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第21回 『卒業旅行』その5

南紀卒業旅行 epilogue

回の南紀の旅はきっと私にとって最後の南紀の旅になると思い、できるなら卒業旅行と同じ頃の季節にと考え、3月下旬に行くことにしていました。4日間晴天が続き、天気に関しては文句のつけようがありませんでした。この旅の全体の2/3は思い出の旅、残りの1/3は卒業旅行で立ち寄れなかった場所を巡る旅になりました。
 行程は前回にも書きましたが、新宮でレンタカーを借り、まず十津川村にある谷瀬の吊り橋に向かいました。新宮から谷瀬の吊り橋まで国道168号線を83km北上、1時間30分程度の移動時間でした。生活用鉄線としては日本一長い谷瀬の吊り橋は、20年前までは歩道吊り橋としてはずっと日本一だったのですが、最近は観光用の吊橋が多くでき、その座を明け渡しています。それでもまだ全国第5位の長さです。ゴルフラウンドのついでに、茨城県の大竜神吊橋も行ってみましたが、観光用吊橋は一度渡れば(or 見れば) no, thank you です。日常生活に密着し、素朴で、それでいて恐怖心のある田舎吊り橋を、子供のころからずっと好きなのです。今年の12月に、大分県の九重“夢”大吊橋を抜いて、歩道吊橋日本一になる観光用三島大吊橋が、国道1号線を箱根峠から三島方面に7km下ったところに完成することを知っていましたか。私自身は自分の意思で行くことはありませんが、観光用吊橋に興味があり、少しスリル好きな人にはお勧めです。景色も富士山と駿河湾が見えて、そこそこのようなことが書いてあります。ところで、マニアは観光用つり橋は「吊橋」、田舎の生活用つり橋は「吊り橋」と区別していることに気付いてくれましたか。
 確かにこの谷瀬の吊り橋はスリル満点でした。下向橋の数倍の恐怖感を抱きました。高さは50mで床板は20cmの板が4枚敷かれてあるだけで、眼下の十津川は見たくなくても目にはいります。また、300mの長さがあるので、おとなしく歩いているだけでもよく揺れるのです。生憎その日はやや強めの毎秒数mの風が吹いていたので、自分が動いていない時でもぐらぐら揺れていました。揺れ具合の動画をネットで見つけましたので興味のある人は見てください。 http://bunkabito.jp/magazine/article_tsuribashi/vol_0019/index.html

 谷瀬の吊り橋を渡った後に、駐車場のおばちゃんと少し話をしました。やはり恐怖のあまりに尻込みする人はかなりいるようで、せっかくここまで来たのだからと恐る恐る渡って行く人と、やっぱり駄目だと渡らずに帰ってしまう人もそこそこいるようなことを言っていました。「この吊り橋から落ちて死んだ人はいないんですかね?」と尋ねたら、今までに酔っぱらって渡っていた人の落下死が一件あったという話です。そして現在の橋に架け替えられる前の古い吊り橋の時(現在の橋より、もっと揺れたようです)の話ですが、何人かの登校中の小学生が橋を渡っていた時、強風で橋がひっくり返り、ロープにしがみついていた小学生を村人みんなで助けたという話も聞きました。谷瀬の吊り橋を目の前にしてその話を聞いた時、救助されるまでの小学生たちの恐怖はどれほどのものだったのか、あまりにもリアリティーに想像できてしまい、聞いているだけで身の毛のよだつほどでした。
 来た道を熊野本宮大社付近まで50kmほど南下し、そこから熊野古道中辺路にほぼ平行に走る国道311号を60km西走しました。休憩を入れても2時間ほどで次の目的地の白浜に着き、まずアドベンチャーワールドに寄ることにしました。「白浜には行ったが、アドベンチャーワールドには行かなかったよ」と言うほどの偏った人間と思われるのも癪で、パンダ7頭とイルカのショウは見てきました。アフリカなどで本物のサファリ経験がありますので、他の動物たちへの御挨拶はパスさせてもらいました。シニア入場料金と駐車場代で6000円ですから、このコスパの判断は難しいものがありました。
 誕生して3カ月の双子の赤ちゃんパンダを、ガラス越しではありましたが公開していましたし、イルカ、クジラのアトラクションもかなり高度なパフォーマンスでAランクでした。公共娯楽施設と違い、民間のサービス精神はスゴイなと感心しました。南紀旅行で一番人が多かったのはこのアドベンチャーワールドで、平日にもかかわらず駐車場は満杯で、土産物売り場は長蛇の列でした。家族4人(大人2人、子供2人)の入園料だけでは約15000円ですが、それに入園後のパンダラブツアー、イルカと遊ぶオプション、サファリ用カートレンタルなど園内での有料出費もかなりあります。1家族で丸一日遊び、有料のアトラクション参加やカートなどの使用料をいくつか加わえ、それに土産、食事代などを含めると、50000円は楽に使ってしまうかもしれません。
 私は2〜3時間くらいの見学で次の目的地に向かいました。実はこれが今回の旅の第1目的でした。円月島です。マニアでなければ海沿いの道をドライブしていてその島に気付いても、「ちょっとおもしろい島だね」と言う程度で、通り過ごしてしまう島です。しかし、その島がその日は特別の島になるのです。夕陽がその島の真ん中に空いている穴に沈んでいく日だからです。上空の空には雲ひとつないのですが、朝日と夕日は快晴であっても、地平線、水平線にある遠くの雲が邪魔をして、水平線に沈む前に太陽が消えてしまうことがよくあります。こればかりはあとは運任せです。
 車を駐車場に入れ、白良浜を散策し、紀伊水道の水平線の遠くの雲を心配しながら、海岸沿いの道を1km先のヴューポイントへと歩いて行きました。日の入り時間30分前時点では太陽の周りに雲はありません。私がネットで調べたポイントに近づくと、そこにはすでに数百人のマニアが待機していました。ついに太陽が島に隠れました。いよいよ穴から太陽が顔を出してくれるかどうかです。みんな固唾をのんで待っています。3分、5分…、みんな無言です。親しくなった隣のおっさんは前日も来ていて、その写真を見せながら「今日もダメなのかな」と呟きました。その瞬間です。夕陽がその穴の間から顔を出しました。歓声が上がりました。完全には丸い形で水平線に沈みませんでしたが、自然観察マニアでもある私自身も大満足の光景でした。


 ここからは、白浜⇒串本⇒太地⇒那智勝浦⇒那智の滝⇒新宮を通過して熊野市⇒そして新宮へと戻るコースです。この間の走行距離は170kmありました。卒業旅行で立ち寄った場所は前回書きましたので、今回は新たに立ち寄った場所についてだけ書いていきます。
 潮岬を見学したあと、大島に向かいました。「♪ここは串本 向かいは大島 中をとりもつ 巡航船」(串本節)に出てくる紀伊大島です。1999年に全長700mの「くしもと大橋」ができ、今では車でも行けるようになっています。海金剛の景観と樫野崎灯台、トルコ記念館に立ち寄りました。海金剛は自然の造った険しい断崖と海面に荒々しく切り立つ巨岩が数km続く海岸線です。樫野崎灯台は紀伊大島の先端に立ち、日本最古の石造りの灯台で今でも活躍しています。潮岬灯台と同じくらいの光達距離(約35km)を持っています。

 トルコ記念館に立ち寄ったのは、子供の頃に知った(何で知ったかは忘れました)「エルトゥールル号の遭難事件」のことが今までずっと頭にあり、その場所を見てみたかったからです。とてもいい話ですから、詳しく書かせてもらいます。
 1890年にオスマントルコ帝国の使節団(総勢650名)がエルトゥールル号に乗って来日し、明治天皇に拝謁した後帰国の途中、大島沖で台風に遭難、座礁して沈没しました。夜の九時頃です。灯台守が真っ暗な海のほうから風と波をつんざくその爆発音をはっきりと聞きました。それはエンジンに海水が入り大爆発した音でした。灯台守は強い嵐の中、人が一人やっと通れる細い真っ暗な夜道を、樫野(当時50件ほどの小さな村)に向かって知らせに駆けだしました。
 それを知った大島村樫野の村民は、総出でエルトゥールル号の船員を救助し生存者の介抱に当たり、台風により出漁できず食料の蓄えもわずかだったにもかかわらず、住民は浴衣などの衣類、卵やサツマイモ、それに非常用のニワトリまでも供出するなどの献身的な救護に努めました。結局69名が救出され生還することができたという話です。さらに素晴らしいことは、助けられた船員は軍艦比叡と金剛でイスタンプールへ送り届けられました。
 今日でもトルコは毎日のように日本に関する報道をしていて、「世界でいちばん好きな国は?」という世論調査では、いつも日本が1位になっている親日国です。イラン・イラク戦争中の1985年、サダム・フセインが「今から48時間後に、イランの上空を飛ぶすべての飛行機を撃ち落とす」という無茶苦茶なことを世界に向けて発信しました。世界各国はすぐに自国の救援機を出して救出していたのですが、日本政府は素早い対応ができず、その頃テヘラン空港にいた日本人はパニック状態になっていました。そこに2機のトルコ航空の飛行機が到着しました。日本人216名を乗せて成田に向けて飛び立ったのは、タイムリミットの1時間15分前のことでした。この行為に対して駐日トルコ大使は「エルトゥールル号の借りを返しただけです」と淡々と述べたそうです。ちなみに、2002年の日韓ワールドカップの際、トルコ代表はユニホームを和歌山県串本町に寄贈したということです。
 串本駅から太地方面に2km北上したところに橋杭岩があります。卒業旅行の時は車窓から眺めただけでしたが、今回は橋杭岩の近くに「道の駅」があり、30分ほど立ち寄って、陸地から850m海に突き出ている奇岩を間近でじっくり見てきました。まさに奇岩の数珠つなぎという印象でした。ここから先は、卒業旅行で廻った思い出の地の確認ドライブをし、予定を変更して新宮でレンタカーを返却しました。


 延約400kmのドライブをして感じたことは、今年の秋に「紀の国わかやま国体」が開催されることもあり、道路はいたるところで整備され走りやすかったことです。4年前の台風の被害で、国道などの主要道の多くが崖崩れなどで寸断されてしまったことへの復興事業もあったのかもしれません。いずれにしても、特に山間部の道路は30年前よりかなり良くなっていました。
 まだ、今回初めて訪れる地として新宮市の「神倉神社」、熊野市の「花窟神社」の2か所が残っています。残された時間を考えると、神倉神社へ続く急勾配の538段の石段を登っていると、熊野市にある鬼ヶ城と花窟神社に立ち寄ることができなくなる可能性がありました。そこで、神倉神社を泣く泣くパスすることにし(本当は最終日で疲れがたまって、体力不足もあったのです)、前述のように帰りの特急「南紀」を熊野市から乗ることに急遽変更し、新宮から熊野市へは鈍行で向かいました。
 花窟神社は平地にありますが、熊野市駅からは鬼ヶ城とは南北正反対にあり、鬼ヶ城見学の後に寄りしました。この神社には今日に至るまで社殿はなく、熊野灘に面した高さ約45メートルの巨岩である磐座(いわくら)が神体です。明治期まで神社というよりも墓所として認識されていました。神体の巨岩の上から2本の太めの縄を境内南隅の松の神木に渡し、その太めの縄にやはり縄で編んだ3本の「三流(みながれ)の幡(はた)」が吊るされているだけというとても素朴な形に心情的共感を覚えました。ちなみに、この巨岩は「陰石」で、新宮市の神倉神社の神体であるゴトビキ岩の「陽石」とで一対をなし、熊野における自然信仰(巨岩信仰・磐座信仰)の姿を今日に伝えているということに関心を持ち立ち寄ることにしたのですが、日本古代の自然崇拝の原型を肌で感じ取ることができました。
 花窟神社から国道42号線を挟んで東側に七里御浜という約22Km続く長い砂礫海岸があります。熊野灘に面した小石と砂からなる平坦な美しい海浜で、熊野市駅への帰り道に待ち時間の調整をかねて歩いてきました。パンフレットには小石の上を歩くことは足の裏のつぼを刺激して健康にもよいと書いてありました。また、アカウミガメの産卵地としても知られているようです。
 それにしても、どうして日本の観光地は日本一という言葉をやたらに付けたがるのでしょう。最近は「世界遺産」という冠をつける観光地も多く見かけます。この2つの社も一番古いと書かれています。神倉神社は「128年頃に創建された」と、花窟神社は「日本書紀」にも載っていると、パンフレットには書かれています。未だに邪馬台国がどこにあったのか確証できていないというのに、卑弥呼より古い時代のことや、「日本書紀」に書かれていることだけで、どこまで信じてよいものかという気持ちがあります。史跡にしても、景色にしても、「いつから存在する」とか「日本一」とかということより、訪れた人が何かを感じ取ってくれるという個人の心象のが大切だと思うのです。
 卒業旅行に参加した卒業生の一人が、「詳しいことはみんな忘れてしまいました。ただ、楽しかった想い出だけは強く残っています」と言っていました。参加者一人ひとりの脳裏に、それぞれに特別の思い出が焼き付いてくれていることが、私の喜びです。それが仲間との若き日の旅です。私には参加者全員と共有したグループ全体の思い出が中心になりますが、それでも生徒個々との思い出もあり、卒業旅行は塾全盛の頃の懐かしい思い出のひとつになっています。皆さんもこれから旅を愛する人になってください。人、生命、自然、歴史。地球は素晴らしいです。旅の経験は人生の意義を考える上でも大きな意味を持つものだと思っています。

   
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