東部より愛をこめて 序

廃墟と化し瓦礫しかないと思っていたのだろう。中央へ向かう列車の車窓から見た東部の景色に、自分は驚きを感じ得ないのだから。
辛うじて被災を免れた建物を拠点に人々が集まり、汗を拭いながら惜しむことなく延々と瓦礫を取り除いていた。道路は至る所で舗装が剥がれていたが使い物にならないほどではない。日に日にそこを通る車両は増え、瓦礫の撤去は速やかに完了するはずだ。土地には区画やライフラインの痕跡が残り、復興は思いのほか早いことを伺わせた。
目に見えるもの全てを瓦解した。だが、それは目に見えたものだけに過ぎず、東部全体においてはほんの僅かだったのだ。――沈む。全てを無に帰するために技を放ったのに、既に東部は再生に向けて動き出している。私の覚悟など塵芥となんの変わりもないというばかりに…。そこがまた経済の拠点となりうるのなら、どれほどの苦労があっても誰かが復興する。人々の逞しさを称えればよい。そう思っても、内に篭るのは敗北感だった。
だが、それも一時だけだった。東部の経済拠点の都市へ、出兵を命じられていたのは主にキンブリーだった。私が出兵した地は、アメストリスの動脈の一つといえるこの路線沿いなどにはない、イシュバール人が隠れ住む僻地だけだった。そして、そこは無に帰した。文字通り、何もなくなった。
爆弾魔と言われたキンブリーの技は無秩序で悦楽に沿ったものと思われていたが、その実、汎用性が高く融通が利いたことを今になって知る。復興を前提とした場所においては、派手に街を爆破させることでそこにいる人々を速やかに退去させ、復興の足がかりとなる道路やライフラインには極力被害を及ぼさないようにし、廃墟の如く有様を作り出した。それは上からの命令によったものなのかもしれない。もしくは、……。
あの地で焔の錬金術師の技は理性そのものと言われたが、本当にそう言えるのか。私は命じられるままに技を用い、イシュバール人を殺した。だが、命令に背かず、イシュバール人をも殺さずにすむ道があったのではないか。それを探すことを怠ったのではないか。私が放った技は本当に理性によったのか。
思考がまた答えの出ないループの中を巡り始める。そうすればもう車窓に映る東部の復興に励む逞しい人々の営みを見ても何の感慨も生じなかった。

列車が漸くセントラル駅に到着すると、乗り合わせた人たちが申し合わせたように立ち上がり大きく背伸びをした。どの顔にも疲れがあったが、どことなくほっとした笑顔を浮かべていた。
東部内乱からの帰還のピークは既に過ぎ去り、今や皆無に等しかった。セントラル駅にも既に帰還軍人を祝う雰囲気は取り払われ、日常を取り戻している。見渡す限り、駅構内にアーミーブルーの姿はなかった。
迎えは誰もいない。それはイシュバールで彼らを見送ったときに分かっていたことだった。
ヒューズはイシュバールの地で早々に情報部への移動の辞令が下り、取るものも取らずセントラルへ帰って行った。長きに渡った東部内乱が終結した今、水面下で画策されてきた他国からの干渉は徐々に表層化している。今頃、情報部主導の作戦が展開されていることだろう。奴は寝る間を惜しんで働いているはずだ。
ホークアイは私の副官になってくれるそうで、自ら移動願いを出し、文官になるための研修に行ってしまった。一日でも早く副官になれるようにと、彼女もまた早々に振り返ることなく行ってしまった。座学があまり好きではないと言っていた彼女にとって研修の日々は煩わしく忙しいものだろうと思う。
それを押してまで迎えに来て欲しいわけではなかったが、胸に去来する感情は間違いなく寂寥感だった。
未だ夏の名残が残るセントラルに踏み降りた自分は、戦火の埃にまみれた外套なんか羽織っている。時勢に乗り遅れている。その確かに生じた焦燥感がそんなものを呼び込んだのか。あの場所で苦楽を共にし、幾度も命を救ったものだったのに、持て余している自分がいた。それはもうここでは無用の長物なのだ。まるで自分のようだった。そう意識してしまえば、躊躇などなく外套をゴミ箱に捨ててしまえた。清々した。そう感じても頬は僅かにも緩むことはなかった。
数ヶ月ぶりに開けた自分の住処は殺風景のままだった。大して汚れてもいない。それがイシュバールにいた時間が決して長いものではなかったことを知らしめる。取り立てて何もない部屋が、イシュバールへ向かった自分の決意を思い出させた。覚悟を確かにし、勇んでここを出て行った。紅顔の自分の姿が手に取るように見える思いだった。あまりの馬鹿馬鹿しさに大笑いしたくなっても笑い声など出てくることはなく、頬がぴくりと引き攣れただけだった。乾いていた。

 それは東部内乱からの帰還軍人を統括する部署として突貫工事で作られた、何の変哲もないプレハブ作りの建屋だった。中央司令部の広大な敷地内の奥深くに位置し、くり返しそこへ向かうことを辟易とさせた。
「我々は何よりも早く東部内乱の帰還軍人たちを統括する部門を要することに念頭を置いたのだ」
 そのため、敷地内の奥深くに設けることになったがそれは些細なことに過ぎない。そう言わんばかりだった。
明らかにこの扉の前に立つ気概が失われていることを感じていた。現にこのドアを開ける勢いは目に見えてない。

初めてこの建屋の前に立った日はまだ晩夏だった。正面入り口を抜け、何も遮るものがない広大な真っ直ぐに続く正面通路を途中で外れ、いくつかの建屋の間を通り、未舗装の道を永遠と歩いた。この過程で帰還軍人たちは思い知るのだろう。街や軍内でどれほど華やかな帰還を喜ばれても、その実はただの同属殺しであり、この国にとって大した意義のない戦いに繰り出されていただけであると。
茹だるように暑い日差しの中を長々と歩き、思考がぼやけ始める頃、その建屋の姿が見え始める。それでも、外壁際の樹木はまだ青々しく茂り、葉擦れの音を深くし、濃い木陰を作り、その下を通る僅かな間でも憩いを齎した。この頃はまだ同じ道を歩くものたちが幾人もいた。声や視線を交わすことはなかったが、今思えば、同じ戦禍を潜り抜けてきたという無言の連帯感に励まされていたのだろう。
その扉を開くと、僅かな隙間から流れ出た涼やかな空気が汗ばんだ肌と散漫する思考を慰めた。それがほんの一瞬であっても、そこにいる理由を忘れさせた。
定型句のねぎらいの言葉に促され、プレハブ作りの簡易な建屋に入り、一通の辞令を受け、そこを後にする。そしてその辞令に何を思うことがあろうと、二度とここに来なくなることが常だった。
今、秋となり樹木が日に日に色を失い、葉を散らしている木々もあった。吹き抜ける風が身体の芯の熱を奪っていく。同じ道程を行くものの姿は極端に減った。その事実が更に身体を凍えさせた。
全身に緊張感を帯びたまま、その扉を開ける。だが、一端開けてしまえば、そこから流れ出るほのかに温かい空気にほっと肩の力が抜けてしまうのだ。
そこの部屋の住人はいつもと同じ笑顔と声色で言う。苛立ち声を荒げても、くり返されるものに変わりはなかった。
「マスタング中佐。今、あなたがすべきことはできるだけ多くのパーティに出て英雄として賞賛を受けることです。強いてはそれが多くの同胞の命を救うことになります」
 辞令は降りなかった。ただ帰還軍人の一人として辞令を待つ日々。つまり、職がなく、一日を無為に過ごす日々が続いていた。
くり返しくり返し同じ道を歩いた。くり返えされる言葉もまた変わりなかった。それにそれゆえにか。それをどれほどくり返しているのか次第に分からなくなっていた。
ルーティンになっていく日々の中で憤りはその角が削れていく。志に霞が篭る。何より、何もすることがないという無力感が焦燥感を煽るのに、次第にそれすら鈍磨し、感情の全てが消沈していくのを感じた。ただ無力な存在として、その輪郭が日に日にぼやけていく。誰もいない。ヒューズもホークアイもここにはいない。その鮮やかな存在すらおぼろげになっていった。

 誰かが耳元で囁く。あなたは疲れている。私は思う。私は疲れているのか? 目をつぶり休んだらいい。私は思う。私は目を閉じて休んでいいのか? 何もかも忘れて休みなさい。私は思う。私は何もかも忘れて休んでいいのか? 休息は誰にでも必要なのよ。私は思う。私にも休息は必要なのだろうか。いや違う。今、必要なことは休むことではない。目を閉じてはならないのだ。はっきりと分かっていた。
だが、目蓋が重くて開けていられそうもなかった。四肢が鉛のように重く動かせそうもなかった。だから私は目を閉じ、身体の力を抜くしかなかった。

   + + +

マスタング少佐、マスタング中佐、マスタング大佐。ホールバーグ軍曹です。世情に疎く大変申し訳ありません。もうどのくらい階級を昇られたことでしょう。マスタング少佐が(かつての呼称にて失礼します)、中央に復帰されて早数ヶ月と思いますが、お元気でしょうか。益々のご活躍と存じます。ここは田舎過ぎて、この手の情報が全く入って来ないため、少佐の華々しいご活躍や快進撃も想像するに留まっていることが残念でなりません。
私は現在東部の片田舎勤務となり、日々線路を敷いています。銃を片手にかの地を走り待っていた私が、今やつるはしを握り締め、トンカントンカンと音を奏でている毎日です。そんな日々にて初めて手紙なんぞを書かせていただきます。至らぬことが多いと思いますが笑ってお許しいただければ幸いです。
私はあの地から次の勤務先希望を東部僻地に出していたため、東部内乱終結後すぐに出立させていただいていました。後々、他の隊員たちがあなたを囲み酒盛りをしたと聞いて、実に口惜しい思いをしたものです。その場で他の隊員がしたように私もちゃんとあなたに伝えたかった。あなたはあの地獄を終わらせてくれた。私はあなたのおかげで生き残れました。私はあなたのおかげで心を壊さずに生きていられます。私はあなたのおかげであの苛烈を極めた戦場で生き残れたことに胸を張り生きていられます。あの日々が、あなたが私の過去と今を支えています。ありがとうございます。そうあなたに伝えたかった。私の唯一の心残りは、部下である私たちがあなたに守ってもらうことしかできなかったことです。あなたは私たちを守ってくれた。どれほど悩み、下された命令に憤っても、あなたは出撃が決まれば決して逃げず、常に私たちの前に立った。あなたはイシュバール人に背を向けることなく戦い続けた。その姿は、あなたの背後にいた私たちにどれほどの勇気を与えたか。あなたに想像が付くだろうか。同属殺しとどれほど蔑まれても、私にはあなたに守っていただいた命が尊く思えてならないのです。あなたに守っていただいた命を狂わせてなるものか、病ませてなるものかと思うのです。今度は私たちが、私が、あなたを守る盾となり矛となりたい。あなたがそうしてくれたように。あなたの部下であったことが私の誇りです。今度はあなたを支える礎の一つとなりたい。今度はあなたのためにあなたと共に戦いたい。あなたの手となり足となり、あなたの戦う理由の下で命を賭して戦いたい。あなたのために

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中央司令部。軍紀通りに正門前に横付けされた軍用車にマイルズが表情を変え、運転を命じられた司令部付部隊の若年な仕官に鋭い声で言った。
「閣下に下士官同様に門を潜り、歩けと言っているのか!」
地方高官を乗せたことなどないのか。それとも地方高官など中央の下士官と同等に扱えとでも教育されているのか。暗に言葉を変えて問う。
急遽セントラルを訪れた我々に対し、中央司令部の準備は全くと言っていいほど整っていなかった。東部内乱終結のごたごたで運転手を勤められる人材の確保すらできず、手近で手の空いていたものを寄こした。ものを知らぬのならただの下士官ではなく上位階級の仕官を。それが我々に対する唯一の配慮であり準備だったのやもしれぬ。だが、それだけで到底足りることではない。私を軽んじるということは、北方の要、ブリッグズを軽んじることに通じるのだ。
若い士官は己の無知に顔色を失い、全身をこわばらせた。何も知らぬゆえ言うべき言葉を持たない。身体を震わせることしかできなかった。
正門より先に車両で進み入ることを許されたものは大総統より他はない。故にどの将軍位にあろうが、皆ここで下車する。軍紀にはそうあり周知のことであった。だが、物事には何事にも例外がある。ブリッグズの主は、大総統権限により、大総統同様司令部奥深くまで車両で乗り着けることが許されていた。それはブリッグズが北方僻地であってもこの国の重要拠点であることを内外に誇示するためだった。この程度の事項すら添えられず、士官が運転手を任されたという事実に、中央の慌しさは予測以上であることを知る。
「――も、申し訳ありませんっ!」
 混乱を極めた仕官は思考を放棄した。アクセルを踏み込み、常時堅く閉ざされている車両用の大正門へ軍用車の向きを慌しく変えた。今にも発進し、大正門をぶち破ろうとしているかのような挙動不振さに門兵たちが走り寄る。だが、誰が乗車しているか知り、背筋を正した。
「オリヴィエ・ミラ・アームストロング将軍!」
 その名の下に正門に詰めていた兵士たちが一斉に最敬礼を取った。大正門が開かれる。
突然の来訪。しかもその用件は極めて私用に近い。元より慌しい中央の手を煩わせる気はなかった。
「開けろ」
その一言で、助手席に石像のごとく固まり座っていた士官が軍用車を転がり落ちるように降り、ドアを開けた。
車両用の大正門から踏み入る。
晩夏を向かえ、暑さに締りがない中途半端な季節だった。地表に篭った熱はまだ夏の盛りを残し、軍靴をやや緩める。その僅かに生じた遊びに、物事が思惑通りに進まないでいる現状への不快感が増し、自然と表情が険しくなった。
正門から続く広大な一直線の正面通路を歩いて渡る。大判の白い大理石を並べただけの道。それはこの国の強さの象徴であった。己が踏みつけている大理石は、かつてこの国がここに並べるためだけに白い大理石を求めて他国を侵略した戦果だった。
一つの戦いの終結は新たな戦いの序章でしかない。それはこの国では昔も今もなんら変らぬことなのだ。仲間同士の血で血を洗う戦いであっても、東方の戦火は消えた。ならば、東方に変わる火種がまたひとつ燃え立つだろう。それが北方でないと誰が言えるのか。

 東部内乱に送り込んだ斥候は、国家錬金術師の中に圧倒的な火力を誇ったものを見た。立ち上がる火柱。それが術師の意のままに形を変え、動いたという。天をも焼く火柱はやがてイシュバールに黒い雨を降らせた。それすら術師の力のようだったと言う。報告書には複数の錬金術師について記述があったが、その内容は明らかな差があった。それは実際に目の当たりにした者がいかに焔の錬金術師の技に圧倒されたかを物語るのだろう。
 腑抜けた弟が逃げ帰ってきた戦場で功績を挙げた男。一度現物を見てやろう。そう思うまで時間は要しなかった。
東部内乱の終結を待ち、単なる好奇心で国家錬金術師機関に問い合わせた。しかし、これが予想外にも数日間にも渡り言質を濁し、挙句の上、焔の錬金術師は東部内乱帰還軍人対策部の管轄ゆえ取り次ぐことはできないと言う。ならばと、その東部内乱帰還軍人対策部とやらに問い合わせてやれば、未だ帰還していないなどとふざけたことを言った。腹立ち紛れに、東部内乱帰還軍人対策部に焔の錬金術師の北方ブリッグズへの移動願いを出してもみたが、返事が来る気配すらなかった。
その対応に噴気し、どこにいるのか知れない、焔の錬金術師のせいで、こんなところにまで出向くはめになっていた。
セントラルに到着した日に奴の住処に立ち入った。だが、そこはくもの巣が張られ帰っている形跡はなかった。連日夜会に出ていると噂になっていたが、家人に調べさせれば、その姿を見たものは多くなく、最近に至っては全くいない。
わざわざ東部内乱帰還軍人対策部にまで赴き、その所在を問うが、そいつらは自らの職務も弁えず分からないと恥も外聞もなく言った。毎日ここに来ることになっているだろうことを正して漸く定型句以外の言葉を話したが、今はもうほとんど来ていないと期待に応える言葉ではなかった。国家錬金術師機関に至っては本当に分からないのだとまで言った。
焔の錬金術師の居場所が知れない。つまり、中央司令部は東部内乱後、焔の錬金術師に役職を与えずに飼い殺しているということなのだろう。そのせいで、焔の錬金術師は連日遊び歩き、どこもかしこもその行動を掌握できなくなっているのだ。
役に立たないのは腑抜けた弟だけではなかった。アレックスはイシュバールから強制帰還させられたばかりか、屋敷でベッドの陰に隠れるようにしてベソをかいていた。挙句、マイルズを見て、全身を戦慄かせ血の気をなくす。それで私の弟を名乗るなどふざけた話だった。焔の技を説明できなくとも、同じ国家錬金術師なのだ、焔の錬金術師と面識ぐらいあるだろうと、繋ぎぐらいには使ってやろうと考えていたが、焔の錬金術師の名を聞いただけで堅く口を閉ざした。
中央が持て余し、弟が口を噤む程の火力を有し、しかし、地方からの干渉は極力許さない。始めは単に顔を見てやろう程度の好奇心だったが、今は北方に連れて帰るのも一興だと、別な気概が生じていた。

ロイ・マスタングの居場所を知っているような奴はいないのか。そう方々を問い詰めると、戦々恐々と情報部のマース・ヒューズ少佐という名前が告げられた。だが、誰もがその名は口にしたくなかったと顔を歪ませる。
「マース・ヒューズ少佐ですか。情報局の若きエースと呼ばれている男だと思いましたが。東部内乱終結直後から階級を一気に駆け上がり、またひとつ上がりそうだと言われています」
「情報部が関わっているのか」
 情報部の作戦に焔の錬金術師が秘密裏に関わっているのか。そのための所在不明なら納得がいく。これでは益々会いにくかろう。
「情報部が関わっているのかもしれませんが、確か、マース・ヒューズ少佐は焔の錬金術師の親友では。仕官学校で同期だったことは周知のことです」
「有名なのか?」
「私の耳にまで聞こえてくるくらいには有名ですね」
 焔の錬金術師とプライベートでも親密ゆえに、その居場所を知っているだろうと誰もが考え告げられた名。この慌しい中央司令部において最も多忙を極めている情報部のエースと目されている男。その所在は確かだったが、こいつもまた捕まらない。しかし、それは当然とも言えた。
情報部に打診しても、
「ヒューズ少佐はお電話には出ません」
同じ返答がくり返される。だが連絡を続ければ、向こうから確実にコンタクトがあるだろう。その予測通り、情報部に第一報を入れ2時間も経たずに接触があった。すれ違いざまの下士官から無言でメモを渡される。簡潔に場所と時間、10分間とのみが書かれていた。

「――閣下…」
 幾度目になろうか、マイルズが言葉を濁す。
「奴らは自らその力の有用性を示した。国家錬金術師などただの無駄飯喰らいだと思っていたがな。この国において自らの利便性を示した以上、誰が無視などするものか。それは十分戦力となりえるのだ。中央で飼い殺しにするぐらいなら、北方でこき使ってやろう。この私が」
「ならば、何も閣下自らが来ることでもないように思いますが。――今、この状況下のセントラルに、この私を連れてくるなど酔狂でしょう」
「知るか。お前は私の副官に過ぎん」
 お前が私の部下と知って、そのサングラスを外させようと命じる酔狂なものがこのセントラルにどれほどいるのか。だが、それを試すのも悪くはない。
「弟君には申し訳ないことをしました」
「奴は軟弱なだけだ。まったく昔から役に立たん」
 中央司令部本陣、第一作戦本部を通り抜け、メモに書かれた場所へ向かう。他国との情報戦が熾烈を極めている今、そのエースに会うには制限を受けざるえなかった。

   + + +

いつもの面白みに欠ける夜会の帰りだった。こうも豪華は夜会が続くことを望んでいたにもかかわらず、それが実際に繰り広げられるとなんとも疲れが溜まる。これがもう若くないということなのかもしれない。長く続いた東部内乱は私の最も美しい時代を過ぎていった。そういうことなのだろう。現に、この連日の夜会の主役はもう私ではなくなっていることは誰に言われるまでもなく承知していた。
 行き交う馬車に高級車。中には付き添い人と色とりどりに着飾ったお嬢さんたちが乗っているに違いない。明日はどの夜会に行こうかと、心を躍らせて。
「こんなことならもっと長く内乱が続けばよかった…」
 独白のつもりが咎めるように運転手が言葉を挟んだ。
「――奥様…」
 長く運転手を務めている家人だった。礼儀は失われていないが、遠慮はいつからかなくなっていた。まあそれすらあまり気にならない。それは若さ故の堅さが抜けてきたことなのかもしれなかった。
「もう私も若くはないわ。そういう意味で言ったのよ。本気で内乱が終わらなければ良かったなんて思うわけがないでしょうに…」
 軍人に知り合いは大勢いる。彼らことを思えば良くも悪くも戦争など望む余地はなかった。
「……、申し訳ありません」
「いいのよ。私が、外聞が悪いったらないことを言ったのは分かっているわ」
「申し訳ありません…」
 深夜なのに行き交う車も馬車も日中とさして変わりなく、いつもならたかが十数分の帰り道が渋滞に撒きこまれもう30分は過ぎていた。
「歩いて帰りたいわ」
「お気持ちは分かります。私もできるなら車を置いて歩いて帰りたいぐらいですから」
 まだそれなりに堅苦しさを残した運転手もうんざりしているのは同じらしい。
「これ以上風評も悪くなりようはないのよ。――ああ、大丈夫、何も言わないで。言ってみただけよ。歩いて帰るような真似はしないわ。だって、足が痛くなりそうだもの」
 幼い頃は高いヒールを履き足が痛くても美しく歩くのが淑女の嗜みだと考えていた。いつからかどれほど高いヒールの靴であっても履いて痛くならない靴を買えることが淑女の嗜みだと気付き、今は淑女は万が一にも足が痛むような真似はしないものだと考えている…。
「ふう…」
 憂鬱だった。何もかも。そして、それはこの虚構のような夜に終わりが見えないからだと分かっていた。
 立ち並ぶ街頭には深夜にも関わらず、明かりが煌々と灯っている。誰のための街頭なのか、歩行者など一人もいないのに。いない? 目を凝らせば、街頭の明かりに影が横切る。黒い男。黒い外套の、黒髪の男が俯き加減で歩いていた。しょぼくれた風情。帰還軍人かもしれない。酔っ払っているのか、男はふらふらと歩く。俯いたまま。ああ――、そう思った瞬間、思った通りに街頭に頭からぶつかって、額を押さえたまま尻餅を付く。
「ふふふ…」
 冴えない。なんて冴えないのかしら。挙句、男は街頭に小さく頭を下げた。謝罪したのかもしれない。
「奥様?」
「ちょっと待っていて」
 そう言い置いて、車のドアを自らの手で開け降り立つ。外の冷気が石畳から立ち上がってきた。
「奥様! お待ち下さい!」 
背後から響いた、いつもと違う焦りを帯びた声が僅かに心地よかった。

「あら、血が出ているわね。立てるかしら?」
 近くで見れば軍人には変わりなかったけれど、随分若い印象を受けた。いや、若いに違いない。なのに、近くで見ればより一層疲れを帯びていた。そして、みすぼらしい。
「寒いわね。いいから来なさい。さっさと立つ!」
 強い口調で命令すれば、よろよろと立ち上がった。額を押さえたまま。男は汚れていた。髪もぼさぼさで顔を隠し、臭い。泊まるところもなく野宿でもしていたのだろう。
「こっちよ」
 とぼとぼと歩く男を連れて戻れば、苦虫を潰したような顔でドアを開けて待つ運転手がいた。そこにさっさと男を詰め込んだ。
「…………」
 また社交界で奥様の良からぬ噂で持ちきりになりますね。若い男を道で拾って連れて帰ったと。運転手は視線だけで雄弁に語った。
「怪我した野良猫を拾っただけよ。ほら、やっと前が動いたわ。全く車と馬車の車道は別にして欲しいものね」
屋敷に着くと、連れて帰った終始無言の男を見て、執事も家人も全員が呆れた顔をして、私を迎えた。
「怪我をした野良猫の拾ってきたのよ。尻尾はないけれど」
 だって退屈だったのだもの。連日夜会が続き、無数のはしゃいだデビュッタントたちと言葉を交わすだけの日々。うんざりだったの。そう気持ちを込めて言えば、執事が大きなため息を付いた。
「分かりました…。まずバスをご用意します」
 諦めが早い。これ以上、主たる私をうんざりした気分にはさせないらしい。優秀な執事に笑みを浮かべた。
「ええ、よろしくね」
 そして私はまた日頃の行いの大切さを学ぶ。

 冴えないよれよれの野良猫は、家人にバスでがしがしと洗われて出てくれば、なんと今をときめくロイ・マスタング中佐へと変わった。イシュバールの英雄。この華やかな社交シーズンの間違いなく主役だった。どこの夜会でもフリーパスで入れ、諸手を挙げて歓迎されている人物。軍人なのにその容姿は優しげで、会話も洒脱が利いているという。私も一、二回か夜会でその姿を見たことがあった。しかし、言葉を交わしたことはない。彼は常に多くの取り巻きに囲まれ、近づくこともままならない存在と化していた。
 なのに、そんな人物が取り巻きも連れず、深夜の歩道を一人で歩き、街頭にぶつかったり、野宿なんかをしている風情なのだ。
家人は彼が誰なのか気付かず、命令口調で床に座らせ、街頭にぶつけて出来た額の傷を容赦なく消毒し、べしんと叩くように大きくガーゼを張った。
「ロイって呼んでもよろしいかしら?」
 そのなすがままの有様に、中佐と呼ぶにはどうにも厳つさが足りず、まるで冗談を言っているかのように思えて、そう提案してみれば、彼は了承するように口元に笑みを浮かべた。その笑顔に見覚えがあった。鏡の中で笑う自分の笑顔だ。疲れている。この男もまた深い疲れの中にいる。イシュバールの英雄。それはつまり戦場で比類なき武功を挙げたことを意味した。それもまだ数ヶ月前のことに過ぎない。
「私、猫がいる生活って始めてよ」
 楽しみだわ。そう言えば、マスタング中佐は少し困ったように眉尻を下げて、私を見上げた。

 ロイは予想外にも我が屋敷で長逗留した。しかも、屋敷から一歩も出ずに過ごしている。夜会では突然姿を消したロイの所在について密かに話題になっていたが、私は何も言わなかった。
ロイは、昼間は所構わず日当たりのよいところで丸くなって転寝をしているという。手触りが気に入ったのか、キャメルの毛布を片手に。空腹を感じれば厨房に現れたり、家人たちの食堂で一緒に食べたりするという。世話を焼かれるのは嫌いではないらしく、従卒の付く階級の人物だからか、寝癖の付いた黒髪を家人にされるまま櫛で梳かされたり、言われるまま身なりを整えているとか。庭師の隣で草を毟ったり、そのまま芝生の上で昼寝をしたり。気が向けば、家人の手伝いをしたりもするという。しかし、その一日の大半は丸まっているという。
 午後になって起きてくれば、サンルームのカウチで丸くなっている姿を見つけた。それを眺めながら、執事の入れた紅茶に口を付けた。
「今日はお早く目覚めたらしく、私たちと共に朝食を食べました。何やらパンプディングが食べたいようで…。マダムのご許可がいただければ、アフタヌーンティーに作ろうと思うのですが」
 軽食にこだわりはない。ロイが食べたいのなら、異論はなかった。
「本当によく眠るわね」
 それでも、夜会に行く前と帰ってきた時には必ず起きてきて、出迎えてくれていた。
「夜は魘されていることも多いようです」
 執事を見上げれば、思いのほか真剣な目をしていた。
「この方も帰還軍人ですから、当然と言えば当然なのでしょう。吐かれていることもありました」
「そう…」

 執事の言葉が気になって早めに夜会を切り上げた。ロイも予想だにしていなかったのだろう、玄関口にその顔はなかった。
 ロイ用に用意している客間を、息を潜めて覗けば、やはり魘されていた。カーテンも引かずにベッドの上で小さく丸くなり、ナイトランプに照らされた白い顔には眉間にきつく皺が寄っていた。
「ロイ」
 肩を揺すれば、その身体がじっとりと汗ばんでいることを知る。よく見れば顔にも玉のような汗が浮かんでいた。張り付いた前髪。額を拭えば、身体が傾ぎ、白いシャツから覗く鎖骨の陰影を強くした。
「ロイ……」
 汗で鈍く光る肌にシャツが張り付いている。首筋を汗が伝い落ちて行った。寝苦しそうな様に首筋の汗も拭う。脈動を感じた。しなやかな身体。なぞるように触れば、冷えた素肌の薄い皮膚の下に鈍く篭った熱を感じる。濃い影を作る睫毛が痙攣するように震え、身体が強張った。開きそうになる目蓋をそっと押さえる…。
「ロイ、大丈夫よ。あなたはそのまま目を閉じていなさい。私が眠らせてあげるわ」
 耳元で囁けば、ロイはまた身体の力を抜き、私の手に全てを委ねた。――その日からそんな戯れが始まった。発端は単に猫を撫でるような、そんな感覚に過ぎなかったと思う。
溺れたのは愚かにも私だった。伯爵未亡人として数多の浮名を流していた私が独占欲や支配欲に足を取られ、嫉妬に駆られた。
昼夜関係なくささやかな戯れは続いた。ロイは戯れた後には、少しはまとまって眠れるようになっていた。もっと安らかに眠って欲しくて、より戯れを深いものにしていく。時折遊ぶ仲にある、口の堅い友人の男爵を誘ったこともあった。ロイは私の趣向に何を言うわけでもなく、ただ私の言葉に従い、眠った。

ある日、夜会から帰ったらロイがいなかった。
サマーヴェル男爵が、私が呼んでいると言ってロイを迎えに来て連れ出したという。執事だけでなく、家人までもが不安そうな顔で言った。
ロイをこの屋敷から連れ出した。身を焼くような怒りに駆られ、男爵のペントハウスへ殴り込めば、そこには既にロイの姿はなく、男爵だけが満足そうな顔で私を迎えた。まるで悪戯がばれた子どものように、私の機嫌を伺うような視線を向けた。
「マダム、お早いお着きですね」
「サマーヴェル、ロイはどこにいるの?」
扉が空いたままの寝室に向かえば、寝具はしっかりと乱れ、アルコール臭を飛ばすかのようにバルコニーに続く窓が開かれていた。怒りに我を忘れかけている私の熱を冷まそうとするような冷たい風が吹き抜けた。白いレースのカーテンが大きく翻る。まるで何かの終わりを告げるかのように見えた。
「ロイはどこにいるの?」
「マダム? マスタング中佐はお帰りになりましたよ」
帰る場所などないから私のところに居たのに。この男はロイがどこに帰ると言う気なのか。
「マダム。マダムに黙ってロイと楽しんだことは謝罪します。ついあの肌が忘れられなくて…」
 その上、私のロイを薄汚い欲望で汚した。止め処なく込みあがる怒り。治まる気配はない。治めようとする気持ちも湧かなかった。貴族に生まれた時から自分をコントロールする術を訓練していたというのに。飽食し、存分に満足した男の締りのない顔が不愉快さを極めた。
突き飛ばした。男はペントハウスの最上階から、バルコニーを越えて落ちた。下は河が流れている。大きな水しぶきの音が爆音のように聞こえた。男の顔には、私の視界から消えるまで、自分がなぜこんな目に合っているのか全く分からないと驚愕に彩られていた。

   + + +

 メモに書いてあった一室で指定された時間を待った。埃の積もった事務机が一台。その上にお座なりに旧式の電話が置かれただけの、今は使われていない空き部屋だった。
ここにマース・ヒューズが来るのか。それともロイ・マスタング本人が来るのか。指定の時間を10秒ほど過ぎて、電話が鳴った。まさか、ここまでこの私を動かし待たせて、電話で済ませる気か。久々に驚きを感じ得ない。受話器に手を伸ばしたマイルズを制し、自ら取り上げた。
「おい、お前は何なんだ? 焔の錬金術師のマネージャーかなんかか。この私を待たせた挙句、電話で済まそうとはいい度胸だ」
「――おい、噂になってるぜ。氷の女王が焔に溶かされたってな。いいか、単刀直入に言ってやると、あれを戦場にやる気はねえよ。関わるな」
「それは中央の見解か?」
 受話器越しに漏れ出た口調に、マイルズが驚きを隠しもせず凝視した。
「んなわけねえだろ。。中央はどうでもいいんだよ。焔の錬金術師なんてどこでどうくたばったって、どうでもいいんだよ。そんなのここ数日間の中央の態度で分かんだろ。あれに拘るのは、戦火が燻る場所だけだ。あれが投入されれば一気に形成が変わる。戦場に出させたくて仕方ないのは地方なんだよ」
「で、お前は焔の錬金術師に集る地方のハエを追っ払っているというわけか」
「そーだよ。つうことでこれで話しは終わりだ。ロイの居場所嗅ぎまわりやがって。邪魔なんだよ。さっさとブリッグズに帰りやがれ!」
「ヒューズ少佐!」
 マイルズが脇から声を荒げる。それを手で押し留めた。「お前もイシュバールに行ったのか?」
「そーだよ」
「戦火から遠のけておきたいか」
「奴の技は繊細なんだ。精神が不安定なときに使えたものじゃねえ! それが分かってない奴が多すぎる!」
焔の錬金術師の技を、その姿を見たものは言った。焔の錬金術師はその術を放った後、じっと自らの技が齎すものを、目を逸らすことなく見ていたと。
 イシュバールを共に戦い、今、寝食を忘れ、情報戦に身を投じている。一介の少佐が将軍位に言葉も荒く罵倒するのは、私がその無礼に怒り電話を叩き切ることを望んでいるからだ。それもこれも焔の錬金術師を守ろうとするために。
「まだ時間はあるだろう。私の話を聞け。焔の錬金術師に干渉されたくないのであれば、ブリッグズほどお前の望みに適う場所はあるまい。あそこはすでに私という抑止力が働いている。中央の影響力も地方の中ではもっとも届かない。一度私の下に置いたら、移動など簡単にはできまい。それでも心配ならば、私の武器として、ブリッグズの箱の中に入れてしまっておいてやる。焔を冠する錬金術師だ。雪や氷を溶かすことぐらいできるのだろう? どうだ? 悪い話ではあるまい。そうすれば、地方のハエを叩き落す手間が省けるぞ」
 面白そうだ。単なる好奇心と、捕まらなかったから捕まえてやろうという気になった。そんな程度の思惑で焔の錬金術師をブリッグズへ連れて行こうとしていた。
ヒューズ少佐の語気が荒くなるほどに、いかに高位階級者の好奇心から焔の錬金術師を守ろうとしているかが窺えた。こうまでして守ろうとするのだ。その場所としてブリッグズを貸してやっても良い。そのあまりの捨て身な様に態度を改める気になれば、すぐに言葉が改まった。
「あいつの技は汎用性に欠けています。あんま役に立つ奴じゃないですよ」
「うちの弟よりか?」 
「閣下の弟君の方が立派だったと思います。あの時、正論を貫けるものが弟君以外にいたでしょうか。追随すらできなかったのは間違いなく私たちの弱さです」
「正論を紡ぐことは大切だ。それに沿い行うことも。だが、我らは知らなくてはならん。弱者が紡げる正論など何もないことを。正論など誰でも言える。正論であるからだ。弱者は弱者故に自らの意思が尊重されずに傷つけられた自尊感情を補うため正論を吐く。正論ゆえに否定されぬことで自らを守る。そんな正論に何の意味がある。弱者の正論などそんな程度のことにしか受け止められん。強者は強者ゆえに自らの意思が何であれ尊重される。そんなものが正論を吐き何の益がある」
 お前もまた強者だ。お前は何の益があろうか分からずとも、正論を紡ぐか。それに益を見出せるのか。
「アレックスは強者となり強者として正論を吐かなければならなかった。かの地で強者とならなければならなかった。一民族の殲滅という命令に奴が背けば、誰にも施行できないものだったか? いや、違う。代替の存在は多くいたのだ。誰かが行わなければならなかったのであれば、自ら行い強者となるべきだった。奴の行為は目の前の責任と、未来で強者と立つことをも放棄したことを意味する。過ちを未来に正すことすら放棄した、子どもの駄々に過ぎんのだ、それすら分からぬほど奴は腑抜けなのだ。だが、焔の錬金術師は強者となりうる未来を自らに残した」
 お前は弟とは違う。
「…………」
ほんの僅かの沈黙の後、かすかに吐き出される音を拾う。
「私もまた正論を紡ぐことはできないでしょう。そこに益を見出せないでいます。しかし、奴は違う。私は、奴を支えることはで、自らの良心と折り合いを付けているのでしょう。奴は今、バーグ伯の夜会に出ています。恐らく、ポーカールームから出ることなく寝ています。――ただ、本当に奴、役に立たないですよ? 普段からそうですが、イシュバールから帰ってきて一層酷い有様です。閣下をがっかりさせるだけだと思いますが…」
「焔の錬金術師が良いと言ったら、ブリッグズへ連れて行くぞ。いいんだな」
「閣下の下にあるなら。しかし、…………」
「役に立つか立たないか。奴の評価は私が行う」
「イエス・マム。貴女に従います。数々のご無礼失礼しました」
「構わない。こちらこそ雑務に時間をとらせて悪かった」
 受話器の向こう側でかすかに笑った気配がした。
受話器を下ろす。きっかり10分。奴が予定した時間通りだった。誠意と言葉を費やして、やっと焔の錬金術師の居場所を掴んだ。

   + + +

長年続いた東部内乱の終結は私にとっても待ちに待ったものだった。長きに渡りお仕えしている、アメストリス有史以前より続くウィンズゲート一族の長たる、旦那さまにとってはいかほど心待ちにされていたことだろう。軍部上層部へ直接足をお運びになり東部内乱の終結を訴えたことも複数回に及んだ。それもこれも、たった一人娘のお嬢さまの社交界デビューが差し迫っていたためだった。
 アメストリスは長く続く東部内乱により、遠く離れた中央ですら全てが自粛傾向にあった。それは社交界にも及ぶ。毎年行われる社交シーズンはその規模を縮小し、質素なものとなっていた。こんな名前だけの社交界、社交シーズンに大切な一人娘のデビューはさせられない。旦那さまの思いは強かった。そしてそれが漸く実を結ぶこととなった。東部内乱終結の宣言を受け、その日から連日連夜の盛大な夜会がセントラルの至る所で開かれた。華やかな社交シーズンの到来だった。
軍事国家となって久しいこの国であっても、軍界にも経済界にも強い影響力を持つ一族の長。その愛情を一身に受け、お美しくお優しく育った一人娘のお嬢さまに、注目が集まらないことなどありえるはずもない。連日くり広げられる華やかな夜会への招待状は山のように積み重なっていた。この時を待ってデビューを向かえる数多いデビュッタントたちに、内乱帰りで昇進を約束された数多い将来有望な将校たち。その中でお嬢さまは並び立つものがないほど光り輝いていた。
 連日に及ぶ夜会に顔色を冴えなくし、疲れも口にするようになっていたお嬢さまをいかに説得し、夜会へお連れするかが、ここ最近の私の主な役目となっていた。

 その日、2頭立ての馬車を降りて帰られたお嬢さまは、頬をバラ色に染め、瞳を輝かせ、ふわふわと浮いた足取りで、家人に迎え入れられた。
 あれほどお酒は嗜む程度とお教えしたのに、飲みすぎてしまったのだろう。もしくは断れなかったか。付添い人に咎める視線を送り、家人に酔い覚ましの飲み物を用意させる。しかし、お嬢さまはそれを待たずに浮いた足取りのまま、自室のある2階へ続く階段を駆け上がって行った。
その様を、付添い人が顔色を無くし、じっと見つめる。そして、その華奢な背中がドアの奥に入って行くのを見届けてから、振り返った。――お話がございます。その青ざめた様子にただの飲酒以上のことがあったと察し、執務室へ通した。
「今夜はオースティン男爵の夜会だったかね?」
「はい、執事様。そちらでお会いになられたバーク伯のご令嬢に誘われ、オペラ座の仮面舞踏会へも参りました。バーク伯のご令嬢がチケットを持っておいでだったのです」
「ほう、それは! あそこは連日チケットの入手が難しくなっていると聞く。それを入手しておいでとは、さすがバーク伯」
 だが、チケットなどなくとも、ウィンズゲートの名があれば、オペラ座如きが我がお嬢さまを門前払いになどできようもないだろう。
 関心を払う私に、付添い人が咎める視線を向けた。
「執事さま。なぜ、チケットの入手が困難になっているかご存知でしょうか」
「理由があるのかね?」
「連日、軍人が多く参加されていらっしゃるのです」
「ああ、軍人は紹介や伝手がなければ貴族の夜会に行けるものではないから」
 紹介や伝手がない軍人たちは、金を払えば誰でも買えるチケットで入れるところにしか行けない。
「そうではありません。軍人が多く参加されていらっしゃる、オペラ座の仮面舞踏会にロイ・マスタング中佐が紛れ込んでいると噂になっているからです!」
 ロイ・マスタング。焔の錬金術師にして、国軍中佐。東部内乱イシュバールの地において高い功績を挙げ、東部内乱の終結の立役者の一人として英雄視されている。何でも、たいそう若く、ハンサムと聞く。最近特に持てはやされている軍人の代表格だった。あまりよい噂は聞かないが。
「そもそもバーク伯のご令嬢もロイ・マスタング中佐を見に行こうとチケットをご用意されて、お嬢さまをお誘いになったのです」
「その軍人は我がお嬢さまにダンスでも申し込んだか」
 身の程知らずが。有力者の娘を娶りたくて仕方がないのだろう。お嬢さまもそんな男の前にのこのこと行くなんて、なんと迂闊な。
「執事様。――とてもではありませんが近づける有様ではありません。今夜もオペラ座に来ているという噂でしたし、マスタング中佐の取り巻きが多くいたので恐らく本当にいらっしゃったのだと思いますが、影も形も見ることはできません。ましてや、あの人垣の中、デビュッタントが近寄ることなど無理でございましょう」
「…………」
「お嬢さまは、ロイ・マスタング中佐を一目すらご覧になれなかったために、旦那様にお願いして、マスタング中佐をお屋敷の夜会にご招待してもらうと言い出したのです」
 とんでもないことです。そう頭痛を堪えるかのように眉を顰めた。
だが、それはそこまで顔色を失い、顔を顰めるほどの話ではないように思えた。ロイ・マスタング中佐はお嬢さまにとって悪い虫に過ぎないが、我が主の夜会に招くだけならば時勢に沿った行為に過ぎない。それに東部内乱終結に尽力した我が主にロイ・マスタング中佐も直接言いたいこともあるだろう。
「分かった。後は旦那さまの判断を仰ごう」
 私のその言葉に、介添い人は不服の表情を浮かべたが、それ以上何も言うことなく退出した。

 後日、お嬢さまのご提案として、旦那さまにご報告申し上げれば、
「ロイ・マスタング中佐か。知っておる。英雄色を好むと言うだろう。今、最も将来有望な軍人であることに変わりはない。呼べ。この私が見極めてやろう」
 予想通り、試してやろうとばかりに旦那さまは人の悪い笑みを浮かべた。
しかし、マスタング中佐は来なかった。
そもそも送った招待状は宛名不備で送り返され、それではと、軍部に連絡をいれるが言付けだけを受け付けられるのみで、結局一度も本人が電話口に出ることはなかった。そして、そのまま夜会の日を迎えることとなる。
当然のように、マスタング中佐は来なかった。
旦那さまは烈火のごとくお怒りになり、お嬢さまはその日からベッドの中で泣いて過ごされた。

数日ぶりに私たちにお顔を見せてくださったお嬢さま。その泣きはらし、赤く腫れた目元が痛々しかった。
未だに涙で潤んでいる目元を隠しもせず、一通の手紙を私に差し出した。
「お願い。マスタング中佐にお渡しして欲しいの。あの方は疲れているの。まだ戦いの傷が癒えず苦しんでいるの。きっと私のことを見てくれたら…。私なら、きっとあの方を癒せると思う。私はこんな何も知らない小娘に過ぎないけれど、私の家柄ならあの方をお守りできるでしょう? お父さまも私が本当にあの方をお好きだと知ったら、賛成してくださると思うの」
 私はその手紙を受け取らなかった。
お嬢さまは顔すら見たこともない男に熱を上げ過ぎていた。顔すら見たこともない男の噂に思いを寄せていた。
それを受け取らなかったことを後悔しない日はない。なぜ、私はバカ正直にお嬢さまを説得しようと考えたのだろう。老いてより硬くなる考えが身を焼く。
 気が付いた時は既に遅かった。お嬢さまは家人たちの目を盗み、深夜に一人で屋敷を抜け出してしまった。行き先は恐らくオペラ座だったのか。あの男はお嬢さまに会ったのだろうか。
ウィンズゲート家の持てる全てを駆使して捜索したが、お嬢さまを探し出すまでに数日を要してしまった。その数日が全てだった。お嬢さまは名もない娼館で見つかった。
「あの方に相応しい存在になりたいの。あの方は疲れていて、ただ眠りたいだけなの。――私みたいな、苦労も何もしらない馬鹿な娘じゃあの方を癒せないから」
 お嬢さまはその目に純真さを湛えたまま言った。旦那さまや奥さまが何を言っても頑なにお屋敷に帰ることを拒んだ。
その時から、旦那さまは発狂せんばかりに怒号を上げ続けている。奥さまは糸が切れたように何もしなくなった。時折奇声を上げる以外は。
それに恐れをなした家人たちが先を急ぐように一人二人と逃げるように辞めていった。めちゃくちゃだった。何もかもがめちゃくちゃだった。
 ロイ・マスタングとは会えずにいる。軍部に打診してもいつしか相手にされなくなっていた。軍部は、正気を失った主に、後継者不在の名家など、何の意味もないと手のひらを返したように冷淡だった。名家が途絶える足音が日に日に大きくなっていく。あの男のせいだ。
続く。
今年の冬コミに間に合わせる!