Hot Milk
「マスタング君、君の番だよ? ――あれれ、寝ちゃったのかな? マスタング君?」
差し向かうその姿は長考し始めた時と何の違いもなかった。ぴんと伸びた背筋は一分の隙もない。伏し目がちな瞳が閉じられていること以外は。沈思黙考していると言えばそうとも言えただろう。しかし、わしはそうは思わなかった。マスタング君がチェスの序盤の序盤、永遠に続くのかと思わずにいられないほどの老人の寡黙な沈黙に絶えかねて、意識を手放したことを。
そしてそれは思惑の内とも言えた。東方司令官とは言え大佐という階級では難しいだろう仕事を押し付けている自覚はある。それを骨身を惜しまず朝夕となく公私をなくして没頭して働く姿はわしの期待に十分応えるものだった。若さゆえに行き過ぎたとしても。
「寝ちゃったんだねえ…」
椅子から音を立てないようにそっと立ち上がる。
床に広がる深い絨毯はソファの軋みも老人の足音すら消し去った。ここは東方司令部随一の昼寝にもってこいの部屋と言えよう。邪魔するものはない。無作法にこの部屋の前を通る足音はなく、唐突に掛かってくる電話もない。置き時計の針を打つ音すら息を潜める。
彼には休養が必要だった。しかし、休めと言って休めるわけもなく。ゆえにこうして先達がやや強引にでも、時を見て休ませることが必要でもあった。

受話器を取り、内線を繋ぐ。
「わしだ。――そうだな。何か子どもが好みそうな温かい飲みものをひとつ持ってきてくれまいか?」
ソファでピンと背筋を伸ばしたまま眠る姿。その眼下にはうっすらとクマができていた。隠し切れない疲労が伺える。休息はちゃんと取れているのだろうか。家に帰る日はあまりなく、司令部に泊まっていることが多いと聞く。
息子はいなかった。一人娘は厳しく育ててしまい、成人を迎える前に家を出て行ってしまった。駆け落ちだった。どこぞの馬の骨と、と長きに渡って憤ったものだった。息子ができる唯一のチャンスを自ら不意にしてしまったことにわしは愚かにも気づかななかったのだ。挙句、娘が空しく死んでしまっても、愚かなわしは省みることを忘れていた…。

規則正しく控えめな足音が僅かに耳に届いた。次いで、扉をノックする音。自ら扉を開けに行く。
「将軍?」
護衛官自らがトレーを手に運んできた。以前、若い従卒の立てる無遠慮の靴音に不用意にも眉を顰めてから、うちの護衛官は従卒の仕事までするようになってしまった。東方司令部の護衛官はなんでもできないと勤まらない。そんな噂が立つもの時間の問題かもしれない。職務手当てを増やすべきだろうか。
「ここでもらうよ。ありがとう」
護衛官は勤勉にもいつものように執務室に変わりはないか視線を走らせる。その視線がソファにいる人物の上に止まって、かすかに動揺した。トレーの上のマグカップに注がれた褐色の液体が小さく波打つ。
「――マスタング大佐でしたか…」
「うん。いい感じに寝ちゃってね」
「…………」
護衛官の視線が今度は、甘いにおいの立ち上がるトレーの上に注がれる。よくよく見てみれば、そこにあるカップはネコのイラストが描かれた大きなマグカップで、並々とミルクココアが注がれていた。
「申し訳ありません。鋼の錬金術師どのが来ていると思いまして…」
そうとも。わしは子どもの好む飲物をリクエストしたのだから、その推測は決して間違ったものではない。
「ああ、いいね。ミルクココア。グットチョイスだよ。そうだ。今朝、中央から来た友人に半熟カステラもらったよね。まだある?」
半熟カステラ。なんでも今中央で話題のスウィーツらしい。わしのような老人には腹を壊しそうだとしか思えない食べ物だが、きっとマスタング君は違う感想を抱くだろう。
「もちろんあります」
手にあるトレーをすぐさま置こうとするのを、止める。
「わしが取ってこよう。うん。君はマスタング君を起こさないようね」
その忙しない気配で折角寝た子が起きてしまったら元も子もないのだ。

わしの執務室に一番近いこの給湯室の冷蔵庫の中こそ、ここイーストシティで最も豪華だろうと言えよう。時節問わず、このアメストリス内の有名店や話題のお菓子が常時収められている。時折、マスタング君が覘いているらしい。いついかなる情報であっても収集を怠らない姿勢は評価に値した。
「――失礼します。グラマン将軍」
背後から掛けられた言葉は、不意にと言うわけではなかった。自分の存在を主張するためにわざと立てられた微かな足音が、彼の相手に対する純粋な礼儀を表した。周囲の評判とは違い、決して無礼な男ではない。その彼が敢えてこのわしにまで、マスタング君の所在について声をかけるということは、マスタング君にのっぴきならない用事が控えているということでもあった。
「あ、しまったなあ。やっぱり、わしが出てくるんじゃなかったかな」
「いるんですね」
誰がとは言わないやり取りはもう数えるのも馬鹿らしいほど繰り返えされた。ハボック少尉は、仕事中にふらりと姿を消したマスタング君がこの給湯室の冷蔵庫を少なくとも一度は開けに来ることを知っている。
「ハボック少尉。ここに今朝もらった中央で今一番人気の半熟カステラがあるんじゃ」
目当ての半熟カステラは包装紙に包まれたまま置かれていた。それを手に取り、ハボック少尉に見せる。これを持ってきたのはわしの古くからの友人であり、軍閥に属さない人間だ。変なものを混入する理由はなく、ここにあってまだ誰も手に取った跡はない。わしの口に入るだろうものの安全性は極めて高いことは周知だ。それこそ東方方面軍の面子と言えた。
「グラマン将軍」
「うんうん、ハボック少尉の言うことはよくわかるとも。でも、ほら、これって賞味期限が今日までなんだよ?」
「グラマン将軍…」
だから、食べさせてもいいよね? 
公私に渡ってマスタング君の護衛を唯一ひとりで勤めているハボック少尉。その彼の常日頃からの苦労と、その職務の多彩さを思うと、彼の意向を無視して話は進められないものだった。それに、マスタング君の体調に一番心を掛けている存在のひとりでもあった。
それでもハボック少尉は言いあぐねる。
「――わしはどれぐらいマスタング君が忙しいかわかっているよ。だからこそ、今ほんの一時休息してもいいと思うんだが…」
そこまで言葉を費やせば、ハボック少尉といえども否は言えない。肩ががっくりと落ち込んだ。あきらめたのか。ほっとしたのか。彼もまた常日頃のマスタング君の忙しさを間近で見ているのだ。可能なら休息を取らせたいと思うのは同じだろう。強引にそれができる階級のものはここにはわしひとりだけだった。
「将軍から、ホークアイ中尉に連絡を入れてくださるのでしたら」
ハボック少尉はそう言うと、さっさと迷いのない素振りで給湯室からナイフと数枚の皿と数枚のフォークを取り出し、洗ってトレーに乗せた。わしの手にあった半熟カステラも。そして、追い立てるようにわしの後ろに立つ。さっさと行けとばかりに。
今のタイミングでマスタング君のところに内線を掛けたら、十中八九で孫娘が出て、冷ややかな声で分かりましたと言われてしまうんだろう…。なんて物悲しい。友好な関係を築きたいと思ってやまないのに。がっくりと肩が落ちた。



まるで連れて来られたかのようにして、自分の執務室の前にたどり着いた。ハボック少尉がトレー片手にドアを開けようとするのを制し、自ら開ける。
――ソファにはマスタング君が背筋を伸ばして座ったまま寝てるはずだった。
マスタング君はソファにいたはいた。だが、今にも横になりそうな塩梅だった。部屋に残した、わしの護衛官の腕に頭を預け、抱かかえられるようにして。
「――あ、修羅場だね。どうしよう、ハボック少尉?」
ちらりとハボック少尉を見上げれば、わしの視線に気が付き、小さく肩を竦める。睫毛にごみが付いていようがいまいが、上官に触れば上官不敬罪が適用されることなど軍人でなくとも知っていることだった。その裁定はマスタング君の護衛官に委ねた。
「あっ、あ! ――違います! マスタング大佐の睫毛にごみがありまして、取って差し上げようとしたら、身体が傾いてしまってっ!」
腕にマスタング君の頭を抱えたまま中腰で動揺を隠せないわしの護衛官。うろたえた声は思いのほか大きい。それでもマスタング君は起きる気配もなく寝ていた。ぐっすりと。よっぽど睡眠が足りなかったらしい。
「ハ、ハボック少尉…」
わしが裁定をハボック少尉に委ねたことを察知し、護衛官の視線が助けを求めるかのようにハボック少尉に向けられた。
ハボック少尉はそれに応えるようにすっと中に入り、トレーをソファテーブルに置いた。そして、困り果てたわしの護衛官からマスタング君を引き離した。その、猫を持ち上げるように、マスタング君の首根っこをつかんで…。
「これ、くもの巣ですから、ちょっとやそっとじゃ取れませんよ。どうぞお気になさらずに」
そう言ってにこっと笑い、ソファの上に投げるようにその手を離した。
ええっと、グラマン将軍とマスタング大佐と護衛官たち。
護衛官はいろいろ大変です。

2011/02/17//WEBCLAPより)
(2010/09/07)