00
「一度、聞いてみたいと思ってたんですけどね。本当のところ、大佐の好きなタイプってどんなんです?」
俺の質問に興味を持ったのか、それとも、仕事に飽きてきたのか。大佐は目に明らかな好奇心の色を浮かべて、書類からゆっくり顔を上げた。そして、俺を見て、にたりと、この人が間違いなく性悪であることを肯定する笑みを浮かべた。
しまったかと思ったときは、すでに遅く、大佐の手からペンが落ちて、カタンと音を立てて机の端まで転がっていった。大佐は両手を組んで大きく伸びをして両手をそのまま頭の後ろへ。サボリの体勢を整えてから先を促すように俺を見た。にたにたと笑って。仕事の終わりが見えてきて、俺の気が抜けての一言がこの人のサボリに口実を与えてしまった。
だが、この司令室には2人。その内、人も戻ってくるだろうが、俺が大佐と2人なるのは珍しかった。
人がいると聞けないことがある。ホークアイ中尉がいたら、俺は気になる学級委員にいいところを見せたくなる悪ガキのように真面目に仕事がしたくなるし、ハボックの奴がいたら、下手なことを言って、奴の複雑怪奇な恋心に振り回されたくないから、当たり障りのないことしか言わない。その上、頭脳労働チームは、3、4人でブレーンストーミングをするのが主だから、そこで、外聞が悪いことは話し出せない。俺は親友がこの人と付き合い始めてから、一度この人と下世話な話がしたいと思っていた。
まあ、単なる好奇心なのだが。
「―――ブレダ、お前はどう思う?私が付き合う人たちの傾向から、判断してみろ」
それができないから聞いてんです、とは言わず、ヒントをかきだす。頭脳派のささやかなプライドだ。
「付き合う人の回転が速いことについては、何か弁明ってないんですか?」
「弁明?弁明ねえ」
「アレって、大佐がフってんですか?それとも、フラれてんですか?」
「フるもフラれるもない」
大佐は相変わらず、にたにたと笑みを浮かべたままだ。それは、最初からそういうお付き合いって事なのだろう。――無下に断れない立場上、付き合うといったような関係で、大佐の好きなタイプじゃない。上流階級の洗練された物腰の男や女。湯水の如き金を使い、一夜を演出する。本音を語らず、虚言で全てを彩る人間関係。それは、目の前の男が属する世界だ。だが、その世界の人間は、大佐のタイプではないらしい。
俺の親友は、そのタイプと真逆だった。自分の考えに少し寒気がしてきた。恐ろしい結論を導こうとしているような気がしてきた。
「あー、大佐ってフラれたことってあるんですか?」
自分の考えがあまりに恐ろしかったので、とっさに適当なことを言ってみた。が、それはかなりの確信に近づく問いとなってしまった。
「―――ある」
さっきまで、嫌な類の笑みが浮かんでいた顔が、憮然としたものに変わった。
大佐でも、フラれるなんてことあるんですね、と言って笑えるノリではない。そして、何の思惑か、大佐は俺のただの好奇心で聞いたことに、素で、俺の質問に答えてる。――表情がころころ変わるし、身に纏う空気が穏やかなことで、それとなくわかる。
「結構、多かったりして‥‥‥」
「悪かったな」
男臭さのないその容姿を嫌う女なんて、まずいない。性格は難ありだが、それすら魅力の1つと思う女は多いだろう。地位も金もあり、出世頭で将来は確実だ。それはこの世の女にしたら、大佐ほど王子様という存在に当てはまる者などいないはずだ。女はきっと大佐をフるなんて考えない。どうやって、捕まえ続けるかに腐心する。
だが、大佐をフる女。これは、全くいないと言う訳でもない気がする。大佐にアプローチされ、付き合い、その上、大佐から去る女。いや、身を引くか?――頭のよい、性格のいい女だ。純粋に大佐を愛するがために、はじめは、一時でも自分の傍らで休息を得られたらと思うだろうが、次第に、それしかできない自分自身に耐え切れなくなって、あなたにはもっと相応しい人がいるはずとか言って、去っていく。悲惨だ。
「さて、答えはでたかな?ブレダ少尉」
「―――降参です」
「長考で達した答えは、口にはできないものだったか?」
ネズミをいたぶる猫そのものだった大佐は、今度はその表情を一変させると少し苦笑してから、照れをやや含んだ調子で口を開いた。
「私はね、素朴で牧歌的な人間が好きなんだよ」
「―――あ、うっ‥‥」
心臓が一瞬マジで止まった。言葉が出てこない。
素朴な人間が大佐に近づくことは、まずない。大佐と自分のいる世界があまりにも断絶していているから、そう簡単に接点もないし、大佐はお付き合いする対象としては全く除外されてるだろう。モテモテで、東部で最も男たちから憎まれているこの人が、実は最も好きなタイプからはてんで相手にされないなんておかし過ぎる。――笑いなんて一片も起きないが。この人、結構マジでハボックのこと好きなんだ‥‥。へビィだ‥‥。いや、完全に遊びでハボックと付き合ってると言われても、十分にヘビィなんだが。
「さて、これでいいか?」
大佐は両肘を机につき、組んだ両手を顔の前ににっこり笑った。その笑いはこれから俺にとどめを刺す気だと予感させる。
「――ハ、ハボックのこと好きなんスね」
一応、無駄だと知りつつもけん制を張っておく。何が自分を救うかわからないからだ。ハボックとは、ハボックの一方的な劣情で成り立っている関係なのだと思っていた。今後はどう転ぶか分からないが、大佐は明らかにハボックの劣情をハボックへの好意で受け入れたんだ‥‥。
「そう、好きなタイプだ。だが、少尉も分かっていると思うが、その手の人間にはどうも倦厭されがちでね。でも、今はちょっと上手く行っていてご機嫌なんだ」
「――ハハハ‥。そおですね」
乾いた笑いしか出なかった。藪を突いて、熊が1ダース出てきた気分に身震いを隠せない。
「そうだ。振られそうになったら、少尉に間に入ってもらおう」
「はあ?」
「ハボックに、私が捨てられそうになったら、少尉がフォローするんだ。いかに私が捨てるには惜しい人物で、魅力的かをとつとつと語り、奴を説き伏せるんだ」
「‥‥‥‥‥」
「得意だろう?よく同僚や部下たちから恋愛相談を受けていることは耳に入っている。私のことも任せたぞ」
「勘弁してくださいよ」
めちゃくちゃなだ。
大佐は、オレの言葉にいつものように笑みを浮かべるだけだった。
――この人の、本当の所の、恋愛遍歴はどういうものなのだろう。
今、言えることは、この人には恋愛をする時間も、去るものを追う時間もない。そう思えば、いつもの笑みが少し、寂しそうに思えた。だが、ここでほだされるわけにはような気がする。好きなタイプに相手にされなくなって、十分に大佐の相手をする人間は後を絶たないのだから‥‥
01
(※一部に小児虐待を示唆する表現を含みます)
東方司令部には、公的なもの私的なものに関わらず1日に何十通もの大佐宛の郵便物が届く。その郵便物は、まず安全性の確認を行われてから、ホークアイ中尉の下に届けられ、重要度の高い順に分別されてからやっと、大佐が目を通すことになっていた。そして、この段階になると大概のものは、開封された状態になっている。そうじゃないものは、大佐本人が開封することを指示されたものか、私的なものに限られていた。
この日、翌日から中央への出張が決まっていた大佐は、いつもにもまして忙しかった。だから、ホークアイ中尉に最も私的なものと判断された郵便物は、サボリの口実となるため業務時間内に大佐のとこに届けられず、大佐が帰るときになって、運転手を買って出たオレに預けられた。―――まるで、家に帰ってから読めと言わんばかりに。
いつものささやかな紆余曲折の末、大佐の家に入り込んだオレは、ホークアイ中尉から預かっていた大佐宛の郵便物をさっさと大佐に渡そうとした。
夜は、オレにとって短く、やるべきことはさっさと済ませて効率的に使うべきものだった。どうせ、この後、オレがメシを作ることになんだし。
―――なのに大佐はその郵便物を一瞥もせず、明らかに無視して、リビングを通り過ぎて、そのまま、書斎へ行った。
オレにとっては郵便物と言えば、わざわざ田舎から多くの人の手を渡って送られるものが多かったから、無視するのはどうも気が引ける。大佐を咎めるように、ちょっとと呼びかけたら、大きな溜息と共に、好きにしろと返ってきた。
オレの手の中の郵便物は、ぶ厚くて、送り名にただイニシャルでDと書かれただけのものだった。オレは、さっさと上着を脱いで大佐を追いかけた。
「大佐、Dで思いつく人っています?」
書斎の外から、電話をかけはじめた大佐に尋ねる。きっと、電話の相手はヒューズ中佐なのだろう。大佐は書斎のドアを少し開けて、後を付いてきたオレが話しかけてもいいことをさりげなく教えていた。
つまり、大佐も、夜は合理的に行きたいと思っている、はずだ。
「Dねえ‥。ダイアナ、ダフネ、デメテル、――デメル‥‥‥」
「あ、最後のは知ってます。アンタの好きなチョコレートケーキのお菓子屋さんっスよね。どうします?手紙、開けますか?」
女の名前に続けて言われるチョコの店の名前に、今まで何となく思っているだけだったが、この人が花より団子の精神であることを確信した。
「――ああ」
電話の合間に返事が返ってきた。
送られてきたのは、有に100枚はある大量の写真だった。手紙らしきものは入っていない。
「大佐、写真っスよ。手紙は入ってないっスけど」
「何の写真だ?」
「オレが見ていいんスか?」
「――私に、見られて困る写真などない」
自信に満ちた大佐の声に、ヒューズ中佐が何か言ったようだった。大佐が、電話口に勢いよく怒鳴っているのが聞こえてきた。
それは、子供の写真だった。
全裸で、金髪碧眼の、12歳前後のような子供の、生々しいポルノ写真。子供の表情は、慣れた行為なのか、捲る写真全てに、うっとりした色があった。
――クスリ、使われてんのか?
そう思えば、自然に眉間に皺が寄るのを感じた。
何で、こんな写真が大佐の家に送られて来るんだ。
さすがに、1枚1枚じっくり見ていく気になれなくて、毛色の違う写真が混ざっていないか、一応、確認のためにざーっとカードをシャッフルするように捲った。
その中に確かな違和感を感じて、もう一度、今度はゆっくりと写真を捲った。嫌な予感が止まらず、じわーっと胸の辺りから広がっていく。金髪の子供の写真の中に、見慣れた黒髪を見た気がした。
その写真は、金髪の子供の以外で、唯一の顔の写った登場人物だった。
子供の写真が撮られた部屋と、おそらく同じ部屋で撮られた写真。1人掛けのソファに、いつものように足を組んで座る大佐。着衣に乱れはないが、その顔には少し困ったような笑顔が浮かんでいた。オレの、好きな顔だった。プライベートで、オレがわがままを言ったときに、それを許容する笑顔だ。――しょうがない奴だな、と言って。
「‥‥‥‥‥‥」
大佐の写真はそれ1枚だけだった。
大佐の爛れた人間関係に口を挿んだことは一度もない。そのほとんどが、何らかの仕事に関わるものだからだ。だが、これには言いようのない嫌悪感が湧き上がってくる。
―――陰毛すらまだ生えていないガキ、だぞ。
「ハボック?」
ちょうど、その時、書斎から大佐が出てきた。無言で、その大量の写真を渡した。
「ああ、ダニーのDだったのか」
大佐は、その写真に写った子供を見ても動揺する素振りさえない。確認するように、その大量の写真を1枚1枚見ながらリビングに向かう。オレは、腹にどんどん重いものが溜まっていくのを感じながら、後を付いていった。
大佐は、リビングのソファに腰を下ろして、さらにその写真を捲っていく。オレは、大佐の向かいに座った。
同じペースで、捲られていたその白い手が不意に止まった。
「――封筒」
差し出されたその手に、ずっと持っていた封筒を渡す。大佐が、その封筒を逆さにしたら、1枚のネガが落ちてきた。
「お前にやろう」
大佐は、そのネガと写真をオレに差し出す。にやりと笑みを浮かべて。オレは、何て言えばいいのか、正直、分からなかった。でも、このままだと、とんでもないことが口から出てきそうで、黙ったまま、大佐から顔を背けた。
「何だ。いらないのか?」
「‥‥‥‥‥‥」
きっと、大佐はいつものように笑ってる。顔を見なくても声を聞いてればわかった。
「――なら、燃やしてしまおう」
その言葉に、思わず、正直で素直なオレの右手が写真を、大佐の手から奪っていた。そして、そのまま、ソファに置いてた上着の胸ポケットにしまった。
大佐は、オレの反射的な行動に大爆笑だった。そして、この件はこれで終わりとでも、言うように他の写真全てを元の封筒に入れて、ソファを立つ。
「この写真のことは忘れろ」
それだけで終わらせてしまうのか。それはそんな程度のことなのか。
「――それ、同じ場所で撮られた写真だ。子供っスよ。それも、まだ毛すら生えてない」
「そうだな」
こんな時、大佐の黒い目は揺らがない。オレだけが動揺している。あまりに滑稽で、あまりに大佐が遠くて、思わず、はじめに思ったことが口からでた。いや、ただ単に、オレの言葉に、傷ついて動揺した大佐が見たかっただけなのかもしれない。
「そうだなって、――アンタ、ヤったんスか?」
大佐が、誰とヤってたって口を挿まないことを暗黙の了解にして始まった関係だった。
「――好きなように判断したらいい」
たった、一拍だけ間を置かれた答えは少し面倒くさげで。
「大佐っ!」
怒鳴ったところで、何も事態は変わらない。何もかもがつり合わない。多分、一番つり合っていないのは、気持ちだ。
どうして、オレはこんな男が好きで好きでたまんないんだろう。
自分があまりに馬鹿で、悔しくて、涙が出そうだった。
02
ハボックが、私を、睨みつけ、もう一度、問いかける。
その瞳孔が狭まり、その青い瞳が、ゆっくりとその色を薄くしていく。
―――こうも生理的な嫌悪感を顕わにされると、期待に応えたくなる。
人は好意を寄せるものを見るとその瞳孔は拡大し、嫌悪感を抱くものを見るとその瞳孔は狭まる。これは、人体の生理である以上誤魔化しの効かないことだ。私の場合、瞳の色が瞳孔の色に限りなく近い黒であるため、人が瞳孔から顔色を窺うことは不可能だと言える。逆に、ハボックのような青い瞳は、あからさまに好悪を伝える。
「ヤった」
そんな訳ないだろう。そんな毛も生えてない子供に、この私が、勃つとでも思ってるのか。ハボックにそういう嗜好の人間の1人と思われていたことに、何気なく、自分が傷ついていることに笑いが漏れた。
ハボックは、テーブルの上の昨日から置かれている酒の入ったグラスに手を伸ばして、その中身を勢いよく私にぶちまけた。
私はそれを避けなかった。
冷静さを失っているのは私も同じであり、これで少しは頭が冷えればいいと思ったからだ。ハボックは自分で酒を私にかけたくせに、私がそれを避けなかったことにひどく傷ついた顔をする。だが、すぐに顔を背けて怒鳴った。
「ウソだと言えっ!」
大概にして、怒鳴るものの方が、崖っぷちに立っている。そうすることしかできなくて、怒鳴るのだ。人間、そんなものだろう。お前が怒鳴れば怒鳴るほど、私は冷静さを取り戻していく。
時々、お前が眩し過ぎて、その姿を見ているのが辛くなる。
奸計に奸計で争う、私の行く道はどこまでも泥沼だ。
「――嘘だ」
ハボックは大きな舌打ちをして、立ち上がり、私に背を向けた。
「もう、アンタには付き合いきれない」
多くのことを飲み込んだ声色だと思った。
ハボックはそのまま振り返らず、足音高らかに、ここから出て行く。乱暴に玄関が閉められた振動が伝わってきた。
そうだ。もう、いい加減、私の前から立ち去ってくれ。
――なのに、そこから足音が途絶え、閉ざされた玄関の扉の前から、ハボックの逡巡する気配を感じる。
なんて、お前は馬鹿なのだろうね。かわいそうに。
お前が、そうだから、私がいい気になるんだ。
さっさと、自分の家にお帰り。
こんな人殺しの資料の置き場所になんて来るんじゃないよ。
まるで、私が玄関を開ける口実であるかのように、ハボックの上着がソファに置かれている。どこまでも、私に甘い奴だ。その上着からさっき渡した自分の写真とネガを抜き取り、――そのまま、焔で焼き尽くす。
いつだって、見たくないものは、焔で焼き尽くしてきた。
拳銃とハボックの上着を手に、玄関の扉を開けた。
濡れた自分の手が触ってできた、ハボック上着のシミがひどく目障りだった。
03
「もう、アンタには付き合いきれない」
捨てゼリフを残して大佐の家から飛び出したくせに、オレは玄関を出てすぐ後悔した。
明日の朝、大佐はセントラルに出張へ行く。このまま帰ったら、次に会えるのは3日後だ。
―――たった3日後じゃねえか。時間が経てば、オレの頭も冷めてあの人と冷静に話し合えると思う。
そうは思っても、ここから去りがたい。
追いかけてきてくれないかなとか、今すぐこのドアが開いたらいいのにとか、考える自分を叱咤する。あの人はそんなマネしない。
むしろ、あの人はこのままこの関係を終わらせようと思うだろう。
オレが大佐に付き合いきれなくなったら、我慢しきれなくなったら、この関係はそこで終わりだということはわかりきってた。
今振り返って、このドアを開けて、あの人のところに戻って謝って縋ったら、オレの何かが崩れる。そこまでしても、オレはあの人がいいのか。
答えなんて、考えなくても分かっていた。
オレはどう足掻いたってあの人が好きで、玄関から一歩も動かない自分の足が答えだった。
―――その時、ドアが開いた。
室内の明かりがゆっくりと漏れる。扉に背中を押された。
信じられない。
その思いで勢いよく振り返ったら、そこには驚いた表情の大佐がいた。
手に拳銃をもって。
大佐は外にいるのがオレと分かると、銃を下ろした。
オレは、最早、不審者扱いなのか?
「驚いたぞ。まだ、こんなところにいたのか。ちょうどよかった。忘れ物だ」
オレの上着が手渡された。ああ忘れていたと思って、思わず受け取ってしまったら、大佐はにっこりと笑い、おやすみと言ってドアを閉めた。
再び暗くなった周辺には、大佐がご丁寧にもドアに鍵をかける音が響いた。
―――信じらんない。信じらんない。信じらんない!
一瞬でも、淡い考えを抱いた自分が許せない。
もう、いらないと捨てられた気分だった。
半べそをかきつつ、時々、未練タラタラで振り返りながら、トボトボ帰った。
オレがタンカを切って、家を出たのに。
いつの間にか、出て行けと追い出された気分だった。胃の辺りが重い。
家にたどり着く頃には、オレはこの理不尽な扱いに腹が立ってきた。
オレは怒っている。
オレは謝らない。
泊まる気満々で大佐の家に行ったから、出張の朝、駅まで大佐を送ることを安請け合いしていたことを自分の家に帰ってきて思い出した。
――仕事。仕事だ。
出張はホークアイ中尉が同行することになっていた。ホークアイ中尉はオレが大佐の運転手に頼み込んで、ときどき運転を代わってもらっていることを熟知して、あえて黙認してくれていた。明日の朝、オレじゃない奴が大佐を送っていったら、オレが誰かに運転を変わってもらったらことがバレてしまう。
そんな無責任なことをしたら、どうなるかなんて考えるのも恐ろしい…。
重い体を引きずって、朝、大佐を迎えに行った。
オレがこんなにも昨日のことを怒っていても、大佐はもう、常日頃と変わりなかった。
駅について、ホークアイ中尉と合流して、大佐にいつものように、行ってくると言われても、オレは悔しくて何も言えなくって、大佐から顔を逸らした。
ホークアイ中尉がオレのそんな態度に苦笑して、大佐を咎めてくれても、大佐はしょうがないと言って肩をすくめるだけだった。
汽車の時間が迫っていた。
2人は、オレを残して、雑踏の構内を足早に通り過ぎて行った。
オレは2人の姿が見えなくなるまで、そこでぼーっと目で追っていたが、大佐は振り返りもしなかった。
04
「ロイ、早く結婚しろ」
「結婚だけが全てではない。人の恋路に口を挿むな」
「ちゃんと利己的な幸せを追求しろって言ってんのよ。オレは」
「――わかってる。わかってるよ。ヒューズ」
汽車のコンパートメントの窓越しに話す2人。言葉とは裏腹に真剣な中佐の目に、怪我が痛そうに顔をしかめた大佐が印象的だった。
中央への出張は、さる高官の個人的な用件のために命じられたものだった。しかし、その背後には多くの思惑が複雑に絡んでいる。今回の出張は、幸運にも、かなりこじれると思われていたこの件を大きく進展することができた。代償に大佐が下腹部に3針縫う怪我を負ったが。だが、たいした傷ではなかった。――なかったからこそ、大佐はヒューズ中佐と碌な治療もしないまま飲みに行き、酔って、転んで、その傷を悪化させた。
朝起きて、下腹部から下が血塗れになっているのに気が付いた大佐の第一声は、流産してしまった、だったと言う。ヒューズ中佐から連絡を受け、その話をおもしろおかしく聞かされた時、私は、あまりの怒りで我を忘れて、大佐を産婦人科に連れて行って診察を受けさせてしまった。そして、ついでに大佐のサイフの中に、大佐の名前で作られた産婦人科の診察券をしまった。いずれ、誰かがそれを見つけて、大佐を笑いものにするために。
その治療が終わってすぐ、問答無用に大佐をイーストシティ行きの汽車に放りこんだ。
汽車が動き出すと、コンパートメントが定席の大佐は、人目を気にする必要がなくなって、途端に体裁を取り繕わなくなった。信頼されているとか、自分の前ではリラックスできると考え、密かに誇らしく思っていたのは、この人に出会ってほんのわずかな時期だけだった。今では、おちょくられている気がしてならない。
「――ホークアイ、まだ、怒っているのかい?」
大佐は熱が出てきたくせに、脂汗を浮かべながら、おしゃべりをやめなかった。汽車の振動が怪我に響くようで、時々、顔をしかめても、私の寝てくださいの一言に決して首を縦に振らない。
「そう見えるのなら、そうなのではありませんか?」
「怒っていないね。うん。君は怒っていない」
「――大佐」
この会話で、自分がからかわれていると考えない人間はいまい。思わず、冷たい声がでてしまったら、大佐がどもった。
「う、嘘です。で、でも、こ、この怪我1つで、ダニーの件は終わりだ。正直、安く上がっただろう?」
東方の業務に支障を来たすほど長引きそうだと覚悟していただけに、確かに、その程度の怪我でこの件から手を引けるなら安く上がったと言えた。
「――そうですね。子供の力では、たいした怪我にもなりませんし」
大佐が、私の言葉に、うれしそうににっこりと笑った。
それを悪化させた分際で、何をそんなにうれしそうに笑う。
向かいで、大佐が寒そうに体を震わせた。
「熱高くなってきたようですね。眠ってください。少しでも、眠れたら違いますから」
「何か、おしゃべりしようよ、中尉」
さっきから何回も聞いているフレーズに、ついに大きな溜息が漏れた。
「何を話しても時間の無駄です。熱のあるあなたと、極限まで眠いあなたは、本当に馬鹿ですから」
「ひどい‥‥。馬鹿には話をすることも許されないのかい?馬鹿とは話をしてもくれないのかい?ホークアイっ!」
この言動に、私がすでにうんざりしていることに、何故、気が付かない。顔に脂汗を浮かべて、何が話をしよう、だ。
「――お付き合いしましょう」
「うん」
「そう言えば、出張前に、ハボック少尉とケンカなさってましたね。今度は何をしたんですか?」
「―――‥‥」
「大佐、おしゃべりに付き合って差し上げているんですから、答えてくれなければ、会話になりませんよ?」
言外に、言いたくないならさっさと寝ろという意味を込めて言ったが、大佐は少し躊躇ってから、口を開いた。
「ダニーの写真を見られてしまった。その中に私の写真が1枚混ざっていて」
「ああ、珍しく笑って写っていた写真ですね」
ヒューズ中佐にすっごく珍しいからと言われて、大佐に内緒でその写真を1枚貰っていた。何故かヒューズ中佐はその写真を数枚手に入れていた。
「男に向かって笑う気にならないだけだよ。―――もう、付き合いきれないと言われてしまった」
「また、ハボック少尉をいじめたんですね?」
少尉は、よっぽどのことがない限りそうは言わない。むしろ、そこまで言わせたあなたがどうかしている。
「―――すごく、これ以上ないって言うほど汚いものを見るように私を見たんだよ。思わず、期待に応えたくなるじゃないか」
「わざわざ期待に応えなくたって、十分汚れているじゃありませんか。ハボック少尉の前では、立派な飼い主のように振る舞いたいんですか」
「そうなのかなあ?」
「落ち込んでいるなら、そうなのでは?」
「――そうか。私は馬鹿だな」
「ハボック少尉は、あなたが、立派で汚れていないから、あなたを飼い主に選んだわけではないでしょうに」
皆、あなたが地を這い、泥水を啜って、ここにいることをわかっている。
「――そうだったね。時々、奴が眩しくて、自虐的な気分になる」
「それもたまにはいいのではありませんか?少尉は、大方、あなたが眩しくて、自虐的な気分になっているようですから」
「馬鹿な奴!」
「帰ったら、ちゃんと、少尉の話を聞いて、仲直りできますね?」
「――うん。君がそう言うなら。それに、頼もしい味方ができたんだ。奴に捨てられそうになったら、ブレダ少尉が一肌脱いでくれるそうだ。きっと、今頃、私の魅力をハボックに訥々と語って、フォローしてくれてるはずだ。有能な部下が多くて助かるよ」
プライベートな問題にまで、こき使う無能な上司の下では、碌な役にも立つまいが。
「ならば、さっさと寝てください」
大佐は、今度は素直に頷いて、やっと目も口も閉じた。
話をして、ほっとしたのだろう、大佐の顔色が少し良くなっていた。―――その顔を見て、ふと、ヒューズ中佐と大佐の会話を思い出した。イシュバールの地で、誰の目にも明らかなほど幸せから遠ざかった大佐に、それでも、幸せを追求しろと言う中佐。ブレダ少尉の手を借りてでも、ハボック少尉との仲を何とかしようとするのは、この人の精一杯の幸せの追求のような気がした。――早く、仲直りできるといい。私も、この人が自分の幸せに無頓着な様を見たくなかった。
イーストシティまで、後1時間。
05
ここ2日間、同期の同僚は司令室中に暗雲を立ちこめ、周囲に倦厭されている。
「―――ブレダ少尉!」
司令室にかかってきた電話を、誰からかを言われずにフュリーから回されて、その電話をかけてきた主が誰かわかった。出張中の我らがマスタング大佐以外にないだろう。今、この場で大佐の名前を出して、この部屋に立ち込める暗雲をこれ以上大きくしたくないフュリーの気持ちがよくわかった。職場の環境が、これ以上、劣悪になるのは耐え難いものがある。俺も同感だった。声を潜めて電話を受けた。
予想通りの大佐からの電話は、こっちに戻ってきて、仕事を円滑に進められるために、書類上の確認と種々仕事の下準備のためのものだった。相変わらず、段取りと手際のいい人である。
こういう所で上司の能力が問われるのだよ、と誰に聞かせるでもなく呟いた。
自分が選んだ上司の有能さに満足する。プライベートの奇怪さはご愛嬌だ。完璧な人間ならきっとつまらないハズだと、自分に言い聞かせた。誰からの電話を受けているかなんて、ワンコール目から気が付いているだろう同性の同僚から、何とも言えない視線を受け流しながら。
仕事上の連絡が一通り済んでから、思わず、そのあまりに鬱陶しい視線を向けるヤツの話を出してしまったら、大佐は水を得た魚のように楽しげに話し出した。
「フラれそうだ。何とかしてくれ。このまま、私がおめおめとフラれたら、お前を減俸処分にするぞ」
「―――マジですか?」
「一蓮托生と行こうじゃないか。ブレダ少尉。私のささやかな日常の幸せを死守しろ」
阿呆だ。マジでアホだ。この人。
――だが、外勤の多いハボックがあまり目にする機会のない、大佐の仕事量を知っている身としては、この程度のお守りぐらいしてもいい気がする。おそらく、ハボックとの付き合いが、仕事に支障を来たすような事になるなら、大佐は迷うことなくその付き合いを終わらせるだろう。その決断の速さは想像に難くない。でかくて、やんちゃな、自分を慕う奇妙な犬を後ろに従えて歩く大佐は、いつだってご機嫌だ。失敗の許されない仕事を山積みにして、膨大なストレスを抱えてても、平静を保てる程の精神力を持つ人が、ハボックの前だと素でリラックスしている。ハボック一匹で、あの膨大な仕事から受けてるストレスを解消できてる。正直、あんな犬一匹で、安いことだと思う。
それに、月末に減俸の話は勘弁して欲しかった‥‥‥。
「上手くいったら、何かしてくださいよ?期待してますぜ?」
「まかせたまえ。私も期待している」
大佐はハボックとのケンカの原因を一言も言わずに、慌しく電話を切った。
切れた受話器を戻してから、汽車の中からの特殊回線からの電話だったことに気が付いた。この回線を使うほどの内容を含んでいたか疑問が残ったが、自分がどこか聞き落としたことがあるようにはどうも思えなかった。
ハボックは、大佐が出張に行った朝から、今にも捨てられそうな態で、実に鬱陶しい。生来の好奇心が手伝い、ハボックを連れて司令室を出た。
行き先は、ブレダ様のお悩み相談室へ、だ!
「ハボ、何でも、ぶっちゃけて話せ」
大佐が好んでサボり場所にしている、人気のない資料室に入り込んで、大佐が運び込んだ場違いなスプリングのいいソファに座った。ハボックは鬱陶しさに、ふて腐れた空気を加え、オレの向かいに立ち、窓を少し開け、タバコに火をつけた。
ハボックは、その火をじっと見つめたまま、だんまりを決め込みやがる。この期に及んで口を割らないとは、何て往生際の悪い奴なんだ。
「オラ、何が原因で大佐を捨てるんだよ?」
「――ああ?お前、何言ってんだ?」
自分と大佐のことが周りにバレてないと思っているところが、実に不思議でならない。
「まあ、お前はよくがんばった。長続きしたと思うぜ?田舎モンのお前にしては善戦した。が、なにせ相手は大佐だ。誰だって付き合いきれねえさ。ハボック」
「―――‥‥‥‥‥」
ハボックのまぶたが小さく痙攣した。
「で、その決定的な原因は何だ?性格の不一致も、価値観の不一致も、当たり前だから決定打に欠けるな?」
ハボックの眉間に皺がよって、それを隠すように顔を下げた。日頃は、全くかわい気がないほど、動揺しない奴なのに、どうしてこうも大佐が絡むとダメなのかね。
「やっぱ、体の相性か?大佐の要求に応えきれなくなったとか?」
「――オイ」
「原因は何だ?何がそんなに納得いかねえんだよ」
「―――‥‥‥‥‥」
「もう、帰りの汽車、中央を出たぞ。後、数時間で大佐は帰って来る。お前は、このままでいいのか?」
何かを反芻するかのように、ハボックは眉間を硬く寄せて目を閉じた。資料室に入ってから、火をつけられたタバコは一回も咥えられないまま、どんどん短くなっていく。
「――大佐は電話で何て?」
「ささやかな、日常の幸せを死守しろ、だとさ。失敗したら、俺は減俸なんだそうだ。オラ、俺のために何とかしろ」
大佐はこのままハボックとわかれることを望んでいない。そう伝えてやれば、目に見えて、ハボックは安堵してみせた。やっと、手に持ったままのタバコを咥える。これで俺の減俸はないことを確信した。大佐のささやかな日常の幸せは、ハボックにとっては日常の不可欠な幸せなのだろう。
「大佐が帰ってきたら、ちゃんとあの人の言う所の、ささやかな日常の幸せとやらを提供できるな?」
だが、少しだけ余裕の出てきたハボックは、今度はそれは嫌だと言わんばかりに、そっぽを向いた。
――お前、そんな所、大佐に似てどうするよ‥‥。
大佐と付き合って、腐れ縁の友人はどんどん阿呆になっていく気がした。
06
「ハボック、お前は、大佐の何が、許容できないんだ?大佐が謝れば、解決するのか?それとも、もう、大佐をフるのか?」
「オレが大佐をフる?逆だろ。オレが、大佐にフられるんだ」
「そうか?あの人、お前が考えるよりもずっと、フられてると思うぜ?」
「大佐が?あの、老若男女にモテモテの人が、か?」
また、ハボックのまぶたが小さく痙攣した。
「そうだ。もう、あなたには付き合いきれません、ってな。ハボック、お前は、大佐の何が許容できないんだ?」
ぐっと歯を噛み締めたハボックが、苦そうに息を吐いた。
少し開いた窓から、訓練場を軍隊特有の号令をかけて走る野太い声が聞こえてきた。まるで、ここが紛れもなく軍施設であることを頑なに証明しようとしているように思えた。
「――ガキと、まだ、毛も生えてもいないガキとヤったって言うんだ。大佐んとこに、裸のガキの写真が届いたんだ」
眉間に皺を寄せて、ハボックは言った。普段の頭の悪そうな面影はなかった。
オレとしては、2人のケンカの原因が思い当って一気に脱力した。ヒューズ中佐が今、扱ってる仕事は上級軍人の子供への性的虐待だった。この件で、中佐と大佐は白熱したディスカッション繰り返していた。この上級軍人を無罪放免にしてしまわないために、かなり強引な証言を引き出そうとそうと2人は動いていた。この件のことで、大佐とハボックは衝突したのだろう。ハボックの言動にムカついた大佐がいかにも言いそうなことだ。なんで、大佐は仮にも好きだという奴にこういうことを言うんだ。マジにフられたくないと思うんなら、もうちょっと自分の言動を考えるべきだろうに。ハボックと違って頭がいいんだから。挙げ句の上に、その尻拭いを部下に頼むなんてありえねだろうが。
「大佐が、性的虐待の加害者の立場に立ったことが許せないのか?」
でも、大佐が虐待の加害者だったと思って、大佐をフるなら、元々ハボックには大佐と付き合うだけの器量がなかったのだ。オレはそう思う。
「大佐はタフだよ。本当に。タフだ」
「知ってる。オレだって知ってる。――大佐に断れないことが山のようにあることぐらい、オレだってわかってるんだ‥‥」
「でも、許せない、か?」
「――オレはそんなに高潔な人間じゃねえよ。でも、納得できないんだっ!」
「大佐が、そのガキ助けてやればよかったのか?」
大佐のこと好きだ好きだと言ってるわりに、こいつはこういうとこで根本的に大佐を信じてない。きっと、大佐が自分のこと好きだということも疑っている。
「大佐は、――正義の味方でも、弱者の味方でもない。それに、そういうのを、面白がるような悪趣味な人でもない。仕方なかったんだ。――わかってる。オレは、これでもわかってる‥‥」
「じゃあ、大佐を許せるな?」
「‥‥‥‥‥‥」
俯き、項垂れきったハボックは、それでも頷かない。
「まだ、何かあんのかよ?」
「―――写真」
「ガキの写真に、まだなんかあるのか?」
「ガキの、じゃねえし‥‥。大佐の‥‥」
ハボックはポケットから携帯灰皿を出して、満足に吸いきらなかったタバコを未練たらたらに捨てた。
「はあ?大佐の、――写真か?」
「‥‥‥‥‥‥」
ちらりとオレを窺うように見る目には、自分がバカにされていないか探るような色があって、ケンカの原因がもっともっと下らないことのように思えてきた。
バカな奴だ。ちょっと頭のよさ気なこと言ってたくせに、コイツのわだかまりはガキの写真じゃなくて大佐の写真にあると言う訳なのか。すごく真剣に話を聞いていたことが、バカなことのように思えてきてしまった。
「何か、変な格好でもしてたか?」
「――してねえ。ただ、ソファにいつもみたいに、えらそうに座ってただけだ」
「ふうん。それの何が気に入らねえんだ?」
「‥‥‥‥‥‥」
「オイ、もう、ここまで話してんだぞ。言え」
「―――その写真と同じとこで撮った感じだった。あの人、笑ってたんだ‥‥」
笑った写真がほとんどないような人の、貴重な笑った写真が、そんな場所で撮られていた、ということか。こいつはそれが気に入らないと?
「お前は、大佐が笑うような状況じゃない状況で笑っていたのが許せなかった。大佐が帰ってきたら何で笑ってたのか、聞け。大佐は、お前が思ってるように、面白がって笑ったわけじゃねえんだろ?」
「―――ああ」
やっと声に力が戻ってきた。ハボックは仲直りできそうな予感に心底安堵したように、新しいタバコを咥え、火をつけた。見る見るうちに、今度は早く大佐帰ってこないかな、という雰囲気を漂わせる。
「かわいそうな奴だな。お前、案外、モテんのに」
でも、こいつのこの大佐一筋の実態を知った、聡明な女性たちはすぐ走り去って行くが。
「ほっとけ。オレはバカなんだ。そんなこと、誰に言われるまでもなく、わかってる」
窓際に寄りかかっていたハボックが、そこから背を離した。これで、何とかなりそうだと言わんばかりに。
「――今月のはじめに、大佐、珍しく電話口で、ヒューズ中佐と真面目に言い合いしてただろ?覚えてるか?」
そもそもオレはここまで言う気はなかった。大佐の仕事に関わる件だ。俺が出しゃばることではない。ハボックが知らないことは多いが、それは大佐が必要だと思ったときに必要なことを言うのがハボックにとって最良なのだろうと思ってたからだ。
だが、ハボックのバカであることにあぐらを掻いたその態度が気に入らなかった。バカだからと言えば、頭を使わなくてもいいと思っている所が許しがたい。――だから、大佐や中佐にバカだバカだと言われているのに。
「あー、あったかも」
「あったんだ。今、ヒューズ中佐、ある高官の軍法会議の案件を担当してるんだ。その件で、ちょっと揉めてたんだ」
「中佐の仕事で、何で大佐と揉めるんだよ」
「難しい案件なんだ。中佐の使えるものは何でも使えっていうのは、ウチの大佐と同じだろ」
「ふうん」
「もっと、興味持てよ。ハボック。仮にもお前、大佐の副官だろうが」
「仮にも、ってなんだよ?――それに、オレは肉体労働専門だ!」
大佐が、それを許容してっからって、それでいいと思ってんのか?お前は。
「ふざけんな。大佐の仕事内容ぐらい把握しとけ。―――ヒューズ中佐が今、やってんの、軍高官の子供への性的虐待の件だぜ?」
お前が、それを知ってたら、そもそもこんなケンカなんか起きなかったんじゃないのか。それでも、お前は、自分はバカだから、何も知らなくていいと思うのか。
「中佐はどうにかして有罪にしたいんだ」
「――は?」
ハボックは、まるで晴天の霹靂のように驚く。
「この手のことは、めったに表に出てこないし、出てきてもいろんな手で潰されて無罪になることがほとんどだ。あの人たち、それをどうにかしようとしてるんだ。法律改正まで考えてる。軍の上層部に、小児性愛をカミングアウトしてる奴らがいて、科学的根拠とか子供の性行為を認めない場合の弊害とかを引き合いに出して来るんだそうだ。その上、被害者は低年齢だから、その証言はいつも容易く覆されてしまう。全ては権力者の思うがままだと大佐は言ってたぜ」
オレたちから、たった数年年上のあの人たちが、やろうとしていることの大きさがお前にわかるか。知ろうとすれば、容易く教えてもらえる立場に、お前はいるのに。
「肉体労働専門も必要だけどよ、何も知らないじゃ、すまされない。ましてや、お前は公私に関わらず、最も大佐の近くにいるんだから。ちゃんと大佐と話をしろ。言葉を惜しむな。大佐は、お前が話をしようとするなら、ちゃんと付き合ってくれる。何故だか、な?」
それが、大佐の誠意なのだろうと思う。
ハボックは、今度は今までになく神妙に頷いた。
大佐は東部に着いたら、そのまま直帰だと連絡が入っていた。不運にも、ハボックも俺も遅番だった。せめて、俺だけでも日勤だったらハボックと変わってやれたのに。大佐不在の司令室を不用意に開けるわけにも行かないから、駅に迎えにも行けない。
ハボックはぐっと我慢して、ここ数日貯めに貯めた書類を処理しだしていた。でも、大佐とは違うから、頑張ってどうにかなるわけでもない。
――俺が手伝ってやるのが、道理というものなんだろう。手が掛かるのは大佐と一緒だ。
07
ようやく就業時間が来ても、全然終わらない書類の山に青くなっているオレをブレダが一刻も早く大佐と会って話せと言ってくれて、残りの仕事を引き受けてくれた。司令室を出るとき、頑張れよとブレダに励まされたけど、オレには大佐の何にあんなに腹を立てていたのか、実はもうよく分かんなくなっていて、何を頑張ればいいのかとか考えていた。それでも、重い足を引きずりながら大佐ん家へ向かう。今を逃せば、仲直りできるタイミングを失ってしまいそうだったからだ。
人の往来がほとんど途絶えた深夜、大佐の家はリビングにも書斎にも明かりが落ちていたが、家の奥からほのかに漏れている明かりから、大佐が帰宅していることは分かった。
――もう寝ているのだろうか。夜が遅い大佐にしては珍しい。
でも、微かに漏れる明かりがキッチンからのもので、まるでオレが来るのを待っててくれたみたいに感じた。この家で唯一の、オレのテリトリーに点された明かり。そんなほんのちょっとの愛情に今は縋る。大丈夫。捨てられないハズ。――まだ‥‥。
そう何回も自分に言い聞かせて門扉を開け、合鍵を使って静かに中に入った。
あの日、大佐からもらった写真は、上着の胸ポケットに入れといたのに、気が付いたときにはなくなっていた。惨めったらしくここから帰ったときに、どこかに落としたかと思って必死に探しても出てこなかった。
ヤバイ写真だったかもしれないのに。
オレだったから、あんなにも簡単にくれたのかもしれないのに。
仕事が終わった後、何回も何回も大佐の家への道を歩いて探して、探し回ってから、――もしかしたら、上着を大佐に渡されたときに、もうすでに大佐が写真を抜き取っていたのかもしれないと思った。失ってしまった信頼が取り返しのつかないほど大きくて、オレを打ちのめす。今更、どんな顔をして、オレはあの人の前に立てばいいのか。これでも、柄でもなく必死に考えたりしているんだ。そして、どうしていいのか思いもつかない、自分の頭の悪さに愕然とする‥‥。
3日ぶりの部屋の中は、出て行ったときのままだった。リビングに置かれた灰皿も、その中に捨てられた吸殻もそのままだ。部屋に漂うアルコール臭まで。そう、ここに座っていたのは、たった数日前のことなのに。
その人は、思った通りベッドで眠っていた。
具合が悪いのかもしれない。
それでも話がしたくて、そっとベッドサイドに寄っても、大佐は気が付かないで体を丸めたまま眠っている。そっと、サイドテーブルの明かりを付け、ベッドに腰を下ろした。オレの体重でベッドが軋んだ振動で気が付いた大佐がゆっくり目を開け、小さな明かりに眩しそうに目を細めた。
「―――あの、お帰りなさい」
こんなことしか言えないオレなんかと、アンタはよりを戻したいと本当に思ってる?
「ああ、ただいま」
予想外にも、律儀に返事が帰ってきた。髪が湿っていて、前髪が汗で額に張り付いていた。オレを見上げる目元も少し濡れている。手でその額の汗を拭ってやれば、大佐は気持ち良さそうに目を閉じた。いつも、ひんやりしている肌が熱を持っている。
「具合、悪いんですか?熱、高いっスね?」
「――いや、そんなに高くはない」
大佐の目には、オレと話をするつもりがあることをはっきりと示していた。そのことに安堵するより、早く話を終わらせなくちゃならないプレッシャーを感じた。覚悟を決める時だった。
「あの、聞きたいことがあるんです。話がしたくて」
「では、リビングへ、と言いたいところなんだが、――このままでもいいか?」
「アンタの楽な様に」
大佐が頷いた。
「あのですね。写真。アンタの写真。何で笑ってたんスか?」
思い出したのか、写真の顔と同じ顔で大佐が笑った。
不意に、この家を飛び出したときの気持ちが湧き上がって、何かが焼き切れそうになる。
「――タバコ、いいっスか?」
堪えるための行為は、頷かれ了承された。
どんなにバカでも、せめて同じことで失敗したくなかった。
「ダニーに、――写真を撮らせて欲しいとお願いされたんだ」
「――何で笑ってたんスか。アンタの写真で、笑ってんのほとんどないのに?」
なんでそんなことに、こんなにオレはこだわるんだろう。
余計なことまで言ってしまいたくないから、歯を食いしばる。のどの奥がツンと痛んだ。
「男に向かって笑う気にならないだけだ。だから、その時も笑う気など毛ほどもなかった。―――なかったんだが、私を笑わせようしたダニーが、あまりに笑わない私に、途方に暮れて、もういいと言って、肩を落としたんだ」
大佐が吐息だけで笑う。
なんで?どうして?アンタはたったそれだけのことで笑う人だった?
何で、こんなに裏切られた気持ちがする?
聞きたいことはたくさんあるのに嗚咽まで漏れてしまいそうで、口が開かない。
「唐突に、お前を思い出した。その様が、まるでお前みたいで、思わず笑ってしまった。
――そして、忠実なカメラマンはそのタイミングを逃さなかった。男のカメラマンに向かって笑うなんて、ロイ・マスタング一生の不覚だとヒューズにもホークアイにもさんざん笑われた」
黙り込んだオレに大佐が少し拗ねた視線を向けて、お前も笑いたいなら笑えばいいだろ、と言った。
08
アンタはオレの前であまりに簡単に笑う。
それがどんなに特別なことか、オレはちゃんと知ってる。
――何で、アンタはそんなにオレの独占欲を満たしてくれるんだろう。
わだかまりが急速に解けて行き、その濁流に押し流されるように言葉が詰まった。しかし、今日はこのまま流されるわけにはいかない。ちゃんと、ちゃんと話をしに来たんだから。
「――何で。そのガキとヤったって言ったんスか?」
現金なことに、寝乱れた大佐の黒髪を整える自分の手が無意識にも優しかった。
「お前が、……」
大佐は目を瞑って、口を噤んでしまった。
「オレが?」
大佐の頭を撫でる手がより一層優しいものになって、続きを促した。
「――お前が、私を、ひどく汚いものを見るような目で見たから、つい期待に応えてしまったんだ。わるかった。悪辣だった」
きっとオレは、大佐の言葉がオレに優しくなることを期待して、優しく優しく大佐を撫でたんだと思う。優しくされた相手を傷つけることは誰だってしたくないことを知っていて。でも、大佐は、それでもちゃんと本心を言って、オレを傷つけたことに傷ついて、オレが施したずるい優しさに謝ってまでくれた…。
「オレは、毛が生えそろってもないようなガキがセックスの対象になってんのは気分が悪い。そんな場所で、アンタが笑ってんのが気に入らなかった」
違う。本当はそんなんじゃないんだ。オレは、ただ、オレだけに向けられると思ってた顔が、オレじゃないヤツに向けられて、勝手に裏切られた気がして、ムカついただけだ。
「――そうか」
「すんませんでした」
ごめんなさい。オレはずるいヤツです。アンタは本心を言ってくれてるのに、オレはアンタに見捨てられるもしれないって保身が働いて、本音を何にも言えません。
「何故、謝る?どこに、お前が謝るところがあるんだ」
ゆっくり開かれた黒い瞳に静かに見つめられて、内心の動揺を必死に押し隠す。
「――笑いたくて笑ったんじゃないっしょ?」
「笑ったのは事実で、写真という証拠まである。しかし、私の弁明が本当である証拠は何一つない」
こういうとこをなあなあで済ませないとこが、頭のいい人間にありがちな独特の面倒臭さのような気がする…。
「あー、そういう状況で、アンタが面白がって笑う人じゃないってわかってます。でも、ああいう顔で笑ってるの見て、思わずカッとしちまったんスよ。嫉妬です。オレの。オレの嫉妬でアンタを罵った。だから、謝りたいんです。これでいいっスか?」
「ああいう顔って、何だ?」
「オレのおねだりを、聞いてくれるときの顔。――特に、ベッドの上で…」
「――なるほど。私はあんな顔で笑うのか」
「オレは、アンタが抱き合う人間、誰にでもあんな顔を見せると思うと、脳みそがかき回される気分がするんです。笑ってください」
「そうか」
「こんな頭の悪い、若い恋人はもういりませんか?」
泣いて縋って謝る。――自分のプライドが邪魔して、そんなことすらできない青いヤツです。オレは。
「案外、新鮮なものだな」
大佐はそう言って、目だけで笑った。オレのウソではないけど、全部ではない弁明で一応は納得してくれたように。――これで元通りだ。それを確認するように体を傾ければ、大佐が素直に目を閉じて、オレのキスを受け入れてくれた。随分、久しぶりの気がするキスに緊張して、ただの触れ合うだけのキスになってしまったのは秘密だ。
「あ、あの写真ってどうしました?」
漸く緊張が解けて、靴のまま大佐の脇のベッドに横になると、その久しぶりの高級スプリングの感覚に眠気が襲ってきた。
「燃やしてしまったよ」
「ネガも?」
「もちろん」
ガッガリだ。でも、オレが落としたんじゃなくって、本当に良かった。――そう思って、この心地よい眠気のまま、大佐を抱きこんで眠ってしまおうと大佐をぎゅっと抱きしめる前に、勢いよく左手一本でベッドの下に振り払われた。
オレは、突然のことで、状況を理解できずに呆然と床に転がっていたら、上から怒号が降ってきた。
「痛いじゃないかっ!体重をかけるなっ!!」
眠気も吹っ飛ぶ一言とはまさにこのことだ。
「――痛い?アンタ、もしかして、その熱って、ケガが原因なんスか?」
「‥‥‥‥‥」
オレは床から立ち上がり、ベッドサイドの明かりを最大にした。
――だから、大佐は寝そべったままで話を、と言ったんだ。脂汗まで浮かべて。
突然の明るさを嫌がって、大佐が毛布の中に潜り込もうとするのを、その毛布の端を掴んで阻止する。隠し切れなかった大佐の顔が、思いっきりオレに向かって顰められた。
09
「原因は何スか?」
どうして、ホークアイ中尉はオレに言ってくれなかったんだろう。オレはどうしようもないミスをしてしまったんだろうか。オレは何をした?また、背筋が寒くなる考えに陥ったときだった。大佐が阿呆なことを言ったのは。
「――切迫流産だったんだ…」
はあ…?
「疑うのなら、私の財布を持って来たまえ。私名義の産婦人科の診察券が入っているはずだ。ホークアイに同行してもらったぞ。嘘だと思うのなら、彼女に聞いてみろ」
大佐は毛布をぐいぐい引っ張って取り戻そうとしたが、オレが引っ張った毛布の上にどかっと腰を下ろしたから、びくりとも動かず、さらに顔を顰めた。
「――お前に連絡しなくて悪かった。どうせお前に捨てられるのなら、知らせる必要はないと思ったんだ。許せ」
そんなたいした傷じゃないから、言うのも阿呆らしい傷だったから、中尉はオレに言わなかったのかもしれない。それにしても、どんな顔をして産婦人科に入ったんだろう?
「あー、傷、見せてくださいね」
それでも傷があって、そのために熱が出てんのは間違いなくって。オレは力任せに毛布を剥ぎ取って、――切迫流産と言うぐらいなのだから、下腹部に傷があるんだろうと当たりをつけて、パジャマのズボンに手をかけた。
大佐は、オレにズボンを下ろされまいと、オレの腕を瞬時に抑えたが、オレの方が手際よく、大佐のその両手を仰向けのままの背後に押さえ込んだ。
「止めろ!傷心の私に追い討ちをかけるのか?お前に、私を労わる気持ちはないのか?」だから、お前はもてないんだとか、ひどい言葉を言われながらも聞こえなかったふりをして、そのまま嫌がる大佐を片手でホールドした。
――サブミッションの訓練、まじめにやっといてよかった…。
不思議なことに、この上官は立ち技がなかなか強烈で、立ち合ってもなかなかに勝てる機会は多くなかった。こんなに体格差があんのに。
背中に両腕を一まとめにして、片手で掴むと腰が浮く。オレは、大佐のズボンと下着を一緒に引き下ろした。そこには、へその左下に大きくガーゼが張られていて、少し血が滲んでいた。それを半分剥がすと、3センチちょっとの、刃物の傷跡があった。たいした傷ではなかったけど、そこは赤く化膿していた。
正面から刺された跡。この人が正面から刺されるなんて、にわかに信じられなかった。顔見知りに刺されたのだろうか?
でも、そんなにひどい傷じゃない…。もう一度、丁寧にガーゼを張りなおした。
「――女の子だったんスか?男の子だったんスか?あー、母体が無事でよかった」
「手を離せ!ズボンをあげろ!ハボックっ!!!」
熱がある人間にあんまりのことはできないが、ここまで脱がして何もしないのも、相手に失礼な気もする…。
「あー、せっかく下ろしたんですから、ちょっと、咥えときます?」
「ヤメロ!傷が開く!!熱が上がる!!!」
人の冗談がわからない人はたいそうご立腹で怒鳴った。怒鳴れば、傷が痛むだろうに。
ちょっと顔をそこに寄せただけで、大佐は辛うじて自由な足を使って反撃に転じようとした。
――蹴る気だ。
そう思った瞬間、オレは背後に抑えていた両手をぱっと離し、頭を狙って上がった足を辛うじて押さえた。
「傷、開きますから、蹴んないでくださいよ」
「蹴らせるようなことをするな!毛布!!寒いぞ!!」
手を離すと、大佐はオレを睨みあげて自分で、もそもそとパンツとズボンを引き上げ、大きなくしゃみをした。
オレの暴君が戻ってきた。これで下僕ライフが復活だ。オレは何回もこれでよかったのだと自分に言い聞かせながら、さっき剥ぎ取った毛布を大佐に返したのだった…。
ベッドサイドの明かりをまた落として、オレは軍服を脱ぎ捨ててベッドの中に潜り込んだ。
「オイ、何のつもりだ」
「寒いんでしょ?そう言うときは、人肌が基本っスよ」
大佐はぶつくさ言いつつも、結局はオレの腕の中に納まってくれた。
――つい、オレを思い出して、笑ってしまったなんて、どうしよう…。
浸透してくる大佐の体温のように優しい柔らかい笑顔は、この人の近しい人間だけに向けられるもの。子供だからと言って無条件で与えられるものではない。腕の中の温もりに、やっとほっとした。
もぞもぞと大佐のズボンの中に手を入れて、ガーゼの上に手を当てた。早く直りますようにと思いを込めて。
「あ、こら、傷に触るな」
「手を当ててるだけっスよ。痛くないでしょ?こうしてると直りが早いって言いません?」
「はじめて聞いたぞ」
でも、ウチの田舎では常識です。
「いいから」
オレの好きにさせて。これぐらいは。
「――で、原因は?誰に刺されたんスか?」
やっと本題に入ると、大佐が面倒くさそうに大きなため息を付いた。
10
「――本当に聞きたいのか?」
全く面白味に欠ける話だぞと大佐は言った。その上、お前は途中で絶対寝てしまうだろうとまで言うと、大佐は黙りこんでしまった。オレは、そのまま大佐が眠ってしまう気がして慌てて口を開いた。
「ブ、ブレダから、えーっと、ヒューズ中佐が、高官が子供に性的虐待した案件を扱ってるって聞きましたけど…」
「――なんだ、知っていたのか?その通りだ。よって、後はお前の想像に任せる」
「ちょっと、手ぇ抜かないでくださいよ!」
オレは少し乱暴に腕の中の体を揺すった。
「性的同意年齢というものがある。それ以下の年齢の者と性交を持った場合、最大懲役20年の罰則が科せられる。――被害者サイドの親告が必要となるケースも多い」
大佐はそこで一端言葉を切って背後のオレを振り返った。オレが寝ていないのを確認すると、また体の向きを戻して話し出す…。
「この国であっても、子供を保護するための法律はそれなりに多い。しかし、法律的側面から子供を守ることはなかなか難解でもある。ヒューズは、軍法会議所にいるだろう?今まで、多くの虐げられてきた子供を見てきた。見ている。そして、これからも多くを見ることになるのだろうな。――おそらく、現行の法律に最も不満を抱いているのはヒューズなのかもしれない」
静かな声色に、このまま大佐が深い思いの中へ行ってしまいそうな気がして、大分甘えた声で大佐の耳元に囁いた。
「アンタたちが電話でケンカしてたって…」
大佐はオレの言葉に声を出さずに吐息だけで笑った。微かな振動がくっついている大佐の背中から伝わって、オレの心を揺らした。
「ケンカなんかしてない」
「ハボック、この国の子供は一体何歳から性交が許されているか知っているか?」
「―――えーっと、そういうのって許可がいるんスか?」
「個人間の同意があれば、問題ないと思うだろう?」
「あー、まあ、普通は…」
「普通じゃない、というのは一体どういうことだ」
「―――……」
「個人間の同意があっても、普通じゃないというのはどういうことだ?」
「――――ガキ過ぎる?」
「何故、子供が性交を持ってはならない?」
「――じ、自覚の、問題?」
「子供が本気で愛し合ったパートナーと性交を持ちたいと願うのはおかしいことか?」
「―――……」
「性交は悪なのか?」
「――極端、っスよ。大佐」
「科学的データがあるぞ。子供の内から性交を持つと陽性の結果が得られるとか」
大佐が傷口を押さえていたオレの手にそっと手を這わせた。まるで、腹に重いものを詰め込まれたオレを慰めるかのように。
「大人の性の捌け口になってしまった子供と、積極的に性交を受け入れた子供の差は誰の目にも一目瞭然な場合もあるし、誰にも分かりはしない曖昧な場合もある。――科学的データの信憑性を論じる以前に、そのデータの存在そのものが問題にも思う。だた現実問題として、性的虐待を受けた被害者側は裁判で勝てないという事実がある。妙齢の女性でも勝てない難しい裁判だ。子供なんて尚更だ。特に加害者側が軍人であった場合、顕著だ」
子供のポルノ写真。軍高官相手の勝てない裁判。ヒューズ中佐とのケンカ、………。
大佐の話の断片とブレダから教えてもらった話から、にわかに今回の原因の全貌がおぼろげながらにではあるが見えてきた気がした。
「――勝ちたい裁判の、裏工作?それとも、裏取引?」
この手の裁判で、さっきの極端な、子供とのセックスの擁護を捲くし立てられているのかもしれない。話が道徳的問題とか倫理的問題にまで発展してて、大佐やヒューズ中佐ですら反論に悪戦苦闘しそうだと思った。
「ダニーはある軍高官のカミングアウトされているパートナーなんだ。残念ながら、その経緯はわからなかったが。――その高官が小児性愛の擁護者として証言台に立ったおかげで、負けた案件が一体どれだけあるか…。ヒューズは、その高官の下からダニーを引き離そうと言った。それで私は、彼に近寄って言いくるめて、連れ出そうとしたんだが、…」
「――刺された?」
「刺されることはある程度は予測していた。子供の力ではそうたいした怪我にはなるまいと、故意に刺されるようにもっていったと言われても否定はできない。いくら高官といえども、この私を情人が刺したとなれば、ある程度のわがままが効くからな」
「それはアンタが体を張ってまですることなんスか?」
「別に私がする必要はないと思うが、別に私がしてはならないということでもない。ムカつくことが目の前にあって、頑張ったら何とかなるなら頑張ってみようと思うのは普通のことだろう?」
それは頑張ってなんとかなる問題なのかと思った。でも、オレにとっては間違いなくそうだろうけど、大佐たちにはそうじゃない。その差があまりに遠くて大きくて言葉にはならなくて、縋りつくように大佐を抱きしめた。
この腕の中の人は、見ている世界がオレとはひどく違うから。だから。――だから、オレの怒りはこの人からすり抜けて行ったんだとわかって、悲しくなった。
ただ好きだけじゃ超えられないものがあることに今初めて気が付いた気がした。
でも、もう、この人を知らなかった頃には戻れない。じゃあ、オレには何ができるんだろうと思う。
11
あなたの方が羽振りが良さそう。――笑顔で切り出された話はすぐさま様相を変えた。私がこの屋敷から出て施設に入ることを勧めたから。
少年は多くを理解をしていた。この屋敷の中でしか許されないことを多く。または、パートナーの権力がもたらすもの、より大きな権力がもたらすもの、を。
開け放たれたドアの向こうには行き交う人の気配は耐えなかった。広いリビングには2人。少年は私が冗談を言っているわけではないと覚ると、踵を返しナイフを持ち出した。
「――僕は僕の生活のために戦う。人間は弱い。大きな力を頼らなくては生きていけない。あなただってそうだから、軍にいるんでしょう?あなたは確かにとても強いけれどただの人間だ。ただの弱い人間なんだ。強いだけの人間なんて、この世界にはいない」
僕はそんなに馬鹿じゃないよ、あなた一人失脚させることなんて簡単だ、そう言うとダニーは口唇の片方を引き上げ、自分の首元にナイフをかざした。――そうだ。微かにそのナイフを引いて赤い筋を作り、大声を出して、そぐそばにいる家人に助けを求めればいい。私が何を言っても、誰も信用などせず、後日、私は辺境へ飛ばされることになるのだ。
ソファからゆっくり立ち上がり、私が一歩、また一歩とダニーに近づく度に、ダニーが一歩一歩後ずさっていった。そして、ついに壁に背を押された少年の顔には俄かに焦りの色すら浮かんでいる。それでも、圧倒的な有利な立場にいるのはダニーに違いないのに。
「そうだろうな。強さしか持たない人間なんていないだろう。――ならば、また、弱いだけの人間もいないはずだ。ダニー、君は、いつ、どこで、自分の強さを見失ったんだ」
見開かれた目と微かに開かれた震える唇。ダニーは怒りに任せて自身に当てたナイフを私に向けた。
「――うるさいっ!黙れっ!!」
被害者が加害者に代わった時点で多くの発言権を失う。
ダニーの張り上げた声に家人が慌しく動き出す気配を感じた。
震える小さな手に握られて、向けられたその刃にさらに一歩踏み出す。冷たい刃がゆっくりと肉に沈んでいった。
「私は自分の弱さを否定しない。私は自分の弱さと向き合える自分の強さを否定しない」
――私は自分の強さを恥じたりしない。
刃から伝わるであろう肉を貫く感覚を嫌がるように、ダニーがナイフから手を離そうとするのを許さず、私はダニーのナイフを握った手をその上から握った。
赤い血がナイフを伝って床に落ちていく。
家人が気がつくまで、私はただダニーの見開かれた青い目に涙が浮かぶのを見ていた。裏切られたと言いたげに見上げられた瞳は、同じ青でもよく見知った色とは違うのに、最近見た色とよく似ていた。
12
ハボックが黙り込むと再び空気が重く沈んで行き、俄かにせき立てられるようにして私の口から言葉が溢れ出した。
「――私だって自分の判断が本当に正しかったのか悩むことぐらいある。いつだって時間は無限に用意されているわけではない。有限の時間の中で思いつく限りの最善を尽くそうとしても、それが本当に最善だったのか、思う…」
しかし、情けない自己弁護はまた一段と空気を重くしただけだった。
思い通りにならないこの場の居たたまれない雰囲気から逃げ出したくても、ハボックにがっちりホールドされている以上どうにもならなくて、大きなため息が漏れた。
それでも、私は何とかしたくて、結局、何も装わない言葉を口にする。
「しかし、まあ、そうは言っても、実は言うほどは悩まない。その時間すらないから、な」
もっと自分に権力があれば、事態は違っていたのではないだろうか。もっと従順に大きな権力に頭を垂れていたら、スムーズに昇進を重ねられたのではないか。自分の若さが招いた向こう見ずな数々の暴言や暴挙が、悔やまれる…。
甘えるように、するりと足をハボックの足に絡めれば、それはいつもと違ってひんやりとしていて、地に足が着いていないような思考を落ち着かせた。
「―――おそらく、ヒューズにとってダニーは虐げられた子どもの象徴なのだろうと思う。しかし、私にとってダニーはダニーなんだよ。わがままで高慢だがどこか大人びたものの考えをする少年で、自分のパートナーの下っ腹が出ていることに不満を漏らして…」
痩せたらなかなかいい男だと思うんだけどと、笑った少年。
「決して頭が悪いということはなく、自分がこのパートナーから離され、施設に連れて行かれた場合、その後の生活を想像できている。彼はもう自分が普通の少年のように生きていくことはできないだろうことを知っている」
その想像はあくまでも想像に過ぎないと言えるのか。子どもの言は常に間違っているものなのか…。
「――子どもはそうじゃない時間にもっと多くを費やすべきだと、ヒューズは言う。平たく言えば、もっと山野を駆け回り、もっと勉強しろと言うことだが…。私は正直言って、それがダニーにとって良いことなのかどうかわからない。ならば、現状維持が良いのかと言われれば、言葉に詰まる…」
ハボックが腕に力を入れた。体温ではない優しい何かが確かに存在して、手や足の素肌からつたわってくる。泣きたくなる気持ちを抑えて、傷を押さえた大きな手をゆっくりと撫でたらハボックの腕から力が抜けて行き、私はまた口を開いた。
「施設に入って、悲惨な目に会わないと誰が言える?この国の情勢は常に不安定で食べるものに困らない生活が施設で送れることを誰も確約できないのが現状だ。ならば、この国の権力者の保護を受けているほうがマシではないのか…」
「――それで、ヒューズ中佐とモメてたんスか?」
「揉めてはいない。ただ意見が違っただけだ」
どうして、私がヒューズなんかともめなきゃいけないんだ。
「ヒューズはこの国の性的同意年齢を引き下げたいらしい」
「えー、それって、逆効果じゃ…?」
「小児性愛者に有利に働くと思うだろう?だが、必ずしもそうとは言えない。若年者たちに性交を推奨するものではないんだ。――証言台に立たせられても、立たせられなくとも裁判になれば被害者の子供は弁護士に事細かくあることないこと質問される。あれはヒューズでさえ見るに耐えない酷いものだ。性的同意年齢を引き下げたら、法律上親告の義務がなくなる。裁判ではなく示談で両者間で解決されるだろう」
「あー、でも。示談って、何も問題の解決にはなってないんじゃ」
「そうだ。しかし、被害者の子供をこれ以上痛めつけることはなくなるだろう。後世、悪法と言われることは想像に難くないが…。カミングアウトしている小児性愛者を、ダニーのパートナーを味方につけたらこの法律改正は旨くいくはず。彼らにとっては悲願とも言えるからな…。そうなると、水と油の関係にある小児性的虐待の性癖のある連中の行動に今まで以上に誰よりも厳しくなる…。――後はヒューズの仕事さ。奴の言う通りのお膳立てはしてやったんだ。その手際を見学させてもらうよ、私は」
小児性愛者たちとコンタクトを持った今、私にできることはもうこの件と関わらないことしかなかった。第三者にとって私の立場はニュートラルではないのだ。何もせずに見ているだけというのが、最も忍耐を要する。
「――どうやって、その連中と近づいたんスか?」
「鋼のは見栄えの良い子供だろう?その後見である私も、奴らにしたら同類の嗜好を持った人間に見えるらしい。奴らの秘密パーティに呼ばれるようになるまでたいした時間も手間もかからなかった」
「あの写真は?」
「パーティの名目は交流会を兼ねた撮影会だ。――若い、私のような人間はダニーには珍しかったのだろう。えらく熱を上げられた。出張日前にわざわざ写真が送られてくるぐらい、な。お前は私を無視するし。ホークアイもブレダもヒューズすらお前を弁護し私が悪いと言う。そのパーティに行けば、ダニーは待ち構えていたかのように私に笑えと強要する。面白くもないのに私は笑わないし、男に向かって笑うなんて阿呆らしい。権力にならいくらでも笑ってやろうと思うが、彼はそうではない」
「――笑わないアンタねえ」
そんなの想像も付かないとばかりにハボックは言った。
「私は所詮無愛想な若造に過ぎないんだ」
「笑ったらもっと童顔になるから、笑わないだけなんでしょ?なめられるから」
酷く馬鹿にされたことを言われても、増えてきたハボックの口数に私は落ち着いていった。
「なるほど。お前にこうもなめられるのは私がよく笑うからか。わかった。極力お前の前では笑うまい。お前も私を笑わせるような馬鹿な振る舞いは止めろ。わかったな」
「オレはアンタを笑わせるような馬鹿な振る舞いなんて一度もしたことないんスけど?」
走馬灯のようにハボックの数々のおかしな振る舞いが頭の中を過ぎって行き、笑いの兆候に震える腹筋が傷の存在を主張するも、必死になって湧き上がる笑いをこらえる。
「アンタ、オレの前じゃ笑わないんでしょ?」
ハボックが私を抱き込んだ腕にまた力を込め、近づく耳元に息を吹き込むように囁いた。
くすぐったくて、口を開けば笑いが零れそうになるから無言で頷く。
でも、笑ってしまいそうだった。体を小さく丸めて笑いを堪えても、その笑いの衝動は収まらない。そして、私の笑いの衝動が伝わったハボックの方が先に笑い声を上げてしまった。温もりと体から伝わる振動が、体から余計な力を奪っていく。
――きっと気持ちの強張りも…。
泣きたいときに泣き、怒りたいときには怒り、落ち込んだときには落ち込み、笑いたいときには笑う。そんな普通のことに深い安堵を覚える。
衝動のまま、体をひねって唇を重ねるだけの優しいキスを。
ハボックが驚きに目を見開くのを目の端に捕らえ、そのまますっと背を向けた。
追ってきた唇を無視して。私からキスすることにそんなに驚くお前が悪い。
そうすれば、ねえ、ちょっとといつもの情けないぼやきが聞こえてきて、また笑みが零れる。
「お前は本当に私を笑わせる」
「勝手に人のこと笑いものにしてんのはアンタでしょ」
「笑う気のない場所ですら私を笑わせるのだから困ったものだ」
「オレはアンタを笑わせるつもりなんて全くないんスけど」
「そうだったのか。知らなかった」
「ちょっと…」
「これからは極力お前を視界に入れないようにしよう」
「横暴っスよ」
傷が開いてホークアイになんと罵られようと、これ以上笑いを堪えることなんて私にはできなかった。
「傷、痛いでしょ…」
ハボックはあきれるほど、私は笑った。楽しかった。ただ、ただ、楽しかった。私は私の日常のささやかな幸せが確かに戻ってきたことを感じながら、安堵のままに目を閉じた。
私が眠りに付こうとしている気配を感じ取った聡い男が小さな声でごめんなさいと謝った。
本当にそう思うなら、酒臭いリビングの掃除をしておけ、とは言わず、――ただ、ハボックには漠然としたものに謝ってほしくなくて、私は聞こえない振りをしたまま眠りに付いた。
END