HAPPY HAVOC PROJECT 2
06

(ハッピーハボック計画2の07から続いています)

雨が上がったばかっりだった。それは長雨の続いた最中のちょっとした晴れ間で、また夜半過ぎには雨に戻ると天気予報は口々に言っていた。明日も明後日もまた雨。だから、ホークアイ中尉は外に行きたいと切々と訴えていたそのブラハのつぶらな黒い瞳に応えたんだと簡単に想像できる。泥まみれになることは分かっていても、それでもあえて外に。なんて素晴らしい飼い主愛だろう…。



東方司令官は今日もいつものようにサボっていらっしゃった。でなければ、窓を乗り越えて廊下に降り立つとこなんか見られるはずがない…。不運にも廊下にいた人たちはみんな同じようにギクッと身体を竦ませた。白昼堂々の、不審者による東方司令部侵入の場面に遭遇して。――でも、その侵入してきた人間の顔を見て、ぎこちなく顔を反らした。見てはいけないものを見てしまった。その衝撃は小さくない。だけど、幸か不幸かこの手の衝撃に慣れつつある東方司令部のものたちの立ち直りは、意外にも早かった。そう間を置かずに、元の動きを取り戻す人の流れ。多少ぎこちなかったけれど。
偶々一緒にいた、他の部隊の先任少尉が、明後日の方向を見ながら、オレの背中をぽんと叩いた。お疲れさま。もしくは、ご苦労さん。それとも、ご愁傷さまか…。だけど、耳に聞こえたのはそんな優しい言葉じゃなかった。オレをここに置いていく無常なる一言。先に戻る。そして、先任少尉も不自然に顔を反らしたまま、人の流れに乗って去って行った。
――脱力するオレの視界の端で人の流れに乗って歩いて行こうとする人間がもう一人いた。不審者同然の行動を見せた人が、まるで何事もなかったかのように人の流れに加わろうとする。声なんかかけたくなかった。だけど、ここでこの人を放っておいたら、しいては東部全体の恥になるから。それにここでこの人を放っておいたら、オレが怒られることになるから。諦めの境地に達するまで時間はそう掛からなかった。
「――ちょっと…」
確かにこの人はちょっと前から司令室にいなかった。だけど、だからと言って、こんな雨上がりの、水溜りが無数にあって泥んこな外で誰が昼寝すると思うだろうか。大佐の服には泥のハネ一つ跳んでなかったし、軍服が濡れてることもない。でも、明らかに外で寝ていた隠せない証拠があった。
「大佐、顔にブラハの足跡がついてますよ…」
振り返ったその白い顔には犬の足あとが堂々と付いていた。ブラハはホークアイ中尉の厳格な躾により、泥の付いた足のままで室内に入ることなどない。外で寝ていなかったら付かない跡。それこそが外で寝ていたゆるぎない証拠だった。
「そうか」
でも、その人はオレのやるせなさなどお構いなしに、まるで肩にゴミが付いていますよと言われた気安さで、顔を拭って見せた。
「…………」
「取れたか?」
被害拡大…。泥はまだ乾いていなかった。しかも、無造作に拭ってしまったために、それはより大きくなって。
「…………」
何て言ったらいいのだろう。一瞬口ごもってしまうと、その人はまたごしごしと顔を擦る。押し印のような犬の足あとが辛うじて消えていくけど、見る見る内に泥が顔全体に広がっていった。

この人はオレなんかが足元にも及ばないほど頭のいい人だ。それは誰もが知っている。なのに、どうしてそれをこんなにも疑いたくなるようなことをしてくれるんだろう。がっくりと肩が落ちた。
「――顔、洗って下さい。人の来ないトイレで…」
その人はオレの気持ちなんかお構いなく、肩を小さく竦めて踵を返す。タッタカタッタカと軽やかな足音を残して。



過保護とかなんとか言われるんだろうなぁと思っても、それはもう習い癖になっていて。
タオル片手にあの人が行ったっぽいトイレに向かえば、無人の廊下に響く不穏な水音が聞こえてきた。ドドドドドッ、ドドドドドッ。それに混ざってガラスが割れる音も聞こえてくる。この時点で身体は自然に走り出していた。そして、水音に掻き消えないほどはっきりとしたオレを呼ぶ声。誰よりも通りの良い声で。
「ハーボーックッ! ハーボーックッ!!」
オレが様子を見に来ることを見通して叫ぶ。確かにオレは、タオル片手に様子なんか見に来ちゃってるんだけど、こうも行動を把握されているのはどうなんだろう。

トイレのドアを開けたら、水が床を滑って流れ出した。
「何してんスかっ!」
視線の先にはへっぴり腰で、噴出している水を頭から被っている大佐。
「ハボック! 水が溢れてきた!」
その手が必死に、蛇口のない溢れ出てくる水道管を押さえていた。でも、水流の方が勢いが強くて、水流は弱まる気配がない。トイレの窓ガラスもきれいさっぱり割れていた。
この始末書を書くのはもしかしてオレなのかもしれない。だって、東方司令官がトイレの蛇口を蹴ってでもして壊しちまって、なんて始末書が後々まで残るのは問題だろう…。
「勝手に溢れてくるわけないでしょ! 離れて!」
関係各所に水道を壊してすんませんと謝るオレに、部下の不始末に頭を下げる大佐。その姿がはっきりと頭に浮かんだ。
「離れたら水が!」
「アンタが離れても離れなくても水は溢れるから速く! んで、アンタは着替えに行って司令室に戻る!」
水道管から手を離そうとしない人の腕を掴んで、とにかくその場から動かした。持ってきたタオルを押し付ける。
「ハボック!」
「いいから速く! ここにいたってアンタは役に立たないでしょ!」
水の勢いは強い。一体どの辺りまでこの人は壊しちまったんだろう。応急処置が効く程度で壊れただけならまだ助かるんだけど。水が最も勢いよく溢れ出している場所を握った。でも、水の勢いは強く、手の隙間から鋭く溢れていく。
「速く!」
まだトイレに留まっている人をどんと押してさっさと出て行かせて、取りあえず事態の収束を図る。この人がここにいたら何をしでかすか予測がつかなかったし、被害が拡大する恐れが高かった。
「くそっ! 止まらねえ! 何で窓まで割れてんだよ!」
水道管のナットの一つが水圧で飛ばされて、ガラスを割ってしまったのだろう。あの人に目に見える外傷はなかったからガラス片は浴びなかったのか。それともこの水量に流されたのか。そう言えば、頭から水を被ったおかげで顔の泥もきれいさっぱり跡形もなく落ちていた。顔に泥を付けた司令官と頭からびしょ濡れになった司令官。どっちがまだ外聞がいいんだろう。止めどもなくそんなことをつらつらと考える。
手に力を込めると、漸く溢れてくる水流が減ってきた。それでも手を押す勢いは強い。あの人がさっさと増援を寄こしてくれるはずだから、それまで一服でも。そこでやっとタバコなんか随分前でにびしょぬれになっていることに気が付いた。切実に防水加工のタバコが欲しくなる…。

その時、後ろのトイレの個室がギイと音を立てて開いた。
この一連の騒ぎの中でクソをしていられる根性の座った奴。この司令室の端にあるトイレにわざわざ来るんだから、よっぽどクソが詰まっていたらしい。でも、鏡に写った顔は同僚のものだった。
「――よかったじゃん」
何がだ?
鏡の中でブレダがにやりと笑った。
「頼られて甘えられて」
このクソ野郎。司令部中にお前がここで個室に篭ってたって言いふらすぞ。
いつもならそう言ったに違いない。でも、オレは何も言えなかった。
頼られて、甘えられて…。それは本来悪いことじゃない、と、思う。相手が恋人なら、なお一層。
確かにオレは頼られていると思うし、甘えられてるとも思う。じゃなかったら、水道を壊した人があたかもそれが事故であったかのような言動は取らないはずだし。オレだからああ言う。オレだからああいう子どもじみた態度を取る。
でも、きっとそれはあの人だけのせいじゃない。オレは薄々自覚していた。あの人の子どもじみた面を見るのが面白くて、つい色々とちょっかい掛けてしまった。あの人を子どものように扱って、それに慣れさせてしまった。そして、その積み重ねが今のあの人のああまで子どもじみた態度を作ってしまったのかもしれないと…。
――これでいいんだろうか。このままでいいんだろうか。
突如として突き付けられた疑問に、オレは何も言えなくなってしまったのだ。



(ハッピーハボック計画2の09に続きます)
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Q:ハボックさんの幸せって何でしょう?
A:ハボちゃんの苦悩!! それが私のハッピーですっ!(ドSでスミマセン) 
  2007/08/28
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アンケートにご協力下さいましてありがとうございました! 一年半越しで大変申し訳ありません。まだこのサイトのことを覚えていて下さると願いますが、本当にすみませんです。ハボちゃんの苦悩。えー、それは恐らく、私の幸せでもあり、ハッピーでもあると思われます。同好の士ですね。ししししし…
2009/04/14