三宅学習塾OB会 > トップ > GREEN放言 >夏目漱石(中)

夏目漱石 (中)

月下旬、江戸東京博物館に「漱石展」を見に行ってきた。平日ではあったが開催3日目ということで、大勢の漱石ファン、文学愛好家が詰めかけていた。パネルに紹介されている彼の生い立ちや足跡、年譜の大抵のことは頭の中に入っているので、改めて読むことはなかったが、直筆原稿には漱石に限らず誰の展示会でも魅入ってしまう。漱石は英文学と漢詩にも造詣があったことは有名であるが、蔵書の多さには愕然とした。またメモ魔のようで、米粒大の英文のメモ書きも膨大に展示されていた。江戸、明治時代には紙はとても貴重であり、小さな文字は当時の作家や思想家には共通する習性である。
 作家はひとつの作品を執筆する際、その何十倍もの関係文献や資料を調べると言われている。近年では松本清張、司馬遼太郎が有名である。漱石の世に出た論文、随筆、小説作品のほとんどは、38歳から49歳の12年間に書かれたもので、小説だけでも「猫」から「明暗」まで20編ほど書いている。しかも短編は初期の数編だけで、ほとんどは長編である。作品を書くにあたって取材旅行をしたという話もあまり聞かない。それを鑑みると、幼少の頃から朝日新聞に入社するまでにかなりのメモと思考の蓄積をしていたと考えられる。
 漱石の場合、幼少から思春期にかけての生活環境が、彼に人の愛と利害意識について多くのことを考えさせたように思う。彼は20歳くらいまで決して幸せな生活をしていたわけではない。父親は50歳、母親は40歳を過ぎてからの子で、五男三女の末っ子として生まれ、決して望まれて生まれてきた子供ではなかったようだ。「今更、子供を育てようと思わなかったのに。」と、父親は嘆いたそうである。母親の乳が出ないということもあったが、生後まもなく里子に出される。いったん実家に戻るが、今度はすぐに養子にもらわれていく。
 養家では表面上は贅沢に何不自由なく育てられたが、養子としての複雑な心理状態は自伝的小説「道草」に書かれている。9歳の時、養家から実家に戻ったが、養父が戸籍を移すことを承知せず、夏目家では実の息子でありながら、準養子という不思議な存在であった。漱石が晴れて夏目金之助になったのは、それから12年後の21歳の時である。養父に養育費として240円を支払うということで決着し、長兄の養子として戻ってきた。
 このように、家庭の愛情に乏しく、子供の頃から苦労ばかり多かったので、大人になってから頭が時々変になることがあった。いつも誰かに後をつけられているような気がしてならないと口にすることもあった。生来、繊細な神経の持ち主であり、観察力、論理力にも優れている上に、執筆、創作に妥協しない性格だったので、根を詰めると精神状態が不安定になっていった。この神経症の原因は幼児体験からきていると指摘する専門家もいる。
 ヘソ曲がりで癇癪持ちの上、過度の神経質と胃潰瘍の持病もあるヘンなおじさんであったが、ユーモアを愛し、世話好きで、友人との語らいも好きだった。多忙であっても漱石を慕う人には手を差し伸べた。作家のタマゴ、学校での教え子が漱石邸に集まってきた「木曜会」は有名である。弟子たちが世に出る手伝いを積極的に行ったとも言われている。
 漱石はそんな自分の行為を、「好きで他人の面倒を見ているのであって、見返りなど期待していない。親切とは常に一方通行のものだ。人は所詮義務で働くもので、義務を越える親切を人にしてしまう自分は、貧乏くじを引いた損な性分である。」と言っている。
 この考えが漱石44歳の「修善寺の大患」で一変する。病気療養後の随筆「思い出すこと」の中でこう書いている。
「余は病に謝した。また余のためにこれほどの手間と時間と親切とを惜しまざる人に謝した。この幸福な考えを吾に打ち壊す者を、永久の敵とすべく心に誓った。そうして願わくは善良な人間になりたいと考えた。世の人は皆自分より親切なものだと思った。住みにくいとのみ観じた世界にたちまち暖かい風が吹いた。余は病に行き還るとともに、心に生き還った。」
 いい言葉である。人は病に伏すと、人の親切が身に染みると言う。残念ながら(?)、幸せにも私は大病をしたことがないので、心境の変化を推測するしかないが、漱石がそう言っているのだから、私も大病をしたら人生観が変わるのだろう。
 そして晩年、人生模索の到達点として「則天去私」という言葉を残す。漱石は「この言葉についていつか講釈しよう。」と言っていたが、その説明もなく帰らぬ人となってしまい、「漱石最後の謎」となってしまった。そのヒントは「不自然は自然には勝てないのである。技巧は天に負けるのである。策略として最も効力あるものが到底実行できないものだとすると、つまり策略は役に立たないといふ事になる。自然に任せて置くがいいといふ方針が最上だといふ事に帰着する。」に隠されているように思う。
 おそらく「則天去私」は、決して宗教的教義などではなく、最も現実的且つ合理的な生き方を示唆した言葉と解釈している。私の書斎にもこの言葉は掛けてある。

住 所
〒250-0034 小田原市板橋647番地 三宅学習塾OB会事務局
事務局への投稿などはこちらへ
三宅先生への連絡などはこちらへ