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心 その19・日本国の足跡と日本人の性格  ESPECIAL ! 

§3 古代史(後)と中世史

文、弥生時代の説明が長く書きすぎましたので(笑)、弥生時代の後半(紀元後)から今日までの、日本国の歴史(日本人の生活)から生まれたであろうDNAはどのように形成されてきたのかを、体制(制度)、事件、風土、生活などを通して検証していきます。超個人的見解になりますが…(笑)。縄文時代初期からの4,000年近くの間に、平均20年での世代交代があったとして、200回近くのDNAの継承が行なわれてきたことになり、その度に新しい情報の萌芽が今日の時代まで組み込まれてきました。体制、風土・環境の影響力は特に強かったと考えています。
 人は今日まで、それぞれの社会の中での自分の役割を持ち、生存のための食料確保というために生きてきました。社会を持つ生き物は人だけではないですが、人の社会だけは時代と共に変化し、これからも変化し続けるでしょう。なぜ人間の社会は変化をするのかといえば、脳による知識と経験が蓄積され、使い捨てられることなく、次の世代へ引き継がれてきたからです。これは他の生き物の変化が、進化という化学的な遺伝子の書き換えによる稀な偶然と適者生存に依存するのに対し、人間の脳は情報の書き換えにより行動を変えることが出来たためです。しかし、縄文時代の人の寿命は男女ともわずか14.6歳という推計があります。これには驚きました。よく考えてみれば、伝染病などのウイルス性の病気になったり、骨格の中でも重要な部位を骨折した場合には、手の施しようがなかったことは、容易に想像できます。それは乳幼児期の高い死亡率によるものだそうですが、治療法を殆んど知らない縄文人は、仮に過酷な乳幼児を生き延びることができても、15歳まで生きた男女の平均余命(15歳以降生きていた年数)は男女共に10数年ということで、30歳位の寿命だったであろう言われています。
 家族単位を越えた最初の社会は、紀元前1〜2世紀(弥生時代後期)からと言われています。殆んど毎日、水田、畑作農耕を集団で労働作業し、穀物の生産備蓄方法も確立させ、定住するようになった段階からでしょう。当時の人の定住こそが社会の基盤を作り出したのであって、社会が稲作を作り出したわけではありません。つまり、社会とは結果的な現象であって、社会自体が目的を持っているわけではありません。歴史学者たちはこの最初の社会をムラと呼んでいます。同時に、自然発生的に上下関係が生まれてきたはずです。「人は3人集まれば、派閥ができる」という言葉がありますが、恐らく集団生活が始まってからは、個性の差が表面化し、ぶつかり合いも多くなり、腕っ節の強い男、偽善者、野心家、利己主義者などが自然発生的にリーダーやボスとして出現します。貧富の差も生まれてきます。ムラの発生は、移動しながらの狩猟よりも、一定の場所に住み穀物の生産備蓄を行なう事の方が、生存には有利に働いた現象であると考えられます。従って、当時人々の脳裏にムラを造る意識などは全く無く、稲作が自然発生的にムラという社会を造り出り出したという、ただそれだけのことであったと思います。
 ムラの誕生当時、ムラに属する者と属さない者には決定的な違いがありました。それは土地の所有、すなわち「縄張りの進化」という新しい概念の時代を迎えたことです。ただし、稲作をする者たちが漠然と感じた土地の所有の意味は、現代人の考える所有権とは全く異なり、あくまでもそこで収穫される米が目的であり、土地はそれに付随する漠然とした意識であって、土地を持たない者との比較でのみ理解できる状態が続いていきます。従って、ムラに属する者と属さない者とが時々接触すると、ムラに属する者たちは周りの相手が泥棒、あるいは敵と捉え、逆に、相手側からそのムラ人を見ると、意地悪で凶暴な人間の集団と捉えたかもしれません。これはどちらが正しいとかということではなく、どちらが強いのかが全てでした。当初ムラに属する者と属さない者との数は、圧倒的にムラに属さない者が多かったと言われています。少数の断続的な渡来者に端を発した稲作の普及は、それに比例し加速度的にムラに属する者が増える現象を起こしました。この頃の時代から、古代人の間でも生きていく術、振舞いが理解できるようになります。ムラの一員であるためには、ムラのルールに従わなくてはならず、そのルールの大半(というよりその全て)はムラを安定維持することに向けられ、組織防衛へと進んでいきます。組織への従属が正義であり、決まりごとに従わない事が悪という考え方も、この頃に生まれたのでしょう。
 複数のムラを統合してクニになると、その存在を維持できるようにするために、2つの条件が必要になります。それは「意思決定の集中」と「個人の社会的役割分担の固定化」です。これを歴史学者たちは身分制度の始まりと理解しています。集団形成期においては必ず必要なことで、意思決定の集中と役割分担が歴史の流れに乗れば、その集団組織は維持もしくは拡大して行き、逆に時代の流れに外れた方向へ進むと、離散、崩壊し、ムラは消え去ってしまいます。しばらくすると、生き残ったクニは更に小さなムラやクニを併呑し拡大を始めます。その興亡や拡大は繰り返され、結果的に残った社会集団が国の祖先であり、この過程は争いのある社会、戦争のある社会とされ、その爪痕は特に弥生時代の遺跡から窺い知ることができます。日本の有史以前にどれだけの国の祖先があったかは不明で、漢書には100余国、三国志魏志倭人伝には30国と記されているのみです。
 弥生時代末期までに、リーダーとその指示に従うムラ人の主従関係が明確化し、それによって貧富格差も顕著に表面化してきたと言われています。それは巨大古墳遺跡が物語っています。弥生時代から古墳時代の間は、地方の小国同士の争いが絶えませんでした。これを「魏志倭人伝」では、「倭国大乱」と呼んでいます。この大乱を治めるべく、女性の王・卑弥呼が頂点に立つと平和な時代が訪れ、死後に男性の王が立つと戦乱が続き、さらに卑弥呼の血縁である台与(とよ)が王位を引き継いだら、また平和になるという不可思議な事象が起きていました。卑弥呼が王位に就く前の倭国大乱と死後に起きた争いが原因で国内の水田は荒廃し、戦乱では多くの命が失われ、労働力も減少していきます。さらに、寒冷化というトリプルパンチもあって、稲の収穫に深刻なダメージが起きます。当時は既にコメが主食となっていたので、食料問題にまで発展したかもしれません。小国の支配者たちは、権力争いの殺し合いではなく、もはやコメの収穫量に力を注がなければ、民衆の支持を得ることが出来なくなります。そこで、どのようにしたら支持を得るようになるかを思案していた時、思い立ったのが古墳の造立だったのです。水田開拓すると、残土がでます。この残土が多ければ多いほど、水田は耕され、コメがたくさん収穫でき、民衆は食に飢えずに済みます。さらに権力者は、その時の残土の量で大きな古墳を造ることも出来るのです。古墳の大きさはコメの生産高の多さを表し、権力者の階級を誇示できるという一石二鳥の名案を見つけたのです。古墳というのは、1人の権力者を手厚く葬ると同時に、権力者の権威を表すための政治的、宗教的な意味合いを強く持つようになり、天皇をはじめ、地方の豪族(権力者)の基礎を作りました。
 西暦1200年頃までの日本人のDNAについての論文もなく、個人的に縄文時代の初期(1万数千年前)から弥生時代までは大きな変化はなかったと考えています。仮にあったとしても、現代人のDNAの変化に比べたら、微々たる変化であったと思っています。弥生時代(紀元前数千年前)になってからは、狩猟、採集生活から、水稲農耕が始まり、集団行動によって、ムラ、クニが形作られるようになり、集団のボス、リーダーになる人物が登場します。どのようなDNAの所有者がなったのか分かりませんが、個人的には、腕っ節が強い(あるいは喧嘩好き)とか、要領よく振舞うとか、本能の赴くままに野蛮な言動をしているとか、虚言癖があるとか、現代ではむしろ煙たがれる性格の持ち主が、古墳時代になってからの豪族の身分になったような気がします。現在皇室と称されている天皇一族は、その豪族たちの支持を得て、頂点に君臨するようなったと考えています。
 紀元3世紀後半期になると、ヤマト王権が始まります。それは古墳時代に「王」や「大王(おおきみ)」などと呼称された倭国の首長を中心に、いくつかの有力氏族(豪族)が連合して成立した政治権力、政治組織です。前述したように、現在の天皇家(皇室)のルーツになります。ヤマト王権には「氏姓制度」があり、それは小国の豪族などにランキングを付けた制度で、5世紀〜6世紀にかけて作られたと言われていますが、はっきりした年号は分かっていません。当時のヤマト王権時代には、まだ自国の文字はありませんでした。そうなると、他国の文献だけが頼りなのですが、中国大陸の歴史書には、266年から413年にかけての約150年間、倭国に関する記述が一切なく、ヤマト王権の詳細な成立過程などを含め、「氏姓制度」に関しても、いつ頃に制定されたのかもはっきり分かっていません。古代日本史愛好家の間では、「空白の4世紀」と呼ばれています。しかし、「氏姓制度」は日本の最初の権力体制を明確化した制度です。「氏」は血族グループの名称で、「姓」は大王から氏に与えられた称号です。姓は職掌(しょくしょう)、つまり氏に与えられた役目、そして地位を表しました。臣(おみ)は王家と並ぶ立場にあり、ヤマト王権においても最高の地位を占めた豪族であり、連(むらじ)は王家に従属する官人としての立場にあり、ヤマト王権の成立に重要な役割をはたした豪族になります。しかし、豪族の間では、肩入れしている皇族を次期大王にしようとする陰謀や衝突がしばしばありました。
 592年に、崇峻天皇が蘇我馬子に殺害され、厩王子(聖徳太子)が推古天皇(女性)の摂政となり、政治の表舞台に登場し、「冠位十二階」、「十七条の憲法」を制定し、今日まで続いている天皇制国家の基礎が確立しました。「天皇制」という用語は、その時代の天皇の立場や権限によっていろいろに解釈されています。鎌倉・室町・江戸と武家政治の世の中になっても、天皇とその政府である朝廷は存続しました。何よりも形式上、幕府の将軍を任命するのは天皇でした。もともと将軍とは、「征夷大将軍」のことで、東北地方の蝦夷(えみし)を服属させるために、天皇が任命した軍司令官です。しかし、武家社会の時代には、朝廷の実力が伴っていないため、なかなか朝廷が権力を持ちえませんでした。江戸時代初期には、徳川家康が天皇になるという案もあったようですが、結局それも実現しませんでした。結果、徳川幕府も朝廷をコントロールしながらも、排除したりはしませんでしたので、江戸時代末期に来日した外国人たちも、天皇を「精神的皇帝」、将軍を「世俗的皇帝」と、皮肉を込めた理解をしていたようです。
 中・高の教科書には、1192年に源頼朝に天皇からの征夷大将軍の宣下がなされ、これまでの朝廷・公家政権は終焉を迎えたと書かれていましたが、「天皇からの宣下」ということは、この時点では朝廷・公家の下に鎌倉幕府は位置付けられていました。実際に、当時は武家政権を「幕府」と呼んでいたわけではなく、朝廷・公家は関東と呼び、武士からは鎌倉殿、一般庶民からは武家と称されていました。「吾妻鏡」に征夷大将軍の館を「幕府」と称している例が見られるように、もともと幕府とは将軍の陣所、居館を指す概念でした。現在では、武家政治の始まりは、1221年に後鳥羽上皇が鎌倉幕府を討とうとして挙兵し敗れた内乱、すなわち「承久の変」からが一般になっているようです。後鳥羽上皇とその近臣たちは、逆に執権北条義時を中心とする19万の幕府軍に大敗し、鎮圧させられた事件です。その結果、乱の中心人物である後鳥羽上皇は隠岐に流され、朝廷方の公卿・武士の所領は没収されました。更に、朝廷監視のために六波羅探題を置くなど、幕府の絶対的優位が確立し、古墳時代から約1000年続いた皇室、貴族の支配は、武士による支配に執って代わりました。

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