ハニー&ビー
ハボックがあまりに大きな歯軋りをしてまで悔しがるから。しかもその上、その猫背を更に丸めて、アンタは最強ですよと随分しみったれた様子で言うものだから。人間、誰にでも苦手なものぐらいある。そう慰めてみた。――まあ、私が最強であることに異論はないが、無敵とまではいかないのだ。
しかし、ハボックはこれまたいつものように疑心暗鬼に囚われていた。絨毯に散らばったカードの上で蹲っていた奴がチラリとひどく懐疑的な視線を向ける。今日のカードの負けは奴に大きな傷跡を残したようだった。
「そんなのウソだ。どうぜ、ホークアイ中尉とかって言うんでしょ? でも、中尉だってアンタの絶対的な味方なんだから、アンタが最強であることには変わりないじゃないっスか…」
「彼女のことを苦手だなんて思ったことは一度もない」
疑わしい視線が今度は拗ねたものに変わっていく。
どうしてこいつは酔うとこうも表情がころころと変わるのだろうか。普段は茫洋として掴みどころがない奴なのに。――とは言っても、この酒量では酔いなどすぐに醒めてしまうだろう。ならば、こんなハボックともう少し遊んでいたくなった。
ハボックの視界に自分が入っていることを確認して、膝を叩く。正に犬を呼ぶように。奴は眉一つ顰めず、のっそりと起き上がり四つん這いでソファに座る私の足元まで来ると、膝に頬を寄せた。火照っていた。酔っているからか、もう酔いは醒めてしまっているからか。人工灯の下でも十分明るい金髪に手を伸ばせば、その青い瞳がそっと伏せられる。懐かれている。全く悪い気はしなかった。
「――じゃ、何が苦手なんスか?」
くぐもった声に、自分の口が軽くなることを自覚する。
「缶詰だ。ラベルのない缶詰を見るとしばしば胃が痛くなる…」
包み隠さず。それは本当のことだった。
「オレが聞きたいことはそういうんじゃないんスけど…」
途端にハボックが不満げな声を上げた。
「しかし、事実だ」
違うことが聞きたいとばかりに膝に懐いていた頭が太腿まで這い上がり、更にそこで頭を左右に振って擦り付けてくる。正に犬的な行為だった。
「あれは何の作戦だったか。支援物資のラインが分断され、基地全体が慢性的な食料不足に陥ったことがあった。すぐに配給が一日一回になり、それも満足に行えなくなった。高級仕官に至ってもそうだったのだから、事態の深刻さがわかるだろう?」
戦時中のことを口にすれば、頭の動きがぴたりと止まる。私の周囲に、この手の話でハボック以上に神経質になる奴はいなかった。たったこれだけのことでハボックの酔いが醒めてしまうのもつまらなくて、言葉を重ねる。
「しかし、私には優先的に物資が回ってくる。だが、私は支給食には飽きていてね、食べるものがなかった」
「うわあ、なんてわがままな…」
また調子を取り戻し、もそもそと動き出す黄色い頭。
「それで、どうしたんスか? まさか、断食とか?」
「まさか、そんなことするわけがないだろう? ヒューズが食料を調達してきたよ」
「…………」
「この私が空腹で前線で倒れるようなことがあっていいのか? いや、良くない。決して良くないぞ。それは我が陣営の敗北すら意味するのだから。――だが、すぐにあのヒューズですら満足なものを調達できなくなった。私の空腹は増して行った。そして、ヒューズはついに最後の砦である陣営のボスたる将軍のテントに狙いを定めた。その夜、奴の手には鈍く光る銀色の缶詰が三つ握られていた」
「それが、ラベルが貼られてなかった缶詰ってやつっスか?」
「そうだ。自家製の缶詰だった。腹が減って、もはや動くこともままならなかった私は早速それを食べようとした」
「証拠隠滅を兼ねて?」
頷く。さらに、食料を所持していることがばれたら、今度は私が奪われることになったであろう。一瞬の躊躇もなかった。
「私は油断していた。いや、空腹のあまり正しい判断ができなかったのだ。私は例えそれが缶詰だとしても、それが本当に食べられるか疑うべきだった。しかし、缶詰だぞ。それが腐っているか疑うものがこの世に一体どれほどいるというのか?」
「まあ、一応製造年月日ぐらいは確認すると思いますけど」
むくっと挙げられた顔はもういつもの茫洋としたものになっていた。生活臭のする話をしてしまったがために、せっかくの酔いが醒めてしまったのだろう…。
「戦時下、しかも戦場でだぞ。わざわざ賞味期限の過ぎた缶詰を戦場に持ってくるものがいると思うのか?」
「はあ、つまり、ヒューズ中佐にわざわざ盗ませた将軍の缶詰は腐っていたという…」
「だが、私は食べた」
「はい?」
「それは確かに腐っていた。しかし、それは場所を変えれば発酵しているとも言えなくもない。地方独自の発酵食品の可能性もあった。それならばそれは珍味だ。食べられる。――しかし、残念なことにそれは本当に腐っていたのだよ、ハボック。支給品を食べたくなるほど不味かった。倒れて、胃けいれんを起こし、高熱を出すほどな。吐き気も下痢もそう簡単には収まらなかった」
「…………」
「ハボック、私はラベルのない缶詰を見る度、あのときの苦しみを思い出すのだ」
語るだけでも胃がじわじわと痛み出すような気がして、胃に手を当てると、それをじっと見ていたハボックが酔いの気配を感じさせないほどすっと立ち上がり、背を向ける。
「アンタほど、自業自得って言葉が似合う人をオレは知りません…」
行き先はキッチンだ。胃が痛む私のためにホットミルクでも入れてきてくれるのだろう。疑いはなかった。
もうその後ろ姿からは歯噛みして悔しがっていた様子も拗ねた様子も伺えない。もちろん大きな犬のような有様も。それに少しだけ残念に思っていることが可笑しくて、笑った。

東部内乱は、イシュバールは、暗い記憶だ。――いや、あれはまだ終わってはいない。私の中では。今尚暗闇の中を行く…。
しかし、ハボック。お前がいちいち心配するほど殺伐としたものだけではなかった。泥水を啜るようなことだけではなかった。確かにそこには笑い合った瞬間もあったのだ。お前とあの頃の話をすると、何故だかそういうことばかり思い出す。
温かなミルクに溶けた蜂蜜の甘いにおいが漂いはじめた。


    + + +


就業時間中だったはずなのに、どうしてオレはこんな世間話につき合わされてんのか。その理由は明らかだった。大佐がホークアイ中尉に連れられて街のお偉いさんのとこに挨拶に行ってて不在だからだ。そして、腹いせに問答無用で長電話に付き合わされるオレ…。まるで姑のイビリのようだった。
そして、いつものこととはいえ、周りの目は冷たい。切りたくても簡単に切らせてくれない電話相手が誰だか知ってるだろうに。同じ自分から切れない長電話ならせめてもう少し有意義であって欲しい。同じ世間話が三巡目に入ったとき、意を決して流れるように続く声を遮った。

「――缶詰? ああ、ロイの苦手な銀色の缶詰ね。オレは食べなかったぜ。当たり前だろ」
ヒューズ中佐はもちろん当然のようにそのことを詳細に覚えていた。
「ああ、あれはなあ。世の中の爺を侮ったらいけませんっていう教訓だな。ロイがさあ、戦場で飯を食わなくなっちまってさあ。痩せてくし、ふらふらだしでさ、考えた挙句、基地のボスだった将軍に相談したんだ。できたら少しでもいいからロイを前線から下げてもらえねえかなって思ったんだけどよ、爺の出した結論は食べないなら食べさせてみせようホトトギスだった。完全な読み違いだぜ。爺は、世界で最も不味いものを食わせたら、どんなものでも美味しいって食べるようになるだろうって笑顔でロイにショック療法を試みた。実行力も決断力もある爺は怖いぜ、全く」
それはだいぶ大佐から聞いた話とは違っていた。例えば大佐はその缶詰を本当に腐っていたものと言っていた。だから、その後、熱を出して、吐いて。思い出しただけで胃が痛むと眉間に皴を寄せ、ゆっくりと胃を摩ってた。それが腐ってたものじゃなくて、本当に食いものだって?
「爺は完全にロイへの好意からあれを行ったんだ。だからこそ、オレは爺もロイも止めることができなかった…。年寄りとは上手に距離を保って付き合わねえとな、ハボック。ロイみたいに無闇やたらに可愛がられると、取り返しのつかないことになるぜ。オレはな、あの時から奴の味覚を疑ってんだ。どっかマヒしちまったんじゃねえのかってな。どんなに上手いグレイシアの手料理を食わせてやっても、半分腐ったものを食わせても、リアクションが同じなときがあるんだぜ。それはねえだろ? なのにさあ、そんな奴でも裸の缶詰を見ると胃が痛むってんだから、ほほえましいよな。わはははは!」
その言葉に、今度あの人に黙って不味いもの作って出してみようと心に決めた。

「――なんで、メシ食わなくなったんスか?」
大佐がラベルのない缶詰が苦手な理由はなんとなく分かった。でも、分からないことがあった。知りたいことがあった。
「おいおい、何でも俺に聞くなよ。まあ、この俺様がロイのことで知らないことがないは事実だがな!」
オレの知りたいことをつぶさに知ってる人は、その声色を突然変える。
「――理由なんて簡単だろ。奴だけが特別なわけじゃない。戦場でメシが食えなくなる奴なんて掃いて捨てるほどいた。罪の意識、血の臭い、爆音…。戦場でメシ食わないなんて緩慢な自殺と同じだ。奴もその一人でそれはあそこでは特別なことじゃなかった。ただ奴は炎の錬金術師だったから、それで終わりにならなかっただけで…」
あの人は人間兵器として常に最前線に立ち続けた。魘されて眠れない夜があることを知ってる。満足に眠れない夜が続くことも知ってる。でも、そんなときにオレができることはあの人を抱きしめることぐらいで。どうしたら、あの人がもっと眠れるのか。もっとオレにできることがあるんじゃないのか。それが知りたくて…。
「――なんてな、実はもっと簡単でアホらしい。支給食で偶々あたってな。それ以来疑心暗鬼になった奴は支給食に手を着けなくなっただけだよ」
ウソかホントか。それを判断するには、オレには絶対的に情報が足りなかった。そんなオレの悔しさを感じ取った人は大笑いして、満足したとばかりに至極あっさりと電話を切った。その答えは自分で見つけろと言わんばかりに。
2009/03/15
春コミのぺーパーとして配布させていただきました!