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第20回 『卒業旅行』 その4

南紀卒業旅行 tourist spots

きなりですが、「南紀」とは一体どこを指しているのでしょう。つまらないことですが、昔から考えていました。ガイドブックや旅行会社のパンフレットもまちまちです。一般的には和歌山県の南部、紀勢本線では田辺市から新宮市の間としているのが一般的のようですが、私の認識はそれに熊野市、瀞峡辺りまでを加えたカテゴリーを南紀としています。今回そのコースをレンタカーで走ってみて、紀伊半島の南部(南紀)は効率よく一周できることを体験してきました。



 その範囲の中での観光名所といえば、次のようなところになります。☆印は卒業旅行で多くの学年(期生)が訪れています。※印は期生によって行ったり行かなかったりしているところです。
 本宮町 2005年に近隣市町村と合併し、現在は田辺市本宮町
      (☆熊野本宮大社 大斎原 ※熊野古道中辺路
      ※川湯・湯の峰温泉)
 和歌山、三重、奈良の県境(☆瀞峡)
 白浜町(アドベンチャーワールド 円月島 白良浜 三段壁)
 串本町(☆潮岬 ☆望楼の芝 海金剛 樫野崎灯台 ※橋杭岩)
 太地町(☆くじらの博物館 ※太地熱帯植物園)
 那智勝浦町(☆那智山青岸渡寺 ☆那智の滝 ☆熊野那智大社
      大門坂 紀の松島)
 新宮市(※熊野速玉大社 神倉神社)
 熊野市(☆鬼ガ城 ※獅子岩 花の窟神社 丸山千枚田 ※新鹿)
 30年前の白浜町は紀伊半島唯一の飛行場があるだけで、見るべきものもこれといってなく、串本から特急に乗っても往復2時間かかり、そこからバスに乗り換え、観光時間を入れると5時間近くの時間を取られ、どの学年も行っていません。一方、松阪市(☆本居宣長記念館 ☆松坂城跡 ☆御城番屋敷)は南紀の範疇には入りませんが、必ず帰路で途中下車していました。
 上記の表の中に観光地ではないのですが、ほとんどの参加者が覚えているだろうスポットがあります。そうです。あの吊り橋です。どういうことからその吊り橋に寄ることになったのか、連れて行った本人も忘れています。おそらくですが、何かで吊り橋の存在を知って、熊野本宮大社の見学だけでは時間が余ってしまうので、度胸試しに吊り橋にでも連れて行こうと思ったのでしょう。しかし、生徒たちには思いのほか人気で、それ以降ずっと続きました。
 橋の長さは250mくらい、幅は180cmくらい、高さ20mくらいで、橋床は網目の鋼鉄製で下を見れば川面は見えてしまいます。吊り橋としては頑丈にできているほうでしたが、200m以上も離れている2本のタワーの天辺から張り渡されたケーブルに支えられているだけですから、橋床の前方は波打って見え、歩けば左右に揺れます。高所恐怖症で向こう岸に渡れない生徒もいました。その怖がっている生徒をからかって喜んでいる悪趣味の生徒もいました。



 ある学年の時、橋の真ん中あたりを渡っている時、向こう岸から軽トラが侵入して来たのです。これにはみんなびっくりです。時速15Km前後で走っている1トン近い軽トラが近づいてくると、橋床は波のように揺れ、ちょうどサーフィンをしているような感覚で、しかも通過する際は端に寄らなければなりません。テーマパークの乗り物よりスリルがありました。実は、この吊り橋は橋向こうの集落の生活道路だったのです。今思うと、軽トラの運転手さんのほうこそ、キャーキャー言って渡っている集団に驚いたに違いありません。
 今回の旅はこの吊り橋から始まりました。残念なことに、その吊り橋は今はありません。立派な近代的な橋梁に変わってしまっています。当時、その橋の名前を知りませんでしたが、新しい橋梁には「下向橋」とありました。これからはあの吊り橋を「下向吊り橋」と呼ぶことにします。
 せっかく南紀に行き、しかもこれから死ぬまで行けない確率も高いのですから、吊り橋だけでなく他の観光名所もいくつかは覚えてくれているのでしょうか。卒業旅行で訪れた中では、那智の滝、瀞峡、熊野本宮大社、潮岬、鬼ガ城が、一般的な「南紀TOP5」だと思っています。それでは、卒業旅行で訪れた観光名所の今の姿と道中の感慨を、今回私が巡って行った順に綴っていきます。
 下向吊り橋の次に、そこから1km程しか離れていない熊野本宮大社に向かいました。サッカー協会のマークとして図案化された三本足の鳥・八咫烏(やたがらす)の出生地として知られ、特に1987年から日本代表の公式ユニフォームのエンブレムに採用されてからは、一躍有名になりました。日本に初めて近代サッカーを紹介した中村覚之助の出身地が熊野地方であったため敬意を表し、1931年にはもう採用されていたという話です。卒業旅行当時は「何だ!この三本足のカラスは…」という程度の関心しかありませんでした。八咫烏は熊野三山の神の使いとされているカラスで、熊野三山のどの神社の授与所(お守り、神符、木札などを置いてある所)は、「やたがらす」のお守りだらけでした。サッカーファンではありませんが、私も記念に買いました(笑)。
 熊野本宮大社の建物(拝殿)と参道は昔の雰囲気のままでした。日本の神社の中では、もし神様がいるとするなら、一番いそうな佇まいだと思っています。しかし鳥居前の国道186号線は倍ほどに拡張され、道路の反対側は大きく変わってしまい、昔の面影は全くありません。野球をしてバスの待ち時間を潰していた熊野川の河原も、とても広い駐車場になっていました。国道186号線からその熊野川の河原の間は田んぼだったように記憶しているのですが、そこには世界遺産熊野本宮館という建物ができ、またその300m南側には日本一高いと言われている高さ34mの大鳥居ができています。
 1889年まで熊野本宮大社は「大斎原(おおゆのはら)と呼ばれる熊野川の中洲にあったのですが、その年の8月の大水害が本宮大社の社殿を呑み込み、社殿の多くが流出したため、現在の場所に遷座されたそうです。神が舞い降りた場所ということで、近年のパワースポットブームから若い女性が多く訪れるようになったそうです。
 挿入熊野川の支流である北山川上流にある瀞峡も素晴らしい景観で、36件ある国特別名勝のひとつになっています。吉野熊野国立公園内の奈良・三重・和歌山県にまたがる大峡谷で、その幽水美は古くから知られ、その自然の芸術に圧倒されます。瀞峡はいくつかの瀞に分かれていて、特に下瀞は巨岩・奇石が並び荘厳で美しく、親しみをこめて「瀞八丁(どろはっちょう)」と呼ばれてきました。ウォータージェット船から見上げる断崖・奇岩の連続は圧巻です。外国の景色に比べると壮大さは劣りますが、盆栽やジオラマ好きな日本人向きの景観といえます。今回で10回目くらいになりますが、今回が天気の一番でした。
 南紀の中で潮岬は異色の観光地といえます。高さ40mを超す海食崖の上の平坦な隆起海食台地には約10万uの芝生の大広場があり、眼前には緩やかな弧をえがいて紺碧の太平洋が広がり、地球が丸いことが実感できます。快晴の冬のある時期、水平線から昇った太陽が同じ水平線上に沈んでいくという珍しい光景も見ることもできるそうです。あの明るく開放的な立地は、南紀の他の観光地とは一味違うと感じています。
 本州最南端の地・潮岬は、白亜の灯台、円筒形の観光タワー、広々とした望楼の芝は、昔と全く同じでしたが、ただ1か所だけ大きく変わっていました。2014年に最南端にあった「休憩所」(石段のところで記念写真を撮った場所)は老朽化して、新たに「本州最南端 潮風の休憩所」としてオープンされていました。石碑も昔からあった「本州最南端」の碑に「日本地図の入った碑」が新たに加わり2基になっていました。



 太地の「くじら博物館」の外観は昔と全く変わっていませんでした。入場料が大人1300円だったので館内には入らないことにしました。見るものといったら例のあの巨大○○○しかありませんし…(笑)。その分、近くの食堂でおいしい生の鯨肉を食べました。美味しかったです。それにしてもそんなに入場料高かったかなー。
 くじら博物館の近くにあった熱帯植物園のほうは閉園されていて、和歌山県警の駐屯所(?)のような看板が掲げてあり、敷地内は荒れているように感じました。その先が宿舎にしていた「白鯨」になります。博物館と宿舎までの距離は600mくらいしかありません。鯨浜公園桟橋から勝浦観光桟橋までの船の運航は今でも続いています(1日6便)。
 那智の滝は落差133mの日本一の滝で、「華厳の滝」「袋田の滝」とともに、「日本三名瀑」のひとつですが、それに相応しい滝です。私が訪れた滝の中では、個人的にこの「那智の滝」(直瀑)と、北海道旭岳近くにある「羽衣の滝」(分岐瀑)、富士宮市にある「白糸の滝」(潜流瀑)が形態の違う「日本三名瀑」と考えています。
 バス停「那智の滝前」近くの駐車場に車を置き、卒業旅行の時と同じように、滝壺まで下り、そこから熊野那智大社までのあの急坂を一気に登りました。この歳の身体にはかなりきついものがありましたが、30代の頃でも「きつかった」こと、そして元気盛りの15歳というのに、「はーはー」言って登っていた女子生徒のことも思い出し、それも仕方ないことだと自分を慰めました。
 鬼ガ城は隆起と風化と熊野灘の荒波の浸食によって生じた大小の海蝕洞が約1.2km続く凝灰岩の大岸壁です。ここも国の名勝天然記念物に指定されていて、山頂には戦国時代の城跡があり、そこからは熊野古道・松本峠へ連結するハイキングコースが整備されています。卒業旅行の時と同じように、鬼ガ城遊歩道を東口から西口へと歩こうとタクシーで東口に向かい、着いたとき驚いたのは「鬼ガ城センター」という立派な建物ができ、駐車場や入口周辺も整備され、昔の面影が全くなかったことです。一番様変わりしていたかもしれません
 遊歩道沿いの海食洞は数十年の歳月で変化することはなく、首がすっぽり入るあの穴もそのままの形を残していました。記憶の底に沈んでしまっている人のために現在のその穴の写真を載せておきます。「俺もやった!」「私もやらされた!」という人のために、私の隠し子が首を出している写真も掲載しておきました。
 過去の自分に会いに行く旅はこれで終了しました。この旅で強く感じことが2つあります。ひとつは、4年前の台風15号(2011年8月)の爪痕がまだ残っていたことです。和歌山県だけで死者、行方不明者55名を出し、和歌山県、奈良県で土砂崩れが起こり、川をせき止め、あまり聞き慣れない言葉、「せき止め湖」を5ヶ所造ったあの台風です。那智駅から那智の滝に続く道路では、まだ河川や道路を修復中のところもあり、新築の真新しい住宅が並んでいました。おそらく鉄砲水に家を流されてしまった後に建てられた家なのでしょう。那智の滝の滝壺近くには、まだ流木が散在していました。鬼ヶ城でも遊歩道が東口〜西口までの通り抜けが可能になったのは、今年の3月上旬だったようです。あの台風で南紀は甚大な被害を受けたのです。
 もう1つは、自分が老いぼれてきたことを実感したことと、自然は人工物や人間の栄枯盛衰の儚さに比べたら、なんと力強く、たおやかに、そして悠久に存在しているのだろうということでした。これからの老後の余生は、この地球に人間として生まれてきた幸せに感謝し、あくまで健康という条件で長生きをし、自然の中で余生を楽しみたいと考えています。遊びすぎて蓄えがなくなったら金満卒業生に借りに行きます。勿論、借用書は書きます。金満家とはあなたのことです。その時はよろしくお願いします。

   
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