01
いつものように仕事を家に持ち帰り、悪態を付きつつ書斎で地道に書類と向き合っていた最中の電話だった。ああ、いつものあれかと、気分転換を兼ねてここはひとつ罵ってやろうと腰を上げた。しかし、それは思いもしなかった相手からの電話だった。
彼女にとっては十分深夜である時間帯であることや、まだ3歳にも満たない少女に電話がかけられるのかと疑問に思えば、受話器からグレイシアの穏やかな声が聞こえてきた。――ロイくんはパパより忙しいのよ? ほら、はやく言わないと。急かされてエリシアはう〜んう〜んと一頻り唸ってから、あのねと切り出した。
「――ロイ…、エリシアのこと、好き?」
もちろん、君がヒューズの娘であるという最大の短所を鑑みても! 私は包み隠さず彼女に本心を伝えた。
「大好きだよ、エリシア」
「じゃあ、チョコ、待ってるからね!」
「………………」
チョコ? ――ああ、確か今日から2月だったか。
電話口からは伝えたいことを伝えられたらしいエリシアがさっさとグレイシアに受話器を渡したようだった。受話器が拾う小さな絹擦れ音やパタパタという足音がヒューズ家の今の様子を教えてくれた。
「突然、ごめんなさいね。ロイくん」
「やあ、グレイシア、どうしたんだい?」
いつもいっつも時と場所を考えないでかかってくる喧しい電話のことを思えば、今日のこの突然の電話はうれしいサプライズ以外の何ものでもないよ。
「全てはマースが悪いのだけどね。2月になったものだから、早速エリシアにヴァレンタインチョコをねだったの。そうしたら、エリシアもチョコがほしいって言い出しちゃってね。でも、マースがヴァレンタインデーは女性が好きな男性にチョコを送る日なんだよって言うものだから、エリシアが自分はチョコをもらえないって拗ねてしまって…」
――どうして、それが私にチョコレートをねだることになるんだい?
「泣き始めちゃったエリシアにマースが、好きな人に日頃の気持ちを込めて渡すチョコもあったな、なんて言ったものだから、エリシアがじゃあロイくんに電話するって電話を抱えちゃったのね」
クスクスと優しい笑い声。確かに微笑ましいエピソードではあるが、私としては何か腑に落ちない…。
思わず口を噤んだ私の些細ながらも明白な困惑は、グレイシアの、あら、お湯が沸いたわという呟きにきれいさっぱり無視され、よろしくねの一言と共に電話は切れた。
唐突にかかってきて、唐突に切れる電話はヒューズ一家に共通して見られる傾向である。
「チョコレート、ねえ……」
貰ってばかりだったチョコレートを図らずも渡す立場になってしまった。――ならば、一人の女性だけに贈るのではなく日頃の感謝を込めて愛すべき女性たち全員に無数のチョコを贈るのも一興かもしれない。思わず素敵なヴァレンタインデーになりそうな予感に頬が緩んだ。そう。この私が美しき女性たちにチョコレートを贈るのならば、世界一美味しいチョコレートしかあるまい。ああ、大変だ!
私は女性を喜ばせることに至上の感慨を抱くのだ。
翌日、忙しい仕事の合間に監視の目を欺いて抜け出し、市内のスイーツが美味しいと評判のカフェに市場調査に向かった。
迎え入れてくれた顔馴染みのウェイトレスのお嬢さんは笑みを湛えて、人目に付かない内庭に面した明るい日差しが差し込む席に案内してくれた。いつものでよろしいでしょうか、マスタング大佐? その軽やかで明るい声は冷たい風が吹き荒ぶ灰色の市内とは一転し、すでに手の届きそうな場所まで春が訪れていることを教えてくれた。自然に顔がほころんだ。
「今日はもう1つ注文があるんだ」
あら、と見開かれる大きなブラウンの目。甘いミルクチョコレート色の瞳だ。かわいらしい。
「チョコレート好きのお嬢さんを。――質問がね、あるんだ」
ちょっと時間があったら、私の席に来てくれるかな? そう頼むと、ピンク色のチークをのせた頬が赤みを増した。
数分もしない内に、彼女はいつものオススメのケーキが複数個のった大皿を片手に、コーヒーと紅茶と厨房に置かれているだろう大型のサーバーをもう片手に持って訪れた。その後ろにはトレーに大量のカップをのせたウェイトレスのお嬢さんが数人続く。別のお嬢さんは私が座っている周囲のテーブルを片付け、椅子だけを使えるように場所を整えはじめた。また別のお嬢さんはパーテンションを用意し、店内を大きく区切ってしまった。そして、その手に好みの飲み物をいれたカップを携え、おのおの椅子に座り、さあどうぞ何でも質問なさって下さいとばかりに、私に視線を向けた。
整えられた席には、カフェのウェイトレスのお嬢さんたちだけでなく、近所のパン屋さんで働くお嬢さんたちや、お惣菜屋さんで働くお嬢さんまでもいた…。仕事中じゃないのかい? その言葉は寸前のところで飲み込んだ。私もまた、彼女たち同様に仕事中のほんの僅かな休憩時間にここにいるのだから。貴重な時間である。早速本題に入った。
「えーっと、世界一美味しいチョコレートを探しているんだ。君たちはどんなチョコレートが美味しいと思うかい?」
「チョコレート、ですか?」
「そう。友人の娘にヴァレンタインデーのチョコレートをねだられてしまってね。――たまには、男性から女性にプレゼントするチョコレートがあってもいいと思わないかい? 日頃の感謝を込めて、ね」
ヴァレンタインデーに私からチョコレートを受け取ってくれるかいとにこやかに尋ねれば、皆一様に目を輝かせて頷いてくれた。そうだとも。もともとチョコレートに関心が高いのは野郎どもよりも女性なのだ。貰ったチョコレートの価値のわからず、甘いとしか感想を言えない奴らに高級チョコレートを渡すなんて滑稽は話だろう。
「――世界一のチョコレート…」
自分がチョコを貰えると分かると、彼女たちは真剣に熱い議論を繰り広げた。デルレイ、アメディ、ワコウ…。有名ブランドの名前が次々に挙げられる。私は夢中になってチョコレートに思いを馳せる彼女たちの姿を眺めながら、幸せな気分でパンプディングを食べ始めた。
それは熱く長い会議となった。誰一人として居眠りするようなことはなく、結論を出さんとするためにいろいろな角度から話し合われた。しかし、会議が盛り上がれば盛り上がるほど、彼女たちに比べ根本的にチョコレートの知識量が乏しい私の発言の機会は少なくなり、私の存在感はどんどん薄れて行った。
私の口は言葉を紡ぐよりも大皿に用意されたケーキ全てを食べることに集中し、1Lほどコーヒーを飲んだ頃、積極的に会議に参加することを早々に諦めていた私をお嬢さんたちが一斉に振り返った。どうやら、結論が出たらしい。彼女たちの顔には一様に満足感と達成感に彩られていた。
「――マスタング大佐、世界一のチョコレートは個人の好みがあるのでこれといったものを挙げるのは難しいと思います」
なるほど。個人の好み。私は頷いた。確かに誰にとっても自分の好きなものが一番だろう。
「世界一美味しいと感じるのは、主観的な要素が大きいと思うんです」
そうだね。好みというなら主観的要素が大きな意味を成す。私は更に頷いた。
「でも、主観的に、誰にとっても、世界一美味しいチョコレートはあると思います」
ほう。それは興味深い。やはり、チョコレートのことは女性に尋ねるのが一番だ。私は自分の判断に十分満足し、その結論を求めた。
「つまり、それは何かな?」
「――手作りチョコです。マスタング大佐が愛情と時間と手間をかけて作ってくれたチョコレートならば、誰にとっても世界一美味しいチョコレートになるでしょう!」
そう結論付けた彼女たちの次なる議題はどのようなチョコレートが良いかに移っていく。スタンダードに型抜きチョコから、トリュフ、焼き菓子とさまざまだった…。
既に手遅れなほど話題に取り残された感のある私は、その熱い話し合いに口を挟むタイミングを完全に失っていた。
「――君たちは、もうすぐ三十路になろうという、男の、手作りチョコレートが本当に美味しいと言うのかい…?」
私の困惑に満ちた呟きは彼女たちの耳に届きはしなかった。窓から差し込む日差しは既に翳り、私に今が冬であることを思い出させていた。
02
我々の活動は全て密やかに行わなければならない。
我々の活動は全て速やかに行わなければならない。
この東部にはこの国で最も忌むべき男が存在している。いや、悪魔と言ってもいいだろう。数年前に中央から送り込まれてきたのだ。そいつはこの東部で女という女を自分の手先にしようとし、そのための尽力を惜しまなかった。その結果、そいつの前で女どもは自分を保っていられなくなってしまった。女たちはそいつが招集すれば、いつでもどこでもお構いなく行ってしまう。仕事をしていようがしていまいが関係なかった。
そして、2月。女が男に愛を込めてチョコレートを渡すという重要なイベントを前に、再びそいつは活発に動き出した。自分の仕掛けた洗脳が女たちにしっかり効いているのか確認するために。今年も俺たちが貰うべくチョコレートを奪っていく気なのだ。何てことだ! 何てことだ!
この時期になるといかなる場所にもいる多数の同士たちはそいつの動向をいつにも増して注意深くチェックする。女たちの目を覚ます鍵を探して。
もう何回目になるか分からない会合で同士115号が重要な情報を入手してきた。
「今年、奴は自分でチョコレートを手作りして女たちに渡すようです」
「―――奴が、女たちに、か?」
「同士145号がそう確かに聞いたと…」
我々は困惑した。いつもは女たちからチョコレートを徴収していくそいつが、今年は女たちにチョコレートを渡すとは…。
動揺を隠しきれず、場がざわめいた。
「これは一体どういうことなのでしょうか?」
「悪魔のような頭の切れを持つ男だ。何か考えがあってのことに違いない…」
「我々の活動に気が付いたということは…?」
「我々の活動に対しての牽制か!」
「いやいや、待て。それは軽率な判断かもしれないぞ…」
我々はどうするべきか。結論は出なかった。情報がまだ絶対的に足りなかったのだ。我々は圧倒的多数の同士に伝達し、引き続き奴の行動を見張ることにした。
03
チョコレート。それはカカオ豆を焙煎しすり潰してできるカカオマスを材料に糖分やミルクを加えることで作られる。また、口溶けをより良くするためにカカオバターを増量することもある。カカオバターとは、カカオマスの脂肪分のことだ。
チョコレート作りにはチョコレートならではのレシピがあり、特に温度管理はとても重要な行程になる。
その材料は至ってシンプルだが、不思議に人の好みを左右する食べ物。あの店のチョコレートは好きだが、この店のチョコレートはいまいち好みに合わない。そんなことを語り合ってしまうこともしばしばだ。何故、どの店のチョコレートも材料にこれといった大きな差がないのに、そのような好みが生じてしまうのだろうか?
チョコレートを手作りすることになり、私は一通りチョコレートのレシピについて調べてみた。が、その量たるや!
私一人でチョコレートを手作りすることは不可能に近いだろうと判断するのに時間は掛からなかった。私の料理作りのスキルはからきしなのである。
私は、料理において最も信頼を置いている、部下とだけ言うにはやや逸脱した関係にある男を執務室に呼びつけた。
奴ならば、私の手となり足となり、私の求める理想通りのチョコレートを作ることができるだろう。私はそう確信している。私が美味しいと感じる理想のチョコレート、それは口溶けの良いミルクチョコレートである。
奴はのっそりとノックと共にドアを開けて入ってきた。だが、いつ見ても眠そうな垂れた目には明らかに面倒臭いことには巻き込まれないとした警戒の色が浮かんでいた。
「―――ちょっと今、日誌書いてたんスけど。なんスか」
その目は、自分を陥れようとするものはないかと、素早く部屋の中を見渡し、そして一点で止まった。机の上の、職務とは無関係なピンク色の表紙の一冊の本の上で。また、無理難題を言う気か。オレは絶対その手には乗らない。オレは絶対その本に載ってるようなチョコは作らない。そう、その青い瞳は雄弁に語った。
確かに私はお前にチョコレートを作らせようと考えている。確かにそれは無理難題なのかもしれない。だが、私はそれをお前一人に任せて作らせるつもりはない。例え結果としてそうなったとしても、今この時点で全くそんな考えはない。
しかし、ハボックは私の言葉を待たずして口を開いた。先手必勝とでも言うかのように。
「アンタがお願いって言うなら、ヴァレンタインデーにチョコレートケーキ焼いてもいいっスけど。でも、チョコはアンタが用意して下さいね。だって、ヴァレンタインデーなんスから」
「…………………………」
ハボック、ヴァレンタインデーには、私のためにチョコレートケーキを焼いてね。はい、これが私からのプレゼント。チョコレートケーキ用のチョコレートだけど…。ハボックが求めたヴァレンタインデーの一幕を思い浮かべて、心に木枯らしが吹き抜けた。寒い。そして、乏しい。
以前はヴァレンタインデーといえば、奴は数日前から私の動向をちらちら窺ってはチョコくれるかなオーラを発し、周囲に鬱陶しがられて結局こそこそと自分で用意したチョコレートケーキやチョコレートプリン、ブラウニーを持ってきたのに。自分で作ったのかと驚いて尋ねれば、アンタ、こういうの好きそうなんで本見て作ってみました、味は保証できないっスけどとはにかみながら言った、私のかわいい犬はどこへ行ってしまったのだろう…。
「ハボック…」
「なんスか?」
断りもなく机の上のチョコレートの本を手に取ったハボックは、それをぱらぱらとめくる。その初々しさを全く感じられない態度に大きなため息を漏らすと、ハボックは音をたてて本を閉じた。
「オレに作らせようとしてんのは分かってますよ。それはもう十分すぎるほど。でも、こういうチョコは、絶対、店で売ってるやつ食った方がうまいし。手作りなんて無駄なことは止めましょう、大佐」
「…………………………」
街のお嬢さんたちは店で売っているチョコレートより手作りのチョコレートの方が美味しいと言った。世界一美味しいチョコレートは誰が作ったのかということが最も重要であると、言った。店で売っているチョコレートが美味しくないとは言わないが、手作りチョコレートを作ろうとすることは決して無駄なことではないだろう? 私はお前の作ったチョコレートケーキもチョコレートプリンもブラウニーも、チョコレートクッキーもチョコレートスフレもチョコレートドーナツも、店で売っているものとはまた違って、どれもとても美味しいと思って食べたぞ。それは無駄なことではないだろう?
しかし、ハボックの顔にはこの部屋に入ってきたときから浮かぶ頑なな拒絶の色は変わることはなかった。
「ハボック。私が確認したいのは一点だけだ。お前はこの本に載っているチョコレートを作る技術はないのか?」
「やってやれないことはないと思いますけど…」
「どっちだ」
「―――したくないっス…」
「じゃあ、お前などに用はない。退出してよし!」
「はあ、ありがとうございます」
長閑な金色の頭をぽりぽりと掻きつつ、ハボックは退出していった。そのしょぼついた猫背に、手作りを無駄だと言ったお前には私が作った手作りチョコレートを欠片たりともやるまいと、心に誓った。
しかし、これで最も当てにした助力が得られないという結果に至った。これで私のチョコレート計画は振り出しに戻ったも同然だった。いや、後進と言えるかもしれない。どの道、この計画を遂行する手立てはもういくつも残っていないのが現状である。
東部に赴任して一月も経たない内に、資料室で見つけ、司令室へスカウトしたファルマン准尉。その豊富な知識量は実に得がたいものだ。このような部下の能力を上手く引き出してこそ優れた上司と言うものだろう。
私は執務室へ訪れたファルマン准尉に助力を求めた。
准尉は私の限りなく私事に近いことでも、簡単な経緯を話すだけで快く引き受けてくれた。私は准尉に簡単で誰にでもできるだろう、美味しいチョコレートの作り方のレシピをピックアップしてもらった。
私が見つけてきた本に書かれたレシピよりも手順が4割ほど減ったレシピを准尉は一時間もしないで用意してくれた。確かに、以前よりまだ作ってみようという気持ちにもなる。だが、まだ一人で作るには些か不安が募った。
私は今日一日の仕事をあらかた終わらせ、明日の予定を確認に執務室へ訪れたホークアイに助力を求めた。
彼女はことの経緯を話すと、司令部を脱走したくだりで眉を片方跳ね上げたが、協力を約束してくれた。彼女は私同様に、ヴァレンタインデーにチョコレートを受け取るのは野郎どもより、女性の方が相応しいと思っているため、共感を得られたのだろうと思う。
「では、大佐、私は具体的には何をしたら良いのでしょうか?」
「ファルマン准尉にレシピを用意してもらった。これを見て、私に指示を出してほしいんだ。チョコレートは一人でレシピを見ながらのんびりと作れるようなものではないのでね」
「本当に大佐がご自身でお作りになるのですか?」
「そうだ」
「…………………………」
街の女性たちは私の手作りのチョコレートこそ、世界一美味しいチョコレートだと言ってくれた。その期待に少しでも応えたいじゃないか。
ホークアイは手渡したレシピを一瞥して、彼女には珍しく躊躇しながら言った。
「―――大佐、料理に慣れたハボック少尉に協力を求めるのはいかがでしょうか?」
そう。確かに奴は私たちよりもはるかに料理に慣れている。だが、私は売り言葉に買い言葉に似たやり取りで、奴の助力は求めないと決めてしまった…。
「―――もう打診したが、奴はしたくないんだそうだ」
「少尉がそう言ったのですか?」
「ああ」
「…………………………」
奴の協力なしで我々だけで作ろうとするのはやはり無理があるだろうか? 俄かに不安になってきた。しかし、彼女は私の不安を払拭するかのように力強く頷いた。
「分かりました。では、私がお手伝いさせていただきます」
それでこそさすが私の副官、リザ・ホークアイ中尉だ。彼女の協力があれば、大総統になるのも、チョコレートを作るのも大したことではない気がしてくる。
必要な調理器具と材料はファルマン准尉が業者に注文して揃えてくれた。その日の内に自宅へ届けられた大量の荷物を目の当たりにして、私はこれだけの道具を使いこなさなくてならない現実を思い知った。そして、全ての荷物の梱包を解いていくことにすら、終わりなく果てしないように感じ、チョコレート作りに対し早々に心が挫きはじめるのを自覚した。
それでも、明日になったらホークアイが手伝いに来てくれる。その時まだ梱包も解いていなかったら、それを解くことを手伝ってもらうことになり、実際にチョコレートを作る工程を一人でしなくてはならない。私は気持ちを奮い立たせた。
鍋に複数の大きさの違うボウル。計量計、温度計、名前の知らない料理器具たち…。ファルマンのレシピには、まずこれらを洗剤で洗い、しっかりと乾かすところから書かれていた。
04
大佐がヴァレンタインデーのためのチョコレートを手作りするから手伝ってくれないかと言った。それを行うことになった経緯と共に、たったそれだけを言うのに、逡巡を経て心底困ったように言うから、思わず分かりましたと言ってしまった。
自慢ではないが生まれてから1度もチョコレートを手作りしようともしたいとも思ったこともない私は、ようはこの人が脱線や逸脱しないように見張っていれば良いことなのだと自分の役割を理解した。しかし、手渡されたファルマン准尉が調べたという手書きのレシピを見てたじろいだ。初見の意味不明な単語をいくつも見つけて。
大佐は言う。このレシピを見て指示を出してほしい、と。確かにこの紙を読み上げるだけなら私にもできるでしょう。しかし、それで本当にここに書かれたものができるのかは不明だ。
「―――大佐、料理に慣れたハボック少尉に協力を求めるのはいかがでしょうか?」
それが最も無難な選択に思えた。少尉は大佐の命令で、チョコレートケーキやら何やらをしばしば作らされていることは周知の事実である。
「―――もう打診したが、奴はしたくないんだそうだ」
「少尉がそう言ったのですか?」
「ああ」
「…………………………」
まあ、確かに、自分で作ったヴァレンタインデーのチョコレートを大佐から貰うなんていうのはハボック少尉の心境を思えば複雑でしょう。しかも、そのチョコレートが、自分という恋人がいるにも関わらず、人気取りのために女性に配るチョコレートの1枚なら尚一層のこと…。
「分かりました。では、私がお手伝いさせていただきます」
同僚への同情と、大佐が何かしらしでかさないように監視の意味合いもかねて、私は大佐への協力を約束した。
「大佐、チョコレートは温度が大切だそうです」
「む。――温度か。わかった」
先ほどまでぶ厚く大きいだけの塊だったチョコレートは随分硬かったようで、相当量を包丁で刻むのに想定外の時間がかかった。大佐はすでに悪戦苦闘し、窮地に陥っていると言えなくもない。
大佐は漸く刻み終えたチョコレートをボウルに入れた。
「湯せんをしてチョコレートを溶かしてください。――直火にかけてはいけないとファルマン准尉のメモには書かれています」
「わかった。湯せんといえば、鍋に沸かした湯に付けて溶かすというアレだな。うん」
大佐はダイニングテーブルの上に置かれていた大きな鍋を抱えてシンクに下ろし、蛇口を捻って溢れるほど水を入れた。そして、それを両手で抱えるようにして持ち上げコンロにのせたが、その鍋は予想以上に重かったらしく、よたついて勢いを付けて波打った水がこぼれ、大佐を頭から濡らした。
コンロに火を入れると、その鍋の水が沸騰するまでしばらく手が空く。ファルマン准尉のメモには、この間にも行うべきことがちゃんと書かれていた。
「水を入れたボウルを用意してください。これは、チョコレートが融けた後、湯せんをしたボウルを冷ますために使います。それから、テンパリングを行います。」
「テンパリング?」
テンパリング。私は頷いた。何故なら准尉の書いたメモにはそうとしか書かれていなかったのだから。頷く以外に何を言うことができるというのか。
「これさえマスターすれば、チョコレートで失敗することはないそうです」
「ふうん。重要な工程というわけか…」
あなたも、私も、テンパリングという工程が具体的に何をすることなのか、どの工程を指すのか分かっていない。にも関わらず、作業は進められた。
沸騰しつつある鍋に、大佐は待ちきれなくて刻んだチョコレートの入ったボウルを置いた。ファルマン准尉が道具全てを業者に発注したというだけあり、ボウルは鍋の縁よりも大きく、ボウルに湯や湯気が入り込まないようになっていた。メモにはチョコレートを融かすときに湯気や湯が入ってしまわないように注意書きがされていた。
――チョコレートがすぐに解けはじめる。
「あ、大佐。60度の湯せんだそうです」
「そういうことはもっと早く言いたまえ! 温度計は!」
大佐は鍋の前でボウルとゴムべらで両手が塞がっていた。
私はダイニングテーブルの上に無造作に置かれていた温度計を鍋の中に突っ込んだ。――奇跡的に適温だった。視線で求められるまま、コンロの火を止める。
「気泡が入らないように静かに混ぜるそうですよ」
「わ、わかった!」
いよいよ重要な工程に入り、切羽詰ってきた大佐は慌てて、ゆるんできたチョコレートを勢いよくかき混ぜた。
「あ」
気泡が入る。そう思ったが、既に気泡は大量に生じはじめていたため、私は敢えて何も言わなかった。
大佐のチョコレート作りは終始このような感じだった。
それでも、なんとか最終工程までクリアし、茶色の固形物が出来上がった。見た目は十分チョコレートだ。クーベルチョコレートに砂糖とミルク、カカオバター、少々のバニラエッセンスを入れただけなのだから、それほど見た目が変わるものではないでしょう。大佐は危惧されたチョコレートを焦がすような大きな失敗などはしなかった。
しかし、味見をしてみればプロが作るチョコレートとは明らかに違っていた。大佐も恐る恐る味見をして、見る見るうちに肩を落とした。大佐が作りたいと言った、口溶けのよいチョコレートとはほど遠い仕上がりだった。
「難しいですね。できるにはできましたが…」
でも、チョコレートであることは間違いない。誰が食べたとしても何の味がするかと問われれば、誰もが間違いなくチョコレートと言うでしょう。
「……………………」
「大佐?」
あなたが作ったにしたら十分上出来なのではないですか? これをもらった街の女の子は喜色満面を浮かべるでしょう。確かにこれは十分チョコレートなのですから。
大佐の顔は浮かない。自分が作ったチョコレートを手に、じっと見つめて。街の女性に配ると公言してきたからにはもう少し美味しく作りたい。そんな表情だった。
「――もうちょっと研究してみるよ。錬金術は台所から生まれたと言われているんだ。錬金術師が料理の一つもできないなんて悔しいじゃないか」
「お手伝いしましょうか?」
「ありがとう、ホークアイ。―――そうだな。少し自分一人で練習して、もう少し見込みが立ってから頼もうかな」
「分かりました」
「君にも貰って欲しいから、是非とも美味しいチョコレートを作りたいんだよ」
「ありがとうございます」
普段、料理をすることがない、不器用な人が頑張って作ろうとするチョコレートだ。ちゃんと食べれるレベルで出来上がったことだけで十分だと思えたが、珍しく向上心を見せたこの人のやる気に水を指すことを言うことは控えた。
しかし、日に日にチョコレート臭を身体にまとわり付かせて、う〜んう〜ん唸り、重要書類にまでチョコレートについての落書きをしだすほど悩みが尽きない姿を見ると些か心配に駆られた。軍服の所々についているチョコレートも哀れさを誘う。
そして、私以上に心配そうな顔をして大佐の様子を窺う同僚が一人。彼は一度大佐の助力を断った以上、口をはさみにくい立場にいることは明白だった。
「――ハボック少尉」
日常の業務の中で、いつものように呼びかけた。
「はい?」
「……………………」
そして、いつもとは異なり、言葉に詰まらせ、じっと見上げる。考えている風を装うために小さく首を傾げた。
「中尉?」
「―――そうだったわ。これはあの人の私事に過ぎないことなのよね。しかも、あなたは1回したくないと言って断っていると聞いたわ。ごめんなさい。別な人に頼むわ」
そう言って、踵を返した。背後でハボック少尉の困惑を強く感じ、彼の興味を十分に煽れたことを確信した。
05
チョコレートは口溶けだと思う。それは何で決まるのか。
「―――カカオバターだ。しかし、カカオバターをたくさん入れれば口溶けが良くなるというものではない…」
それは既に試作してみた。どれほどカカオバターを入れても艶が出なかったり、口の上でとろけたりはしなかった。
「チョコレートは60℃の湯せんにかけて、43〜45℃の温度で溶かした後、27℃に下げて少し固まらせて、29℃で緩め、再び固まらせる。安定した状態で再び固まらせる…」
何故、チョコレート作りではこれほどまでに28℃前後の温度に拘るのか。――カカオバターの融点が28℃だからだ。ならば、その理屈は簡単だ。これはなじみ深いものと似ている。
「そう。結晶化の工程だ。カカオバターを安定した状態で固まらせようとしている。―――チョコレート中で均一に固まったカカオバターこそが、口溶けをよくしているのだ!」
カカオバターを均一化することを念頭におければ良いのだ。私は糸口を見つけた。これは料理と言うよりも、化学実験に似ている!
私はついに美味しいチョコレートの作り方の理論を自分なりに導くことができた。そして、シンプルで限られた材料の配合と温度調節によって食感に差が生まれるからこそ、チョコレートに好みが生じるのではないかと素人なりに結論に達した。
今日も深夜、誰もが寝静まる時間に実験材料であるクーベルチョコレートを刻み始める。それはいつまで経っても硬く、まるで私に調理されるのを拒んでいるように思えた。
街の女性は言った。私が作ったチョコレートは世界一美味しいチョコレートになると。ハボックは言った。店で売っているチョコレートの方が断然美味しい。無駄なことは止めましょうと。
また鍋が沸騰してきた。
06
一日のうちで最も忙しいデスクワークの時間に、あの人はあまりに気安くオレを呼び出した。本当に、デスクワークに苦労をしない人間はこういうことを何も考えないで軽々しく行う。ペンを握ってから字を見るまでに時間がかかるオレにとっては死活問題にも等しいのに。
「―――ちょっと今、日誌書いてたんスけど。なんスか」
しかも部屋に行けば、やっぱり業務とは関係ないことで呼び出されたことを知った。あの人の机の上には仕事に関係があるとは全く思えない本が堂々と置いてあって。でもそれはチョコの本で、しかも今は2月で…。
大佐がオレにチョコを作らせる気満々なのは一瞬で分かった。確かにオレは大佐のおかげでクッキーもケーキもプリンも作れてしまう。だけど、チョコはそういうのとはまた違った知識とかが必要になってくるもので、ケーキを焼くようにチョコは作れない。時間と集中力と手間もかかる。ちゃんとした道具も必要だった。適当に作ってちゃんとしたものが作れることは万に一つもない。
「アンタがお願いって言うなら、ヴァレンタインデーにチョコレートケーキ焼いてもいいっスけど。でも、チョコはアンタが用意して下さいね。だって、ヴァレンタインデーなんスから」
チョコレートケーキなら適当に作ってもそれなりに美味しくできることは今までの経験から知ってしまった。しかも、それほど手間も時間をかけずに作れる。
確か2年前、まだ大佐との関係も甘く初々しかった頃、ヴァレンタインデーにチョコを渡そうとしたことがあった。でも、黄色い歓声をあげる女の子の群れをかき分けてレジまで向かうことは、地雷原を行くよりもある意味心臓に悪く、この2月にオレのような大男が買える、大佐が好きそうなチョコのお店はどこにもなかった。それでも、やっぱり大佐にチョコと渡したかったオレは製菓店でチョコの塊を買った。チョコの本と一緒に。
この本は見覚えがある。本屋で小難しそうだから、触りもしなかった本だ。ちょっと懐かしくなってページをめくって見てもやっぱり、ちっとも頭に入ってこない。
「ハボック…」
「なんスか?」
大きなため息。ため息を付きたいのはこっちだった。よりにもよって、こんな高級志向のチョコの本なんか。せめて、ティーン向けの初めて作る手作りチョコの本とかなら何とかなったかもしれないのに。しかし、この人がこの本を選んだと言うことは子どもだましのチョコじゃなくて、本格志向のチョコが食べたいと言っていることで…。
「オレに作らせようとしてんのは分かってますよ。それはもう十分すぎるほど。でも、こういうチョコは、絶対、店で売ってるやつ食った方がうまいし。手作りなんて無駄なことは止めましょう、大佐」
クッキーもケーキも、まあこんなもんかなというレベルまで作れても、チョコだけはどうにもならなかった苦い記憶が蘇る。こんなになってまで夜中に何やってんだろうと我に返った思い出…。料理のできない大佐はそういうことは良く分かっていないようで、眉間に皺が盛大によった。
「ハボック。私が確認したいのは一点だけだ。お前はこの本に載っているチョコレートを作る技術はないのか?」
「やってやれないことはないと思いますけど…」
味の保証がなくていいなら。
「どっちだ」
「―――したくないっス…」
だって、すっごく難しいし、時間も手間もかかる。
「じゃあ、お前などに用はない。退出してよし!」
「はあ、ありがとうございます」
オレがチョコをつくらないと言うと大佐は珍しく簡単にオレを開放してくれた。
大佐はその後ファルマンやホークアイ中尉に声をかけて、助けを求めていたようだった。この料理とは無縁な2人に声をかけたということはなんと言うか、大佐の呼び出しはオレへの嫌がらせだけではなかったのかもしれない。でも、気が付けば、さっきのは何の用事だったのか聞くに聞けなくなってしまっていた。
そして、日に日に、やつれはじめたあの人から甘いにおいが漂い始める。明らかにチョコレートのにおい…。そして、ホークアイ中尉と話し合い、ファルマンが何かしら本を2人に渡し、3人で顔を突き合わせて話し始める。そんな機会が目に見えて増えていった。
あの人はチョコレートを作っている。しかも、今の時期なら間違いなくヴァレンタインのチョコレートだ。手作りの、手間ヒマかかったチョコレートを、わざわざオレのために…。
大佐はあの日から冷たかった。オレと目が合おうものなら、司令室中に聞こえるぐらい大きな舌打ちをしたり、でもそんなのはまだまだ序の口だった。その内、オレだけイレギュラーなミーティングに呼ばれなかったりとか、イスが外に投げ捨てられていたりとか、存在そのものを無視されはじめて…。―――でも、そんな仕打ちを受けても、来るべき日のためにオレはいろいろ耐えるべきなのだ。あの人が頑張って慣れない手付きでチョコを作っている。そんで、上手くいかなくてイラついているのはオレのせいとも言えなくもないのだから。
そう思ってもオレはいても立ってもいられなくなって、至る所で話してしまった。
「大佐、チョコ作ってるみたいなんだ」
しかも、オレのために!
「――ハボック少尉」
日常の業務の中で、いつものように呼びかけられた。
「はい?」
「……………………」
そして、いつもとは異なり、ホークアイ中尉は言葉を詰まらせ、オレをじっと見上げた。オレに言っていいものか考え、少し首を傾げる。
「中尉?」
「そうだったわ。これはあの人の私事に過ぎないことなのよね。しかも、あなたは1回したくないと言って断っていると聞いたわ。ごめんなさい。別な人に頼むわ」
そう言って、オレを取り残して、遠ざかって行く背中…。
深夜に、むしろ早朝に近い時間に、大佐の家の庭に忍び込んで、キッチンの窓からこっそりと中を覗き込んだ。たった数日この家に入っていなかっただけなのに、キッチンは元の状態を思い出せないほど荒れていた。茶色に。
案の定、キッチンには煌々と明かりが灯られていて、大佐が、火のかかった鍋の前でブツブツ何か言いながら、鍋をかき混ぜている。ホラーだ。不吉だ。何か新たな兵器を思いついて作っているに違いない。そう思っているうちに、大佐が慌しく動き出した。ダイニングテーブルの上はボウルが2つ。その内の1つを片手に、もう片方の手にはゴムベラを持って、じっと鍋に引っ掛けられた温度計を見つめる。
大佐はちゃんと本の手順通りにチョコを作っていた。このキッチンの汚れ具合からすると夜な夜なずっと。オレが作らないと言ったから、あの人は自分で作ろうなんて考えたんだ。なんて無謀なんだろう…。
片手でボウルを持った大佐はゴムベラをもった手で温度計を触り、その熱さにびっくりして手に持っていたもの全てを落としてしまった。ボウルから刻んだチョコが床に飛び散った。
それを見て言葉もなく呆然と立ち尽くす大佐。その肩は落ち込み、体全身でしょげ返っていた。近年まれに見る大佐のしょんぼりとした姿…。しかし、大佐は諦めなかった。すぐさま顔を上げ、ダイニングテーブルに戻り、でっかいチョコの塊を刻み始めたのだ。床の掃除など手につけず。その白い手はチョコで茶色になっていても所々赤くなっていて、小さな火傷がたくさんあることを教えた。オレの売り言葉に買い言葉で、大佐にこんなに頑張らせてしまうなんて。オレは窓の外からそんな大佐をただ見ているなんてできなくなった。オレにくれるチョコなら、オレがちゃんと作りますから!
「大佐!」
思いを込めて、思い切りキッチンの窓を叩いたら、大佐がまた驚いて、チョコの塊だけでなく、自分の指までざっくり切って、悲鳴を上げた。
07
我々の活動は全て密やかに行わなければならない。
我々の活動は全て速やかに行わなければならない。
今年のそいつはいつもと違った。いつも2月となれば、女たちからいかにチョコレートを一枚でも多く徴収するか考えあぐねているそいつは、今年は自ら女たちにチョコレートを配って歩くというのだ。しかも、手作りチョコを、だ。
もう何回目になるか分からない会合で同士184号が重要な情報を入手してきた。
「奴は夜な夜なチョコを作っているそうです。同士165号によると、かなり確かな筋がそう話していたと…」
我々は混乱した。まだヴァレンタインデーまでは日がある。なのに、今から女たちに配るチョコを作っているとは。
「――奴は一体何人の女に配る気なんだ…」
「奴は何を目論んでいるのでしょうか…」
奴が作ったチョコを女たちが受け取ることで、今後我々にどのような影響を及ぼすことになるのか。我々は長く話し合った。
しかし、話し合いは平行を辿り、結論はまだまだ遠かった。
「このままでは我々は何もできずにヴァレンタインデーを迎え、奴の思い通りにことが運んでしまう…」
重苦しい沈黙に、同士228号が言った。
「―――チョコを受け取らないように呼びかけましょう…」
「奴の作ったチョコを、女たちが、か?」
「そうです!」
「……………」
確かにそうすれば、奴がどれほどたくさんチョコを作ったとしても意味はなくなる。そして、そのチョコを食べた女たちがどう変わってしまうのか危惧する必要もなくなる…。
これ以上ないほどの妙案に場がざわついた。
「そうしましょう! 奴がわざわざ手作りまでしたチョコを女たち誰一人受け取らない! なんて清々する話でしょう!」
「それは、一理ある…」
「一理ある! 一理ある!」
場はこれ以上ないほど盛り上がった。
じゃあ具体的にどうするか。同士162号が言った。
「奴の作ったチョコレートは身体に悪いとか何とか書いたビラを街中に撒きましょう! とにかくたくさん撒きましょう!」
「賛成だ!」
「人体に甚大なる影響をもたらすチョコレートだと言いふらしましょう!」
「賛成だ!」
我々は奴の計画を失敗させるために、街中に紙ふぶきのように撒くビラを作り始めた。
08
油断した。いや、集中しすぎていた。でなければ、窓に張り付いて部屋を覗かれていたことに気が付かなかったなんて考えられない…。
熱いだろうと思った、鍋の湯の温度を測る温度計は予想以上に熱されていた。心の準備ができていなかった私は迂闊にもその温度計だけを手放すことができず、温度計もろども手に持っていた全てを手放してしまった。なので、当然、折角刻んだクーベルチョコレートが入ったボウルも物理的法則に則り、床へ転がった。無残にも足元に散らばる茶色の細かいクーベルチョコレート…。ああ、何てことだ。クーベルチョコレートはもう私に刻まれることはおろか、融かされることも厭んでいるというのか。
チョコレートは語る言葉をもっていなかったが、私へ何かを雄弁に伝える術はもっていた。
私はまたクーベルチョコレートの塊に挑む。これ以上この私に逆らうと言うのなら、私にも考えがあるぞ。しかし、いくら脅しても、依然としてチョコレートは硬いままだった。これはもう意地と意地とのぶつかり合いだ。どちらかが根をあげるまでの。―――久々の好敵手。そう思い、勢い良く包丁を振り上げた瞬間だった。
ダンッ、と部屋全体を揺らすかのような大きな打撃音が響いた。
はっとして顔を上げれば、正面の出窓に顔を張り付ける不審者。身体に力が入った。もちろん、包丁を持った右手にも、チョコレートを押さえていた左手にも。
そう。この世界に生きている限り、この世の法則からは逃れられない。振り上げた包丁はいつまでも振り上がったままではなく、いつかは下りてくる。もちろん私の握った包丁も、そこに私の指があろうがお構いなく下りてくる。
金属のひんやりとした感触が肉から伝わり、思わず大声をあげた。
「大佐!」
不審者は大声を上げた。ここが東方司令官であり国軍大佐でありかつ焔の錬金術師である私の家であることを知って覗きを働いていたのか! 睨みつける前に、不審者はすぐさま窓から離れ去った。
途端に静寂が戻ってくる。庭に忍び込んだ不審者を追いかけるなり、通報するなりすることは山のようにあったが、それをする気力はテーブルの上に広がる血液の量を前に萎んでいった。またチョコレートを一から刻み直さなくてはならない。
大きなため息が出た。休憩が必要であることを強く意識すると、さっきの不審者の声は聞き慣れたもののように思えた。ハボック。しかし、奴はこの家の合鍵を持っている。何故にキッチンの窓から覗くようなことをするのだろうか。―――決まっている。私の無様な研究成果を笑いに来たのだろう。
私のチョコレートの理論は最早完璧とも言えた。だが、それを実行するに足りる根本的な能力に私は欠いていた。それは料理技術うんぬんの問題ではない。簡単な日常生活中での注意力だった。
窓の外をうかがい見ても、そに人影らしきものはもうなかった。奴は私の失敗を見て、しかも指を切って悲鳴を上げるところまで見て、十分満足して帰ったのだろう。くそっ、いままでの奴への嫌がらせではまだまだ温かったということか。そして、やはり手作りチョコレートは調理ではなく、錬金術で作った方が私らしくかつ確実なのか…。
これから挑むべく好敵手、硬いチョコレートの塊をじっと見つめていると、勝手口が賑やかに開き、ハボックが飛び込んできた。血相を変えて、このチョコレート塗れのキッチンに。
「大佐! 手!」
できるだけ、床に広がったチョコレートを踏まないようにピョコピョコとジャンプしながら、近づいてくる。外はよほど寒かったのだろう。その顔は赤くなっていた。
私は一体いつから覗かれていたのだろう…。
「―――お前、こんな時間に何をしているんだ。合鍵持っている家を覗いて楽しいか?」
寒さを堪えてまで覗いて、楽しかったか?
ハボックは私の言葉を無視して、チョコレートと血液塗れ手を取った。太く硬い指が私の指の根元を押さえ、止血する。
「ちょっとすっげえぱっくり切ってる。これって縫わなきゃダメなんじゃないっスか?」
「朝まで止まらなかったら、医務室で縫ってもらおう。何しにきた? 私を驚かせるためだと言ったら、目的は成就したんだ。さっさと帰りたまえ」
犬は犬小屋に、な!
「驚かせてしまって、その、すんません…」
「……………………」
ハボックはその猫背をさらに丸め、ぼそぼそと小さな声で謝った。
「反省してます。アンタ、いつだってオレへの嫌がらせ欠かさないから……」
「……………………」
空いたもう片方の手が所在無くさ迷い、ぽりぽりと見た目にも軽そうな頭を掻いた。
「オレ、手伝いますよ。なんかできることありますか? って、まあ、いろいろあると思うんスけどね。何からしたらいいっスか?」
「手伝ってくれるのか?」
確かに、私はお前への嫌がらせは欠かしたことはないぞ。お前に非があろうがなかろうが。なのに、それでも、こんな私を手伝ってくれると言うのか…?
「ええ、まあ、はい」
もう一度すんませんと私に謝って、頭を下げる男。何を反省することがあるのか、私にはよく分からなかったが、反省したいというなら私は止めはしまい。―――分からないことばかりだ。何故、こんなにもこいつを愛おしく思えるのか、全然ちっとも分からない…。鼻の奥がつんと痛んだ。
「―――ハボックっ!」
「はい?」
私を見つめる、温かな色が浮かんだ青い瞳を見ていられなくて俯いた。目に入ってくるのはチョコレートで汚れたキッチンの床。いつもハボックがテリトリーとしているここは数日前まではこの家で最もきれいだったのに。
「もっと早く来るべきだろう…」
「そうっスね。すんません」
頭上から降り注ぐ声もまた春の日差しのように穏やかで温かく、かちんこちんに硬く固まった私の心をゆっくりと解かしていった。
しかして、当初の予定通りハボックを手足のように使い、私の完璧な理論の下に数多くのチョコレートを完成させた。チョコレートを刻み、テンパリングし、かつ成形したのはハボックだが、それは仕方がないことなのだ。何しろ私は負傷してしまったのだから。
09
2月14日。あの人がイーストシティに左遷されてきた時から、この日の主役は決まっていたと言っても過言ではないだろう。まあ、それもこの軍事国家において、仕方がないことだ。あの人の外面とか性格について言及することはさておき、あの若さであの階級だ。これでもてなかったら身も蓋もない。夢も希望もない。
俺は、複雑で迷走した出口の見えない恋心をこれまた複雑怪奇な相手に抱いている同期の腐れ縁とは違って、この日を冷静に迎えることができた。全くチョコをもらえないというわけじゃないこともあって。大佐の近くにいる身として、程々に街の女たちに顔が売れている俺は毎年まあまあチョコを貰う。もちろん義理チョコもあるが、本命チョコだってある。ブレダさん、今日、ヴァレンタインデーでしょう? このチョコレート、マスタング大佐に渡してもらえますか? よろしかったらみなさんで食べてくださいね。―――あと、このチョコレートはブレダさんに…。マスタング大佐をだしにして、そっと手渡される手作りの本命チョコ。本気であの大佐に入れ込むほど、東部の女は甘くはない。例え入れ込んだとしても一時のことだ。あの人は女たちにとって行き着くところ一種の偶像に過ぎないのだろう。
今日は少しだけいつもより早起きして、いつもより時間をかけて身支度を整える。些細なことであるが、これが俺なりの2月14日という日に挑む心構えだ。―――しかし、今年はいつもとは様相が異なった。大佐が今年はチョコを貰うだけに甘んじるのではなく、配る側にも挑戦すると言う…。今頃、司令室にはハボックが大佐の家で合宿までして作った大量のチョコが運び込まれているはずだろう。
「大佐がさあ、街の女の子たちに日頃の感謝を込めてチョコレート配るんだって…」
そう肩を落として、いつもよりずっとしょぼくれた顔で、ハボックが言っていた。グスと鼻を啜りながら。
おろしたての青も眩しい制服を着て、いつもより背筋を伸ばしわざわざ人通りの多い市街地を選んで司令部へ向かう。街中には俺と同じように今日だけは遠回りをする軍人の姿が目立っていた。奴らは、かわいコちゃんがいるカフェをちらちら横目で見ながら、わざとらしくゆっくりと歩いたり立ち止まったりして、司令部に向かう。しかし結局誰にも声も掛けられない厳しい現実に直面するだけなのだが。
日差しは明るく、2月といえどもその陽気は温かい。今日という日に相応しく。――なのに、突然、日が翳り、見上げた空一面から大粒の雪が降ってきた。途端に周囲から上がる歓声…。一瞬、空を覆い、見る見る内に足元に折り重なっていく、紙という紙。振り返れば背後にも、まるで雪が降り積もったかのような同じ光景が広がっていた。
足元の一枚摘み上げれば、それはただの白い紙ではなく…。
「―――ブレダ少尉!」
顔見知りの下士官たちが紙を手に走り寄って来る。
この大量の紙が撒かれたと思しき、立ち並ぶ建物の上階を見上げても、人影らしきものは見当たらなかった。いや、もう人混みに紛れてしまったといっても良いだろう。こんな大量のビラを一斉にばら撒くのだ。数人でできる作業ではない。思想系のテロの可能性がある。
しかし、そう頭で判断しても、そこに書かれている内容を読めば、これで非常に打撃を受けるだろう見慣れた顔を思い出して、はっきりとやる気が削がれた。
「何種類あるんだ?」
視界に入る野郎も女も一般人も軍人も全員、ビラを数枚手に取りそれを読んでいた。それはもう興味深そうに。
「こればら撒いた奴ら、見たか?」
頷く奴はいなかった。しかし、これだけの枚数だ。紙の入手経路を探ってみれば誰の気の利いた嫌がらせか明らかになってしまうだろう。大通りを白く変えるほどの大量の紙だった。俺は笑い出したい気持ちを抑えて、司令部へ急いだ。
執務室には、大型の段ボール箱5個に、金にものを言わせたであろう華やかな包装がかかったチョコがぎっしりと入って置かれていた。それを前にして、腕を組み、できたてのほやほやだと胸を張るハボック。そんなハボックを満足そうに見る大佐と、そんな大佐を微笑ましそうに見るホークアイ中尉。そして、大佐がこれから配るだろう女のリストの最終確認に余念がないファルマン。
俺は今朝の、たった今行われた出来事を大佐に報告した。現物である一掴みの紙と共に。4人がそれぞれ手に取って読み始める。一枚一枚目を通していく毎に、大佐の達成感に満ち溢れた笑顔がどんどん萎んで、渋い顔になっていった。
ホークアイ中尉がビラを見ながら、普段と変わらない声色で容赦なく言った。
「チョコレートを配るのは自粛する方が良いのではありませんか?」
誰が何の意図を持ってこのようなことをしたか分からない以上、今回は自粛するのが最善ではありませんか?
確かにこのビラにはヴァレンタインデーというイベントにチョコを介在させないようにする意図が読み取れる。しかし、ここ、この東方方面軍司令部司令官の執務室においては、大佐がハボックに作らせたチョコを街で配らないことを意味していた。
「中尉、せっかく、美味しく作れたのに…」
煮え切らない大佐の態度に、ホークアイ中尉がビラを声に出して読みはじめた。
「『あなたは健康に興味を持っていますか? もしそうならば、チョコレートを食べるときは注意が必要です。チョコレートには多量のトランス脂肪酸という物質が含まれているため、不用意にチョコレートを食べると、免疫力の低下やアレルギーの悪化、成長阻害を起こしてしまうことが考えられます。脳梗塞や認知症の原因にもなってしまうことが考えられます。ご注意ください。ヴァレンタインデーにはチョコレートではなく愛を受け取りましょう!』だそうです、大佐」
我々を納得させるだけの反論をさあどうぞ、とばかりのホークアイ中尉。
「――チョコレートには確かにトランス脂肪酸が含まれているものもある。事実だ。だが、トランス脂肪酸とは何か? それは水素を添加して硬化したマーガリンやショートニングを製造する過程で生じる不飽和脂肪酸のことだ。植物由来のものには微量にしか含まれていない。ゆえに、私が作ったチョコレートには入る余地がない。カカオマスと砂糖とミルク、そしてカカオバターしか含まれていないのだぞ」
「……………………」
隣でファルマンが確かにと頷いた。しかし、中尉の表情は変わらず、整えられた指先が別の紙に伸びる。
「そ、それに、統計的に言えば、チョコレートを摂取している地域の方が有意に脳梗塞や認知症は少ないぞ。むしろチョコレートは健康に良いんだ」
「こういうのもありますね。『あなたは喘息ではありませんか? もしもあなたが喘息ならば、チョコレートを食べるときは注意が必要です。チョコレートにはテオブロミンという物質が含まれているため、不用意にチョコレートを食べると喘息の症状を悪化させてしまうことが考えられます。吐き気や頭痛などの症状が表れることも考えられます。ご注意ください。ヴァレンタインデーにはチョコレートではなく愛を受け取りましょう!』だそうです。大佐」
「テ、テオブロミンはそもそも血管拡張薬として気管支喘息の治療に使われている物質だぞ。これはおそらく多量に摂取することになるから注意が必要だと意味しているのかも知れないが…」
「……………………」
「チョコレートを摂取して、薬効が有意に変化するなんて統計は見たことがない。たぶん…」
「『あなたはアレルギーをお持ちですか? ダストアレルギー、花粉アレルギー、食品アレルギー…。アレルギーは今や数多く存在しています。そんな方はチョコレートを食べるときは注意が必要です。チョコレートにはチラミンという物質が含まれているため、不用意にチョコレートを食べるとアレルギー症状を悪化させてしまうことが考えられます。ご注意ください。ヴァレンタインデーにはチョコレートではなく愛を受け取りましょう!』」
「チ、チ、チラミンは血管収縮を起こし、効果が切れたら急激に血管拡張を促す働きがあることは確かだ。アレルギー症状は主に血管性浮腫のことを言うから、それを助長すると言えなくもない、のかな…」
「『あなたはピアスをした耳の周りやベルトの金具があたる部分が荒れたことはありませんか? もし心当たりあるなら、あなたは金属アレルギーの可能性があります。そんな方はチョコレートを食べるときは注意が必要です。チョコレートにはニッケルという金属が含まれているため、不用意にチョコレートを食べると金属アレルギーを悪化させてしまうことが考えられます。ご注意ください。ヴァレンタインデーにはチョコレートではなく愛を受け取りましょう!』」
「ニ、ニニニ、ニッケルは確かに含有している、と思ったが…。しかし、他にも含有している食品は数多く存在する!」
「『あなたはカフェインという物質を知っていますか? それは神経に作用し、精神を興奮させることが知られています。多量に摂取すると神経発達に影響があります。そのカフェインがチョコレートに含まれていることをご存知でしょうか? 不用意にチョコレートを食べることは危険です。十分に注意してください。ヴァレンタインデーにはチョコレートではなく愛を受け取りましょう!』」
「それを言うなら、カフェインだけでなく、テオブロミンもまた神経に直接働きかける物質だ。これらの物質の影響が明らかで有意なのは神経がまだ未発達な子どもに限る。―――君たちは一体一日にどれほどのコーヒーを摂取しているんだ!?」
「……………………」
ホークアイ中尉の怒涛の攻撃に、受け手一方の大佐。さすがに今日ばかりは、とにかくチョコを配り歩きたい一心の大佐の言葉に心動かされるものは誰一人としていなかった。しかし、大佐は頑張った。
「確かにチョコレートを食べて、喘息を悪化させたり、アレルギー症状を悪化させたりする例は全くゼロとは言えないだろう。ヴァレンタインデーの翌日はチョコレートが原因だと思われる、気管支喘息発作や蕁麻疹、嘔吐、下痢等の症状を訴えるものはいる。だが、いいか。我々は一体いつからチョコレートを食べているというんだ。チョコレートの安全性は我々が長い時間を掛けて、我々自身の人体によって証明してきただろう? チョコレートは安全な食べ物だ」
「……………………」
「何でも節度と言うものは必要だよ。食べすぎは何であれ体に悪い。これはそういうレベルのことに過ぎない」
「……………………」
そうかもしれないが、こういうチョコの危険性に言及した紙がばら撒かれたその日に、東方司令官がチョコをばら撒くのはいかがなものか。お前が節度をわきまえろという中尉の視線に、我関せずでそっぽを向いて煙草をふかすハボック。何をどう思っているのかいまいち不明な糸目のファルマン。そして、大佐ががっくりするならそれは実に面白い見せ物になると考えている俺。つまり、この場に大佐に援護射撃をするような気の利かない奴は誰一人としていなかった。
沈黙の中、執務室に時計の秒針の音だけがやけに大きく響く。
「は、ははは…。賢明なる女性たちはこのような出所もはっきりしないビラに書かれたことなど信じはしないよ。うん…」
「大佐、やはり、自粛するのが良いのではありませんか?」
ホークアイ中尉の最後通告が大佐に重く圧し掛かった。
ふらりと傾く、肩章に輝く三つの星。しかし、今日ばかりはその自慢の星もくすんで見えた。
待ってましたとばかりに、そんな姿、アンタには似合いません、とか何とか小さく呟いて、今にも床に這いつくばってしまいそうなほどショックを受けた人の、たくさん星ののった肩を支えたのはハボックだった。崩れ落ちそうなその肩を正面からがしっと掴んで。
「―――大佐、オレが全部貰いますよ。オレが作りましたけど、これは確かにアンタの手作りチョコだと言えなくもないです。そんな微妙なチョコ、オレが他の奴になんて渡しません。くれてやったりなんかしません。オレが一年かけて全部食べますからっ…!」
大佐とハボックの関係を知っていれば、その言葉はある程度妥当なものだと言える。もちろん、賢明な俺はどっちがどっちにチョコを渡すかなんて考えることはしない。
視界の中でホークアイ中尉が重々しく頷いていた。
なのに、大佐は眉間に皺を寄せて、お前はダメだと首を横に振った。そのつれない一言に、ハボックが、何でっ!と叫んで、力任せに大佐を前後に揺らす。黒い髪がばっさばっさと乱れた。
「なんでっスか?! まだ、はじめっから手伝わなかったこと根に持ってんスかっ!」
自分を容赦なく揺らし続けるハボックの太い二の腕を切羽詰ったようにばしばしと叩いて、何とか止めさると、大佐は何事もなかったかのように髪の乱れを直し、体勢を整えてから口を開いた。
「ちがう。お前はテオブロミンの処理速度が遅いんだ。こんな大量のチョコレートを食べたら中毒死してしまうだろう」
作為的に、苦笑ともつかない笑顔でハボックを見上げる大佐…。はっとして息を詰め、目を見開くハボック………。
「大佐。―――そんなのオレ知りませんでした…」
「そうだろう。しかし、私が知っているから大丈夫だ。ハボック、お前はその気持ちだけで十分だ」
「大佐!」
ハボックは人目も憚らず、大佐をぎゅううっと抱きしめた。
大佐はハボックを咎めることなく、むしろ慰めるように自分に抱きついたその猫背をぽんぽんとあやした。その手付きはまるで飼い犬を慰めている以外の何ものにも見えなかった。
「テオブロミンって、おい、ファルマン…」
「一般に犬などの小動物は肝臓におけるテオブロミンの代謝速度が遅いと言われています。なので、小型犬で50g程度、中型犬で400g程度のチョコレートを摂取させると中毒を起こし、消化不良や脱水症状、過度の興奮、心拍数の低下などの症状を引き起こします。場合によってはそれだけに留まらず、中毒死してしまうことがあるそうです」
「……………」
ハボックは感極まったように上擦った声で、大佐っ!と叫び続けていた。
朝礼の時間が近づき、踵を返したホークアイ中尉に習い、俺もファルマンも執務室を後にした。
結局、そのチョコは誰の言葉も聞く耳を持たない大佐がハボックに担がせて強引に街まで持って行った。しかし、大佐が一人ずつ女性に声をかけてもそのチョコの引き取り手は一人として現れなかった。女性はみんな一様に笑顔で大佐の愛だけを受け取ったのだった。そして、行き場を失ったその大量のチョコは、セントラルのヒューズ中佐の家へ贈られることとなった。
2月14日の早朝にあのビラを大量に撒いた奴らは、後日犯行声明を出し、あれはれっきとした大佐を標的としたテロであることが判明した。しかし、軍部は完全なる初動調査の遅れによってそのテログループの足取りを全く掴むことができなかった…。
10
我々の活動は全て密やかに行わなければならない。
我々の活動は全て速やかに行わなければならない。
かくして、ビラはばら撒かれた。
計画が決まったときから圧倒的人数を誇る我が同士たちによってほんの僅かずつ職場などからかき集められた大量の紙は、何の躊躇もなく、2月14日の朝、イーストシティの空を舞った。賽は投げられた。ルビコン川はもうすでに渡ってしまったのだ。我々は静かにその時を待った。ロイ・マスタングの泣き面に蜂が刺す、その時を…!
同士213号は目撃した。
「確かに見ました! 3丁目の角のパン屋のエリーにチョコを渡そうとしていました! 掌ぐらいの大きさの赤い包装紙に金のリボンがかかった包みです! エリーは満面の笑顔でチョコを受け取りませんでした!」
同士076号は目撃した。
「確かに見ました! 大通りの花屋の隣のカフェのキャサリンにチョコを渡そうとしていました! ハートの形のチョコです! キャサリンは満面の笑顔でチョコを受け取りませんでした!」
同士155号は目撃した。
「確かに見ました! 司令部裏の弁当屋のマージにチョコを渡そうとしていました! 赤いハート型のチョコです! マージは満面の笑顔でチョコを受け取りませんでした!」
打ち上げも兼ねた、もう何回目になるか分からない会合を待たずして、同士からの報告が矢継ぎ早に入る。我々はこの作戦の手ごたえをひしひしと感じていた。
奴は部下に運転させた車に大きなダンボール箱を5つほど詰め込み、イーストシティ中を走り回っては女たちに声を駆け回った。だが、そのダンボール箱の中身は一向に減ることなく、ロイ・マスタングは明らかに意気消沈していたと、確かな目撃証言が夜半過ぎに我々の元にもたらされた。目的は達せられたのだ。――なんて清々する話なのだろう!
我々の活動は密やかに速やかに行われる。我々の活動はあまりに完璧であるため、犯行声明文を告知しなくてはその行動を認知され難い。最大にして唯一とも言える我々の問題点である。
今回も完璧な活動だった。東部の女たちは誰一人として奴の作ったチョコを受け取りはしなかった。しかし、我々同士の誰一人として女たちからチョコを受け取ったものもいなかったが…。敵は相変わらず手強い。
我々は、日常の塵も積もれば山となる小さな不幸を天誅として下す弱者の集い。れっきとしたテロ組織である。