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奇跡の星の上に生存する命 続編

人の一生(100年)を1 Cmにすると、地球の年齢は460Kmになる。」 私はこの話を授業中によくしてきました。私たちの命は地球上に現れた生命たちが累々と積み重ねてきたものの上に存在しています。あまりにも長い歳月のため、私たちとは似てもにつかぬ形体をした様々な先祖たちがいます。後世へのルーツになることもなく歴史の闇に消えていった種も数多くいます。今地球上にある生命のルーツを遡れば、全て38億年前の深海で誕生した生命に辿り着きます。生命は誕生してからも幾度かの大きな環境の変化を経験してきました。巨大隕石の衝突も10回前後ありました。そのたびに種の保存、生命への執着という本能によって、驚異的に危機を乗り越え、命の襷は一度も途切れることなく私たちに手渡されてきました。奇跡に近い偶然が積み重なり、幸運にも恵まれ、私たちはこうして命を授かり生きています。もう一度地球創世を最初からやり直したら、あなたと私との邂逅はもちろん、私たちが同一の個性としてこの世に誕生する可能性はありません。
 【20年、30年前の私が、これと同じようなことを考えて話したかどうかは忘れました。おそらく深くは考えていなかったでしょう。まだ20代の後半から30代の中頃でしたから。ただ、生徒たちに地球の誕生から今日までの永劫と生命の進化を知ってもらい、地球と生命に感謝する心くらいは持って欲しいと思っていたかもしれません。理科、社会の授業中に話していたので、話す機会のなかった学年もあったと思います。それより、聴いた生徒たちの何人が覚えてくれているのでしょう。トホホ・・・。だからもう一度、その授業を再現します。聡子!今度はちゃんと人の話を聞いておけよ。佳子!子供を怒鳴ってばかりいないで、大きな心を持った母親になれよ。和生!子供が大きくなったら、こんな話もしてやれよ。あなたたちの今の年齢は、あなたたちが中1だった時の私の年齢と全く同じです。『青は藍より出でて藍より青し』 俺は嬉しいよ。トホホ・・・。それでは、始めます。】
 地球の誕生は約46億年前に遡ります。100年を1 Cmの距離換算にすると460Km先の地点になります。小田原駅から東海道線で西に進むと新大阪駅あたりになります。生命の誕生は38億年前の深海でした。はじめはアミノ酸が化学的にくっついたり離れたりしているだけのものが、次第に自己の形を持ち増殖することが出来るようになり、生命体になっていったようです(380Km先、米原駅)。それから、地球の年齢の2/3にあたる32億年の歳月を経て、「カンブリア紀の大爆発」とよばれる時代になります。それまでは数十種だった生物が、一気に1万種を越える大型多細胞軟体動物に大変身していきます(60Km先、富士駅)。脊椎動物の祖、魚は4億年前に出現します。それから植物も動物も陸に上がり、植物はシダから裸子、被子植物へと進化していきます。動物は両生類、爬虫類へと進化し、恐竜の時代となり、その頃に哺乳類、鳥類が現れます(20Km先、熱海駅)。人類は500万年前(500m先、小峰トンネル手前)に、そして私たちの直接の先祖であるクロマニョン人(新人類)は5万年前に現れます。たった5m先の地点です。新人類はこの地球上にまだ地球年齢の1/10万の期間しか存在していないことになります。
 しかし人類は、このように脈々と380Km続いてきた生命の継承の結果としての種を、自らの手であと5mmか1 Cm先で途絶えさせてしまうかもしれないと言われています。人類は強い欲望と高い頭脳の持ち主です。今まで通りにやりたいことをしている先に待っているものは、ほぼ確実な破滅です。生命の歴史を振り返ると、絶滅しない種はありません。生きたいと思っても、大きな環境の変化が起これば、適応できない種は否応なしに時代から消え去ります。人類も今の状態のままで何万年も続いていくことはあり得ないと思います。形を変えながら次の時代へと続いていくのか、あるいは生命の歴史から消え去っていくのか分かりませんが、高度な文明を持ち、母なる地球の環境と生態系にまで影響を及ぼすに至った人類は、避けられない環境の変化や自然の淘汰が訪れるより先に、自ら招いた危機によって絶滅する危険性が十分にあると考えています。そうなった時、私たちの生きたこの時代は人類滅亡の時代となります。しかし人類が滅んでも、地球上の生物が絶滅することはありません。一時的なダメージを地球が受けたにしても、時が経ち、環境が回復すれば、新しい生活空間に次の世代の生物が出現します。人類が地上からいなくなったとしても、地球と生命の歴史は、地球が太陽に飲み込まれるまで続いていきます。その時の地球上には私たちの想像もつかない形体の生物が繁栄していることでしょう。
 【多分このあたりのことまでを授業中に話していたと思います。もちろん易しい言葉で、楽しく分かりやすく。そー、思い出しました。親指と人差し指の先を1 mmほどあけて、「お前たちの今までの人生はたったこれだけなんだぞ。」 と、熱っぽく語ったこともありました。なのに、トホホ・・・。続けます。】
 「人は神様が創った。」とか、「人の命は神様から授けられたものだから。」という論理で命の尊さを考える時代では、もうなくなってきていると思っています。とは言っても、まだそう信じている人もいます。しかも「人の命は何物にも替え難いものである。」という命題は、証明の必要もないほどに現代の常識になっています。それに異を唱えることは、社会通念上人格を疑われます。しかし、道徳心、善悪の区別、価値観などの概念は、人類が勝手に作り出したもので、人間社会にしか通用しません。「人類を地球上の生物の1種」 という観点に立つと、それらの概念は全て崩れ去ります。人間以外のあらゆる生命体に、人間の作ったこの概念を適用させることはできません。トラやシロクマの前で「人の命が一番尊いのだ。」と言っても、殺されてしまいます。チンパンジーやゴリラに「森林は人間のものだから、伐採する。」と一方的に言っても、彼らにしてみたら迷惑な話です。「人間が地球の支配者なのだ。」「環境破壊をしても、それを回復する英知を人間は持っている。」と言うのは、人類の傲慢です。宇宙の真理に立って言えば、人間は地球上で生きる権利を誰かに与えてもらったわけでもなく、地球上のリーダーに選ばれたわけでもありません。一人の人間が人間らしく人間社会で生きていくには、社会通念やヒューマニズムはとても大切なものですが、人類の活動がこれほどまでにガイアに大きな影響力を持つに至った現在、人間社会が地球上でこれからも何とか生存していくには、もう一つ上の視点に立つことが不可欠のように思うのです。
 人類の繁栄は極限近くまで達しつつあります。速度も増しています。文明の痕跡を残して自滅するのか、それとも自らをコントロールして破滅の道を避けるのか。今まさに人類の真価が問われている時だと思います。人間社会は長い歴史を経て、人種、身分、貧富を越えた第三者の幸せを考える思想を生み出しました。しかし、科学の進歩が人間の欲望を煽る時代になり、政治家、企業家、先生、親に至るまで似非(えせ)が多くなりました。現代社会(国家から個人に至るまで)の「欲望を満たすためなら、何でもあり」の風潮を見ていると、闘争と犠牲で勝ち得た社会通念もヒューマニズムも消え失せ、逆行している気さえします。本来なら、さらにその上をいく新しい時代に即した○○イズムなるものを考え出さなくてはいけない時代なのです。主義、思想に完成形はありません。現在の価値観、社会通念、人道主義も通過点です。後世の人間が「20世紀、21世紀の人間は何を考えていたんだ。」ということにならなければと危惧しています。
  私は物心ついてから今日まで、学生時代は劣等生、社会人になってからはアウトローで生きてきました。何かに秀でた人間でないことは自覚しています。存在理由を問われても、その意義を答えることはできません。哲学的答えを導き出そうと生きてきた人間でもありません。我慢を多少覚え、努力を人並みにし、感性で生きてきただけの男です。そんな私でも人として現代に生まれたことに感謝しています。地球、生命、私を育んでくれた人々に感謝しています。大自然の中に身を置くと、地球の息吹が聞こえます。夢中になれることをしていると、生まれてきたことの歓びを感じます。自分をさらけ出せる知己と話していると、心の安らぎを覚えます。MPSを良き思い出にしてくれている卒業生に再会すると、「生かされてきた」ことの一端を垣間見ることができます。しかも私の人生は幸せなことに(今のところ)健康で大過ない人生でした。そんな私のできる恩返しは、将来の生命のために母なる地球を大切にすることだと知りました。世界終末時計も2分進んで5分前になりました。(この考え自体、私が勝手に生み出したひとつの概念に過ぎませんが。)

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