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東方司令部の最奥へ続く廊下を歩きながら、顔見知りにも顔見知りでない者にももれなく挨拶を交わして、ドアを開いた。予想としては、一日の内で最も気分がだれる三時過ぎだから、きっと親友は逃走していて不在のはずだ。でもって、上司不在の司令室では上司の悪口で盛り上がっているに違いない。その哀れな上司の、無二の親友である俺としては、そんな態度の部下たちに活を入れるべきだろう。――さあ、今回はどんな風にいじめてやろうか、そんなことをいつものように考えていた。

「オイ!野郎どもっ、待たせたなっ!!」
「―――、………」
 ゆっくりと顔だけを動かして俺を見て、無言で机の上の書類に向かう精気の失われた目という目。俺の予想通りロイは不在だった。が、俺の予想に反して司令室の中は静かだった。むしろ妙な緊張感すらある。全員が席に座り、顔を青くして黙々と書類を片付けていた。
「オイオイオイ、お前ら、なに屍みたいな顔をしてんだよ」
 ちょっと、びびっちまったじゃねーか!気を取り直して、いつにもないほど静かな司令室に足を踏み入れてもやはり誰も口を開かなし、顔を上げもしなかった。
「ええーっと、ハボック、ホークアイは?」
「――中尉は出張っス…」
 ぼそぼそと暗い声で返事が返ってきた。
中尉もロイもいない、さあサボれと言う状況下で黙々と仕事をしている面々。なんか道に落ちていたものでも食っちまったのかもしれない。
「んじゃ、ロイは?」
「―――さあ…」
 ハボックはこの司令室の中で最も顔を青くしていた。いや、最早青いと言うより土気色と言ってもいいだろう。そして、落ち着くなくカタカタと足を揺らしている。
「さあって、何だよ。オイ…」
 ハボックは忙しなく額に浮かぶ汗を拭った。しかし、拭っても拭っても汗は滝のよ
うに流れ続ける。
「お前ら、おかしいぜ。何かあったのか?」
 注意深く周囲を見回せば、誰も彼も似たり寄ったりな有様で、誰も俺と視線を合わ
せようとしなかった。

―――この息苦しい沈黙を破ったのは、思いつめた目をしたブレダだった。
「ヒューズ中佐は悪魔の存在を信じますか?」
 予想外なことが続いて思わず目を見張ると、聞いてほしいことがあるんですと静かに話を切り出された。

    +++

 いつものように大佐が逃走したのは深夜十二時を過ぎていました。俺たちは書き上げた書類を大佐に押し付けるべく、いつものように文句を言いながらトンズラした大佐を探していました。しかし、これがちっとも見つかりません。大佐のお気に入りのサボり場所にはたったいままでいた痕跡は残っていても、その本人の影も形もないのです。
 今思えば、ホークアイ中尉が出張中だったことが大佐の遊び心に拍車をかけた気がします。増えることはあっても減りはしない書類の山を見続けることに心底飽きた大佐は、トンズラこいた大佐を探しに来た俺たち相手に一方的に追いかけっこして遊んでいるようでした。それでも、俺たちは二時間近く大佐を探して追いかけました。――が、何と言ったところで腐っても大佐です。そう簡単には捕まってくれません。俺たちは一度司令室に戻って本格的に大佐を捕獲するべく作戦を立てることにしました。
東方司令部内の詳細が描かれた地図を見ながら、どこから捜索するか熱く議論していました。真剣に話し合えば合うほど、馬鹿馬鹿しくなってきて、――そんな時、大佐の机の上の書類の上に置かれていた一冊の本に目が向いたんです。その本のタイトルは『悪魔召喚術』でした…。

    +++

 フュリーに入れてこさせたお茶を啜りながら、ロイが机の引き出しの奥に隠している取っておきのソース味の濡れせんべいを齧りながら話を聞いていた。さすがに大佐さまのお茶菓子は美味い。
「――それで、本当に悪魔を召喚しちまったとか言うんじゃねえだろうな?」
 眉唾物だぜと思いながらも、笑いを堪えて言った言葉に、ブレダが厳かに頷いた。
「さすがヒューズ中佐。話が速くて助かります。―――それが本当なんです。ハボックが踏みつけましたから」
「――はあ?」
「オイ、ハボ。中佐に靴の底を見せろよ」
ハボックが無言で椅子に仰け反って足を上げた。そこには確かに泥ではない黒いものが付いている…。
「―――これは、血か?」
「踏んじまいました…。足にまだ感触が残ってって…」
「やっぱり、ハボック少尉は呪われますよね…」
 フュリーが肩を震わせて言った一言は、ハボックをより一層青くさせた。

    +++

東方司令部の訓練場の裏にある木立の間にぽっかりと開いた空間があって、そこに何故か板切れが無造作に置かれたままになっているんです。それを思い出したらもう他にいい場所を思いつかなくなりました。
夏の夜の納涼というより、この苛立ちをどうにかするためというか、上司がサボってんのにどうして俺たちは真面目に働かないとならないのか、そんな思考がぐるぐる回ってしまって、とにかく俺たちには休息が必要だと判断しました。俺たちはその本を持って外に出たんです。
適当に憂さを晴らしたいだけでしたから、大掛かりである必要はないし、正確である必要もなかったので、その場所に置かれていた板切れに木炭で召喚陣を描きました。適当に開いたページの召喚陣です。

「悪魔か…。本当に召喚できたらどうする?」
「大佐を懲らしめてもらう」
「でも、大佐なら悪魔と戦っても簡単に勝ってしまいそうですよね」
「何だよ。そんなんじゃ意味ねえじゃん。悪魔も頑張れってんだよ。ちょっとはいい勝負してくれなきゃ困るぜ」
「悪魔も過剰労働でへばってんのさ。――俺たちと変わらねえ階級社会なんだぜ。きっと」
「――僕は本当に悪魔が召喚されたら、もう少し身長を伸ばしてもらいたいです」
「マジだな、フュリー…」
「もし、もしもの場合ですよ。後で後悔するようなことは避けたいんです。みなさんはどうです?」
「――あの人を探してもらいたいよ、俺は…」

描き終わって、無駄話をしていた時でした。
音がしたんです。始めは、カリ、カリ、とまるで誰かが爪で板を引っかくような小さな音でした。そして、ガタッ、ガタッ、と板が不自然に揺れました。風の強い夜でしたが、木立を吹き抜けていく風の音でも、小動物が小枝を弾く音でもありません。間違いなくそう断言できます。
木々のざわめきにも、そのガタッ、ガタッと板が揺れる音はかき消されることはありませんでした…。銃弾が頭の脇を掠めていく恐怖とは違った恐怖が重く四肢を絡め取っていきます。
ガタッ…、ガタッ…、ガタッ…
何かがいる。間違いなく、その板の下に何かがいる。
板が蓋になって出てこれないのだと直感的に分かりました。

「――ウソだろ…。オイ、悪魔だ」
「マジで悪魔召喚かよ」
ドンッ…!
ドンッ、ドンッ、ドンッ…!
何かが板を下から叩きました。板が邪魔で出てこれないとばかりに、音はどんどん激しく大きくなっていきます。しかも、叩くたびに板が動いていくんです!司令部の明かりが辺りを微かに照らしていて、目の前で起こっていることを教えてくれました。
恐怖が迫っていました。

    +++

「そして、…………」
「そして! ―――もったいぶらずに言えよ、ブレダ…」
「いいんですね?ヒューズ中佐…」
 ブレダが不気味に笑った気がした。その顔を見て、ちょっと止めようかなと思ってしまったのは秘密だ…。
「―――腕が、板が動いて晒された地面から、にょっきっと出てきたんですよ。そして、板の上に爪を立てたんです。そしたら召喚陣が一瞬だけ光って、辺りを照らしました。――いいですか、ヒューズ中佐。その腕は血に濡れてたんですっ…!」

    +++

「悪魔だ…」
「――ヤバい…」
逃げろと誰かが呟きました。
もちろん依存がある奴はいなかったでしょう。俺たちは蜘蛛の子散らすように走って逃げました。
ただ、司令室は悪魔召喚陣を挟んだ向こう側にあって、俺たちは最短距離で逃げるために、召喚陣を横切って行きました。そして、その時、ハボックがその悪魔の手を踏んづけたんです…。

    +++

俺たちの縋りつく視線を一身に受けながらも、ヒューズ中佐はフュリーにお茶入れてこさせ、大佐が大切にしているしけったせんべいを全部食べきってから、漸くその重い口を開いた。
「――その手って、褐色だったか?」
「なんか知っているんですね、ヒューズ中佐…」
 中佐のメガネが鈍く光った。
「―――東部内乱の頃の話だ。イシュバール殲滅戦が始まる前に、軍内にいたイシュバール人を軍が虐殺している。もちろん、東方勤務していたイシュバール人の軍人も虐殺された。地方勤務のイシュバール人は何故かわざわざ中央に強制連行されていった。俺も彼らがどこに連れて行かれたかは知らねえがな。――で、東方勤務していたイシュバール人の中には強制連行を嫌がって逃げ出した集団がいたんだ。東部内乱中だったからな、何か不穏なものを感じていたのかもしれない。―――その集団の何人かが逃げている最中に基地内にある井戸に落ちて、上から一斉射撃を受けて殺された」
「――――――――………」
「そ、その井戸ってまだあるんですか?」
「ある」
「――ヒューズ中佐、その、く、詳しいっスね」
「その現場に居合せた。俺も、ロイも。偶々な」
「――保管されている東方史にそのような記述を読んだことはありませんが…」
「あったこと全てを忠実に記録しているものなんてある訳ねえだろ、ファルマン」
 中佐がずずっとお茶を啜る音がやけに大きく聞こえた…。

「―――それは悪魔召喚とその話は何の関わりがあるんですか?」
「察しが悪いぜ、ブレダ。その板切れの下はその井戸だぜ、絶対。そうだろ?」
「井戸からイシュバール人の幽霊が召喚……」
「ハボック、お前の踏んだ手は本当に褐色だったのか?思い出せ。――そもそも、その悪魔召喚法の本で悪魔も幽霊も召喚なんてできねえし。俺は今回その本を受け取りに来たんだ。最近死んだ、ある頭のイカれた国家錬金術師が書いた本でな、それ。国家錬金術師機関の連中がこの本に書かれている内容がどれだけ信憑性があるかロイに吟味させようとして東方に送りつけたんだぜ」
「―――大佐は何て結論付けたんですか?」
「さあな。――俺が知ってることは、この錬金術師は悪魔とは人間の悪意そのものであると定義していたってぐらいだ。こいつがしていたのは他人から悪意を派生させる研究なんだ。胸クソ悪いったらねえよ!」
「悪意…」
「精神に作用する錬金術だ。上手くすれば軍事転用可能だ」

「――なら、俺たちは何を召喚したんですか? ハボックは何を踏んだんです? この血は一体?」
「殺されたイシュバール人のでしょうか…」
 フュリーがまた場に沈黙を誘ったが、今度は幽霊より顔色の悪いハボックがのっそり口を開いた。
「いや、白かった気がする…」
「夜勤してた軍人が間違って井戸に落ちたんだろう。ブレダ、司令部内で夜から所在が不明な奴がいないか調べてみろよ」

中佐に鼻で笑われながら、現実的な解決を目前に安堵しかけた時だった、フュリーがまた口を開いたのは。
「――あのー、うちの大佐も所在が不明になって、もうそろそろ十四時間なんですけど……」
 嫌な沈黙の中、ハボックが落ち着きなく立ち上がった。
「――あー、違うんじゃないか? ロイが自発的にあの近くに行くとは思えないけど……」
 そう言いつつもヒューズ中佐も立ち上がった。胃の辺りを押さえながら…。
確かに、あの人なら井戸に落っこちてもおかしくなかった。いや、むしろふさわしいのかもしれない…。

    +++

ロープを持って、その場所に向かった。
大佐がサボっている最中に井戸に落っこちたなんて外聞が悪いからこそこそ向かった。訓練場には小隊が列を組んでランニングをしていたが、林の中に入り込むと次第にその掛け声は小さくなっていった。
午後でさえ薄暗い林の中を行くと、ひっそりと開けた場所に着く。そこにはやはり夜に起きたことが夢でも幻でもないことを証明するように、木炭で歪な円が描かれた板切れが置かれていた。しかも、その上を走って通ったせいで板が動いたのか、板はその下にあると思われる井戸の存在をすっぽりと飲み込んでいる。まるでその下にそれがあることを隠したがっているようにも見えた。
「ここから、本当に腕が出たのか?」
「はい。間違いありません。ハボックが踏みましたから」
「よし、板をひっくり返せ」

 男四人でも十分重い板を力任せにひっくり返して、出てきたのは紛れもなく井戸だった。ただ、井戸の高さが地面と同じで井戸というよりむしろ大きな落とし穴と言った方が良い気もする…。そして、板の裏には何回も何回も爪を立てたと思える、黒く変色した血の跡がしっかりとこびり付いていた。
「オイ!誰かいるのか!」
ヒューズ中佐が穴に向かって叫んだ。大佐の名前を呼ばなかったのは、落ちてんじゃねえぞと言うささやかな期待からのはずだ。しかし、呼びかけに返事はない。
昨日、ここで血に濡れた腕を見てから十二時間は過ぎている。体力のないものなら溺れていても不思議ではない。誰かいたらいたで恐ろしいけど、誰もいなくても恐ろしい。
覗き込んでも井戸は想像以上に深く暗かった。水面すら見えない。人間の存在を視認することはできなかった。
ハボックが今日一番の血の気の引いた顔で、オレが踏んづけたからまた井戸に落ちたんだと汗を拭いながら弱弱しく呟いた。
俺たちがあそこにいたときに、やっと井戸から這い上がってきや奴。俺たちが変なことをして遊んでいたからその存在に気づけなかった。その上、勘違いして再びこの暗くて冷たい穴の中に落としてしまった。きっとハボックが思いっきり踏みつけてはもう一度這い上がることはできまい。骨が折れていても不思議ではない…。

「お前たちが深夜にここに来たとき、この板は完全にこの井戸を塞いでいたのか?」
「――はい。この下に井戸があるなんて全くわかりませんでしたから」
「どういうことだ?――お前たちがここに来る前にすでに誰かがここに落ちていたなら、一体誰がその後にこの板で井戸を塞いだ?」
板で井戸を塞ぎながら落ちていくことは困難だろう。
「事故ではなく、事件性が考えられますね」
 特に、もしここに落ちた間抜けな奴が本当に大佐なら無視できない問題だ。
「――まあ、でもそう言ったところで本当にここに人が落ちたのか確認できなきゃ始まんねえけどな」

 気がつけば、ハボックが自主的に井戸に降りる準備をしていた。近くの木にロープを結び付け、もう片方を井戸の中に投げ入れる。その姿からは悪魔踏んじゃったと青くなっていた様子など微塵も伺えなかった。
「オレが降ります。いいんですよね」
 その変わり様に首を竦めながらもヒューズ中佐は、ああ、行けと、命令しなれた口調でハボックを井戸の底へ追いやった。

    +++

 暗くて、冷たい…。
ロープを伝って降りるオレが井戸の石壁を蹴る音がやけに大きく耳に響いた。上を見上げれば、青い空が見える。ヒューズ中佐もブレダも、井戸を覗き込まないのは暗くなることを避けているからだと思っても、ここにはもうオレと井戸に落ちた人しかいないような気がしてくる。
 井戸に落ちた人…。井戸の上から銃弾を受けて死んだイシュバール人。それを目撃していたヒューズ中佐と、大佐。人の悪意を生み出そうとした錬金術師。それを軍事連用できないが考える、大佐を不機嫌にする国家錬金術師機関…。
 静寂が妄想を掻き立てる。上を見上げる度に、銃を持った軍人たちが覗き込んでいる錯覚を覚える。これ以上、下に行ってはいけない予感がした。ここには誰もいないと叫んでもきっと誰も疑問に思わない。これ以上、降りるのは無意味だ。なのに、頭ではそんなことを考えていても、体は重力に引かれるままに下へ下へと降りていく。一刻も早くとばかりに…。
「どうだ!誰かいたか!」
いない。そう言えばこれ以上降りる必要はなかったのに、喉の奥の方が引きつって声にならなかった。

 二〇m近く降りて、地上の光はほとんどと言っていいほど届かなくなくなりと、また汗が噴出し始めた。でも、ここは寒いぐらいで腕には逆に鳥肌が立っている。
「だだれか、います、か…?」
 自分でも情けないほど声が擦れていた。
ここまで降りてきても返事はなかった。ここに落ちた人はもう沈んでしまったのかもしれない。
手が石壁に触るたび、銃弾の痕跡を知る。ここにかつて鉄の雨が降った。仲間が仲間を撃ち殺す雨が降ったのだ。
その時、突然頭上から無数の銃弾が降ってきた。
上にいるのはヒューズ中佐なのに!一瞬見上げた視界の中にライフルを構える軍人を確かに見た。逃げ場のない井戸の中では、もう水に潜るしか助かる方法を思い付かなくてロープを握る手を勢いよく緩めた。――だが、水面はすぐそこだった。着水してすぐに考えていた以上に冷たい水温に長くはここにいれないと思った。だけど、ここに落ちた人はもう十二時間以上もここにいる…。
「――ハーボーックー!」
 中佐の声。再び見上げれば覗き込む影はない。もちろん、井戸にライフルを向ける影もない。そして、自分はどこも銃撃を受けていなかった…。
「ハーボー!」
 命があるならそれでいい。今はそれどころではないのだ。
「着水しました!」
「ハボーック!どうだー!」
 井戸から声は上に届かないようだった。だから、数回、ロープを動かして無事を知らせる。ここには誰もいないけど、せめてできる限りは潜ってみようと思って、振り返ったときだった。

直径一m程度の井戸の中、人間がじっと気配を殺し、石壁に同化するように、そこにいた。

両手を広げ背後の石壁に手を這わし、黒い瞳に暗い水面だけを映して、そこにじっと佇んでいる。視線は動かない。何を見ているのかも分からない。でも、暗闇にすら黒い髪も黒い瞳も良く知っている人のそれだった…。

「――大佐…?」
 呼びかけても何の反応もなかった。心の奥底から冷え切っていく感覚に慄きながらも透明な青白い頬に手を伸ばして、そっと手の甲で撫でるとびくりと大きく体が竦んだ。その瞳に何の光も映してなくとも、生きている…。
「大佐…」
ここにいてはいけない。ここはよくない。大佐が意識を取り戻す時間すら待っていられなかった。急き立てられるまま氷のような体を強引に肩に担ぎ上げ、ロープに手を掛けて石壁を見上げた。事あるごとに大佐を肩に担いでいるのに、その体は信じられないほど重かった。オレは決して下を見なかった。上だけを見て、一刻も速くここから出るために登った。
「ヒューズ中佐!」
 オレの声が外にいる中佐に届くまで何回も叫び続けた。

    +++

 暗闇に飲まれるようにその姿が視認できなくなると、声すら聞こえなくなった。それでも、時折、揺れるロープに一応の無事を知る。そのロープが突然軋み、ロープを結びつけた木が大きく撓んだ。
「ロープを引っ張り上げろ。ハボックが上がってくるぞ!それも何かと一緒に、な…」
 ヒューズ中佐の視線が鋭さを増した。

    +++

「大佐!」
 ぐったりとしたままの冷たい体に怖くなって叫ぶ。なのに、大佐は人形のように何の反応も返さない…。
「大佐!」
 重い。人の重さじゃないほど重い…。殺されたイシュバール人をも担いでいるような錯覚に陥る。たった一歩が信じられないぐらい重い。
「ヒューズ中佐!」
 助けてくれ!この人を助けてくれ!

    +++

 視認できる光の中に漸くハボックが現れた。
しかし、歯を食いしばって一歩一歩、石壁を登るその足取りは、普段のハボックを知るものには信じられないほど遅く重かった。意識のない人間一人を抱えていても、ハボックの身体能力ならものともしないだろうに。しかも、肩に担がれているのは見慣れたサイズの青い軍服を着て…。
――大佐!担いだ人間に呼びかけるハボックの声に血が滲んでいた。
「大佐?本当に大佐なのか!ウソだろ!」
 ブレダが目を見張って、井戸を覗き込もうとするのを留めた。そうすれば井戸はより闇を濃くする。
「上げれば分かる!」
今は自分の仕事に集中してくれ。
――助けてくれ!
声にならないハボックの叫びは確かに俺に届いていた。

 最後は引きずり上げるように二人を井戸から引っ張り出した。
「よくやった、ハボック」
もう声も出ないほど疲労したハボックは小さく頷いて、担いでいたロイをゆっくりと俺に渡すとその場に倒れこみ激しく咳き込んだ。

ロイは冷えていた。しかし、夏の日差しに当たれば、そこからどんどん熱を取り戻し、顔色が透き通るような青白さからただの白に変わっていく。これなら命に別状はないだろう。ただ、その目に何も映し出していなかった。反応が何もない。頬を軽く叩いても瞬き一つしない…。
「オイ、ロイは一体いつから井戸に浸かってたんだ」
「――ハボック少尉が踏んだ跡が大佐の手にはっきりとありますから、僕たちがここに来る前には落ちていたと考えられます。その、優に十二時間は…」
 フュリーに言われてロイの手を取ると、確かに軍靴の跡がはっきりと付いていた。ハボックが倒れたまま、不安そうな視線を向けている。
「ロイ!ロイ!起きろ!」
 耳元で怒鳴れば、眼球が僅かに反応して動いた。
「ヒューズ中佐、どうしますか?軍病院に搬送しますか?」
「―――いや、脈も呼吸も正常値に戻ってきているし、頭をぶつけた跡もない。外傷はハボックに踏まれたところだけっぽいし」
 ロイがこいつらの描いた錬成陣に触ってしまって、練成光が走った。これで練成が成立してしまったのだとしたら、この井戸の中は何か精神に働きかける作用が働いているのかもしれない。この人形のような有様はそのせいかもしれないし、何らかの精神の作用に抵抗した結果なのかもしれない。どの道、あの不愉快な錬金術の結果だと国家錬金術師機関に知られたら、ロイは実験動物扱いを避けられないだろう。
「医務室に行きますか?」
 可能な限り、軍に繋がる病院は避けたい。
「ロイ!今、起きなきゃ、医務室に連れてって尻にでっかい注射しちまうぞ。それが嫌なら起きるんだ、ロイ!」
 悪意をイカれた錬金術師が何て定義したかは知らねえが、その術の構成を知っているお前が簡単にやられるなんて思わねえぞ、ロイ。信じてる。

できるだけ優しく冷えた体を擦ってやっていると、漸く開いたままだった目が瞬きを繰り返した。そして、不思議そうに俺を見上げて、にこっと目だけを細めて笑った。まるで何にも知らなかった頃のような、もう二度と見ることは適わないと思っていた無垢な笑みに、思わず熱いものが込みあがる。
「大佐、赤ちゃんみたいですね」
 心配そうにロイを見ていたフュリーが言った。
――ああ、そうだ。これは赤ん坊の浮かべる笑顔だ。
強張り、色を失った口元がゆるゆると開いて、声にならない声を漏らす。
「――パパって言ってみろよ」
 今度はぎゅと口が結ばれた。オレの言ってることが漠然とであってもわかっているのだろう。そんな思いが腕の中に静かに納まっている親友を、どんどん成長して親の手を離れてしまう子どものように思わせた。ロイは記憶が少し混乱しているだけだろう。このまま、時間が経てば全てを思い出して、あの強かな男に育ちきってしまうのだ。

 昔、ここの井戸で見た惨劇はイシュバールに参戦する前で、俺たちも若く青かった。俄かに戦争を知ったつもりになっていた。井戸に落ちたもの、自ら落ちたもの、投げ入れられたもの、断末魔と怨嗟の言葉は乱射の中でも耳に届き、今も尚思い出すことができる。その井戸に十二時間。推して知るものがある。
「ロイ」
 今日ぐらいは大好きなものに囲まれてゆっくり明るい場所にいたらいい。せっかく赤ん坊に戻ったんだから、普通に愛情をたっぷり受けて育ってみろよ。何か変わるかもしれないぜ?

「板をちゃんと元に戻しておけよ。もう誰も落ちないようにな。んで、今後は柵でも立てとけ」
 腕にロイを抱えたまま立ち上がると、ハボックが目聡く起き上がって無言で腕を伸ばした。ロイを運ぶのは自分の役目だと言わんばかりに。
 ロイが自力で二〇m以上この井戸を這い上がって来たときに、助けもせず、その手を踏んでまた落としたことを思えばロイと同じ目に合わせたくなるが、今はそんなことをしている場合ではなかった。
ロイがあの井戸に滑って転んで落っこちたことはまあいい。そんなことも偶にはあるかもしれない。うん。問題はロイが落ちた井戸に誰が板を置いて蓋をしたかだ。
 ロイが落ちたのを知って蓋をしたのか、それとも偶々蓋をしたのか。東方司令部であってもロイに向けられる悪意は色濃いのだろうか。

    +++

 お前はロイを連れて帰れ。ああ、もちろん、ロイの家に帰っていいぞ。そう、ヒューズ中佐は嫌味っぽく言いながらも早退の許可をくれた。
というか、元々、大佐とオレは夜勤だったのだ。大佐は井戸に落っこちて、オレは一人になるのが怖くてだらだらと司令室にいて書類を片付けていただけだったから、早退とは正確には言えないんだけど。でも、まあ、逆らわずに大佐を車に乗せて早退する。
「意識がちゃんと元通りになって、ことの経過を話せるようだったら連絡しろ。お前はロイが好きなものでもたっぷり作ってやれ。いいな」
 言われなくても、そうするし!

 後部座席に納まった大佐は話しかけてもぼーっとしたまま、時々不思議そうにバックミラーを覗いていた。井戸の中にいた時ような何も瞳に映さない様子は微塵もなくて無性にほっとした。大佐はあの暗く冷たい井戸の中で何を見たんだろう…。

 大佐のでっかい家に着いても、大佐は車から降りずにいた。ここが自分の家だということが分からないらしい。まだ冷たい手を掴んでゆっくりと車から降ろすと、ふらふらと真っ直ぐ歩き出したが、正面にある壁の前で立ち止まった。ドアがどこか分からないというより、何もかも分からないような危なさがあった。でも、ヒューズ中佐は記憶の混乱は一時的なものですぐに元に戻ると言ってた。だって、オレのことは分かってるもん、と満面の笑みで…。
 ヒゲ面の男に少々の苛立ちを感じながら、大佐の手を引っ張って歩いて、玄関を開けて、バスルームに連れて行く。とにかく冷えた体を温めるのが先だった。

 風呂入りましょうねと言っても、大佐は不思議そうな顔でポヤーンとしているだけだった。オレは服を脱いで、湯船にお湯を溜め、風呂に入る方法を忘れてしまったような大佐の服を脱がせた。大人しくされるがままの、赤ん坊のような大佐…。この呆けてしまってる大佐を見ると、あの井戸の中でどんなことがあったか想像できそうで、できない。
 大佐の手を引いて湯気に満たされたバスルームに入り、湯船に浸かった。膝の上に座らせてオレに寄りかからせると湯に緊張していた体からゆっくりと力が抜けていった。
オレが踏んだ手は黒く内出血して指が倍に腫れて、しかも、薬指と中指の爪が剥がれている。大佐はちっとも痛そうな素振りもしないけど、指先は全部擦り切れていて、あの長い井戸の石壁を自力で登ったことがわかる。さすが、ロイ・マスタング。――そして、それを再び、突き落としたオレ…。
 記憶が混乱してしまうほど怖い目に合ったのだろうか。速く大佐が元に戻るように
優しく優しく冷え切った体を擦って抱きしめた。



 大佐の混乱していた記憶は風呂から出て、パジャマを着せて、髪を乾かしているときに劇的に戻った。体が温まったからだろう。開口一番に、お前、私の手を踏んだろうと言われて、すっごい目で睨まれた…。
 言葉に詰まったオレはヒューズ中佐が電話しろって言ってましたよと、強引に電話を渡して逃げを打った…。
オレはまだ謝る準備できていなかったし、その勇気もまだ湧いてなかった。でも、この家には、いつ大佐が機嫌を損ねてもいいようにと、いつでも突発的にケーキの一つや二つ焼ける程度の材料は揃えてあったから、オレは大佐が好きなケーキを焼くべく、リビングをいそいそと出て行った。背後から、大佐のでっかい舌打ちが聞こえてきても。程なくして、大佐が電話をかける声が聞こえてきた。

「サボりの理由? はっ!そんなのいつもサインするのに飽きたからに決まっているだろう!」
 怒りに満ちた大佐は大声で喋るから、その声はキッチンにまで聞こえてきた。
「東方司令部の井戸? ああ、あの井戸ね。覚えているとも!失礼な!ハボック、腹がへったぞ!甘いものが食べたい!うるさいな。―――板? 板…。いや、なかった
と思うが…」
「甘けりゃなんでもいいんスか?」
「電話中に話しかけるな、ハボック」
 横暴だ。自分は話しかけといて。
「――水溜りかそんな程度の認識だったはずだ。落ちてから、ここがあの井戸だったと思い出した。―――そうだな、暗かったから位置が定かではなかったかもしれない。その時は部下たちと追いかけっこをしていたんだ」
 あ、やっぱり、追いかけっこして遊んでる認識はあったんだ。うわあ…。
「足音と話し声がしたから、見つからないように林の中に入り込んで落ちたんだろう。二時頃だったと思う」
「あ、二時なら、オレたち、司令室に引き上げてましたよ。地図広げて作戦会議開いてましたもん」
「ああ。今、ハボックも同じことを言っている。落ちて、水があって助かったのか、窮地に陥ったのか少し考えたな。石壁が登り辛かった。しばらく登っても、ちっとも明るくならないから不思議だった。―――ああ。登りきって板で蓋をされていることに気が付いた。重くてどうにもならないと思っていた矢先に、話し声が聞こえた。聞きなれた声に、悪魔呼ばわりされてむっとして憤りのまま板を叩いていたら隙間ができてな、腕を外に伸ばした。そしたら、手を踏まれて真っ逆さまさ! しかもご丁寧に板を被せて行く始末だ!」
 アレは怒って叩いていた音だったのか…。オレは聞き耳を立てながら静かに調理器具を用意していった。
「―――――、さあ。ヒューズ…。幻覚だ。なんかガスでも溜まっていたのではないか? ―――怖いが怖くないよ。真に怖いのは、お前も知っての通り、生きている人間さ。死者に引く引き金などこの世に用意されていない」
それでも、アンタはあの井戸で普通じゃなかった。アンタが普通じゃいられないなんかがあったんだ。
「それより、私は、誰かが落ちるかもしれないことを知りつつ井戸に掛けられた板を外すような悪意や、私が井戸に落ちたのを見て板で井戸を塞いだ悪意の方がよほど恐ろしい。そうだろう?ヒューズ。そして、そんな小さな悪意はどれほど摘み取っても切りがない。誰もがふとしたきっかけで抱いてしまうものなのだから」
 その言い方はまるでそれをした奴を探すなと言っているようにも聞こえた。
「―――銃弾が降ってきたよ。逃げる場所などない。だが、井戸は深かったからな、銃弾は致命傷を与えるには至らなかった。あの後、軍は何をしたか覚えているか。―――そうだ。ぶ厚い板を置いてその上に土嚢を置いた。しかし、そんなことをする必要はなかった。誰一人あの石壁を登ろうとするものはいなかったのだから。―――だから、言っただろう。幻覚を見ていたと…」
 幻覚…?銃弾が降ってくる…?それなら、オレが見たものも幻覚だったろうか。
「あの本を読んで錬成陣を描いていた? その陣に私が触れて術が発動した? さすが私じゃないか! ―――あの錬金術は恐怖を助長させるのさ。ただそれだけの術だ。そうなると私があの井戸の中で見た幻覚も納得がいく。見えない場所で起こっていたであろう惨劇を妄想する私の脳が私に見せた幻覚だったのさ。――――何も考えなければ恐怖に支配されることもないと思ったことは確かだ。何も頭に浮かばなければ幻覚は生じない。それにきっと探し出してくれると思っていたよ。お前が東部に来ることは知っていたし、実は私の部下も私の犬も中々優秀なんだ。あそこで待っていれば良いと思っていた」
 でも、オレはアンタを窮地に追い込んだ。もしオレがアンタを踏みつけなかったらアンタはちゃんと自力で這い上がれたんだ。心底、自分が情けない。本当にどうしようもない。それでも、アンタがそう言ってくれるなら、オレは美味しい美味しいケーキをアンタのために焼くよ。ずっと…。オレはキッチンに隠してた取っておきのクーベルチョコレートを力を込めて刻み始めた。



「大佐」
「何かね、ハボック少尉」
 焼きあがったケーキを背中に隠してリビングに持っていった。大佐はリビングの中でも暑い夏の日差しが照りつけている場所にわざわざクッションを置いて丸くなっている。じろりと睨み上げられて、また逃げ出したくなる衝動に駆られながらも甘い甘いケーキのにおいに助けられながら、大佐の前に正座して頭を下げた。
「あー、そのぅ、えーっと、何つうか…。―――あの、その、手、踏んづけて、すんませんでした」
でも、大佐は無言で睨みつけるまま。
「あ、あの! ――確かにもっと謝るべきことは色々あるんですけど、その、一個一個が謝ってたら日が暮れちゃうんで、た、た、大佐を踏みつけたことを代表で謝らせて、下さい…」
 ますます、眉間の皺が深くなる。
「も、も、もちろん!一々謝った方がすかっとするなら、喜んで全部のことに謝りますよ。はい」
 今度は左眉だけ器用に跳ね上がった。
「あ、あああ、あああの!こ、こころを込めて、ケーキ焼きました。食ってください」
 自分の何が大佐を不機嫌にしてんのか分からないオレは背中に隠したチョコレートケーキをどかっと大佐に手渡した。
「――――、デビルズケーキ………………」
「? チョコレートケーキ好きでしょ?」
 悪魔の食べ物と言われる、バターも砂糖もたっぷりの健康に悪そうなケーキ。でも、これはこの人のお気に入りのケーキなのだ。いつもは頼まれても焼かないケーキでもある。だって、一人で全部食べたらちょっと恐ろしいことになりそうだから…。
「どうして、今、チョコレートケーキなんだ……」
 目の前に置かれたチョコレートケーキとオレの顔を見比べて、大佐はお前の真意が分からないとばかりに困惑した表情を浮かべた。
「だって、タイムリーでしょ。悪魔召喚術で登場した大佐に悪魔のケーキなんて。チョコレートケーキはもうアンタのケーキも同然じゃないっスか!」
 洒落が利いてる。なのに、オレの取っておきのジョークは大佐の大きなため息に消し飛ばされてしまった…。

「―――お前のジョークは本当にいっつもビミョーだ」
大佐はぶつぶつ文句を言いつつも腫れた手にフォークを握って、オレの焼いたチョコレートケーキに突き刺した。そして、膝に抱えて頬張る。いつより三倍砂糖とバターを入れたせいか、一口食べるごとに大佐の頬も眉間も緩んでいった。

「―――ハボック…、こういうときは黙って側にいるのが定石じゃないのか…?」
 少し怒ったような、照れたような顔をケーキに向けて、ポツリと大佐が小さく漏らした。
さっきまで不機嫌だったのはもしかしてオレが側にいなかったからなのかもなんて、オレはほんのちょっとしか思ってない。でも、ちょっとだけ調子に乗って大佐の後ろにそろそろと移動して、まだひんやりした体を足の間に入れて腹に手を回した。大佐は嫌がる素振りどころか、猫のようにオレに擦り寄ってくる。
嘗てないその様子に思わず、井戸で何を見てました?と聞いてしまった。でも、眩しすぎる日差しの中で、どんなにチョコレートでとろとろにしても、大佐は井戸にいた十四時間のことを話してくれることはなかった。

その日は一日中、お茶を入れに立っても、トイレに行っても、大佐が半べそ状態で後ろを付いてきて、オレの恐怖を駆り立てていた。一体この人はどれほど怖い目に合ったんだろう…。
悪魔本のハボロイアンソロジーより
初出を現在調べ中…