三宅学習塾OB会 > トップ > GREEN放言 >死の旅支度

死の旅支度

の旅支度を始めた。自説「14年周期説」からいくと、私は「余生の時代」にいる。余生の時代(55歳〜69歳)の生存率は生保会社作成の男性標準生命表によると86%で、7人に1人がこの14年間にあの世に行く。更にあと10年して70歳になると「おまけの時代」に入るが、70歳〜80歳の生存率はぐっと下がり70%になる。男性の約 1/3は70代の10年間に亡くなっている。机上の計算では、80歳までに約半数の男性はあの世に行く。私の両親は72歳と75歳で亡くなっているから、私もその前後かなと想定している。
 自分勝手に生きてきた私でも少しは考え、行動して生きてきた。父親の粘り強い教育のお陰だと思っている。母親から授かったDNAも役立っている。人並みに、中学生になったら高校のことを、高校生になったら大学のことを考えた。大学生になったら就職のことを、社会人になってからは生きていく術を考えた。それから先は「生きる」ということがあまりにも漠然すぎて、何を考えたらいいのかわからず、とりあえず目の前のことにenergeticに生きた。そして、40代後半に両親が立て続けに亡くなり、50歳を過ぎた頃から少しずつ死のことを考えるようになり、「余生の時代」に入って、かなり意識するようになった。
 死の支度を始めたからと言って、今すぐ死にたいというのではない。「実は不治の病に侵されていて、余命2年しかなく・・・」ということでもない。健康でいられるならいつまでも生きていたい。この歳になって、人生を少しわかった部分もある。地球のこれからを少しでも長く見ていたい気持もある。ただ、悲しいかな「初め有るものは必ず終わり有り」(揚子法言)で、生を受けたものは必ずいつか死ななければならない。そうであるなら、死の支度も必要だろう。そう考えるようになった。生まれてきたのは意思ではない。死んでいくのも意思ではない。生まれてくるときも死ぬときも、結局、最後は一人。無垢な命と誕生しても、生きていくうちに欲望、愛憎、しがらみに満ちた魂になる。それらを洗い流して死んでいけないものかと考える。愛も、富も、想い出も、そのときに閉じてしまうなら、身辺整理も必要と考える。綺麗に未練なく、できれば穏やかに死んでいきたい。
 実は私の父親もかなり長い自叙伝を書き残して他界した。死の前日、私にこう言った。「亘、俺の一生を書いておいたので、それを読んでくれ。」と。これ以外に、三点ほどの遺言らしきことを残して亡くなっていった。ここに書くことでもないので省略するが、今でもその四点は頭にしまってある。父親の自叙伝を読んで、両親の死後に知った事実がいくつもあった。また、いつ来るかわからない死に対し、生前にしておきたいことを実践し、物質文明に毒された有象無象を整理しておくことは必要なのではないかと考えた。そのためには、老後こそ健康であることが必須である。「延命措置はするな。」と、弓子に伝えてあるが、突然死はもっと悲しい。人生が未完成で終わるような気がして。
 このHPの原稿書きも死の支度のひとつになっている。この歳になって、人生ってこんなもんだったのかと思うことがある。人生にはその歳にならないとわからないことも多い。親しい人に伝えておきたいメッセージもある。四方山話も楽しい。書きたいことを私の言葉で書かせてもらえる立場を幸せに思う。余談であるが、塾を始めた時の父親の一言が「月謝泥棒になるな。」、母親の一言が「大事なお子さんを預かるんだからね。」であった。紆余曲折がありながらも、その言葉を忘れなかったことで、今日の自分がある。私は各人の人間形成にはライフスタイルや職業が大きな影響を与えると考えている。田舎塾の一教師として生きてきたことは、identityの根幹をなす。
 折に触れ両親に言われた言葉が、今も血液の中を流れていることは以前書いたが、その体内管理システムが最後に投げかけた問題がこの「死の旅支度」かもしれない。「死に様とは最後の生き様である。」と言う人もいる。そのためにはどうしたらいいのか考え、行動し始めた。それを「死の旅支度」と名付けたのである。ユーゴの格言にある。「われわれの生まれ方は一つだが、死に方はさまざまだ。」 長い人生、生き方を学んできたつもりでいたが、実は死を学んでいたのかもしれない。

住 所
〒250-0034 小田原市板橋647番地 三宅学習塾OB会事務局
事務局への投稿などはこちらへ
三宅先生への連絡などはこちらへ