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学習指導要綱改定に思う

日、文部科学省が標準的学習内容などを定めた小中学校の学習指導要綱改定案を公表した。この学習指導要綱は1947年に始まり、約10年ごとに全面改定されている。今回で6回目になるが、授業時間数は第2回目の改定(68,69年)をピークに前回まで減少し続け、学習内容もそれに伴って削減されてきた。この30年、「ゆとり教育」「オープン・スペース授業」「総合学習の時間」「週5日制の導入」「通知表の絶対評価」「前期・後期制」など、いろいろな表面的手法がとられてきたが、何の効果も上がらなかった。むしろこの30年、子供たちの学力、体力は年々退化していった。今回の学習指導要綱改定は学力低下を危惧する世論の声に押され、「ゆとり教育」路線を転換せざるを得ない状況の中から生まれた感が強い。
 68年にそれまでの教育が「詰め込み」と非難され、「ゆとりある教育」が生まれたのであるが、「詰め込み教育」と言われたそのカリキュラムを、現在43歳前後の人が小中学校を通して9年間履修した。48歳前後の人は中学過程だけを、40歳前後の人は小学過程だけを、そのカリキュラムの下で勉強している。しかしその世代が社会人になって、学校教育の誤りから他の世代に比べて際立って問題が多いという声を聞いたことはないし、生きる力に乏しいと感じることもない。
 私はよく脳力を体の各部位の筋力にたとえる。日常的にその脳を使っていれば、筋力と同様自ずと鍛えられるという考えである。本を読む習慣のある子は、自然と読解力は身に付くし、考えることもする。機械的にでも社会や理科の用語を必要に応じて丸暗記していれば、記憶時間は短縮される。計算問題を繰り返し行なっていれば、スピードは速くなるし、高度な計算も苦でなくなる。このように、学力向上のためには、ある程度の負荷を生徒たちに掛けることは必要と考える。「創造は模倣から始まる。」と言われているように、基礎力を身に付けなければ応用力は生まれない。
 要領や政策がお上から公表されると、国民にもいろいろな人種がいて、立場、収入、環境などから生ずるエゴでものを言う。さらに大学の教授・准教授、評論家、TVのコメンテーターなどがしゃしゃり出てきて、いろいろな御託を並べる。万人に歓迎される政策など、教育に限らずどの分野においてもありえない。民主主義の原則に則って、最大多数の最大公約を求めるしかない。
 そもそもが、子育てを考える際、教育とは何か、その中で学校の役割とは何かという根本から出発しなくてはならない。日本を預かる役人にその意識が不足している。自分の地位と生活の安定だけを求め、国民からの批判を最小限にかわすことのできる玉虫色の案しか考えない。何よりもまず、「保守的保身こそ素晴しい処世術である。」という考えを持つ役人の排除から始める必要がある。文科省に限らず、国交省、農水省、厚労省など、どの省庁にも当てはまる。文科省のある役職以上の子女はせめて義務教育期間だけでも、公立校に通わせる省内命令でも作ってほしい気持ちでいる。今回の要綱改定案に係わった委員も、自分たちの立案が素晴しいと言い切れるのであれば、率先して親類縁者の子女に私立校ではなく公立校に入るように推奨してほしい。
 今日の教育腐敗の元凶は大学(特に国立校)にあると言う人はかなり多い。多くの大学教員は日本、いや世界をリードする研究に日夜励み、尊敬に値する人物であることは十分承知している。しかし、教育における最高学府である大学の教員の中には、人間性あるいは仕事に対する姿勢にかなり問題のある人物が少なからずいて、民間企業のサラリーマンや個人事業者がその実態を知ったら、きっと腰を抜かすほどである。大学教員の組織は商店街の組合に似ている。それぞれが独立して商売(研究)をしていて、基本的に個人の自主性に任せられている。学長・学部長は商店街の会長・副会長みたいな形で鎮座し、余程のことがないと教員に何も言わない。街の商店なら店主が怠けたり、社会のニーズに合わない業種は潰れていくのだが、大学教員は何もしなくても居座れる仕組みになっている。そのような輩を放置し、対処できないでいる大学の疲弊した体質に問題がある。教育現場の頂点である大学がこの体たらくでは、なかなか日本の教育はよくならない。学校教育の現場は低年齢層を指導している教員ほど、モンスター・ペアレンツを相手に忙しく懸命に働いているのが実情である。
 子育ては学校、家庭、社会によって成り立つ。それぞれの役割をプライオリティの高い単語で簡潔に表すなら、学校は勉強と集団行動を教えればよい。すなわち知識と公共の精神の習得の場である。そして、躾やモラルは家庭の役割である。「どうしようもないガキは、どうしようもない親から生まれる。」というのが、私のポリシーであるが、何でも社会の責任に転嫁したがる親には、「まず自分のことを考えてから他人に文句を言え。」と言いたくなる。そして、国や自治体は大局的視野で秩序、幸福のスキームを考えることが仕事である。このように訳の分からない人間も多いご時勢なので、必要に応じて法制化して網をかけることも仕方ない。子育てとは「命あるものに慈しむ」心を持ちながら、「人生を楽しむ」ために「生きる力」を身に付けさせることである。これが私の子育ての基本的な考えである。
 小学校では11年度から、中学校では12年度からこの新学習指導要綱にそった授業が全面実施される。しかし、その効果はあまり期待できそうにない。教師の質の向上、そして現場責任者である校長の強い信念と指導力も必要であるが、何よりまず、日本の将来の舵取り役である文部科学省のトップの役人が、天下り先のことなど考える暇があるなら、額に汗してひたむきに生きている善良な親たちのために、心血を注いで子供たちの幸せを考えることをしなければ、日本の教育が好転することはない。さらに付け加えるなら、日本の将来に希望は持てない。

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