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心 その13・ポータブル・スキル  ESPECIAL !

年前頃から「ポータブル・スキル」という労働界用語がよく使われるようになりました。portable とは、「持ち運びができる」という意味から、業種・職種の垣根を越えて、どんな仕事や職場でも活用できる汎用性の高いスキルのことで、この言葉の意味は、その人の真面目さや協調性、積極性、几帳面さ、文章力、理解力などの性格、人柄などの基本的評価のことです。このポータブル・スキルが高いということは、転職、企業の際に大きなメリットになると言われています。
 お上は70歳まで、頑張れるなら働けるまで働くことを奨励する政策を掲げています。少子化、高齢化時代になってからの雇用事情と、年金、医療費の膨大による苦肉の策なのでしょうが、個人的には「他人の人生まで介入するなヨ」という気持ちでいます。しかし、「心」というスタンスからみると、「ポータブル・スキル」は人としての基本的、中核的要素を含んでいる重要な要素であると考えています。
 学生時代の教科の評価は、5があっても、1や2があってはいけないと考えていました。現在もそれに近い考えを持っています。社会人になってからの伸びしろを期待するなら、それよりはオール3のがよいのではないかと思っているからです。子どもの時に身に付けておくべき、対人力、協調性、行動力、明るさなどのポータブル・スキルの基本事項が身につきやすいと考えているからです。現代社会では、パワハラ、イジメという悲しい事件が相変わらずマスメディアを賑わせています。加害者側も状況・環境・立場が変われば、被害者になることもあり得る「心」の持ち主であり、また被害者側も、年相応のポータブル・スキルをある程度身に付けていれば、ちょっと内気な性格でも、あるいは勉強ができなくても、苛められることはないと思っています。
 このようなことを無責任に書かれても、苛めにあったことがなければ…と思っている卒業生もいるかもしれませんが、私自身もイジメにあったことはあります。J中学は酷い学校で(今でもそうなんですかネー)、上級生にカツアゲや暴力を振るわれたことがあります。理由は私が生意気だったからでしょう。部活の先生からもいきなり練習中に理不尽に殴られたこともあります。そのどちらも、私に非があったとは今でも思っていませんが、詳しことは割愛します。ただ、このような時、私は母親に言うような子どもではありませんでした。イジメをしていた上級生の担任がその生徒を連れて家に謝りに来た時、母親は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていたのを、今でもよく覚えています。なぜ親に言わなかったのかはっきり覚えていませんが、心配性の母親だったからか、あるいは言ってみたところでどうなるものでもないと思っていたからかもしれません。
 両親の遺伝子を継承し、就学前までの家庭の躾、教育は、それ以降の「心」の健全な成長にとても重要になるということは、これまでにも書いてきました。心理的虐待、性的虐待、ネグレクト(育児放棄)、身体的虐待を総称して、児童虐待と言われているようですが、ごく最近読んだ本の中では、このような無責任な親のことを「毒親」と表現していました。まさに「言い得て妙」と思いました。通常なら、生まれてから数年、一番愛情のある接し方をしてくれるはずの人が、毒を飲ませてきたのですから、成長過程でこれほど不幸で、惨めなことはありません。否、もっと厳しいことを言えば、そのような子どもは毒を飲まされて成長してきたことに気付かないことのが、もっと恐ろしいことかもしれません。
 近年、この種の毒親が増えてきて、この種のニュースが新聞やテレビで報道されることが多くなりました。子どもは父親か母親のどちらかに体型や顔が似ています。癌、心臓、脳などの病気も遺伝すると言われています。よって、性格、気質の遺伝子情報も、両親のどちらかを必ず継承している訳で、自分に一番性格の似ている子どもであるはずなのです。それなのに、愛さないどころか、虐待するというのは、「毒」か「鬼」です。補足しますと、溺愛する親、偏った性格である親も、異なった面からの「毒親」と言えます。
 ポータブル・スキルを身に付けることは、高齢まで働くため、転職するためということ以上に、愛する人、守るべき人、あるいは社会の中で摩擦なく楽しく生活していく上でも、とても必要な概念ではないでしょうか。ポータブル・スキルを身に付けている人は、常識的な一般知識、社会規範、客観性などの基本的事項を身に付けている一般人よりワンランク上部に位置し、奇人、変人、珍人(懐かしい言葉です…笑)のカテゴリーに入ることは決してないと断言できます。
 私は一般知識、社会規範、客観性などの言葉は、社会秩序のために必要だと思い、この「心」シリーズにも何度かこれらの言葉を使ってきました。しかし、道徳、道徳心という言葉はおそらく使っていないと思います。「道徳」という概念は、戦前の「修身」と同じで、お上からの下達というイメージが強いからです。それは幼い頃からの体験を通して、社会の一員として摩擦なく生きていく上で、自分との価値観との接点を自分で探していくものと考えています。文部科学省は、'18年度から小学校で道徳を教科に格上げし、'19年度からは中学校でも始まります。今までの「道徳の時間」を「特別の教科・道徳(仮称)」に改名し、より力を入れていくとしています。それ以前に、円滑な社会生活を営むためには、まずさまざまなルール・マナーを守り、善悪の判断を身につけることが必定です。マスコミでは相も変わらず、一般常識の欠如した公務員、教師の犯罪が次から次えと報道されていますが、誰よりもこのような仕事に携わっている人が襟を正すことのが先決です。
 団塊世代以前の人間は、どうしても戦前・戦中までの「修身」という名の極端な国家主義・軍国主義的教育を思い出してしまいます。教科書は文部科学大臣の検定を通過したものだけを使用し、学習結果は教員が記述式で評価し、国が道徳授業内容に関して二重三重に関与することになります。このように、国は価値観の押し付けといえるほどに強く道徳教育の内容に関与しようとしていることはお見通しです。「道徳」は「人として守るべき行為の基準」と国語辞典には書いてあります。法律のような外面的拘束力はなく、そもそもそれは成長とともに個人の「心」から湧き出るもので、学校が教えるものではないのです。「心」の健全な成長は、就学前の家庭での躾が大きく影響します。不幸なことに、毒親の子どもにとっては、学校での道徳教育が逆効果になる場合もあり得ます。
 小学校でもglobalな人材育成のために英語教育が始まりましたが、英語教師不足で苦しんでいるようです。英語に限らず、現代はコンピューター主導の科学、工業、産業の時代になってきましたが、科学分野(数学や理科)においても10年、20年以上前に学んだ先生は、日進月歩のコンピューターのプログラミングやハードウェア―のことを日々努力して、理解しているのでしょうか。どのような教科名にしたらよいかは分かりませんが、「道徳」よりコンピューターの強化を増やした方がいいと、ド素人は考えます。
 貧富の格差、心根の格差、健康格差、教育格差、地域格差など、格差社会の拡大化は続いています。米国の超格差社会の進行について、昨今様々な立場の論者が数多くの発言をしていますが、異口同音に語られているのは、この状況への改善の兆しは少しも見られず、むしろ時を追うごとにエスカレートしているということです。しかも、これは米国だけではなく、world-wideに広がっている傾向にあり、その意味では無論、日本もその例外ではないということです。
 戦前直後の日本は今より物質的にはずっと貧しい社会でした。しかし、日本国民の300万人超が亡くなった戦争が終わり、命を奪われなかった国民は新しい日本を創るために、一生懸命復興のために耐え、頑張りました。幼かった頃の私は酷い子どもでしたが、バラック小屋のような家に住み、両親の苦労も覚えています。あれから70余年、今の社会を見ていると、60歳未満の人は物質的贅沢に満足し、人生の本当の幸せを理解していないように思えます。
 国家主義的な政治、教育よりも、就職する年齢になったら、「ポータブル・スキル」を身に付けているような「心」の人間をひとりでも多く育てる社会にしてもらいたいと切に希望しています。国民は全員が安心、安全、仲良く暮らせる、そして格差の少ない社会を願っているはずですから。

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