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護衛官とその対象。しかも正式な護衛官はオレひとりだけ。だから、当然のようにあの人が休みの日はオレも休みのことが多かった。あの人が休日返上を強いられれば、当然のようにオレにも出勤の声が掛かる。それはもうごちゃごちゃ言っても仕方ないことに思っていたから、大佐が休日返上で出勤が決まったとき、ああまたかぐらいにしか思わなかった。だからこそ逆に、ああ、お前は必要ないと言われて驚いた。
「明日は終日、東方司令部から一歩も出ずに会議になるだろう…」
椅子の背もたれに深く身を預けて、大きなため息と、今からもう疲れたとばかりに落とされる肩に少しだけ同情なんかして。
司令部は緊急に決まった会議の資料作りに奔走していた。タイプライターを他の部署から借りてくる奴らに、大量の紙とインクを用意する奴ら。簡易テーブルを持ち込んでくる奴ら。それを置くための場所を確保する奴ら…。その中心にはブレダとファルマンがいて、息つくヒマもなく話し合っている。そのブレダが大声を上げた。ちょっとー!
その誰を呼ぶわけでもない声に大佐がよっこらしょと腰を上げた。
「私でなくては分からないだろう…」
私がしなくてはならなかった資料作りを積極果敢にしてくれているんだ。なに、協力は惜しまないさ。やれやれと、少しだけ背中を丸めて腰をさするから。
「ええーっと、オレにできることは何かあります?」
この忙しさの中、とっととひとり帰るのは気が引けて、そんなことを言えば、大佐が肩越しに呟いた。
「いつもなら資料出しをさせるところなんだが、それをする時間も惜しくてな。今回はファルマンに口述させてタイプさせていくんだ。だから、一本指でタイプを打つお前はもう帰って良し。久しぶりに純粋な休日を過ごせよ。私の分まで…」
そして、無事に会議に漕ぎ着けられるよう祈っててくれ。
肉体労働専門のオレに出番はなく、いつまでもここに居座られると返って邪魔なんだ。そう声に出されない言葉を部署中から聞いた気がして、これ以上被害妄想が酷くなる前にとっとと帰ることにした。
「あー、んじゃあ、すんません。先に帰りますんで…」
緊張感を孕んできた司令室の面々には聞こえなかったようで、返事はなかった。なんとなくこういうのは慣れなくて、一瞬、足を止める。身体のどこかしら痒くなって行きそうな気がして、鼻の頭なんか掻いてみたり…。
だけどやっぱり挨拶だけじゃなくて返ってくる視線すらなくて、それ以上なにを言うでなく、大佐のお言葉通りに帰ることにした。
だらだらとロッカーに立ち寄れば、見知った顔がこんな時間に珍しいなとばかりに声を掛けてくる。でもそれも長く続かない。みんな、この後の予定があんだろう。当たり前だ。休みの日に酒を飲まず、女と会わない男なんかいない。足取り軽くさっさとじゃあなと言って次々に出て行った。
そんな当たり前の休日が随分久しぶりのような気がした。その軽いノリに乗り遅れてしまってる。――休日。オレの休日はいつだって唐突に言い渡されるから前もっての予定なんかほとんど立てない。溜まりに溜まった洗濯物を片付けたり、くもの巣がはってしまった部屋の掃除をしたり、腐ってしまった冷蔵庫の中身を捨てたりしてると、突然あの人からお呼びが掛かったりして、貴重な休日が終わっていくのが最近のお決まりだった。
「うーん……」
だから、洗濯物が溜まってなくて、掃除も大してする必要もなくて、冷蔵庫はまだ新鮮なものしか入ってないとなると途端に何をしていいのか分からなくなってしまった。
「貴重な一日だな。なんてったって、あの人は一日中東方司令部で会議だ。呼び出されることもないんだぞ」
遠出だってできる。思いがけない一日だった。適当に同期と面白おかしく朝まで飲んで、そのまま一日中寝てたっていい。そう思って振り返れば、いつの間にかロッカー室には誰もいなくなっていた。オレ以外は。
「…………」
朝、いつもの時間に目が覚めてしまって、ふらっといつもの格好で部屋を出た。――ちょっと中央まで。朝の急行に乗れば、昼には着く。遅い帰りは考えないから、用事を済ませたらちょっと豪華な弁当でも買ってまた汽車に乗って帰る。
最近、大佐は情報誌をじっと見ていることが多かった。中央で有名なお菓子の店の開店4周年記念日一日限定で売り出される新作お菓子のページだ。しかも、その内容は当日まで秘密にされるという。時間があったら行っちゃおうかな。そうあの顔に書いて。
はい、どうぞ。あ、もらいものなんですが。そんな風にさり気なく渡せたら、あの人をたっぷり驚かせることができるかもしれない。そう思えば、ちょっと中央まで行くもの悪くない。
中央は暑かった。なんでも歴史的な猛暑が続いているらしい。
汽車を降りて一歩外へ踏み出れば、途端に熱気が襲ってきた。しかも、駅から出ればその日差しは肌に痛いぐらい強かった。
その中をうろ覚えの店へ急ぐ。なんてたって、オレはその雑誌を覗き込んだだけなのだから、住所なんか知りもしなかった。でも有名店というからには人に聞けばすぐ分かると思って気にしなかった。そして、オレは誰に聞くまでもなくその店が分かった。あまりに多くの老若男女の人集り。その中を、店員が汗も拭かずに整理券を渡して歩いていた。
でも、用意していた枚数は早々になくなってしまった。店員が大声で叫ぶ。店の隣の遮るものは何もない駐車場に列を作って下さい、と…。
開店の時刻一時間前に着いて、それでも整理券がもらえなかったオレもまた多くの人と一緒にそこに並ぶ。店員の声が血が滲みそうなぐらい枯れてきていた。それでも叫ぶことを止めない。その内その叫びは列を正すものでなく、謝罪に変わってきた。その悲痛な姿を前に、全身汗でびしょびしょになりつつ頭がボーっとしてきても、誰もが不満を言うことなく黙って立ち続けた。
開店時刻。まず整理券を受け取った幸運な人たちが人数制限を受けた小さな店に入り、楽しくショッピングをする。数人が店から出ると、数人が入れ替わりに中に入る。その繰り返しが永遠に続いた。そして、オレはその様子を2時間たった3歩前に進んだ状態で見ていた…。
結論を言えば、オレは買えなかった。その4周年開店記念日限定お菓子なるものを。買い求める人が余りに多くて、用意していたお菓子は早々になくなったのだ。オレの後ろにも長い長い列ができていて、暑い直射日光の下、多くの人が立ち続けていた。
声が完全に枯れてしまった店員が泣きべそで、頭を地面にこすり付けんばかりに、腰を折り曲げて謝罪する。
申し訳ありません! 申し訳ありません! かなりの数を用意してましたが、個数制限を設けるのが遅すぎて…! 申し訳ありません!!
その言葉に、忍耐強く並んでいた人たちが堪らないと、堰を切ったように口々に罵り始めた。
こんな熱射病になろうかという場所で二時間も待たせて、謝罪だけなのか!
その気持ちもわからないではなかった。でも、ないものはない。それにその罵りを一身に受けている店員は誠心誠意、自分の仕事をしていた。決して彼を罵りたい気分にはならなかった。そして、そう思った人たちも少なからずいて、少しずつではあるけど肩を落とした人たちが店の前から引けていく。
オレも人の波に乗って店から離れた。でも、タバコ屋が目に留まって、水を買った。それを手に、倒れんばかりにこの炎天下の中ただひとり働いている店員に声をかけ、その手に水を握らせた。ちょっとした下心があった。彼は一息でそれを飲み干す。
「あー、お疲れさん。あのさあ、今日の限定お菓子の写真が載ってるようなチラシってある?」
そう言えば、彼は頷いて、急いでまだ人で混み合っている店内に入って、持ってきてくれた。
それを片手にセントラル駅に向かう。どんな豪華な弁当を買おうか。予想外に疲れたから、肉がいっぱい詰まったものにしよう。お菓子は買えなかったんだから金はある。奮発することに迷いはなかった。
おかしかった。全くの無駄足になったのに、誰彼かまわず罵りたい気分にはならないし、苛立ちもしない。ただ笑い出したい気分だった。貴重な貴重な休日に中央まで来て、たった一枚のチラシを手に入れて、東部にとんぼ返りするオレ…。
大佐が知ったらなんて言うだろう。あきれ返って言葉もないかもしれない。ブレダなら心からバカかと言うんだろう。ホークアイ中尉なら、心から哀れな生き物をみるような目でオレを見るのかもしれない。
「――だろうなあ。オレだってそう思うよ…」
でも、なんかおかしくて楽しかった。暑い日差しに軽くやられてしまったのかもしれない。
翌日、振って沸いた貴重な休日にもらってきた、なんとも貴重なたった一枚のチラシを、最新号の情報誌に間にそっと挟んで、あの人の机の上に置いておいた。いつ気がつくかなと期待半分、気付かれないまま捨てられちゃってもいいかもしれないと思ったりもする…。
大佐がそれに気付いたのは昼休みだった。最新号の情報誌をウキウキと開いて、あのチラシに気がついた。
「あ、これ!」
すぐホークアイ中尉を手招きする。君も知りたがってた、あの店の一日限定のスウィーツのチラシが入ってる! その声に釣られて、ブレダも重い腰を上げた。
3人が顔を並べて、じっと食い入るようにそのチラシを見ていた。その内、大佐がふうんと一言。
「なんだ。たいしたことないな…」
その言葉に、ブレダが肩を竦める。
「あんなに食べたいって言ってましたよね」
「限定という言葉に惑わされたな。これなら、ハボックが作ったものの方がいい」
「さいですか…」
わお! 小声でぼそっとつぶやかれた言葉は、聞き耳を立てていた耳がちゃんと拾ってしまった。
そして、今日も忙しい時間が変わりなく過ぎていく。
大佐がまだ席にいたオレに向かって言った。
「ハボック、食堂に行くぞ!」
その声に中尉もブレダもチラシを机に置いて、オレに視線を向けた。
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Q:ハボックさんの幸せって何でしょう?
A:ハボックの幸せは、なんだかんだいっても結局の所はロイやその周りに振り回される事のような気がします。 可愛がられつつおもちゃにされている事をうすうす感じ取りつつも、ロイにかまってもらえればもうそれだけで幸せみたいな・・・。大家族の中で育って「一人っ子うらやましい!」って言ってた子が、いざ一人ぼっちになったら寂しくてたまらなくて、やっぱりみんながいるほうがいい、とかおもっちゃうような、ハボックはそういうタイプだと思うので、一回ロイだけでなく回りみんなが忙しくて誰一人かまってくれないような状況に置かれてみたらいいんじゃないかと思います。
2007/08/30
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アンケートにご協力下さいましてありがとうございました! 3年掛かってしまって申し訳ありません。全部終わるまで2年掛かりそうだと言ってましたが、3年を過ぎてしまいました。ハピハボのアンケートにお答えいただいたことをすでに忘れられているかもしれません。本当にすみませんです。えー、ハボックさん、マスタングさんに構ってもらえない休日に何をするか。掃除も洗濯もする必要がない、純粋な休日。ハボックさんは結局、マスタングさんのことを考えて過ごしていました。マスタングさんに直接振り回されない時は、自ら進んで振り回されて寂しさ解消! その哀れさになかなか気がつけないところがハボックさんかもしれません。あ、ハッピーハボックだ! あ、あ、あ……あわわわわ! あわわわわわわわ! ショボーンとしているハボックさんをマスタングさんが見つけたら、喜んでかまい倒しそうですね!