ドーナツ・ドーナツ
01
旅先で揉め事に巻き込まれて、ちょっと暴れた。

たぶん、ただの生意気なガキとは思われていなくとも、十分厄介で迷惑なガキだとは思われていて。何だかんだと細々とした用事の度に軍の施設に立ち寄れば、誰の目にも困惑と疎ましげな色が読み取れて。だから、それが驚愕に彩られ、次第に敬意を含んだものに変わるのを見るのは正直言って気分がよかった。
東方司令部に出向を言い渡されたとき、その気分に水を挿されたと思っても、ヤツの鼻を明かしてやれると思った。オレはその扉を開けるまで、自分の足取りが軽かったことを否定できない。





このとき、笑みの浮かんでいない、不機嫌さを隠しもしないロイ・マスタングというのをはじめて見た気がした。執務室に充満する重苦しい空気にひどく面食って、とっさにその理由が思いつかなかった。

重い空気に思わず立ちすくむと、まるで追い討ちをかけるようにホークアイ中尉の感情のこもらない平坦な声が背後から響いた。――大佐に報告を、と。
たかがこんなヤツの不機嫌な雰囲気に飲まれて口をつぐんでしまったことに、羞恥に顔が赤くなるのを感じて。――くっそっ! 口の中で小さく罵って、足音高くヤツの前に立つ。しかし、すでに件の報告書は支部の担当から届けられていて、ヤツの机の上にはそれが広げられていた。
「あん? 何だよ。わざわざ呼び出しやがって。報告書なら行っているじゃねえか。今さら、何が聞きてえんだよ」
静かな何の感情も読み取れない黒い瞳が、目を逸らすことを許さなかった。その黒い瞳が自分を映したまま、次第に不愉快さを隠しもせずに歪められていく。
「今一度、お前の立場というものを確認しておかなくてはなるまい」
その、あくまでも高圧的な雰囲気を変えない様に、じわじわと頭に血が昇る。
「なんだよ? ちゃんと階級差を守って話せってか? ――ハハハっ! いいぜ? そんくらい別にっ! 私は軍の狗でありますっ! マスタング大佐!!」
ついでに、敬礼もしてみせる。茶番だ。態度で恭順を示さなくてはならない相手だとは思っていなかった。自分の甘さにへどがでる。鼻の奥がツンッと痛んだ。悔し涙まで滲みそうになる。揺れる視界の中で、明らかにヤツの顔に侮蔑の色が浮かんだ。くそっ! 涙がこぼれないようにするのに必死だった。ガキの甘さを指摘されたのだ。今のオレにはどうすることもできないことを…。

逸らされない黒い瞳が責任の所在を問う。
「軍属の、国家錬金術師。少佐相当の地位が与えられている。だが、お前は少佐ではない。同時に正規の軍人ですらない。軍につながれた狗には、軍の力を行使することは許されていない。ましてや命令なんて、以ての外だ。――お前は、何様のつもりだ」
「じゃあっ! ほっとけばよかったって言うのかよっ! 黙って見てみぬ振りしてっ! 通り過ぎろってか! はっ! 重い腰、上げねえヤツらの変わりに善行した結果がこれかっ!? 自分らのメンツ守んのに忙しいってかっ! どの道、アンタの点数になったんだろっ! アンタはオレに礼を言うべきじゃねのか! ――別に、言われたくもねえけどっ!」
「軍の狗に成り下がった時点で、お前に語る正義などない。正義の味方になりたいのなら資格を返上したまえ」
「っ!!」
何を言ったところで変わらない、その揺るぎのない黒い目を見ていられなく、目を逸らした。硬く握った手が怒りで震えても、食いしばった歯が鈍くきしんでも、どんなにここで銀時計をコイツに投げつけたくても、それはできない。軍の狗になることを甘く見ていたのはオレなのだ。与えられた権力を見間違えたのはオレなのだ。
「わきまえろ。以上だ」
ヤツは、さも、これで話は終わりだと言うように机の上の報告書を書類の山の上に乗せた。

言いたいことも言えないで、こんなんで退出するなんてできなくて動けないでいると、ホークアイ中尉が問答無用に退出を促す。
「エドワード君。始末書が必要となります。ハボック少尉の所へ行ってください」
ここに突っ立っているのは、赤ん坊が駄々を捏ねてるも同然…。そう言われてる気がして、ただ頭を下げて踵を返した。執務室を出て、扉を閉めて、涙を零さなかったことに安堵する自分の弱さが情けなかった。


02

重い足を引きずりながら執務室の隣りの司令室へのたった数歩の距離を歩いて、司令室を覗いた。そこにはいつものように誰もが忙しく働いている。なんだか今日は声をかけるタイミングを上手くつかめなくて、ただぼーっとそれを覗いていた。

「エド、何してんだ?」
後ろから唐突に声をかけられ思わずうわっと声が出ると、その驚きっぷりに逆に声を掛けた方が驚いてうぉっと声が上がった。
「驚かせるな!」
「――驚かしてねえし。なあ、ハボック少尉は?」
ブレダ少尉は鷹揚ににやっと笑って、ヒトの頭の掴んでわしゃわしゃとかき混ぜた。資料室にいるぜ。その一言と共に、軽く背中を叩かれて一歩を促される。
俄かに身体から力が抜けた。それで自分が随分落ち込んでいたことを知った。
「ウチのエースにしっかり習ってこいや」
「――エース?」
「始末書の数さ。このペースで始末書書いてっと、東方歴代一位になるのも時間の問題だろうってハナシだ。お前もこれから書く機会が多くなりそうだからな。コツを覚えとけ」
「オレは2度と書く気ねえから」
「10枚、20枚書かねえと大きくなれねえぜ?」
「――10枚、20枚書いたら、ハボック少尉ぐらいでかくなれんのか?」
「切実だな、オイ…」
「うっせえなっ!」
「奴ぐらいでかくなりたけりゃな、もう一桁は増やさねえと無理だぜ?」
「ナニソレ?」
少尉が肩を竦める。大人の話だと言わんばかりに。
言及はしなかった。それに知りたければ、これから本人に会うのだ。直接聞けばいいことだった。
「それより、アル借りてていいか? ショーギの相手探してたんだ」
「別に、オレは構わねえけど。アルに聞けよ。――って、仕事は?」
「大佐待ちなんだ。だから、ヒマなのさ」
少尉との他愛ない話にいつもの調子が戻ってくるのを感じて、資料室のドアに手を掛けた。じゃあ、がんばれよ。そのいつもと変わらない言葉に冷静さが少しずつ戻ってくるようだった。



資料室のドアを開けてもタバコの臭いが漂ってくることはなかった。ヘビースモーカーのハボック少尉が例え火気厳禁の資料室にいてもタバコを吸ってないなんてことは考えられなくて、資料室の奥の窓際まで進むと、案の定その人物が窓を全開にして窓枠に腰掛けていた。手には灰皿。そこにはまだ長いタバコがこすり付けられていた。オレが来たことに気付いて火を消したんだろう。
ハボック少尉もオレを見て、ブレダ少尉と同じようににやりと笑った。
「随分、派手にやったらしいな。大将?」
その言葉は皮肉も非難もなく、怒るでもなく、責めるわけでもなかった。
自分のしたことはここではもう全部知られていて、もういつものような態度じゃだめなんだと思っていただけに、思わず面食らう。
「大佐にガツンと言われただろ? 何て言われた?」
しかも、ハボック少尉の笑いを含んだ言い方は、明らかに自分をからかったものだった。
「――わきまえろって言われた。軍の狗になった時点で語る正義なんてねえんだってさ」
「オレも言われたことある。ムカつくよな」
「ムカつく。でも、わきまえるべきところでわきまえなかったのは、オレだ。それは間違っちゃいない。――と、思っても、ムカつくんだけど」
何回も感慨深そうに頷く少尉。
ここまで部下と上司がかみ合ってなくていいんだろうかなんて、どーでもいい考えが頭を過ぎる。
「いい事して、何で始末書書かなくちゃなんねえんだよって思ったもんだオレも。挙げ句の上、あの人の言い方がまた偉そうで神経逆なでするんだよな。絶対、アレ、わざとやってんだぜ!」
そうかも知れないと思っても、不愉快だと歪められた、あの表情が恣意的に作られたものにはそう簡単には思えなかった。
ハボック少尉が窓枠から腰を下ろして、窓際に備え付けられている長机の椅子に座る。長い足を持て余し気味に。なんとなくその隣には座りたくなくて、座れと言われないことをいいことにそのまま立っていた。

「――大将はさ、自分がいいことしたと思うか?」
「どうだろ? 大佐には売り言葉で思わずそう言っちまったけど、見過ごせねえことってあるだろ? 道端で誰かが蹲ってたら思わず声をかけたり、河で誰かがおぼれていたら助けようとしたり、――あ、でも、オレはその場合、水に沈むから助けを呼びに行くことしかできねえけどさ。オレのしたことはそういうことの延長上のことだったと思う。それって、別に正義の味方だからとかいうことじゃねえーんじゃねえの?」
ハボック少尉がうんうんと大きな相槌を打った。
「大将は頭もいいし、行動力もあっからな。やろうと思ってやれちまうことが多い。自分が動いて何とかなるなら、一発やってやるってな具合に。その上、国家錬金術師で、軍に顔が利く。そうなっと、――軍の対応の悪さと遅さに、こう、なんて言うか、腹の底から叫びたい気分になる。なるか?」
「なった。田舎に行けば行くほどさ、国家錬金術師だって言うと、普通、軍人はみんな、ぺこぺこしはじめんのな。んで、オレの顔色を窺いはじめる。こんなガキの顔色なんかをな。――つい、うっとおしくってあーしろこーしろってさ」
「そんで、こうしてくれって言うと、今度は責任を押し付け合う」
「そう。んで、つい、オレに言われたからやったって言えっ! って怒鳴った」
ははは! だよなあ。 当たり前のように頷いて、ポケットからタバコを取り出す。これがないとどうも落ち着かなくて。火をつけることなく、大きな手の長くて鍛えられた指に挟まれたままの一本のタバコ。それは自分には遥かに遠い大人の証のように見えた。
「でかい組織ってのはさ、鈍重なんだ。速さが必要なことにはめっぽう弱い。――国家錬金術師は、大総統直轄の機関に属してるだろ。大将が軍人にあーしろこーしろって正式に頼むとするとき、どういう手続き取るか知ってっか?」
「あ? 何それ?」
「直接、国家錬金術師機関に必要書類一式提出して、返答を待つ。しばらくして、認可が下りたら、万々歳っていう流れだ。もう1つは、ウチの阿呆大佐経由で機関の認可をもらうっていう手もあるが、これはあまり意味がない。下手したら、その書類が日の目を見ないこともあるからな。つまりは、どの道、大総統のサインが必要なんだ。んで、ここからがビミョーなんだが、そういう手続きを踏まなかった場合、どういう扱いになるかってな。――どう思う?」
その青い目には少しだけ同情が込められていて。
「――もしかして、オレのやったことって、全部大佐がかぶってんの?」
大きく頷かれる。
「大将も有名だけど、ウチの人もなあ、有名なんだよなあ。大将の後見が焔の錬金術師ってのは公式的にも明記された事柄なんだ。大将が地方でやれって言った場合、あの人がやれって言ったも同然の扱いなのさ。と、なると、東方司令官が他支部の管轄内でハバ効かせたことになるからな、越権行為でクレームが丁寧かつ、迅速に来るんだ。だから、大将がどこで何したか逐一ばれることになるんだ」
「うわあ、ちょっと、立ち直れねえ。何でそーいうこと先に言わねえんだよ! 教えてくれたっていいだろ!」
「言うなって言われてたんだよ。わりいな」
「ムカつくっ!」
「そういう人間なんだ。あきらめろ。それにそれでいいと思ってんだぜ? 絶対な。大将が暴れる度、風通しがよくなっていくからな。――クレームに頭下げんのはあの人の仕事だし。オレも散々下げさせてっからな、今更さ」
ハボック少尉は事も無げに言って笑う。
それで本当にいいのか、そう問い正したい気持ちに駆られた。それに、ヤツに言われたことは頭を下げさせることになったただの腹いせの嫌味にも思えなくて。また腹に重いものが溜まってくる…。

「――大将、見過ごせねえことを見過ごさねえってのは悪いことじゃあねえよ。大佐がさ、ちゃんとわきまえろって言ったのは解決の仕方なんだ。ちゃんとできないなら手を出すなってな」
「それは川で溺れた奴を川に引き上げたままにしておくなってことか?」
「事後処理までしろって言ってるんじゃない。川で溺れた奴一人助けるのに、乗ったボートを転覆させるようなマネをすんなって言いたいんだろ」
「その場合、被害はオレらしかいねえじゃん。心配される言われはねえよ」
甘えたことを言ってる気がした。心配してるって言質が欲しくなかったら出ない言葉だ。でも、ハボック少尉は何の躊躇もなくその言葉を口にする。
「オレたちは心配するぜ? それこそ乗りかかった船だ。でも、オレたちは自分でその船に乗った以上そこで死んでも文句はねえけど、ちょっと都合がいいからって乗ろうと思った船に先客がいたらどうするよ? あの人はさ、そんな船を転覆させるようなマネをすんなって言いたいんだ。やるならちゃんとやれってことさ」
「――じゃあ、どうしろって言うんだよ」
そんなこと考えてたら溺れてる奴はさっさと死んじまうんじゃないか? それは見過ごせってことなのか?
「それをオレに聞くな。大将の方が頭いいんだから。――ただ経験上言わせて貰うなら、月末に汽車関係に被害を及ぼすのはヤバい」
「あ?」
「線路、ぶっ壊しただろ?」
「すぐ直したじゃん。ぶっ壊れてたのなんかさ、正味2時間もないぜ?」
「その後なあ、えれえダイヤが乱れたんだ。月末に汽車が動かないと潰れる会社が出る、ときが、ある…。債権とかがどうとかでさ。今回は運がいいのか悪いのか、小さ目のが一つな。30人近くが職を無くした。ガキ14人助けるのにこれじゃあ被害が大きすぎる。いいか? 30人近くって言ったらでかいぜ? その中に既婚者が半分いるなら15世帯が路頭に迷うんだ。まじめに働いててそれじゃあ世の中の不条理を嘆いてテロに走ってもおかしくないだろ?――でかい力を行使すんなら、それなりに周り見渡せねえと自分が気付かないとこで被害が出てたりするもんだ」
「それはよく分かってる」
よく分かってる。いや、結局分かってなかったんだ。だから、ハボック少尉にあの後の顛末を聞いて驚いている。自分の能力を過信した結果がこれだ。いつまで経っても自分は成長しない。――いや、身長は少しではあるが伸びてはいる…。
「大佐はでかい力を持つ奴が正義を語ると、多くの人間を盲目的に追従させて、その行為に正当性を与えることになるから、嫌いなんだ。――戦争の大義名分だろ? 正義なんてさ」
今度は本心から頷くと、正面のハボック少尉も頷いた。それで気が付く。ハボック少尉が椅子に座ったのは自分と目線を合わせるためで、高圧的で一方的な注意になってしまう話を聞き入れやすくしてくれていたことに。それにこの人目がなくて聞き耳も立てられない資料室。こんなガキなんかの面子を考えてくれている…。でも、礼を言うのも変な気がして大人しく椅子に座わると、待ってましたとばかりに書類が渡された。
「で、大将が書く始末書はその線路をぶっ壊した件だ。形式と文面が暗黙で決まってから、ちゃっちゃと書いちまってくれ」
渡された書類の一番上には一冊の冊子。ハボック少尉秘蔵のありとあらゆる場面で使える始末書例文集だと言う。試しに捲ってみると見知った筆跡も混ざっていた…。あえてそれには言及せず、使えそうな文面を書き写していく。

「――なあ、職を失った人たちはどうなるんだ?」
「あー、失業手当を受け取って職探しだな。選り好みさえしなきゃ、すぐ見つかるさ。東部は今人手が足りてないからな。どこも引っ張りだこさ」
「そうか」
人手は足りないと言っても似たような職に就くのは難しいかもしれない。住み慣れた場所を離れなくちゃならなくなるかもしれない。あの時、確かにそんな考えはちっとも浮かばなかった。
「悪かった」
確かにオレは考えなしだった。反省した。それでも、まだ腹の底に溜まったものはなくなりそうもなかった。

   +++

少年のその憮然とした謝罪は見慣れた人のそれを彷彿とさせるものだった。思わず頬が緩むと、バカにされたと思ったのか、その真っ直ぐな金色の瞳が今度は咎めるような色を帯びた。それをあえて無視して何だと聞いてみると、言葉に詰まる。
その様子にまだ少年は14歳になったばっかだったのを思い出した。
「オレのせいで仕事増やしただろ? 悪かった。確かにオレは考えなしだった。反省した」
少年は潔かった。
でも、オレには謝れても大佐には謝れねえんだろうなあと思うと、妙な親近感が湧く。既に乱れ気味だった頭を更にぐしゃぐしゃとかき混ぜた。そして、少年がきっと欲しいであろう言葉を渡す。少し遅れた誕生日プレゼントの変わりに。

「災難だな、大将。うちの焔の大佐どのは鋼は叩いて強くするもんだって息まいてたからなあ」
あの人に謝る必要はないことと、あの人はこれぐらいじゃ失望なんかしないことを。
案の定、少年はオレの手の下で顔を歪めた。ほっとして緩みそうになる顔を必死に緩ませないとすると大抵はこんな顔になるのかもしれない。
あの人に失望されるのは堪える。――更に、そんなことに堪えてる自分に凹むのだけれど…。


03

一人でいると時間を持て余してしまう。容赦のない訝しむ人の視線から逃れたくなって、いつからか人の多い場所には自分から近づかなくなっていた。誰の目もないところに一人でいることを寂しいと感じるよりも、ほっとする気持ちが先立った。いつかこんなことをしてて寂しいと思う日が来るのかもしれないと思っても、その日が本当に来るのだろうかなんて思ってる。
司令室近くのあまり人が通らない廊下の長椅子に座って、兄さんを待つ。ボクも一緒にマスタング大佐に会うよと言っても、兄さんは決して首を縦に振ってはくれなかった。ここから先は国家錬金術師のオレの義務だから。――真っ直ぐに向けられた目がそう言ってて、ボクはどうしても一緒に行きたいとは言えなくなってしまった。

軍靴がカツカツと廊下を叩く音が近くをひっきりなしに行き交う。その中から一つの足音が近づいて立ち止まった。視線を巡らすとブレダ少尉。廊下で置物になっていたボクを見つけて、にかっと笑う。
「こんなとこに居やがって、探したぜ」
空洞の鎧を数回叩いて、その勢いで強引に立たせられた。



挨拶もそこそこに引っ張られていった先は熱気の篭った休憩所だった。席は全部埋まっている。立ってしゃべりこんでいる人たちも多かった。ブレダ少尉に連れられたまま中に入ると、視線が一斉にボクに集まった。不審なものを見る目つき。それは軍人でも変わらない。当たり前だ。誰が見たって不審者なんだから。それでも、ブレダ少尉、と奥から声が掛かるとその視線はすっと離れていった。またポンと鎧を叩かれる。気にすんな。そんな風に。
ブレダ少尉に声を掛けた数人のもとに行くと、彼らは立ち上がって席を譲ってくれた。その真ん中にはショーギという異国のゲームボードが置かれている。
「こいつら、相手にすらなんなくてさ。アル、ショーギ、やろうぜ?」
その一言にすぐさまブーイングが上がった。
ブレダ少尉はそれを軽くいなすだけで眉一つ動かさず、ゲームボードに散らばっていたコマを片付けはじめる。――もう時間だろ。さっさと戻らないとあの大佐と同じだぜ? その少尉の一言で、彼らは肩を竦め、口々に文句を言いながらも、お先にと言って休憩室を出て行った。そして、それにならうように、休憩所から人が少しずつ減っていく。そういえば、お昼の時間は大分前に過ぎていた。ブレダ少尉は戻らなくていいのだろうかと思うと、さらっと答えが返ってきた。
「今、大佐から上がってくる書類、待ってんだ。つまり、後数時間、俺はヒマなのさ」
そして、ブレダ少尉はボクを向かいに座らせて、知らないゲームのやり方を朗々と説明してくれた。



「――まあ、こんな感じだ。それぞれのコマの個性を考えて動かせばいいってわけだ。分かったか?」
「うーん、分かったようなわかんないような…」
やっぱり兄さんがいろいろ叱られてるかもしれないときに遊ぶのはちょっと不謹慎な気がして尻込みする。そういう気持ちもあって、ブレダ少尉の説明がイマイチ頭の中に入ってこなかった。
「煮え切らねえな。どうした?」
少尉が少し改まって、コマをボードに戻した。ボクの気持ちを察して。
ここの人たちは不思議と、ただの鎧から非常に上手に感情を読み取る。ブレダ少尉に言わせると、常日頃子どもの扱いに心砕いているかららしいけど、彼らの言わんとする子どもというものを思うと、いつもどう応えていいのか分からなくなってしまった。
「兄さんが叱られてるのに、ボクがここで遊んでるのはどうかなって…」
本当は、兄さんが叱られるならボクも一緒に叱られたかった。でも、ボクには大佐の執務室に入る権利なんかなくて。
「今、エドが叱られてんのは軍属だってことで生じたことだ。アルは遊んでていいんじゃねえの?」
「…………」
そうなのかな。でも、ちっともそうとは思えなくて頷けない。兄さんが叱られているときに、ここで遊んでなきゃならないのならボクは国家錬金術師になるべきじゃないのかって、やっぱり思う。
「あ、今、国家錬金術師の資格と取ろうかなーとか思っただろ?」
「うん…。ボクだけこうしてるのはイヤなんだ」
兄さんだけに叱られる原因があるわけじゃないでしょ?

「お前ぐらいの年頃だとアレだアレ。違うってことより同じことの方が重要なんだわな。同じ責任。同じ義務。同じ目標、同じ……罪か? アル、こういうのはショーギと同じだぜ? 一つの王を詰むのに歩しかなくてどうするよ。違う動きができるからこそ戦略が無数に生まれる。視野も広がる。一つの王を詰むのに一つのやり方しかないのか? いや、やり方は無数にある。だからこそ、行き詰ったとき、事態を打破するのは違うものの考え方だったり、動き方だったりするんじゃないのか? 俺は同じことよりも違うことの方が重要なんだと思うぞ。特にチームの中ならな」
チーム…。兄さんとボクが。
「軍属ってのはさ、問答無用で軍属の見方ってのになりがちだからな、そうじゃねえってのは大切なことだと思うぜ? もし、お前が今回の件で叱られるとしたら、エドが軍の権力に介入しすぎるのを黙って見てたことなのかもしれねえな。――ってことを、軍人である俺らが言えることじゃないんだが。例えば、今回のことで言うなら、悪い奴らぶっ飛ばして虐げれた奴らを救う。この一点でエドは動いた。目の前の障害を使えるものを使ってとにかく解決しようとした。何だかんだ言ってできちまったんだから立派だと思う。が、被害がでか過ぎだ。線路をぶつぶつぶった切って孤立させたのはいいけどよ。それでどういう影響が出るのか考えが及ばなかったのはいただけない。視野が狭すぎる」
前に一枡ずつしか進めない歩の駒を投げ渡された。それでいいのかとばかりに。
「そこまで兄さんに要求するんですか?」
「する。当たり前だ。地方うろつけば分かるだろう? 鋼の錬金術師に判断を仰ぐ軍人が少なくないことがさ。そーいう立場に望むも望まなくとも立たされてるんだ。多くの人間に命令できる以上、それをするなら直接的なことだけじゃなくて間接的なことまで考えて動かなくちゃならない」
「ブレダ少尉、ボクはやっぱり国家錬金術師になった方がいいように思えます」
その責任をボクも背負うべきなんじゃないか。それに同じものを二人で背負うなら、その重みは半分になる。
「ならないでサポートする方が有益なんじゃねえの?」
人が減った休憩室の、それでも賑やかな喧騒の中、じっと視線を向けられた。

「今回の件でお前らは14人のガキを助けた。んで、悪者を7人捕まえた。そして、200人近くに多かれ少なかれ迷惑をかけた」
「――200人近く…?」
知らなかったか? その目がそう言っていた。頷けなかった。知らなかったから。困っていた人たちを助けて、その後のことは何だかんだと足止めされるのが面倒だから、全部人任せにしてそこから逃げるように立ち去ることに何の疑問も持たなかったボク。
「弱者を助けるのに、真面目に暮らしてる普通の奴やが割を食うのは当然だと思うか?」
「分からない。でも、虐げられている人たちを見過ごせてはおけなかった」
見過ごして立ち去るのが大人だと言われるなら、ボクは子どもでいい。
「弱者も悪者も、真面目な普通の奴らの中にいて、際立って目立つ。それを助けるのも挫くものお前らならそう難しくないんだろうと思うよ。でも、んな目立つものばっか追って欲しくはねえんだ。普通に働いて、真面目に暮らしてて、少なくねえ税金を国に納めてて、って、そんな奴ら200人に14人のために我慢を強いるのは問題だし、それを彼らの良心に頼るのもいただけない。彼らからこれ以上搾取してはならないし、彼らの真面目さに漬け込むようなことはあってはならない。――って、よくうちの阿呆な大佐が言っている。アル、よく見えるものだけ見てたらダメなんだ。14人を助けて7人を挫くのに、あまりに多くの人をお前たちは踏みつけた。その上、踏みつけたことに気が付かないでいる」
ショーギを説明するのと同じ口調で話される話はシビアだった。休憩室ではボクたちなんか気にも止めず、喧騒は止まない。ボクの中で子どもにする話じゃないと憤る感情と、兄に盲従するさまを指摘されたような反省する感情が湧き合った。手の中の歩。と金になれば、動ける範囲が広がる。裏も表も歩でいいのか。ブレダ少尉の問いかけはきっとそういうものなんだと思った。

――ボクはボクだ。兄さんがボクに負い目を感じているように、ボクもまた兄さんに負い目を感じて、時々どこかよそよそしくなる。それが今回のことを招いたのかもしれない。軍人の視点と市井の視点。そのどちらかに優劣があるわけではなく、勝手に萎縮なんかしないで話し合うべきだったのだ。ボクはボクなんだから。一つ心に芯が通じた気がした。
ボクがこんな風になってしまってから、兄さんとの距離を自分で思う以上に意識していたのかもしれない。そして、それを見ないふりをしていたんだ、ボクは…。

顔を上げると、ブレダ少尉がにやっと笑った。
ボクの中で何かが消化されたことに気が付いたのだろう。
「頭のいい奴が頭を使うのは義務で責任だと思うぜ?」
そう言って、また空洞の鎧を叩きガコンと音を立てて、席を立つ。
「おしゃべりで終わっちまったなと、今度はちゃんと付き合えよ」
今度は、その言葉に力強く頷けた。


04

ブレダ少尉に司令室に顔出してけよと言われて司令室に向かうと、その隣の執務室の前で兄さんがうろうろとしていた。
「何してるの? 兄さん」
ボクはあくまでも普通に声を掛けた。そもそも歩けば一歩ごとに鎧が軋むボクだ。近寄ってくるのに気が付かない方がどうかしている。なのに、兄さんは勝手に驚いて声を上げた。
「うわ、アル、驚かすなよ!」
勝手に驚いているのは兄さんの方だとは、肩は竦めても、口には出さない。兄弟の礼儀みたいなものだった。――その時、執務室の扉が開いた。扉に背を向けていた兄さんが全身を強張らせる。それで、なんだか随分、大佐に叱られたのかなと思った。
「ホークアイ中尉」
ボクの言葉に兄さんが少しだけ肩の力を抜いて、振り返った。
「あー…、あの、大佐いる?」
「――、…………」
ほんの僅かな沈黙の後、大佐は明日から2日間の出張ですと返る。その言葉に、仕事の邪魔はさせないという言外の意味が滲んでいるように思えた。それは兄さんも同じだったようで、ちらりとホークアイ中尉の後ろの扉を見て、小さく頷く。
「――んじゃあ、オレたち行くよ。向こう、中途半端にしてきたままだし。ホークアイ中尉、今回のことは悪かった。オレは周りが見えてなかった。ごめんなさい。仕事増やしました」
その言葉にホークアイ中尉は目元を綻ばした。たったそれだけでがらりと雰囲気が変わる人だった。
「エドワード君、アルフォンス君、今回のことで自分たちの行動が結構筒抜けだってことに気が付いたでしょう? 旅が足止めされてしまうようなことはあまりしないように。これでもみんな心配してるのよ。分かり難いかもしれないけど」
それに、これぐらいなら仕事を増やした内にはいらないわ。そう、かなり嘘には聞こえないことを言って、見送ってくれた。

   +++

司令部の正面玄関を出て少しもしない内に軍用車が進路を遮るように横付けされた。運転席にはハボック少尉。すぐに運転席の窓が下ろされて、乗ってけよと、誰も乗っていない後部座席を親指で示された。誰か迎えに行くとこなのかもしれない。でも、ついでであってもついででなくても、その気遣いがくすぐったくて、ありがたく後部座席のドアを開けた。

ちょっと遠回りさせてくれ。汽車には間に合うから大丈夫。軽快にハンドルをさばきながら、少尉は大通りを抜けて、いくつか角を曲がり裏通りに入って行く。
「――今、司令部の女性仕官たちの間で流行っているものがあるんだ。オレの予想だと、きっと……あー、ビンゴだ、全く腹立つ!」
返事を期待してないそれは十分独り言だと言えたけど、それは呟きというものでもなかった。返事をした方がいいのか考えあぐねている内に、慣性の法則を感じないほど静かに車が止まった。
裏通りの広場。いくつかの小さなテントが立ち並び、人で賑わっている。その結構な人混みの中から見慣れた青い軍服が一人近づいてきた。知ってる顔だった。黒髪の佐官…。手には油染みの浮いた紙袋を抱え、もう片方の手にはドーナツ一つを持っている。見るからに実に嬉しそうなその顔を見て、今日一番の脱力を感じて身体が座席に沈んだ。オートメイルが妙に重く感じる。
さっきのこれで、何なんだよ、その満面の笑顔は…。
どうにも同一人物には思えなかった。

そいつはスルリと助手席に乗り込んできた。途端に車内にドーナツの香ばしいにおいが充満する。ハボック少尉が、車に油のにおいが付いちまうとぼやきながら、顔を顰めた。
「実に素晴らしいタイミングだ、ハボック。褒美に一つやろう。――鋼の、アルフォンス君、もう行くのかい?」
「アンタね。 このタイミングでわざわざ外までサボリに出んでくださいよ。まったく、人騒がせな」
司令部を出るとき、こいつに一言言っておかないとと思ってわざわざ執務室に出向いた。その時、執務室から出てきたホークアイ中尉に大佐がいるかどうかと聞いて、いるともいないとも言われなかった。オレは大佐は執務室にいて、オレが入ったらこいつの仕事の邪魔になると思ったから会わないで出てきた。しかし、あのときの中尉の沈黙は、既に大佐が不在だったからに違いない。
「サボりではない。失礼な奴だな。――土産。そう、土産を買いに行ってたのだよ。彼らに。そうとも!」
ウソだ。明らかにウソだとオレたちは思った。でも大佐はオレたちのあからさまな疑惑の視線など歯牙にもかけず、がさがさと紙袋を開けて、未練がましく両手に一コずつドーナツを取ってから、その袋を後部座席のオレに差し出す。
「ここのドーナツは美味しい。豆乳ドーナツといって、豆乳で生地をといて、ラードで揚げてあるんだそうだ。大抵3時には売切れてしまうんだよ。――持っていきたまえ」
袋から、より濃い揚げたてのにおいが立ち上がる。それは正直魅力的だった。それに、大佐の視線が袋から離れない。手放そうとしているドーナツの袋に未練が尽きないらしい。ならと、なんとなく溜飲が下がる気持ちでそれを受け取ると、案の定大佐が小さく肩を落とした。それを見てから、においに釣られるように一つ摘む。
車は気が付かない内に動き出していた。
「あっ、うまいわ、コレ」
思わず漏れた一言に、前を向き直った大佐が大仰にうなずいたのを、ハボック少尉が胡散臭そうにチラリと視線を投げつけた。大佐は、自分とハボック少尉との間にドーナツをかかげ上げる。まるで、その視線に続くお小言をさえぎる様に…。
「――ドーナツ一つから学べることは以外に多い。このシンプルな形状に至るまでの試行錯誤に我々はもっと敬意を表すべきだよ。ドーナツの形状の歴史をたどれば、まあ、いろいろな説はあるのだけれどね。例えば、ある勇敢なる部族の若者が放った弓矢がたまたま穴の開いていないドーナツに当り、そのまま油の中に落ちて、ドーナツに穴が開いた、とか」
ありえねぇ、と小さな呟きが思いのほか大きく車内に響いた。隣でアルフォンスがへえーと暢気な声を上げる。それに大佐が大きく頷いて、更に勢い付かせることになってしまった。

「伝承として語られるほど、ドーナツの歴史が古いということをこの話から理解したまえ。現実は恐らくそんなに華々しいものではないだろう。熱効率、コスト、食感、味……これらを極限にまで追求した末に行き着いて、こんなにも単純な形に至ったのだろうと思う。しかし、この偉大な結論を導けたために、ここに到達するまでに発案された様々な形の長所が浮き彫りになったのだ。ツイスト、フラット、ライン、ドット、ハード、ソフト…。我々が今、無数の形状のドーナツに心を弾ませられるのも、この結論があったからに他ならない。――つまりは、無数の試行錯誤によって多くの比較対象を生じさせることができたからこそ、客観性を高めることになり、ドーナツに穴を開けたと言えるだろう」
「すげぇ。ドーナツの買い食いによくもまあそんな長話ができますね。ドーナツ一つに心を弾ませるだけならまだしも、自分、弾ませて司令部の外に行っちまうのは人としてどうなんスかねぇ?」
ハボック少尉の挿んだ合いの手に、大佐がドーナツ越しに睨みつけ、黙らせた。
「しかし、データは確かにドーナツに穴を開けることを示していただろうが、その答えを明確に導くとは限らない。何らかの発想の飛躍と言うものがなくては、答えに到達できなかった。では、その、何らかの発想の飛躍とはどのように生じたのか? 答えの見えない日々の中で繰り返される試行! ああっ! 何て暗くあてどもない日々! 何のために小麦を練っていたのかさえ忘れてしまいそうだっ!! ――ハボック、何だ?」
「えー…、そこでオレに振るんスか?あー…、天才のヒラメキってヤツじゃないんスか?」
だるそうに胸ポケットからタバコを出して、銜える。もちろん火は付けずに。
「駄犬めっ!! そんな俗知識に毒されるとはっ! 嘆かわしい!! 今度機会があったらお前の脳ミソを洗浄してやろう」
「――じゃあ、何スか?」
「努力を惜しむものの自己弁護が、その天才のヒラメキというヤツなのだ。自分は天才ではないから無理だと、努力を行わないことを正当化する。フンッ! 馬鹿馬鹿しいっ!!」
「アンタが言うとなかなか意味深っスよ」
「天与の才というのは、だれもが持って生まれるものだと言っていたヤツがいたな。ただそれが何であるかを知り、どう生かすかを考えるのに恐ろしく時間がかかると。つまりは隣の芝生ということなのだろうさ。自分以外の才能というのは案外わかりやすい」
「それって、ヒューズ中佐っスか?」
「――話が反れたな。それは遊び心だ。緊張しきった脳をリラックス状態にすることで、滞っていた部位に血流量が一気に増え、今まで不活発だった神経回路が活発化する。それによって今まで考えもしなかった発想が生じることになるのだよ。ヒラメキは天才たちだけが独占するものではない。大切なことは、日々の抑圧された生活の中において、遊び心を失わないことだ」
「そうやって、自分のサボリを正当化すんのいいかげんやめません? 真面目に聞いちゃったじゃないっスか。いつだって好き勝手してる人が言うと実に空しいものがありますよ。アンタはもう少しオツムを緊張させといた方がいいんじゃないんスか? ――あっ、ほら、バカ話聞いてたらもう駅じゃないっスか」
「――バカ話言うな…」

大佐オススメのドーナツは美味しかった。手が止まらなくなるぐらい。ずっともぐもぐと食べていたから、ヤツの話に一言言ってやる前に目的地へ到着してしまった。アルだけがへーとか言いながらその話を生真面目に聞いていた。


05

車から降りても、ハボック少尉と大佐は不毛な言い争いを続けた。その上、まだヤツの手には半分齧ったドーナツがある。人の行き交う駅構内で、食いかけのドーナツを手に掲げている軍高官に集まる視線は多かった。ただの高官なら、まだマシだったかもしれない。しかし、何の因果かヤツは東方司令官だった。
そんなヤツが衆人環視の中、自ら軍のメンツを足蹴にして歩いていく…。
正直疲れた。感情の浮き沈みが激しかったこともある。でも、それだけじゃなかった。気持ちを引き締めなくてはと思っていた矢先の、この二人のやり取りが自分の気概を奪い尽くしていくのだ。今までの行いの反省とか、今のままじゃ全然ダメなんだとか、そういうものも合わせてごっそりと。

二人とは他人の振りをして、話を振られても決して口を開かないでいた。そしたら、ヤツらはオレたちが乗車するプラットフォームまで付いてきて、当然のように見送ろうとする。しかも、大佐は汽車が出るまで待つ気満々に悠然と腕を組む。――明日から、出張なんだろ? そう言ってさっさと車両に乗り込んだ。あ、そうだった。そんなハボック少尉の声が背後から聞こえてくる。
それでも、車窓越しにいつもの胡散臭げな笑みと嫌味の篭った別れの挨拶を交わす。そして漸く二人はオレたちの前から立ち去っていった。ヤツは、最後にもう一度、オレの持っているドーナツの袋をじっと見てから。



ぱくりと手に持ったドーナツを齧りながら、遠ざかっていく青い背中。そこには気負いも何も伺えない。ハボック少尉が言っていたように、もう少し緊張感が必要なんじゃないのかと思うほど。でも、それはきっと奴の自然体なのだ。
――ドーナツと、遊び心とサボリの口実。
有耶無耶の内に受け取ったドーナツだったけれど、それは確かに、今、自分に一番必要なものなのかもしれない。オレは今、全てにおいて気張り過ぎていて、いろんなことに目が届かなくなっている。見知らぬ土地に行けば、いつも緊張するし、会う人全てに身構える。身構えすぎている。だから、きっと相手も身構える。こんなガチガチじゃ、きっと何も得られない。
「ひらめきは天才が独占するもんじゃねぇ、か…」
大佐が自分のことを天才だと思っていないように、オレもまた天才だとは思えなかった。
ため息。でも、大きく息を吐き出すと、自分の中で凝り固まっていたものも一緒に出て行くような気がした。身体が少し軽くなるような気がした。
ドーナツに託けて、オレに今一番必要なものを教えようとしてくれた鼻持ちならないヤツの後姿を、目が追う。もしかして、礼が必要なのかと。
「…………」
その時、最後のひとかけらを口に入れ、明らかにドーナツの油で汚れた指の始末に困ったそぶりをみせたヤツは、部下のオーバースカートに目を留めて指をぬぐった。すぐさま、ハボック少尉は弾むように奴から一歩遠のき、自分のオーバースカートを奴の手から取り上げた。――ちょっと、アンタっ! そう聞こえてきそうな様子で少尉が大佐にがなり立てても、大佐はうるさげに耳を塞いで、いつものようにハボック少尉の前に立って歩きはじめる。次第にその二人の姿は、駅を足早に行き交う人混みにまみれて見えなくなっていった。



「兄さんは大変だね。あの人が後見人じゃあ」
同じものを見ていたアルフォンスが大きなため息を漏らした。
「――オイ、人事のように言うなよ」
「人事なんじゃない? ボクの後見人は兄さんだもん」
「…………」
ドーナツに託けて、ヤツは本気でサボリの口上をつらつら述べていたことに、疑問の余地はなくなった。
礼なんか言わなくてよかった。本当に。
「オレはさ、何か疲れたよ…」
袋の中にドーナツはまだたんまりとある。また一つ摘むと、汽車がゆっくりと動き出した。
メモから救出。オフで加筆しました〜^^