01
それは本当に何気ない、ささいなことだったはずだ。
そう、一人一人にとっては。
しかし、その一人一人のちょっとした、まあいいかが不運にも折り重なってしまった時、それは笑って済ませられる問題ではなくなることが多々ある。
弁解の余地のない事態を前に、誰もがその責任を押し付け合う。
その無言の攻防戦に今だ終わりは見えなかった‥‥‥
事の始まりは、一つのホールケーキからだった。
持ち込んだは、中央からやって来たヒューズ中佐だ。いままで見たこともないほどでかいケーキを引っさげ、この東方にやってきた。
愛娘がパパと初めてしゃべった記念らしい。
ヒューズ中佐がこの司令室のドアを開けたとき、そこに不運にもいた奴らが、毎度毎度疑問に思う上官命令という忌まわしきモノのエジキとなり、手を付けていた仕事を強制的に中断してヒューズ中佐の演説をご清聴するハメになる。
ウチの上司とタメをはるぐらい多忙の人なのに、なぜか、ここ東方司令部で頻繁に見かける。出張がその仕事柄多いのは周知の事なのだが、いつだって半分遊びに来ているフシがあり、ウチの上司とは違った意味で忙しさを感じさせない。
毎回毎回、何かしらやってくれる。そのまめさは驚嘆に値すると同時にオレらを脱力させる。
こんな積極的に下官の仕事の邪魔をすんなんて、あっていいはずねえと思うだけの自分がいつだってもの悲しい‥‥‥。
アンタら、ホントはヒマなんでしょ?とは一度は言ってみたいセリフだ。
もちろん、口に出して言う気はないし、そんな度胸もない。
こんな命でもまだまだ惜しい。
ヒューズ中佐はオレらを前にして、器用にも左手にケーキをのせたまま、右手を大きく振り回しながらできるだけその時の感動を伝えようと熱のこもった語り口で話した。
オレらは提出期限の迫った書類を前にして、必死に耐えていた。
それが一時間を過ぎようとした頃、会議を終えた大佐がやっと戻ってきた。
ああ、やっと開放される、そう、誰もが思いスケープ・ゴートに目を向けた。
しかし、大佐にもヒューズ中佐の来訪は予想外の出来事だったらしく、ドアを開けてその中に見慣れた人がいて小さく目を見開いた。
だが、大佐のその反応よりヒューズ中佐のほうが速かった。大佐がドアを開ききる前に、待ちかねていたヒューズ中佐が勢いよくイスから立ち上がった。
マブダチに電話で散々話して聞かせたことを、ナマで一から話して聞かせるために。
―――――その勢いがいけなかったのだ。
バランスを崩したヒューズ中佐はケーキを死守しようと右手も伸ばすが間に合わず、そのまま前のめりに倒れ、そのドでかいケーキは宙を舞って、着地した。
大佐の顔面に‥‥‥。
そして、それはゆっくりと大佐の体をつたって床に下りた。
大佐を生クリームまみれにして。
「ああああっ!!!エリシアちゃんが初めてパパってしゃべった記念の特注ケーキが‥‥‥」
その言葉は、確実に室温を3℃は上げた。
大佐は怒りを堪えるかのように、殊更、ゆっくりと顔面の生クリームを拭う。
「‥‥‥ヒューズ、言いたいことはそれだけか?」
静かなその声色は怒りを押さえ込んだ響きを伴った。
だが、押さえきれないその怒りに震える声色も、射殺すようなその眼差しも拭いきれてない顔面の生クリームの前では、いつもの迫力も半減以下だ。
賢明なるオレたちは目の前で起こった佐官二人のコントさながらの出来事に必死で笑いをこらえ、一言も発しはしなかった。
それでも肩が震えるのは隠しようがない。誰もがその光景から目を逸らした。
明日のわが身を守るために。
――――しかし、大佐の積年の友は強かった。
大佐の怒りなど、どこ吹く風で堂々と無視した。
「まだあるぞっ!エリシアちゃんがパパーって言ってくれたんだぞっ!!!でっかいチョコのプレートにわざわざ書いてもらったんだぞっ!!!ああっ‥‥、それがこんなになっちまった‥‥‥。せっかくここの奴らともこの感動を分かち合おうと思って、わざわざ3万もかけてつくったのにっ!!!お前一人が食っちまってどうすんだっ!!!どれだけ苦労してここまで持ってきたと思ってるんだっ!!!」
「――――ヒューズ、これは私のせいなのか?よく考えて、ものを言え」
「オイオイ、マスタング大佐さんよ、オレがわざわざセントラルから、こんな笑いもとれないベタなコントのようなマネをするために来たと思ってんのか?ああぁ?」
「お前はそういう奴だろう?そもそも、このケーキの、請求書が、何ゆえ、私の元に届けられるんだっ!!」
「ケチくさいこと言うなよ?お祝いじゃねーか?」
「そのお祝いとやらは先週送っただろうっ!?しかもっ!お前の送ってきたカタログのっ!指定してきたヤツをっ!!」
二人の言い合いは周囲を無視して続けられる。
オレらは、極力関わりあいたくなかった。
経験的に、関わるとひどい目に合うことがよくわかっていたからだ。
そして、ここでは、さらに笑い声すら立ててはならなかった。
ただひたすらに、自分の存在感を消すことに徹する。
「それとこれとは別。オレは多くの奴らとこの感動を分かち合いてぇの。――――そのためのケーキだったのに‥‥‥」
「だったら、自分の金で用意しろっ!!!」
「既婚者は日々のやりくりで、自由に使える金なんてそんなねぇんだよ。ああ、ケーキがっ‥‥‥!――――ロイ君!ケーキ買って。ケーキ!ケーキっ!!!」
司令室のドアをはさんでの佐官同士の阿呆な会話は東方司令部中に響き渡る勢いだった。ホークアイ中尉が出張でいない時を狙ったかのようなこの事態に、誰も割って入ろうとする強者などここには一人もいない。
序々に他の部所の人間が何事かと集まりはじめる。
それすら無視して、ケーキ、ケーキっ!と大声で連呼するヒューズ中佐に、ホークアイ中尉の味方がない今、事態を治めるため、大佐が折れるのは時間の問題だった。
そして、結局、大佐が馴染みの店に電話を入れることになる。
――――店にあるものを全部、という大佐にとってはかなりやけっぱちなセリフだが、一生に一度は言ってみたいそれに、ヒューズ中佐が勝ち誇ったように満面の笑みをうかべた。
持つべきものは財布の口のゆるい親友だと‥‥‥。
踏んだり蹴ったりな大佐は、会計はオレがしといてやると堂々と胸を張ったヒューズ中佐に実に嫌々ながらもサイフを渡して、着替えに出て行った。
02
普段はデリバリーなど決してしない名店の、それはそれは大量のケーキが、すぐさま届けられた。
司令室の奴らだけでは到底食い尽くせないほどのケーキ。
15万近い額になったそれを、何喰わない顔でヒューズ中佐が、大佐のサイフから支払う。そして、ヒューズ中佐はそのケーキを司令部中に配った。堂々と、オレのケーキと言って。
「オレが払わせたんだから、俺のケーキでいいんだ」
その言葉に誰も異論など差し込むはずなどない。
係わりあいたくないからだ。
恐ろしい。
どの部所の人間もヒューズ中佐に礼をいって、その愛娘記念ケーキをほおばった。ヒューズ中佐は一通りケーキを配り終えると、大佐を待たずに実に満足気に帰っていった。今からなら夕食に間に合うからと、軽やかな足取りで‥‥‥慌しいその来訪はまるで幻かのようだった。
だが、司令室に残る30コ近いケーキが現実を示している。
大佐はいまだ戻らない。
オレたちは疲れていた。
そう、実に疲れていた。
それは、もうぐでんぐでんに。
だって、そうだろう?
いつもヒューズ中佐の相手をする大佐は早々に退場しちまうし、佐官コンビの暴走を唯一止められる人は出張中で不在だったんだから。オレたちは自分で言うのはなんだが、持てる力の限りをもってがんばって、あの人の相手を務めたと思う。だから、誰かが、私たちもいただきましょうかと言ったとき、その目の前の甘いものは実に魅力的に映った。
普段は、甘いものなど食べないようなオレみたいな奴らにまでだ。
ここに置きっぱなしにもできませんからねとの言葉が合図となり、珍しく片付けられていた司令官の机の上に置かれていたケーキを誰ともなしに取っていった。
東部でも指折りにうまいと評判のケーキはさすがにうまい。
――――たまには甘いもんも悪くねぇ。
珍しくオレですらそんな風に思った。忙しない一日の中での、満ち足りた休息だった。
それから、しばらくしてようやく大佐が戻ってきた。
生クリームは本当に落ちないと、忌々しげにして。
そんな大佐の様子に、災難でしたねとめったにない優しい言葉が誰かの口からこぼれた。大佐の災難はオレたちの至福だ。日頃の行いを考えれば当然だ。通常は。だが、その時、オレたちはなんだか非常に優しい気分の中にいたのだ。常にはないオレたちの様子に、大佐は懐疑的な目を向けたが、それにすら寛大な気持ちになっていた。
満足のいく休息をとったからだろう。
今日は、仕事を定時に終わらせて早くウチに帰ろう、暑い風呂に入って早めにベットに着こうと、誰もがそう思い、長々と中断させられていた書類を片付けていく。いつになくまじめに豹変した司令室を、大佐は不思議そうに見回して、思い付いたように言った。
「そういえば、ケーキはどうした?」
優しい気分の中で、大佐のコーヒーを入れに立っていたフュリーが、コーヒーを置きながら応えた。
「ヒューズ中佐に言われるままに、司令部中に配りましたが‥‥‥」
「そうか」
「皆さん、すごく喜んでました。ボクは将軍のところに持ていったんですけど、エリシアに祝辞を伝えておいてほしいと言われましたよ」
「―――そうか」
その言葉に、大佐にしては珍しく何も含んだものがない笑みをうかべた。こういう笑顔を見ると、やはり顔の造作の悪い上司よりも、顔の造作の良い上司のほうが好ましいと思ってしまう。なんだかんだと問題が多く、迷惑極まりないことをしでかすはた迷惑な人なのだが、結局は皆この人が好きだった。めったにない穏やかな空気が司令室に漂う。
――――まったく以って悪くない。
って言うか、何でいままでこんな風な空気になんなかったんだろうと内心首をかしげた。
書類に大佐の認可をかつてないほどスムーズにもらい、定時を待つ。―――その時、ホークアイ中尉が出張から戻ってきた。中尉は出張から戻ると律儀にも、司令室に顔を出して行くのを誰もが知っていた。今回もその例にもれず、珍しく自分の席に座って仕事をしている大佐に、少々驚きながらも口頭で報告を行う。
「ヒューズ中佐が来られたと聞きましたが?」
「ああ、エリシアがパパと言ったお祝いに、―――ケーキを司令部中に配って、帰っていったよ」
どうやら大佐はケーキを頭から被ったことは言わないらしい。
「それだけのために来られたのですか?」
「‥‥‥あー、そういえば、用件聞くの忘れてしまったような気がする」
「―――大佐?」
不審気に少し眉をしかめる中尉に、あのどたばた劇のなかではそんな余裕などはなかったもんなぁと思う。だが、それを中尉に知られたくはないんだろうと思って、オレは助け舟を出すつもりで、会話に割り込んだ。
「なんか、いろいろ慌しくってですね、ね?大佐」
「――――ああ」
子供のように憮然とした顔になってしまったのが、かわいくておかしい。
「ホークアイ中尉のためにケーキ取り置きしておきましたから」
オレの言葉に準備のいい奴が冷蔵庫からケーキを持ってくる。一皿の上に乗った、有名店の看板銘柄のケーキが3コ。――――そう、それはあまりに当たり前のことだったのだ。オレたちにとっても。
中尉にとっても。
だから、わからなかったのだ。
大佐が急に機嫌が悪くなった理由が。
――――せっかくさっきまであんなに空気がよかったのに‥‥‥
しかし、大佐の気分がころころ変わるのはいつものことなので、中尉は特に気にするでもなく、出張帰りで疲れているだろうとの配慮の下で、自分の部屋で食べれるようにと取っておかれていたケーキの箱に、その3コのケーキを詰め直されたケーキ箱を受け取って帰っていった。
中尉が司令室を出てから、大佐がポツリとつぶやいた。
「――――私の分のケーキは?」
03
‥‥‥‥‥しまった。
全員がその一言に尽きるだろう。
誰もが、他人を伺うようにチラリチラリと視線を投げている。
純粋に誰かが取っておいているだろうと思っていた。
やがて、その視線がオレに集まって来た。
その責めるような無言の圧力に屈するように、思わずポツリとこぼした。
「一言、言ってから行けばよかったのに‥‥‥」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
静かな、しかし、なんともモノ言いた気だが口を噤んだままの、雄弁な沈黙だった。机の上に肘を立て、組まれた手の上に顔をのせ、じっとその黒い瞳で司令室内を見渡す。激しいプレーシャーのある沈黙が場を支配する。
定時が近づきつつあった。
どーして、この人はそーいうことを中尉が退出してから言い出すんだとか、口に出せないことをぐるぐると心の中で呟く。
そのなんともいえない沈黙の支配する中、ブレダが口を開いた。
「――――大佐、いい加減にしましょうや。いつも、大佐は名指しで指示を出すでしょう?今回も、誰かに言っていると思ったんですよ。他意はないんですぜ。んなにケーキが食いたかったんなら、みんなでおごってあげますから。3コでも、4コでも」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
「何なら、ホールケーキでも。大佐?」
「――――数が問題なんじゃない。皆、私のことなんて忘れてたんだな」
声にあからさまな、拗ねた色がある。
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥大佐」
「ブレダ少尉、君は何コ食べたのかね?」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
「‥‥‥ブレダ少尉?」
大佐の静かなるその迫力にブレダが根負けした。
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥4コです」
「4コ!?なのに、私は0コ!!ケーキは十分にあったのに、この東方司令部内で、東方司令官である私だけが0コ!!あ、あ、あっ‥‥‥‥‥‥」
大佐が妙に演技かかったリアクションで机に突っ伏した。
定時が過ぎつつあった。
オレは、今日、ちょっとイイ飯を食って、暑いシャワーを浴びて、ベッドで朝まで誰にも邪魔されずに寝る。
そう、寝てやると、さっき、心に誓った。
だって、書類は終わってるし、街は近頃平穏なんだ。
このチャンスは逃したくない。
そう、思ったオレは勝負を焦ってしまった。
言うべきではない一言が、ついぽろりと口からこぼれてしまった。
「―――アンタね、自分の日頃の行い考えて言ってます?こういうのは、日頃の行いがモノを言うんスよ」
オレの言葉をさえぎる様に、ブレダが咎めるような視線を投げた。
はっ、と思ったときはもう、遅かった。
―――そう、ここでこれ以上大佐のへそを曲げたらオレたちの手には負えなくなる。
頼みの綱は、もうお帰りになったのだ。
大佐の更なる無言に、司令室内が自業自得だと言わんばかりの視線を向けた。
オレが洩らした言葉は、ここの奴らの気持ちを代弁したものだ。
だが、それはマズイ。
取り返しが付かなくなるほどマズイ。
大佐は、さすがに居心地が悪くなったのか、くるりとイスを反転させる。
「―――ふん、もういいよ。別にケーキが食べたかったわけじゃないんだ」
大佐は完全にすねてしまった。
恐れていた事態になりつつある。
後ろを向いた大佐のその表情が見えなくとも、その圧力に誰も席を立てない。
嫌な汗が背中を伝っていった。
「悲しいな。500コ近いケーキをポケットマネーで払っても、誰一人として私には礼を言わないし。事の顛末を見ていたお前たちまで、私のことなど忘れる始末だ。挙げ句の上には、それは私自身のせいだとまで言われるし‥‥‥。日頃の行いか。日頃の行いねえ。何だかんだと週に一度は飲み場での会計を持ってやったりしていた気がするが、それは私の気のせいだったんだな‥‥‥。それとも、私という存在はこのサイフに集約される価値しかないと言うのか‥‥‥。金か。金のせいか。ああ!日々の忙しさが、散財の時間すら奪ってしまったっ!!たまりすぎて行く金に私はあまりに無頓着になりすぎていたと言うのだろうか?ありあまる金が‥‥‥」
あくまでも独り言なのだろうが、明らかにこの部屋にいるモノ全員に聞かせる意図のあるつぶやきは、まるで念仏のように途切れなく続く。
オレたちをイスに縛り付ける呪文のようだった。
無情にも、刻々と時間は過ぎて行く‥‥‥
それは本当に何気ない、ささいなことだったはずだったのだ。
そう、一人一人にとっては。
弁解の余地のない事態を前に、誰もがその責任を押し付け合う。
その無言の攻防戦に今だ終わりは見えなかった‥‥‥