競馬へ行こう!
01

外回りが多いことに文句はない。むしろ、細々とした書類と向き合うぐらいないならよろこんで外に行く。――――が、がっ!どうも損をしている気がしてならない。

給与日前、司令室の金欠のヤツらが大佐に競馬新聞を差し出したという。その輝かしい頭脳を持って助けてくれと。サボリの口実を提供された大佐がそれに食いつかないはずはなかった。
大佐はしばらくその競馬新聞を眺めてからヤツらに条件を1つ出した。
1万センズ、一点買い。
給与日前のヤツらじゃなくともかなりキビシイ条件だろう。
現にその条件を飲んで勝負を打って出れたのはブレダ一人だった。
そして、ブレダ一人だけが万馬券を手に入れた。

日頃の苦労を考えれば、その恩恵を受ける権利はオレにこそあるはずだろう?
競馬に行きたい。
オレだって万馬券が欲しい。





それからしばらく大佐に競馬競馬と言い続ける日々が続いたが、オレの希望が適うことはなかった。
うるさげに、ああ、次の休みになと犬を振り払うように断られ続けた。
この邪険な扱い。
ただの上司部下という関係では言い切れない仲なのにありえねえ。
こんな忙しい日々のなか、2人一緒の休みなんて取れるはずないじゃないか。
ヒドいっ‥‥‥!
そして、やっぱり待ちに待ったオレの休日は大佐のセントラル出張の日と重なってしまった。
腐ってふてくされてベットから起き上がりたくなくても大佐が言うところの、狭っくるしい部屋はマメに掃除しないとゴミ溜めになってしまう。洗濯とゴミ出し食料の買出し、しなきゃなんないことをさっさと終わらせて馴染みの食堂にメシを食いに行って、その食堂の看板娘にでも遊んでもらおう―――、と気を取り直し、一日の清々しい計画を頭の中に展開させた。まずは、オレの命でもある煙草の買い溜めからだと玄関の開けたときだった。
せっかく気分を持ち直したのに、階段下から私服の大佐が現われた。

なんてことだろう。ついにこの人は出張すらサボるようになってしまったのか。
ヒドいサボリだ。
挙げ句の上にここに来るとは。
オレをどこまで巻きこむ気なんだ‥‥‥‥。

オレは呆然と背筋に戦慄を感じているのに大佐はあくまでも暢気に言う。
「――――何だ。出かける所だったか。しまったな。これは予想外だったな」
「アンタ、出張はっ!?」
にっこり、大佐はよくぞ聞いてくれましたと言わんばかりに笑った。――――会議中に脳梗塞を起こした将軍がいて、会議は中止。オレはよほど疑わしそうな顔をしていたのだろう。もしくは日頃の行いをやっと分かりつつあるのか、大佐は中尉に連絡してみろと言い募った。
ここで中尉を持ち出してくるからには信じてやらなくてはならない。
「―――――で、なんでこんなトコ、ウロついてんスか?」
全くもってその通りと大佐は大きく頷いた。
かなりムカつく。
「オレは、これからメシ食いに行くんスけど」
「予定があるなら別に構わないんだ。私は別に競馬に行きたいわけではないからな。ハボック?」
「‥‥‥‥‥‥‥‥」

あー、これは思いがけない好機というやつなのか?
虐げられ続けた身でそう簡単にチャンスに食いつけなくなってしまった自分がちょっぴり憐れだと思った。


02

降って沸いた機会だった。

早朝からの会議は、脳梗塞を起こした将軍のために突如として中止となった。
セントラルのオープンカフェで、ホークアイと朝食を取る。
仕事に向かう慌しい人の流れを横目に、薫り高いコーヒーと焼きたてのパン、瑞々しいサラダ、香ばしいカリカリに焼いたベーコンとソーセージ、たっぷりのスクランブルエッグにトマトソース、そして、フレッシュフルーツを、テーブルの上にこぼれんばかりに置いた。
贅沢な時間だ。
出張に同行していた、ホークアイの顔にも穏やかな笑みが浮かんでいた。
忙しく、慌しい日々はいつものこととは言え、休息は必要だ。
「さて、本日の予定は立ち消えてしまったね。せっかくの機会だから、このまま帰りの汽車の時間まで、デートでもどうかな?」
「いい天気なので、午後までに帰って洗濯がしたいです」
「‥‥‥‥‥‥‥‥洗濯?」
「そう、洗濯です。大佐と違って全てをクリーニングに出すわけにはいきませんから」
含みのある言葉に思わず弁解をしてしまう。
「‥‥‥気にせずに、何でも出してね、と言われたんだ」
「だからと言って下着まで出すのはどうかと思いますが?」
「一回着ただけで捨てるのは、さすがに私の給与をもってしても抵抗が‥‥‥‥」
「あら、変なところで貧乏性なんですね。では、洗ったらいかがですか?」
「洗う?私が、深夜に帰ってから、風呂場でパンツを?」
「ええ、そうです。すぐ慣れますよ」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥」

朝のオープンカフェには、不釣合いな生活臭にまみれた話題に、このままでは本当に下着を洗う習慣を身に付けられてしまいそうだと、マスタングはホークアイをデートに誘うことを断念して、目の前の朝食を片付ける事に専念した。
そして、結局、昼にはイーストシティに帰ってくることになってしまった。

「あー、そうだ。思い出したよ。ハボックを競馬に連れてってやる約束をしてた」
今だ、もの言いたげな目を向けてくるホークアイと目を合わせずに、マスタングは、はははは、と乾いた笑い声を上げて、そそくさとホークアイと別れた。


   +++


給与日前に、司令室の有志が、業務時間外に大佐に競馬新聞を差し出して予想を聞いていました。狙いどころは悪くはないけれど、大佐のそれはときどき予想ではないことを、私は知っています。
年に数回、デキレースがあるのは事実です。
東方、中央問わずに、経済界の重鎮たちと会食などの機会を多く持つ大佐は、この手の情報に事欠くようなことはありません。そして、幸か不幸か、差し出された競馬新聞にはそのデキレースが含まれていたようで、大佐は、1万センズ、一点買い、という意地の悪い条件を提示していました。
この予想を申し出る前に、情報収集していたらしいブレダ少尉だけがその条件を飲んでみせ、万馬券を手に入れたようです。
しかし、ブレダ少尉も思うところがあったのか、それを換金する前に私のところに、換金してもいいか尋ねに来ました。
「ヒューズ中佐が来たときに、大佐の競馬の武勇伝を聞きました。馬連ならほぼ完勝なのに、馬単一点に絞って買って全敗した話だったのですが。今回のこれは想定外でした。もしかして、デキレースだったのかと思いまして。これ換金したら、やばいですよね」
「‥‥もし、万馬券を手に入れたのが複数だったのなら取り上げることも考えますが」
そう言ったら、ブレダ少尉は少し考えて、では、ありがたく換金してきます、と言いました。

いい読みですが、万馬券一枚で、味方が手に入るなら安いものですので。


03

濃いグリーンの皮のジャケットとそろいの手袋。値段など聞きたくもないほど高いのだろう。

競馬場は上流階級の遊び場所であり、社交場の1つであったことをその大佐の服装から思い出した。今では、大分大衆の娯楽としても定着しつつあるんだが。
前を、ずんずん行く大佐がふと立ち止まり、振り返って、オレを頭の先から足の先までじろじろ見た。オレの服は安いぞ。アンタが驚くほど!何となくオレは胸を張った。
大佐がそのオレの様子に吹き出す。
「―――何スか?」
「お前は体格がいいから、着飾らせたら見応えがあるだろと、な、思ったんだよ。少々眠たげな目元がいただけないが。若い恋人を見せびらかしに行くのも悪くなかったとなあ。うん」
「―――――大佐‥‥」
「大丈夫だ。その時は、ちゃんと私が上から下まで金を払うとも。うん。ちょっと面白くていいなあ」
悪趣味だ。この人は人の嫌がるポイントを外さない。想像するのも気味が悪くて、話題を逸らした。
「あー、アンタと競馬ってするって、ちょっと変な感じ」
「私はしないぞ。何故、私がこんなところで生活費を片手に、プルプル震えながら、それが失われるスリルを楽しまなければならん。そういう楽しみは薄給の人間特有のものだ」
耐えろ。耐えるんだ。オレ!
今日は、この人の機嫌を取り続けるんだっ!
万馬券のため、万馬券のため、万馬券のため‥‥‥。
ハボックがぶつぶつと念仏を唱えて、精神力を高めているうちに競馬場は目前に迫っていた。

大佐は迷いもなく一般観客席の方へ向かって行く。つい思わず一緒になって着いていってしまった。これは職業病だ。あわてて大佐の腕を取った。
「下は薄給の人間の生活がかかった真剣勝負の場所っスよ。アンタは上。酒飲みながら、オペラグラスで観戦」
大佐は、にっこり笑う。
「ハボック。私はこのような賭け事などしない。するのはお前だ。だから下でいいんだ。私は、お前が生活費をかけてスリルに震えるのを見に来たんだ。まあ、お前が求めるのならアドバイスくらいはやってもいい。さあ!行くぞ!!」

無理矢理頼み込んで来てもらったんだから。
突然の休暇をオレのために割いてくれてるんだから。
競馬に一緒に行きたい、って言っていたこと覚えていてくれていたんだから。
今日は耐えよう。かつてないほど耐えよう。
オレが耐えれば、この人は気分よく予想するはずだ。
例え、人の薄いサイフで競馬がしたいだけでも、この人ならカラにしないだろうし、あばよくば、かなり大幅に増える。そう、小金持ちだ。
今日の、ミッションの困難さに大きく深呼吸をし、覚悟を決めた。
行きたいところに行ってくれ。どこへでもついて着いていこう。

大佐に命じられるままに、売られている競馬新聞全てを購入し、人混みの中を掻き分けていく。周囲の目に、明らかに自分たちとは異なるものに対して、敵意とは言わないまでも、好意とは決して言えないものが浮かんでいる。
大佐は、そんなものお構いなしにずんずんとメインスタンド前までやって来た。
売店前とはまた一風違う、人生、競馬に賭けているおっさんばっかだ。
そんな中、大佐はスルリと空いている席を見つけた。メインスタンドのゴール前、前から十数列目。最高の席だ。こんな席はじめて座った。


04

目に眩しいほど青々と繁った牧草が地平線の彼方まで続き、風に棚引く。その上を野に放たれた駿馬たちが縦横無尽に駆けていく。駆けるために生まれてきたものたち。恐らくこの暑い夏を誰よりも望んでいるのは彼らだろう。この強い日差しの恩恵は何よりも彼らに注がれている、そう見るものに思わせた。

冷夏、長雨、大雪――――、衝動のままに駆けることを断たれた若き駿馬たちは、走る意思を持てない。彼らのあまりに短い寿命の中でもたらされるたった1、2回のチャンスをそれと意識することもなく通りぬけ、多くの馬たちが若いまま去って逝った。本命馬不在の時代が訪れた。巨額の資本を投資されている大牧場は経営難に陥り、育成する頭数を減らしたため、多くの者たちに大きなチャンスが分配された。血統よりも育成方法がより効果を上げた時代。後々の世に語り継がれる多くの名馬を登場させた。
しかし、それは、もう過去の話だった。血統馬、充実した施設、徹底した管理体制それに優るものは、やはり、ありえない。

夢の時間は疾うに過ぎ去っていた。



夢がなけりゃ、生きてる意味なんてねえ。
ダービー馬をここから出す。
馬は博打だ。

ロマンに生きた男は、夢を見たまま風呂で溺れて死んだ。
46時中、アルコールを手放せなくなっていたのは一体何時頃からだったのか。気づいた時には、もう酒を飲んでない奴の記憶はない。奴は小さな牧場主で、21頭の馬を預かり、5頭の馬のオーナーだった。だが、オレたちが知っている奴は牧場主というより、ただの博打好きな男だった。現にオレたちが出会ったのも場外馬券売り場で、レースの予想を興奮して語っていたときだった。その後、特にどうと言うことなく付き合いができていた。
奴んとこの経営が厳しいことは分かっていたが、奴の口からは聞いたことはなかった。時々、牧場の従業員を探しているという話が出たぐらいだ。しかし、給与を払われていないという奴のところの従業員がよくパブで愚痴をこぼしていたから、誰もが知っていた。狭い世界だ。同職の奴らが行くパブなんて限られている。時機に、無償で馬の世話をしていた最後の従業員が辞めた。オレたちは、一度だけ奴にどうするのか聞いたことがある。
奴は暗い目をして、馬を処分することはできないと言った。
飼い葉すら買えなくなっていて、馬は宿舎に入ったまま、自身の糞にまみれ、餓死して死んだ。
宿舎を出れば、牧草が生い茂っている真夏の日々だった。
夜な夜な響き渡る馬たちの断末魔を聞きたくなくて、奴は更に酒に溺れたのだろう。
走らない馬は処分の対象になる。馬はペットではないからだ。しかし、奴は馬を処分するだけの金さえ工面することが出来なくなっていた。いや、わずかばかりの金はいつも馬券に変わっていたことは知っていた。
夢やロマンを追う前に、もっと大切な何かがあったんじゃないのか?
結局、発することのできなかった問いは自身に向かった。
夢やロマンを追う前に、もっと大切な何かがあるだろう、と。
足を洗おう、足を洗わなければ、そう強烈に思った。
しかし、何十年もの習慣はそうは簡単に絶つことはできない。気付けば、競馬場に来ている始末だ。何か背中を押すような、きっかけを求めて、そう自分を誤魔化し今日も競馬場に行く。


死んだ奴が座っていた席は、今だ空席のままだ。博打打ちは験を担ぐ。馬をあんな風に死なせた奴の、いつも座っていた席など誰も座りたがらなかった。しかし、常に空いたその席は、見る奴らに今日もこの席を見てしまった後悔を生む。強い呪縛の如き有様だ。


05

走らない馬は死すのみである。
自分が命を賭けるレースが、人間のただの娯楽であることを彼らは知っているのだろうか?私は競馬が嫌いである。




競馬は1点買いが美学だ。

そう大佐は、堂々と言い放ち、サイフを見せろとその手を差し出した。
このサイフには残りわずかといえども今月の生活費が全部入っている、しかし、オレはそれを元手に増えていく打算的な考えを捨て切れなかった。あくまでも嫌々ながらに、という雰囲気を装い、自分のサイフを大佐の手のひらに置いた。
「――――何だ。本当に薄いな」
失礼なことを言いながらそのサイフを開いた大佐は、中身を見て本気で驚きの声を上げた。――――――5800センズ!?、と。自分の顔面が引き攣るのがわかった。
「月末ですよ。これが普通なんです。つうか、他の奴に比べたらまだ、マシな方だから」
「今月の全生活費か?」
「‥‥‥‥ええ、そおっスけど」
大佐は、それはそれは楽しそうににっこりと笑って、オレにサイフを返し、では、と一言おき、値千金のレース予想を朗々と語り始めた。

しかし、それを聞いていたのはオレだけではなかった。
―――オイ、あんちゃん、と前の席や、後ろの席、隣の席に座るオッサンたちから次々と異議申し立てが起こった。
絶対、顔色が青くなり始めていると思っているオレなど尻目に、大佐はにやりと笑い、一人一人と問答を繰り返す。しばらくすれば、身を乗り出したり、立ち上がったりして熱く激論していたオッサンたちは説得され納得し、自分の席に戻って自分の予想を考え直している。
長い年月の経験を経て持ったであろう、自らの競馬必勝法をたった数分の議論で考え直させる大佐の競馬理論のすごさをオレは理解できなかった。誰かさんのせいで競馬に行けるヒマなんかないし。
「―――――つまり、次のレースは4番人気のこの馬を押さえておけばいい。問題は対抗馬だ」
それから、大佐は3馬が有力だと言った。
大佐によると、ここまで予想を絞るのはそんなに難しいことではなく、問題はこの3つの内から1つに選ぶことらしい。―――別に、3枚買えばいいでしょ、と言えば、呆れたように大きなため息をつかれた。
「競馬は1点買いが美学だ」
これは譲れん、5800センズで1点買いして来い、と堂々と言い放った。
周囲のオッサンたちの目が、その言葉に一気に同情に満ちたものに変わった。

あんちゃん、何もそこまで勝負賭けんでも‥‥‥
そうだよ。きっと、この3点に来るぜ?
3点買っとけよ、な

皆、大佐を説得してくれようとしてくれる。しかし、大佐は頑として首を縦に振らない。
何か、おかしなことに、大佐がこの場に馴染んできている。
その大佐の様子に、オッサンたちは口々に男だねえと呟いた。
でも、買うのはオレなんスけど。
大佐は少し考えてから、4−6馬単を5800センズで買って来いと言った。
最後の判断の決め手はなんスか?と一応、聞いておいたが、大佐は重々しく、何となく、と答えただけだった。
「‥‥‥‥‥‥‥」
あまりに不安で、席を立てないオレに大佐は言い募る。
「ブレダは私を信じたのに。お前は私を信じないのか?」
「買ってきます」

発券機の前で、ぷるぷる手が震えた。いくら大佐を信じていたって、こればっかりは‥‥‥。
しかし、まだこの時はオレにはまだ余裕が残っていた。


06

結果は、鼻差で、オレは高額配当の馬券を手に入れ損ねた。
まれに見る好勝負に、興奮の色が覚めやらないというような歓声が終わらない。
ただ、オレの周囲は少し、様相が違った。
競馬人生長そうなオッサンたちは、手堅く大佐の予想も全て押さえていたらしく、小躍りして喜んでいる。が、オレが、さらにその中でも1点買いしていたことを知ってか、誰も声をかけてこない。そんな浮かれた空気の中、チラリと大佐を伺えば、特に気にした風でもなく競馬新聞の次のレースの欄を見ていた。それどころか、オレの視線に気付いた大佐が、手を差し出した。――――サイフ、と、一言添えて。
「あの、外れましたよ?アンタの予想」
「ああ、そうだな」
「ああ、そうだなって、オレの生活費っ!」
「―――――まだ残っていただろう?」
嫌な人だ。サイフに隠しておいたオレの隠し玉の1万センズを見つけていたのか‥‥‥。
「それに、賭け事に100%はないんだよ。時に外れることもある。ほら、サイフをよこせ」
無情にも大佐は、オレのサイフから虎の子の1万センズを抜き取った。
さて、次の予想は―――、とオレの気持ちなどお構いなく話し始めた。



次のレースもまた僅差で外れた。
しかし、周囲は大佐の予想馬券を全て押さえていて、随分な額の配当金を手に入れた様だった。大佐を見る目が変わってきている。
大佐はオッサンたちに売店のポップコーンを奢ってもらっていた。
これはこれはおかしいんだが、オレはいよいよヤバくなってきて笑うどころではない。
なのに、大佐は全く動じていないのが恐ろしい。
次で、今日の最終メインレース。
周囲は異様な熱気に包まれている。そう、周囲は、100発100中だ。だが、オレは、オール・オワ・ナッシングだが。――――おっきなあんちゃん、次は来るからよ、とか慰められたって、もう金ねえんだけど。なのに大佐はオレを見て笑う。恐ろしいまでににこやかに。
「あの、もう、オレ、金なくなっちまったんスけど。アンタ、どうしてくれるんスか」
カラになってしまったオレのサイフ。かわいそうに。こんな人を信じてしまったばっかりに。
さらにここぞとばかりに、文句をつけようとする前に大佐が口を開いた。
「お前はまだ金を隠し持っている」
「‥‥‥‥‥」
「私に隠し通そうなんて甘いんだよ。出したまえ」
その言葉に思わず動揺を隠せなかったのが、オレの敗因だろう。肯定したも同然だ。でも、周囲はオレの動揺などに気付かない。

あんちゃん、もう勘弁してやんなよ。
おっきいあんちゃんの身なりじゃ、もう金なんて振っても出でこねえって。

―――――余計なお世話だ。

それより、あんちゃんのジャケットで金借りたらどうだい?いい店紹介すっからよ。あんちゃんなら確実に取り戻せるだろ?

つうか、その皮のジャケット売ったほうが絶対に金になるから。しかし、大佐にはそんな言葉聞こえてなんかいなかった。
「―――お前、目が真剣じゃないんだ。悲愴さが足りない。隠している金を出したまえ。それとも、お前は私の服を質に入れろというのか?」
アンタ、本当にオレが今月の生活費を賭けてスリルに震えるのを見にきたんだな、と思ったが口には出せない。アンタのそのえらく高くそうなジャケットを質に入れろって声を大にして言いたいっ!が、そんなこと言えるはずねえっての。ええ、アンタもお分かりのように、オレにはそんなことできませんよ。ええ。
卑怯な二者択一に、オレはしぶしぶ本当にせっぱつまったときのため用の1万センズを引っ張り出した。これで本当にオレはすっからかんだ。
一気に悲愴感が漂ってきた。
オレのその姿に大佐はひどく満足した笑みを浮かべた。
周りはもう大佐のその傍若無人さに言葉もない。大佐はこの場ではすでに神にも等しい、高確率の予想を行う人間だった。誰もそんな人間の機嫌を損なう真似などしない。オッサンたちが項垂れるオレの肩を次々に叩いていった。


07

神の言葉は厳かに告げられた。

そのお告げに周囲は、一斉に競馬新聞を開いた。だが、オレは競馬新聞を見たところで予想が立つものではないことを経験から知っていたから、ただ大佐を見ていた。生活が係っているレースだ。真剣にもなる。

もし、これが来るなら、メインレースでこんな超高額配当になるのは何年ぶりだ?
さすがに、これは‥‥‥‥
いや、2度あることは3度ある、だ。

色めきたった言葉が口々に交わされる。

大佐の最後の予想は至極単純なものだった。
――――人気馬が軒並み来ない。この2頭の勝負になる。
その2頭なら、馬連でも5000センズを超える配当になるらしい。しかし、大佐がここで考え込んでいるのは、あくまでオレに馬単で馬券を買わせるためだ。どちらが1着で、どちらが2着か。馬単なら、そのどちらでも万馬券になる。2枚、買わせてくれ。
言い出すチャンスを伺う。できるだけ大佐の機嫌を損ねないように。
しかし、先手を打たれた。大佐は、次のレースのために整備されているフィールドを眺めたまま静かに言った。
「競馬は1点買いだ。私とここに来た以上遵守しろ」
そこには、有無を言わせぬ響きが込められていた。そして、買うべき馬券言い渡された。

発券場の前でオレは真剣に悩んでいた。
大佐の予想は確実のような気はする。最後の最後でコケてはいるが。それに負けたといっても本当に僅差だった。前の2レースでも1本に絞らなきゃ、オッサンたち同様オレも勝ち組だった。
ぶっちゃけ、2枚、買いたい。どっちに転んだって万馬券なんだ。50万は固い。
――――買っちゃおうかなあ‥‥‥、でも、バレたらどうしよう。
1点買いだ、1点買いだと言うあの人は、何か思うところでもあるのかもしれない。――――ただ、オレを痛ぶって楽しんでいるだけかもしれないが。だが、もし、1点買いするなら、100万以上手に入る。――――いい。いいぞっ!オレも男だ。ここは1点買いで勝負を賭けて見せてやろうじゃないかっ!よしっ!
現金で100万、という誘惑にオレはあっさり屈した。
そうなると、問題はあと1つだ。
大佐を信じるか、信じないか。生活を賭けて、大佐を信じるか、信じないか。今のところ、大佐の言うところの馬券は全敗していた‥‥‥。
さっきまでは発券場にあふれんばかりにいた奴らが、見る見るうちに減ってきている。もうすぐレースが始まるからだ。汗が背中を伝い落ちた。時間がない。場内にアナウンスが入った。最終レースの発券を締め切ります、と。
オレは、上がっていく心拍数を必死で押さえ、たった1枚の馬券を1万センズで買った。

最終レース。遅いペースのレースとなった。最後のストレート勝負になるはずだったが、遅い馬群を嫌った若い馬が我慢できなくて飛び出した。そして、それにつられるようにもう一頭。バックストレートで50馬身も差が付き始めていた。しかし、最終コーナーを回る頃にはバテて後方から追い上げてくる馬群に吸収されてしまうだろうと大方が考えたが、最終コーナーを回っても後方が追い上げてくる気配がない。若い2頭はペースを緩めない。このまま逃げ勝つはずだ。もう、後ろの馬群は追いつけない。
まだ、ゴール前なのにあまりの展開に見切りをつけた観客から、大きなブーイングと共にあちらこちらで外れ馬券が飛ぶ。そんな中、オレたちのいる周囲だけが異様な雰囲気を醸し出していた。
人気馬の馬群を引き連れ、独走しているのは人気薄だった2頭。
馬単で両方を手堅く押さえているオッサンたちは、かつてない勝利にもう何も言えず震えてたり、泣いてるヤツまでいる。
だが、ゴールはまだ、だ。
オレの勝負はまだなんだよ。とっとと感動してんじゃねえ。マジで、オール・オワ・ナッシングだ。挙げ句の上に、上司と部下の信頼関係にまでこっちは発展してんだ。頼む。まだ、静かにしててくれ。

馬券を握りしめたオレの手が震えた。


08

この2頭もまれに見る好勝負をした。ゴール前で、首差で先頭を走っていた馬に2位の馬が並び、追い抜かした。ゴールを馬が走り抜けて行った瞬間、巨大な歓声が上がった。
オレも知らず、吼えていた。
182万。
思わず大佐に抱きつこうと、横を振り返ったら、大佐はすでにオッサンたちにもみくちゃにされていた。ポップコーンやビールまみれになって。大佐に抱きついて、泣いてるヤツまでいる。

もう、これで、馬から足洗うからよ。あんちゃん、ありがとうよ〜
これで家を建てるからよ。もう、博打なんてしねえよ〜
これで、ヨメと子供に会いに行けるぜ〜

そんな中、大佐が面白くなさ気もオレを見ていた。そう、興奮しているオレを見て。オレは勝ったが、大佐の予想はまた外れていた。
大佐はオレを無視して、感動のまま、抱きついてくるオッサンたちに抱擁を返し、よかったですね、と繰り返してた。あんちゃんはハズれちゃったな、と言われ、大佐は仕方ありません、賭け事ですからねと苦笑を浮かべていた。
オレは、そのオッサンたちの騒ぎが終わるのを少し離れたところで、ぼーっと見ていた。
負けた人たちが潔く去っていく。引き際はきれいだった。
オレは大佐に無視されながらも、握り締めていた万馬券に目を落とした。
182万。
思わず頬が緩んだとき、突然、大佐から声がかかった。
「お前もとっとと換金しないと。換金所がもう閉まるらしいぞ?」
なるほど。だから、オッサンたち、みんな、一斉にいなくなったのか。
大佐は、オレが大佐の言う通りに馬券を買わなかったのを、別に怒っているようでもなかった。ほら、行くぞと言って、座ったままのオレの腕を取る。スタンドにはもうほとんど人は残っていなかった。

「あー、すごかったっスね。オッサンたち。あの迫力にはビビりましたよ」
「彼らがいくら買っていたか知らなかったのか?」
「――――自分のことに夢中だったんで」
「そうだったな。手が震えていた」
オレを見上げる目元が笑っている。性格悪い。
「なんで1点買いじゃないとダメなんスか?馬連で買ってたら全勝でしょ」
「面白かっただろ?」
「勝ったから言えるんスよ。めちゃくちゃ疲れました」
大佐はそうか、と言って、遠くに視線を投げたまま口を開いた。
「――――今日のレースで負けた馬のうち、一体何頭が再びあのターフを駆けることができるのか、お前は考えたことがあるか?命が係ったレースなんだ。それに金を賭けるものもまた相応なものを賭けるべきじゃないか」
まあ、私の感傷に過ぎないんだが、と大佐は笑って、換金所に送り出してくれた。
現金で200万近く。こんなの初めてだった。
「あー、そうだ。オッサンたちはいくら買ってたんスか?」
「前2レースの買った金を全部つぎ込んでいたんだよ。何十万単位で買っていたんだ。30万でも5000万だろう?抱きついて感謝もしたくなるさ」
「‥‥‥‥‥5000万!?」
とたんに自分の手の中の重みが不確かなものになってしまった。そうしたら、さっきまでフワフワとしていた気分が落ち着いてきた。
隣でくしゃみが上がる。大佐はポップコーンまみれだった。しかも、濡れている。
「彼らが興奮して、ビールを頭からバシャバシャかけたんだよ。その上、誰かがポップコーンまでかけ始めて。散々だ」
そう言って、大佐は、頭を振って、髪についたままだったポップコーンのカスを落とそうとしたが、ビールを先にかけられていたためにそれぐらいじゃ落ちなかった。皮のジャケットにもビールのしみが盛大にできてしまっている。クリーニングに出したらちゃんと元に戻るだろうか。
「ちょっと、大佐、頭振んないで」
髪についてしまったポップコーンカスを取り除こうと手を伸ばしたら、着替えたいと言われ、まだ辛うじて開いている売店にTシャツを買いに走る。サイフには1センズも入っていなかったから、万馬券の配当金から払った。


09

この国の総人口のわずか数%の人種、上流階級の人間が貧乏人の間に座った。それがまず始めの奇跡だったのかもしれない。

今日、万馬券をつくった馬はダービー出場の権利を手に入れた。小さな牧場で産出されたが、大牧場で育成された馬だ。今までパッとしない馬だっただけに、このチャンスを活かせたことはこの馬にとって、とても意味深いだろう。
競馬で財を成すなんて幻想で、自分はただロマンを金で買っているんだと思っていた。でも、どこかで一発当ててやろうという考えがあって、それで今日まできたんじゃなかったか。競馬は宝くじじゃない。情報を集めて頭を使えば大方の予想がつく。今日、それを証明して見せた男がいた。
素直にこれは自分には何年かかったって無理だとわかった。半生をもって知った教訓がコレというのは惨めなのだろうか。だが、人が何と言おうとも、オレたちは今日とても気分がいい。人生最後の競馬がこんなにも爽快に迎えられたのだ。夏に馬を餓死させ、死んだ男に最後の弔いを、と思った。

売店でいつもの安酒と売れ残りのポップコーンを買って、スタンドに戻ろうとしたときだった。さっきの2人連れが競馬場から出てきた。何となく、2人がいい雰囲気だったので出そびれた。黒髪の上流階級の方の男が、スタンドではついぞ見せなかった柔らかい笑みを浮かべていたから、そう思ったしまったのだろうか。逡巡してる間に彼らは通り過ぎて行ってしまった。その際、彼らの会話をつい聞いてしまったのはあくまでも偶然である。
おっきな金髪の男は、黒髪に、「大佐」と呼びかけていたのだ。
そう、この東部で黒髪のあんな若い大佐は一人しかいない。焔の錬金術師だ。
「――――あれが、ロイ・マスタングか‥‥‥」
彼は、連れの金髪が馬券を買いに行っている間、面白いことを言っていた。

私は競馬で勝ったことがないんです。予想なら外しはしませんが、1本に絞るとどうも当りません。学生時代それでさんざん友人に笑われました。

薄ら寒いほどの優秀な頭脳をもった国軍大佐の、どうにも憎めない人間味溢れるエピソードだ。イシュバールを焼き払って、東部内乱を終結させた男。あのころ、オレたちは長引く泥沼の様相を見せてきた内乱にもう何でもいいから早く終わらせてくれと思っていた。これが終わるのなら、1つの民族ぐらい根絶やしにしてもいいだろう、と。
焔の錬金術師は悪魔と罵られることが多いが、あの男が救ったものは言葉にできないほど多く、大きい。焔の錬金術師は戦場にでれば女子供も関係なく焼く尽くした。残虐だと言うヤツに言ってやりたい。捕虜にされた人間の扱いを知っているかと。世の中には、死んだほうがマシだということがある。恐らく、イシュバール人の最後の誇りを守ったのはあの男なんだ。

そういえば、死んだあの男もイシュバール人だったか。


10

競馬場に隣接する公園にはもうすでに街灯が灯っていた。ここにはまだ競馬帰りの人間が興奮覚めやらずといった態でちらほらいたが、家路に帰る人たちが彼らの脇を冷ややかな一瞥を投げて、足早に通り過ぎて行く。郊外にある競馬場はその周囲を工場や倉庫に囲まれていた。競馬場を一歩外に出てしまえば、昼間っから博打に勢を出す者たちへの風当たりは当然のように強かった。

大佐はまだポップコーンを頭につけたまま、人の流れに逆らい、公園の水場に向かった。ちょっと、持ってろと言われて、ジャケットを投げ渡された。大佐は蛇口をひねって、勢いよく流れでた水の中に頭を突っ込んで髪の毛を洗う。その様子をオレは呆けたまま見ていたが、段々、腹に鉛を飲み込んでしまったような気分になってきた。
手の中の、181万8000センズがやけに重い。
大佐は濡れ髪を後ろに流すようにして絞り、濡れたシャツを脱いでオレが買った普通の、ただの2000センズのTシャツに袖を通したが、途方に暮れた様にもう大分日が暮れた空を仰いで、肩を落とした。
「ビール臭さが消えない‥‥‥」
日差しが落ちれば、一気に体感温度が下がる。少し大きかったTシャツが、大佐を寒そうに見せた。湿ったままのジャケットでも、まだましだろうと思って肩に掛けたら、大佐が眉を顰めた。ますますビール臭くなったのかもしれないが、特に文句はなかった。
唐突に、大佐がオレに右手を差し出した。
「?」
よく分かっていなかったオレに、大佐がオレの右手を握って、ああ、握手だったのか、と思った。
「おめでとう。よかったな」
「は?」
「万馬券」
「しまりのない顔が、ますますしまりがなくなっている。これにはまって馬にのめり込むなよ?こんなの稀なんだから」
「あー、うス。そおっスね」

「――――あー、大佐、怒んないスか?」
「誰が、誰に、何を、だ?」
「―――――大佐が、オレに、アンタを信じなかったこと」
「先にお前の信頼を裏切ったのは私だ。3度目はないと言うことがよく分かった」
どうしてこの人はこういうときに限って滅多にないほど優しげな顔を見せるのだろう。まるで、信じられなかったのはオレのせいじゃないって慰められてるような気がしてきた。こんななら、アンタを信じて一文無しになった方がマシだ。ぶつぶつ文句言って、アンタにたかる。いつものように‥‥‥‥‥。
重い沈黙に大佐がそろそろと口を開いた。
「――――お前、知っていたんじゃないのか?あー、ブレダに聞かなかったのか?」
大佐は少しバツが悪そうに言った。
「はあ?」
しばらく黙ったまま、オレを伺うように見上げてくる。
「知らないならいいんだ。うん」

翌日、朝一番にブレダを捕まえて大佐の仕官学校時代に築いたという競馬の武勇伝を知った。――――何故か、昔っから馬連なら完勝なのにわざわざ馬単1本に絞って競馬で勝ったことがない、ということを。
「なに、お前、大佐と競馬に行って一回しか勝てなかったのか?ありえねえだろ、それは」

それから大佐は2度と一緒に競馬に行ってくれなかった。
2005/8/22〜2005/8/30

続き的なものは「花も嵐も〜」に収録してます。