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心 その11・時空   ESPECIAL !

の流れは地球の公転・自転を基準にして、1年は365日、1日は24時間と定められています。それは万物に共通の絶対的単位であり、各人によってそのスピードが異なることは決してありません。楽しい時間、嬉しい時間は短く、悲しい時間、苦しい時間は長く感じるという錯覚は、その人のその時の「心」の在り方で決定されます。日常生活での時間経過(スピード)は、個人の感覚によって、あるいはその時間の過ごし方、している内容によって、それぞれ異なることは誰にもよくあることです。基本的に、集中している時間、快適な時間は短く感じ、反対にやる気のない時、不快な時などは長く感じます。ほとんどの人が感じているごくごく当たり前の現象です。
 勉強している時でも、仕事している時でも、学んでいる中味や、働いている内容によって、時間の流れる速さは変わってきます。生まれてから今日まで、時間の感覚的速さは、さまざまな状況、心情の中で、変化することを経験してきました。また、趣味を楽しんでいる時間などでも、その相手、状況などの空間、自分の体調などによっても異なってきます。一番解かり易く例えれば、愛する人といる時間や、絶景の中に身を置いている時などは、経過というよりもいつまでもこの状態が続いてくれればと願うほどです。一方、学生時代のつまらない授業、仕事での実りのない、ただ形式的な会議等は、退屈で眠くなるだけです。
 万人に対して一律の速さで過ぎていく時間は、同じ1日でも、同じ1年でも、効果的、合理的に使うことによって、時間の実質的長さは異なってきます。時間の無駄使いをしている人は、日常生活を感性主体に過ごしている人、熟考しない人、刹那的な人、物臭な人などに多いと言われています。自分にとって心地よい時間が多ければ多いほど、それだけで人生は、明るく、楽しくなります。「時間と空間」は「心」に匹敵するくらい人生にとって大切な事象であると認識しています。
 各人に与えられた時間の絶対量は同じです。5年、10年というスパン(span)になると、その使い方によって、人の「心」は大きく変化してきます。年少期から芸術やスポーツなどの一芸にほとんどの時間を費やした人、逆に、努力、我慢という心を持ち合わせず、感覚的、主観的に生きている人もいます。一方、自分にとっての人生の幸せを、人生の本質的価値を考察し、学生時代の成績表で例えるなら、「5」がなくても、「2」や「1」のない人生を望んでいる人もいます。最近では、知的、精神的、物理的身の丈の範囲で、自分らしい人生を送りたいという人が多くなってきています。
 ある程度の幅を持って、自分の人生を浅くてもいいから幅広く生きたいという人と、狭く深く生きたいという人に大別できますが、どちらにも偏らないことを「中」といい、長く変わらないものを「庸」という「中庸」という考えを、子供の頃に親から教えられた私は、できる限り座標軸の原点(0,0)の近くにいられるような思考と、行動を心掛けてきました。自分に与えられた遺伝子、幼児期の躾、成長期の時代や地域環境によって難しいことではありますが、自分らしさを残しながらその意識を持つことは、人間観察の上では大きなプラスになることを知りました。
 幸せなことに、私たちはヒトとしての生命を与えられました。人は地球の支配者として君臨しています。しかし、どんな素晴らしい頭脳を持っていても、時間の流れの中で、複数の行為、行動を同時にはできません。SFのような話になりますが、どんなに科学が進化しても、自分の分身はなかなかできないでしょう。仮にできたとしても、歳月を経るにつれて、選択の異なる体験・経験によって、本身と分身が別人のような人間になってしまう可能性も高いです。人生にとって一番大切なことは、選択の瞬間です。昔の人も言っています「後悔先に立たず」と。
 「時」を過去に戻すことはできません。未来の予測もできません。それ故、人はその期間、その瞬間を大切にしなければいけないということになります。恥ずかしいことに、私はそのことを人生の終盤になって知りました。できることなら、14歳〜27歳の「成年 選択の時代」までに、何となくでも気付くことができていればよかったと反省しています。今振り返ってみると、その原因は高校生までの感性のまま生きる姿勢と思考の未熟さにあったと思っています。とは言っても、若い頃に自分の今生きている瞬間が、その後の人生にいかに重要になるであろうことを認識できる人は、それほど多くいないと思ってもいますが…。
 「成年 選択の時代」には、進学、就職、交友、恋愛、結婚など、今後の人生に大きな影響、方向性を決定付ける事象が多くあります。この歳になってはっきり解かりました。全ての過去の決定は、その時のあなたの「心」によるものであって、「心」という抽象が具象化したものが、その時のあなたの選択、行動だったということです。
 しかし、しかしです。人生には「運」「不運」という副次的なものが付随しています。これは長い人生において仕方のないことですが、本(もと)を正せば自分の決定、行動に起因しています。例えば、進学においてA大学とB大学に合格し、A大学を選択したことが、正しかったかどうかは分かりません。就職の際の企業選択や決定も同様です。景色の全く異なる道を歩く訳ですから、環境(空間)、出会う友人、好きになる異性も全く異なってきます。その時その時の選択・決定は、人生の道選びです。人生は連続する岐路選択の繰り返しから形作られていると言っても過言ではありません。
 愛する人と別れてしまったことを例にとっても、もしその人と結婚していれば、今の配偶者より幸せな家庭生活を送っていたかも知れません。あるいは逆に、別れて大正解だったかもしれません。私はそう考えるようにしています(笑)。今となっては決して過去には戻れないのですから、そのようなことを考えても意味がありません。肝心なことは、自分の選択が正解だったと思えるように、現実と自分の「心」を直視し、いかにその現実の中で自分を磨くことができるかということです。
 似通った岐路選択があった時、似たような過去を思い出すことがあったなら、参考にする程度に顧みることは必要です。それが経験値です。多くの記憶はスティルであり、ムーヴィーで保存されていることはかなり稀なことです。更に、記憶の仕組みはとても好都合にできていて、印象に残っていない順番に脳から除外されていくようです。また、何かの機会に思い出す過去(特に20歳以前の過去)は、現在のあなたの記憶にまだ残っているのですから、過去のあなたと現在のあなたとを結ぶ縁(接触)であると考えることもできます。
 好き嫌いに関係なく、人と接している時、独りでいる時、趣味などのモノに接している時、TVや新聞などを見たり、読んだりしている時、あるいは雑踏の中を歩いている時などでも、いろいろな考えや思いが頭の中を駆け巡ることが多くあります。それは自分がどんな性格であるかを内省する機会でもあります。特に私は「独りでいる時間」を大切にしています。独りでいる時間に、自分自身の生き方を考えます。独りの時間をどのように使うかによって、それぞれの歩む人生も決定されると考えています。
 余談ですが、一人旅をしていて人恋しくなると、土地の人、旅の人、いろいろな人と話をします。現代人はスマホからの情報収集が殆んどのようですが、「旅は道連れ、世は情け」「袖振り合うも多生の縁」という言葉もあるように、私はその土地の人から情報を得るようにしています。ほとんどが行きずりの人として接しているのですが、とても素の自分で接していることを知ります。二度と会うことがないのですから、嘘八百を並べて話すこともできるのですが、不思議なことに、真実や思っていることしか話していない自分がいるのです。
 日常的生活の中では、作為的な言葉や態度によって行動している人、偽りや見栄の鎧を纏って接している人も多くいます。そんな時、他人の心を何となくキナ臭く感じることがありますが、そのような場合、自分の方も構えてしまい、自分の本心、真意を語らなくなってしまいます。一種の予防線です。よって、日常生活において、信じられる言動の人間で、しかも自分もありのままの自分で接することができる人間こそが、あなたにとって相応し、親しい、大切な人であり、いつまでも付き合える人間なのかもしれません。
 半世紀以上生きてくると、挨拶などの社交上の日常的、儀礼的会話をしている人を除く、学生時代や職場での親しい人、趣味の仲間、個人的に気の合う友人の数は、おそらく誰にも500〜1000人くらいはいたと思います(余程のおタクでない限り…笑)。その中には、現在では疎遠になってしまった人、過去に愛した人、親しかった人、あるいは今では会うことが物理的に難しくなてしまった人なども含めます。人間以外でも、今日までの旅のような非日常的経験、飼っていたペット、あるいは知人の話、書物、TVなどからの見聞も含めると、その数は天文学的数字に上ります。しかし残念なことに、自然発生的に思い出される記憶は0に近い数字で、残りのほとんどは意識の底に沈み込んでしまっています。それだけ、折に触れ思い出す人物、物事は、あなたの「心」の土台になっていると考えるのです。
 しかし、現在の自分は、忘れてしまっている過去の出来事、行動の幸不幸、感激なども含めての全てのエキス(抽出物)の結果であるという認識も忘れてはいけません。特に幼年期、若年期の経験のが、その影響は強いと言われています。歳をとって時々思い浮かべることの多くはその時期のことで、認知症の老人に子どもの頃によく見た風景や道具を見せると、正常な老人に戻ったかのように滑らかに話をするようになる(回想法と言うらしいです)ということを、何かの本で読んだことがあります。
 「心」は時間と環境(空間)の中で学習し、成長していくものです。これから先、大きな人生の岐路に立った時、その時の心と自分(実態)とを重ね合わせて、正しい道を選択できるように、日頃から自分の「心」を客観視する習慣を身に付けておいてください。「静年 苦悩の時代」が終わる50代中頃を過ぎると、悲しいことに、「心」の重要な因子である考察力、忍耐力、実行力などが若かりし頃に比べると目立って退化してしまい、心はそれほど成長しないと思っています。
 その代わりに、それまでのあなたが砂漠のような心の持ち主でなければ、歳を重ねるごとに、思い遣り(sympathy)と愛情(affection)豊かな人間になっていきます。それは大過無く過ごしてきた人へのご褒美と思っています。孫ができると、「孫はかわいい」とよく言われていますが、それは理屈なしに自然に湧き出る感情です。ただ近年、北海道から九州まで、地震、火山の噴火、台風などの風水害に見舞われるなど、日本では自然災害が多発しています。地道に働いてやっと小さな幸せをつかんで、残された余生を慎ましやかに暮らしてきた老人被災者たちのその悲惨さをTV報道で見るたびに、とても悲しい気持ちになります。しかし、天災は突然に、理不尽に、無差別に襲ってきますので、これだけは人智を超えた巡り合わせであると捉えるしかありません。

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