ENOUGH TO MAKE A CAT LAUGH
01

ホークアイ中尉の好意により、私は午後からの半休を手に入れた。
よほど私は見るに耐えないほど、疲れて見えるのだろう。
私を見る司令部の面々には一様に憐れみの色が浮かんでいた。
だが、こんな天気のいい日の半休である。
私は部下たちのその不敬な態度に多大なる寛大さをもって無視した。
なんてったって、私は半休なのだ。
なのに、お前らはこんな薄暗い部屋の中で書類の整理に追われている。
これで寛大にならないものがいようか。いやっ、いまいっ!!
「っあっはっはっはっはっはっっ!!!」
私は衝動のままに笑い声を上げて、司令部を後にした。





「軽やかに去って行きましたね、中尉‥‥‥」

「―――――憐れだわ」

最近の大佐のシフトは実にタイトな進行だった。
しかし、部下たちは上官がいくら寝る間を惜しんで働いていようが一応休みはある。
代替のきかない職ではないからだ。
休みは少々不規則になりがちだが、過労死するほどではなく与えられている。
労災を意識するのは、年度切り替えや年末、もしくはテロリストたちが張り気り過ぎたときぐらいだった。司令部に頻繁に泊り込み、就労時間などまったく無視して仕事をしているのは、忙しいと評判の東方でも一人、大佐だけである。
それでも不思議に元気なのだから恐ろしい。
しかし、そんな大佐と言えども人間であると言うことを思い出させることが稀にある。
よほど疲れているのか、いよいよ寝不足なのか、今日は二度も執務机のインクを倒した。
それだけに飽きたらず、三度書類の山を崩し、五度コーヒーをこぼし、しまいにはドアに頭をぶつけていた。
その度ごとに乾いた笑いを上げるのが物悲しさを誘う。
仕事の量が倍に膨れ上がっていくこの事態にホークアイ中尉が眉を吊り上げ、大佐に強制退出を命じた。半休という名目で‥‥‥
大佐は全く周囲の状況に意識が及んでいなかった。
ホークアイ中尉のその言葉に、目をキラキラさせて、スキップでもしそうな勢いで去っていった。開けたドアすら閉めないままで‥‥‥

「―――わざとやっているのか、そうではないのか。始めのうちは、判断に迷ったのだけれど‥‥‥」

奇行の主がいなくなり、司令室はささやかな静けさを取り戻した。


02

イースト・シティ郊外。

見た目よりもずっと深いのだろう、ドブ川に大きな犬がはまっていた。
そのドブ川の土手には大きな鎧と赤い外套を着た金髪の少年が座り込んでいる。
多くはないが少なくはない土手を行き交う人たちは、風変わりな二人連れとできるだけ目を合わせない様にして、その脇を足早に通り過ぎて行った。
厄介なことに自ら巻き込まれたくなかったからだろう。もしくは、ドブ川に犬がはまっていて身動きが取れない様子に気付き、助けを求められるのをさけるためか。
しかし、金髪の少年は誰かに助けを求めるようなそぶりはみせない。その視線はドブ川に向いていた。



「アル、もう、昼だよな‥‥‥。ハラへった‥‥‥」
久しぶりのイースト・シティだった。
道中、珍しくも騒がしいことをせずにすんだので、後見人らしき人物のいる東方司令部からの呼び出しもなく平和な気分でしばしの休息を過ごしていた。
各地から東方の図書館に注文していた本が溜まりつつあることもあって、宿屋と図書館の往復を繰り返していた。
そんななか、たまたま天気がよかったためにちょっと散歩がてらにぶらぶら歩いていたところ、アルフォンスがドブ川に犬がはまっているのを見つけた。
はじめは、何気なく助けてやろうかな、という天気のいい日にあるささやかな善意でドブ川の中のその犬に近づいていったのだが、途中で自重で身動きが取れなくなりそうな予感がしてきて引き返せざる得なくなった。
そのドブ川が見た目よりも深かったということが原因だと思う。
犬はどこか怪我をしていた。
はじめの頃、犬はそんなに深いところにいたわけではない。
オレたちが助けようとして近づいていったら、どんどん深みに行ってしまい、オレらは引き返せたが犬は動けなくなってしまていた。
今、犬が陥っている窮地は、なんとなく自分たちのせいのような気がしないでもない。
ひざ近くまで泥だらけだったズボンは、乾き始めている。
この天気のよさが、土手に二人して座り込んでる今の状況を滑稽に思わせた。
犬をどうにかしようとしていたはじめの頃は、道行く人に助けを求めようと思ったりもしたのだが、視線を向けただけで誰もが顔を背ける。しばらくそれが続くとさすがにもう、他人を当てにしようとか思わなくなって、自力で何とかする算段を立て始め、今に至る。
世の中せちがらかった。

「やっぱ、錬金術で泥を固めちゃうのがいいのかなぁ」
「―――弟よ、兄は犬まで固めてしまうだろうよ‥‥‥」
「そうだよねぇ‥‥‥」
そんなビミョーな練成なんて本分ではない。
それを得意としているヤツは知っているが。
とにかく、二人して、途方にくれていた。


「犬がいる」


「―――おわっ!!」
唐突に、背後から聞きなれてしまった声がした。
気配も何も感じなくってビクリと体を震わせ振り返ると、その人物はオレらに目もくれず、ただいつもの挨拶を口にした。―――やあ、鋼の。アルフォンス君。実に久しぶりだね、と。
しかし、言いながらもその足は犬のほうに向かっている。
全く、躊躇なく、進んで行く。
「――――オイッ、大佐っ!」
思わず、制止の意味をこめて声を上げた。
明らかに高そうなものを大佐が着ていたからだ。
少し光沢のある濃いグリーンのパンツに、白いシャツ。
自分が着ているものとはケタが一桁も二桁も違いそうな服で、ドブ川の、そのヘドロのような泥の中を行くのは、見ている人間のほうに抵抗がある。

土手を降りきった大佐は、オレの声に振り返り、実に機嫌よさそうに笑った。
「ふははははっ!私に捕まえてくれと言わんばかりだっ!!」
大佐のテンションに少しおびえたような目をした犬に、お構いなしに泥をかき分けて近づいて行く。もちろん、その高そうな服は二度と日の目を見ることがないだろうダメージをおった。
「うわっ‥‥‥」
思わずと言ったように、アルフォンスの口からもれた。
おそらく、ホークアイ中尉のブラックハヤテ号に普段全く相手にしてもらえないのだろう。
こんな動けない状態の犬にこんなにも喜ぶとは‥‥‥。
自分の眉間にしわがよるのを感じる。
なんで、こんなんが自分の後見人扱いされているヤツなんだろう。
犬は後ずさりしようにも身動きがとれず、今にも震えそうだ。
大佐はそんな犬の様子は意に介さずに、両手を犬の前足の付け根に差し込むと、そのまま泥から引っ張り上げ、抱え上げた。
全身泥まみれだ。
大佐のその全く躊躇しないさまに金銭感覚の違いを見せ付けられたような気がして、なんだかさらに嫌な気分になる。
しかし、当の本人は気にするそぶりさえみせない。
そしてそのまま犬を抱えたまま、この場を去ろうとする。その犬は大佐の肩に前足とあごをのせ、すっかりあきらめてしまったかのようにおとなしくなってしまっていた。
「――――大佐って、犬が好きなんだねぇ」
「って、呆けてる場合じゃねぇって。アル、行くぞっ!!あの犬に、もしものことがあったら、寝起きが悪い。大佐に捕まえられるようにしたのはオレらなんだらからな」

エドワードは勢いよくマスタングを追いかけた。


03

せっかくの天気の良い午後の半休。

部下たちが真面目に仕事をしているかと思えば、これは是が非でも遊ばなくてはならない、そう考えるのが人間の原初的な感情だろう。
私は己の欲求に忠実に従い、着替えて外へ出た。
――――問題は、何をして遊ぶかだ。
具体的で有意義なことが思い付かないまま、頭ひねりながら街中をただひたすらに歩く。
これではただの散歩じゃないか。
私は、もっと人が羨む休暇を過ごしたいのだ。
しかし、そうとは思っても、良い考えが浮かばないときは浮かばないものだ。
黙々とただ歩き続けるはめになっている。

閑静な住宅街を通りイースト・シティの中心部を抜け、ついには郊外近くまで至ってようやく遊びモノを遠くに発見した。
それが誰からにも羨まれる遊びモノとは言いがたかったが、私は妥協した。
土手に日向ぼっこする錬金術師と鎧。
そう、こんな日は彼らと理解を深め合うのも悪くはあるまい。
まずは、ヒマを持て余している彼らに驚きをプレゼントしようと、気配を殺して背後から近づいた。
彼らは全く気付かない。
それはそれで面白くない。
私を無視するとは何て生意気なことだろう。
彼らの視線は一点から動かない。そんなに夢中になって何を見ているのか―――


「犬がいる」


しかも、大型犬だ!
泥にはまって身動きが取れないときている。
ウチにも駄犬が一匹いる。
なんだかその阿呆な犬を助けてやるのは私の役目のような気がしてきた。
しかし、耳も尻尾もある犬なら喜んで助けてやってもいい。
私は犬が好きなのだ。
しかも、身動きが取れないのなら、私であっても容易に捕まえることができるだろう!
いつもホークアイ中尉の犬に司令部で1人かまってもらえない身としてはなんともうれしい限りではないかっ!!
「ふははははっ!私に捕まえてくれと言わんばかりだっ!!」
その犬はどうやら怪我をしているようだった。四本の足で均等に立っていない。
おそらく、怪我をして、逃げている最中にこの泥の中にはまってしまったのだろう。
マヌケだ。ウチの駄犬並だ。
近づいてくる私に警戒して、緊張している犬に言った。
「ちゃんとお前の飼い主の元に連れてってやる。安心したまえ」
力を込めて、一気に犬を泥から引っ張りあげ、抱きかかえた。
腕の中でその犬はおとなしいのだが、ぺたりと寝てしまった耳が見て取れて思わず笑いがこぼれた。
まるで、落ち込んでいるかのように思えたのだ。
「大丈夫。お前がどんなにマヌケでもきっとお前の飼い主はお前を見捨てたりはしまい。なぜならお前にはとても魅力的な耳と尻尾があるんだからなっ!」
そうとも、ウチの駄犬とは違って。
落ち込む必要などないのだという気持ちを込めて、背中をあやすように撫でれば尻尾が揺れる。
休日によい拾いモノをした。


04

大佐はずんずんと迷いなく歩いて行く。
兄はその後ろを不機嫌なオーラを放出して付いていく。

行きかう人々はその様子に、ぎょっとして振り返ったり、立ち止まって凝視しているのだが、大佐は、まるで、気が付いていないみたいだ。
もしかしたら、本当に気が付いていないのかもしれないけど。
「―――そういえば、大佐が休日なんて珍しいですね」
そう、私服で、こんな街の外れでばったりと会うような人ではない。
しかも、随分軽装だ。治安の不安定なイーストシティで、その格好はさすがにちょっとヤバイのではないかと思う。
もちろんこんな格好のこの人が、東方司令官であると一目で見破れる人もそうはいないだろうけど。
ボクは、犬のことも心配だったけど、大佐のことも心配になって、もし、なんかあったら弾除けぐらいにはなれるだろうと思って大佐と兄についって行く。
「ホークアイ中尉にね、半休をもらったんだよ。
あんな狭く薄暗い部屋に押し込められて仕事をしている部下のことを思うと、居ても立ってもいられなくて、遊びに出たんだ」
――――ナルホド、この異様なテンションの高さは仕事明けということか‥‥‥
ボクは非常に納得してしまった。
きっと、この壊れてつつある言動から考えるに、司令部から邪魔だと無能扱いされて、追い出されてしまったのだろう。

でも。でも、と思う。
ボクたちの止まっていた時間は、急激に動き出した。色鮮やかに。
この人はいつだってボクたちにとって、こんな感じだ。

「オイ、どこに向かってんだよ?」
兄の、その不審さを顕わにした言葉で、自分が向かっている方向が大佐の自宅ではないことに気が付いた。
「―――医者のところだ」
振り返りもせず、大佐が応える。
その態度にカチンときたのか兄が小走りになって大佐の隣に並んだ。
ボクはこの時になってようやくこの犬が怪我をしていることに気が付いた。

しばらくして、唐突に、大佐が立ち止まった。
そこは普通の民家の前だったが、大佐がおそらく家人であろう人物の名を呼ぶと、中から白衣を着た、人のよさそうなめがねを掛けた青年が慌しくでてきた。
彼は、大佐の惨状を一目見て大きく息を吐いた。
「――――マスタング大佐‥‥‥、泥だらけですね‥‥‥」
「マヌケな犬をほおって置けなかったんだ。怪我をしているようなんだ。左後ろ足なんだが、ちょっと診てくれないか?」
その医者は大佐の言葉に小さく頷いて膝をついて、その泥だらけの犬を触診する。
大佐にしろ、その医者にしろ慣れた感じがした。
もしかしたら、彼も軍関係者なのかもしれない。
「――――噛まれた感じですね。化膿もしてませんから、まだ噛まれて間もないのではないでしょうか。どう、されますか?」
医者のその言葉は、言外に、この犬を引き取りますという意味が込められているように感じた。
「せっかくの休日なんでね。洗ってやろうと思うんだ」
大佐の言葉に医者は少し困ったような笑みを浮かべたが、頷いた。彼は、それ以上何も言う気はないようだった。
いっつも、大佐に言いたい放題の人たちを見ているから、なんとなく珍しく思えて、そこで言葉を飲み込むこの人をじっと見つめてしまった。


05

気忙しいまま、ようやく何回か来たことのあるこの家に着いた。
大佐は、泥まみれの犬を泥まみれになって、そのまま何のためらいもなく玄関を開け、室内を横切っていった。

いくら自分の家だといってもそれはどうかと思う。
さすがに、オレもアルも大佐の家だといっても、ためらいもなく泥まみれする程、無法者ではない。
多かれ少なかれオレたちの足下も泥まみれだったが、家主と同レベルには落ちたくはなかった。
オレは靴を脱いで、バスルームに向かい、泥を拭うものを取りに行く。
大佐の家は今までに何度か入ったことがあって、大体のところは把握していたんで、勝手にさせてもらう。
こういうことに頓着しないヤツだと言っても、なんとなく甘えのような気がしないでもないが、ヤツのお守りをしてやってんだからと自分に言いきかした。

濡らしたタオルを数枚持って、自分が汚した廊下の泥を落としつつ、玄関に待つアルの元に戻り泥を落としてやってると、家の奥から明らかに何かを散らかしているにぎやかな音が聞こえてきた。
「あー、あ、あ、あー、せっかくのこんないい日なのに‥‥‥」
オレはお守りか?それも自分の一回りも年上のヤツのお守りか?
何をやっているんだ、オレは‥‥‥。
例えようもない脱力感に見舞われた。
そのオレの気持ちと正反対かのような家主の作った盛大な泥の足跡が、リビングに向かっていた。どうやら、リビングを抜けて内庭に出たらしい。
アルフォンスは、もう、いつものことじゃないかとさらりと受け流してリビングに向かう。
兄はそんなに簡単に受け流したくなんかないぞ。
そう思いつつ、オレはその後ろをいつになく重い足を引きずってついって行った。

日差しが差し込んでいた。
リビングを二分するかのような鮮やかなコントラストに思わず目を細めた。
ここは、薄暗くて、どことなく生活感のない殺伐とした家だと、ふと思う。
かつて、自分たちにもあった家はもっと穏やかで、温かいものだったように覚えていて。この家は記憶の中にある家とあまりに違いすぎて、返って多くの記憶を呼び起こす気がする。
内庭に通じる大きな窓から差し込む光の中に、アルフォンスが入っていった。
その光景は、かつて普通に見慣れたものと同じだった。
ただ、体が鋼であるということ以外は―――。
光の届かない思考の海に沈みかけている。それを振り払いたくて日差しの中に身を進めた。
だが、そこにあるのはかつての日々ではない。
なのに、その日々を思い出さずにいられなかった。

光の下では、大佐が笑い声を挙げて、内庭にある水道のホースを片手に犬と水遊びをしていた。

眩暈を感じて、足元がぐらついた。
――――うわぁ、オレって、意外にペシミスト?いや、繊細ってヤツかぁ?
感傷的になっていたことが非常に恥ずかしいように思えて来る。
この阿呆な現実の前では。
「兄さん、そこにいると絶対濡れちゃうよ?」
アルフォンスの、昔と変わらない穏やかな声にフラフラと立ちあがる‥‥‥。
激しく打ちのめされた感覚がどうも拭えない。

その犬は足を引きずりながらも、楽しげに大佐にじゃれ付こうとしているようだった。大佐は、動くなと言う自分の命令を無視されても、自分に近寄ってこようとする犬にうれしそうにしている。泥を落とすと言う当初の目的は忘れ去られているようだった。
芝生がどんどん水浸しになっていくのを、オレたちはただ並んで座って見ていた。
今日は本当に天気のいい日だった。

「――――ほら!犬、動くなッ!!」
えらそうに大佐が言う。犬はわかりましたというように、堂々と大佐の前に胸を張るようにお座りをした。それに、満足気に頷いて大佐が視線を外した瞬間、今だ泥まみれのままの犬が大佐に向かってダイブする。そのまま、大佐は水溜りの中に尻餅をついた。以前、大佐は泥だらけのままだ。
「こらッ!」
大佐に叱られても犬はうれしそうに見えた。もちろん、水溜りに倒された大佐も楽しそうだった。



なんかもう、ボケーとその光景を眺めていた。
突然、ドアベルが鳴る。
―――来客だ。思わず腰を浮かしかけるが、家主でも何でもない自分が、何で、来客に対応する必要があるんだと思い直して、大佐を伺う。
しかし、大佐の、ドアベルの音など全く聞こえていないかのように、犬と遊んでいるその姿に思わず舌打ちをして、立ち上がった。
つられる様にして立ち上がろうとするアルを、オレが行くよとだけ言って玄関に向かう。
室内の薄暗さが、外の明るさに慣れた目に痛かった。
しかし、来客は、玄関を開けるまでもなく、自分で鍵を開けて入ってきた。
「大佐ー、オレっスよー」
全く、やる気というものを感じさせない声だといつも思う。ハボック少尉だ。
「おっ、大将久しぶりだな。―――何で、こんなにこの家、泥まみれなんだ?」
その言葉に驚きの色はない。ただ、現状を確認するようにあたりを見回す。
その時、リビングから、テンションの高い声が聞こえてきた。
「こらっ!お前が出迎えてやる必要なんてないんだっ!!ウチの駄犬が来ただけなんだから!!!」
ハボックの口から、大きなため息とタバコの煙が漏れた。
ヒドイ言い草だと、不本意ながら自分より大分高い位置にある少尉を伺えば、目敏く、オレの視線に気が付いたハボック少尉は、肩を落としてみせた。
駄犬扱いはもういつものことだと言わんばかりに。

   +++

「―――大佐、そこで抱きかかえちゃったら、また一からやり直しですよ?」
「でも、可哀想じゃないかっ!!」
ドアベルの音に反応したのは、大佐ではなく、犬の方だった。
音のした方に耳が動き、問いかけるように大佐を仰ぎ見る。
別に、行く必要なんてないよと大佐が言ったら、今度は玄関の方を振り返った。
行きたいのだと言わんばかりに尻尾が揺れる。
犬は大佐に許可を求めるように見上げた―――少なくともボクにはそう見えた。
大佐がたじろぐ。そして、ため息をついて犬を抱き上げてしまう。
これでまた、泥だらけになってしまった。
でも、抱えられて犬は、味をしめた様に随分とご機嫌そうに大佐の腕の中に納まっている。
「ハボックっ!見てくれ!!犬を拾ったんだっ!!!」

   +++

満面の笑みを浮かべた大佐が、泥まみれの汚くてでかい犬を抱えて、廊下に出てきた。


06

いつかは絶対やるだろうと思っていたが、それが今日だったとは。
司令室で振りまいていた奇行が、外にまで及んでしまった。
やはり、ちゃんと送って、ベットで寝るのを確認しとくべきだったと思っても、もう、後の祭りだ。

「――――どこから、盗んできたんスか?そんな、でっかいゴールデンレットリバー。東方司令官がそんなことしちゃだめでしょ?」
オレの言葉に大佐のその満面の笑みが見る見る曇っていく。
どうして、この人、身内の前だとこうも子供っぽいんだろう。
笑いを堪えるもの一苦労だ。
一気に機嫌の悪くなった大佐は、そのままきびすを返した。
笑いに堪えきれずに震える肩を見咎められず、さらに笑いを深めたが、随分大佐に懐いて張り付いている、そのどでかい犬と目が合い、何となく面白くなくない気分を感じてしまっていた‥‥‥

「あー、大将、あの犬、どうしたんだ?」
その言葉にあきれた面持ちでエドワードが首をすくめた。
そんなしぐさは年相応には見えない。
この街で見かける同年代の少年たちとは明らかに違うものだった。
「―――郊外のドブ川で泥にハマってたんだよ。あー、はじめはオレらが助けようとしてたんだけどさ、泥だろ?深みにはまって身動きとれなくなんのはオレらも一緒で、途方に暮れてたとこにアレが、さ」
しりつぼみになっていくその声がそれだけではないらしいと思わせたが、あえて何も言わない。
「―――なるほど‥‥‥。郊外ってどの辺?」
「―――――×××。あの格好だったぜ?」
エドワードの声色に非難を感じ取る。
そう、ごもっとも。ため息しかでねぇ。何だかんだ言っても、大将は大佐のこと嫌いになれねぇ口だから、護衛に点が辛い。
この手の人たちの及第点に達するには、もうあの人の首に縄を掛けとくしかねぇと内心思ってたりする。だが、今日のこれはオレの落ち度なんだろう、きっと。
「悪いな、一緒に居てくれて助かったよ。サンキュ」
礼を言えば、難しい年頃の少年は、別にとそっぽを向く。
そう、そういうお年頃なんだよなぁと思い知る。
ほんの僅かに頬が緩むのを感じたが、この家の惨状が再び目に入ってその頬が引き攣った。
これを片付ける身であるオレとしては脱力しかない。
「んで、あの人何やってんの?」
「―――庭で水遊び。怪我した犬と」
リビングから、ホースを片手に犬と遊ぶ大佐の姿が見て取れた。
「兄さん、一応、泥を落とそうとしていると言わないと」
アルフォンスがエドワードの言葉を補足するも、大佐のやってることは泥を落とすと言う目的を持ったもののようには到底見えなかった。
大佐の犬を見る目が優しい。
そして、犬もまんざらでもなく、楽しげに大佐にじゃれ付いているもの気に障る。
犬なんだから、水は嫌がれ。こんな人間に懐くな。
犬は大方泥が落ちてきたようにも見えるが、大佐は以前として泥だらけだ。
「こいつって、休日を一緒に遊ぶような友達、ほんっといねえんだな。
なんか、こんな大人にはならねぇて、見本だよな‥‥‥」
呟かれたエドワードの言葉は誰に聞かせるものではなかった分、真実を言い当てていた。確かに、目の前に広がる光景は、見るモノを物悲しくさせた。



何時まで経っても終わる気配がなさそうに思えて、いつものように横槍をいれる。
とっとと寝てくれ、という気持ちを込めて。
実際、これ以上の奇行は勘弁して欲しいかった。本当に。
まず、寝室のクローゼットから着替えを取りに行って、バスルームに置きに向う。次に、大きなタオルとドライヤー、薬箱を用意して、リビングへ。
無造作に上着とブーツを脱ぎ捨て、ズボンのすそをまくった。
「大佐!」
「―――――――何だ」
おお、オレにはまだ不機嫌だ。
「泥を落とすより、毛を乾かすほうがずっと面白いっスよ?しかも、七分ぐらい乾かしてから、ドライヤー当てるのが、」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
ぴたりと大佐の動きが止まる。その状況を考えているのだろう。十分に水遊びは堪能したはずだ。ならば次の遊びを行うのが、この人の考えそうな有意義な休日の過ごし方になるんだろう。
もう、この人との付き合いも短くない。操縦のコツはつかんでいるつもりだ。
エキスパートにはまだ及ばなくとも。

遊び相手が急に動かなくなって、不満に思ったのか、犬が大佐に催促するように擦り寄る。
その様子に大佐が驚いた顔を見せた。
だが、すぐに顔を綻ばせ、屈みこんで頭を撫でる。
その表情はついぞ見たことがないほど優しげなものだった。
――――随分、待遇がいいじゃないか。
犬がペロリと大佐の鼻っ柱を舐め上げた。
オレはヒクリと口元が引き攣ったのを感じた。

あははははっ!!!犬っ!!!!オレを怒らせるとはやるじゃないかっ!

めったになく犬に懐かれている大佐が、至極うれしそうなのも更にイラつく。
庭に出て、大佐の脇に座る犬の首輪を掴んだ。
そして、その手から今だ水が流れているホースを奪い取った。
「アンタは、自分の泥を落とす。ほら、さっさと風呂場へ行く」
大佐は、遊びモノを取り上げられて不本意そうな視線を投げつけたが、不満たらたらに室内に入っていった。
さながら提示された次の遊びに興味を持ったのを隠すかのように。

オレは、室内へ入っていった大佐を視線で追い続ける犬に、低い、地を這う声色でステイと言った。
――――言うこと聞かなかったらマジで背骨折ってやるからな。それとも、その耳とその尻尾を切り落とすほうが先か。そう、その気があるなら、オレの命令に少しでも逆らって見せろ。
犬がぶるりと大きく震えた。
結果として、その犬はオレの期待に応えるには根性が足りなかった。
大した時間も掛からずに洗い終え、ひどく人の手に慣れたその犬に言い知れぬ不愉快を感じる。
用意してあったタオルで乱暴にガシガシと拭いて、室内に入れた。
もちろん、抱えてやるなんてマネはしない。甘えんなよ、自分の足できりきり歩け。
んな、噛まれた程度で誰かの手を期待してんじゃねぇ!
首輪を外せば、やはりちゃんと首輪に連絡先が書かれていた。
こんなでかい訓練されたゴールデンレットリバーが野良でも捨て犬でもあるはずがない。大佐が戻ってこないうちにさっさと飼い主に連絡して引き取りに来させちまおう。
ぐずって面倒臭くなる人がいるんだし。

犬をソファの下に座らせたまま、電話する。――――その飼い主にはあっさりと連絡が取れた。感謝はしていたが、後2時間後経たなければ来れないらしい。
本当に感謝する気持ちがあるならもっと早く来い。
その気持ちのまま乱暴に受話器は叩き下ろされた。
ものに八つ当たりをしながらも、ドライヤーの準備をしている自分に激しい自己嫌悪を感じた。こんなことするために軍に入ったんじゃねぇ。――――大佐にならまだしも。
それでも全部を乾かしてしまわないように、犬にドライヤーをかけ始める。
泥が取れて、金色の毛が乾き始めた犬は、犬好きでなくとも思わず見惚れてしまうであろうほど綺麗な毛並みをしていた。さっきから感じている不愉快な気分がますます酷くなっていく。

ハイブリッドな自分を自覚して。


07

ハボック少尉が大佐から実に手際よく玩具を取り上げた。
それは、すばらしい手際だった。
そして、恐ろしいほどの迫力を込めて、犬を洗っている。

準備も万端にどんどん犬が綺麗になっていった。
犬は非常におとなしい。
オレもアルも、ハボック少尉の無駄のない手際で、どんどんいろんなことが片付いていくのをただ見ていた。声の掛けどころが掴めなかった。
庭は水浸しだがホースも片付けられ元通りだ。
そして、犬の飼い主には連絡が付き、迎えに来る算段まで立った。
さらには、いつの間にか部屋の泥もふき取られ、犬の治療も済み、濡れた毛もほとんど乾きつつある。
眠そうな目元の、咥えタバコの大佐の護衛は、特に急ぐわけでもなく淡々と行う。
この男の、普段見ることのない有能さの一端を垣間見たような気がした。
ホークアイ中尉もそうなのだが、中尉とまた違って表情が読みにくい。
中尉は無表情なのだが、ハボック少尉は常に茫洋として眠そうだ。
一つの表情に固定されているのもまた、無表情であるのと同じことなのだと気が付いたのは何時ごろだったか。
機械的で、無駄のない行動は、無機的なモノをイメージさせる。
この男の背後に、そういうものが見え隠れしている。

   +++

ウチの駄犬は、耳も尻尾もないくせに態度がでかい。
風呂場に行けば、そこに着替えが用意してある。
こういう細かいところで、点を稼ぐスケールのちっさなヤツだ。
せっかくの休日なのに気持ちが沈んでいく。
――――やはり、ヤツに耳と尻尾がないのは痛い。

風呂場を出れば出たで、私が汚した廊下の泥がきれいにふき取られていた。
言いようのない不快感のままに壁をぶち破るのを堪える。
ヤツのこの手の要領の良さは、私の要領の悪さを浮き彫りにする。
私だって、ちゃんと、片付けようとしていたんだ。
そう、自分で片付けるつもりだったからこそ、ああまで汚せるんじゃないか。
自分の家だぞっ!!
日常の雑事に過剰にマメなヒューズやハボックのせいで、いっつも私は生活能力が欠如した、いつも他人におんぶに抱っこのダメ人間呼ばわりだ。
この行き場のない憤りを理解してくれたのは、今まででたった一人、ホークアイだけだった。リビングに行けば行ったで、鋼のや、アルフォンス君にもそういう目で見られるのだろう、常のように。
‥‥‥‥やるせない。
全てがヒューズと士官学校の寮で同室だったことが原因に思えてくる。
くそっ!今度、ヤツに会ったらどんな嫌がらせをしてやろうか。
何となく、自分の評価を挽回するために、彼らが読みたそうな本を取りに書斎に行った。

気を取り直して、犬のいるリビングに向かった。
――――その光景があまりにショックで持っているモノを落としてしまった。

「――――もう、乾いている‥‥‥」

私が乾かそうとしていたのに。
私がこの犬を拾ってきたのに。
怪我の治療も終わっているし、庭も片付いている。
本当にコイツは人の神経を逆なでする‥‥‥。
そんな私の落ち込みに気が付いたのか、犬だけが私を待っていてくれていたようだ。
リビングに現れた私に、その魅力的な尻尾が揺れた。
ついで、入ってこない私を促すようにワンと、一鳴きしてくれた。
よし、お前がそう言うのなら、こいつらを許してやってもいい。
気を取り直す。せっかくの休日を楽しく過ごせないなら、わざわざ忙しい最中に半休をくれたホークアイ中尉に申し訳が立たない。

   +++

ずっと動かないでじっとしていた犬が突然尻尾を振った。
次いで、何かが落ちた音がした。
――――ハッとして、音のした方を振り向けば、いつの間にかそこに大佐が不機嫌さを漂わせて佇んでいた。
犬が、ワンと一鳴きした。
どうしてこの人はこうも気配を殺して、家ン中を歩き回んだろう‥‥‥。
嫌がらせ以外の何ものにも思えない。

「――――もう、乾いている‥‥‥」

微妙な緊張感の中、大佐がじっと見ている、足元の犬にゆっくりと視線を移した。怒りのままドライヤーを当てていたせいで、確かにほとんど乾いてしまっている。
何気に、ヤバイと思った。
「あー、腹。腹の毛が残ってます。腹の毛の方がキレイで、手触りもいいし、楽しいっスよ?ね?――――大佐、ほら」
何でのアンタに譲りますからと気持ちを込めて、大佐にドライヤーを差し出す。
それでも、大佐はリビングに入って来ない。
その様子に、エドワードがあきれた目を向けていた。
――――大人気ねえな、全く。ダメ人間が、とその目は雄弁に語っていた。
全く持ってその通りなのだが‥‥‥。
「オラ、とっととしねえと飼い主来ちまうぜ?大佐」
エドワードの言葉に、オレに冷めた視線を向ける。
「あー、2時間後に来るそうっスから。ほら、犬も怪我してんし、知らない人間に囲まれて不安なんでしょ?飼い主も心配してましたよ?」
大佐ははしぶしぶ頷いて、ドライヤーを受け取り、オレが座っていた場所に座った。憤懣やるせない様子のままの大佐は、自分が落とした本のことなど、どうでもよくなってしまっているようだった。それに、本があちらこちらに点在するこの家では、それが一冊やそこら増えても目立つことはなく放置されたままだ。
「ほら、おいで」
至極優しく大佐は自分のソファの隣をぽんぽんと叩いた。
その目は、オレに向けていたものとは180度違う。
犬はうれしそうにソファに上がりやがった。さっきまで、オレが床に座らせていたのに。
大佐が、まだ生乾きの腹部にドライヤーを当てようと犬を仰向けにする前に、その犬は大佐の隣に座るとそのままだらしなく仰向けになった。
しかも、頭を大佐の膝に乗せて。
その光景に唖然とした。
訓練済みの大型犬が、こうも易々と初見の人間に腹を見せるとは、ありえない。
――――と言うより、よほど賢い犬なのだろう、最強の人間の前で、完全降伏しているように思えた。
自分はこの人間の保護下にいると認識している。
間違っていない。そう、それは恐ろしく正しい判断だ。
「――――あはは、阿呆な犬だな!」
そして、このことをこの場でただ一人大佐だけがよくわかっていないようだった。うれしげに犬にドライヤーを掛けはじめ、オレに、にっこりと笑顔を向けた。一歩、体が後ずさった。
「腹が減った。ハボック少尉」
「―――――ハイ‥‥‥」
何で、いつも、この笑顔の圧力に勝てないんだと思いつつ、言われるがままにキッチンへ向かう。深く考えてはいけない。どんなに不平不満があろうと言葉にできない、階級差以前にある力関係にオレは歯を食いしばった。
機嫌が直りつつある大佐は、穏やかな視線をエルリック兄弟に向けた。
「君たちも食べていきなさい。――――昼食、まだだったのではないか?」
大佐の、部下を休日にまでこき使う様に、エドワードは立ち上がった。
手伝うよ、と。

ダメ人間がいると青少年の教育には効果絶大だ。


08

大きくてきれいな、お利口な犬だったのに、大佐の前だとどうもダメ犬になるようだった。
それでも大佐がそんな様子の犬に喜んでいるならいいんだろうけど。
大佐はとても丁寧な手つきで、優しく犬の毛を梳いて、ドライヤーを当てている。
犬が気持ちよさそうにトロンとしてきた。
ハボック少尉がほとんど乾かしてしまったせいで、すぐに乾ききってしまっていて、大佐は遊び足りないような顔をしつつ、ドライヤーのスイッチを切って、そのままテーブルに置く。
うん。どれ、ちゃんと全部乾いたか私に見せてごらん―――――、大佐がそう言うと、犬は寝そべったままごろんと身を返した。しかし、やはり前足とあごは大佐の膝に乗せたままにして。
ネコ好きなボクが見ても、きれいな毛並みだった。
実際、なかなかお目にかかれないだろうと思う。
「――――よく、大佐に懐いてますね?」
そう、ボクが言うと、大佐はうれしそうに頷いた。
そして、リビングの手前当りを指差して、あそこに落ちている本を貸してあげるよ、と言った。
さっき、落としたものは本だったのか、と思いソファを立つ。
ボクがソファを立つ音に、この犬は全く反応しなかった。
自分が最強の人の庇護下にあることをよく知っているんだなと、つくづく思う。

大佐の指差したとこには、本が3冊床に広がって転がっていた。
あまりに乱雑な扱いだったから、ボクは始め、単に大佐が本を片付けるのが面倒になったから言ったんだと思ってしまった。それでも、本ぐらい片付けるのは自分にも出来ると思って、手を伸ばした―――――‥‥‥。
その本のタイトルに、思わず息を呑んだ。
何十年も前に、軍によって禁書指定を受けた本で、もうすでに市場から姿を消してしまっている触媒法に関する錬金術書だった。国家錬金術師の特権を持ってしても、その所在が掴めないでいた本がここに3冊全巻揃って、酷い扱いを受けている。
恐々と、その3冊を手にとって、よく見てみるが、国立図書館や国家錬金術師機関の蔵書を示すマーキングが入れられていない。
市井で手に入れたんだろうか。
この家は、こんな貴重な本が良くわかんないところから出てくる。
時々、ふと思う。いろんなとこに本を探しに行くよりも、まず始めにこの家を徹底的に探索するべきなんじゃないかと。そうしたら、今している苦労の幾分かはしなくていいものになっていたに違いない。
手の中の本の存在が、まだ信じられなくて、そろーっと後ろを伺ったが、大佐は犬の耳を引っ張ったり、尻尾を摘んだりしていて、ボクやこの本を意識すらしていない。
犬は嫌なそぶり一つ見せず大人しく成すがままになっている。
本当にお利口な犬だった。


   +++


ハボック少尉は、昼飯の用意にキッチンへ行く前にバスルームへ立ち寄り、手馴れた風に、バスタブに水を張って、大佐の脱ぎ捨てた服をざばざばと濯いで浸けていく。
甲斐甲斐しい行動というより、過保護なのだろうか?
怪訝そうに顰められたオレの視線を感じたのか、気配に聡い少尉は振り返らずに言った。
「オレのような田舎者には、おれが着るようなものとはケタが違うこれらの服をだな、泥まみれだからと言って、ゴミ箱に捨てる精神は理解できねえ。少なくともこうして泥を落としておけば、いくらあの人でも捨てずに、クリーニングには、出す‥‥‥」
この生活臭の薄い家の中で、明確に生活臭を放つ存在。この家に必要なパーツ、とでも言うかのような。
少しだけ心がざわめく。
オレは、無自覚に、温かな家を知らない存在を見下していた。なのに、その存在がそれを持っていることを知って反発心を感じている。
温かな家を自分の手で燃やしてしまってもそれを知ってる自分より、その存在すら分からない下の存在を認識することでどこかほっとしていたんだ。
弱い。自分はあまりに弱い。
「―――――大将、オレは終わっていると思うか?」
黙り込んだオレが、呆れていると思ったのかハボック少尉がかなり真剣な声色で聞いてきた。
思わず、オレは目を逸らしてしまった。
自分の弱さを見透かされたくなかったし、瞬時に終わってると思ってしまったことを気付かれるのは悪いような気がした。
まあ、そうは思いつつも、分からなくはない。
オレだって、奴が無頓着に泥の中に入っていくことに抵抗感を感じたのは、その後、その服が捨てられることを予感していたからに思う。
が、そうとは言っても、中央の中佐も、ハボック少尉も終わっていると思う気持ちは拭えない。
「いや‥‥‥‥、少尉は立派だよ。うん」
目が逸らされたまま呟かれたオレの言葉に、少尉は肯定の臭いを嗅ぎ取って、その肩を落とした。
そのまま、キッチンへ。メシを作れと言われたままにメシを作り始める。
相変わらず手際は良い。


   +++


大佐が犬を乾かし、その犬とスキンシップを図っている隙に、料理の途中でハボック少尉がふらりとやってきて、テーブルの上に置かれていたドライヤーをすっと片付けてしまう。
ボクと目が合うと、ドライヤーを片手に少尉は苦笑して首を竦めた。
マメな人だと思う。
ドライヤーの音が止まっていることに気付いて、来たのだろう。
散らかす人と片付ける人との構図が出来上がっている。
公私問わずってところが、すごい。大佐のところは。

しばらくして、大佐がドライヤーが片付けられていることに気がついて、その眉間にしわがよった。大佐のしかめっ面が珍しかったのだろうか。その様子に大佐にいいようにされていた犬が立ち上がり、大佐に顔を近づけると、すぐに大佐の眉間のしわがなくなる。
大佐は、にこやかに犬を抱きしめ、そのままソファに寝そべった。
犬の重さとその体温でなんだかとても眠そうだったが、それでも、その手は犬の頭を優しく撫で続けていた。


09

メシを作れと言われて、言われたように作った。
呼びに行けば、行ったで、この人は犬を両手に抱えて今にも寝てしまいそうだ。
オレは、その犬を食材にしなかったことを悔やんだ。

「大佐っ!メシっ!!」
大声で怒鳴れば、大佐は子供が愚図るように、この場を離れたくないと言わんばかりに両手で犬を抱きしめた。
オレは、足音高らかにソファに近づき、力任せに大佐の腕を犬からはがし、犬を大佐から引き剥がして投げ飛ばした。もちろん、全力でなどやったら、大佐が怖いからあくまでもソフトに。
犬は何事もなかったかのように着地し、オレを見て首を傾げやがった。
大佐の顔には、明らかに、お前なんて嫌いだと書かれている。
家事もできねえ分際の犬とのこの差が許されていいはずねえだろ!!
―――――しかし、後30分もしないうちに飼い主が来る。
とっとと来い。
1分でも、1秒でも速く来い。
オレの忍耐力を試すようなマネなんかすんな。
大佐は飼い主がやってくる残り少ない時間を惜しむように、ニコニコと犬の耳や尻尾を摘んだりして遊んでいた。
犬は、尻尾をぱたぱたと振り、大佐を喜ばせてやがる。





待ち望んだ時間がついにやって来た。
飼い主が犬を迎えにやって来た。
大佐は残念そうに大きなため息をついて、犬を抱き上げ、なごりおしいと言って、犬をぎゅっと抱きしめる。
そんなことをしてると、本当に10代にすら見えてくるから。

その犬の飼い主は、そう、見るからに金を持ってそうだった。
成金であると言わんばかりに、金目のものを多く身につけ、有名ブランドのロゴが大きく目立つ服を着ていた。それを見て、正直、オレは気分が浮上してきた。
そいつらは挨拶もそこそこに大佐に礼金の入った袋を差し出した。まるでそれが目的だろうと言わんばかりに。
確かにペットを誘拐して、身代金まがいの多額の礼金を要求する手口の犯罪は少なくないが。
しかし、その袋の厚みでは、大佐がダメにした服を買い直す額にすら到底足りないだろう程度だ。大佐がいりませんと言うと、そいつはいくら欲しいんだ、とゲスなことを言い出す。
ムカついて、オレが口を開くよりも先に大将が静かに切れた。
「この犬は、ドブ川の泥にまみれてたんだ。誰も助けようとしなかったし、見向きすらされなかった。こいつが泥ん中から引っ張り揚げなかったら、この犬はあそこで泥にまみれて死んでいたかもしれないぜ。アンタは、それを金目的に助けたって言うのか?アンタには、もっと誠意を込めて言うべき言葉があるんじゃないのか?」
その言葉に飼い主は真っ赤になった。
―――――飼い主が怒鳴り声を上げる前に大佐が口を挿んだ。
こういうタイミングを取るのが実に上手い人だ。
「お金はいりませんが、欲しいものがあります」
飼い主は怒りが覚めやらぬ感じで、大佐をねめつける。犬はやらんっ、とはき捨てるように言った。
しかし、大佐はその言葉に穏やかな笑顔を浮かべた。
悪趣味な飼い主がたじろぐ。
「名前をね、知りたいんです。こんなキレイな犬に短い時間でも、遊んでもらえて嬉しかった。最後に、名前を呼ばせて欲しいのですが」
犬を撫でる大佐の手が、見た目にも優しい。その様子が飼い主にも伝わったのか、怒りを解き、自分を落ち着かせようと大きく深呼吸をした。
「―――――――ジャクリーン、だ」
‥‥‥‥‥‥‥‥よりによって、その名前か。
チラリと大佐を盗み見れば、この上なく嬉しそうに、もう一度犬をぎゅっと抱きしめた。
「――――バイバイ、ジャクリーン」
そして、やっと犬を手放す。
別れがたいのですが、と、苦笑をもらしつつ。
犬は飼い主に頭を撫でられ嬉しそうにしていた。
飼い主は、犬を取り戻し、随分ほっとしたようだった。それに、大佐の言葉に十分満足していた。
――――助けてくれて、ありがとう。ジャクリーンは家族同然なんだ。失礼なことをした。許して欲しい。君にも、申し訳なかった。矢継ぎ早に謝罪の言葉が漏らされる。
まるで憑き物が落ちたかのように、男は大将にも自分の非礼を詫びたが、今度は、その様子に大佐が申し分けなさそうな顔をした。
「いえ、謝るのはこちらの方でしょう?電話で対応した男の態度が悪くて、誤解されたのでは?失礼なことをさせてしまいました。申し訳ありません」
成金の、悪趣味な男に下げられる大佐の頭を呆然と、口を開けて見てしまった。
―――――オレが悪いのか!?
その犬を洗って、乾かして、手当てして、飼い主に連絡して、メシを喰わせてやった、このオレが悪いのかっ!?
オレの心の叫びは、全く無視され、勝手な奴らは、勝手に会話を続けている。

「謝らないでくれ。君はジャクリーンの恩人だ。本当にありがとう。―――そうだ、もうじき、ジャクリーンの兄弟が生まれるのだ。君さえよかったら、もらってくれないか?そう、是非とも君のような人にもらって欲しい」
「その申し出は、正直言って、とても魅力的なのですが。私はもうすでに犬を飼っていまして。雑種の駄犬なのですが。それで手一杯で。お断りするのが、非常に残念なのですが、」
「君のような人に飼われる犬は幸せだ。無理強いはしない。だが、もし、今後、私で力になれることがあるなら、いつでも、何でも言って欲しい」

今日のオレの働きを見ていてくれた大将とアルが慰めるように、ぽんと肩を叩いてくれた。
思わず、涙がこぼれそうになった。
犬は立ち去る気配を感じて、何回も自分の飼い主と大佐を見比べていた。
はははっ!!二度と来るなっ、犬!
男は、大佐に名刺を渡して去っていった。
最後に、お父様によろしくお伝えくださいと残して―――。


10

犬を保護した家の住所が軍高官のものであることは、調べるまでもなく分かるだろう。
だが、誰が、その人であるかはわからなかったらしい。
少なくとも、この犬を抱えた目の前の人ではないことは、男にとってはっきりしていたからこその一言。他意がないからこそ、こんなにも腹がよじれるほどの笑いが生まれる。

大佐は、すっかり機嫌を損ねてしまって、大爆笑のオレたちの間を足早に通り抜けていった。



十分に笑わせてもらってから、メシの途中であったことを思い出してリビングへ戻った。
大佐はイヤガラセのように3人掛けのソファに寝そべって、もらったばかりの名刺をじっと眺めていた。オレたちはそれを尻目に床に座って、メシの続きを食べ始める。
「いくら出せば、ジャクリーン譲ってくれるかな‥‥‥‥」
ポツリと呟かれた大佐の言葉に、エドワードが顔面を引くつかせた。
「――――――――金で何でも解決できると思ってんじゃねえよ」
言外、冷たく響いた言葉に大佐はショックだと言わんばかりに、手に持っていた名刺をはらりと落とし、両手で顔を覆った。
「さっきは、あんなに私を弁護して、私の人間性を高め、肯定してくれたのにっ‥‥‥!!」
「バカか?アンタは。アンタの何処に高めて肯定できる人間性なんてあんだよ。寝言は寝て言え。―――――さっきのは、アンタの貸してくれた本の等価交換に過ぎねえから」
「アレは、手に入れるのに苦労した本なんだよ。その本がたった15秒のスピーチと等価交換だというのかね?!」
「言うのに、ひどい苦痛を伴ったから。等価交換だ」
「!?」
大佐は顔を覆ったまま、うつ伏せになって自分がその言葉に傷ついたことをアピールしているが、エドは基より、アルすら歯牙にもかけない。オーバーアクション過ぎるのが敗因だろう。
エドワードは残りのメシを口にかきいれ、勢いよく立ち上がった。
もう、ここには用はねえと、アルフォンスを促す。
一人、ソファにさめざめと泣き崩れる人を無視して、玄関まで見送りに立つと、エドワードにメシ、サンキュと言われた。二人は軽やかに去っていった。

自分もそろそろ司令部に戻らないとヤバイ時間になってきた。片付けるモノはあと1つだけだった。
「ああ、手元には阿呆なオス犬が残ってしまった。フワフワでフサフサ、キラキラのジャクリーン‥‥‥」
顔を覆う両手の隙間から、チラリとオレを見て、大佐は盛大なため息をつきやがる。
「何回見ても、耳も尻尾もない。なんでお前は、ネズミなんぞに自分の耳と尻尾を齧られてくるんだ」
それは、オレじゃねえし。
「そんなんじゃ、ネコにすら笑われてしまうだろ‥‥‥」
ダメだ。この人――――。

ベットに強制移動させようと、土嚢のように大佐を肩に担ぎ上げた。たいした文句も抵抗もないが、言っていることはずっと寝言じみてて半分眠っているも同然なのに、邪険に扱われていることには反感は覚えるようだった。
「――――オイ、用件は、なんだ?」
まだ事態を把握する力が残っていることを示すかのように、目の前にあるであろうオレの尻をつねった。何気にいてえ。
「ドクターの息子さんに連絡もらったんスよ。アンタが護衛も就けずに街をふらふらしてるって」
東方司令部に勤務する古参の医者の一人息子は街の開業医だった。医者が入用なとき、よく父親に呼び出されていたため面識ができていた。父親は後を継いでもらいたい風だが、息子は軍に思うところがあるらしく必要以上に関わろうとしない。
特に用件はないと分かったとたんに、大佐の声が拗ねたものに変わる。
「私は、ちゃんと、飼い主の下に連れて行ってやると約束したんだ。何とか犬が、自力で飼い主の下に帰る手伝いをしてやろうと思っていたのに!」
大佐はどうやらオレが飼い主に連絡して来させてしまったことが気にいらなかったようだった。だからと言って、アンタと犬を連れて飼い主のとこに行く時間なんてものがどこにもあると言うんだ。あると言うのなら、是非とも教えてくれ。
「すんませんね。気が利かなくて」
いつものことだ、とすぐ返ってくるとこが小憎らしい。
「怪我して、逃げ回っている内に、動けなくなるなんて、どこぞの駄犬みたいだろう?」
オレはそんなに阿呆じゃねえ。
「何だか、その憐れな姿を見てしまったら、助けてやらなくてはならないような気がしてきたんだ」
オレのように思えてきたってわけかい。あーそーかい。

寝室のドアを開け、そのままベットに大佐を降ろした。
大佐は眉間にしわを寄せたまま、至極真面目にオレを見上げる。
「お前には、あんな魅力的な耳も尻尾もないのだから、同じ状況に陥ったら助けてもらえないかもしれない。それでもちゃんと私の下に帰ってくるんだよ?」
「――――うス‥」
反論したいことがあまりに多すぎたため、オレは口を開くタイミングを逃し、さらに自分に向けられている大佐のハグを求める両手に、思わず口を閉じてしまった。

広い背中を優しく撫でる手が、頭を撫で回す。
オレは自分が思っている以上に、この人に子供扱いされるのが好きなんだと思う。かすかに感じるこの人の体臭と頭を撫でられる感触が気持ちよく、顔が緩むのを気付かれたくなくて、歯を食いしばった。
だが、その手は唐突に離れて、背中をドンと叩かれた。大佐を抱きこんでいた腕を離す。大佐は、しばらく使われてなかったきれいなままのベットに潜り込んだ。

「―――――やっぱり、耳のあるほうがいい」

そう言って、オレに背を向け寝入ってしまった。
休日の、滑稽な出来事
2005/8/8〜2005/8/18 2005/9/13加筆修正