+ 遠き街にて +
冷えた水だらいを手にイオスが部屋へと戻ると、粗末なベッドの上に主が上体を起こしていた。
「ルヴァイド様! お体に障ります!」
「平気だ、イオス。聖女と誓約者の癒しはさすがに違う」
その声が思いのほかしっかりしていたので、慌てて駆け寄りかけたイオスも、平静を取り戻すことが出来た。確かに彼の言うとおり、アメルたちが呼び出した聖母プラーマの力は、ほかの召喚師たちとは格が違うようで、あれだけの深手がいまや跡も残さず治っている。しかしまだ体の奥には、根深いダメージが残っているようでもあった。
ルヴァイドはそれを表に出すまいとする様子で、窓からのぞく中庭の緑を眺めている。
「横になってばかりでは、逆に回復が遅くなるからな……」
「ですが、もうしばらくはご無理をなさらないでください。聖女たちもそう言っておりました」
水だらいをサイドテーブルに置き、さっきまでルヴァイドの額を冷やしていたタオルをつける。
手に触れた水の冷たさに、イオスは改めて、今ここでこうして主と言葉を交わしているのが夢ではないと実感した。
振り返れば、狭い部屋の片隅に、ゼルフィルドがいつも通り寡黙に突っ立っている。
目の前には、手傷を負ったものの、こうして話が出来るほどに回復したルヴァイド。
そして、自分。生きている。
「ルヴァイド様、のどが渇いてらっしゃいませんか。水を」
「……ああ」
サイドテーブルの上に水差しはなく、イオスはしばし部屋の中を見回した。
「ココダ、いおす」
ゼルフィルドが棚にあった水差しとコップの盆を差し出してくる。「ありがとう」と応じ、コップに水を注いで主に手渡した。
ルヴァイドは静かにそれを受け取る。
「……すまぬな、イオス」
小さい声でポツリと言った。イオスは突然、泣きたい衝動に駆られる。
もう終わりかもしれない。誓約者と、悪魔に操られたルヴァイドとの間に割り込んだ時、彼はそう思っていた。自分も、ルヴァイドも、ここであえなく散るのかもしれない。いや、そうなるのだ……そんな確信があった。
サイジェントへと向かう船の上で、ルヴァイドの様子がだんだんとおかしくなっているのは気付いていた。思い余って相談したゼルフィルドは「主ノ命令ヲ果タスマデダ」と言うばかりで、これが機械兵士というものか、と失望を味わっただけだった。
そして……その直後だ。ルヴァイドの船室に向かおうと、狭い廊下を一歩、踏み出した時。あの悪魔が目の前にすいと現れたのだった。
本当に主思いの忠臣ですね。そう言って悪魔はにこやかに笑った。イオスには嘲笑としか見えない笑みだった。
ルヴァイドが使い物にならなくなったときのために、あなたには生きていていただかなくてはなりませんが……動き回られると少々目障りなのですよ。
悪魔が言い終わるか終わらないか。いきなり目の前が真っ暗になった。はっと意識を取り戻した時には、船底にひとつだけある牢に放り込まれていた。―――そして外からは、明らかに召喚術と思われる轟音が響いていた。
ケタ違いの魔力が動いている……。
それだけを感じ取り、イオスの背筋は寒くなった。とうとう悪魔の操り人形となったルヴァイドと、サイジェントの誓約者との戦いが始まってしまったのだと直感したのだ。
操られたルヴァイドには、黒翼の騎士と称えられた剣技をふるう力はないだろう。そんな彼が、蒼の派閥の召喚士たちと、サイジェントに住むというエルゴの王を向こうに回して勝つことが出来るのか? さっきの魔力は誓約者の力ではないのか。あの巨大な魔力の前に、なすすべはあるのか。
そしてイオスの直感はすぐに確かめられた。上層からの階段を、ルヴァイドを特に慕う部下たちが血相を変えて駆け下りてきたのだ。
「いた! やはりここだ、隊長はここだ!」
彼らは牢の鍵を壊しながら、青ざめた顔で語った。イオスの予感したとおりだった。ルヴァイドの様子は決定的におかしくなり、コロセコロセとうめくばかりになってしまった。今陸で蒼の派閥の召喚士たちと戦っているが、敵はどうやら凄まじい援軍を得たようで、一撃で大船団のほとんどが壊滅してしまった。撤退を進言したがルヴァイドは聞く耳を持たず、戦場へつっこんで行ったというのだ。
「このままでは将軍が殺されてしまいます。隊長、どうしたら……」
その言葉を最後まで聞かず、こじ開けられた牢の扉をすり抜けてイオスは走った。終わりかもしれない。そう思ったのはそのときだ。ルヴァイドは死に、ゼルフィルドも死に、そして自分も死ぬことになるのだろうと。
……いや、殺させるものか。たとえ僕ら全員が死ぬことになっても、最後までルヴァイド様を守ってみせる。あの人を先に倒れさせることなどあるものか……。そう思い、歯を食いしばって誓約者たちの前へと駆け出した。
「いおす、水差シヲ渡セ」
ゼルフィルドの一声に、イオスは我に返った。今、自分がいるこの場所はサイジェントの一角、蒼の派閥の一行が身を寄せる、誓約者たちの住まいだ。その場所でイオスたちは彼らの庇護を受け、こうして傷を癒している。
持ったままだった水差しを渡すと、ゼルフィルドは機械兵士らしい規則正しい動きでそれを正確に元の位置に置きなおした。改めて実感する。ゼルフィルドも無事なのだ。ゆっくりと時間をかけてコップの水を飲み干しているルヴァイドも、そして自分も。これからも3人でいられる。ともに進んでゆけるのだ。それは本当に、何億に1つの奇跡のように思える。
イオスはベッドサイドの木の椅子に腰をおろし、小さな窓からのぞく青空を少し見上げた。
人が岐路に立つとき、そこには可能性の分だけの平行世界が生まれているという。分かれ道で右に行くか、左に行くか……。右に行くと決めて足を進めたとき、左に進んだ平行世界がどこかで生まれているのだと、イオスはものの本で読んだ。だとしたら、どこかの平行世界では、自分はゼルフィルドを失い、ルヴァイドを失っていたのかもしれない。だからこんなにも、今こうして3人でいることが奇跡のように思えるのだ……。
何かに祈りたい気分になって、イオスはひざの上で小さく指を組んだ。
「どうした、イオス」
ルヴァイドが怪訝な顔をする。
「いえ、何でもありません、ルヴァイド様」
今までどおりです。いつもあなたの傍らにいて、あなたの敵を打ち倒す刃となり、あなたの敵から守る盾としてこれからも生きていく。それを再確認していただけです―――そう、口には出さなかった。
「ルヴァイド様、林檎でもむきましょうか。確かさっき、ここに住む子どもたちが持ってきてくれたはずです」
「いおす」
ゼルフィルドがまた、そばにあった林檎を差し出してきた。「ダガ、ないふハコノ部屋ニナイ」
イオスはうなずいて椅子から腰を浮かせた。
「じゃあ、どこかで借りてこよう」
「ナイフならあるよ。でも、林檎をむくのはリプレに任せてほしいな」
いきなりイオスに応える声があった。開いたままだった扉を抜けて、足音もなく深崎籐矢が入って来る。
黒髪の誓約者は、イオスより年下なのにどこか堂々とした貫禄がある。彼はルヴァイドを見て微笑んだ。
「ああ、起きられるようになったんだね。良かった。ついては相談があるんだけど、イオス、貸してくれないかい?」
は? という表情をルヴァイドはした。イオスもした。平然としていたのはゼルフィルドだけだ。
……唐突に、何の話だ?
「実は今から聖王都に行って、メルギトスをさくっと倒してこようと思うんだ。イオスは無傷なんだろう? 僕たちに同行して、一緒に戦ってほしい」
「……頭数なら足りているだろう」
困惑したようにルヴァイドが応じた。確かに彼らの仲間は、いまや両手両足の指でも数え切れない人数だ。誓約者は当然と言った顔をする。
「まあ、頭数だけはね。でも……正直に言うと、僕らに必要なのは移動力4のユニットなんだよ。召喚専門ユニットは別だけどね。戦士系は4歩歩けないとつらい。具体的に言うと僕についてこれない」
「……随分と現実的な話だな……」
誓約者はごく軽く、ああそうだねと流した。
「そこできみだ、イオス。4歩、ダブルムーブ、不動の精神に槍。素晴らしいよ。イリアスさんの後継者として遜色ない。ぜひ一緒に来てくれ。僕と一緒に魔王の軍団を蹴散らそう」
「ちょっと……ちょっと待ってくれ」
イオスは当惑を隠せなかった。
「僕はここで、ルヴァイド様のお世話をしなくてはならない。まだ完治されたわけじゃないんだ。聖王都まで行って帰ってくるんじゃ、2日3日じゃすまないだろう?」
必死に訴えたが、本当の理由はそれだけではなかった。このフラットに案内され、ようやくルヴァイドが意識を取り戻した瞬間、今まであったはずの闘志のようなものが、イオスの中からすっかり抜け落ちてしまったのだ。今の自分に槍を持ち、敵と刃を交える力はない。そう実感していた。
「勝手なことを言っていることは分かっている。だが……僕はここにいたい。あの悪魔の手のものが、再び襲ってこないとも限らない。そのときにルヴァイド様をお守りするのは、僕と、ゼルフィルドの役目だ」
「イオス……」
ルヴァイドが深い声でつぶやいた。イオスはそちらを振り返り、小さくうなずく。
そう、この人を守るのが、僕の役目。僕の生き残った意味だ。
2人の様子を眺め、トウヤは苦笑する。
「そうか……しかたないな」
うなずき、マントを翻してドアへと向かう彼に、イオスは「すまない」と頭を下げた。
「いや、いいんだよ。気にしないでくれるかい?」
笑って手を振った彼はドアノブに手を掛け、そこでぽつりとつぶやいた。
「せっかく、誓約者の本気をちょっと見せちゃおうかなと思ってたんだけどなぁ……」
へ? という顔で見上げると、黒髪の誓約者はドアノブをまわしつつ、やはり独り言のように言った。
「悪魔王との戦いだし、エルゴの王の本気の本気をちょっと見せちゃおうかな、イオスは初めて見ることになるし、喜んでくれるかな……とか思ってたんだけどな。誓約者の本気の召喚とか、護界召喚士との協力召喚とか、めったに見られるものじゃないしね」
イオスは言葉に詰まった。……見たい。ものすごく見たい。かもしれない。
たしか、一撃でデグレアの船団を壊滅に追い込んだとかいう話だったし……。
「でも、ルヴァイドの看病をしたいというなら仕方がないか……。多分二度と見る機会はないだろうけど。じゃあ聖王都に出発しようかな。そろそろ金の派閥の船の用意も出来てるだろう」
最後まで独り言のように語り、誓約者はゆっくりとドアを開け部屋を出てゆく。
その足音が消えるまで、イオスはずっとうつむき、両手を硬く握り締めていた。
そして、
「ルヴァイド様! 攻撃は最大の防御と昔から申します。あの悪魔を討って、根本から問題を解決することがすなわちルヴァイド様の安全につながるのではないかと僕は思います! ゼルフィルド、ルヴァイド様を頼んだぞ!」
顔を上げるなり立ち上がった。壁に立てかけてあった愛用の槍を取る。
「お、おい、イオス?」
ルヴァイドが引き止めるより早く、移動力4のダブルムーブで、イオスはたちまち部屋の外に消えた。
……いつのまにクラスチェンジした?
動揺するルヴァイドは固まったまま、そして部屋のすみでは相変わらず、ゼルフィルドが寡黙に突っ立っていた。
06.07.07
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