コーヒー前線
01

南方から東方司令部に異動してまだ間もなく、新しい破天荒な上司のせいでいまいち調子を掴めずにずるずると一日が終ってしまう日が続いてた。

そもそも南方にいた頃は銃器背負って走り回ってなんぼだった。東部に来ていきなりペンを持たされて、上申書を書けだの報告書の形式がどうだの言われたってこっちだって困るってもんだ。それが嫌だとかできないとか言う前に、まず心の準備をする時間がほしかった。だから、まあ、机に向かうぐらいなら、必要かどうかわからない書類とかがらくたの詰まったダンボール箱を持たされて、マスタング中佐の後ろをついて司令部を右往左往するのはそんなに悪いことじゃなかった。オレが注意されたり、叱られることもない。叱られるのはもっぱらマスタング中佐ただ一人。それも美人な副官に長々と…。
この東方司令部で絶対的に逆らっちゃあいけない人はマスタング中佐ではなく、むしろその副官であるホークアイ中尉だった。彼女は階級差など全く関係なく、時に子供に言い聞かせるように、時に身も凍るほど冷ややかに、マスタング中佐を叱った。彼女はとてもフェアな人だった。一方、びっくりするぐらいアンフェアな人であるマスタング中佐は、少尉であるオレが逆らえないことを十分わかってて、仕事とは思えないことをさせたり付き合せたりする。
それでもそれにオレが大人しく従うのは、怒られることなくサボりに便乗でき、デスクワークから離れられるからであり、日々懲りずに副官に叱られて小さく小さくなってる中佐を見るのが面白かったからだった。―――でも、それだけじゃない。自分の理不尽な命令をぶつぶつ言いながらも従うオレにうれしそうにしているマスタング中佐を見るのはそう悪いことじゃなかった。そんな風に感じはじめたのは一体いつからだろう…。

そんな頃、南方の古巣の奴らが合同演習で東部に出張ってきた。地べたに這いずり回ることから、一気に司令官付きに出世したオレを目ざとく見つけて、当然のように酒盛りにつき合わせる。その話題は始終、オレの新しい上司についてだった。
マスタング中佐は国内外問わず有名な国家錬金術師だ。だけど、その名前の有名さに比べるとその容姿はほとんど知られてない。内乱中に敷かれた国家錬金術師たちの情報統制は徹底していた。以前の同僚たちも東部に来てはじめて、焔の錬金術師を見た口だった。
「マジかよ、ハボック。あれが?」
「あー、なるほど。あれじゃあ、なあ」
「男、咥えてるだろ、あれは」
「間違いねえな」
その名前について回る、仕官、下士官を問わず飛び交っている下世話な噂は、年齢を感じさせない男臭くない顔と、軍の中では小柄な本人を見るとなんか妙に納得してしまうものがあった。
焔の錬金術師は上官と寝て、昇進している。それがウソかホントかなんて知るところじゃないオレは、付き合いが悪いと罵られながらも、適当に言葉を濁してやり過ごすだけだった。
「南方じゃあ、上官にコーヒーすら入れなかった奴だったのに。よっぽど具合がいい上司らしいな? 飼い慣らされやがって」
ゲスな笑いの中で言われた言葉が何故かひどく耳に残った。

翌日、いつものように振舞えなかったのは、オレ自身もどこかしらマスタング中佐をそういう人だと思うところがあって、自分との距離を意識してしまったからかもしれない。
山のように積み上げられた書類の間から呼びつけられて、ちゃんとした美味しいコーヒーが飲みたいと呟かれたとき、その任務の面倒臭さもあって、恐らくはじめて中佐にノーと言った。書類から上げられた顔が少しびっくりして、すぐにその黒い目が、オレが何を考えているのか探る。
「上司が美味しいコーヒーを飲んではならないと?」
「上司にうまいコーヒーを飲ませるために軍に入ったんじゃねえんで」
オレの返事に、中佐は大きく背伸びをしてから椅子に身体を預けた。ペンを置いたのは自分の美しき副官の不在を確認してからだった。本格的なサボりの体勢。ただその顔には皮肉気な色が浮かんでいた。
「ふうん。じゃあ、ハボック少尉は何のために軍に入った? ――ああ、そうだった。東部平定に尽力したい、だったか。前線に配属されることは受け入れられても、上司のご機嫌をとるのは耐えられないと言いたいんだな? ハボック少尉」
前線に行かされたくなら、コーヒーの一杯でも喜んで入れて見せろ。睨みつけているわけでもないのに、ひどく高圧的で威圧的な無言の視線。私の言葉に否などないのだと、はっきりと聞こえてきた。
前の上司に似たようなことを言ったときは問答無用に一発殴られた。それは軍の中にあって当たり前のことだろう。でも、マスタング中佐はオレを殴らなかった。なのに、この人にこうも頭ごなしに命令されたぐらいで、オレは苛立ちを堪えきれなかった。



コーヒーカップを乱暴に机の上に置くと、大きく波打ったコーヒーが書きかけの書類の山にびちゃっと跳んで、茶色い染みを広げた。マスタング中佐の顔が見る見る内に引きつる。書類の書き直しを余儀なくされて…。
コーヒーを置いたらすぐさま立ち去って一服と考えていたオレは、その惨劇にほんの一瞬動揺した。そして、それを中佐が見逃すはずもなく、まだ幾分引きつった笑顔を浮かべて言った。
「このコーヒーはお前にやろう、今、ここで飲むがいい」
私のために、ちゃんと美味しいコーヒーを入れてくれたんだろうと、その目が鈍く光る。
「あー…、オレ、猫舌なんで‥‥」
「では、冷めるまでここで待っていろ。きっと、冷めても美味しいはずだ」
オレの入れた特製コーヒーは、隠し味に雑巾の絞り汁と生ゴミの汁がブレンドされていた。その香りは隠しようもないほど異臭よりの酸味を発している。中佐はあくまでも笑顔だった。目は笑ってなかったけど。
「自分が飲めないものを私に出したのかね?」
誤魔化しようがなくて、あはと笑ってみた。ついでに悪びれなく、胸まで張って見せると、中佐が器用に片方の眉だけ跳ね上げた。無言の応酬。――でも、その決着はあっけないほど簡単に付いた。こんなことを部下としてるバカらしさに早々に気付いた中佐が口を開いて。
「よろしい。今後、お前には頼むまい」
寛大にも上司はコーヒー番を免除してくれた。お任せください、サー。そう言って敬礼を決めたオレに、中佐は肩を竦め、そのカップを手に司令室を出て行った。コーヒーを入れてくると一言残して。自分でコーヒー入れに席を立つ佐官なんてはじめて見た。
司令室を出て行った中佐の背中をオレはあまりにびっくりして見ていたのだろう、後ろを通った奴が親切にも教えてくれた。
「マスタング中佐はよくご自分でコーヒー入れていらっしゃいますよ。よくホークアイ中尉や司令室にいる人たちに配っていらっしゃるのをご存じなかったのですか?」
さらに驚いた。

その後、マスタング中佐はしばらく戻ってこなかった。問答無用で今日中に中佐のサインが欲しい書類がどんどん溜まっていく。その上、今日はコーヒー染みを作った書類の書き直しもしなくちゃあならない。すでに提出期限の過ぎていた書類を関係各所に受け取ってもらうためにわざわざ出向いていたホークアイ中尉が戻ってきたときにすら、中佐はまだ戻ってなかった。
中佐がどこに行ったのか冷ややかな無言の視線で聞かれ、コーヒーを入れてくると出て行ったままですと答えると、中尉の眉間に深い皺が刻まれた。
「昨日なくなったコーヒー豆を買いに行ったのね…」
中佐はその日、陽が落ちるまで戻ってこなかった。

マスタング中佐はどうやらオレにコーヒー豆を買いに行かせたかったらしい。大手を振って外出してサボれるチャンスだったのに…。


02

マスタング中佐の入れるコーヒーはあまりうまいというわけではない。でも、それを重要なサボりのひとつとして位置づけているらしく非常に丁寧に時間をかけて、部下の分まで大量に入れる。まず、コーヒー豆をガリガリと挽いてから、ペーパーフィルターの重ね目に丁寧に折り目を入れ、沸騰させた湯を少し冷ましてから、ドリッパーに注ぐ…。ここまで手間をかけたコーヒーなのにその味は不思議とおいしいと素直に言えないものがあった。何かが足りないのだ。だけどそれでも、東方司令部の泥水を薄めただけと評判のコーヒーに比べると、それはちゃんとコーヒーの味をしていだけ、司令室では好評だった。
20分程度の気晴らし。いつものサボり時間に比べたら僅かな時間内で、しかも目の届く範囲にいてくれるだけましなものとして、司令室では認識されている。

大きなトレーに大量のカップを乗せて、マスタング中佐はまず真っ先にホークアイ中尉の席に向かう。空いてる机にトレーを置いて、中尉のマイマグカップを手に、コーヒーですと静々と机の上に置いた。中尉はもうこの中佐の遊びに慣れ切ってて、仕事の手を休めることもなく礼を言う。
それから、中佐はそのとき司令室にいるものたちにコーヒーを配り歩いた。
「俺たちには机に置いてくれないんですか?」
ブレダの軽口にも、中佐はどこ吹く風で、片手でトレーを持ったら危ないだろうと楽しげに返す。しかも、上司にコーヒーなんて入れたくないと言ったオレにすら、マスタング中佐は実に忌憚なくコーヒーを勧めた。―――ほら、ハボック、お前も取れなどと。オレはホークアイ中尉のカップ以外は全部同じ来客用のものだったこともあって、礼を言ってコーヒーをいただいた。
上司があまり上下関係に拘りがないこともあって、その内オレは自分の言ったことがどうでもよくなってきた。特に月末や書類の締め切りが迫ってて一分一秒を惜しむときはちょっとコーヒーをなんて言われて中佐に席を立たれるぐらいなら、頼まれなくてもコーヒーを入れてやろうと、いやむしろいくらでも入れてやろうと思う始末だった。
実際オレは自分で言い出したことがバカらしくなってきたのだ。たかがコーヒーに自分は何をそんなに拘っていたのか。でも、自分からコーヒーを入れたくないと言った手前どうしたものかと思う…。

慌しい日常の最中に、謝罪の気持ちを込めていつもより丁寧に作り置きのサーバーからコーヒーを注いで、ややドサクサにまぎれに中佐にコーヒーを出してみた。そしたら、思いもよらずありがとうと返ってきた。顔は相変わらず書類を向いていたけど。それでも、これで一件落着。やっぱり中佐だけあって度量が広いなどとすら、オレは思っていた。そう、オレの中でこの件はこれで終わっていたのだ。



東方司令室の早朝の光景と言えば、マスタング中佐は案外いつも早い出勤で、オレが来る頃は大抵机に向かっていた。その点、ホークアイ中尉はいつもきっかり15分前に司令室のドアを潜った。上司より遅く出勤するなんてという悪習に近い考えは中尉のそのステキな行いにより、ここ司令室には蔓延することはなかった。
朝礼が終わると、ホークアイ中尉は給湯室へ向かい、自分の分と中佐の分のコーヒーをドリップする。自分の分は給湯室でそのまま飲んでしまうのが習慣だった。
オレは朝の一服を兼ねて、このタイミングで作り置きのまずいコーヒーを入れに行く。よって、給湯室でホークアイ中尉と一言二言本日の予定を話すことが多かった。もちろん、今日もそれは変わらない。いつもと違ったのは中尉の一言だった。
「ハボック少尉、何をして中佐の機嫌を損ねたの?」
全くもって、寝耳に水な言葉。
「は? 中佐、機嫌悪いんスか?」
全く心当たりがないばかりか、オレは機嫌が悪いことすら気付かなかった。さっきだって挨拶したら、フツーにおはようと返ってきたし。
「あら、気づいていなかったのね?」
「あー、全く」
「コーヒーよ。少尉の入れたコーヒーに中佐は手をつけない」
問題は忘れたことにやってくる。中佐は3ヶ月以上も前のことを実にしつこく根に持っているらしかった。
「…………………」
沈黙するしかないオレに中尉が心当たりがありそうねと少し目元を和らげて言った。その原因はマスタング中佐ただ一人にあると全く疑いない様子だった。
「―――コーヒーにいたずらしたのがばれて二度とコーヒーを持ってくるなと言われました。でも、もう3ヶ月以上前の話っスよ? もうあの人も忘れてると思うんですけど…」
「あら、あの人はね、1年でも2年でも燻って愚図る人よ。あの人に時効なんて概念があるのか疑問だわ」
小さく肩を竦めて、中佐の分のコーヒーカップを手に給湯室を出て行く真っ直ぐな背中。そこには澱みも迷いもない。オレとは違う…。

ありがとう。その言葉はあっても湯気の立つコーヒーは見向きもされず、そのまま冷めて尚1ミリたりとも動かされずに同じ場所に置かれ続ける。無視されていたオレの好意が、自業自得とはいえ行き場を失って鉛のようにオレの中に溜まって行く気がした。これはかなり大人気ないんじゃないのか。そう思いつつ、んじゃあもう別にいいやと次第に中佐にコーヒーを運ばなくなった。


03

ホークアイ中尉が不在の場合、マスタング中佐は朝礼を終えるとそのまま執務室に向かう。そして、その日は大方、司令室の方へは顔を出さない。そんでもって、中尉と中佐いない司令室は少しだらけつつも、それなりに真面目だった。イレギュラーなことが起こらず、かつ、中佐の日々溜まる一方になってる書類の処理がそれなりに順当に進めば、定時の上がりが約束されている。それぞれが自分のペースで、時に同僚と軽口を叩きながら仕事をするフランクな一日なのだ。

その日もそんなちょっといい日だった。なのに、オレは不運にも上司のケガに気が付いてしまった。いつものようにそっけない朝礼を終えると、中佐は『何かあったらまず自分たちで解決を図ろうとし、その上でそれが困難な場合においてのみ、私に報告するように』といい加減なことを言い残して司令室を出て行った。その後ろ姿にほんの僅かに違和感があった。足を引きずってるわけじゃないけど、少しだけ左足の接地時間がやや右に比べて長い…。
「――足、ケガしたんスか?」
一応、護衛官という役割をいただいている責任上、追いかけて確認すると、マスタング中佐が少し目を見開いて振り返った。
「分かるか?」
分かる奴は分かる。頷くと、はあと大きなため息と共にでっかい星の乗った肩が落ち込んだ。なんとなく出し抜いた気がして気分がいい。
「みっともない。今日は大人しくしていよう…」
「えーっと?」
「昨日、ちょっとな。だが、傷が足の裏で。まあこれなら内乱中に作ったマメのほうが痛かった」
「マメ?」
「そうだ。マメを馬鹿にするなよ? あれは本当に痛たかったんだ」
ちょっと鈍臭い。そう思ったのか顔に出たらしい。黒い目が咎めるように恨みがましく細められた。でも、ごまかすようにあははと乾いた笑いを上げると、中佐は片方の眉だけ歪めただけで特に何も言うわけでもなく、執務室に入って行った。

昼前にサイン済みの書類回収に執務室に行くと、その人は座り心地の良さそうな椅子に沈み込んで寝ていた。机の上にも、部屋のあちらこちらにも、紙飛行機が散らばっている。それでも、一応それなりに書類の山を減らしてから遊んでいたらしく処理済の書類が山となっていたから、中佐を起こすことはしないで書類だけもって部屋を出た。
二回目の書類回収は眠気もピークに達しただるい昼下がり。執務室に入ると、予想外にもマスタング中佐は起きていた。だけど、机の上には書類の山に混ざって紙飛行機の残骸がいくつも増えている。
「ハボック」
にこやかに、犬を呼ぶような手招きが数回。実際、ヒマで司令室に戻ってもすることもこれと言ってなかったから素直に近づけば、中佐は錬成陣を描いた紙を丁寧に折って、新たな紙飛行機を作りはじめた。
机の上に空のマグカップが置かれていた。誰かが持ってきたのか、いつものように自分で用意したのか。おそらく自分で用意したんだろう。この人が自分からコーヒーを持ってくるように頼むところはあまり見かけない。
中佐はどうにか紙飛行機を4つ折り終えると、それらに手をかざした。練成光が辺りを一瞬包む。それなりに期待して、戻った視界の中で変化を探したけど、オレにはそれはどこにも見つけられなかった。
「ハボック少尉、私の後ろに。合図をしたらあちらの天井の隅を狙って飛ばすように」
二機の紙飛行機を渡される。マスタング中佐も片手に一つずつ持って構えた。行くぞ。その掛け声で紙飛行機を投げ飛ばす。4機の紙飛行機は同じようにカーブを描き、それらは編隊を組んだかのように規則正しくそれぞれに等間隔を保ったまま天井近くを高度を落とさず円を描いて飛んだ。明らかに不自然な動き。それらは二周回ってからから、ゆっくりと高度を落としはじめてオレの正面、部屋の中央に着地した。――右端の一機がバランスを崩してその先端をぶつけ、一回転してさらに前方の一機にぶつかってしまったが。
「大事故になってしまった。失敗」
ちょっと、なにこれ! これも錬金術?! 着地した紙飛行機を拾い上げても、それらには紐で結ばれてるようなからくりはなかった。
「すっげえ! もう一回、中佐!!」
さっきとは逆にオレが中佐に紙ヒコーキを手渡す。オレの賞賛の声に気を良くしたらしい中佐は珍しくも、やれやれといいながら付き合ってくれた。それらは数回同じように編隊を組んで飛んだけど、しばらくするとただの紙飛行機に戻ってしまった。

「まだ、何かあるんじゃないんスか?」
それでもまだガキのようにねだるオレに苦笑しつつ、中佐は複雑な動きをさせるのはまだまだ改良の余地があるとは言いながら、その失敗作のひとつを手にとって投げる。それは縦に大きく一回転しようとするが、頂点を越えた時点でバランスを崩してヨロヨロと回りきれずに床に衝突してしまった。
「大惨事だ、速やかに救助せよ」
「イエッサー!」
その変な紙飛行機を拾い上げて投げてみても、やっぱり結果は同じだった。こうなると部屋中に散らばってる紙飛行機に俄然興味が沸く。注意深く見ると、どの紙飛行機にも何かしら錬成陣が描かれていた。だけど、それらに手を伸ばす前に水が入った。
「ハボック少尉、書類、回収していけ。せっかく時間通りに終えたのに」
「えー…」
非難がましい声を上げれば、犬を追い払うように退出を促される。しかも、わざとらしくペンを握り、書類にサインし始める体勢を整えて。自分はいつも好きなだけサボっているくせに。でも、残業になるのは避けたかったから、しぶしぶながら執務室を後にした。



終業の合図は、ホークアイ中尉が出張中といえども、彼女の一言によってもたらされる。そして、きっちり予定通り終業30分前に入った電話にこっちもきっちり業務連絡。ついでにマスタング中佐もちゃんとノルマを達成しましたと報告したら、珍しく受話器の向こうで返事が詰まって、大きな溜息が聞こえてきた。
「―――中佐が言われたノルマを時間通りに達成するときは、大概、後ろ暗いことを隠しています」
マスタング中佐と一緒に中央から都落ちしてきたその副官の言葉に、思わず、まじまじと受話器を見つめてしまった。それでも、オレの困惑など歯牙にも掛けられず、話は続く。――何か変わったことはありましたか? そう言えば、朝、中佐が執務室に向かうとき、足を怪我したって聞いたっけ。
「あー、昨日、家で足を怪我したとか言ってました。でも、内乱中にできたマメの方が痛かったらしいですけど?」
今度は舌打ち。オレの聞き間違いじゃなければ…。
「マメを化膿させて、足の裏を焼いた痛みに勝る怪我はそうないと思います」
静かな声の迫力に飲まれたまま、すごすごと確認してきますと言うと、強制的響きのこもったよろしくお願いしますが返ってきて、電話が切れた。
何かあったのかと、隣の席の同僚が怪訝そうな顔を見せる。別に残業とか緊急事態とかじゃねえよ。そう言ってやれば、意気揚々と帰り支度を始めた。せめて、何かあったのかぐらい聞いてくれれば、愚痴の一つでも零してやるのに!


04

終業の気配が漂う司令室を尻目に薬箱を持って執務室に顔を出したら、紙飛行機が大きく縦に一回転していた。そして、正面には満足そうな笑顔を浮かべた東方方面軍東方司令官が座っている。
「―――ホークアイ中尉から連絡が入りました」
執務室には相変わらずたくさんの紙飛行機がちっとも片付けられずに散らかっていた。
「うん? 何だって?」
「アンタが何か後ろ暗いことを隠している、と」
アンタは怪我してる。どんなもんですかね。手に持った薬箱を掲げて、何をしに来たか教えると、マスタング中佐の笑顔が見る見るうちに曇っていった。
机の上は朝よりも昼よりも大分片付いていているものの書類は山となって重なっていた。その書類の山の谷間にあるカップには水が入っている。昼過ぎに来たときは空だったカップ。そう言えば、今日、この人を昼に食堂で見なかった気がする。

机を回って、中佐の足元に膝を付いても、中佐と呼んでも、中佐はその体の向きを変えようともしなかった。その頑なな態度に、椅子の肘掛に手をかけて強引に90度イスを回転させる。
「ハボック少尉!」
「何スか? 左でいいんスよね?」
組まれたままの足の、床についていない方の軍靴を掴もうとすると、それを阻止しようと左足が遠退いた。
「―――医務室へ行く。お前はもう時間だから帰りたまえ」
「ホークアイ中尉に頼まれましたから」
「………………」
怪我の具合を確認したら、今日の仕事は終了なのだ。少しは協力してくれたっていいだろう。なのに、中佐は軍靴を触らせまいと必死に身を屈めてオレの頭を押しやろうとした。でも、力の差は歴然で、オレは力任せに左足を掴んで、軍靴を脱がした。
途端に中佐の体がびくりと固まる。血の匂いが鼻を付いた。思った以上に、怪我は酷いらしく、白い靴下の甲が赤く染まり、しかもまだ濡れていた。左手で足を捕まえたまま、脱がした軍靴を床に置いて、右手でオレの頭を掴んだ中佐の手をどかした。これは乱暴にしていい怪我じゃないんじゃないか。慎重に靴下を脱がす。男の足とは思えないほど白い足に滴る血の赤がやけに鮮やかで、目がそこから離れなかった。ぞくっと体が震える…。
その時、オレの手の中から足が僅かに引かれて、はっと意識が戻った。
足の甲には何枚も絆創膏が貼られていて真っ赤になっていた。恐る恐る足の裏を覗き込めば、やっぱりそこにも何枚も絆創膏が貼られている。そして、明らかに熱を持った足。
「熱、あるんスね?」
中佐は無言だった。怪我の状態を見るために絆創膏を外すと痛んだのか、また体がびくりと跳ねた。

そこには、刃物が足を貫いた痕があった。
これで、普通に歩いていたとは恐れ入ると思って、気が付いた。満足に立っていられないのだろう。足に均等に力をかけて。だから、食堂に並ぶのはもちろん、コーヒー一杯入れる時間すら立っていられなくて水を飲んでいたんだ。熱があるなら、のどが渇くだろうに。
「原因は何スか? 刃物の傷ですね」
「………………」
「中佐?」
「―――落とした」
「は?」
「ペーパーナイフを落としたんだ。家で」
「自分の足の上に? そんなバカな!」
言い訳ならもっとましな言い訳してくれ! 思わず出た素直な感想に、ふんっと盛大にそっぽを向かれる。何事もそつなくこなすくせに、どこか日常生活では不器用さが垣間見える人だった。本当にマジで落としたのかもしれない。
「―――今、私のことを鈍臭いと思っただろう」
「あー、いえ。その、ちょっとだけっスから」
どうぜ私は鈍臭いよ。スネたもの言いが年の離れた田舎の弟っぽくて、なんかこれ以上問い詰めにくかった。

「何で水飲んでんスか? 腹下しますよ?」
足の下に脱脂綿を引いて、消毒薬を使い切る勢いでかける。今度は中佐の体全体が竦みあがった。足先まで。貫通した傷だけど骨にも神経にも異常はないらしい。
「――便秘中なんだ」
「あのね…。足痛いんでしょ? コーヒーの一杯ぐらい頼めば誰だって持ってくるのに」
足が動くと傷口から滲むように血液が出てくる。赤黒く固まった血液を新しい脱脂綿でふき取って、傷口にガーゼを当てた。
「お前の口からそんなことを聞くとは思わなかったぞ。どういう心境の変化だ?」
薬箱を覘く。なにか傷口に塗る薬でもあれば。タイガーバームでも塗らないよりはマシなはずだ。だけど、薬箱にはなにも見当たらない。
「アンタの日頃のわがままっぷりを考えれば、コーヒーの一杯ぐらいなんてことはなかったって気づいたんですよ」
「ふうん」
あ、絶対信じてないな。頭上から聞こえる声は明らかに気が抜けていた。
「えーと、南方にいた頃、上司に同じこと言って殴られたことあるんスよね。それを知ってる奴らが東方に来てバカにされてイラついていたときに、コーヒーいれろって言われて、その…」
「…………………」
足の裏にガーゼをあるだけ重ねてテープで止める。これだと軍靴に足が入らなくなるけど仕方ない。
「でも、結構すぐ反省してコーヒー持ってっても、アンタ手ぇ付けなかったでしょ?」
「生ごみを入れたコーヒーを持ってきた奴に、二度とコーヒーを持ってくるなと言った舌の根が乾かない内に持ってこられたコーヒーだぞ。手を付けるとでも思うのか?」
「あー…、そうっスね、ははは…」
ちっともそうは思わない。だってオレは二度とコーヒーを持ってくるなと言われて二時間後にコーヒーを持って行ったわけじゃないし。でも、中佐はオレの全く心の篭ってない同意に肩を竦めるだけで、それ以上の追求はしなかった。
「まあ、もういいさ。コーヒーぐらい自分で入れる。今日は本当に水が飲みたかったんだ」
「―――そうっスか…」
もうコーヒーを持ってくるなと言われた気がした。本当は、この人は、他人の入れたものを飲むのが嫌なのかもしれない。ホークアイ中尉が入れるものは別として。

ガーゼの上から足を固定するように固く包帯を巻くと、大きくなため息と一緒に、足がすいっと泳いだ。これ以上包帯を巻きつけるなと言いたいらしい。そのリクエストに応えて鋏で包帯の残りを切って、またテープで止める。白い足がオレの手の中から離れていった。
ありがとう。その言葉はオレがしたことへの礼というより、この件はもう終わりだと宣言しているようだった。
「―――中佐は…。中佐は、あんまり言わないっスよね。コーヒー持ってこいって…」
根本的に信用されていないんだろう。敵の多そうな人だからいろいろと注意しているのかもしれない。そう思って、何か漠然とした疎外感なんかを感じてる自分にドキっとした。今までこんなこと思ったことがあったか。ガキの頃だってないんじゃないのぞ、こんなの…。じわじわと顔が熱くなってくる。もしかしたら赤くなってるかもしれない。
顔を隠すように周りのごみと薬箱を拾って、中佐に背を向けて、このままさっさと退出しちゃおうとした瞬間、上着をむんずと掴まれて阻まれた。これでも月に何回かはクリーニングに出してる上着に不用意に皴を付けるのは止めてくれ! 急いでその手を外そうと振り返ると、咎めるように顰められた目に睨み上げられてた。
「…………………」
「あまりではない。全くだろう」
「は?」
「私は一度たりともコーヒー持って来いと言ったことはない」
「ええ? オレには言ったじゃないっスか?」
「言っていない。コーヒーが飲みたいとは言ったが」
「へ、屁理屈ですよ、それは…」
「うるさいな。私はとにかく言ってはいないぞ!」
声に出してないってだけで、アンタは雄弁にコーヒー持って来いと言っていた。オレは何回もその声を聞いた。それに、屁理屈を言って部下で憂さを晴らすのは上司の特権だ。言ってたって言ってなくったってどうでもいいだろう? でも、この人はそれが重要なんだとばかりに言葉を重ねた。

「別にどっちだっていいでしょ? 何でんなことに拘るんスか?」
途端に、強い光を浮かべた瞳が逸らされる。
「―――、…………………」
ごにょごにょ。小さな呟き。はい?と聞き返せば、また目に力が戻る。でも、その顔がじわじわと赤くなってきた。
「そ、それは人望がないものがすることだ」
「はあ?」
「だから、コーヒーを持って来いなどと言うものは、持って来いと言わなければ、コーヒーすら持ってきてもらえないほど部下の人望が得られていない奴がすることなんだ!」
「…………………」
「だからっ! ―――何回も言わせるな!」
「つまり、アンタは、中尉以外誰もコーヒーもってきてくれないから、わざわざ自分でコーヒー入れに席立ってるんですか?!」
んな、バカな! 正直な驚きがにわかに中佐を怯ませ、その語気には次第に力がなくなっていった。
「失礼な奴だな。そんなことないぞ!―――す、少なくとも、お前が阿呆なことをしでかす前は誰かしら持ってきてくれていたんだ…」
その消極的な言い方に、自分が黙っていてもヒューズ中佐やホークアイ中尉のような人望を集めるタイプじゃないことを日頃の行いからちゃんと分かってることを知った。きっと何気なく自分のコーヒーのついでにいれられたおすそ分けを部下からもらって内心喜んでいただろう。天下の焔の錬金術師がコーヒーひとつに一喜一憂してたなんてなんとも物悲しい。
「ふん。どうぜ私は人望とは無縁だとも」
オレの出すコーヒーに中佐が警戒して手をつけなかったことはもしかしたら司令室中、気付いていたのかもしれない。だから、誰も持っていかなくなったとしたら、この自体の責任の一端はオレにもある。自分の腹心の部下か、自分が入れたコーヒーしか口にしないと回りに思わせてしまったのなら。
「あー、オレでよろしければ、自分のついでに中佐の分もいれて差し上げますけど?」
「ゲテモノ入りのコーヒーを私に飲ませたいのなら、ミルクを入れたり、臭いのないものにしたりといろいろ工夫するんだな」
「あ、ひどい。オレの好意を!」
「何が好意だ、何が。―――でも、まあ、あれだ。私がコーヒーを入れるのが好きなのは確かだから別に気にすることはない」
中佐はもういつもの顔でいつものように鷹揚に笑った。
オレの提案は結局、受け入れられなかったのだ。

血で汚れた軍靴を拭ってやれば、また礼を言われる。司令部の医療室じゃなくて、病院にいく必要があるんじゃないのかと言いたくても、病院で怪我の原因を聞かれて、自分の足にペーパーナイフを落としたと言ったら、頭も調べられ兼ねないから、強く病院に行けとも言えない。
定時をやや過ぎて、中佐は包帯で太くなった足を強引に軍靴に入れて、足を引きずりもせず歩いて帰っていった。見送るそのまっすぐに伸びた背中がなんだかさびしく感じた。


05

中佐のコーヒー、オレが入れてもいいですか。
朝の給湯室前で、そうホークアイ中尉に申し出ると、中尉はわずかに口元を綻ばせて、その役を譲ってくれた。



「ゴキブリも噛みかけのガムも入ってませんから」
コーヒーとミルクを1対1にしたのはこの人が猫舌だとが分かっていたから。
毎朝、ホークアイ中尉が出すコーヒーは沸き立った熱湯のコーヒーで、マスタング中佐はいつも飲もうとしてカップに口をつけた時点で、顔を顰めてすごすごとカップを机に戻す。そして、物言いたげに中尉を見るのだった。繰り返される朝の数秒のやり取り。
オレがコーヒーを持っていくと中佐は疑いの眼差しをオレに向けながらも、ありがとうと言って受け取った。そしてそのまま立ち退かずじっと中佐を見つめれば、根負けした中佐が大きなため息を付いて、ついにカップに口を付けた。そして、そのままごくごくと。
たとえサーバーに作り置きされてたまずいコーヒーにミルクを入れただけのコーヒーであってもこの人がオレの出したコーヒーに手を付けたのははじめてだと思うと、何か野生動物の餌付けに成功した気分だった。達成感すらある。司令室の朝のざわめきすら心地よく感じて、――突然、
「―――――っ!」
突然、中佐が口を押さえるから、オレはこれでもまだ熱かったのかと思った。だから、まだ熱かったですか?なんて暢気なことを口に出す。ただでさえぬるいサーバーのコーヒーに冷たいミルクを入れた、人肌程度のぬるいコーヒーがまだ熱いなんてことがあるのかなんて真剣に思って。
「――ハボック、お前、飲んだか?」
「は? コーヒーっスか? まだっスけど?」
「そうか」
中佐は思いもよらないほど真剣な顔で頷いた。頭の奥で何かが弾けて、思わずそのカップに手を伸ばす。でも一瞬早く白い手がカップを奪っていた。
「全員、手を止めろ」
就業前のざわついた空気が一瞬で緊張感を孕む。そういういつもとは違う響きを帯びた声だった。
「今、コーヒーを飲んだものはいるか?」
湯気の立つコーヒーを手にして司令室に入ってきた二人が、まだ飲んでいませんと声を上げる。中佐は至るところで横に振られる頭を見て、飲むなと言った。そのたった一言で、オレたちは口を開くことを許されなくなった。
その中で、ただ一人中尉だけが眼差しを鋭くして席を立ち、司令室を出て行く。
司令室全員の視線を集めた、ただでさえ白い中佐の顔がどんどん色を失くしていった。

「吸いかけのタバコがコーヒーサーバーに混入されていました」
すぐ戻ってきたホークアイ中尉が中佐に見せたのは、ペーパーナプキンの上に乗った一本の濡れたタバコの吸殻だった。
「――門兵に連絡しろ! 不審者をここから出すな!」
声を張り上げたブレダを、中佐が手を振って止めさせる。
「これは単なる嫌がらせだ。ことを荒立てる必要はない」
「単なる嫌がらせって、中佐、顔が真っ白ですよ! んな暢気にしてていいわけないでしょう!」
「本数は吸いかけのもの1本。例え飲んでも吐く程度だ。これは単なる嫌がらせだ。しかも、今日はハボック少尉がミルクを入れていたからニコチンの吸収はほとんどないだろう。確かにニコチンはタバコ2〜3本を誤食しただけで致死に至る猛毒だが、なにも私は食べたわけではない」
「ニコチンは水に溶けた方が吸収が早く症状は重度になります」
普段感情を感じさせない糸目のファルマンが言葉尻を強くする。
「ニコチンは4時間経っても重度の症状が出ない場合は治療は不要だとされている。このコーヒーを飲んで今、私の自覚症状は軽い、吐き気と脈拍上昇だけだ」
先任中尉が席を立って、中佐のことなかれ的な態度を非難した。これは軍全体に対する挑戦です、と。

「コーヒーサーバーにタバコが入れられていたのは、マスタング中佐が東部に着任からこれで3回目になります。いずれも出入り業者が不在の時間帯でした」
中尉の言葉はいつもと同じ、冷静で沈着だった。それが逆にこのことが日常的なことだと言われている気がした。いや、日常的なんだと言っていた。
「―――それは、軍内に犯人がいるということですか?」
だから、ことを荒立たせたくと、はっきりと頷くホークアイ中尉。

張り詰めた糸のように緊迫して静まり返った司令室でブレダの、ハボック…、と動揺を乗せた呟きが響き渡った。途端にオレに向かって、ビミョーな空気が流れる。
疑惑の視線を集めている自覚があった。当たり前だ。オレだって、オレが一番疑わしいと思う。動機もある。休憩時間にだって、飲みに行ったって、オレは大抵中佐の傍若無人さを愚痴ってる。オレがこの人にいつか報復をしてやるつもりなのはここにいる全員が知っていた。もしかしてこれはオレが無意識にやったことなのかもしれないとさえ思う。
でも、この人は真っ先にオレがコーヒーを飲んだのか聞いた。その上、まだと知って、その眼に一瞬、安堵の色さえ浮かべて見せた。
自分でさえ疑わしいと思うのに、全く疑われてないことに粟立つ。
何の疑いもなく、この人に作り置きのコーヒーを飲ませた自分に粟立つ…。
オレは、朝、ホークアイ中尉がこの人のコーヒーを入れながら、給湯室で一杯飲んでいるのを知っていた。敵の多そうな人だと思ってた。それに、敵は外だけじゃなくて、内にもわんさかいるだろうって思ってたのに。オレの入れたコーヒーにこの人が手を付けないのだって、そういうことなんだと思ってた。でも、それがどういうことなのか、ちゃんと分かってなかった自分のおめでたさに眩暈がした。ホークアイ中尉が朝、給湯室でコーヒーを飲んでたのは、中佐の飲むコーヒーに異物が混入されてないか確認するためだったのだ…。

オレがやったも同然だと思う態度がますます司令室をビミョーな空気にさせる。でも、自分から何も言うことはできなかった。罵られたい気分だった。
「―――ブレダ少尉、私はハボックを疑っていない」
なのに、大佐がそんな空気払拭する。まるで嵐のように。
「じゃあ、なんで今までハボックの持って行ったコーヒーに手を付けなかったんですか?」
「それは純粋にこいつにムカついていたからだよ」
「…………………」
「いいか、ハボックは3ヶ月と3週間前、私に腹が立った腹いせに何をしたか。―――コーヒーに雑巾の絞り汁と生ゴミの汁を入れて、私のところに持ってきたのだ。そんなものをおめおめと飲むようなものは誰もいないほどの、強烈に異臭を放つコーヒーをな! いいか、ハボックはその程度の悪知恵しか働かない奴だぞ。その上、日々タバコの本数を気にして、フィルターまでぎりぎりタバコを吸って生きている。そんなものがまだ十分吸えるタバコを犠牲にして私にいやがらせするだろうか?」
マスタング中佐は司令室全体を、一人ひとりと目を合わせるように見回して、大きく頷いた。
「そうだとも! ハボックはしない。絶対しない!」
力強い肯定であり、篤い信頼だった。かつてこんなにまで上司に信頼されたことがあっただろうか。いや、ない…。
うな垂れるオレを、ホークアイ中尉が大丈夫、ちっとも疑ってなんかないわよと言わんばかりに、背中をぽんと叩いた。確かに中佐のおかげで、オレに向かっていた疑惑の目はきれいさっぱりなくなっていて。
「マスタング中佐、力説、ありがとうございます…」
いつの間にか、そんな心にもないことを言わなくちゃならない空気になってて。
「部下の疑いを晴らすのも上司の勤めだ。何も気にすることはない!」
搾り出すように言った言葉に、中佐は実に晴れやかに笑った。
その顔にはもう病的な白さはなく、赤みさえ差していて、ますます何も言えなくなった。
2008/05/02〜2008/08/07