棒に当たる
その人が『ハボック』とたった一言声を上げれば、面倒なことが待ってると分かっていても、仕事がいつも以上に立て込んでてそれが随分久しぶりに感じる休日ですら、ほいほいと返上してしまって。――そして、やっぱり予想通り、貴重な休日に迎え入れられた家で面倒なことが待っていた。
その人は書斎と言うには無造作すぎて書架と言うには無秩序すぎる部屋のドアを開け放ち、オレを問答無用にぐいぐいと押し込んだ。
「お前がたまには窓を開けて換気をしろと言ったんだ」
本棚に収まりきらず床にまで本が溢れてる部屋。窓が開いてるのにカビ臭い。その部屋の大半の本が貴重な錬金術本として扱われてた頃の面影を見るも無残に失って濡れそぼっていた。すでに半乾きになって波打つ本もある。そのいくつかは確実にカビていた。この人のところに来なければ蝶よ花よと扱われる本だろうに…。
その人は胸を張って言う。
「お前の言うとおりにしてこんな惨劇になったのだから、お前がなんとかしろ」
つまり、この人はオレの言葉に気まぐれに従って、本の墓場になってる部屋の窓を開けた。慣れないことをしたから、窓は開けたら閉めるという根本的なことを忘れ、そのままにした。百歩譲って、仕事があまりに忙しくて家に帰る時間も満足に取れず閉められなかった、ということにしてもいい。一応、この人の護衛を勤めてるオレとしては、いつからかも分からず開けっぱなしになっていた窓から、雨風の侵入だけを許したことに感謝するべきなんだと思う。きっと。――まあ、原因が何であれ、この家を片付けるぐらいしてもいい。さっきの言葉は、こんなことお前にしか頼めないんだと聞こえなくもなかったから。頷くと、その人はカビ臭い部屋に一歩も入ることなく、もちろん手伝う素振りなど微塵も見せず、足音高くリビングに戻って行った。リビングのソファに寝っ転がって本を読もうとしていることなんか、疑う余地はない。でも、あの人にとっても久々の休日なのだから仕方ないんだ。たぶん。
作業の中断を宣言する声は、腐った本を手に取って一時間が経つ頃に下った。
「ハボック、クリームソーダ!」
なんでまたそんなものを。そう思いながらもどうにも無視できない気分でカビ臭い部屋を出てキッチンに向かう。でも、そこにはクリームソーダなんてものは見当たらなかった。だからちょっと買いに行って。家を出たときとなんら変わらないでソファでごろごろしてただろうその人にビンごと差し出した。
はい、クリームソーダですよ。どーぞ。家にないものをわざわざリクエストするなんて実にアンタらしいですね。
――わざわざ買いに行くオレもオレだけど…。でも、こんなオレに返ってきたのは労いの言葉なんかじゃなく、怪訝そうな眼差しだった。
「そんなことないだろう。お前に作らせようと思って必要なものは全部用意しておいたぞ」
非難のこもった視線と声。
え、本当に? マジでクリームソーダを作らせようってんですか。まあ、確かにうちの地方のルートビアは独特ですけど。オフクロはどうやって作ってたっけかなぁ。
また、素晴らしく手間の掛かるリクエストだった。かつての記憶を探ってると、その人がむくっとソファから上半身を起こした。
「はあ? ルートビアだと? 私はクリームソーダが飲みたいと言ったんだぞ」
はあ、クリームソーダですよね。
その人は手の中のビンに視線を落とし、まじまじと見る。ラベルにクリームソーダと確かに書かれたビンを。そして、更に怪訝そうな顔をした。それでやっとこの人がクリームソーダと言ってもこれじゃない方を要求してることに気が付いた。確かにこの家の冷蔵庫には見慣れないものがいくつか入っていた。バニラアイスに炭酸水、メロンシロップ。
ああ、なるほど。アンタが言ってんのは、ルートビアにクリームとバニラを入れたクリームソーダじゃなくて、メロンソーダフロートの方のかわいらしいクリームソーダね。
思わずそう言うと、一層、眉間の皴が深くなった。
必要とされればうれしくて。それが取るに足りない雑用であっても頼られたら俄然やる気が出ちまうし。そういうことなのだ、きっと。この人が雑用であってもオレじゃない誰かに頼んだとか後から知って、いろんな意味でがっくりと落ち込むぐらいなら、日頃から下僕のようにこき使われてぶちぶち言ってるぐらいでいいんだと思う。たぶん…。
まあ、こんな取り立ててなんていうこともない、オレのありきたりな一日。


これ読んでみろよと腐れ縁の同僚から手渡された新聞記事は、偶然にもその朝、ファルマンに興味深い記事を読みましたと渡されたものと同じ記事だった。
『大発見! 飼い猫の声に操られている飼い主!?』。
正直言って、その見出しを見た時点で、その先を読む気分じゃなくなった。だけど、ブレダは頼みもしないのに喋り始める。
――国立大学のある研究室の研究結果だってさ。興味深いだろう? 飼い猫がさ、なんか飼い主にしてほしいとき、意図的に低い声を出して飼い主の注意を引くんだとよ。猫の低い声がなんでも人間の赤ん坊の泣き声と周波数が似てるらしい。だから、飼い主はその猫の鳴き声に注意を引き起こされちまって餌を用意したり、ドアを開けたりしちまうんだとさ。挙句の上に、猫は飼い主が低い鳴き声に注意を引き付けると学習すると劇的にいろんな鳴き声を使い分けて誇張してよく使うようになるそうだ。ま、全ての飼い猫がそうなわけじゃないらしいがな。ははははっ! ハボック、これじゃあどっちが飼い主だか分からねえなぁ!
別にその研究の結果を知ったからといって、奴らが何を連想したからと言って、オレには関係ない。これは断じてあの人とオレの関係性を言ったものじゃない。あの人が『ハボック』と一言言うだけで、オレが休日返上であの人の家に行き、散らかった部屋を片付け、クリームソーダを買いに行っても…。
ブレダの高笑いが、このどこまでも落ち込んでいく気持ちに拍車をかけた。重い足を引きずりながら司令室のドアを潜ると、今日も果てしない量の仕事が待っていた。


それは三週間ぶりで訪れた完全な休日だった。次の休みがスケジュール通りに来ないことはもう骨身に染みて分かっている以上、時間があるときにするべきことはしとかなきゃならなかった。休日に何もしないでごろごろ過ごしたい。そんな風に思わないわけじゃないけど、それもまた才能がなければできないことにオレは薄々気が付いていた。トイレットペーパーに洗剤に保存食。必要なものの買出しに、掃除洗濯。取り立ててキレイ好きというわけじゃない。部屋を普通の状態に保っておこうと身体が動くのは、貧乏性だと笑われてももう性分だと半ば諦めていた。疲れた身体に鞭打って外に出る。あの人の怨念に応えるように重苦しく曇っていた空が鮮やかに晴れ上がっていた。
日差しが刻一刻と強くなって、アスファルトをじりじりと焼き付けていく。ただ歩くだけで乾くヒマもないほど汗が滲んだ。暑ぃ。今年の夏は例年になく気温が上がらなかった。もう夏らしい日も満足に来ないまま、秋になっちまうんじゃないかと思っていた矢先の夏日。キンキンに冷えたビールを飲みながら掃除する。休日の過ごし方としちゃそう悪くなかった。こんな日に机に張り付いてなきゃならないあの人に比べれば。どんなにバカにされても、普段の行いは大切なのだ。
暑さに誘われて予定外に少し遠くまで足を延ばす気になって、イーストシティ屈指の目抜き通りまでちょっと。人出も上々の賑わいの中に加わった。不審者も指名手配者もテロリストたちもいない平和な休日。犬を連れた老女。花束を片手に走っていく男。高級鞄屋のウィンドウを熱心に覗き込む女。この暑さに堪えてふらふらと歩く若い男。俯いて歩くから人とぶつかってはその度に小さく頭を下げて、また背中を丸めて俯いて歩き出す。額の汗を拭う度に乱れていく髪。着古したというより随分前にはいてそのままにしてた感じのよれよれのGパンとTシャツを着た、内向的で自信と金に無縁な……。
「――うそだろ…」
幻覚とか生霊とかじゃないのか。自分の見てるものが信じられなくて目を凝らす。でも、それは消えてなくなってはくれなかった。戦慄に身体が震えた。そのよれよれのGパンとTシャツに見覚えがあった。随分前にいつかあの人に着せようとあれこれ考えて買ってきて洗濯して干して畳んで、あの人のクローゼットの奥に片付けたヤツ。盗まれるなんてバカなことがあってたまるか。あの家にはずっと高価なものが無造作にごろごろ置かれてんだから。――じゃあ、あれを着てるあの男は、どんなにかけ離れて見えてもロイ・マスタングしかいない…。平和な休日が突如として平和じゃなくなった。
三週間ぶりの完全な休日なんだ。夜勤明けのオレがいそいそと帰り支度をして帰っていくのをあの人は机の上の山積みになった書類のすき間から実に恨みがましい視線で、見送ってくれたのだ。たった2時間前に…。司令室でうんうんと頭を唸らせて仕事に追われていなくちゃなんない人が、なんて気合の入った格好してサボりってんだろう。
見慣れた人の見慣れない姿が、いつもは狙撃の危険性が高いから絶対に歩かせない目抜き通りの真ん中をふらふらと歩いていく。その心臓に良くない姿を視界に留めながら、電話ボックスに駆け込んだ。

電話越しに聞いてもその声は、閉め切った灼熱の電話ボックスすらクールダウンさせる。
「あなたが帰ってからすぐ、ここしばらく根を詰めていた案件が土壇場でダメになったの。珍しくあの人が何も手に付かなくなるぐらい落ち込んでしまって。私はあの人にね、条件を出したのよ。誰にもばれないなら、しばらく、どこで、休憩しても構わないと。ハボック少尉」
「あー、なら、誰にもばれないと、お、思います…」
オレが分かったのは、今着てる服をオレが選んで買って洗濯したからなんです。そうじゃなかったら気が付かなかったと思います…。
「……………」
オレがあの人の家で洗濯したり掃除したりしてることなんてこの人にはもうバレてるんだろうけど、なんか気恥ずかしくて続けられなかった。
「あ、あの人の、いつものお得意のサボリだと思ったんです。公認されてるなんて思いもしなかったんです。だって、もし万が一でも休みの許可を貰っていたなら、あの人、絶対、休みのオレを呼び出して好き勝手扱うでしょう? オレに連絡してこないなんて考えられなくて…」
「……………」
「あ、あの、なんて言うか、便利使いされているのは自覚あるんですけどね」
沈黙がオレを雄弁にした。中尉が無言だと電話ボックスの気温が息苦しいまでに上がっていく。暑さだけが原因と思えない滝のように流れる汗を何度も拭った。
「……………」
「あ、あの……」
「――ハボック少尉、わかったわ…」
東方司令部の女帝が何を分かったのか、確認する勇気はなかった。ただいろいろまくし立てた自分の言葉に少し悲しくなって、ハイ、それだけを言って受話器を下ろした。

時折吹き付ける熱風に乱される髪。額に浮かぶ汗を乱暴に拭っては更にぐちゃぐちゃになって、整えもしない。いつも背中に棒を入れてるように真っ直ぐで揺るがない背中が見る影もなく丸まっていた。
正体がばれないように。そうホークアイ中尉と約束をしたからといって、あそこまで徹底した変装をする必要があるのか? いつもきっちりと軍服を着て、プライベートでもシャツにジャケットの人だ。TシャツとGパンを着るだけで十分な変装になってるのに?
人混みの中、ふらふらと歩く人はついには街灯にまでぶつかって頭を下げた。そんなロイ・マスタングを見てしまえば、公認のサボリであっても見なかったふりはできそうもなくて、距離を置いて後を追った。
着飾った女たち、長期休暇中の子ども、家族連れ、子ども連れの若い母親のグループ、学生、カップル、憲兵たち。その中をふらふらと歩いて行く。その内、ふらりと裏路地へ入って行った。数歩歩いては立ち止まり、きょろきょろと見回して。バレたかな。そう思ったのは一瞬だけだった。
その人は塀の上に姿を現した一匹のトラ猫を見て全身に喜色を浮かべて、いそいそと近寄った。そして、ポケットから一枚のビスケットを差し出す。猫は動かないでじっとその人を見ていた。あと一歩。あと一歩近寄ったら。――むき出しになった側溝にはまる。そう思った瞬間、その人はちゃんと側溝にはまった。片足だけですんだのは幸運だったろう…。猫はそれを見てから、何事もなかったように去って行った。
つれない猫の後姿を見送って。側溝にはまって泥まみれの片足を見て。あの人の肩が一層がっくりと落っこちた。
あの人は目的のためには手段を選ばない人だから、中尉が鬱陶しがって思わず休憩時間を与えてしまうほど、落ち込んで見せるなんて簡単にやってみせる。――でも、もしかして、あの人は本当に落ち込んでるんじゃないか。なんて思えて。
あの人は働く。忙しく働いている。それはここ東方司令部ではいつものことだった。時折、本当に忙しいのかと疑いたくなるようなことをしでかす人だったが、ひっきりなしに舞い込む書類で司令室が埋もれてしまわないことが、あの人がちゃんと働いていることを証明していた。直属の部下の一人であっても肉体労働要員のオレはあの人のしてる仕事の全貌を把握していない。積極的に求められなかったからしなかった。それを少し後悔する。今、あの人は何に追われているんだろう。何の仕事がだめになって、ああも落ち込んでいるんだろう。
あの人は歩く。背中を丸めて俯いて。それでも目的地があるようでふらふらとしながら迷いなくいくつもの路地を曲がった。跡を付けるのは簡単だった。乾いた地面にあの人の足跡がはっきりと残っていた。

次に顔が上がったのは感じのいいカフェの前でだった。開放感のあるオープンスペースには、多くの女性がいて、その大半は緑色のソーダにアイスを浮かべた飲み物を飲んでいた。以前、クリームソーダが飲みたいと言い出した原因はこの店を知ったことにあるのかもしれない。
その人はアプローチに一歩足を掛けたところで動きを止めた。後ろに点々と続いている自分の足跡にやっと気が付いて。磨かれたフローリングにゴミ一つ落ちてない店内を汚せないと思ったのかもしれない。その人は店内に入ろうとせず、店員を呼び止めた。自分の足元を指差し、いくつか言葉を交わす。クリームソーダを一つ。きっとそう言ったんじゃないか。店員が笑顔で頷いた。
カウンターの奥で透明のカップにメロンソーダが注がれる。では会計を。お決まりのフレーズあの人がポケットを探って、そこから出てきたのはたった一枚の硬貨だけだった。全部のポケットを探っても変わらない。あの人が困ったように俯いた。すみません。お金が足りなかったようなので…。店員も少し困り顔になった。でもすぐに笑顔に変わって、あの人のたった一枚しかない硬貨を受け取った。
あの人の前に出てきたのはアイスクリームの乗ってないメロンソーダフロートだった。店員はたった一枚の硬貨しか持ってなかったあの人に提案した。アイスクリーム代を差し引くということでどうでしょう。メロンソーダフロート、アイスクリームなし。それって一体どんなオーダーなんだよ! こんな笑えるオーダーでも、あの人は大切そうに受け取った。
カフェのひさしから出れば、強い日差しを受けてすぐに容器が滴る。透明な緑色のソーダを太陽に翳して、あの人がにこっと笑った。空を見上げて背筋が伸びて。アイスが乗ってないメロンソーダフロートでも、あの人は十分うれしそうだった。――でも、すぐにその背が丸まった。後ろからどんと押された勢いで、手の中の緑色の飲み物があの人に一口も飲まれる前に石畳の上に飛び散った。その先には青い軍人たちの群れ。
「ちょっと注意して歩きなさいよ! ここは天下の公道よ! 呆けて歩いていたら危ないじゃない!」
女性下士官が勢いよくまくし立てた。それを止めようとする取り巻きたち。でも彼女に強く出るものは一人もいない。彼女を知っていた。何回か飲みに行ったこともある。そもそも東方の軍人で彼女を知らないものは少ないだろう。気が強い美人として有名な歩兵部隊の下士官だ。もちろん彼女も東方方面軍に属する女性の多くがそうなように、マスタング大佐のファンだ。
「煩いわね! 下ろしたての軍服に掛かったわ!」
「やめろって。みんな、見てるから。キャッシー…」
「ふん! 私より背の低い男なんて男じゃないわ!」
キャッシー、よく見ろよ。それはお前が寝ても覚めても憧れてるマスタング大佐の仮のお姿なんだぜ?
その人はそんな暴言を吐く軍人を咎めるでもなく、自分の手からなくなったクリームソーダアイスなしをじっと見つめたまま、複数の軍人に囲まれても呆然と立ち尽くしていた。その姿にさすがのキャッシーも戦意喪失して去って行った。
そして、また歩きはじめる。とぼとぼと。今度行き着いた先は高台の公園に続く長い長い階段の前。それを見上げて大きく息を付いてから、一歩踏み出した。何度も立ち止まり汗を拭いてゆっくりと登っていく。日頃の運動不足を感じさせる重い足取りだった。


イーストシティを一望する展望台に立って、下から吹き上げる風を全身に受けて。視線は眼下に広がる街へ向けられていた。
何を思ってるんだろう。こんな散々な一日。でももうその後姿は落ち込んでるようには見えなかった。むしろ機嫌がいいようにすら思えた。
知らないことが多すぎる。日頃から下僕のようにこき使われてぶちぶち言ってるぐらいでいいんだと思って、当たり障りなく、現状維持で、このまま、ずるずると。でも、それじゃあ知らないことが多すぎるままだ。今、どんな顔をしてんだろう。何を思ってんのだろう。それを知りたいなら、一歩踏み出さなきゃならない。――それがこれっていうのは随分情けない気もするけど、効果は抜群だから…。
「わん」
――ぱっ、と振り返った黒い目がオレを見つけて驚いて、でも、予想通りの機嫌の良さですぐに笑顔が浮かんだ。オレが隣に並んでも変わらない。風に煽られっぱなしで乱れたままの髪を丁寧に数回撫で付ければ、たったそれだけでぐちゃぐちゃ加減は収まった。
「つけていたのか?」
せっかくの休みになんてヒマなことを。心底呆れた声が、この人が何を思ってるかしっかりと教えてくれた。
「あー、まあ、そういうわけでもないんスけどね…」
「何か面白いネタでもあったか?」
はじめはちょっとした好奇心で。秘密の臭いを嗅ぎ取って、ちょっとした弱みでも握れれば、なんて考えが全くなかったわけでもない。
「よれよれのTシャツとGパンなんか着て、背中丸めて俯いて歩いて、街灯にまでぶつかって、しかも謝ってたり。猫にいいように扱われて側溝にはまったとか、クリームソーダをアイスなしで買ったりとか、キャッシーの暴言とか。そんなのは別に何のスクープでもないですよ。ええ」
たぶん、こんなのはスクープじゃない。
「…………」
うんざりした顔。開きかけた口がのっそりと閉じられ、きゅっと引かれた。見る見るうちに眉間に皴が寄ってくる。
「何の仕事がダメになったんですか?」
「…………」
「大佐?」
ぷいとそっぽを向かれても、黙って待った。
風が吹き抜けていく。高台に吹く風は強くて、汗ばんだ身体にただ気持ちが良かった。

「生活にゆとりがないんだ。だから、キャッシーはああも荒んだもの言いをしてしまった」
「東方司令部は激務ですからね」
「そうだな。――つまり、彼女に暴言を吐かせてしまったのは私のせいでもある。しかし、喫茶店の店員は所持金が足りなかった私を邪険に扱わず、機転を利かし妥協案を示してくれた」
「アイスクリームなしのクリームソーダですね」
「アイスクリームフロートアイスクリームなしだ」
一瞬、視線が絡んだ。でも、そんなのもうどっちだって良くって、肩を竦めた。
「彼らは生活にゆとりがあるんだ。忙しくとも労働に見合う対価を受け、充実して働いている」
「オレたちが日々骨身を惜しまず働いてますから」
難しい言葉をよく知っているな。えらいぞ。
飼い犬を撫でるように頭を撫でられる。いつもそれが嫌な気持ちにならないことが問題だった。
「そうだ。彼らが安心して働けるように私たちは日々治安維持に留意し、彼らが働いただけ報われるように努めている。彼らが強かであっても優しくいられるのは私たちの功績とも言える」
上手くいくこともあれば、上手くいかないこともある。ただそれだけだ。
真っ直ぐで揺るがない視線が前を向いて語る。
――無数にある仕事の中の一つがダメになったところで落ち込んだりはしない。そういうことなのかもしれない。この人は案外真面目なところがあって。街に出れば、そこで生活する人たちの明るさを肌で感じることができる。東部復興は確実に進んでいた。もしかしたら、この人はそれが知りたくなってこんな格好で街をふらふら歩いてたのかもしれない。きっと、この人のこういう分かりにくい真面目さこそがスクープだ。

んー! 両手を上げて、太陽に向かって大きく伸びる。ポキっと間接が鳴ってしまったことに笑いを堪えた。日頃、背中を丸めない人が、背中を丸めて歩くのもなかなか大変なのかもしれない。
「暑さが堪えました?」
「――ああ。せっかく手に入れた時間なのだから、もっと涼しければよかったのに」
「それが日頃の行いってやつですよ」
オレはこんなに暑くてラッキーだと思いましたもん。
その一言に、明るい笑い声が上がった。
「さあ、ハボック。いつものように馬車馬の如く働こうか」
はい。さりげなく言われた言葉にいつものように頷いてしまって、今度は大爆笑された。お前、本当に学習しないなあ。その一言でオレは司令部行きが決定し休日はまたしても返上となってしまったことに気が付いた…。
こちらもハボロイオンリーのアンソロジーに載せていただきました。
これは難産だったんデス…
たくさん迷惑を掛けたので忘れられません!