崖っぷちセレナーデ
01

オレの背後から強い光が射し込んでいた。
この世界にたった一つだけの光源。

オレの背が作った深い暗い影が大佐の顔を隠し、オレの不安を掻き立てた。
オレは片手で淵を掴み、もう片方の手で大佐の手を掴んでいる。どうやらここは崖っぷちのようだった。光が強すぎて周囲の様子が全くわからないのだ。強すぎる光の中も。暗すぎる闇の中も。
オレはただそこから落ちてしまわないように大佐を掴んで懇願する。まるで駄々を捏ねる子どもをあやすように。驚かせてしまわないように。自分でも驚くぐらい優しい声で、懇願する。
「大佐、右手も伸ばして、ね?」
きっと大佐の顔が見えないから、こんな風に優しい声が出るんだ。
今はまだ大丈夫だけど、このままならすぐ窮地がやってくる。そのとき、片手でこの人を掴んでいられるだろうか。この淵を握るこの手は離せない。離してしまったら、二人共奈落に落っこちるだけだ。

「大佐…」
汗が滲み出て、掴んだ手と手が微かに滑った。
「大佐、お願いですから、右手も伸ばして。オレの手を両手で掴んで。大佐!」
このまま滑っていって…。
その想像に途端に怖くなる。この人がオレの手を掴んでくれなかったら、オレはこの人を落としてしまうのか。オレがこの人を殺してしまうのか。
「大佐、お願いですから何か言ってください」

「――私は重いか?」
「普通です。でも…、でも、重そうに見えます」
どんなに目を凝らしても、大佐の表情は見えなかった。
でも、顔は見えなくてもわかることはあって、涙がこみ上がった。
オレがこんなに焦っているのに、なんでこの人は平然としているのだろう。
「大佐、右手に持っているものを離して…。右手を伸ばして、オレを掴んでください」
繰り返す。何度も。声の限り。
「――それはできない」
はっきりと告げられた言葉に、鋭い痛みが胸に走った。
「落っこっちまいますよ!大佐」
「――大丈夫だ」
「大丈夫じゃないですよ!アンタが落っこちたら、オレだって落っこちまう!」
「――それはダメだ。お前はそこにいろ」
「大佐、お願いします。わがまま、言わないで」
「――私は何度落ちても、何度でも這い上がってくる。だが、お前はそこにいてくれ」
そんなわがまま言わないでくれ!

汗でまた手が滑った。
オレの汗なのか、大佐の汗なのかわからない。
ただ、ほんの少しづつ滑っていく。
「大佐、右手、伸ばして!」
オレがこんなに必死にお願いしてんのに。それでも、伸ばされない右手についに涙がこぼれ落ちた。大佐の顔が見えない。
「アンタ、オレのこと好きなんだろっ!知ってんだよっ!オレよりも、その右手に持ってるものの方が大切なのかっ!」
「――ハボック、手を離せ。お前まで落ちてしまう」
そんな言葉が聞きたいんじゃない。
落っこちまうまら、何で一緒に落ちようって言ってくれないんだ。
何でオレを選んでくれない。お願いだ。今は、今だけは、オレを選んで。
「一緒に謝ってあげますから。叱られてもかばってあげますから」
汗で滑って、――指が絡む、……
「右手に持ってるものを離して!速く!」
冷たい汗がどっと溢れた。
「落ちる!」
オレはついに淵を握っていた手を離した。両手で大佐を掴むために。
しかし、その一瞬速く、大佐がオレの手を振り払った。
手から失われた重みに深い衝撃が走ったその瞬間、―――覚えのある声を聞いた。

「馬鹿野郎!お前がこっちの手を離したら元も子もねえんだよっ!踏ん張れ!」

気が付けば、オレの左手に重みが戻っていて…。
オレの手を掴んでいたのは白い手ではなく、たくましい太い腕だった。その腕は大佐の腕から生えていて、オレは唐突に理解した。
この人は遠く離れていてなお大佐と共にあるんだということに。
今、この瞬間もあの人がこの人を支えているのかもしれない。
じゃあ、オレは?
オレはここで大佐の手を掴んでいることしかできないのか?

無力感がオレの心に降り積もって、こんなに近くにいる二人の存在を果てしなく遠く感じさせた。
「大佐、右手に持っているものは何ですか?それを離すことはできないのですか?」
オレは大佐に選ばれない。
あの人のように、この人と共に生きることもできない。
なら。ならば。
「―――アンタは何を選んだんですか?」
大佐の顔はまだ見えないままだった。だけど、一瞬、大佐の鮮やかで自慢気な、いつもの笑みを見たような気がした。

「お前自身でもある。ハボック、私は世界を掴んでいるのだよ!」



夢の終わりは唐突に。突然、オレは目が覚めた。
何度も何度も、無意識のうちに左手をさする。
夢を見た。生々しい夢だった。
――あの人が選んだのは、オレじゃなくて未来だった。
こうあるべき世界。こうあるべき未来。
あの人の野心そのもの。
今のオレじゃなく、未来のオレをあの人は選んだ。
自分自身が思い描く世界に生きるオレを…。
今、無性にあのふてぶてしい顔が見たくてたまらない。
あれはただの夢に過ぎないと言って欲しい。

両手で顔を覆った。
声を上げて泣くなんて何年ぶりだろう。
夜が明けたらあの人に会える。たったその数時間が狂おしくてならなかった。

オレはアンタのいない未来に生きるより、どんな奈落でも、アンタと今、一緒にいたいのに。

あの人の弱音。あの人のためらい。あの人の挫折。―――いつか、あの人が窮地に陥ったとき、オレを置いて行ってしまうかもしれない。
まだ左手に、あの人の重みを失った一瞬の感覚がリアルに残っていた。それから、ヒューズ中佐に掴まれた腕の感触も…。
世界はオレに想像できないほど重いのだろうか。
でも、オレには関係ない。大佐が何を持っていようが関係ない。オレが掴んでいたいのは大佐でしかないんだから。世界なんて関係ない…。
甘い痛みが胸を突いた。
あの人のとっておきは、オレのとっておきじゃない。あんな顔で自慢されても全然自慢になんねーし、ちっともすごくない。

アンタのいない世界にいてどうしてオレが幸せを感じることができると思うんだろう。
世界なんて手放してくれればいいのに。
その両手でオレにしがみついて…。





朝の雑踏を遠くに聞きながら、爽やかな光を色褪せて感じて。目的地を一緒にする青い服の軍人たちと足並みを揃えて歩いた。

その日、大佐は定時になっても司令室に姿を現さなかった。
ホークアイ中尉がこのことについて何のリアクションもしてないから公認のサボりであることが分かっても、、どうにも落ち着かないでいると隣の席のブレダが小声で教えてくれた。――あの人、10時過ぎには出てくるぜ、と。
残業が朝まで延びて結局連続出勤になり、早朝六時に仮眠の許可が電話で下りたそうだ。もちろんこの場合、許可を下すのはこの東方司令部ではホークアイ中尉しかいない。
「お前、いつにも増して阿呆面だぜ?何かあったのか?」
「――夢見が、悪かったんだよ」
ブレダがオレの言葉に大げさに目を見張って驚いた。
いつもならカチンと来るその言葉にもオーバーリアクションにも、今日ばかりは心動かされない。
空いたままのその席を見ていると大佐の顔を見たいと思いながらも、そうじゃない気持ちがあって、オレは訳の分からない自分の気持ちを持て余していた。


02

結局、大佐が司令室の自分の席に着いたのは、11時になるほんの手前だった。もちろん、大佐を見つめるホークアイ中尉の視線は冷ややかで、大佐は頬を引きつかせながら机の上に作られた書類の山の中に入って行った。

しかし、そんな司令官でも大佐が席について無言でペンを動かしはじめると司令室内にはいつもの喧騒が漂い始める。
電話のベルの音や、ドアが開閉する音。資料を確認する声に、書類の不備を指摘する声。いつもと変わらないそれがオレの心をゆっくりと落ち着かせていった。

「確かに、私の顔の造作は鑑賞に値する」
確かに、その人は喧騒を切り裂くようにポツリと漏らした。決して大声を張り上げてるわけじゃないのによく通る声は、広い司令室の隅っこにいたヤツらまでぴたりと動きを止めさせるだけの力があって、司令室に重い沈黙が流れた…。
「しかし、それがサボりの口実になってはならない」
沈黙の中、続けられた大佐の独り言にホークアイ中尉がこれまた司令室中によく通る大きなため息を漏らすと、司令室内はまるで呪縛から開放されたように動きを取り戻した。
大佐の奇妙奇天烈さに時間を取られていたら、無用な残業をするハメになることはここに席を持つ人間は経験的によく分かっている。

大佐は下を向いたまま、司令部中の冷たい視線を一身に受けていることを察してか、気まずそうに頭を掻いた。そして、ハボ、と小さな声でオレを呼ぶ。更に犬を呼ぶように手招きされて、オレは重い腰を上げた。
「――ハボック少尉、ずっと手が動いていない。それとも、私の顔に何かついているのか?」
その目にはオレじゃなくて書類だけに向けれられてて、思うより先に口が開いた。
「走ってきていいっスか?」
単に大佐の興味を引いて、オレをその目に写させたかったからかもしれないし、本当に走ってきたかったのかもしれない。でも、何の考えもなく口に出した言葉に、大佐はやっと顔を上げオレを見た。さも楽しげに笑って。
「悩みがあるときに体を動かすのはお前のような奴には最も的確な解決方法だろう。自分で思い至ったところを評価して許可を与える。ほら、さっさと好きなだけ走って来い」
この顔が見たかった。ずっとそう思っていたけど、もしかしたらずっと見たくなかったのかもしれない。オレはこの人に失望していた…。
ムカムカする気持ちを抑えきれなくて、礼も言わずに大佐の前から走り去った。





薄暗い廊下を呼吸を止めて走って残暑が残る晴天の下へ。強い日差を浴びてゆっくりと熱を上げる体と額に滲んでいく汗が気持ちよかった。現実だ。ここがオレの生きる現実だ。上着とオーバースカートを脱ぎ捨てて走った。
走れば走るほどに息苦しくなることも、汗がTシャツを重くしていくこともそれを証明した。でも今はそれ以上のことは考えたくなくて、走った。
走って、走って、走って、頭の中からいろんなことが形をなくしていって更に走った。



体が限界を訴えてスピードを落としはじめたとき、ホークアイ中尉が古びた棟から姿を現した。どこにいても目立つ女。いや、戦場の中でやっとその姿を風景の中に同化できる女。硝煙のにおいのする、あの人とどこまでも行動を共にする女。
無意識にその姿を目が追ってる自分に思わず舌打ちを付いた。

彼女は訓練場の外周を走っていたオレを遠くに目聡く見つけるとにっこりと笑い、着いてきてと声もなく唇を動かした。
本能的な恐怖がオレの逃げ道を奪う。結局、蛇に睨まれたカエルのように言葉もなく付いていった先は格闘用の室内訓練場。
彼女はその中の誰もいない一室にオレを招き入れた。
「鍵を閉めて」
きっと彼女以外の女性から言われたらときめくだろうその一言は、より一層、言いようのない恐怖を湧き上がらせた。それでも、言うとおりに鍵を閉め、振り返ったら、―――すぐ目の前に中尉がいた。しかも、笑って。
あ、と思った時は遅かった。
中尉は容赦なくオレの股間を蹴り上げ、無言のまま前屈みに膝を付いたオレの頭を更に蹴り飛ばす。視界の中を鮮血が飛び散った。

まるっきり構えていない状態からの容赦のない攻撃に手も足も出なかった。完璧な不意を付いたKO。しかも、そのままリンチのような暴行が続く。
ホークアイ中尉は股間を抑えて呻くオレを蹴り上げ、踏みつけた。単なる暴力のようなそれにどんなに腹が立っても、限界まで走ったせいで足に力が入らずに立ち上がることもままならない。
オレがどうしてこんな目に合わなきゃならない。

大佐はオレをあんな場所に置き去りにして。
中尉はオレを理由なく蹴る。
オレはアンタたちにとってなんなんだ。
ただの八つ当たりができる頑丈な奴でしかないのか。
走って、走って、忘れかけてたことがまた頭の中に浮かんできて、いても立ってもいられなくさせる。
オレはアンタたちにとってなんなんだ。

ホークアイ中尉は、オレがぐったりしはじめたのを見て取って一歩距離を置いた。
リフジンな暴力の終わりの合図に、オレはやっと詰めていた息を細く吐くも、そんなことでは収まらない焦燥感がオレの口を軽くさせた。
「――何、なんスか?なんかすっげえ納得いかないんスけど」
少なくともアンタも大佐もこういう腹いせのような暴力を部下に振う人間じゃないと思っていた。思ってる。理由があるなら聞かせてほしい。あるっていうなら。
アンタたちはオレをただの八つ当たりのために部下にしてる訳じゃないって、聞かせてほしい。
中尉はそんなオレの願いを鼻で笑った。
「あれくらいの蹴りでは潰れないわよ。もう股間から手を離したら?」
中尉はあくまでも冷ややかだった。まだフロアに転がったままのオレを虫けらのように見下ろして。
焦燥感が不快感に色を変えていく。

「オレ、何か、しました? あー、もしかして、サボりの腹いせとか?」
大佐は良くて、オレはダメなんですよね?よく分かってますよ。ええ。
「面白いことを言うわね、少尉。私があなたのを潰さなかったのは大佐が泣くからよ」
そのどうでも良さそうな物言いにカッと顔が赤くなったのを感じた。
大佐とオレの関係を中尉が知ってることは薄々分かっていた。言ったのは大佐以外に考えられない。でも、オレはこの人と大佐の関係を全く知らない。大佐が何も教えてくれないから。
「――じゃあ、嫉妬ですか?あの人、オレのこと好きだから?」
虚勢だ。大佐はオレに言えないことでも中尉になら言える。二人はそういう関係で、大佐とオレはそうじゃない。嫉妬してるのはオレの方だ。そんなの分かってる。
なのに、中尉はどこまでもオレを惨めにさせることを言った。
「そうよ。嫉妬よ。それが何?」
嫉妬。アンタが何に嫉妬するって言うんだ。こんな虫けらのようなオレに。
「――これは嫌がらせなんスか?」
「許可はもらっているわ」
嫌がらせの許可? 
違う。オレを切り捨てる許可だろう?
強烈な、身を切るような嫉妬心が湧き上がる。
冷静な中尉の姿がどこまでもオレを惨めにする。
「―――あんたらオレを捨てる気なのか」
この女も奈落の底まであの人と一緒だ。オレは許されなかったのに。オレは拒絶されたのに。―――オレはアンタのとこに立ちたかったのに。
そこに当たり前のようにいる女。
あの人はオレじゃなくてこの女を選んでる。オレがあの人に会うずっと前から。ああ、だから、オレはオレを選ばないあの人の顔を見たくないと思ったんだ。

暗い気持ちが体の奥底から湧き上がった。
獣のような唸り声を上げて、気が付いたら、飛び上がってホークアイ中尉を引き倒していた。マウントポジションで中尉の顔面にそのまま一発を入れようとして。―――中尉は目を閉じていた。
振り上げた拳が行き場を失う。


03

器用な人間ではないと思う。
父に錬金術を習いに家に通っていたあの人は、私と目が合うといつも困ったような顔に笑顔を浮かべて、小さく会釈をしていた。
物静かに笑うあの人が笑い上戸だったと知ったのはいつだったか。青い正義で将来を語ったあの人が清も濁ものみ込める人だったと知ったのはいつだったか。眠れない夜を一人静かに過ごしていると知ったのはいつだったか。
もう少し早く気が付ければ、こんな思いを抱くことはなかったはずなのに。
共に、どこまでも同じ道を行くことが私のできるせめてもの贖罪なのかもしれない。



普段怒らないハボック少尉を怒らせるのは思ったよりもずっと時間がかかったが、私を殴るために振り上げられた拳は降りてくる気配がなかった。
怒りが持続しない少尉にため息を付きたくなる思いで、目を開けばそこにいつもの困惑する少尉の姿があった。怒らせれば、身に溜めていることを吐き出すだろうと考えたのに。結局、少尉は口を噤んでしまった。これでは話にもならない。

いつも言葉を惜しんで。いつも本心を見せないで。いつも飄々としてどこ吹く風で。
そのくせ、一人行き詰ると全てをあの人のせいにする。自尊心が高いからだ。それが許されているからさも当然のように。それで、一体あの人との間に何を為そうと言うのだろう。
「殴らないの?少尉」
「――殴れません」
「あらそう。私は殴るわよ」
あなたはあの人のことをちゃんと見ている?
あんなに近い場所にいて、見えないなんて言わせないわよ。
「これ以上は勘弁してください…」
「私はあなたに嫉妬するわよ。悔しいわ。何故、あの人は私たちで満足してくれないのかしら。どうして私たちであの人を補えないのかしら。何故、あなたなんかが必要なのかしら!―――失礼。何故、あなたが必要なのかしら」
なのに、何故、あなたはそんな卑屈な目をして私を見るの?
あなたは何故そんなに私を羨むの?
羨ましいのは私の方だわ。

「―――オレは中尉が羨ましいっス。オレのあの人の一部になりたい。オレも中尉や中佐みたいにどこまでも一緒になってしまいたい。なれたら、こんな風にいつ捨てられるかびくびくしないですむし。一人置いてきぼりをくわなくてすむし。アンタたちみたいにあの人を支えられるようになりたい」
少尉の青い瞳からぽろっと、涙がこぼれた。
「アンタになりたい。ヒューズ中佐になりたい…」
私になって、ヒューズ中佐になって、どうするの?
もし、あの人が間違った道を選んだとしても私たちはきっと迷わずにその道を行くでしょう。でも、それが本当に良いことだと思うの?
それしかできない私たちのどこを羨むと言うの?

少尉は人の上に跨ったまま、大きな手で顔を覆って泣き出した。
これがまだ小さい男の子だったらかわいいとも言えなくはないのかもしれないが、大佐にとってはこのままでも十分かわいく見えるのだからはた迷惑な2人だ。
「ほら、べそべそしない。大きな図体で。私は少尉のような身長がほしいわ。敏捷な筋肉も、身体能力の高い体が羨ましい。大佐も羨ましいのよ。ここだけの話だけど、あの人とドン臭い人なのよね、何をやらせても基本的に」
「―――………」
「訓練であそこまで鍛えたのよ。凄いと思わない?」
「うス」
ハボック少尉がまたぐしと手の甲で頬を拭った。
「ああ見えて努力家なの。少尉、誰でも隣の芝生は青く見えるものよ。人間はそういうものなの。大佐も、ヒューズ中佐も、もちろん私も、あなたが羨ましい。でも、羨ましいだけじゃどうにもならない。そう思っているから鍛える。不安に思うなら、少尉も自分を鍛えなさい」
あの人が道を踏み誤ったとき、私はそれを指摘できないかもしれない。
あの人の考えをそのまま飲み込んでしまうかもしれない。
でも、あなたはそうではないでしょう。
私たちはそう思っている。きっとあの人も。
「……………」
「『今のままの君で十分なんだ』なんて、おとぎ話にしか出てこないセリフをあの人に期待してどうするの?それとも少尉はシンデレラなのかしら。ある日どこからともなく魔法使いやら錬金術師らやが現れて、美しく着飾れてもらって大佐にプロポーズされるのを待っているのかしら?」
「中尉…」
「現状にぐちぐち悩んであの人の言葉に耳も傾けず1人で行き詰るというのはそういうことよ。何のために半同棲状態なの?ただの欲求不満解消のためとかでやってるんだったら、本当に潰すわよ。少尉とやった次の日は仕事が滞るの」
「………………」
「いつ捨てられるかぐらいでびくびくしてないで。捨てられたら追いかけなさい。みっともないぐらい別にいいでしょう?本当にあの人が大切なのなら、何回でも泣いて叫んですがり付けばいいでしょう?――あんな人でも流される程度の情ぐらいあるんだから」
それにあの人は別にみっともないぐらいではあなたのことを嫌いになったり、幻滅したりすることはない。あの人が一度懐に入れることの意味をあなたは分かっている?言葉を惜しまないで。あの人を無闇に不安にさせないで。
目元に険を浮かべ、あの人の前から無言で走り去ったあなたはきっとあの人が不安を抱くことすら気が付いていない。
「………………………………」
「絶対、一度言おうと思っていたの。――少尉、殴らないのならどきなさい」
「うス」
「では、先に戻ります」
それでも、不安そうに顔をしかめる少尉を見て、言葉を重ねた。
これは大佐が少尉のことを好きなことを知っているから。何故、少尉は大佐があんなに自分のことを好きで仕方がないとばかりの行動を疑うのか。何となく大佐のことが不憫に思えて。
「少尉は我慢強い。それは美点でもあるけれど、時には本音を吐き出さなければすれ違うばかりよ。特に理解したい相手とは言葉を惜しんではならない。こうまでぼっこぼこにされなければ吐き出さないなんて面倒ね。――私もあなたが羨ましい。それを忘れないで」
でも、言うほど羨ましくないけれど。あの人の相手をするのは骨が折れるから。
「あの」
それでも、疑う男に呼び止められて視線を投げたら、少尉がその場でばったのように額をこすりつけていた。

漠然と結婚を夢見ていたのはもう遠い日のことだ。今は、時間をかけて培ったもっと太い絆を信じている。


    +++


あそこまでセキララな本音を言ってもらえたから吐き出せた言葉。嫉妬と言うより今はもう安堵する。あの人が大佐にとっても近い存在だと言うことに。
夢の中でオレの手を掴んだあの強さはオレを同士として認めていたから、オレを非難するものなんだ。もっとすがり付けばよかった。声が枯れるまで。
すっきりしたら、どうにもこうにもタバコが吸いたくなった。股間はまだ痛いし。鼻血も止まらないんだけど。お情けで骨は折れていないようだった。
体中が痛い。でも、今は何だかその痛みがうれしかった。


04

「大佐、終わりましたか?」
「はは」
乾いた笑いに仕事の進行状況を知った。
「頑張ってはいるんだよ。中尉」
「結果が伴わなければ努力はただの徒労です。それは大佐が一番よく御存知のはずでは?」
「全く持ってその通りだ」
大佐は恭しく頷いて、でも、後これだけで終わりなんだよと一枚の書類をつまみ上げた。そこには大きく太い文字で東方司令部イメージアップキャンペーンと書かれていた。
「――それで何かいい案はありましたか?」
一応聞いてやると、大佐は人の顔色を伺うように上目使いで言った。
「ミスコンなんてどうかな?」
「……………………」
「ミス・東方だよ」
「よろしいんじゃありませんか?」
大佐の顔にぱあっと笑顔が浮かんだ。
「そうかね!じゃあ、中尉も参加してくれるかい?」
「大佐も参加されるなら。よろこんで参加しましょう」
「中尉、私はミスコンの話をしているんだよ?」
「私もです」
残業が続いているから、少しでもあなたがゆっくり休めるようにと各部所を回っては頭を下げて書類の期限を延ばしてもらっている私の配慮を一体なんなんでしょう。
「――――あはははは。うん。ミスコンはやめよう。こんなもので女性の美は計れないからね」
「あら残念です」
大佐はその書類に炊き出しと書き直し、処理済の書類の山に重ねた。
「では、すぐ次を持ってきます」
「次?」
ゆっくり休む必要がないなら、次です。

「中尉」
「なんでしょうか?」
「袖口に血が付いている」
「――返り血です」
「そうか」


    +++


「―――返り血って…?」
ホークアイ中尉が大量の書類を抱えて司令室を出て行くのを見送ってから、書類に落書きを始めた大佐に小声で尋ねた。
「ん? ああ、仕事が終わらない私の変わりにホークアイにハボックの様子を見に行ってもらったんだよ。中尉がハボックの相手をしてくれるって言うからね。中尉に任せたんだ」
「それで返り血ですか」
「まあ、いいじゃないか。たまには。ハボックを殴ってホークアイのストレスが軽減されるなら奴も本望だろう」
「それでいいんですか?」
「人には持って生まれた役回りと言うものがあるんだよ、ブレダ」
「…………………」
ハボックはこの人のこういう言動を知ってて、犬のように慕っているのだろうか?知らないなら、腐れ縁の俺が教えてやるべきなのか…。
俺の逡巡をよそに時間は無常にも過ぎていった。


     +++


痛む体を引きずって、上着を手に司令室に戻った。ホークアイ中尉が、あら速かったわねと一言。どのくらいダメージを与えたか把握しての一言にまた嫌な汗が滲んだ。
「丁度よかったわ。大佐を連れ戻してください」
もちろん、オレは断る気なんかさらさらないし、むしろ喜んで従う。この人の命令にはなんだって。うん。
オレは上着を席に投げて、司令室を退出した。



いつもの場所を一通り回ってもその人は珍しくどこにもいなかった。門兵は大佐を外に出してないと言ってたから基地内にいるはずなのに。新しい場所を開発したのかもしれない。
あー、くそ。痛いし、いねえし。あー、もう。かくれんぼじゃねえんだから、もう…。
頭を掻き毟りたい欲求を抑えながらもう一度いつもの場所を回って、その場所がいつもと違って不自然な落葉に気が付いた。イヤーなき分で頭上を見上げると、やはり、そこに、捜し求めていた上司がいた。しかも、具合の良さそうな枝の上で寝ている。

この人、どうなんだろ。
この人の近くにいたいって言って、羨ましいとか言ってるオレたちってどうなんだろ…。ふと、何かからか目が覚める瞬間、枝に掴っていたナマケモノの体がぐらりと傾いた。
「うわっ!」
慌てて木の上に戻して、大きな深呼吸を一回。こんなに心臓がどくどくいってる自分にもうどうしようもないと感じながら、自分と同じように大きな深呼吸をしていた大佐の乱れた黒髪を撫で付けた。
手に慣れた、手放しがたくなる感触にもう全ては手遅れな予感がした。きっと、どうしようもないのはこの人じゃなくて、オレなのかもしれない。


05

「――ちょっと、大佐、バリエーション増やさないでくださいよ。いろんなとこ探しちゃたでしょ?」
大佐が猫のように目を細めた。木の上から。
「――ハボック、随分派手になったな」
あまり運動神経がよくない人だから、寝ていたわけではなくて目を閉じていただけなのかもしれない。もしくは、降りられなくなって途方にくれていたとかもあり得る。寝ていたら確実に地面に落っこちていただろう。
猫に似た生きものだけど猫じゃない。
「おかげさまで」
「うん。中尉は強かろう」
「一生逆らうまいと肝に銘じましたよ」
「それは私もだ」
「その中尉がそろそろ戻ってきてほしいと言われてますが」
「せっかく脱出してきたのに…」
「大佐、降りてくださいよ。戻りましょう」
オレの言葉に大佐は渋い顔で頷いた。そして、無造作に自分に向かって伸ばされた右手…。世界を掴んでいる右手が何のてらいもなくなく目の前に伸ばされて思わず両手で包み込んだ。

「――ハボック、お前は何を考えているんだ。まだ、呆けたままなのか?そうじゃないだろう」
「あ、ああ、そおっスね」
でも、この手が。この手のせいで。この手だったから。
「ほら、降りるから手を貸せ」
現実はこんなに簡単に渡されて、預けられる右手。この手は特別な手で。きっと多くの人間が求めている。そういう手だ。



「嫌な…、嫌な夢を見たんスよ」
二の腕を掴んで、木の上から地面へ。少したたらを踏んで着地してから、腕を離した。
枝にしがみ付いていたせいで、青い上着が少し汚れていた。
「それで一日中呆けていたのか」
顔色が悪い。ホークアイに殴られて貧血なのか?そんなことを笑いながら言って、顔に伸ばしてくる手を振り払い、屈んで青い軍服を汚す小枝を払った。
「――アンタがオレの手を振り払って崖から落っこちちまうんです」
「はあ?何で私がお前の手を振り払ってわざわざ落ちるんだ?」
「そんなのオレがわかるわけないでしょ」
「なんで私はお前の夢の中の行動まで責任をもたねばならない?」
全く、ほら、状況を説明しろ。大佐はそのまま木陰に腰を下ろして、その向かいをぽんぽんと叩いた。オレは一歩離れた日向に腰を下ろした。

「崖と言ったがそれは落ちたら死ぬような崖なのか?」
「わかんないッス」
「なんだそれは。私はどういう状況でお前の手を離すんだ?」
「右手に持っているものを離せないって。オレも落っこちるから手を離せって。オレは必死になって右手伸ばせって言ってんのに…」
結局アンタは離さなくて、オレの手の方を離したんだ。どうして?
風が木を大きく揺らし、木陰がオレを飲み込んだ。

「ハボック、私はその状況で死なない」
「なんでそんなこと言えるんですか?」
「右手に持っているものは落ちたら死んでしまうと判断したから離さなかった。お前に手を離せと言ったのはそれが最善だと判断したからだろう」
「その判断ってどういうことっすか?」
「一緒に落ちるより、崖の上にいたほうができることが多いと思ったんじゃないのか?私はどんな状況でも生き残って見せるぞ。その覚悟は当にできている」
「落ちたら死んじまうような崖だったら?」
「どんな崖なんだ。それは?」
「いーから」
「右手に持ってるものを離します?」
「当たり前だ。それを持ていて死んでしまうなら、離すぞ」
「それが何でも?」
「お前でも」
また風が大きく吹いた。強い日差しが影を強くして、木陰を揺らす
「生きる覚悟とはそういうものだ。死んでしまっては何もできないのだから」
影の中でもこの人の黒い瞳は飲み込まれない。
木々のざわめきにもこの人の声は擦れることはない。
「ハボック、だから、私はその状況で死なないと言うんだ。お前は私を過小評価している。私は全てを諦めない。だが、自分の命を天秤にかけるほどのものはただ一つを除けばないんだ。その判断を間違えることはない。分かったか?」
一際強い風に木の枝が大きく振られ、一瞬だけできた光の中で苦笑を浮かべた大佐を見た。
信じるとか信じないとかそうじゃなくて。分かるとか分からないとかそういうことでもなくて。オレはただ…。



「まだ、何かあるのか?言ってみろ」
大佐は立ち上がって尻に付いた土を払い、まだ座ったままのオレを見て不思議そうに首を傾げた。
「――もし、オレも落ちたほうがいいって思ったら、オレも一緒に連れてってくれますか?」
オレを選ばないからとか言うんじゃなくって、きっとこれだけのことなんだと思う。夢で連れてってやらないって言われた気がして、どうしようと思ってたんだ。
「何だ、お前。置いてきぼりを食らったのが応えていたのか!」
だから、お前、ヒューズにわんこって言われるんだよ。

大佐は体を折り、身をよじって笑い始めた。
あははははは!あはははははははははは!
「そんなに笑わなくたっていいでしょ…」
あははははは!
こうなっては、もうこの人を誰も止められなかった。
「悪かったよ!悪かった。お前を置いていって悪かった!」
意を決して告白したのに、こんなに大笑いされるなんて。
これで拗ねないほうがおかしい。

「―――オレも、ヒューズ中佐やホークアイ中尉みたいに…」
オレは大佐の馬鹿笑い声に紛らせるように声を潜めて言った。このまま大佐の耳に届かなかったらそれでいいつもりで。でも、大佐はすっと馬鹿笑いを納めて、じっとオレの顔を見つめた。

「例えば、ヒューズならば長い時間がかかった。寮で同室でなかったらこうも何でも赤裸々に話ができる仲にはならなかっただろう。例えば、ホークアイならば初めから親しみのあるつながりがあった。私の錬金術の師匠の娘でなければ、こうも分かち合えなかったかもしれない。――お前と私の間には何があるだろう?時間か?つながりか?どうだ?」
「何にもないです」
たまたま会えて、たまたまアンタの懐に入れた。
「そうだな。何もない。ヒューズやホークアイとのような関係性をお前と築いていこうと思ったら長い長い時間がかかるだろう…。しかし、私はそんな長い時間など待てそうもないな。だから、私はこんなにも繁くお前と体をつなげているのかもしれない」
「………………」
見上げた顔にはもう笑いの色はなく、オレが思わず頷いたのを見ると大佐も静かに頷いた。
「では、戻るか。中尉に礼を言っておけよ。お前の話を聞いてやってくれと言われた」
踵を返す大佐の背を追った。

「ああ、そうだ。私はお前の夢の中で何を右手に持っていたんだ?」
「秘密です…」
「そうか」
おやっと、目を見開かれ振り返られてもすぐ向けられたその背を見ていると、オレはこの人は答えを知っているような気がした。





夕方の司令室。
ほらよ、ハボック。ご指名だぜ。そう言われて受け取った受話器からは既に嫌な臭いが漂っていた。

「――お前、夢ん中でロイに置いてきぼりをくらって、めそめそしてたのをホークアイにうざいって言われてボッコボコに殴られたって言うのは本当か?」
「……………」
思わず情報を流出させた本人である大佐に非難の目を向けると、くるっと椅子を回して背を向けられた。人が真剣に落ち込んでいたのに、この人たちはすぐ人をおもちゃにする…。大佐の背中が笑いを堪えるあまり小さく震えていた。
「ロイを喜ばすだけだぜ?わんこ?」
電話口のヒューズ中佐の声も笑いを含んで震えていた。
「――今、変わります!」
大佐はオレに背を向けたまま手に伸ばして、無言で電話を要求する。その手はまだ小刻みに震えていた。

「可愛いだろ?実に駄犬なんだがな。―――私にハボックをホークアイから守ってやれるだけの能力などないよ。それに守ってやる必要などないだろう?中尉に任せておいたら何の間違いもないからな。―――当たり前だ。誰だって怖い!」
聞こえないはずのヒューズ中佐の大きな笑い声を聞いた気がした。
「うるさい。で、用件は何だ?」



自分の好きな人の人間性について考える逢魔が時…。
大佐越しの窓から見える夕日がきれいだった。
2006/09/15〜2006/11/22加筆修正