あの人が、この小さな病室から去ってから数日後。
いつもの足音が病室のドアの前で止まり、少し間をおいてゆっくりと開いた。
扉が開く前に、一度咳払いして。
ああ、この人でも少しは緊張するのかと思うと、不思議に自分の緊張は解けていく。
ハボックは、かつてのようにマスタングに対することができると感じた。
現に、入ってきたマスタングの顔に少し驚きが浮かんでいるのを見て、笑みが浮かぶ。
―――――オレは、もう、大丈夫ですから。
でも、その言葉は、ハボックの口から出ることはなかった。
発することのできない自分の弱さに再び気持ちが沈んでいく。
眉を顰め、俯いたハッボクの視界の中に、マスタングの軍靴が入った。
少し、泥が付いている。
マスタングは、そのままハボックに向き合うようにベットに浅く腰掛け、硬い金髪の感触を確かめるように頭を撫で回す。
ゆっくりと、染み入る。
優しさが、少しずつ、少しずつ、ハボックに浸透していく。
軍靴を磨くヒマすら惜しんで、この人はここに来ている。
言わなくてはならない言葉がある。
でも、大佐、言おうと思うと、のどが震えて、口ん中が乾いて、声が出ないんだ‥‥‥。
リハビリなんて、どこででもできるから。
オレがここにいたら、やっぱり、だめでしょ。
ちょっと、田舎に引っ込みます。
でも、きっと、本当に、ちょっとだけっスから。
こんな風に、時間を作って、来てくれるから。
待ってると言ったアンタを信じていない訳じゃなくて。
アンタは、オレの日常の一つで。
アンタのいない日常なんて想像も付かなくて‥‥‥
マスタングから伝わる優しさに後押しされるように、ハッボクはのろのろと重い頭を上げた。
しかし、開いた口からは、やはり、わなわなと震えるばかりで声が出そうもなかった。
ここにオレがいたら、アンタを危険に追い込むことは、わかってんのに。
アンタのいない日常が来るのが怖くて、俺は。
余りに不甲斐なくて、握り拳に力が入る。
そっと、頭を撫でていたマスタングの手がその拳にわずかに触れ、ハボックは反射のように頭を上げた。
そこには思いのほか、マスタングの黒い瞳が真剣な色を湛えていて、ハボックは俄かに緊張した。
田舎に帰れと、言われるのかと思って。
想像するだけでも、辛かった。
ハボックは、マスタングの口元から目が離せなかった。
「昔、読んだ童話を思い出した」
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥。
「お前の金髪と青い瞳は、その登場人物を彷彿とさせるものがある。
うん。よし。たまには、お前と遊んでやるのもいいだろう」
「―――――――はぁ?」
話題の脈絡の無さと、展開の不確定さに相変わらず付いていけない。
オレの緊張って一体何?
オレはこんなになってもアンタの遊びモノなのかよ?
しかし、マスタングは止まらない。
ハボックの握られたままの拳を両手で包み込み持ち上げた。
言葉とは裏腹にその眼差しは真剣そのもので。
「いいか、お前はクララで、私はハイジだ。いくぞ?」
カレハイッタイナニガシタイノ??
大きな脱力をした、心の、最も無防備な時にそれは放たれた。
「――――クララ、立てるよ。絶対、立てる」
あらすじぐらいは誰でも知っている有名な童話のヒロインの名前で呼ばれる。
その内容も、強く握りしめられる手の力も、何かを伝えんばかりで。
今だ感覚の残る背筋が震えた。
「――――――――大佐‥‥‥‥‥」
わからない。アンタが何を言いたいのかわからない。
―――――つうか、アンタが理解できねえ。
「馬鹿者!!!大佐ではない!!!ハイジだ」
「――――――――――――ハイジ‥‥‥‥、その、‥‥‥‥‥」
バカ話する状況でも、バカ話にするネタでもないだろ。
医者が歩けねぇ、って言ったって、オレは、頑張るんだ。
立つし、歩けるようになるよ。
だからって、そのクララって何だよ。
「空気のきれいな場所に行こう。そうしたら、きっと、クララも歩けるようになる」
ハボックは、マスタングがあまりに真剣すぎて、笑いが不意にこみ上げた。
しかし、笑い出すのを堪えて震える手にさらに力が加わって。
「‥‥‥‥‥‥‥‥」
「大丈夫。私を信じて。クララ」
この人が医学書を貪るように読んでいるとブレダから聞いている。
でも、この人の錬金術を持ってしても、オレの体を治すのは難しいらしい。
現代の医術はもうすでに、もうできる治療は無いと言っている。
「――――ハイジ‥‥‥」
「――――――――――――ジャン?」
「――――おふくろ‥‥‥‥‥」
その時、不運にも再び病室のドアが開いた。
ベットに腰掛け、ハボックの手を両手でしっかりと握りしめている、どう見ても、冗談とは思えない真剣な表情のマスタングに、ハイジ、と呼びかける息子に動揺を隠せない母親‥‥‥‥。
固まっている親子の動揺など、どこ吹く風で、マスタングは立ち上がり、もう時間ですね、と辞する 口上を丁寧に述べて病室を去っていった。
あからさまな疑惑の目を息子に向けるままの母親をそのままに‥‥‥‥。
あの人は言いたいことだけ言って帰っていった。
あの頭のいい人が、何の科学的根拠もないのに、歩けるようになると断言してみせた。
その上、大丈夫、私を信じてとまで言い切った。
そんなこと、言うような人じゃないんだ。
オレはあの人に信頼されている。
こんな状況になんなきゃ、自分はそんなことすらわからない。
この言葉は重く、深く胸を穿ち続ける。
遊びでない、遊びに満ちたあなたのこころ。確かに受け取りましたから。
オレが居ない間でも、どうか、ちゃんと三食食べていてくださいね。
オレが居ない間でも、楽しいことがあれば大笑いしていてくださいね。
オレが居ない間でも、オレを、愛していて――――
「あの人は強いんだよ。とても強いんだ」
まるでそれが悲しいかのように一瞬だけ眉をしかめた息子は、次の瞬間にはそれが自分の誇りのように笑った。久しぶりに見る笑顔に、自分まで笑顔になる。
「たった一人の友人が、――――突然、
‥‥殺されても、楽しいことがあれば笑える人なんだ」
笑顔に涙が浮かび、そのまま頬を伝い落ちた。
「よく笑う人なんだよ。笑い上戸なんだ。あの人が笑うと皆、伝られる様に笑う。
――――あの人が笑わなくなったら、笑うことを忘れちまってたかもしれない。
人間には笑うことが必要だって言うんだよ。体内の免疫を高めるとかさ、そんな小難しいことよく言うんだ」
大きく器用に動く手が涙に濡れた頬を無造作に拭う。
目が合うと息子は少し恥ずかしそうに笑った。
「――――好きなのね。マスタング大佐が」
「誰だって、好きだよ。誰だって、好きになるよ。とても強い人なんだ」
マスタング大佐の笑顔の面影を反芻しているかのように、今、この苦しいときであっても息子は笑う。
それから、少し間をおいて、大きく深呼吸をして、真っ直ぐに私を見て、静かな声で言った。
「おふくろ、オレ、田舎でリハビリするから」
もう、息子の顔には、先ほどの泣いた後など微塵もなかった。