水土里ネットア・ラ・カルト

                                 発行  水土里ネット秋田 北秋田支部
                                              (秋田県土地改良事業団体連合会 北秋田支部)

    
  学校関係者・保護者の皆様へ


 農業・農村は国民の食料の安定供給と国土や自然環境の保全、水資源の涵養、文化の伝承など多面的な活動を通じて地域の発展と生活の安定に大きく寄与してまいりました。これらを支えてきたのが農地であり農業用水利施設であります。
 しかし、現在の農業・農村は、急激な国際化の進展や過疎化・高齢化の進展により大きな課題を抱えております。私たち土地改良区はこのような状況にあっても水と土を整備保全し、美しく豊かな農村を次の世代に引き継いでいくことが、地球規模での課題である食料や環境問題を解決するものと考えております。
 このため、これまで以上に土地改良施設の良好な管理とあわせて、地域住民に期待される新たな役割を積極的に果たす活動として「21世紀土地改良区創造運動」を提起し、更に土地改良区の愛称を「水土里(みどり)ネット」として地域に親しまれる団体を目指しております。
 今回「21世紀土地改良区創造運動」の一環として、北秋田地域の各種農業用施設について、その歴史や役割を紹介しながら土地改良区の役割の一端をご理解していただけるよう本冊子を作成いたしました。未来を担う子供達に、生まれ育ったふるさとの自然・景観など、かけがえのない大切な資源を守り育てる活動に、御活用いただければ幸いです。

平成15年3月
水土里ネット秋田 北秋田支部長
(秋田県土地改良事業団体連合会 北秋田支部)


       〈  目    次  〉

1.土地改良区の歴史
 1−1.土地改良区が出来るまで………………………………1
 1−2.土地改良区の役割………………………………………2
 1−3.これからの土地改良区…………………………………2
2.農業用施設の全て
 2−1.田んぼと水の役割………………………………………4
 2−2.頭首工……………………………………………………5
   2−2−1.米代頭首工……………………………………6
 2−3.揚水機場…………………………………………………8
   2−3−1.鷹巣三堰揚水機場……………………………9
 2−4.ため池…………………………………………………11
   2−4−1.釈迦池………………………………………12
 2−5.用水路…………………………………………………14
   2−5−1.三浦堰………………………………………16
 2−6.排水路…………………………………………………18
   2−6−1.柄沢川・池内排水路………………………19
 2−7.ほ場整備………………………………………………21
   2−7−1.綴子のほ場整備……………………………22
   2−7−2.綴子のパイプライン………………………23
   2−7−3.農村公園……………………………………24
 2−8.農業集落排水事業……………………………………25
   2−8−1.四羽出地区農業集落排水事業……………26
 2−9.農道……………………………………………………27
   2−9−1.向黒沢大橋…………………………………29
 2−10.小雪沢地区小規模水道……………………………31
編集後記……………………………………………………………33
北秋田の土地改良区名簿…………………………………………34

       1.土 地 改 良 区 の 歴 史

1−1.土地改良区が出来るまで

 土地改良区という組織があるのを知っている人は、とても少ないのではないかと思います。農業という言葉は知っていても、今の農業がどのように動いているのかを知らないのと同じように。
 日本が大きく変身をしたのは、やはり明治維新だろうと思います。農業もまた、これを境に大きく変化することになります。強力な軍事力と経済力を持った欧米に対抗するためには、日本もその力を持つ必要があったからです。そのために、豊かで強い国を創ることや新しい産業を興すことをその基本としておりました。その後、日本が戦争を進める中で農業政策に対しても、これまで年貢を取り立てる一方であったものが、食料を確保するため農業に対して国が補助を出す政策へと変化していきます。
 昭和に入るあたりまでは、農村は広大な農地を所有している農家から土地を持っていない農家が土地を借りて耕作する形態をとっておりました。第二次世界大戦後の農地解放により、それまで土地を借りていた農家も自分の農地を持てるようになりました。
 終戦後、日本はアメリカ合衆国に占領されたのですが、その占領下において日本の経済復興が始まりました。それとともに、作物を大量に収穫するために農地の改良工事も進められるようになり、多くの農業用施設が造られました。それにより、維持管理を誰が行うのかということが問題となり、これを解決するために各農家の意見をまとめたり、農業用施設の維持管理を行う組織として、各地に土地改良区が設立されました。
1−2.土地改良区の役割

 大規模な農業用施設が増えるとともに、それにかかる費用や定期点検などの維持管理の内容が複雑多岐にわたり、また、工事をするための地元農家への説明や、工事の施工状況の確認、国や県、市町村との連携が必要となり、現在ではこれらの問題に対処するために、土地改良区が専門の技術と経験を持った職員で対応しております。

1−3.これからの土地改良区

 これまでの土地改良区は、農業を続けていくための環境と、地域の自然環境を整備してきたと言えます。
 しかし、これまでは多くの人達が農業と何らかの関わりがあり、農業の
説明をしなくても農業に対する理解が得られましたが、最近は、農業のことを知らない人の方が多くなり、農作物がどのようにして出来るのかや農村の自然環境が地域の人達の手によって守られているということが理解されなくなってきました。
 それにより、土地改良区の果たしている役割も理解されず、土地改良区の存在さえ知られなくなってきております。
これまでの農業・農村の環境整備は当然継続しなければなりませんが、土地改良区の存在をアピールし、安全で安心な農作物をどう作り出しているのかということを、農業と関わりを持たない人達にも知らせることが、これからの土地改良区の仕事の一部になっていかなければなりません。
       2 農 業 用 施 設 の 全 て

2−1.田んぼと水の役割

 田んぼと水がどのような役割を持っているのか、考えてみましょう。
水が流れる水路は、山や田んぼや家の周りに降った雨を川に流し、田んぼに水が必要な時には、水を供給する役割を持っています。また、田んぼや水路などの水辺は、植物が育ち虫やネズミ・モグラなどの小動物の生活の場となり、水の中は水中植物や生物が生息する場となっています。それに最近は見かけなくなりましたが、子供達の遊び場や洗濯場だったり、スイカを冷やす場所だったりしました。このように田んぼや水路は、いろいろな機能を持っています。ですから昔は、そのような大事な水路にゴミを投げたりすることはありませんでした。
 しかし近年、田んぼに化学肥料や除草薬、防虫剤など化学薬品を投入するようになり、水路で遊ぶ姿も見えなくなりました。また、農業だけを職業とする人も減り、会社勤めと農業をあわせ持つ兼業農家が増加し農村と都市の距離が縮まったこともあって、水辺が生活の場という意識が薄れ、それとともに水路にゴミを平気で流す人も出はじめました。

2−2.頭首工

昔、川から田んぼに水を入れるために川の土手を切り開いて水路を造っていました。川より高い田んぼには、ずっと上流から延々と水路を引いて水がかかるようにしました。しかし、取り入れ口や長い水路の草刈り、泥上げなどをしなければならずその維持管理は大変でした。

そこで、田んぼに水が必要なときは川をせき止めて水を取り、必要がないときには水が入ってこないよう工夫したものを造り出しました。
これを「頭首工」といいます。
昔は川に杭を打ち、板で流れをせき止めるという簡単なものでしたが、最近では大きなゲートを設置したものや、大きな風船のようなものを空気や水でふくらませて川の流れをせき止めるものもあります。


2−2−1.米代頭首工

  大館市の中山というところに米代頭首工がありまこの頭首工は大館市の上川沿地区と二井田地区にある750ヘクタール(大館樹海ドーム約303個分)の田んぼに必要な水を米代川から引くために造られました。この二つの地区は、むかしは別々に水を引いていましたが、昭和34年に洪水の被害にあい水が引けなくなってしまいました。
 そこで、農家といろいろな人たちが話し合いをして、それまで別々だった取り入れ口をひとつにし、新しい頭首工を造ったのです。
これが昭和37年に完成した最初の米代頭首工です。

このときの頭首工は今のような巻き上げ式ゲートではなく、「転倒式」とよばれるゲートでした。
頭首工ができたおかげで水の心配はへりましたが、大雨がふると上流から流れてきた木が衝突したり、土砂がたまるなどして、農家の人たちの苦労はたえませんでした。
 そして昭和47年ふたたび洪水の被害にあい、最初の米代頭首工はその役目をはたせなくなったのです。
現在の米代頭首工が完成したのはそれから5年後の昭和52年のことで、大雨にもビクともしない丈夫な頭首工となりました。
 そして、上川沿と二井田の土地改良区が共同で管理し安定した農業用水の取り入れに大きな役割をはたしています。
ところで、最初の米代頭首工が造られたときに、「逆サイフォン」というものもいっしょに造られました。逆サイフォンとは何でしょうか?それは、高低差を利用して水を移動させるしくみのことです。
 それまで別々だった取り入れ口が一つになったため、二井田地区へ水を引くためには川を横断させなければなりません。
そこで「逆サイフォン」を利用して川の下をくぐらせ、田んぼへ水を引くよう工夫したのです。
 この逆サイフォンは、完成から40年たった今も、二井田地区へ農業用水を運ぶために役立っています。
2−3.揚水機場

 田んぼで使う水は、川や池などから引いてきます。
しかし、川より田んぼが高い所にあるとその田んぼには水を引くことが出来ません。そのような場合、昔はずっと上流から水を引いたり、水車を使ったりしました。
 しかし、近年ポンプが使われるようになると、川からポンプで水を吸い上げて高い所にある田んぼにも、水をかけることができるようになりました。 このような施設を「揚水機場」と呼んでいます。


2−3−1.鷹巣三堰揚水機場

 鷹巣盆地を流れる米代川の北側にある坊沢、鷹巣、太田の田んぼは、今から約300年前から米代川を堰止め、それぞれの堰(用水路)で田んぼに水を入れていましたが、洪水のたびに被害を受け、田んぼに水が入らなくなってしまい大変困っていました。そこで、三つの堰を一緒にし、ポンプで水をくみ上げる揚水機場を造る計画を立て、昭和41年に完成しました。
 揚水機場ができたおかげで安心して田んぼに水が入るようになりました。
ところが、米代川の水(水位)がだんだん少なくなり、ポンプで水をくみ上げることが難しくなってきたことから、もう一度新しい揚水機場を造ることになりました。

 新しい揚水機場は昭和61年に完成しましたが、米代川の水(水位)が少なくなってもくみ上げることができたり、遠く離れたところからでもポンプを動かしたり止めたりできるように考えて造られました。
















 この揚水機場は昔三つあった堰を一つにまとめて作られたことから三堰揚水機場と呼ばれており、1秒間にドラム缶13本分の水をくみ上げることができます。そして、約484ヘクタールの田んぼでこの水が使われています。
(1ヘクタールは縦、横百メートルの広さです。)



2−4.ため池

 田んぼに水が必要なことは、これまで説明してきたとおりです。しかし、川や池などが近くにあってそこから充分に水が取れる田んぼばかりではなく、常に水が不足して不便な田んぼもあります。
  そのような所で農業をしている人達は、米を収穫するまでのあいだ大変苦労します。日照りの時などは、稲が枯れるのを見ているしかありません。そこで、そんな農家の人達が協力して沢水をせき止め、規模の小さなダムを造りました。これを「ため池」といいます。
 このため池には、学校のプールのような小さなものからダムと同じように大きなものまでいろいろあります。また、ため池は水を貯めるという役割だけでなく、昔は冬期間の食料として魚を飼う場でもありました。現在は、大雨のときに下流で洪水が起こらないよう一時的に水を貯めておいたり、自然の動植物の生息地としての役割も果たしています。
 このように、初めは水の安定供給を目的として造られたため池ですが、いろいろな役割を果たす重要なものとなっています。

2−4−1.釈迦池

  大館市商人留から白沢に向かう途中の大沢口という所に釈迦池というため池があります。
 このため池は大館、商人留、釈迦内地区の425ヘクタールの田んぼに必要な水を貯めるために造られました。長木川は昔、佐竹藩によって守られた長木沢の秋田杉(日本三大美林)があり、その美林のおかげでいつも沢山の水が川に流れ、農家の人たちも田や畑で作物を作ることができました。
 しかし、隣町にある鉱山が栄えるようになると、煙害によって水源である美林が次々と枯れ、次第に水不足が発生するようになり、作物も多くとれなくなってきました。
 
そこで、当時の大館町、長木村、釈迦内村の各町村長の間で取り決めの文書をかわし、長木沢国有林を水源とする大茂内川をせき止め、高森山の下に水が通るためのトンネルを掘り、商人留集落に昔からあった「スデ湖」という堤を大きなものに造りかえて水を貯めるため、昭和14年から5年間をかけて「県営長木川用水改良事業第二期工事」という工事が行われ現在の釈迦池が造られました。
 ところが、最初に造られた時は戦争中であったこともあり資金や資材が不足する中で工事が進められたため堤防の一部が未完成のままであったり水路やトンネルも手掘りであったため完成して3年を過ぎた頃から土砂崩れや落石が発生し水が思うように貯まらなくなりました。
 そのため、昭和23年から昭和27年にかけて大茂内川頭首工や水路、トンネルなどを補修し、さらに昭和46年から4年間で堤防の補強や取水装置の改良などを行ったことから、堤防が破れたり水が貯まらなくなるといった心配もなく、いつも安定した農業用水が届くようになりました。
 今ではこの水が田んぼに使われているだけでなく生活用水や防火用水にも利用されています。また、最近では釈迦池を農業のための施設としてだけではなく、周りにある多くの自然環境を生かした憩いの場として市民がいつでも利用できるように、ため池を一周できる散策路や休憩所、駐車場などを造り、公園としての整備が進められています。
2−5.用水路

 ずうっと昔、人間は自然に生えている植物を採るだけでなく、育てることで安定した収穫を得るようになりました。しかし、種をまくだけでは夏の日照りで作物がかれてしまうので、作物がかれないように水をまいて作物が良く育つようにしました。これを「かんがい」と呼んでいます。
 初めの頃は容器に水を入れて運びました。水場から近くて、面積が狭いうちはそれでも良かったのですが、水場から遠くなり、面積も広くなると大変な作業となります。
 その後、大陸から稲が伝わってくるととくに水が必要になり、それぞれの田んぼに水を引くために、農家の人達が大勢出て水路を造りました。よく山のすそ野に大きな水路を見かけます。これは「田越かんがい」と呼ばれるかんがいを行うために造られた水路で、その方法は、高い田んぼから低い田んぼへと、田んぼ越しに順番に水を入れるというものです。また、かんがいのために引いた水路を用水路と呼んでいます。
 田越かんがいでは、上の田んぼの人と下の田んぼの人とで水のやりとりをして、みんなが同じように収穫できるように協力しなければならないことから、人々の結びつきは強くなりました。
 しかし、日照りが続いた時などはいくら調整しても水が足りなくなります。すると、水路のそばの田んぼや昔からあった田んぼには水が入りますが、離れた田んぼや新しく開かれた田んぼには水が入らないため、水争いと呼ばれるケンカになることもありました。
 長い稲作の歴史とともに、かんがいの技術も発達してきました。長い間行われてきた田越かんがいは、田んぼの整備や区画を整理することにより次第に姿を消し、一枚一枚の田んぼに用水路から直接水が引けるようになりました。
 その結果、水争いもあまり聞かれなくなってきました。このように、用水路は長い歴史の中で多くの人々の知恵と汗により造り上げられたもので、今もその大切さは変わることがありません。
2―5−1.三 浦 堰

 大館市二井田地区には、住宅地内を東西に流れている用水路「三浦堰」があります。
 その長さは約2,788mあり、二井田地内を流れる犀川に造られた三浦堰頭首工から水を取り入れ、二井田地区と真中地区の399ヘクタールの田んぼに水を引いています。

【由来と歴史】

 ところで、三浦堰には古い歴史があります。今から約150年前(江戸時代)山本郡鵜川町(今の八竜町)の大地主の家に生まれた三浦八右衛門は、人のためになることをしなければと、この地に来て田んぼと畑を自力でつく作りあ上げました。そして、犀川から水を取り入れるための用水路(三浦堰)を造る計画を立てたのですが、工事に反対する村人が出たり冷害が続き餓えで亡くなる人が出るなど、工事はなかなか進みませんでした。八右衛門は佐竹藩に工事の協力をお願いし、それを引き受けた藩は、6年の年月をかけて1858年(安政5年)に三浦堰を完成させたのでした。
工事を終えた八右衛門はその後、別の土地に移りましたが、八右衛門の住んでいた土地を「三浦」と呼ぶようになりました。 これが現在の三浦集落のはじまりであり、八右衛門が造った用水路を「三浦堰」と呼び開拓された田んぼを「三浦水田」と呼ぶようになりました。
現在、三浦堰頭首工のある堤防沿いには地域の人たちが植えた桜並木があり春には満開になります。また、三浦堰にはアユやウグイなどの魚も泳いでおり、夏の夜にはホタルも見かけられます。
 この三浦堰を流れる水は、わたしたちが毎日食べているお米を作るために必要なだけではなく、火災が発生した場合の防火用水としても利用するなど、生活していくうえで欠かせない大切な役割を果たしています。
2−6.排水路

 田んぼにはたくさんの水路がありますが、その水路は、用水路と排水路
の2つの役割に分けられています。ここでは排水路について説明します。田んぼに水がなければ、稲は育ちません。ところが、水が入ったままでは根が腐ってしまいこれまた稲は育ちません。春早く田んぼの土を起こす「耕起」という作業から始まって「稲刈り」まで、農家の人は田んぼに水を入れたり乾かしたりしています。これは稲の生育状態に応じて水を管理しなければ多くの収穫を得ることができないからです。
 田んぼにいくら水が入っても、水の抜けにくい田んぼはなかなか乾かず収穫作業などに苦労します。また、用水路だけでは、家庭から排出される雑排水やゴミが流れ込み水が汚れるため、排水路が造られるようになりました。
 現在は、田んぼの排水や家庭からの雑排水は排水路に流れ、稲の生育に影響がないようになっています。しかし、だからと言ってゴミを捨てたり水を汚したりしてもいいというわけではありません。排水路は川につながり、それが水道水となって私たちの生活の場に戻ってくるのですから。

2−6−1.柄沢川・池内排水路

 大館市上川沿地区の農家の人たちをはじめ、農家以外の住民にとっても欠かせない大切な排水路が「柄沢川排水路」と「池内排水路」です。
区別して呼ばれていますが、これらの排水路は途中で合流し、米代川へと続きます。
この二つの排水路は、昔から地区の田んぼの排水や家庭から出る生活排水などを川へ流してきました。
 しかし、手掘りの水路であるため水の流れが悪く、農家の人たちが草刈りや泥上げなどの手入れをしても、大雨のたびに水があふれて稲や畑の作物が水浸しになり困っていました。
 右の写真は、昭和62年7月の大雨で増水した柄沢川排水路です。水路いっぱいに水が流れ、田んぼが水浸しになっているのが解ります。

 このような被害をなくそうと、土地改良区が国や県、市に働きかけ、昭和59年から8年がかりで整備されたのが現在の柄沢川排水路です。
 水路が大きくなって水の流れが良くなったほか、洪水調節が出来るようにゲートが設置されました。
 もう一方の池内排水路は、平成6年と平成8年の大雨の被害をきっかけに整備されました。とくに、平成8年の大雨のときは、農業への被害 だけでなく道路や住宅地にも水があふれ出し、鉄道の線路も崩れるなど大きな社会問題となりました。
(そのときの様子が下の写真)
 そこで再び、土地改良区が中心となって排水路の整備を働きかけ、平成10年から4年間の工事で完成したのが現在の池内排水路です。整備された排水路は土地改良区が管理し、地域の人たちは今までより安心して農業を営み、生活出来るようになりました。
 さまざまな排水が流れ込み地域における役割がますます大きくなっていますが、一方で、年々捨てられるゴミが増えているため管理も大変になってきています。
あらゆる人たちの生活に欠かせない大切な排水路を地域みんなの手で守りましょう!まずは、ゴミを捨てないことから・・・
2−7.ほ場整備

 昔の農地は今のように四角なものではなく、いろいろな形をしていました。また、大きさもまちまちで農作業を人や馬、牛などで行っているうちは良かったのですが、機械が導入されるようになると、形の整っていない小さな田んぼでは、機械作業のできない場所が多くなりました。
 これを解消するため、ほ場整備という工事を行い、同じ大きさの長方形の田んぼが造られるようになりました。最近では、一枚の田んぼの大きさが1ヘクタール(10,000u)以上の田んぼが造られるようになってきています。


2−7−1.綴子のほ場整備

 鷹巣町綴子地区の昔の田んぼは、曲がりくねった小さな田んぼばかりでそこには農道も水路もありませんでした。
そのため、農作業にたいへん苦労していました。そこで、農家の人達が相談し、昭和27年から4年間をかけて区画整理事業を行い、長辺54m、短辺18mの10アール(1,000u)に整備し、農道や用水路を通して作業のしやすい四角い田んぼを造りました。
 その後、機械の大型化が進むにつれて、その田んぼも狭くなって作業がしづらくなりました。
そこで、もっと大きな田んぼと道路や水路を造るために、平成3年から9年間をかけて秋田県では初の大区画ほ場整備事業を行い、長辺200m、短辺50mの1ヘクタール(10,000u)の田んぼに造り替えました。
 このことによって大型機械が動き回れるようになり、作業がしやすくなりました。

2−7−2.綴子のパイプライン

 田んぼにはたくさんの水が必要です。田んぼに入れる水路を用水路と言いますが、綴子地区ではパイプライン方式を採用しています。
パイプライン方式とは、用水が地下のパイプを流れていて田んぼ一枚毎に水が入るようになっているものをいいます。











それまでは水路の泥上げや草刈りとか水の管理に農家の人は大変苦労していましたが、パイプラインが出来たことにより、田んぼには給水栓という水道の蛇口のようなものが付けられ、これをひねるだけで田んぼに水が入るようになり、水管理が大変楽になりました。
これにより、農家の人達は安心してお米を作ることができるようになりました。

2−7−3.農村公園

 農家の人達の生活は田んぼと深い関わりを持っており、ほとんど毎日田んぼへ出かけます。農作業の合間に一休みしたり、他の人達と交流したりする憩いの場所として農村公園が造られています。

【 綴子農村公園 】

 綴子地区には、車に乗ってちょっと寄ることのできるように駐車場を備えた公園があります。この公園には水洗トイレも完備されるなど、大変きれいに整備され農家の人達に広く利用されています。土地改良区では、大勢の人達が気持ちよく公園を利用出来るように、草刈りやゴミ拾いなどをして、いつもきれいにしています。


2−8.農業集落排水事業

 私たちの家庭からはトイレ、台所、風呂場などから出される生活排水(汚水)があります。これらの生活排水を、処理場という施設に集めて、きれいな水にして水路や川に戻すことによって、安全でおいしいお米や野菜などを作るために必要な水が確保できるだけでなく、農村に暮らす人達の生活を豊かで快適なものにしてくれます。このための事業を農業集落排水事業といいます。
【家庭から処理場までの生活排水の流れ】
 下の絵のとおり、家庭から出た生活排水は排水管や下水道管を通り、最後に「処理場」へと集められます。

 処理場で、きれいな水に生まれかわり、農業用水などに再利用されます。
また、家庭ではトイレが水洗化になり、清潔で快適な生活をおくることができます。

2−8−1.四羽出地区農業集落排水事業

 大館市四羽出地区では223戸の家庭を対象に農業集落排水事業を行い平成14年度で事業が完成、平成15年4月から処理場の運転を開始する予定です。



【特徴のあるマンホールのふた】

 四羽出地区の「マンホールのふた」には、国の天然記念物である「秋田犬」が描かれています。このように、よその地域でも、自分たちの町や地域にかかわりのあるものを描いたふたが使われています。

2−9.農 道

  皆さんは「農道」という言葉にどんなイメージを持っていますか? たぶん多くの人が「せまくて、デコボコだらけの畦道」というイメージを持っているのではないでしょうか。たしかに昔はそうでしたし、今もそのような農道がたくさんあります。
 昔の人は、農作業を行うために牛や馬を使いました。また、米や野菜などの農作物を運ぶのにも馬車やリヤカーなどを使っていたため、道幅がせまくても良かったのです。もちろん、道路を舗装する技術もなかったので砂利をしいて歩いていました。
 しかし、時代が進むにつれて環境が大きく変わり、それとともに農道の整備が進みました。その農道を管理しているのが土地改良区です。
 では、農道が整備された理由は何でしょうか? それは二つあります。 一つ目は、農業の機械化と農業機械の大型化です。 牛や馬から、トラクターやコンバインなどを使った農作業へと変わり農作物の運搬にはトラックが使われるようになりました。せまい道では機械や車が通れず、思うように作業ができないため、まずは道幅の広い農道が整備されました。

 二つ目は流通の確保です。わかりやすく言うと、安全できれいなおいしい農作物をいかにして皆さんの食卓まで届けるかということです。
デコボコの道路だと、運んでいる途中、野菜や果物が振動でつぶれたりキズがついたり、ひどいときは荷台から落下することもあります。すると農家の人たちは大事な農作物が売れなくなり困ってしまいます。
また、舗装されていない農道を車が走ると砂ぼこりがたちます。
そのため、農作物を保護し、たくさんの量を安全に運ぶには広いだけではなく、舗装された農道が必要となり整備されたのです。
その結果、農村の周りにたくさん家が建ち、商業施設あるいは学校、公民館などの公共施設が作られて農村と街の区別がなくなってきました。そのため、農業のための農道から人々の生活に必要な農道へと変わってきたのです。
 このように、農道は現代の農業と私たちの生活に欠かせないものであることがよく分かったと思います。ふだん何気なく農道を使っている私たちですが、これからはそのことを少しだけ頭において、大切に使いましょう。
2−9−1.向黒沢大橋

 この橋は平成4年に完成しましたが、農業のためにつくられた橋としては秋田県で一番大きな橋です。橋の長さは257m、幅は8m75pもあり歩道もついています。
また、この橋は鷹巣町の東側にある向黒沢集落の近くに造られたことから向黒沢大橋と呼ばれています。
この橋はみんなに親しんでもらうためユニークな工夫がされています。
まず、両端にある4本の親柱には大太鼓の里にふさわしく太鼓をレイアウトしています。

 また、歩道側の欄干にはポスターコンクールで特選となった綴子小学校の生徒の作品が3箇所にはめ込まれています。
この作品には、綴子の大太鼓と大館能代空港から飛び立つジェット機が描かれています。
更には鷹巣町がシンボルとしているヒマワリの花の絵が2箇所にはめ込まれています。
向黒沢集落では、昔は渡し舟を使って学校に行ったり、米や野菜などを運んだりしなければならず大変な苦労をしていましたがこの橋ができたおかげで人は勿論、大きなトラックや機械が簡単に通れるようになり、とても便利になりました。
2−10.小雪沢地区小規模水道

  県道樹海ラインを小坂方面に向かう途中に雪沢という地区があります。
その地区には十一の集落がありますが、その集落の中に小雪沢というところがあり、その集落では地面の下が岩になっているため、井戸を深く掘ることができず、飲み水や育苗、農業機械を洗うための水など、毎日使う水に大変苦労していました。
 そのため、近くの山から出る湧き水をそれぞれの家に引いて使えるよう、昭和37年に工事を行い、家にいて水が使えるようになりました。
ところが、年が経つにつれ施設が古くなり、ひび割れや湧き水の量が前に比べ出なくなってきたので、現在の水の取り入れ場所から3kmほど上流の国有林に水源かん養地帯があることから、そこに取水施設を造りそれぞれの家までパイプで持って来る計画を話し合っていました。
 ちょうどそのころ、ほかの集落では道路が狭かったり、田んぼに水が届かなかったり、雨がふったとき水が流れなかったり、集会所や公園がないなどさまざまな問題をかかえ、それぞれの集落で話し合いが行われていました。

 そこで、集落の代表が集まりそれぞれの集落で問題となっているものを一体的に整備しようという話し合いが行われ、平成6年から5年間をかけて「雪沢地区中山間地域農村活性化総合整備事業」という名前で工事が行われ、小雪沢でもこの事業の中で簡易水道工事が行われ、現在では安全で衛生的な飲み水や育苗のための用水農業機械などを洗う水が沢山使えるようになりました。

            編 集 後 記 (編集委員 6名)

 今回、小学生の皆さんに数多くある施設の中のほんの一部しかご紹介できないのが残念ですが、この冊子を通して色々な施設が少しでも理解され、身近な施設として大切にしていただければうれしく思います。
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 21世紀の主役となる皆さんに、土地改良区が果たしている役割や水の大切さなどを紹介できてうれしいです。もっといろんなことを知りたいとか施設を見学してみたいときは、ぜひ土地改良区まで連絡ください。
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 「水・土・里」の大切さを理解し、皆さん一人一人が、これを守る地球防衛軍の隊員になってくれたらうれしいです。
それともう一つ、みんなもっとたくさんお米を食べてくれたらうれしいなぁ・・・。
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 どうしてそんなに土地改良区のこと知ってるの?
だって「水土里ネット ア・ラ・カルト」みたもーん!
こんな会話が聞こえてきたら最高にハッピー。
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 地域の子供達に広く土地改良施設の役割を理解いただき、保護者や一般の方々に土地改良区の役割またその施設の大切さをご理解いただければ幸いに思います。
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 私たちの暮らしの成り立ちに、欠く事のできない水や土。その恵みの活用と保存。本誌の編集に参加する事で、土地改良区の役割の大切さを考えさせられました。私たち自身も、美しい自然を守る気持ちを忘れないようにしましょう。
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