01
かわいいじゃないか、ハボック。
16歳やそこらのお嬢さまの王子様は、権力も地位も、
――ましてや、金も人脈も必要ないんだよ。
金髪碧眼で、背が高く、甘いマスクがありさえすれば、それで十分だなんて、かわいいじゃないか。
東部一のお金持ちのお嬢さまに、けんもほろろにふられた大佐はそれでも楽しそうに笑った。
東方司令部への高額献金は、娘の社交界デビューのエスコートを大佐が行うことを条件に申し出された。
何だかんだと敵の多い人だが味方がいないというわけではない。財政界や経済界に対しては、東部復興の評価が高く、中央に再び返り咲いたときのためにと今から縁を結んでおこうと、個人的に大佐に献金を申し出る有力者は少なくなかった。金は持っている人間の下により多く集まる。――そのおこぼれにあやかっている人間の一人とはいえ、何か腑に落ちないけど…。
さらに、中央の社交界に、東部に左遷された今でも影響力を持っている人だった。地方の成金が中央でも足掛かりを作ろうとするには、大佐の人脈は魅力的だと考えるのは容易かった。
社交界デビューを、大佐のエスコートで。それは、中央の少女でなくとも憧れる話だろう。大佐はこの国ではそういう存在だ。著しく現実を無視した話だが!
しかし、中央進出を考えているらしい成金の父親が四苦八苦して強引に、多忙な大佐のスケジュールに無理矢理ねじ込んだこの話を、その娘は大佐を一目見て、台無しにしようとした。
――私は黒髪だから、パートナーが黒髪だと野暮ったく見えるし。私は背が高いから、パートナーがヒールを履いた私より背が低いと…。
つまりは、黒髪で中背な大佐はお嬢さまにとってアウトだったと言うわけで。ローヒールを履けと父親に怒鳴られたお嬢さまは、それじゃあ足がキレイに見えないから嫌だと泣き出したと言う。
大佐の面目を潰して泥を塗りたくったその成金のお父さまが真っ青になり次第に土気色になっていくのとは対照的に、大佐はウケにウケて大爆笑した、らしい。モテる人間の余裕なのか、実に胆の太いことだ。
冷や汗があふれ出し、何を言っていいかわからずパニックに陥って硬直している父親を尻目に、大佐は泣き止まないお嬢さまの涙を拭いながら口を開いた。
――一生に一度のことだからね、と…。
この話をオレはホークアイ中尉から聞いて、大佐に同行しなかったことを心底悔やんだのだった。
+++
殺人的な忙しさの年度切り替えの時期のスケジュールを、さらにタイトに調節しなくてはならない事態にむっつりとした大佐を車に押し込み、高額献金者の成金一族のお嬢さまとの顔合わせに向かった。
大佐が借り上げていた家も大きいが、没落貴族の家を詐欺同然に手に入れたと囁かれていたその家もまた大きかった。玄関前のアプローチにふんだんに大理石を用い、かつての品格や風格などまるで感じさせない様々な装飾が施され、内乱期に乗じて、貴族の庭園などから拝借してきたと思われる銅像が庭を彩っている。
そのいくつかに目を留めた大佐がさらに顔を顰めた。何も言うことはなかったが、元あった場所を覚えていたのかもしれない。
主人と多くの家人に出迎えられ、廊下に過剰に置かれた調度品の説明を一つ一つ聞きながら、室内を案内された。――まだ家の外観の方が上等なセンスであったことを知って、大佐だけでなく、私も早々にここを立ち去りたくなった。
しかし、誰が見てもわかるほど不機嫌さを隠しもしなかった大佐は、リビングで待っていた成金のお嬢さまの一言で、劇的にその雰囲気を変えた。父親に怒鳴られ、涙を零しながらも負けていないそのお嬢さまが気に入ったと言わんばかりに、その涙を拭った。
「――一生に一度のことだからね」
その一言に、お嬢さまはまるで晴天の霹靂のような顔をして、大佐をじっと見つめた。
「君は何色の髪のパートナーがご希望なのかい?」
突如として現れた人間が、本当に自分の味方なのか疑いのまなざしを大佐に向けつつも彼女は口を開いた。
「――明るい色がいいわ」
「身長は何センチあったらいい?」
「――私、8センチのヒールを履くのよ」
「それはすごい。8センチの靴でワルツを踊るのはなかなか大変だよ?」
「平気よ!そのためにたくさん練習したんだもの!」
「そうか。では、その靴を持っておいで」
大佐がにこやかにそう言うと、お嬢さまはさっきまで泣いていたことなどまるで忘れてしまったかのように頬を紅潮させて、靴を取りに行った。大佐は彼女に味方だと思わせることに図らずも成功したようだった。お嬢さまが長いドレスをたくし上げて走って行く様は、この場で唯一の自分の味方が気を変えないうちにと思っていることを伝えていた。
「マスタング大佐!約束が違う!」
娘が部屋を出て行くと、その男は高額献金が無駄になりそうな予感に、顔を真っ赤に変えて唸った。大佐はどこ吹く風だったが。
「――あなたの目的が私の人脈にあるならば、私が同伴する以上、その目的は果たされるでしょう。わざわざ私がお嬢さんのパートナーになることはない。一生に一度のことです。お嬢さんの望むパートナーを選んで差し上げたら良い」
「あの子はまだまだ子供なんだ!何もわかっていない!子供の戯言を真に受けないでいただきたい!!」
この場で、最大のお子様はマスタング大佐なのよ。
――そう思うとため息が知らずに漏れた。
子供の戯言を嬉々として受け入れるだろうこの人の、今後のスケジュールを考えると…。
そのとき、ちょうどリビングに戻ってきたお嬢さまが唯一の味方が言い寄られているのを見て、果敢にも父親に食ってかかった。
「私、もう、子供じゃないわ!私の、デビューなのよ!お父さま!」
「そうとも、君が主役だ」
大佐の迫力のある笑顔を向けられたその男はぐっと言葉に詰まった。そう、はじめから勝負になるわけもない。苦々しい顔の面々の中、自分たちの主張が通った2人だけが嬉々としていた。
大佐は全身が映る窓の前に、お嬢さまをエスコートすると、そこで、その持ってきたダンスシューズを履くように言った。お嬢さまは少し躊躇いながらもそれを履いたが、立ち上がるとすぐに俯いてしまった。
彼女は背が高い。平らな靴を履いていても、女性では背が高い方に入る私より高かった。つまり、大佐よりもちょっと小さいぐらいで、8センチのヒールを履いてしまうと、明らかに大佐よりも大きくなってしまう。きっと、背が高いことがコンプレックスなのだろう。大佐の前で、申し訳なさそうに背を丸めていた。
「――背筋を伸ばしてごらん。女性がやや上方を見上げるときのあごから首、胸元までのラインはとても美しいものだよ。君は、自分がどのくらいの高さを見上げると一番美しく見えるか知っているかい?」
それでも、彼女は俯いたままだった。
大佐は窓に映る彼女に向かって、高らかに言った。
「私が、君が最も映えるパートナーを探してこようではないか!さあ、背筋を伸ばして!」
彼女はその言葉に顔を上げて、背筋を伸ばした。大佐が彼女のその現金な様子に、思わず笑い出したら、お嬢さまは顔を真っ赤にしながらも、大佐を睨んだ。
「この角度だと思うわ」
横目で窓に映る自分の姿を見ながら言った彼女の言葉に、大佐が頷いた。――その様子から推測すると、お嬢さまのパートナーの身長は190センチ強は必要だった。彼女もそれを察したらしく、眉を顰めた。
背が高ければ何でもいいわけじゃないのよ。ゴリラみたいな男はイヤ!と思っていることは、私にも容易にわかった。
大佐は、実に楽しそうに、大丈夫、私に任せておきたまえと請け負った。次いで、お嬢さまは理想のパートナー像というものを尋ねれば、お嬢さまは大佐の明るい雰囲気につられるようにして、聞かれるままに話す。
大佐はその一つ一つに満足そうに頷いた。
これ以上、大佐の面子を損ねることを恐れた男は、時々助けを求めるような視線を私に投げかけてきたが、私が彼らに助力する理由は何一つなかった。今回のことで、かなり機嫌を損ねていた人が少しでも気分を浮上させて、仕事をスムーズにしてくれるなら、部下を一人犠牲にするくらい私には何でもない。
お嬢さまの話す理想の王子様像は、身長190センチ以上で細身の、金髪碧眼の、甘いマスクの男だった。
折りしも、その該当者が身近に一名いた。
大佐の顔にはもはや誰にも止めることなど不可能な暴走を予感させる笑みが浮かんでいた。自分のタバコ臭い、眠たげな目をした部下を痛ぶる算段がついた顔だ。
――しかし、これで、より一層タイトになるだろうスケジュールは何とか乗り切れそうだった。遊びがあれば、俄然やる気が違う人だ。こういうむらっ気に慣れてしまった自分が情けないのだけれども。
予定よりやや遅れて、成金趣味の悪趣味な家を辞する。大佐は、玄関まで付いてきたお嬢さまににこやかにひらひらと手を振って、車に乗り込んだ。来たときとは雲泥の差であった。
「――大佐、ハボック少尉はワルツを踊れないと思いますが?」
社交界デビューならば、ワルツを踊るのが慣習である。
「ハボックなら、一ヶ月もあれば踊れるようになるだろう?ちゃんと責任をもって最後まで面倒を見るよ?」
「私は、仕事を滞らせないでいただけるならば、特に何も言うことはありません」
「あー、うん。仕事ね。うん、頑張るとも」
「ぜひ、行動で示して下さい」
「あはは、―――相変わらず、厳しいな、君は…」
大佐の乾いた笑いが車内に物悲しく響いた。
座席に深く座り、足を組んだ大佐は鼻歌でも歌い出しそうなほど楽しげに、車窓を眺めていた。どうやったら、より効果的にハボック少尉を担ぎ出すか考えているのだろう。機嫌が良くて何よりだ。
「――そう言えば、君は私にエスコートさせてくれるとき、いつもローヒールだよね。もしかして、君も自分より背の低いパートナーはイヤだったかい?」
そんなに、面白そうに尋ねられても困る。高々、身長如きで、この人のエスコートを断る女はいない。断るなら、それはまだ女ではないことを証明するも同然に思えた。
「単に、動きやすさを求めたに過ぎません。私は、ワルツは苦手です。ましてや、8センチのヒールで踊りたいとは全く思いません」
身長差など、この人の存在感の前では全く無意味だ。標準サイズのこの人は、自分の背の高さなど気にする暇がないほどモテる。
この人の、こういう大らかさはコンプレックスを抱えた人間をリラックスさせた。中央にいた頃、自分より背の高い年上の女性と付き合っていたことがあったと思い出した。
「私はヒールが苦手です。大佐も一度、お履きになられたらよろしいですよ。そうすれば、女性の忍耐強さというものを実感できるはずです」
「――これ以上、女性の偉大さを知ってしまうと、軽々しく声もかけられなくなるから、ね。うん」
次の大佐の誕生日には、10センチのピンヒールを贈ろうと心に誓った。
「さて、忙しくなるな。――その、君に、ドレスを贈ったら着てくれるかい?」
そう言った大佐が少し緊張していたので、口元が思わずほころんでしまった。
大佐もデビュタントたちに混ざらないというだけで、社交界に出席することは違いない。こういう場ではパートナー同伴が必須であった。大佐がこれからパートナーを探す時間はスケジュール上ないも同然で、そうなると必然的に私が勤めることになるのは眼に見えていた。それに、今まで勤めたことがないというわけでもない。しかし、この人にこんな顔をさせて、誘われるのは自分ぐらいなのだろうかと思うと、少し優越感が湧くのも事実であった。
「――光栄です」
私の言葉に、大佐はほっとして少年のような無邪気な笑みを見せた。思わず、つられるように私にも笑みが浮かんだ。
この人のめったに見せない素の笑み。たった一つを除いて、他とどうという違いがあるわけではない。――一瞬、この人の纏っている空気ががらりと変わるのだ。いつもどこかしら、ぴんと張り詰めた精神がふっと緩む。それは、それを感じた人間にどうにも抵抗しがたい魅力を持っていた。
02
仕事の合間に脱走されるのを阻止するように、ホークアイ中尉に問答無用に連行されて、どこぞの金持ちのお嬢さまと顔合わせをしに行った大佐が漸く戻ってきた。
たった2時間、司令室の席を外しただけで大佐のサイン待ちの書類が大佐の執務机に乗り切らなくなっていた。自分の仕事の前に、大佐の機嫌も何も関係なかったが、出て行ったときとは違い、幾分機嫌を回復させて戻ってきた大佐の様子から、その東部一の成金のお嬢さまはどうやら美人だったことが伺えた。司令室の誰もが好奇心を隠しもせずに上司の一挙手一動作に注視していたが、大佐はそれらを一瞥もせずに、執務室に入っていった。
それはつまらない。そのお嬢さまが美人だったら、なお一層つまらないが…。
なんとなくはぐらかされた気分で、恐る恐るホークアイ中尉を見れば、室内の全員のもの言いたげな視線に晒された中尉がわずかに苦笑を浮かべながらも、口を開いてくれた。
「私よりも背の高い、黒髪の、かわいらしいお嬢さんよ」
途端に、大きなブーイングが上がった。世の中不公平だ。何であんな人ばかりがいい目を見るんだ。
そう思っていたから、ホークアイ中尉のその後に続けた言葉の意味が一瞬わからなかった。それは、晴天の霹靂のようなものであった。
「――ヒールを履いて、自分より背の低いパートナーはイヤだと泣いて訴えられたわ。つまり、大佐は16歳の女の子に木っ端微塵にフラれたのよ」
「!!!」
野郎どもの口から、職務中にも関らず、野太い歓声が上がった。もちろん、オレの口からも、だ。
珍しくホークアイ中尉も高らかに笑っていた。
今夜の酒は、きっと人生最良の味がするに違いない!
+++
「大佐のエスコートを断る女性がまだ東部にいたとは驚きですな」
時間があれば、薄暗くかび臭い資料室で自分が使いやすいように膨大な資料を並べ替える。これで後任者は資料一つ探すのも半日仕事になるだろうと思いながら。
だが、同時に資料をマメにひっくり返す人物など、この先現れないだろうと確信がある。つまり、今ここでどう資料を整理したところで、文句を言われることはない。
――そう、思いながら、探していた資料を棚から抜いていたときだった。司令室の居心地が悪いのだろうか、大佐がふらりと資料室に入ってきた。だが、その姿はなにやら楽しそうで、さしてフラれたことなど気にも留めていないように見えた。根堀り葉堀り聞きたがるであろう部下たちに、煩わしさが勝って、資料室に避難してきたのかもしれない。
大佐は私が手渡すまま、資料を受け取り、目を通していく。こんな薄暗くほとんど人も来ない寂しい場所であっても、この人がいると明るく感じるから不思議である。
「――ファルマン。私は、彼女の王子さまに相応しくないそうだ。彼女と約束してきたよ。彼女の理想の王子さまを探してきてあげるとね。何せ、東方方面軍には野郎どもがうじゃうじゃいるんだ。私を差し置いて、お姫さまのパートナーとなる栄誉を持つ奴を探し出さなくては、な」
大佐は資料から顔を上げずに常の通りのよい声で言った。
それは、何度聞いても、本人の口から聞いても、にわかに信じられない話であった。
「確か、社交界のデビューでしたか?――ワルツを踊れる者はこの軍には一割にも満たないと思いますが」
大佐が同伴する社交界のデビュタントをこの軍から選出する。それは社交界にデビューする以上に、大変な栄誉なことになるだろう。しかし、デビュタントを勤められるだけの教養をもつものがこの軍にいるのかが問題だが。
「私が一から仕込んでやるから、それは不問だ。重要なのは容姿だ。ファルマン准尉」
「――容姿、ですか?」
そのお嬢さんが黒髪を嫌いだったとしても、この大佐のこの容姿が気に入らないとは。
女性とは、全く謎に満ちた存在だ。
「そうだ。君の頭に入っている東方方面軍全員のデータから、該当者をピックアップしてほしい」
「客観的に言いまして、大佐よりも容姿端麗なものはこの東方方面軍には一人もいなかったと思いましたが…」
実際、大佐ほど王子さまという形容詞に相応しい人間はこの軍にはいまい。軍隊にあって、大佐は不思議なほど男臭さがなく、物腰が洗練されていた。その上、過剰なほどフェミニストで、非常に裕福だ。それは少女たちが思い描く王子さま像に寸分違わず合致するものと思われた。
「ふはははははっ!腕を上げたな、ファルマン准尉!次の査定は期待していたまえっ!!」
大佐は喜色満面に高らかに笑い声を上げた。
まじめだけがとりえのような私にも、大きなチャンスをものにすることができたようだった。
「ありがたく存じます。――しかし、大佐。あながち冗談とは言えませんが。大佐がダメだと言われるならば、一体、どのような容姿をそのお嬢さまはお望みなのでしょう?」
大佐以上の人材を確保するなど、途方もない話である。
「金髪碧眼だよ。古来、お嬢さまの王子さまというのは金髪碧眼だと決まっているじゃないか」
そうであったろうか。しかし、人の印象ではそうなのかもしれない。
「――なるほど、確かにそうとも言いますな。支部は外して構わないでしょうか」
「ああ、もし該当者がいない場合は、支部まで拡大してくれ。それから、厳ついゴリラみたいな奴はお姫さまの手を握る権利を持っていない。――後、そうだな、これは私の美観なのだが、正装させるからにはひょろひょろした奴はダメだ。武官を優先的に考えてくれ。体が薄いと燕尾服が似合わないからな」
金髪碧眼の、武官で、厳つくない男。頭の中がフル回転していく。
「どうだろう?案外、いるかな?」
「ざっと、2、30人は上がりますな」
「よろしい!では、その中から190センチ以上の者は?」
「……………………あっ!」
頭の中からリストアップされたデータから、たった一人を除いて全てが消えた。――残った一人。
大佐は驚きに声を上げた私を見て、勝ち誇った笑みを浮かべた。それはまるで私の出す答えをはじめから知っていたかのような錯覚を起こさせた。
そして、私はようやく大佐が自らパートナーを断られても、機嫌を降下させない所か、浮上している理由に思いついた。水を得た魚、もしくは油を注いだ炎のごとく、大佐は笑みを深くした。
「私を差し置いて、お嬢さまの理想の王子さまに相応しい男の名は?」
「―――ハボック少尉ですな」
私はまるで童話の中に出てくる白雪姫と答える鏡の気分を味わっていた。その人物に災いがふりかかるのがわかっていても、己の知識を偽ることなどできない。
心の中で、私は何回もハボック少尉に幸いあれと祈りを捧げた。私の答えに非常に満足した大佐は何度も頷いてから、資料を片手にスキップしそうなほど軽やかな足取りで、資料室を出て行った。
ドアの外から、大佐の堪えきれなかった大きな笑い声が聞こえてきた。
03
どんな安酒でも、今夜ばかりは美酒になるだろう。なんせ酒の肴が極上だからだ。
浮かれ気分でデスクワークに励んでいると、今日も残業決定済みのその人が、やっと司令室に戻ってきた。その顔には面白くなさげな色があって、さらにオレたちを愉快な気分にさせた。
大佐が女の子にフラれたということが司令部中に知れ渡り、サボっていた所でどこからともなく大声で笑われてんのが耳に入って、余計に不愉快になって戻ってきたんだろう。たまには、フラれる気分を味わうことも大切なのだ。そう思えば、頬が緩む。――緩んだままだ、昼間っから。
大佐は自分の席に付くと、さも悔しげにオレたちを見回してから、大きなため息を付いた。
「あー、諸君。もうすでに耳にしていると思うが、高額献金者のお嬢さまの社交界デビューのパートナーを、この東方方面軍から選出しなくてはならなくなった」
何故なら、フラれちゃったから!大佐、ショック!と、その後に続けられるであろうセリフに期待で肩が震えた。この人の口から、自ら敗北宣言を聞くことができる日が来ようとは!
「――黒髪の、自分より背の低いパートナーはイヤだと泣かれてしまってね。つまりは、私はフラれてしまったのだよ」
大佐は、もう一度、大きなため息。
それと同時に、司令室にいる全員が足を踏み鳴らし、歓声と共に机の上の書類を宙に投げ上げた。地響きのような響きと書類が紙ふぶきのように舞う中、大佐がさも不機嫌に顔を顰めるのがまた本当に心地よかった。
「あー、この忙しい最中に申し訳ないが、誰かこのパートナーを選出して欲しいんだが…」
「ハイハイ!オレオレ!!オレ、やりますよ!大佐!!」
向かいでブレダが肩を竦めたが、こんな楽しいチャンスに何にもしないでなんていられないだろう!
「―――……」
むっつり顔の大佐の机の前に立ち、めったにしない敬礼をする。周囲がいつものことに、笑いをこらえる気配を背後に感じた。
「大佐を差し置いて、お嬢さまのパートナーになるシンデレラボーイを泣いてイヤだと言っても引きずって大佐の前に連れて来ましょう!焼くなり煮るなり、好きしてください」
「――泣いて、イヤだと言ってもか?」
「もちろんであります!われらが大佐を差し置いて、お嬢さまのパートナーを勤めるという、東方で最大の栄誉を承るのですから、そのものの意思など関係ありません。命に代えましても、そのものを連れてまいりましょう!お任せください」
オレの言葉に大佐の苦い表情がますます苦くなった。
「それは心強いな、ハボック少尉。では、このミッションは君に一任しよう」
「はっ!光栄に存じます!――えーっと、大佐より背の高い、黒髪じゃない奴なら、誰でもいいんスか?」
「まさか!お嬢さまのリクエストはなかなか厳しいぞ。果たして、この東方方面軍に該当者がいるかどうか…」
「あー、まあ、そうっスよね。アンタがダメってんですから。どんな奴がいいんスかね」
「まず、ワルツが踊れなくともよい。私が一から仕込んでやるからな。立ち振る舞いも、テーブルマナーも不問にする」
「――んな、時間、アンタにあるんスか?」
最近、仕事が終わらなくて司令室に泊まり込んでるくせに。
「私の名代だ、時間を作ってやるさ。いくらでもな」
「んな時間、アンタにあるんスか?」
ないだろう、誰が見ても。だけど、この人が時間を作ると言えば、作れてしまうものまた事実だった。
内心、言いようのない不愉快さが生じる。この人が日々のわずかなプライベートの時間を裂いてまですることではないはずだ。
「ホークアイ中尉の許可はあるんスか?」
「もちろんっ!ちゃんと最後まで面倒をみれるなら構わないと言ってくれたぞ!」
それは少々甘いのではないだろうか。この人と終日二人きりにさせとけないだろうに。さすがに誰かしら、この場合は専らオレだろうが、護衛が付く必要があるんじゃないのか。
それは、面白くないぞ。オレの仕事がどんどん増えていくじゃないか。
「体が薄い奴はダメだ。正装が似合わないからな。お嬢さまは細身のタイプをお好みだがこれは譲れん」
オレの言いたいことなど全く無視して、大佐は話を進めていく。
「着せるもの1つで、細身に見せることは容易い」
「なら、武官っスか?後、まだなんかあります?」
「金髪だ。金髪碧眼が望ましい。顔は厳ついゴリラみたいな奴でないなら、多少は崩れていても構わない。顔の造作というものは立ち振る舞いがよければ、さほど問題にならないのだよ」
「はあ、そーなんスかね」
「それから、」
「あー、まだ、あるんスか?」
「これが最も重要なことだ。ハボック少尉。――身長は190センチ以上だ」
大佐が、悪魔はこういう顔で笑うという見本のような顔で、にやりと笑った。
背筋に悪寒が走った。
「――さて、この該当者を、私の前に、泣いてイヤだといっても引きずり出してくれたまえ。何人でも構わない。その中から私が選ばせてもらうからね」
190センチ以上の金髪碧眼の武官…。
そう言えば、オレもその該当者の一人のような気がした。大佐はもうたまらないと言いたげに楽しそうに笑みを浮かべている。――先ほどまでの、不機嫌さはまるでウソだったのように。いや、ウソだったんだろう。オレをハメるための演技に、オレはまんまとハメられたんだ。――そう思ってももう遅い、すでに賽は投げられた後だった。
「期限はそうだな。できるだけ早いほうがいいんだが?」
お前にも腹をくくる時間が必要だろうと、声に出されなかった声が聞こえてきた。
一刻も早く、自分以外の該当者を見つけなくては、えらいことになっちまう…。あは、と引き攣った笑顔を浮かべて、オレは大佐の前から一時撤退を余儀なくされた。
+++
ハボックのせいで、司令室は先ほどまでの勝利の騒ぎが収束してしまった。こうなると、わざと大佐がフラれたと勘ぐりたくなる。
勢いに乗って投げた、床に散らかった書類を拾った。これが終わらないと残業になってしまうのだ。床に這いつくばって、書類を拾っていると、途端に一抹の空しさが襲ってきた。
「オイ、ファルマン、190センチ以上の金髪碧眼の武官って、今、トンずらした奴以外にいるのか?」
歩くデータブックであるファルマンを振り返れば、ファルマンは司令室でただ一人、席に就いて仕事を続けていた。
「いることはいますな。――お嬢さまが泣いて嫌がりそうなタイプでしたら」
「大佐、知ってんのか?」
「すでに、ご確認済みです」
手抜かりはないうわけか。
結局、大佐一人が勝ちを引いたんだろう…。
「――まあ、これでしばらくは大佐はご機嫌ってわけか」
「実に結構なことでありますな」
「ああ」
ハボックを生贄として大佐に差し出せば、極めて、残業が減るだろうことは確実だった。
ハボックが腹をくくったのは、それから3日後だった。
04
「お前の狭っ苦しい部屋に行って、荷物をまとめて来い」
「はあ?」
「今日から、私の家に泊まりこめ」
「――それって、いよいよ同棲開始ってことっスか?」
「馬鹿者!合宿だっ!」
大佐は運転席に座るオレの頭を容赦なく叩いた。
地獄の合宿は、オレが腹をくくったその日の夜から緊張感なくはじまった。
大佐は家に着くなり、リビングに置かれていたソファやら、ローテーブルやら、その他もろもろのものを廊下に出すように命令を下した。大型のソファを一人で運び出すのは骨が折れたが、やってやれないことではない。ワルツの練習を行う以上、広いスペースの確保は必要だった。
これでも、一応、士官学校を卒業しているから、卒業パーティで踊るワルツを学校で習ったことはある。だから、案外、オレは余裕に考えていたのだ。はじめは…。
着替えてリビングに戻ってきた大佐は、その手に変なものを持っていた。1メートル近い長さの棒の真ん中よりの上部に、十字に60センチぐらいの棒が取り付けられてて、そこの中央部近くからアーチ状の棒が2本付いていた。
「デビューまで時間がないからな、合理的に訓練していくぞ」
その変なものがひどく気になったが、あえて見るなと自分に言い聞かせた。嫌な予感しかしなかった…。
「うス。えーっと、でも、オレ、全く素人というわけでもないんスけど。士官学校で習いましたよ。ワルツ」
大佐がオレを見上げて、思いっきり眉を顰めた。
「同期の中では、ウマイ方だって言われましたよ!本当っス」
少なくとも、ブレダよりはウマイだろう。疑うなら、今すぐにでも聞いてくれ。だが、大佐はオレの言葉を聞いて、ますます眉間の皺を深くする。
「あのー?」
「――前途多難だ。ワルツどころじゃない。まずは、お前のその訛りをどうにかしなくては…」
「オレ、訛ってないっスよ!ちょっとっ、大佐!」
あまりに深刻ぶって言われて、かあーっと顔が赤くなったのを感じた。田舎育ちの人間をバカにすんなよ!オレは標準語を喋ってる!
なのに、大佐は絶望的だと言わんばかりに肩を落として、顔を両手で覆った。
「――訛っている奴は大抵そう言う。どこが訛っているか自覚がないから、矯正するのに手間と時間と忍耐を要する…」
――いや、こんな初日に早々と諦めてどうする。ロイ・マスタング。困難は大きければ大きいほど、克服のしがいがあるというものだろう!一度決めたことをこんなに簡単に放棄して良いのか、いや、良いはずがない!
大佐の自分を鼓舞する独り言は、声に出されて呟かれた。しかも、結構大声で。挙句の上にオレの目の前で…。オレを心底、バカにしていることに、大佐は自覚があるのかないのか気になった。
何か喋ってみせろと言われて、まだ夕飯を食べていないことをオレはアピールした。オレは腹が減っていた。
「メシ、食べます?何、食べたいっスか?作りますよ、オレ。でも、この家にある食いもの次第っスけどね。で、何が食べたいっスか?」
「――だが、耳を覆いたくなるほどの、耳障りな訛りでないことは確かだ。そう、これは素晴らしい事実だ。その上、お前が軍人であることを差し引けば、幾分かは考慮されていいかもしれない。うむ。これは明るい状況ではないか!喜べ、ハボック」
「はあ…」
何を、どう、喜べと言うんだ。メシはどうなった。それは夕飯も食べる時間がないほど切羽詰った話なのか?
大佐は一人で落ち込んで、一人でさっさと浮上した。
オレはとにかく取り残されていて、自分に降りかかっている災難の大きさを未だ掴めないでいた。
「言葉使いを直せば、許容されえる範囲の訛りだと言っているのだ。つまり、お前はまず、その話し方を改めろ。今、この瞬間からだ。わかったか?」
「えっーっと、どういうことっスか?」
「どういうことでしょうか、だ」
突然、大佐の目が冷たく光ってオレを睨みつけた。
今まで、そんな目で大佐に睨まれたことなんかなくって、内心、ひどく動揺した。
「どういうことでしょうか、だ」
繰り返して言われる言葉に、自分の言葉使いを直されたんだと気付き、ちょっとほっとした。
「――どういう、こと、で、しょう、か?」
恐る恐る大佐の言葉を繰り返すと、大佐が頷き、繰り返してよかったんだとわかった。
「スラングを話すなと、私は言っている」
「――それって、オレに口を開くなって言ってんスか?」
「それは、私に口を開くなと言っていらっしゃるのですか?」
「――あの、大佐?」
どうして、いちいちオレの言ったこと繰り返すんスか?と、聞きたくても、言いたくても、大佐の雰囲気がそれを許さなかった。
「それは、私に口を開くなと言っていらっしゃるのですか?」
ただ、繰り返される言葉と、冷たく睨みつけるその黒い目のプレッシャーに負けて、オレはわなわなと口を開いた。
「――そ、それは、わ、わ、わた、しに、くちを、ひ、ひ、ひらくなと…」
「それは、私に口を開くなと言っていらっしゃるのですか?」
「そ、れは、わ、わた、しに、くちをひらくなと、いって、いら、いら、っしゃ、ってん、って、…」
「それは、私に口を開くなと言っていらっしゃるのですか?」
「それは、わたしに、くちをひらくな、と、いって、いらっしゃ、る、の…」
「ですか?」
「ですか」
「平たく言ってしまえば、普通に話せないのであれば、そうだ」
「……………」
いじめだ。これは今までにない、いじめだ。オレが一体何をしたって言うんだ!
「お前は実践で身に付けていくタイプだ。今後はスラングを一切使うな。わかったな」
「そんなの、横暴すぎる!」
「ハボック?」
大佐の眉が片方、器用に跳ね上がった。
「――そ、それ、は、お、おうぼうです?」
「うむ。お前にしたらそう思えるのもわからないではない。しかし、社交界のデビュタントになると言うのは、こういうことなのだ。教養ある立ち振る舞いこそが、必要とされる。ワルツが踊れるだけで良いはずもない。ましてや、お前は私の名代だ。パートナーに恥をかかせるような振る舞いはあってはならない」
「――ものには、限度ってモンが……」
向き不向きを考えて適所適材が、アンタのモットーでしょ!その上、オレに『私』とか言わせて楽しいんスか?
楽しくないでしょ、ね!
「お前は言ったな?『焼くなり煮るなり、好きしてください。われらが大佐を差し置いて、お嬢さまのパートナーを勤めるという、東方で最大の栄誉を承るのですから、そのものの意思など関係ありません』と。お前の意思など関係ないのだよ。ハボック。私がやれと言ったら、やるんだ」
「――あの…」
そんなことを言った記憶は微かにあるけど…。
「Yse,Sirだ」
睨みを利かせた一言に、オレは成すすべもなく敗北感を感じて、白はたを掲げた。
「―――――イエッサー…」
「Yse,Sir」
「―――――――Yse,Sir…」
「よろしい!」
この日から、オレの口数が極端に減った。
「お前はワルツを習ったことがあると言ったが、今のその姿勢の悪さを見ていたら、些かも信じられない。ダンスの基本は姿勢にあると言っても良い。その貧乏臭い猫背を矯正するのは、生活背景が背景なだけに厳しいものがあると判断して、事前に姿勢矯正器を用意しておいた」
そういうものを事前に用意しておくという周到さが、この事態ははじめから仕組まれていた証拠だった。でも、そのことを問題にする前に、貧乏臭い猫背とか、ひどい言われようが気になる…。
アンタ、オレのこと、そんな風に思ってたんスか?言いようのない悲しさがオレを打ちのめした。
「大佐、お腹が減って、涙が出そうです…」
大佐は手に持っていたその変な棒の塊を、オレに渡した。
「あの、これを、どうしろって…?」
「――うむ、そうだな。訓練には罰則が必要だな。今後、お前がスラングを使うたびに、鞭を振るおう。躾には古くから鞭が使われるものだしな」
確か、乗馬鞭があったと思ったが。
少し考え込むようにして、呟かれた言葉は全く脅しのようには聞こえなくて。オレは目の前で踵を返した大佐の腕を慌てて掴んだ。
「マスタング大佐!これは、どう、使うのですか!」
「少し待っていなさい。今、鞭を持ってくるから」
その顔はいたって普通で、今日何度目かの戦慄が体を貫いた。
「大佐!マジで、勘弁してください!マジで!本気でやりますから!大佐!」
「…………」
そんな疑いの目でオレを見ないでくれ!オレはやるときはやる男だって知ってるでしょ!
でも、今ここでやるのは、自分のことを『オレ』じゃなくて、『私』と言うことなんだけど…。
「――大佐、それは、ゆるしてください。ま、じめに、ほんきで、やる、ん、で」
「やりますから、だ」
「やりま、す」
「そうか。ならば、改善が見られないようだったら、鞭を用意しよう」
「あり、が、とうござい、マス…」
自分のアイデンティティがさらさらと崩壊していく音を聞いた。
その姿勢矯正器というものは、2つのアーチ状の部分を両肩にかけて使うものだった。そうすると、短い方の横棒がちょうど肩の辺りにきて、前屈み気味だったオレの両肩が正しく開いた。そして、長い縦棒が背筋のラインに沿うようになる。
大佐は、その姿勢矯正器の位置を確認すると、オレの腰の辺りでそれを施錠の付いたベルトで固定した。
「縦の棒に頭を付けたまえ。顎を引いて、首だけ伸ばすように。みぞおちを引き上げるようにするんだ。尻は引っ込める。この姿勢を忘れるな。ワルツを踊っているとき、常にこの姿勢をキープすることになる」
「大佐、む、むりっぽい、無理な気が、し、ます。もう、痛いんス、痛いん、です、痛いです」
大佐の言うところの、正しい言葉使いを考えて、必死にこの姿勢矯正器の辛さを訴える。アーチ状の部分が肩に食い込んで痛いし、反るように伸ばされた背中も、オレには無理な姿勢だと体全体が教えてくれていた。
「そうか」
「そうか、って、それだけっ!?」
「ハボック?」
「そ、それだけ、です、か?」
鞭は勘弁してくださいよ。馬じゃないんだから…。
「時間がないのだよ、ハボック少尉。そのためには、少々の無理は必要だろう?」
これを少々の無理って言いきるのか!
――まあ、この人のことだから言いきるんだろう。背骨をまっすぐに練成されてしまわないことに、感謝するべきなんだ…。
「―――――――Yse,Sir…」
「しばらく、それを付けたまま、生活したまえ。ホークアイ中尉の許可は取ってある。――ハボック、棒から頭が離れている」
「―――――――Yse,Sir。あ、あの、それって…。それは、司令室でも?」
「そう聞こえなかったか?それを外して良いのは眠るときだけだ」
「座れない、です、けど」
「立ってろ」
「本気で、言ってんスか!?」
「そんなに、鞭が欲しいのか?」
「あ、あ、あっ!えっと!本気で、言ってるんで、すか?」
「本気で言っていらっしゃるのですか?」
「――本気で、言って、いら、いらっしゃ、しゃ、る?」
「本気で言っていらっしゃるのですか?」
「――本気で、言って、いら、っしゃる、のですか!」
「そうしないと、間に合わない可能性が大きい。いろいろ考えた結果、これが最良の方法だと思う。――今後の予定は、中央の知人に注文しておいたお前の燕尾服や数着のタキシードの仮縫いを行い、姿勢が矯正され、言葉使いが何とかなったら、この件のお嬢さまの顔合わせを行う。できれば、彼女もパートナーのことで気をもんでいるだろうから、これはできるだけ早いほうが好ましいだろう。その後、ワルツの訓練に入る予定だ。何か、質問は?」
「オレの、」
「私の」
「――わ、わたしの、えんびふくって?」
「デビュタントは燕尾服が慣習だ。お前のサイズで注文しておいてやったぞ」
「はあ」
「ハボック?」
「―――――――Yse,Sir…」
「鞭が必要ならいつでも言いたまえ」
そして、やっと夕食の時間になった。もちろん、作るのは棒を取り付けられたオレだ。座れないオレは立って食べる。その姿があまりにも哀れに感じたのか、大佐も立って食べていた。オレが俯いて背中の棒から頭が離れる度に、大佐が頭と言う。こんなんじゃ、メシなんかまともに食えないし、トイレで用も足せないじゃないか!
あまりにも惨めで涙が視界を揺らしたら、大佐にお前ならできる、私は信じているといつになく真剣に言われて、少しだけ気持ちが浮上してしまった。
そんな自分が悲しい…。
翌日、司令室に着くと早速に姿勢矯正器を着けられた。
立って書類を書いているオレを見たブレダがまるで案山子のようだと笑った。
この日から、オレは引きこもりのように司令室から出なくなった。
数日間、運転するときと眠るとき以外、姿勢矯正器を着けっぱなしにするという暴挙が続けられるとさすがに、目に見えてオレの姿勢は良くなっていった。言葉使いはなかなか良くならなかったけど、大佐のオレを見る目がはじめの頃に比べると格段に優しくなっていた。
「あと髪型だな」
「髪型ですか?」
「そう、その一体何を主張しようとしているのか、全く理解できないその頭を何とかしなくてはならない」
アンタ、オレの頭、そんな風に思ってたんスね…。なら、どうして、そんな変な頭のオレなんかと付き合ってもいいとかって思ったんスか…?
「後ろに流して固めてしまえば、切る必要はないか?」
大佐はオレの傷ついてぼろぼろになっちまったハートに気付きもせずに、人の頭を好き勝手撫で回していた。
05
ついに、夢にまで見た日がやってきた。姿勢矯正器を外してもいいと許可が下りたのだ。だが、案山子から人間に生まれ変わった気分を満喫するヒマもなく、仕事を終えた深夜に、オレのらしい燕尾服や何やらの仮縫いに、東部一の高級ホテルの中にある高級洋服屋に連行された。
赤いふかふかの絨毯の上を歩きながら、それを教えられた。
「中央の知人に、無理を聞いてもらって、一週間で5着を仕立ててもらった」
「どうして、5着も必要なんで、すか?」
「必要なのでしょうか」
「ひ、ひつよう、なの、でしょうか?」
「本番の前に、数回のリハーサルがあるからだ」
「同じ服ではダメな、の、ですか?」
「デビュタントには教養だけではなく、経済力も必要とされる。5着分の燕尾服を仕立てる金額を惜しむような輩には、勤まらない」
「――……………」
もう辞めたい…。
そんな異次元の世界なんかに行きたくない…。
「この仮縫いが終わって、服が仕上がったら、お嬢さまと顔合わせだ。ああ、そう言えば、テーブルマナーがまだだったな。――予約をいれないと…」
「高級料理を食べる、のですか?」
「テーブルマナーは、覚えるまで食べてもらうことになるだろう」
「Yes,Sir !」
ちょっと、運が回ってきたようだ。もうちょっと、頑張る価値はあるかもしれない。うん。
ホテルの中のその店はすでに閉店していたが、たくさんのスタッフが忙しく動いていて、美人の女性スタッフたちがすぐにオレたちに気付いて、中に招き入れてくれた。
その美人な女性スタッフの中に一人、オレよりもでっかくて、ごっつい、スカートをはいた男がなぜかそこにいた。その上、目を輝かせて、美人をかき分け突進してくる。
「きゃー!久しぶりね、マスタング大佐!ん、もう、こんなことマスタング大佐じゃなかったら、絶対聞かないわ!睡眠不足は美容の大敵だもの!」
大佐がとっさにオレの後ろに隠れたせいで、スゴイ生きものを間近に見ることになってしまった。ヒゲの剃り跡の青々しさまで目に入り、しばらく魘されそうだと思った。
「あら!あなたがマスタング大佐の彼氏でしょ!いやん!マスタング大佐ったら、面食いなんだからぁ!ジャン・ハボック少尉ね!私のことは、ブランカって呼んでくれてかまわないわ!ああ、本当にいい体してるわねぇ!」
オレに向かって伸ばされる筋肉質で太い腕の毛深さと真っ赤な爪のギャップに、体が慄いて反射的に一歩後ろに後ずさったら、ゴンっと大きな音が聞こえた。まだ、オレの後ろにいた大佐を背後の壁に挟んでしまっていた。
「――だ、大丈夫ですか?」
「痛いっ!」
「―――ぎやああぁぁ!」
オカマが後ろを振り返ったオレの尻を撫で上げた。
「ミスタ・ブランカ、私に許可なく、この尻を触らないでもらおうか!」
大佐が雄々しく、オレの前で仁王立ちになってオカマと正面から向き合った。大佐の頭にはでっかいこぶができていた。
「あらん、いいじゃない!ちょっとぐらい!もったいぶらないでよ!独り占めなんて、許せないわ!いい男はみんなの共有財産よ!」
「田舎臭いイモ男をここまで躾けたのは、この私の功績だ!」
2人はいつまでも聞くに堪えない、罵り合い続けていた。
美人の、本物の女性スタッフが大佐の後ろで硬直しているオレを手招きしてくれた。そして、にっこり笑って、さっさと仮縫いを済ませてしまいましょうと、すでに燕尾服が用意されいる試着室に案内してくれた。
「先生とマスタング大佐は何だかんだと言っても、仲良しで。顔を合わせると、いっつもこうです。マスタング大佐も、ウチの先生に合わせてくれなくてもいいのに。ノリのいい方ですね」
ノリが良すぎて、いっつも困ってるんですケド…。
大佐はこのオカマを中央の知人と言った。と、言うことは、この2人にヒューズ中佐が加わった3人で、中央で暴れていたのかもしれない。恐ろしい。
オレは言われるままに用意された服を着て、美人のお姉さんたちの前に立つ。所々を直されると、今度は別の服を着てという繰り返しがしばらく続いた。着々と、今日の目的をクリアしつつあった。
5着全ての仮縫いを済ませると、もう1着あるのよと仕立ての良いスーツを渡された。オレは今までと同じように着替えて試着室を出ると、ちょうど正面に用意された一人掛けのソファに大佐が頬杖をついて悠々と座っていた。その隣にはオカマがいる。
「着心地はどうだ、ハボック?」
阿呆な罵り合いはようやく終わったようだった。
「――さすがに、いいです」
「当たり前よ。この私が作ったんですもの」
その手でこのスーツを縫ったと思うと、着心地が損なわれた気がする…。
「さあ、アレを用意して!」
オカマの野太い号令に、美女たちが慌しく動き出した。
用意されたのは、一枚のでっかい毛皮のコートだった。白地に褐色の斑点が入っている。豹か、その辺りの動物だろう。それを肩から羽織らせられる。
床に付くほどの長い毛皮なのに、軽かった。
大佐は無言で隣に立っている満足気な笑みを浮かべたオカマに右手を差し出した。――その手に、そのオカマが万感の思いを分かち合うかのようにひっしっと両手で握りこんだ。
「さすが、ミスタ・ブランカ。君の審美眼は実に見事だ」
「ああ!!マスタング大佐なら、そう言って下さると思ってたわ!あああっ!!この一言のために、苦労したのよ!」
そのオカマは大佐の手を握りこんだまま、クネクネと腰を動かした。はっきり言ってその光景のダメージ力は半端ではない。オレはさりげなく顔を背けた。
「――ハボック、ちょっと店内を歩いてみたまえ」
「Yes,Sir !」
命令されるまま、上等なカーペットのようなドでかい毛皮を羽織り、大佐が満足するまで店内を歩き回った。
オカマから漸く自分の手を取り戻した大佐が細部まで厳しいチェックの目を向けている。
気が抜けない。こんなことで、また背中が丸まっているとか言われたら、再びあの姿勢矯正器のお世話になるんだろうから。せっかくあれから解放されたのに。
一体なんでこんなことになってんだろう…。
「ハボック少尉のためにあるような毛皮だわ!これをここまで着こなす男ははじめてよ!私のカンは間違いなかったわ!!」
店内の大きな鏡張りの壁に映る自分の姿は、大佐の実に厳しい、ハードな訓練のおかげで、田舎臭いイモ男だと感じさせる要素はなかった。これなら、社交界でも浮きはしないだろう。
「――何か、上等な人間になった気分がします」
オレの言葉に大佐が静かに頷いた。
「一握りの者しか袖を通せない類のものだ。――金のない奴に切れるものではないが、金のある奴には似合わん。この世は皮肉に満ちている」
大佐の言葉にオカマが最もらしく頷いた。
うっとりとした目でオレを見て、両手を胸の前に組んで、毒をまき散らかしている。
「獰猛さや精悍さ、――血生臭さ、そんなものを覆うためにあるようなものなのよ…。ああっ!むしゃぶりつきたいわっ!ああんっ!たまんないっ!!」
「………………」
どうしよう、泣きそうだ…。
「――ミスタ・ブランカ」
「あら、私としたことが、失礼!つい、思っていたことが口からでちゃったわっ!!ああ、でも、やっぱり、イイ男には毛皮よっ!イイ男の色気は毛皮で完成させるんだわっ!!」
オカマの発言を完全に無視した大佐が高級なソファに身を任せ、うーん、欲しくなっちゃったなと呟いた。
「これを買うつもりじゃなかったんスか?」
「―――ハボック?」
一瞬、気が抜けて言葉がスラングに戻るなり、間髪入れず注意が入った。コえぇ…。
「こ、これを、買う、予定では、なかった、のですか?」
「――――気に入ったか?」
「はい。でも、どこに着ていけばいいのかわかりませんが、ね。ちょっと、南方にいた頃を思い出しました」
大型肉食獣相手に立ち回ったことがある。野生の獣は畏怖を呼び起こすほど美しく潔かった。
「何と戦った?」
「トラです。美味かったですよ。――あの頃は何を食っても、美味いと感じるほどハラが減ってましたが」
きっと、この人を敵に回して、戦場でかち合っても同じことを思うだろう。獰猛な猫科の大型肉食獣だ。――彼らほど、潔くはないだろうけど。
マスタング。
飼い慣らされないもの。
ある地方の野生馬の総称だ。食性動物の名を名乗っているのは、ある種の擬態だと思う。自らの牙と爪を隠すための……。
「きゃぁあああー!!」
オカマがついに壊れた。バッファローが崖にダイブする勢いで、また突進してきた。鼻息も荒く。
オカマは両手を大きく広げた。
接触をできるだけ避けるため、ジャ〜ン〜!と奇声を発する生き物に足払いをかけると同時に、右腕を掴んでくるりと体を反転させて尻餅をつかせた。
一瞬の出来事に状況を把握できず呆然としたオカマは、われに返ると、ポロリと大粒の涙を流し、恨みがましい目でオレを見上げた。
――夢で魘される!
思わず、その視線から顔を逸らすとオカマはさも傷ついたと言いたげに、わっと泣き出した。
ヒドイわ〜と言いながら、立ち上がると今度は大佐に向かって走り出した。
ロイちゃ〜んと、地を這うダミ声を発しながら。
大佐は明らかに気が付くのにも、リアクションを取るのにも遅れた。己の危機を察したときには、すでに遅くオカマが大佐に向かって床を蹴って空に舞っていた。さすがの大佐もぎょっとした表情を隠しきれず、体を強張らせ、そのまま成すすべもなくオカマにがっしりと抱きつかれた。
「ハボック少尉がヒドイのよ〜!ロイちゃんっ!何とか、言ってよ!」
「君の口紅が、あの毛皮と、仕立てたばかりの服に付かなくて、幸いだ」
そう言った大佐の私服にはベッタリとオカマの口紅がくっついていた。
「ロイちゃんまで!」
オカマは大佐に張り付いたまま、声を裏返している。大佐は実に投げやりに、オカマの頭を撫でた。
「――ハボックが悪いよ。うん。あれはハボックが悪い」
「――でしょう?」
「ああ、でも、君もたしなみのなるオカマのする振る舞いではなかったのではないかね?」
大佐、オレにはたしなみのあるオカマのする振る舞いが一体どういったものなのかわかりません!
「ロイちゃんのいじわるっ!」
「ほら、ミスタ・ブランカ。涙を拭きたまえ!」
「ロイちゃん、!ああ、やっぱり、ロイちゃんが最高!一番素敵よ!」
「それは、光栄だね…」
オカマを慰める大佐の声は棒読みだった。
大佐はオカマに『ロイちゃん』呼ばわりされて、服を台無しにされて、その、涙と言わず鼻水まで拭っている!
久しぶりにすっきりと爽快感のある光景だった。
「あはははははっ!ははははは!」
思わず、こらえ切れなくて体を折りまげて笑い声を上げたら、大佐もオカマも振り返った。
「ミスタ・ブランカ、この毛皮いただこうか。いくらだ?」
大佐の一言にオカマが青くなって、大佐の腹から顔を上げた。
「ロイちゃん、本気?」
「身代が傾くわよ!いくらロイちゃんでも!」
不意に、その言葉に好奇心が止められなくなった。
「いくらぐらいするんスか?毛皮って」
オレの言葉にぎょっとしてオカマが振り返った。そんなことも知らずにこの毛皮を着ていたのかと言わんばかりに。
オカマをもろに見てしまったショックで、自分の言葉使いが乱れたことに気が付いてにわかに青くなった。
大佐の眉が片方、起用に跳ね上がっただけにすんだが。
「お前が南方で食べたそのトラの毛皮を剥いで然るべき業者に持ち込んでいたのなら、お前は今頃軍を辞めて、ハンターに転職しているだろう。お前の月給を有に超える」
「ジャンの月給なんていくらか知らないけど、きっと、そんなんじゃ足りないわよ!雲泥の差よ!!」
――オカマ、黙れ!オレの給与を馬鹿にするな!!!
「今、ジャンが着ているのはオークションに出れば、家ぐらい簡単に買えるわ。でも、たぶん、落札しようとするなら倍は必要ね。美術館に展示されてもいいほどのものよ」
「………………」
「ロイちゃん、わかってて言ってるんでしょう?ん、もう、意地悪なんだから!ちょっと、パパのクローゼットから借りてきただけなのよっ!」
パパってなに…?
「無駄使いは止めましょうよ、大佐。たかが、服の1枚2枚にそんなに金を使うなんて阿呆らしいじゃないですか。その分、美味い肉でも食べたほうがお互いの身になりますから、ね?」
そんな恐ろしい毛皮はとっとと脱いでしまう。
オカマがアアンと奇声を発した。
「何が『ね?』だ。何が。無駄使い、大いに結構じゃないかっ!日頃無駄金使う暇なぞなんだぞ!貯まっていくばかりの金だ。好きに使って何が悪い!」
だからって、家と同じ値段のものを衝動買いなんかねえだろ…
「ミスタ・ブランカ、キャッシュで払ってやる。どうだ?」
悪魔の囁きにオカマの体が大きく震えた。
「アンタが失脚した時の貯えに手ぇつけない。オレたちがたかれなくなっちまうでしょう?」
「何でそんなときまで、お前らの面倒をみなきゃならない」
「一蓮托生でしょ」
「その時はその毛皮を3倍値で売っ払ってやろう」
「アンタねえ。それに、これはアンタには大きいでしょう?アンタにはこういう明るい色のではなくて、――」
「ハボック、いつ、誰が、私が着ると言った?」
「は?じゃあ、何のために買うんですか?」
「お前に着せて、私が、楽しむため、だっ!」
「ぎゃぁああ〜!!ロイちゃんのエッチ!!昼間っから、そんな破廉恥なこと言わないで!!」
お前の頭の中がハレンチだ、オカマ!今、何を考えたか言ってみせろっ!と、頭の中で罵るだけの自分が悲しかった。弱い。オレ、弱!
トラと戦ったジャングルが懐かしい…。
少なくともあそこでオレは強者だったのに。今、生態系で最下層にいる気がしてならなかった。
オカマは奇声を発して身をくねらせている。
「ミスタ・ブランカ、涎を拭きたまえ」
その様子に大佐が疲れを滲ませて言った。
結局、この日は夜明けまでこの調子で、いろいろ着替えをさせられた。空が明るんできて、オレはやっと解放された。オカマと美女たちは朝一番の中央へ向かう汽車に乗って、東部から去っていった。
これで、東部に平和が戻った。
「ハボック、一応言っておくが、ミスタ・ブランカはあれでもこの国で最も優秀な服飾職人の一人なんだぞ」
それが本当か嘘かなんてことは、オレにはどうでもよいことだった。気持ちの悪いオカマに尻を撫でられたという事実だけが残った。
オレは今後2度と、何があっても、あのオカマに会うことはない。
+++
昼も夜も、大佐と向かい合って高級レストランで食事をする。無数に並べられたナイフとフォークから、正しいものを使ってちょっとづつ食べていく。音を立ててはならないとか、一口で食べるなとか、それをこうして、あれはそうして、これはそうでって言われて、吐き気と胃痛を感じた。
「フォークに顔を近づけて食べるな。基本は姿勢だ。座っていても、立っていてもその感覚は変わらない。伸ばした背筋の上に頭蓋骨を置いて、そこにフォークを持っていく感覚なんだ」
意識が朦朧としてきて、アンタが何を言っているのか半分も理解できなくなってきた。その気配を察した大佐がテーブルの下でオレの足を思いっきり蹴り飛ばした。
大佐の要求と訓練は終わらない。
初日の数分は大佐の家に泊まり込みだと言われて、淡い期待なんかしちゃってたりして。何かスイートなことをする時間も体力も精神力も根こそぎ奪われていた。
朝方と言いたくなるような時間になってやっと大佐から休めの許可が下りる。そうしたら、後はもうベッドにダイブするだけだった。
そして、よくわからない大佐基準をクリアしたらしいオレは、大佐をフるという大それたことをやってくれた女の子に会うことを告げられた。そのときに言わなくてはならない言葉があるらしかったが、それは今までの中でも最高難易度だった。
「私とワルツを踊ってくださいますか?」
「わ、わたしと、ワルツを、を、おどって、く、く、だ、さい、ま、ますか?」
「何故、未だに吃るんだ?」
「どうしてでしょう?」
ワルツなんか踊りたくないし、そんな女、誘いたくもないという気持ちがあるからじゃないっスかね…。
「私とワルツを踊ってくださいますか、だ。正しく、スムーズに言えるまで何回でも練習したまえ」
「えー…」
「ハボック?」
「全力で頑張らせていただきます」
「うむ。頑張りたまえ」
「わ、わ、わたし、と、―…。大佐、例文をもう一度お願いします」
「ハボック、頑張ってくれ。今日もまともに眠れないと、さすがの私も辛いのだが…」
自業自得だ!
「大佐、先にお休みになって下さってかまいませんが」
そしたら、オレもここで眠れる…。
「――いや、最後まで付き合おう。私とワルツを踊ってくださいますか、だよ」
信じてないな。まあ、一人で練習する気なんてさらさらないいんだけど。
「わ、わたし…」
そして、この日も朝方まで訓練は続いた。
06
ワルツを踊る。――たったそれだけだと思っていたのに、事態はどんどんオレに考えが及ぶ範疇を軽く超えていた。
話し方を直すことは極めて苦行で、日頃使わない言葉使いは、日頃使っていない顔の筋肉を酷使していて、顔中が痛かった。
やっと及第点を大佐にもらった翌日、われらがマスタング大佐をフるという暴挙を働いてくれたお嬢さまとの顔合わせに連れて行かれた。大佐に鞭で叩かれることはなかったが、結局、蹴られまくるという暴力は散々振るわれて、青あざだらけの足を引きずりながら歩いた。
まさか自分が当事者になるとは思いもしなかった頃を思うと、大佐がフラれて喜んでいた自分が懐かしい、いつもこのパターンで嫌がらせを受けているのに、何で自分はこうも学習能力がないんだろう…。
大佐は相変わらずオレを痛めつけてご機嫌だ。
さらに、ホークアイ中尉も仕事の進行が順調で、こちらもご機嫌だった。オレ一人だけが貧乏クジを引かされていた。
どでかい屋敷のアプローチに中尉が運転する車を横付けすると、その家の警備らしき者たちがドアを開けた。ホークアイ中尉が運転席から降り、次いで大佐が降りた。最後が護衛でもあるオレというのは、一体どんな罰ゲームなんだろう?これでも、一応職業意識とかはあった。
車が停まると、途端に玄関が勢いよく開かれて、黒髪のスタイルのいい女の子が飛び出してきた。
「マスタング大佐っ!」
どうやら、彼女がこの今の元凶を作ってくれた女の子らしい。大佐がダメで、オレならいいなんて、何て珍妙なんだろう…。おかげでスゴイ目にあってんだけど…。
「やあ、お嬢さま」
機嫌の良い大佐が恨めしい…。
オレは大佐に訓練された通り、ちゃんと『私とワルツを踊ってくださいますか?』と言って、パーフェクトに彼女をエスコートしてでっかい玄関をくぐった。
確かにお嬢さまはでかかった。
ホークアイ中尉よりも高い。この身長なら、高いヒールを履いたら大佐を超えてしまうだろう。
――黒髪で、大佐と同じくらいの身長の女の子。そう思うと少しだけ気分が浮上した。別に大佐をエスコートしているみたいだというわけではなくて、大佐に教わることになるワルツが踊りやすいだろうということだ!
+++
デビューの三週間前になっても、パートナーが決まっていないのは友人たちの中では私だけになってしまった。
自分がその原因を作ったと言っても、逸る気持ちを抑えきれなくって、毎日やきもきしていた。
マスタング大佐が連れてきてくれるという私の理想とするパートナーが一体どれほどのものなのか。
そう思うといてもたってもいられなくなった。マスタング大佐とはじめて会った後、さんざん家族に叱られた。私はあの人に随分恥をかかせてしまったらしい。だから、仕返しされるかもしれないと思えて、密かに友人の兄弟の友達の、背の高い金髪碧眼の男性に予定を空けておいてもらった。もし、マスタング大佐の連れてくる人が、私の理想とかけ離れていたらたいへんだから。
後3週間という日になって、やっとマスタング大佐から電話がかかってきた。新たなパートナーとの顔合わせをやり直したい、と。
私は朝から何も手がつかず、あまり期待してはだめと自分に言い聞かせた。でも、家人にみっともないとたしなめられても玄関の前から離れられなかった。
待ちに待った到着だった。
私は家人が止めるもの耳に入らず、玄関を飛び出した。
玄関前のアプローチに高級軍用車が停まり、運転席から金髪の美人なマスタング大佐の副官が降り立った。アンバーの瞳の女性。でも、雰囲気が硬くて女性的な華やかさにはちょっとかけるように思えた。胸は大きいけれど。
次に後部座席から、マスタング大佐が降りた。――私も、同じ黒髪なら、黒い瞳がよかったと思ってしまう。この人の黒い瞳はどこか深い色をしていて、思わず覗き込みたい雰囲気がそこにはあって神秘的に見えた。
この人の背が高かったら、たとえ黒髪でもパートナーにしたかもしれない。――嫌いじゃないわ。このデビューに関して、唯一の私の味方だもの。
そして、最後に降りたのが、金髪碧眼のすらりとした背の高い男性だった。彼と目が合うと、彼は少し困ったように笑みを浮かべた。
その瞬間、自分の頬が赤くなるのを感じた。自分が無性に子供っぽいわがままを言って、彼を困らせている気がした。
恥ずかしくなって、顔を上げられなくなる。
彼は仕立ての良いタキシードを着ていた。
――なのに、私はお気に入りの普段着に過ぎなかった。化粧も全然気合が入っていない。
そんな私をマスタング大佐が面白そうに覗き込んだ。
「どうかな?彼ならお姫さまのパートナーにしてくれるかい?」
小さく俯いたまま頷いた私に、マスタング大佐は意地悪にも聞き返した。
「彼でも、ダメかい?」
「――彼がいいわ!」
私はマスタング大佐の視線に耐え切れなくなって大声で叫んだ。途端に、マスタング大佐が大声で笑い出した。
車から降りたその人は、私の前に立ち、名前を名乗り、『私とワルツを踊ってくださいますか?』と言った。いい声だった。そして、微かにタバコの臭いがする。
大人の男なのだと思うと、動悸がにわかに激しくなった。顔がますます赤くなっていると思うといたたまれないほど恥ずかしいけど、ハボック少尉を見上げたら、彼の顔にもやや緊張が見て取れて感動してしまった。
「よろしくお願いします」
たったそれだけのことが、ちゃんと言えたか不安に思えた。
少尉の腕に触れる手から、厚くて硬い筋肉を感じて、自分の身近にいる人間とは全く違う感覚に熱が上がった気がした。 そんな風になる自分がひどく恥ずかしかった。
鏡や、窓に映るハボック少尉と私は、何度見ても私を満足させた。
07
「ホークアイ中尉、彼は?」
「マスタング大佐の副官です。ジャン・ハボック少尉です。」
「副官……」
私の言葉に現金な彼らの目が光った。
大佐に取り入るのは難しくても、大佐の副官ならばと思っているのだろう。しかも、気難しい娘が借りてきた猫のように大人しくなっている。
実際、ハボック少尉の変身ぶりには目を見張るものがあった。――髪を整え、仕立てのいい服を着て、背筋を伸ばし、立ち振る舞いと言葉使いを正しただけなのに。
以前、ヒューズ中佐が大佐のことを無意味に面食いだとからかっていたのを思い出した。
ハボック少尉は、16歳の少女のまさに理想通りの王子さまと言うには、少々タバコ臭かったが、それを差し引いても十分華やかで人目を引くハンサムとなっていた。
大佐が今にもスキップをしだしてしまいそうなほど、はしゃいでいるように見えた。
+++
お嬢さまとの顔合わせはつつがなく終わった。そして、それはワルツの訓練が始まることを意味していた。
ソファもテーブルの廊下に出されたままのリビングで、大佐と向かい合う。ここからが本番だ。
「さて、ついにワルツだな。まず、お前がどれくらい踊れるのか知りたい。――今後の、私の睡眠時間に関ることだからな」
「大佐が女性パートを踊るん、の、ですか?」
「そうだ。ほら、左手を出したまえ」
ワルツを踊ったのは一体何年前になるんだろう。少し、緊張を感じながら、左手を構えると大佐が右手を乗せ、右手で大佐を抱き寄せた。
なんで、こんなに緊張するんだろう。大きく深呼吸をしてから、足を踏み出した。
「スロー、スロー、クイック、クイック…、スロー、スロー、クイック。クイック…、…」
思いっきり大佐の足を踏みつけたのは、決してわざとではない。大佐が痛そうに顔を顰めた。
「――もういい。お前の実力は十分わかった」
「眠れそうですか?」
「―――そうだと、良いのだが……」
大佐は天を仰ぎ、両手で顔を覆った。
「一度に問題点を挙げ連ねても、お前に理解できるか不安だから、できるだけ多く踊ることで経験を積んで理解してもらいたい。それとも、まず問題点を言ったほうが良いか?」
「たくさん躍らせてください…」
「男がしっかりリードできるならば、女性はステップを覚えていなくとも踊れるものだ。女性は背筋を伸ばして、身をゆだねるだけで十分なんだ」
大佐はそう言うと左手を構えた。オレに女性パートを踊れと言っているらしい。オレは全く女性パートのステップなんか知らない。大佐の言うことが本当なら、それでもオレは踊れると言うことなんだろう。
大佐の実力が知りたくなって、右手を大佐に預けた。くっと左手で引き寄せられた。
「――背の高い女性が、恥ずかしげに俯いていたり、背中を丸めている姿はかわいいと思わないか?」
「オレより、背の高い女の人ってそうはいませんよ?あっと、わたし。わたし。あまり、そういうかわいらしさって感じたことはないですね」
「それは、残念なことだな」
「そういうものですか?」
「そうだよ。――ハボック、姿勢矯正器を着けていたときは、胸を張る感覚があったのを覚えているか?」
「ハイ」
「ダンスは少し前傾姿勢で踊るのが好ましい。だが、この少しという加減が難しい。だから、つま先に重心を乗せるんだ。そうすれば自然に体と体が接触する」
言われたように、つま先に体重を乗せると、自然に半身が大佐にくっついた。
「私の体温を感じるか?」
「――ハイ」
「よろしい。足元を見てはならない。顔は上げておくんだ」
「ハイ」
大佐が一歩を踏み出した。
――くるくると回るたび、風が吹き抜けていき、体が軽く感じた。ダンスにうっとりするという感じが、にわかにわかった気がした…。かなり、びっくりなことにワルツは悪くないどころか、楽しかったりして…。
「これが見本だ。こう、お前に踊ってもらいたいと、私は、思っている」
さすが、マスタング大佐ということなんだろう。オレにだって、大佐と一緒ならワルツが踊れる。でも、これをオレにさせようというのはいくらなんでも無理じゃないのか。
「お前ほどの身体能力があれば、そう時間はかからずに踊れるだろう」
確かに、こういう風に踊れたらちょっと楽しいかも…。そんな気持ちで、頑張ってみようと思った。それに体を動かすのは嫌いじゃないから。
「頑張りマス…」
「ハボック、ワルツの醍醐味は踊る2人が風を共に感じられることにあるんだ。ステップを正しく踏むより、まず相手と呼吸を合わせるを先に考えろ。女性は男の呼吸に合わせる。ホールドした後で、一歩目を踏み出すまでに間があったのはそのためだ。『スロー、スロー、クイック、クイック』と言っていたら、自分ひとりでワルツを踊っているも同然だ。デビューで踊るワルツのステップを覚えるのは後からにしよう。今は、最も簡単なステップで踊れる今のワルツで練習だ。簡単なステップを確実に踏めるようになったほうが余裕が生まれ優雅に見える」
ホールドから、少しためをおいて一歩目を踏み出す。できるだけ多く踊ると言っただけに、とにかく踊って踊って踊りまくった。何回足を踏んでも、大佐は何も言わなかった。
姿勢矯正より、体を動かしている今のほうが心地よい疲れだった。訓練が終わるとオレは何も考えずにベッドに沈んだ。
今日も眠りに付いたのは明け方だったが。
「ハボック、何故、私の足を踏む?」
「わ、わざとじゃないですよ?」
「わかっている。もし、わざとだったら、今頃、お前がどうなっているかはわかっているな?」
「…………」
「かかとに重心が乗ると相手から体が離れてしまう。そうすると腰は離れるが、足は近づくだろう。だから、相手の足とぶつかって、踏むはめになる。わかったか?」
「――すみません。よくわかりませんでした…」
「うん。ホールドしてみよう。――この段階だと、私の足がお前の足の間にある。逆もまたしかりだ。これで、相手の足を踏むことができるか?」
「――できません?」
「そう。ちょうどお互いの足は互い違いにあるのだ。お互いの体が離れると足が相手の足と同じ位置に来てしまう」
大佐が触れていた腰を少し離した。すると、足も半歩引かれて、重なり合うような位置に足が並んだ。
「この状態にあると、思わず踏む。足がクロスしていると、お前が一歩前に出ると、私の足より後ろへ行く。こうなると、私の足は踏まれることはなくなるのだ。つまり、体と体が離れているから、足を踏む」
「――なるほど…」
「それに、微妙に離れているとお前の肋骨が私のみぞおちに当たって痛い」
「それは申し訳ありません」
「わざとではないからな。しかたあるまい。普段から、腰から歩くようにしたまえ。かかとから入って、つま先を押し付けるように歩くように」
「ハイ」
「体が離れる原因は複数ある。まず、足元を見ると腰が引ける。背中が丸まっていても同様だ。つま先に重心を乗せると、上半身の力が抜けるが、逆にかかとに重心が乗ると、上半身に力が入る。重心が上にあると、状態が不安定になるだろう?これでも、体が離れていくことになって、私の足をお前が踏むはめになる」
「えっと、下を見ない。背筋をまっすぐ。つま先に体重をかける。この3つですか?」
「今日の課題は、その3つを守って、私の足を踏まないだ」
「わかりました」
格段に大佐の足を踏む回数は減ったが、それでも時々は踏んでしまった。あまり痛そうな顔を大佐はしないけど、自分の体重を考えると痛くないわけはなく、踏まないようにと下を向くと、また、大佐の足を踏んでしまった。
「失敗したからと言って下を向くな。それから、はじめからやり直そうとするな。それはオリジナルステップだと言い切って、ワルツの流れを途切れさせるな」
「足、痛いですよね。ちょっと、休憩しませんか?薬か何か持ってきます」
「――ハボック、それよりも早く今日の課題をクリアしてくれ。睡眠時間が増えることのほうがお互いのためになるだろう」
「――ハイ」
何回踊っても、大佐にリードされたときに感じたような風は吹き向けていかない。オレはだんだん夢中になって行った。
そして、今日も遅くまで踊り続ける。
「尻に力が入っていると、腹筋に力が入る。そうすると上半身の動きが小さくなってしまう。右手で私をホールドしているのだから、右手を大きく使えないと私が窮屈な思いをする。お前の頭と腕の間に、女性の頭が常にあるようにすると、女性がより美しく見える。男のつくる影の中に入れてはならない」
「――尻に力を入れないことと、大佐の足を踏まないことが今日の課題ですか?」
「後、手のひらに力は込めないようにすること。手のひらではなく、手首に力を込めるんだ。あー、お前はキスをするとき、手のひらで私の頭を持って自分に近づけるから、へたくそなんだ。正しいやり方は手首に力を入れてうなじを持ち上げるように包み込むんだよ。そうすると、身をゆだねやすい」
「それって、実践してみていいってことですか?」
「ワルツがちゃんと踊れるようになったらな」
大佐の返事は実にそっけなかった…。
「尻に力を入れない。手のひらに力をいれない。大佐の足を踏まない?」
「足を踏まないようにと思うより、体を接触させたまま踊ることを考えろ。姿勢を正す、だ」
「はい。今日こそ頑張ります」
「是非とも頼むぞ」
「Yes,Sir !」
それでも足を踏む。原因は背中が丸まっているからだと大佐は言った。今、こんなにも大佐の足を踏みつけていると、あんなにいやだった姿勢矯正器も、着けなくてはならない気がしてきた。
辛い日々が再びやってくる予感に心が慄いた。
08
いつになく忙しい年度切り替えの進行なのだが、今年は一味違った。いっつも、部下たちの足を引っ張る人が、今年は何事においても、前倒しに率先して仕事をしていた。その理由はすでに明らかなので、誰も天変地異の前触れを心配する者はいなかった。
――だが、サボらない上司というのは、どうも慣れない。司令部内の誰もが尻座りが悪い思いを感じていた。
いつ司令室に戻ってきても、司令室の席には黒髪のその人が鎮座している。
居眠りをしているわけでもなく、落書きをしているわけでもなく。――誰もが、扉を開けると一瞬固まる。見慣れないものをそこに見て。
昼メシから戻ってくると、大佐がコーヒーを片手に窓か羅見える中庭を立ち上がって眺めていた。期間限定とはいえ、まじめになった最近の大佐には珍しい光景だった。
フュリーが相変わらず物怖じしないで、好奇心のまま大佐に近づいていった。
「大佐、何をご覧になっているんですか?」
オレもファルマンも、大佐の視線の先に興味があって、大佐に近づいていった。
「――ホークアイ中尉は素晴らしい。もちろん、ブラックハヤテ号もだが。行き届いた躾と言うのは、ある種の感慨を呼び起こすものだな」
中庭では、ホークアイ中尉がブラックハヤテ号とフリスビーで遊んでいた。中尉が渾身の力でフリスビーを投げている。それを追うバラックハヤテ号は生死がかかっているかのように必死に見えた。――もしかしたら、本当に生死がかかっていたのかもしれないが。
無事にキャッチできたブラックハヤテ号がフリスビーをくわえて勢いよくホークアイ中尉のところに戻ってくる。
中尉は遠目にも、満足そうに笑みを浮かべているように見えた。はちきれんばかりにバラックハヤテ号の尻尾が揺れていた。
「そう言えば、大佐。ハボックの奴はワルツ踊れるようになったんですか?」
ちょっと前まで、案山子の真似事をさせられて一日中不貞腐れていた奴は、元々ワルツを踊るために選ばれた生け贄だったはずだ。
大佐は自分の手に持ったコーヒーカップに視線を落として、大きなため息を付き、肩を落とした。
「踊れるだけなら、もう、すでに踊れるのだが…」
それだけでは、お気に召さないらしい。
再び、顔を上げて中庭のホークアイ中尉とブラックハヤテ号を見つめる。
「トップブリーダーへの道は想像以上に険しい……」
この場にいない同僚を思い、思わずファルマンもフュリーも口を噤んだ。何をどう突っ込んでいいのかわからなかった、からだろう。
大佐は、もう一度大きなため息を付くと、席について書類にサインを書きはじめた。
09
とにかく踊る。来る日も来る日もワルツを。そして、ようやくワルツの難しさに気が付いた。
「相手を振り回して踊ろうとするな。衝撃を与えてはならない。足元を見て踊ろうとするな。何のために姿勢を矯正したのかわからなくなるだろう。相手を見て踊ろうとするな。姿勢が崩れる。ホールドは上のほうから相手をぐっと包み込んで、持ち上げるようにする。上のほうから包み込む感覚に女性はうっとりと身を任せるようになるだろう。相手の体を押すのではない。通り抜けるのだよ。押すと、作用・反作用の関係でお互いの体が反発してしまい呼吸が合わなくなってしまう」
大佐は踊りながら、何回も何回も注意点を繰り返す。オレは踊るのに精一杯で満足に相打ちすら打てない。決して怒鳴らず、大佐は実に忍耐強く、出来の悪いオレでもわかるように噛み砕いて教えてくれた。
それでも、今日も大佐の足を踏んづけた…。連日連夜、オレに踏まれ続けているつま先は黒く内出血をしていることに今朝気が付いた。
もう、これ以上踏んではならないというプレッシャーが、どんどんオレの体を硬くさせた。そうなると、腰が引けて余慶に大佐の足を踏むことになった。
このままでは、期限までにワルツを踊れるようにならないかもしれない…。
――また、オレは大佐の足を踏みつけた…。その目に涙が溜まっているのを見てしまって、足を止める。これ以上何事もなかったように踊りことなどオレにはできなかった。
オレの弱音が口をついた。
「――大佐、その、すみません。オレはこれ以上踊れない気が…」
「お前にならできる」
その言葉さえ、今では虚しく聞こえた。
「アンタ、『ダメな部下をホメて伸ばす方法』ってタイトルの本読んでるでしょ。書斎で見つけましたよ…。それに元々オレみたいな田舎者が踊るようなもんじゃ、ないんスよ。ワルツは」
「――ハボック、ダンスに出身地なんか関係ないぞ。田舎者だって、真なる貴族の精神を持ちさえすれば、踊れるようになる。それに、失敗はつきものだ。私の足を踏んだ程度のことを気にすることはない。さあ、もう少し、今日も頑張ろう」
優しくされると、自分のへたくそ具合が一層悲しくなってくる。
もう、踊りたくない…。だって、上手に踊れんないんだもん…。思えば、体を動かすことでこんなに不出来で、劣等感を感じたことはない気がした。
「――男を相手にしてっから、体が離れちゃうんじゃないスか?」
オレの言葉に何回踏まれても表情を変えなかった大佐の額に青筋が浮かんだ。でも、どうにも口が止まらなかった。体を動かすことすら、人並み以下なら、こんなに頭の悪いオレが生きてていいはずない…。オレは悪くない…。
「――豊満なボインがオレの胸に当たるなら、きっとこんなにも体が離れたままっていうのはない気がします…。あと、やっぱドレスがヒラヒラするのが見たい…」
「ハボック、豊満な胸とヒラヒラするドレスがあれば、頑張れると言っているのか?」
「まあ、平たく言うとそうです」
「よろしい!少し待っていたまえっ!」
大佐は額に青筋を浮かべたままそう言うと、少し足を引きずりながら、何もないリビングを出て行った。もしかしたら、大佐のことだから本気で女性のパートナーを呼んでしまうかもしれない。だけど、今はふって湧いた休憩時間に床に倒れこんで目を閉じた。
衣擦れの音が近づいてきて目が覚めた。目を明けると目の前に、白いハイヒールが飛び込んできた。ゆっくりと視線を上に上げるとそこには白いドレスの黒髪の美女がいた。
「起きろ。ハボック」
でも、大佐の声もどこからか聞こえてくる。
白いハイヒールが、床に懐いたままのオレの頭を踏みつけた。――なんか、新しい世界に行けそう…。緩んだオレの頭を踏みつけているその白いハイヒールに力が加わった気がした。
「ハボック、ワルツだ。この私に、ここまでさせたのだから、もう踊れないなんて言ってみろ。お前の背骨にあの姿勢矯正器を埋め込んでやる。わかったな?」
冷たい言葉に、もう一度視線を上げると、その黒髪の美女はいつも踊っていた人だった。
驚きのあまり、オレは立ち上がった。
「――胸がある…」
思わず、その豊満なボインに手を伸ばせば、意外にも柔らかくてどきどきしてしまった。
「特殊シリコンだ」
「ドレス……?」
「以前、ホークアイがプレゼントしてくれた。ハイヒールは、今回、プレゼントされた」
「スゲエ……」
ちゃんと女に見える。黒髪がきれいにセットしてあって、薄く化粧までしている。男特有のウエストの太さも全く気にならない。
「どうして、はじめからこの格好で踊ってくれなかったんスか!」
「どうして、はじめからこんな格好をしたいと思えるんだ!」
「やる気が出てきました。俄然、やる気です。オレ。マジですよ」
「――ならば、言葉使いを正したまえ」
「お任せください!どうか、この私とワルツを踊ってくださいますか?」
そう言って大佐を引き寄せると、その作りものとは言え、でっかい乳がオレの胸に当たった。
緊張感で目眩を感じた。
「組み方が、イヤらしいっ!」
オレはハイヒールで思いっきり脛を蹴られ、一発KOで床に膝待ついた。このまま、TKOでマットに沈み込んでしまいたい…。
「お前は痴漢か?痴漢がしたいのか?そんな風に、恐る恐る組んでどうする!そーっと組むから、イヤらしさがにじみ出るんだ!マヌケ!迷わずにがしっと組め。それができるようになってからだ。ゆったりと組むのは!ちゃんと相手の体温を感じるような距離感を保つんだ!トンマ!さっさと、起き上がれ!!」
その罵倒に涙がこみ上げてきた。
「出だしの一歩が大切だ。大きく踏み出せ。相手の体を押すんじゃない。相手の体を通り過ぎるように、押すんだ」
「ハイ…」
オレの汗が大佐の顔にかかった。
「――汚い!」
「―――汗をかかないなんて、アンタじゃないんですからそんなのいくら訓練したってどうにもなりませんよ。我慢してください」
「バカっ!お前は背中が曲がっているから、頭にかいた汗が顔を伝って、私にかかったんだ!背筋を伸ばし、頭を後ろにおくと、汗は背中に流れていくものだ!それに、言葉使い!」
そして、また蹴られる。ハイヒールは痛い…。
あれやこれやと考えていると、また体が離れて足を踏みつけるはめになった。
「痛いぞ!馬鹿者っ!」
一回一回踏みつけられるたびに、女装というには完璧すぎる女装の大佐に罵られた。
怒鳴り続けた大佐は途中で咳き込んで、水を飲んでくるといってリビングを出て行った…。自分がひどく緊張していたことに気が付いた。こんな機会二度とないだろう、せっかくの大佐の女装なのに、尻を触ったりする余裕さえ、今のオレにはない。
しかし、大佐はしばらく経っても戻ってこなかった。踏まれた足の治療でもしてんのかもしれないと思って、廊下に出ると無造作に置かれたソファの上に、顔から倒れこんで眠っている大佐を見つけた。気絶したかのような感じだった。
まあ、そうだ、ここ一ヶ月近くほとんど十分な睡眠を取らないで、オレの訓練に付き合っていたのだから。日中は仕事を完璧にこなして、夜はオレとワルツを踊る。しかも、夜明け近くまで。オレが不出来な生徒だから…。
疲れているのはきっとオレより大佐の方だろう。オレは始終余裕がなくて気が付かなかったけど。
「大佐、オレ、ちゃんと一人で練習します。眠ってください」
「――ん…、―私」
「私」
「――そう…、私…」
大佐は寝ぼけてても、オレの言葉使いのミスが気になるらしかった。寝るならベッドにと思って、ソファからいつもより格段丁寧に抱え上げると、腕に感じる重みが少し軽くなっていた。
「――これでもまじめに頑張っているつもりなんですけどね。明日からはもっと真剣に頑張ります」
ベッドサイドでハイヒールを脱がせると、白い足にたくさんのマメができていて、しまいには左足の中指の爪が鬱血して剥がれていた。もちろん、オレが思いっきり踏みつけたからだろう…。
リビングで一人、姿勢矯正器を再び装着して、オレは朝までステップを踏んだ。今までよりもずっと真剣に。
でも、翌日もさらにその足を踏みつけてしまった。
「やっぱり、無理です!もう、無理!絶対、これ以上できない!」
そのハイヒールの中は血まみれだった。もう、これ以上怖くて踊れそうもない。
「――私に、こんな格好までさせておいて良くぞ言ったな。本当にお前は無理だと思うのか?」
「――無理です…。もう、許してください」
「そうか…、ではそのズボンを脱ぎたまえ」
「――はあ?」
「お嬢さまには、お前が男性として致命的な部分を任務中に著しく負傷したから、踊れなくなったと謝罪しよう。お前のアレを切り落として証拠として持っていく。ハボック、ズボンを脱げ」
「あの…、あのう?」
「そうしたら、もうワルツを踊る必要なくなるぞ。さあ、ズボンを脱ぎたまえ!」
大佐の目が尋常ではない光を発した。
オレはこれ以上這い蹲れないというほど、床に這い蹲って何回も何回も謝った。真剣に踊りますと言えば、大佐は今まで真剣ではなかったということかと言って、更にズボンを脱げと言った。
大佐も大概にして疲れていたんだろう。
もう、オレとワルツを踊りたくないと思うほどには…。
この日、オレは朝まで這い蹲っていた。
+++
それでも、また夜が来ればワルツを踊る。
「首を長く。肩の力を抜いて、首を伸ばすようにだ。首が短いと庶民の臭いが色濃くなる。人と話すときも、首だけで相手のほうを向くと短く見えるから、肩を回して体全体で見るように」
大佐は今日も見事な女装を披露してくれた…。
永遠に繰り返されるかと思えた日々は、突然終わりを迎えることになった。いよいよ社交界デビューの日が近づいてきたのだ。数回のリハーサルを行い、段取りを覚えて、大人数で一斉にワルツを踊る。
―――そして、本番を迎える。
10
「私の犬がちやほやされるのを見るのは気分がいいものだね!トップブリーダーの一員になった気がする。投げ出さず最後まで躾けてよかった」
「――気まぐれでかまったり、かまわなかったりするのは、いただけません。すぐに、元に戻ってしまいますよ?」
「私には尻尾のある犬を躾けるのは無理そうだな。君は偉大だ」
「大佐……」
「アレの猫背を矯正するのも大変だったんだが、スラングを直させるのも辛かった…。何度、諦めようかと思ったことか……」
そう言って、大佐は静かに目頭を押さえた。
社交界当日、大佐は足が腫れてワルツを踊るどころではなくなっていたが、いたって大人しく2階のボックス席からオペラグラスを片手に見物に励んでいた。
「うん。やっぱり、ハボックが一番だ!」
満足そうな呟きが印象に残った。
田舎臭いとか、貧乏臭いとか、いつも言われている奴だったが、決してそれだけではないということをいつか証明できれば良いと思っていた。
明るい金髪も、青い瞳も魅力的だったが、躍動的に動く肉体こそが奴のもっている最大の魅力だと思う。だからこそ、社交界でワルツを躍らせるのは楽しいと思ったのだ。
――思った以上の困難にぶつかったが。
思えば長い道のりだった。熱い思いが再び込みあがってきて、私はホークアイに気付かれないように静かに目頭を拭った。
群衆の中で踊るハボックは群を抜いて、際立ち上手だった。
隣のボックスでも、向かいのボックスでも、オペラグラスをもったヒマ人どもが、ハボックのことで盛り上がっている!
デビュタントたちですら、ちらちらとハボックを伺っている!
そうであろう!そうであろう!!
何せ、この私が女装までして仕込んだのだから!
しかし、ホークアイの言うとおり、急激に仕込んだ芸は失われるのも早いものだ。この日のハボックの栄光はこの日限りのものになってしまう気がした。
私はハボックの一生に一度のこの雄姿を記憶に留めておこうと、ボックス席から立ち上がった。