腕が立つ。今はまだ経験は浅いが、それをカバーできるぐらいは頭も良い。努力を惜しまない。人間関係だって円滑にそれなりに築いてきた。そんな俺にないのはコネだけだった。
だが、軍界においてコネがないというのは致命的だ。ここでコネがない者が出世するには戦場で功績を挙げるしかない。だからこそ俺は東部内乱が終わってもいまだ争いの火種が燻る東部への配属を志願した。東部地方の軍学校出身のコネも何もない、たかが新兵の配属。東部僻地の支部への配属を予想していた。それでも、この俺なら10年もあればそれなりに出世できると思っていた。
俺の予想は良い意味で裏切られた。東部配属は配属でもなんと東方司令部に配属が決まったのだ。思っていた以上に自分への評価は高かったということだろう。限りなく実地に近い最終試験で、教官たちがここ10年で一番だと興奮を隠さずに言うほどずば抜けてよい戦果を挙げたのだ。むしろ、自己評価が低過ぎたのかもしれない。それをこういう形で知り、全く浮き足立たないなんて無理な話だった。
同じ学校から東方司令部に配属された新兵は、俺を含めて5人いた。俺以外の4人は多かれ少なかれ親のコネがあった。揃いも揃って東部軍人一家の出。入隊式を知った風な神妙な顔でやり過ごし、古株の東部軍人である親に連れられてこの東部の実質の司令官であるマスタング大佐に挨拶に向かう。今後マスタング大佐と直接言葉を交わす機会などそう訪れないだろうに、遠目にも奴らは一様に顔を紅潮させ満足に口も開けなかった。馬鹿が。でっかいチャンスを目の前にして。罵りたくなった。何よりもまずそんな奴らを遠巻きに眺めることしかできない自分自身に。実力はあるのに。歯痒かった。
東方司令部に着任してから知った。マスタング大佐には驚くことに専任の護衛官が不在のまま数年が経っていると。――もしかして、俺の成績がマスタング大佐の目に止まったから、専任の護衛官候補として司令部に配属されたのではないか? まあ、マスタング大佐と言わないまでも、誰かの目に止まったからこそ、俺はここにいるのだろうと思う。
その日は朝から雨が降っていた。雨脚は強く、終日雨が振り続けると思われた。よって、本日の野外オリエンテーションは室内での自主鍛錬に変更され、それぞれが各々のペースで過ごしていた。
東部ではテロがよく起こり出動の機会も多かったが、命令系統がしっかりしているためか、メリハリの利いた勤務になっていた。のんびりできる日はのんびり過ごす。やることさえしっかりやっていれば、大抵のことに上官は寛大だった。それは東部の気質でもあるという。今日もさっさとノルマをこなして、司令室近くの喫煙所に向かう。
司令部の大廊下を注意深く歩く。下士官も多いが仕官も多い。敬礼を繰り返す。取りこぼしがあったら即減俸か、下手をすると降格だ。下士官が大廊下を歩くというのは、つまりこういうことだ。
その中、窓から眼下をじっと見ている下士官がいた。これが士官ならそう目立たなかっただろう。しかし、下士官がここで窓の外をじっと見るということは、大廊下を行く多くの士官たちに背を向けることであり、いつ上官侮辱罪だと言われるか分からない行為だった。
その下士官の手に見慣れた日報誌があった。小隊所属の下士官。こういう不注意な奴は出世と無縁だ。その間抜けな奴の顔でも見てやろうと俄かに近づけば、手元の日報誌に視線を落とした顔は知っていた。敢えて顔見知りになった奴でもあった。マスタング大佐の数少ない側近の抱える小隊の隊員。便利屋扱いで何にでも借り出されるが、マスタング大佐の護衛を勤めている隊と言えば、東部の軍人はみんなこの隊を挙げるだろう。
「よう。お前も司令室か?」
「ああ…」
振り返った視線がまた手元の日報に落ちる。嫌そうに。どうやらハボック少尉に提出しなくてはならないが司令室に行きたくないらしい。咄嗟に嘘が出た。
「うちの副隊長が今度の野外訓練のことでブレダ少尉に聞いて来いってよ。全く。自分より若い隊長と顔を合わせたくないってな。迷惑な話だよな。日報、持ってくだけでいいなら持ってくか?」
「――、…………」
視線が泳ぐ。司令室に行くチャンスにがっつき過ぎたか。その日報を奪い取ってしまうか。ぐっと堪えて、にやっと笑った。
「やっぱ甘いか? これくらいの貸しで次の野外訓練の打ち上げ費用集ろうってのは」
「いやいやいや、それは別にいいんだ。どうせ今度だって大佐のサイフから出ることになるんだし。すまん。本気で助かる。うちの隊長の机の上に置いてきてくれれば十分だ。ブレダ少尉の机の隣だ。あーっと、ブレダ少尉の机は大佐の机のすぐ前のブロックにある。つうか、聞けば誰でも教えてくれっから。最低、あの部屋の投げ入れてくれればいい。頼む!」
そいつは打って変わって日報誌を押し付けるように渡すと、そそくさと走るように去っていった。チャンスだった。マスタング大佐に近づける。これがあれば堂々と司令室に入れる。
東方司令部中枢へ向かうほど、下士官が減っていった。普段、近づくこともない上位階級者と立て続けにすれ違った。一々敬礼をして思うように近づけない。気後れするな。一対一で戦えば遅れを取ることなどない。それに、マスタング大佐の専任の護衛官になれば、ここを当然のように歩くことになる。中央にだって行くことになるんだ。くり返し自分に言い聞かせた。
ここが実質の、東部の中枢だと思うと俄かに緊張を覚えた。マスタング大佐の司令室の扉は開かれていた。広い室内に机が整然と並び、雑然と人が動いていた。この部屋の主は、――不在だった。一際大きい無人の執務机。書類が重なっている。その前には見た顔がいた。ハボック少尉とブレダ少尉。マスタング大佐の数少ない歳若い側近たち。ホークアイ中尉は不在だった。
「ハボック少尉、内線3番、電話です!」
あいよ! そう軽く応えて執務机の受話器を取り上げる。いくつか言葉を交わし、ちらりと出入り口に視線を向け、俺を見て頷く。奴が自分が持っていけず、代理を頼んだことを伝えたのかもしれない。
ハボック少尉がブレダ少尉といくつか言葉を交わすと、ブレダ少尉もドアに顔を向け、無造作に置かれた上着に手を掛ける。外出か? 折角、司令室に着たのに、マスタング大佐は不在で、この少尉たちに出て行かれたら元も子もない。せめてマスタング大佐が戻るまでいられないものか。失礼します。誰にでなく口の中で呟いて、足早に二人に近づいた。
「あのヤロー、巧いことサボりやがって!」
「仕方ねえだろ。いつなんどきヒューズ中佐が来るか分かんねえんだから。それに大佐はああだし。敢えてここには近寄らねえってのは賢い選択だと思うぜ」
「ブレダ、その縁起の悪い名前を口にすんな」
ブレダ少尉は肩で返事をして、そのまま俺に一瞥もなく、司令室を出て行った。
俺のことなど歯牙にもかけない。そういう階級差があると分かっていても悔しかった。そう年齢が離れているわけでもないのに。俺だってチャンスがあれば引けはとらないのに。
「ハボック少尉!」
思わず呼びかければ、気さくに返事をされる。
「あー、日報ね。手間掛けさせて悪かったな」
手渡した日報誌が無造作に机の上に投げられる。
「あの?」
その扱いの悪さに思わず咎めるような声が出れば、ハボック少尉がおやっと目を向ける。
「えーっと、ブラウン隊長のとこの新兵だったよな。褒めてたぜ? 今年は良いのが入ったてな。サンキュ、助かったよ」
じゃあな、バイバイ。もうさっさと帰ってくれる? あからさまな言葉だった。
口の中に苦いものが滲んだ。こうまで言われて、分からないふりをして居座ることは、俺のプライドが許さなかった。くそっ! いつか追い抜かしてやるかなら! 歯をかみ締めて、ドアに向かう。
その時、本当にたまたま、司令室の扉の向こうにマスタング大佐が一人で現れた。
こんなに近くで見たのは始めてかもしれない。ハンサムだということはよく聞くが、実物を間近で見れば、そう言うよりももっと別な言葉が相応しい気がした。明らかに自分とは造りが違っている。
自分の顔が赤くなっていくのを感じた。大佐がじっと見る。それだけで、口が戦慄いて、挨拶一つ、敬礼一つ出来ない。大佐がじっと見ている。――俺の肩越しに誰かを。
真っ黒な目が潤んで、青い袖から出た白い手が無造作にゴシゴシと擦った。僅かに俯く。そのきれいな黒髪にぴょんと跳ねた寝癖が付いていた。寝癖?
「はぼっく…、わたしのぷりんがないんだ……。おまえがつくってきてくれたやつ…」
「え!? うそ! さっき給湯室の冷蔵庫に入れましたよ!」
「うん。きっと、おまえがひやしてくれてるとおもって、れいぞうこもみたんだ…」
また、大佐がごしごしと顔を擦る。
「でも、もうない…。ぷりん…」
後ろからハボック少尉が俺を追い越して、大佐の手をぐいっと掴んだ。そのまま強引に引っ張って、足早に立ち去る。ブレダが食いやがったんだ! あのヤロー! 大佐のプリンだから手ぇ付けんなって言ったのに! ハボック少尉の怒鳴り声が廊下に響き渡った。
ぐっと胸が痛んだ。足が棒になったように動かない…。マスタング大佐が連れ去られてしまった場所から目を離せなかった。
「あー、あのですね。一応説明させていただきますが、マスタング大佐はもう一週間もこちらに泊り込んでおられるんですよ。それでつい先ほど一段落付いて、仮眠を取られていました。正直言って、今あなたが見たものは寝ぼけてへろへろになったマスタング大佐です。あれは大佐であって大佐ではないんです。いいですか? あれは大佐であって大佐ではないんですよ」
立ち尽くして、微動だにできない俺に、司令室の人がいろいろと説明してくれたけど、ちっとも頭に入って来なかった。司令室からどうやって戻ってきたのかもイマイチ良く覚えてない…。
日常は過ぎていく。当たり障りなく、忙しく慌しく。テロはやっぱり良く起きたし、出動もした。それなりに現場にも慣れ、空いた時間に一人でぼーっと過ごす自分なりの場所も見つけた。天気が良い日は倉庫近くの空き地のベンチ。雨の日は屋内訓練場にある喫煙室。どちらも穴場で人が多くないことが気にいった。
今日は雨だから屋内の訓練場まで来て、タバコに火をつけた。そこに知った顔が入ってくる。
「ああ、久しぶりだな。どうだ、うまくやれてんのか?」
「ああ……」
うまく取り入れてるのかって? 声が険しくなる。でも、相手の顔には俺を馬鹿にした色はなかった。何の衒いもなく隣に座ってタバコをふかし始める。
「ところでうちの隊長見なかったか? ここの訓練場、あの人良く使ってんだ」
「――いや、見なかったけど…」
ってことは、ハボック少尉もこの喫煙所もよく使うのか? 途端に今後はここには来ないような気がした。
訓練場の脇に申し訳程度に立て付けられた、喫煙所のトタンの屋根を雨が叩く。誰かが来る気配もなくて、なんとなくこの沈黙が重くて、動揺を抑えながらその名前を口に乗せた。
「あのさ…、マスタング大佐って……」
「あー?」
「…………」
「マスタング大佐が何だって?」
「いや、なんて言うか。この前……」
かわいかった。なんて言ったら上官侮辱罪なんだろうか。でも、他になんて言えば言いんだろう。言葉に詰まれば、またトタンを叩く雨粒の音だけが響き始める。かわいい。以外になんて言えば良いんだろう。何も思いつかない。
「ああ、マスタング大佐ね。あー…、あの人、ちょっとアレなんだよ」
「ふうん…」
アレってなんだよ。アレって。
「親父から色々奇行を聞いてたからなあ、あの人がその辺の草むらで昼寝しててもそんな驚かない。東方司令部内の、人が来ない場所は大抵マスタング大佐の縄張りなんだよ。あの人と遭遇しても良いことないから、ここじゃ、人の来ない場所は避けるのがセオリーだ。あの人が東方司令官でいる内は、あの人の奇行に免疫があるもの、まあ、つまりは俺たちみたいな代々東部軍人が優先的に東方司令部に回されてるって噂を聞いたことがある。まあ、所詮、噂だけどな。ははは…」
「…………」
じゃあ、人気のないとこにいれば、また大佐に会えるのか? そう思えばまた心臓が慌しく打ち始める。どうしよう…。