ハボック&ブレダ士官学校編
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「なー、ブレダー。戦略理論のヤマかけてくれよー」

試験週間の緊張感が漂う士官学校の寄宿舎。誰もが自室で試験に向けてわき目も振らずに勉強しているはずなのだが、気の抜けた暢気な声と共に部屋のドアが開かれた。唐突で無礼な訪問をする奴をブレダはハボックしか知らなかった。



同じクラスではなかったが、気が付いたら飲み仲間の1人になっていた。座学が全くダメなことは酒の席で本人の口からあまりに哀れに聞かされ、思わず、ヤマぐらいかけてやると言ってしまった。そしたら、それ以来、試験前には必ずきれいなテキストを持って部屋にやって来るようになった。しかし、卒業を控えた今回はそれがなくて、さすがの奴も勉強したのかと思っていたのだったが。
「ハボ。お前なあ‥‥‥」
「頼むよー。ウチのクラスのヤツら、誰も助けてくんねえんだぜ。信じらんねえだろ」
人の世話どころじゃねえんだろう。当たり前だ。ハボックがよくツルんでる同じクラスの奴らは辛うじて落第しない程度の成績の保持者だった。だから、わざわざクラスの違う俺様のとこに来るんだろう。だが、物事には限度がある。
「当たり前だ。明日だろ、テスト。卒業するつもりがあるならもっと早く来いや。わかったら、さっさと出てけ。今度こそ主席を狙う俺様の邪魔をするな」
色濃い拒絶の気配を聡く感じ取った奴が、すかさず背後から香ばしい匂いのから揚げを俺の顔の前に突き出した。
「頼む。食堂の本日のメニューだった、このから揚げで」
「―――早々になくなっただろ?」
から揚げは、数少ない食堂の食えるメニューだ。その上、数量限定で早い者勝ちのこのメニューはいつだって食い損ねる奴らが続出する。
「おばちゃんに頼んで少し避けといてもらったんだ」
「何だよ!それはっ!」
どんな賄賂も受け付けないと有名なおばちゃんたちだ。だが、ハボックの顔を見る限り、どうやらこれが始めてではないようだった。言い知れない怒りが湧き上がってきた。
「人徳のなせるワザだ。これで、オレにヤマ教えてくれ」
「納得いかねえぞ!コラっ!」
人が少しでも食えるものを食べるためにしてきた苦労を何だと思ってるんだ!いけしゃあしゃあと言いやがって!
「来週の野外演習助けてやるからさ」
「何で、食堂のおばちゃんに顔が利くんだよっ!」
「さあな、何でも手伝ってるからじゃねえの?」
その時間があるなら、勉強しろてえの!このボケがっ!

「お前、少しは勉強しろ。しないで済まされねえぞ」
「このテストを乗り越えたらな」
そしたら、もう卒業じゃねえか。
「お前に命を預けなきゃならねえ奴らはどうなる?」
「オレが頭のいい上司を持てばいいだけの話だ」
「んな上官がいると思ってんのか」
「思ってねえよ。それこそ誰も彼も頭が悪くて、今更、オレが勉強する意味なんかねえだろ。それよりも、鼻が利く方が生き残れるぜ?お前だって、そう思ってる」
―――悔しいが、確かにそうだった。頭のよさが命や大局を左右することは実際にはそう多くない。特に俺たちのような軍界にコネのない万年尉官組み候補には、頭の良さなど特に必要とされる要素ではない。
常に火種を抱えているこの国にとって今一番必要とされている人間は、感が良く、使い勝手のいい、無闇に部下を死なせない現場クラスをまとめられる人間だ。
こいつのような。その上、こいつは生き残るために、有益な方法を知っている。現に、この学校に通う奴らが皆勉強に励んでる間、コイツは得たいの知れない人脈を作って、希少価値の高いから揚げを大量に手にしているのだ。
「なあ、もう一袋、から揚げやるから」
「はじめから全部出せ!」
国のため。まだ見ぬこいつの部下のため。俺はコイツを卒業させてやらなくてはならない。

ハボックの手から、全てのから揚げを巻き上げ、奴のテキストを開いた。



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士官学校の寮で、隠れてタバコを吸う。

行き着いた場所は、寮の食堂のおばちゃんたちがタムロする喫煙場所だった。木を隠すなら森に、と言った人は大した人だと思う。一本のタバコをやったりもらったりするような仲になるのは時間がかからなかった。その内、オレの学校での成績におばちゃんたちが興味を持つようになるのは、自然の流れだった。隠れてまでタバコを吸う生徒は、一体どんなものなのか、と。

「もしかして、頭、悪いの?ジャン?」
「あー、まあ、平たく言えば、そうです‥」
「どのくらい悪いのよ?」
「テキスト開くと、思わず部屋から飛び出して来ちまうぐらい」
一斉に、おばちゃんたちが黙り込んだ。
「そこで、黙り込まないでください。すっげえ、深刻な気がして来るじゃないっスか」
「深刻だわ‥」
頭がいいから、こんなことでタバコ吸ってるゆとりがあるんだと思ってたのよと言われて、オレの一体どこを見て、そんな風に思えるのかと思った。

長い沈黙の後、1人のおばちゃんが口を開いた。
「おばちゃんに任せなさい!従兄弟が中央の士官学校で賄いしてんのよ。前に、ひどく優秀な生徒がいた話を聞いたことがあんの。もう、卒業しちゃってるんだけど、当時の彼らのノートの写しがまだ出回っているって言ってたわ。送ってもらってあげるから!何とか卒業しなさいよ!」
「そんなすごいの、見て、わかるか、不安です‥」
卒業しても、今だ、受けつがれるノート。しかも、中央の‥。

なんだか、宝の持ち腐れになりそうな気がしてきた。



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今日も授業で当てられ、いつものように答えられなかったら、教官に早く辞めちまえという視線で見られた。―――ただの被害妄想かもしれないけど。
落ち込んだ気持ちは、タバコの煙と共に空へ吐き出す。そうすれば、何とかなるかもと思えてくる。ポジティブシンキングは大切だと、今日の授業で教わった。

いつものように、学校から一目散に帰ってきて、寮の裏手でタバコに火をつけたら、程なくして、いつもの賄いのおばちゃんたちが休憩に出てきた。そのおばちゃんたちの手にあるものを見つけて、以前話してくれた例のノートだとすぐに思い付いた。だけど、その量の多さがオレをしり込みさせる。
ちょっと待ってくれ。心の準備をさせてくれ―――、そう思っている内に、目の前に、どさっと大量のノートが積み重ねられた。大量のノートは、ぼろぼろで、中にはばらばらになってしまった紙をゴムで留めているものもあった。年期を感じさせるノートたちに、自分はコレを本当に見るのだろうかということはさて置き、本当に役に立つのかと思わず疑いの目を向けてしまった。

「オリジナルよ!スゴイでしょ!」
まず、その100冊近いノートに、さっき立て直したポジティブシンキングがもろくも萎えていった。こんなものが、自分の部屋にあることにすら耐えられないかも‥‥。でも、おばちゃんの手間を考えるといりませんとは、口が裂けても言い出せる雰囲気ではなくて、求められるままに礼を言った。
「入学当初から、卒業するまでのノートよ。従兄弟の話によると、2人で分担してノートを取ってたらしいわ」
「んな馬鹿な!」
100冊で、全学の全授業のノート量に収まる訳ない。下手したら、そんな量は1年間分になっちまうのに!
「それが、できたからいまだに残ってるんじゃないの。頭悪いわね」
そのおばちゃんの配慮のない言葉に、ぐっと反抗心が芽生えた。そんなノートが役に立つとは思えないし、それを読むのも見るのも、労力の無駄だ。
「―――こんな古いの、役に立つんスか?」
そんなのいらない。魘されそうだ。勘弁してくれ。
「古くないわよ。ほんの数年前だもの。古く見えるのは、たくさんの人が参考にしてきたせいよ」
「―――なんで、オリジナルのノートが残ってんスか?」
ほんっとにいらない。安眠が妨害されそうだ。
「卒業と同時に出兵が決まったんだって。荷物になるし、置き場所に困るから捨てようとしたところを、私の従兄弟が預かったそうよ」
「―――預かり物が、いいんスか?」
「ええ。もう、いいそうよ。ド田舎から一念発起でやって来た、若者のために役立ててくれって言ってたわ」
あー、あー、戦争で死んじまったから引き取り手がなくなったんだ!呪われる!
「あのう‥」
「大切にしなさいよ。卒業できなきゃ、授業料に仕送り、無駄になるのよ」
「ハイ‥‥‥」
それを言われたら、もう、なす術などなかった。

だが、そんな、呪いのノートたちを後生大切に持っていることなんてオレにはできなかった。おばちゃんたちには悪いけど、早々に頭のいいヤツらに口八丁で売りつけたら、かなりのいい値が付いた。これで在学中はタバコに困ることはなくなるだろう。ありがたい。

100冊近いノートの内、手元に残したのはきれい目なノート一冊のみである。勉強に参考にするためじゃなくて、単なる気休めのお守りとして。死んだこのノートの持ち主が、テストのときにオレに乗り移って、変わりにテストを受けてもらうことを夢見て。



一回だけ、中を開いて見てみたことがある。

そしたら、やっぱり、なんだかわけの分からないことや歪んだ丸や三角形などの記号がたくさん書かれていて、やっぱり参考にならないと、早々に見切りを付けたことのは正解だったと思った。



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「新入生のジャン・ハボック士官候補生を推薦します」

アメストリスは銃の所持を規制していない。然るべき手順を踏めば、誰でも銃を購入することができる。とは言っても、仕官学校に来る年若い生徒たちが銃を撃ち慣れていることはない。現に、ジャン・ハボック士官候補生の手にも銃胼胝はなかった。



今年の入学生の中に、目を見張るほど身体能力の高い奴がいた。頭の出来は普通だが、生来の人柄か、いつも人の輪の中心にいた。明るい金髪に青い目、190pを越える身長。彼は容姿が必要とされる儀仗兵向きと言えた。しかも、彼は軍閥のような軍界にコネがあるわけではなく、ただの仕官が出世するには、儀仗兵になるのは決して悪いものではない。そのためには、軍界のトップが視察に訪れる射撃コンクールなどに参加して、顔見せしておくことは必要不可欠であった。

1日数時間の練習を課せば、入賞する可能性もあるだろう。この学校から、もし入賞者を選出できれば数年ぶりの快挙になる。新入生を学校代表に選ぶのは前例のないことだったが、どの教官も私の意見に積極的に賛成した。



ジャン・ハボック士官候補生は、比較的真面目に射撃練習を行って、私の予想を上回るほどに、見る見るうちに上達していった。儀仗兵と言うよりも特殊部隊向きになりつつあったが、特殊部隊なら最もエリートコースである。とにかく射撃練習を行った。地方の学校から、優秀な生徒を輩出できる。――充実した日々だった。

ジャン・ハボック士官候補生は、私たちの期待通り、ちゃんとコンクールに入賞を果たした。それからも練習を繰り返し、彼の手に銃胼胝ができはじめた頃、座学の教官から、ジャン・ハボック仕官候補生の成績が低迷していると相談された。成績表を見せられて息を飲む。私は、すぐさま、彼を呼び出した。

「あー、コンクールで続けさまに授業休んだら、もう、ちっともわかんなくなっちまいました」

彼は、少し恥ずかしそうに頭を掻きながら笑って、実に朗らかに言った。もともと頭悪いんで、とまで付け加える始末だ。成績が悪くなりすぎたら、どこにも貰い手がないのに‥‥。充実の日々に暗雲が立ち込めてきた。
私の不安を感じ取った、ジャン・ハボック士官候補生の顔色がどんどん青くなって行く。そうだった。彼は私たちに言われたことを言われたようにやっていただけなのだ。

思わず、縋るような視線を向けてきた彼から、そっと目を逸らしてしまった。



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昨日、飲みすぎて、昼になってもまだ痛む二日酔いの頭を抱えながら、俺は昼飯も早々に切り上げ、移動教室に急ぐ。次の授業は、他のクラスと合同で大教室であるから、前の方に座りたい俺は、早めに移動するのだ。なのに、廊下から見える窓の外には、明らかに紫煙が立ち昇り、その下には、昨日一緒にしこたま飲んだ明るい金髪の男がいやがる。
「オイ、お前、そんなとこで何してんだ!」
声をかけたのは、奴が途方もない田舎から出てきた話を聞いていたからだった。こんなことで退学にでもなったら、田舎のオフクロさんが泣くぞ、と。
「あー、ブレダー!」
俺の善意など、全く理解しない頭の弱い男は、にこやかに、明るい声を出した。
「あー、じゃねえだろっ!タバコ、ばれたら退校処分になるかもしれないぞ!」
「えー、そーなの?タバコで退校処分なら、オレのクラス、ほとんど人いなくなっちゃうじゃん」
「んな訳ねえだろ。後ろ盾のない奴だけが退校処分だ。ハボック、お前の家は軍閥なのか?」
「えー‥、オレんち、田舎に一軒の何でも屋さんなんだけど‥‥」
にわかに、ハボックの、その能天気な顔が曇っていく。
「じゃあ、お前は退校処分決定だな」
世の中、公平にはできてねえ。

「わ、わかったよ。これからは、ばれないようにする」
ハボックはそう言って、タバコの火を地面にこすり付けてから、立ち上がった。ズボンについた汚れを叩き落し、足元のテキストを拾い上げて、廊下の窓枠に手をかけて、軽やかに室内に入ってきた。その軽やかさが、俺の癪に障った。
「あー、そう。別に、俺には関係ねえけどよ」
「冷たいこと言うなよ。昨日は、テストのヤマ張ってくれるって言ったのに」
「――飲んだ勢いでいったことを、鵜呑みにすんな」
付いてくんなと、しっしっと手を振っても、俺の後をまるで捨て犬のように付いてくる。そういえば、次の授業は同じ教室だったかもしれない。
「ブレダ!」
へんな奴に、懐かれてしまった。



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ついに、また、恐れていた試験の季節が到来した。この士官学校は何の恨みか、全校生徒の成績を1位からドベまで張り出す。ドベのヤツがかわいそうだと思わないのか。そいつが登校拒否にでもなっちまったら学校は責任取れんのか。
オレが将来、偉くなったら、そんなバカげたことは廃止してやるからな。覚えとけ。



試験前夜、寮の同室のヤツにヤマをかけてもらった教科書とにらみ合って朝を迎える。

監視の厳しい寮で、一晩中、堂々と電気をつけて勉強することが不可能だったオレは、懐中電灯を布団の中に持ち込んだり、非常口の明かりの下に行ったり、トイレに閉じこもったりして必死に勉強をした。一夜漬けといえども、勉強は勉強だ。奇跡を信じて、祈れるだけのもの全てに祈り、やるだけのことはやったと言える。
覚えたところが、全部でるなら満点間違いない。――答案用紙が配られる時はいつもどきどきする。もしかしたら、自分の名前が1番に張り出されるかもしれないと思って。



でも、まあ、現実はそう簡単にはいかない。

白紙とまでは行かないんだけど…。何故なら、ささやかと言えども勉強したからだ。
オレは脱力感と共に鉛筆を置いた。
ただちょっとと言うか、大きくと言うか、山が外れたと言うだけで……。でも、答案は白紙じゃないというだけで、白紙も同然と言えないでもない。――そして、まだ試験時間は半分以上残っていた……。
勉強はした。勉強は。
もし、この答案が白紙だったのなら、潔く諦めがついて寝ちまうのに…。
オレの気持ちに反して、時間はゆっくりとゆっくりと進んで行く。



空は真っ青なのに、今日は驚くほど寒くて、外でタバコを吸うのを躊躇うほどだった。
それでも、タバコをいつもの木立の影に吸いに行こうかどうか、寮の玄関口で迷ってたら、たまたま外出から帰ってきたにこやかなブレダと顔を合わせた。
「お、ハボックじゃん。この前のテストどうだった?」
「――あー、うん。一応、全部埋めた」
辛うじて覚えていた頭のいいヤツの教えは守れた。ただ、オレはテスト以前に、誰に縋りつくか選択を誤った…。ヤマをかけてもらう場合、よっぽど頭のいいやつに泣きつかなくてはならなかったのだ。教室が違うからって、さすがにテスト前だからって、遠慮して阿呆なヤツにヤマをかけてもらうなんて愚の骨頂だった。

「はあ?」
「前、言ってただろ。何にも書かないで答案出すより、何でもいいから書とけって」
ブレダは噛み切れないものを食べているかのような変な顔をした。
「――数学のテストはな。何か書いておけば加点される可能性は高い」
「覚えたものは全部空欄に書き込んだぞ」

「―――暗記物のテストでそれは…。減点されたらどうすんだよ?」
減点って…?
「……だって」
せっかく勉強したのに…?
「総合得点マイナスで、ついにドベか。ハボック?」
新記録樹立だなと、ブレダは高らかに笑って去っていった。



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食事時間が終わるぎりぎりの寮の食堂で、大急ぎで飯をかっこむ金髪の知り合いを見つけた。正に無我夢中とばかりに食べるその姿は見る人間の腹を空かせる。皿に残っているからあげが妙に美味そうに見えた。そして、俺はそれを取り上げても良いほどハボックの面倒を見ている自負があった。

水道水を適当なコップに入れて、がっつくハボックの前に音を立てて置いた。途端に飯から顔が上がって、飯が詰まったその口が、あという形に開いた。
「――ハボック、勉強してっか?」
うんうんと勢い良く顔が縦に振られた。
そうとも、学期末の試験は1カ月後に迫ってきている。
ハボックは急いで、口の中の飯を飲み込もうとした。――そして、喉に詰まらせて3回胸元を叩いてから、俺が持ってきた水に慌てて手を伸ばす。
俺は皿の上に残った最後の1つのからあげを悠々と摘んで口に運んだ。
まだ苦しそうに胸元を擦っていたハボックが涙混じりの顔で非難を込めて見上げていたが、俺は気にしなかった。
「ブ、ブレダ…」
「もう来月から試験だろ。今度こそちゃんと勉強しろよ」
じゃあな、そう言って俺はハボックに背を向けた。
山を掛けてほしいのなら早めに来いよ、と背中で語って。



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夏の士官学校寮は暑い。しかもその上、男だらけで暑苦しさが増す。そんな中で一体どうやってテスト勉強をしろというんだ。――だが、そう思ってもこれは忍耐力をつけるための訓練なんだと思えば、流れる汗を拭きつつペンを走らせようという気になる。条件はみんな同じだ。

そんな模範的な士官候補生である俺の首筋を生ぬるい風が撫でていった…。
それは、まるで…。
「………、ブレダ…」
小さな小さな声だった。少しでも室温を下げようと開けていたドアからひっそりと自分の名前が呼ばれたのは。突然、この時期になるとよくあちらこちらで聞く話が蘇った。特に昨日の風呂場で聞いてしまった話はヒットだった…。

また、小さな声でブレダと呼ばれた。
こういうのに振り返ってはいけないと誰かが言っていたっけ…。暑いのに、冷たい汗がぶわっと溢れ出て、小刻みにペンを持つ手が震えた。沈黙の最中、ひたりと裸足の足音がして、微かな足音がだんだんと近くに響いてきた。何かが部屋の中に入ってきたのだ。――どうしたらいいんだと焦燥感が生じて動悸が極まったとき、ぽん、っと肩を叩かれ、思わず、わあぁぁぁっーーと声が上がったら、後ろから釣られるようにしてわああぁぁーと悲鳴を聞いた。

なんてことはない。ただのハボックの訪問だった。
俺以上にびびって尻餅をついた情けないハボックの姿を見たら、俺は何にびびってたんだと思えて笑いが込みあがる。

「どうした、ハボック。顔が青いぞ?風邪か?道に落ちてるものでも食ったのか?」
激しい動揺から立ち直ったのはもちろん俺の方が先で、ハボックはいつもより覇気のない顔を青くして、床に尻餅をついたままだった。
「――お前はご機嫌だな…」
「ああ、テスト期間だし」
それだけじゃねえけど。
「出来は上々だったか」
「元から頭がいい上に、このテストのために勉強をしたんだぞ。当たり前だ」
「………………」
「テストは明日もあるんだ。お前も僅かな時間を惜しんで勉強しろよ」
「………………」
「…………オイ」
ハボックはぐっと口を噤んで、床のある一点をじっと見ている…。そして、だんだん眉間のしわを深くしていった。
「ハボック」
呼んでも、ハボックはそこを見ることを止めない。まるで俺に見えない何かを見ているようにも見えた。また、首元がぞわぞわしてきた。
「ハボック!」
それでも、奴は顔を上げようとしなかった。

「お前がそこにいたら、部屋がますます暑苦しくなるだろ。用がないならさっさと出て行けよ」
そう言うと、ハボックは床にのの字を書き始めて、45回書いてようやく口を開いた。
「ブレダ、今日のテストの問題復元してくれ…」
「はあ?まだ、結果も出てないのにもう再試の心配かよ。まだ本当に落ちたのかなんてわかんねえだろ」
「ブレダ…」
また、のの字を書き始める…。
「あー、あー、あー!うぜぇ!そもそも、再試に同じ問題が出るかなんてわかんねえだろ!」
「出る」
「何で言い切るんだ」
「聞いてきたからに決まっているだろ」
「―――勇者だな、お前…」
「おんなじ問題でもお前には難しいだろうって言われた。ブレダ……!」
そして、ハボックはわっと床に張り付いてごにょごにょと言葉を重ねた。はっきり言ってうざい。これならオバケの方がマシだと思うほど…。

「分かった。復元してやるから今日は出て行け。俺の邪魔すんな」
「………………」
ぴたっと口を閉ざして、疑いの眼差しを俺様に向けるハボック。
別に他に頼る相手がいるならそれで構わないんだぜ、俺は。
「何だ、その目は。ああぁ?」
凄めば、ハボックはふるふると頭を振って、その場で床に頭をつけ、ブレダ先生。よろしくお願いしますなんて調子のいい事を言い、来たときとは正反対にスキップして早々に出て行った。
「あー、2人分試験受けてる気がしてきたぜ…」

俺の夜はまだまだ終わらない。



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その日の講義には現役軍人が教壇に立った。
いつもの講義とは違って少しは面白いものになるかなという、オレのささやかな願いは講義が始まって一分も経たないうちに打ち砕かれた。

そいつは、ゆっくりと、それはもうゆっくりと話す。しかも一音一音が曖昧で語尾が伸びがちだった。何を言っているのか、オレには分からない。いや、きっとオレだから聞き取れないという訳じゃないと思う。
そいつは、何より声にハキがない。つうか、生気がない。表情にもないし、話にもない。この授業はもちろん、生きることにやる気がないんだろう。って言うか、こんな田舎の仕官学生に対して授業なんかやる気がないってことなのかも。
講義が始まってたった15分が経って、そいつは黒板に向かってボソッと呟いた。
これでもう終わりなんですけどね…
しかし、教壇から立ち去る素振りはない。
―――しばし、沈黙が続く。そして、大議室がざわついた。

もしかしてこれで終わり!?
だけど、そう浅はかな期待を抱いたオレをあざ笑うように、そいつはまたぼそぼそとゆっくりと話し始める。
ノートは白紙のまま、時間だけが過ぎていった…。



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腹が立つ教官は山のようにいる。しかし、ここは士官学校。それは当然のことだと言えた。どれほど理不尽で馬鹿げていても、従順な態度を取り続ける自制心と忍耐力を身に付けることは必然なのだ。ここを卒業したら今以上に理不尽で不愉快な目にあうことは増えるだろう。腹が立った度にいちいち顔に出してれば、昇進はおろか、命をつないでいくことすら危ない。それは仕官候補生の内に身に付けておくべき能力だった。
――とは言え、ムカつくものはムカつく。そして、それを解消するにはいつの時代も酒の力を借りるものと相場が決まっていた。寮監の点呼が済んでから、その手に酒瓶を握った一人二人が部屋に入り込んでは管を巻く。大いに共感できるそれにもちろん俺は付き合った。憂さを晴らして、明日を清々しく送るために。

誰が持ち込んだか分からない酒瓶が空になって転がり、軽快に罵っていた口も呂律が回らなくなりはじめた頃、違うクラスの垂れ目の男がより一層目を垂れ下げて入ってきた。
「再試落っこって、明日口頭試験なんだ。ブレダ、頼む。ノート、写させてくれ」
あまりにいつもと代わり映えのしないセリフだったから、俺は快く頷いた。今の俺たち以上に惨めな存在を酒の肴にしたら、憂さが晴れる気がして。
ほらよ。その代わりここで写していけ。持ち出し厳禁だ。そう言っても、ハボックは投げ渡した首席を目指す俺様のノートを手にあからさまにほっとした顔を浮かべた。俺たちの話に適当に相槌を打ちながら、必死になってノートを書き写すハボックを囃し立て、さらに酒瓶は空になっていった。

「―――オレはあの教官嫌いじゃないけど…」
「はあ?」
あーとかうーとかしか言わなかったハボックが突然センテンスでしゃべった。驚きにその場にいた全員がまじまじとハボックを見ても、奴はノートから目を離さなかった。
口々に一体どこがと問いが上る。
「でも、他の教官みたいに頭ごなしにがーって言わないじゃん」
「それはな、ハボック。奴は俺たちを心底馬鹿だと思っているからなんだ。奴は俺たちがどれだけ馬鹿か推し量ってからものを言い始める」
「確かにあの教官はバカを見る目でオレを見てる」
「ハボック、そこは怒るところだぜ!」
「でも、オレは心の準備もないままあれこれいろいろ言われたって、右の耳から左の耳に抜けてくだけだから、マジで必要なことひとつかふたつ言われるだけ方がいい。ちゃんと頭にも入るし。しかも、あの教官はオレに何の期待もしてないから、のびのび質問だってできる。オレはあの教官嫌いじゃねえよ」
あ、これが最後のページだった。うれしそうな声を上げて、ハボックは、んじゃ、またよろしくと出て行った。



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ハボ&ブレの士官学校時代の妄想も大好きです!
そして、ハボック。あまりヒトゴトではなかったりして…