先週、ロイ君が出張で中央に訪れたとき、彼はいつものようにマースに文字通り引きずられてやってきた。出迎えたエリシアや私を前にして、少しばつが悪そうに頬を赤く染めた様は、ここに来ることが嫌なんじゃなくてちょっとした照れのせいでと雄弁に語っていた。もちろんそんなロイ君をエリシアも私も大歓迎したことは間違いない。テーブルに並びきれないほど多くの料理を作り、暖かく楽しい団欒の一時をこの人と共有するためなら、ヒューズ一家はどんな労力も惜しまないのだ。
「お忙しいのにごめんなさいね、ハボック少尉」
―――あー、いえ、別に…。オレなんかでいいのなら、はい。それこそ、いつでも…。
いつもロイ君の後ろに立つ金髪で青い瞳の少尉さんは、その高い身長に比べて態度はいつも謙虚だった。彼の丸まった背中のように。それは電話越しの声からも変わらなかった。
ハボック少尉の作るパンケーキはとってもふわふわでとろとろなんだ。
先週、ロイ君が我が家で寛ぎながらエリシアに向かってそう真剣に語った。それはそれは幸せそうに満面の笑みを浮かべて。好きな人が自分のために作ってくれたものが美味しくないなんてことはありえまい。しかし、あのロイ君の笑顔を思うと、ハボック少尉の作るパンケーキはとってもとっても美味しいのだろうと容易に考えられた。彼がロイ君の特別な人であることを差し引いても、十分に美味しいパンケーキ。
マースも私もロイ君のためにマメに料理をしてくれるハボック少尉のことを思うと幸せになる。暖かい団欒がここから遠く離れた東部にもちゃんと用意されていることを感じて。
しかし、うちにはまだこんな高次の愛情を理解するにはまだちょっと無理な年頃の娘がいた。彼女は大好きなロイ君が自慢したその大好きな美味しいパンケーキを自分はまだ食べたことがないと駄々を捏ねた。もちろんロイ君は次の機会に是非作らせようと嬉々として二つ返事で引き受けたが、彼女はその機会まで大人しく待つことはできなかった。そして、彼女はどうしたら自分の望みを叶えることができるかよく理解していた。この国で誰よりも頭が良い父を上手に使う方法を彼女ほど熟知している人物はいないだろう。帰ってきたマースを玄関で迎え、そのまま目に涙を浮かべて一言、パパ…と言えさえすれば良いのだから。
かくしてマースはロイ君の家に電話を掛けた。当たり前のようにそれに出たのがハボック少尉であることを確認すると、マースは早々に受話器を私に渡した。いつもいつも娘の言いなりになっている教育上いまいちな父親であることを自覚しているマースは、私と目を合わせることを避けるようにそそくさとエリシアを連れて退散して行く。
「この間の出張のときに、ロイ君がエリシアにね、ハボック少尉の作るパンケーキはとてもふっわふわでとっろとろで美味しいと言ってね…」
―――えーっと、以前、何かのときに作ったことがあって。それ以来あの人のお気に入りなったんだと思います。あー、まあ、気に入ってくれたんならうれしいですけど。はい。実家で子どもの頃よく食ったレシピだし。材料だって買い置きしてあるもので間に合うんで、手間が掛かんないし。
「よく作ってあげてる?」
―――どうなんでしょう。オレとしては別にあの人が食べたいっていうならいつだって作ってもいいんですけどねぇ。あの人、料理らしい料理しないから、へそ曲げたりなんかするとちょっとしたオレへの嫌がらせのつもりでよく作れって言うんスよ。―――オレとしてはそろそろこれが嫌がらせになってないことに気付いて欲しいんスけど…。
彼の手によって守られている、ロイ君の東部の団欒は確かにパンケーキのようにふわふわでとろとろのようだった。ハボック少尉が零す幸せそうな愚痴に、思わず頬が緩んだ。
ハボック少尉は快くそのレシピをエリシアのために教えてくれた。しかし、材料とか分量を意識して作ったことないからちょっと作ってみますと言うやいなや、ガタガタと音を立てた。行動派の彼らしく、電話線をキッチンまで伸ばした音だろう。
―――えーっと、作り方は至って簡単です。ボールに小麦粉500cc…。この家に量りなんてないんで重さはいまいちわかんないんスけど、たぶんこれで大丈夫だと思います。ベーキングパウダー小さじ2ぐらい、ベーキングソーダ小さじ1ぐらい、砂糖大さじ2、あ、もうちょっと入れてもエリシアになら大丈夫だと思います。――はい。そうっス。あの人特にこれといった運動しないんで砂糖とかバターとかは減らしてて…。――いえ。いや、はい…。あ、あと、塩小さじ1/2を入れ混ぜ合わせます。んで、別のボールに無糖のヨーグルト500cc、卵2個、牛乳100〜130ccぐらい、溶かしバター大さじ3を入れてかるく混ぜます。しっかり混ぜるとふわふわにならないんで。えーっと、これを粉を入れたボールと合わせて、軽くざくざく混ぜます。
バタン。ドン。ガサガザ。器用な少尉さんは片手で受話器を持ったまま、本当にキッチンでそのロイ君が大好きなパンケーキを作り始めたのだ。戸棚を開ける音や、調理器具を料理台に置く音、袋を開ける音が遠くから聞こえていた。その状況を思い浮かべながら、一言二言言葉を交わしつつメモを取る。
―――このまま5分から10分置いておくと、ブツブツ穴が膨らんでくるんでそれを潰さないようにすくって焼くだけです。―――あ、ちょっと! あ、すんません…。
はじめの、あ、は家の中にいる人に向けて。次の、あ、は私へ。何があったのかなと思うよりも早く、受話器越しによく通る耳に優しい声が届いた。
ハボック! 電話がないぞ!!
大佐、電話線引っ張んないで!
ハボック、お前、キッチンで何をしてるんだ。
いいから。今、アンタとは無縁なすっごく重要な話してんスよ。あっち行っててください。
……………。
ちょっと、大佐!
これはなんだ? ブツブツと気泡が…。
ちょっと! かき混ぜないで! ブツブツなくなっちゃうでしょ!
おおよそ食べものとは言い難い気持ちの悪さだな。
じゃあ食わなくていいですよ。アンタの、エリシアに自慢するほど大好きなふわふわでとろとろなパンケーキのタネなんですがね!
―――――ハ…、ハボック……。
私は静かに受話器を落ろした。このハボック家のパンケーキを美味しく作るコツはロイ君が気持ちが悪いと言ったブツブツをいかに潰さないで焼くかということをメモしながら。