと思った瞬間、苦笑と共に言葉が続く。さすがの私も知人の家でなければこういうことはしない。なんとなくバツが悪くて黒い瞳から視線を逸らすと、前方の垣根が正しく途切れた場所、玄関から、青い軍服のハボック少尉が姿を現した。特に急いだ感じもなく無造作に紙袋を持って、タバコを銜えたところだった。ハボック少尉はボクに気が付くと片手を上げて、よう!と挨拶をしてくれた。それにこんにちはと返してから、ぺこっと頭を下げる。
「アル、こっちに帰ってたんだな。司令部の方に顔出せよ。つまんねえじゃねえか。東方司令部はいつでも娯楽を求めているんだぜ」
二人とも、ボクたち兄弟がイーストシティに行くといつも帰ってきたと言ってくれる。家をなくし旅暮らしをしているボクたちにとって、その言葉はとても意味深いものに変わっていた。
ハボック少尉はそんな魂の核をそっと撫でるような大切でやさしい言葉を言いながら、空いている方の手で後ずさりはじめた大佐の首根っこをがっしと掴んだ。逃げようとする猫を捕まえるように…。
「えーっと、昨日の夜にボクたち、こっちに着いたんですけどね、兄さんが司令部に挨拶に行くよりも調べものが先だってどうっしても譲らなくて」
「そうか。お互い、苦労するな」
うんうんと頷いてくれるハボック少尉。でも、それにボクが頷くのは大佐に申し訳ない気がして曖昧に首を傾げると、ハボック少尉に捕まったままの大佐が大きく肩を落とした。
「ハボック、離せ…」
「ダメ。オレだってね、いい加減成長するんですよ。アルの手前、アンタの面子を考えてここで手ぇ離した途端、アンタとんずらするんですよね。ここで手を離すなんてさあ逃げろって言ってるも同然だぞ、バカもの!とか言って。一体何回仏心出して一体何回アンタに踏みにじられましたかね、オレは。でも、まあ、それは別にいいんスよ、別に。オレの善意が踏みにじられることは。アンタは大佐で、オレはただの単なる下っ端の少尉なんスから。ええ。でもね、オレが家主に挨拶してちょっと目を離した隙に走って垣根の間から逃げてくのは、人間としてどうなんだろうって思うんスよね」
「お前、本当に自分をただの単なる下っ端の少尉と思っているなら、大佐さまを猫の子を持つようにするな」
「野良猫のための出入り口なんだそうですよ。アンタがさっき抜けてった垣根の隙間は。オレは自分の上司が猫と同じ場所から出入りするのかと思うと猛烈に恥ずかしくなって、悲しくなりました」
「そーかい。それはすまなかったな。だが、私は実に久しぶりな休日なんだよ。ちょっとぐらい自由な時間を求めて行動したって許されると思わないのか? 思うだろう?」
同意的発言を求めるようにボクをじっと見る大佐。ボクは一歩後ずさった。そう。ボクには手のかかる兄がいる以上、ハボック少尉に同情するべき立場がある。そう簡単には頷けなかった。
「アンタ、もう十分自由でしょ? 仕事中のオレに問答無用で荷物持ちを命じたり、その途中でとんずらしようとしたり。アンタは今日のこのことを包み隠さず全部ホークアイ中尉に報告してもいいってんですか?」
「ハボック。中尉だっていい加減何回も何回もくり返し同じことを報告されるのは迷惑だろう?そういうことこそ、そろそろ学ぶべきときだと思うぞ」
「…………………」
例え大佐であっても首根っこ掴まれたままだと、何を言っても説得力に欠けることがよくわかった。

つまり、これは休日の大佐が仕事中のハボック少尉を連れ回していた現場なのだ。うん。でも、現状を把握したところで、何の役にも立たなそうだった。だって、大佐の手が傍観者でいることを許さないとばかりに、ボクの、夏の日に触っても唯一安全な部分である手袋をはめた手をしっかりと掴んでいたのだから…。
それを見たハボック少尉は大きなため息を付いて、大佐の首根っこから手を離した。途端に大佐はボクの手を引いて足早に歩きはじめる。ハボック少尉のもの言いたげな視線を無視して。
「君にこんな場所で会うなんて、私は幸運だ。もちろん、君も幸運だ」
「そうなんですか?」
「ここに知人から処分を任された錬金術書がある」
「…………………」
ここに、と言いながら荷物を持っているのは半歩後ろにいるハボック少尉で、大佐は手ぶらだった。ちらりと後ろを振り返ると、火のついてないタバコを銜えたハボック少尉が肩を竦める。
「タイトルは知らない。だが、君も想像が付くようにわざわざ私に預けるあたり、これらはただの錬金術書ではないだろうね」
わざわざ大佐に預ける本。もしボクが大佐に錬金術書を預けるとしたら、持っていたら危ない本を選ぶと思う。持っていることがばれたら機関が処分するような本を。例え機関が大佐の蔵書を調べようとしても、この人ならそれを回避できるだろうから。
「ボクも、こんなところで大佐に会えて幸運です」
ボクの言葉に、大佐がにっこりと笑った。ボクの考えたことは概ね正解でいいようだった。
「じゃあ提案だ。アルフォンス君。我々は錬金術師だから等価交換といこうか。私はね、昼寝がしたいんだよ。ここで昼寝をしたら最高に気持ち良いだろうという場所を見つけたんだ」
「えーっと…」
「君が私の本を読んでいる間、隣で昼寝させてくれ」
それはボクにとって願ってもないことだった。だけど、本当に頷いてもいいのかなと思って振り返ると、ハボック少尉が深々と頭を下げる。面倒かけて本当にすまない、もし時間があるならよろしく頼む、という風に。ボクも慌てて頭を下げた。いえいえ、こちらこそありがとうございます、と気持ちを込めて。
「ボクは護衛というわけですか?」
「そういうつもりはないよ。それに本を読みはじめたら、君だって集中してしまうだろう? ただ場所が公園だから一人だと格好が付かないという話なんだ」
確かに本を読みはじめたら誰かが近くに寄ってきても気付けないかもしれない。だけど、ボクにそう簡単に近寄ってくる人はいない…。大佐はこれを望んでいるのかな。それでいいならボクは全然かまわないけど。
「それでいいんですか?」
「もちろん! 話が早くて助かるよ」
図書館で兄と待ち合わせしていた。でも、断然こっちの方が貴重な機会だから、ボクは迷わず予定を変更した。ハボック少尉にも許可はもらったし。だけど、重大なことを忘れていた。
「でも、その、こんな天気で昼寝できますか?」
ボクの隣で昼寝できますか? 公園のような屋外で、真夏の日差しに熱せられた鋼の鎧の近くはとっても熱い。危険なほど熱い。昼寝どころじゃないと思う。それでも、大佐はにっこりと笑うだけだった。



イーストシティ最大の公園、イーストパークの入り口で大佐は漸くハボック少尉を解放した。野良犬を追い払うようなしっしっといった仕草で。だけど、ハボック少尉はそんな扱いに慣れたもので顔色一つ変えない。
「あー、はあ…。えーっと、んじゃ、アル。適当なところで切り上げていいから。本当にすまない」
「さっさと仕事に戻れ!」
「うわあ、そのセリフだけはアンタの口から聞きたくなかったなあ」
ハボック少尉は手に持った荷物を大佐に命じられるまま渡し、拍子抜けするほどあっさりと来た道を戻っていった。その大きな背中は急いでいる感じもないのに、見る見る内に小さくなって行く。
「いいんですか?」
「まあ、ああ見えて忙しい奴なんだ」
それをわかってて、あえてハボック少尉を荷物持ちにするんだからさすが大佐だと心から思った。

大佐に連れて行かれた先は、イーストパークの中央にある、大きな湖に浮かぶいくつかの人工島の内の一つだった。その島々には橋が架かっていて散歩コースになっている。大佐のお目当ての島は木が多いという以外は特に人影も何もない場所だった。
大佐は散歩道を外れ、外周50mもない島の頂上を目指す。と言っても水面から1mぐらいの高さしかないんだけど。低木を掻き分けて歩いてるとぽっかりとした空間が現れ、目的の場所にたどり着いた。

そこは茂った一本の大木で覆われていた。その木の下には絨毯のように草がはえていて、湖面を吹き抜けてきた風に靡いている。風は木々をざわめかせ、木漏れ日を揺らしていた。翳っている場所なのに常に木漏れ日が揺れて差し込んでいるから暗さは感じなくて、身体を吹き上げるように下から上に風が吹きぬけて行く。心地良い。体温なんかないのに、涼しさを感じるほど…。
大佐は、感動に浸るボクを尻目に、大木の周りをぐるぐると歩き、昼寝のポジションを吟味に吟味を重ね選んでいた。そして、選び抜いたベストポジションに腰を下ろして紙袋をひっくり返す。中から一冊一冊厳重に梱包された六冊の本が転がり落ちた。
「さあ、選びたまえ!」
「あのー、これじゃあタイトルがわかんないですけど?」
大佐はにっこりと笑った。それはここにある本全部のタイトルを教えてくれる気はないと言っていて、ボクはそれ以上は何も言わず、素直に一冊を選んだ。
「では、これを」
「うむ。では、君がそれを読んでいる間、私は隣で昼寝をする。もし君が選んだ本が面白くなかったり、すでに読んでいるものだったら、いつでも言ってくれ」
大佐はそう言うと、ボクが梱包を解くのを待たずに残りの五冊を入れた紙袋を抱き枕のように抱え込んで、芝生の上に丸くなった。吹き抜けていく風が黒い髪もそよそよと揺らす。本気で寝る気なんだなと思うと、この本がどんなものであっても、しばらくここにいなくちゃならない気がしてきた。
でも、それも偶にはいいのかもしれない。ここはボクにとっても気持ちのいい場所だった。久しぶりにこんな真夏の日に肩の力が抜いていられる。寝ることはできないけど、涼しさを感じてボーっとするのもいいかもしれない。兄さんも図書館からこっちに来ればいいのに。
なんか、本なんかどうでもよくなっちゃったなと思いながら、それでも一応包みを解いてみた。
「…………………」
それは半年前に結構必死になって探した発禁書の写しだった。あのときは結局、数年前に全て処分済みという記載を見つけて諦めざるをえなかった。
時々思う。どこか遠方にあやふやな噂を確かめに行くよりもまず大佐のところに忍び入って本をあさった方がいいのではないかとか…。



時間が止まったかのような空間で本を五分の一ぐらい読み進めたときだった。木を掻き分けて近寄ってくる音がして、顔を本から上げると、そこにぴょこぴょこと動く特徴的な金色のアンテナを見つけた。
「兄さん。ここだよ。よくわかったね」
「ハボック少尉がわざわざ図書館に来て教えてくれた。ここに貴重な錬金術の本があるってな。おい、大佐! オレにも寄こせ!」
ボクの隣で丸くなって寝ている人を起こすつもりの声はもちろん大きい。しばらく葉擦れの音とせせらぎしかなかった場所が途端に賑やかなものになって、ちょっとだけ気温が上がったような気がした。
「兄さん、等価交換だって。大佐の本が読みたいなら、大佐に相応のものを提供しないとならないんだ」
お前はどうしたと聞かれて、大佐の昼寝に付き合ってるんだと応えると、そんなんで等価交換になんのかと声ががっくりとした。大佐の本がたいしたものじゃないと思ったに違いない。
兄さんはぐるりと周りを見渡し、揺すっても叩いても絶対起きないという強い意思すら感じさせて寝てる大佐に視線を暫く留めてから、大きく伸びをして腰を下ろした。この妙に居心地のいい場所と、大佐の持っている本への期待度が下がって、毒気を抜かれたのかもしれない。
「ここ、涼しいな。湖面の上を抜けてくからか。風が冷たくて気持ちいい。汗が引いてく」
「兄さんも昼寝したら?」
「あー、それも悪くねえけど、本を確保する方が先だ」
その声も第一声に比べるまでもなく勢いがなくて、昼寝しちゃおうかなというニュアンスまで感じられた。
そんな時だった。
「ドーナツ…」
「わっ!」
突然の。もしこの人のことを知らなかったら、明確な寝言だと思ったかもしれない。振り返っても、大佐は丸まったままさっきから一ミリも動いてなかった。でも、この人は起きている。そういう人だった。
「あ、起きてやがる。んだよ。買って来いってか?」
「ああ、もう、兄さんたら」
「ぐうぐう。ドーナツ食べたいなあ。揚げたてのふわふわなドーナツ…」
「あんた、こんなガキにたかるきかよ」
「ぐうぐう」
「たかる気なんだな。分かったよ。明日、買って持ってってやるから、まずは本をよこせ」
「ドーナツが先だ。しかも、駅裏の屋台のドーナツだ。ぐうぐぅ……」
「おい!」
「………」
「寝るなって!」
「………………」
また沈黙。しゃべらないと大佐はぴくりとも動かないから、寝てるのか起きてるのかよくわからなかった。ただもたもたしていたら本当にまた寝入ってしまうことは明らかで、兄さんが頭を掻き毟る。
「くそう! アル、ドーナツって何でできてるんだ? こうなったら練成してやる!」
何から? もしかして元素から練成する気?
うーんうーんと頭を抱えはじめた兄を、いつの間にか起きた大佐が寝転がったまま肘を突いて。面白そうににたにたと笑って見ていた…。

その声も突然だった。
「お、ちょうどいい。ほら、大将、差し入れ」
後ろから聞こえた声に振り返るとそこにハボック少尉が足音一つなく立っている。
「あー! ハボック、それはっ!」
ハボック少尉の持っている油染みが浮かんだ紙袋を見て、大佐が目を輝かせて子どものようにちょーだいと手を伸ばした。それはきっと大佐が食べたいとつぶやいていた駅裏の屋台のドーナツなんだと思う。でも、ハボック少尉は笑いを堪えつつ、持っていた二袋を全部兄さんに渡してしまった。
「おー! さすがハボック少尉! サンキュー! オレ、ここのドーナツ好きだぜ」
「それは良かった」
「ハボ…」
「あ、そうでした。アンタもここのドーナツ大好きでしたね。アンタの分も買ってくれば良かったんスけど、アンタがまだここにいるなんて、全く思ってなかったんで買ってこれなかったんスよ。どーもすんません」
「…………………」
今度は兄さんがにたりと笑って、大佐の鼻先にドーナツの袋を掲げて高らかに宣言した。
「大佐、おら、等価交換してやってもいいぜ!」
大佐が恨みがましい視線をハボック少尉に投げてから、片手で袋を持ち上げて、どさどっさと芝生の上に本を落とした。

憤懣やるせなし。大佐は悔しそうに兄からドーナツの袋を奪い取り、ごそごそとまだ湯気が立つ熱々のドーナツを摘み上げては噛り付く。
「ハボック、何で私の取って置きの場所がわかった? 知っていたのか?」
「ここのことですか? 一応真面目に仕事してるんで。でも、来たのははじめてスよ。この公園でアンタが好きそうな昼寝の場所ってったら、この辺りかなって思ってました。人の気配がなくて、日差しが遮られてて、風が吹き抜けて、しかも地面が乾いてる場所。そういう場所を覘くと決まってアンタがいるから、本当にいつも感心します」
「…………………」
大佐が不愉快そうに眉を顰めて、立ったまま、座る様子のないハボック少尉を睨み上げた。

「大佐」
「私は動かないぞ。絶対。今日は休みなんだ。私はここでドーナツを食べて、昼寝するんだ!」
「はいはいはいはいはい」
「ハボック!」
「でも、目的は果たせたんだからいいでしょ? 残念ですが、アンタは先ほど司令部行きが決定しました。さっき隊に合流したら、爺さんがアンタを探してるって報告がありましたんで」
大佐は抱え込んでいた本を少尉に投げつけた。
「わあ、本!!」
慌てたのはボクだけだった。投げる方も、それを全部キャッチした方も、兄さんすら取り立てて普通で泣きたくなってしまった。
「こんなに忠実な部下に八つ当たりしないで下さいよ。ドーナツだってアンタが食べたい食べたいってぴーぴー言ってると思って、ちゃんとわざわざ買ってきたでしょ?」
「ふん!」
ハボック少尉はそっぽを向いた大佐の正面に回り、脇に手を差し込んで強引に大佐を立たせてしまった。そして、大佐が口を開く前にビシッと敬礼。有無を言わせぬ呼吸だった。
「マスタング大佐、お迎えに上がりました。グラマン将軍がお待ちです」
「…………………」
 大佐の負けだった。いや、負けも何もないんだと思う。大佐はいつだって呼び出されれば、行かなくちゃならないのだから。そして、それが軍属というもので。

ハボック少尉はボクたちに司令室に顔出せよとだけ言って、本を片手に強い日差しの中に戻っていった。枝を掻き分けて歩くハボック少尉の後ろには少尉の軍服のスカートで油で汚れた指先を拭う大佐。でも、ハボック少尉はそれを見ても、あー、もう、としか言わないで、大佐の好きにさせていた。



二人の姿が見えなくなるまで見送ってから、本を返し忘れたことを思い出した。兄さんは梱包を解いてもいない本を枕にごろんと横になって、もらっとけば、なんて暢気なことを言いつつドーナツを食べている。兄さんは事の重大さがわかっていなかった。でも説明するのも面倒だったから、怪訝そうな顔をする兄を急かして梱包を解かせた。現物を見せるのが一番早い。
そこから出てきたのはタイトルがない本だった。錬金術書じゃないのも混ざっていたのかなと疑ったのは、ページを数枚めくるまでのことだった。その本を持つ兄さんの手がカタカタと震えはじめる。それは手書きだった。ボクたちはその筆跡からそれを誰が書いたのか、言わずともよくわかっていた。彼の本は全部読破していた。
「これ、マジもんの研究手帳だぜ…」
すでに死去した生体練成の大御所。その人物の研究手帳が今この手の中にある。
「アル、これはもらっておこう。なんなら二度と大佐に会わないで永久に借りておこう」
その気持ちはよくわかったけど、頷くことはできなかった。そんなことしたら、大佐の家に上げてもらうチャンスを失ってしまう。それは最も避けるべきことなのだ。
「兄さん。ここで目の前のたった数冊に心奪われるのはどうかと思うよ? きっと大佐の家にはもっと貴重な本がごろごろあるはずなんだから!」
「弟よ…」
兄さんはそれ以上は何も言わずに、大きなため息を一つ付いた。

静けさがすぐに戻ってきた。風は吹く。木々を、兄さんのアンテナを揺らして。
ここは気持ちいい。このボクにとっても。でも、今はさっきまであんなに気持ち良かった場所が、ちょっと気持ちいい場所に変わってしまっていた。さっきと今、その差は一つ。さっきまであったものが今ここにないかただ。たったそれだけでこんなにも違ってしまう。
「なんだか、ボク、猫、飼いたくなっちゃった…」
「…………………」
 ぽつりと漏れた一言に、兄さんが怪訝そうな顔で本から顔を上げて、まじまじとボクを見た。口を開きかけて、でも何も言わないで、また本に顔を戻す。
「なに?」
聞いてみたかったというより、集中力が切れて、なんとなく相手をしてもらいたかったから。
「どいつもこいつもって言ったんだよ…」
でも、兄は邪魔されんとばかりに、余計意識を本に集中させてしまった。

ハボロイオンリーのアンソロジーに載せていただきました。