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心 その19・日本国の足跡と日本人の性格  ESPECIAL ! 

§2 古代史(前)

れでは早速、日本人(倭人)のルーツ、換言すれば日本人の「心・知・体」形成の旅を始めます。最新の調査によると、3万8000年前あたりから突然、日本列島には爆発的に遺跡が増えた痕跡があり、最初にホモ・サピエンスが日本へ渡来してきたのは、この頃のことではないかという説が主流になっています。つまり、日本列島における私たちの歴史は、3万8000年前に始まったと考えられます。渡来ルートとしては、東アジア各地から三つの道を辿ってきたようです。現在地球を席巻している現生人類(ホモ・サピエンス)は、約20万〜15万年前にアフリカのナイル川支流のオモ川流域で誕生したという説が有力になっており、約6万年前から世界へ拡散しはじめ、その後、東に向かったグループは東南アジアや長江、黄河付近へ辿り着きました。遺跡や化石、そして何よりも科学技術の進化のお陰で、電子顕微鏡でDNAの新たな研究ができるようになってから、朝鮮半島から対馬経由で西日本に入る「対馬ルート」、シベリアからサハリン経由で北海道へ南下した「北海道ルート」、そして台湾付近から琉球列島への「沖縄ルート」の3つのルートも想定されています。その3ルートの遺伝子すべてが、日本列島にやってきたということです。このような例は世界中見渡しても稀で、ここに日本人の特徴が隠されています。
 当時の人類の移動手段として、海上での潮の流れや風の向きを動力に変える知恵は持っていたようです。陸上では紀元前5000年頃まで、馬、牛などの家畜化はできておらず、自身の両足に頼るしかありませんでした。「移動」という言葉から、4世紀後半のゲルマン民族の大移動のようなイメージを持つ人もいるかもしれませんが、狩猟をしながら、農耕をしながら、よりよい土地と気候を求めて何世代にわたって、今から見れば放浪のような旅を続けたのだと思います。新天地を求めての旅は、日常的な狩猟、採取などで同一行動をとっていた5〜10家族の単位で移動したのではないでしょうか。人数にしたら、10人、多くても数十人という単位で、未知の土地を目指し、結果的に日本列島に渡来してきたと考えるのが正しいような気がしています。迫害、食糧、気候条件などの生活苦から逃れるために、「三々五々」という言葉がありますが、少人数の集団単位で新天地を目指して行動したのではないでしょうか。その頻度はかなり高いと考えています。しかし、渡来に成功したグループの確率は1/5、いや1/10以下だったかもしれません。
 余談になりますが、日本人のルーツの不思議のひとつに「日ユ同祖論」という言葉があります。これは、日本人(大和民族)とユダヤ人(古代イスラエル人)は共通の先祖ヤコブを持つ兄弟民族であるという説です。しかし、なぜこのような説が出てきたのでしょう。アフリカを脱出したホモ・サピエンスは、エジプトの首都カイロから約100Km東に位置する、現在のスエズ運河のある約200Kmの幅でユーラシア大陸と陸続きになっている所からユーラシア大陸へ渡り、暫らく現在のイスラエル、ヨルダン近辺に定住していたと考えられています。旧約聖書には、古代イスラエルには12支族がいたと記されていますが、10支族の行方がわからなくなっています。彼らはヨーロッパやアジア方面に離散し、失われた10支族のいくつかはシルクロードを経由し、日本に辿り着いたという説があります。その証拠として、ヘブライ語には日本語に類似した単語が3,000語以上もあり、「大相撲」の用語、京都の「祗園祭」の始まり、民謡「ソーラン節」、童謡「かごめかごめ」や「さくらさくら」、国歌の「君が代」の歌詞をヘブライ語にしても、意味が通じるそうです。ちなみに日本は『アミシャブ(イスラエルの失われた10支族に関する調査機関)』の調査対象国になっています。
 縄文時代、弥生時代の詳細な話へ移ります。前述したように、約3万8000年前以降に、渡来人は三つのルートから日本列島に移り住むようになったと考えられていますが、私たちが中・高生だった頃の歴史の教科書には、縄文時代は紀元前10世紀頃から、弥生時代は紀元前3世紀頃からと書かれていました。しかし、21世紀になってからは、縄文時代は紀元前15世紀頃から、弥生時代は紀元前8世紀頃からという、数百年程度前倒しの説が主流になってきています。太古の昔、日本列島は現在のユーラシア大陸と陸続きでした。勿論、「日本」「中国」「韓国」などの「国」や国境などありません。中国の広大な平野や乾燥地を中心に古代人は住んでいましたが、日本列島になる部分に全く誰も住んでいなかったということではなかったようで、それ以前から移り住んだいた少数の渡来人、すなわち「元祖縄文人」がいました。言い換えるなら、彼らが日本人の御先祖様ということになります。「縄文人」は、狩猟、採集などを主に営んで生活していたと言われていますが、野生動物を捕獲して命を繋ぐという、その日暮らしに近い生活でしたので、根気強い性格だったことが推測されます。中国では紀元前20世紀頃には黄河文明が起こり、殷、周という王朝ができ、紀元前8世紀頃には春秋戦国時代が始まり、頻繁に近隣の種族と争いを続けていました。多くの人々は内乱で迫害され、土地を追われ、紀元前8世紀以降、日本列島に渡来してきた人々が「弥生人」ということになります。
 「野蛮であったから、駆逐されてしまった縄文人」という歴史観を、20世紀までは授業や教科書を通して、当時の中・高生に押しつけていた嫌いがあります。縄文人と弥生人の呼称は渡来期の紀元前9世紀「以前」と「以後」で、時代区分をしているだけであって、日本列島への最後の渡来「縄文人」と、最初の渡来「弥生人」の歳月の開きは極端なことを言うと、10年も開いていなかったかもしれません。誤解を招かないようにするために、生活様式、集落の体制、新しい用具・武器の進化などで、縄文時代と弥生時代を合体させて、「前期縄文人」・「中期縄文人」・「後期縄文人」と区分した方が、分かり易いと思っています。弥生時代は「後期縄文人」となります(笑)。
 渡来ルーツは台湾付近からの「沖縄ルート」もありましたが、大部分は黄河、長江周辺の居住者でした。後発隊の弥生人の中でも、特に長江流域の渡来人は水稲栽培の技術を習得していましたが、弥生人より1,000年前に先発隊として日本に渡来してきた縄文人は、稲作の技術は身に着けておらず、日本に渡来して以降も、狩猟や採集中心の生活をしていました。ただ、先発隊の「縄文人」と後発隊の「弥生人」は、渡来して来る前は同じ中国にいた訳で、似たような言葉を使用していたと考えられます。漢字は今から3,500年ほど前(紀元前15世紀頃)に、すでに中国で作られたと考えられていますが、それ以前にも漢字の基になったと言われている甲骨文字もありました。1000年の隔たりがあっても、似たような言語を使っていたでしょうから、中国の黄河、長江流域に住んでいた弥生人と縄文人は簡単な会話をできたことを否定することできません。
 性格面では、縄文人は大がかりなグループを組むことはなく、少ない人数でそれぞれに獲物を狩る腕と大胆さと勇敢さが要求され、しかもリーダーは存在せず、互いが同じ立場だったとみられています。そのため行動力に富み、計画性や慎重さに欠け、獲物を逃してもこだわらない寛容な性質だったと言われています。一方、弥生人は仲間と田を作り、畑を耕して米や野菜を育てる暮らしが主流でしたので、計画性や協調性、チームワークが必要とされました。仕事を効率よくはかどらせるために、仲間を統率するリーダーが現れるようにもなりました。集団行動を好み、一度の収穫が失敗すると死活問題に関わるので、失敗には厳しい人たちのようでした。季節を通して気候に左右される農業は、しっかりプランを立てて作業しないと収穫に大きく響き、集団の存続に関わるからだとされています。
 中・高生の頃の私の印象ですが、縄文時代と弥生時代の時代区分は、縄文人が弥生人に滅ぼされたという記憶が強くあります。「縄文人」というと原始的で粗野で、後にやって来た「弥生人」などに追い払われたとする、間違ったイメージを持っている現代人が多くいたのではないかということを書いている本も実際にありました。最近のDNA解析の進化によって、実際には「日本古来の縄文人」と「中国・朝鮮から渡来してきた弥生人」は争いも無く、共生していたことが証明されています。しかし、中国・朝鮮方面から来た弥生人は稲作を広めながら、次第に強力な弓や石の矢尻を使い、武力で侵略を始めました。稲作の技術以外にも、ロクロを使用した土器、磨製石器、鋤、鍬などの木器、青銅器、鉄器の武具など多数の新しい技術、そして高床式などの倉庫、植物繊維の布、装身具、信仰などの文化も伝播されました。また、初期の渡来人以降、中国や朝鮮で戦に負けた人たち、つまり中国・朝鮮からの弥生人が船で九州などへ次々と渡来し、日本列島の人口は増加し続けました。縄文人は平和的な共生を望む人達でしたが、弥生人は好戦的な人たちでした。そんな中で、縄文人にとっての「弥生時代」が始まり、縄文人は後発隊の「弥生人」がもたらした稲作技術などを受け入れ、共存し、進化しながら、自分たちの継承されてきた自身の文化や習わしを忘れることなく大切にしました。弥生人が渡来してきた頃の縄文人の人口は20〜30万人と推定されているのですが、それ以降も弥生人の渡来は続き、必然的に弥生人の人口のが多くなっていきます。最終的に弥生時代末期の紀元4世紀頃には、日本列島の人口は150万にもなっていったという説もあります。
 人種の違いを識別できる「血液型Gm遺伝子」の分布から、日本人の先祖はロシアのバイカル湖から南下してきたことが判明しています。さらに、父から息子につながっていくY染色体の研究が急速に進み、日本人のルーツ探しが一気に加速しました。ちなみに、Y染色体はA〜Tの系統に分かれ、日本人に関わりの深かったのはDとOの系統です。バイカル湖畔から南下し、華北に暮らしていたD系統ですが、漢民族の圧迫から逃れるためにさらに南下し日本列島にやってきて、縄文人の中核を形成しました。一方、弥生時代に渡来した人々は長江流域で水稲栽培をしていたO系統になり、やはり漢民族に迫害され逃れてきました。現代の日本人の体の中に占めるD系統の割合は3割、O系統は5割と、渡来系の比率のが高いのですが、この数字だけ見れば、やはり渡来人に先住民が圧倒されたと考えたくなります。しかし、前述した「少数渡来」「先住民との融合」「列島人の稲作民化」「継承された縄文文化」「稲作民の人口爆発」という有力な仮説を肯定すれば、謎は解けます。参考までに、現代に至るまで、弥生人と縄文人の混血が進み、純粋な弥生人や縄文人は存在しなくなっています。その結果、現代の日本人は、7〜8割が弥生系の遺伝子、2〜3割が縄文系の遺伝子を持っていると考えられています。
 このように、古代日本においては、渡来系の弥生人は、在来の縄文人を攻め滅ぼしたり、奴隷として使役しようとしませんでした。弥生文化は時間をかけてゆっくり日本列島に広まり、東北地方や北海道、西南諸島など弥生文化が至らない地方が残されたり、弥生文化に移行した地方にも地域差があったりしましたが、渡来系の弥生人と在来の縄文人は上手に棲み分けを行っていました。日本列島の先住民「縄文人」は迫害などで、大陸から逃れて来た人々を磊落(らいらく)に受容し、共に生き、大陸の進んだ技術や文化を吸収し、且つ日本の風土の中で独自の伝統文化を創造し、先代縄文人からの列島人としての風習や伝統を捨てず、後発渡来隊の弥生人と融和を図り、交わることによって、その結果、今日の世界に誇る日本独特の風習、食事、芸術などの日本独自の文化を開花させ、多くの外国人から称賛されている日本人の性格の礎を築いたと思っています。「東アジアの中で特筆する民族である。」と、20世紀の世界の多くの人類学者からの賞賛は、3,000年以上のこのような遺伝子の積み重ねであったということをしみじみ感じます。しかし、近年の日本を見ていると、100年後には、このような称賛の言葉を耳にすることのない民族になってしまっているかもしれないという危惧も感じています。

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