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夏期キャンプの裏話 その2

期キャンプは’70〜’91の22年間にわたって延べ17回行われたが、班対抗戦などの雛型ができたのは’74の第4回からである。第5回まで私は本部と班の両方の責任者を兼務したが、それ以降は参加者も増え、第11回大会までは当然のこととして本部専任になってキャンプ全体を仕切った。しかし、キャンプの楽しさは自由時間と班対抗戦にある。本部ばかりじゃつまらない。そこで、スタッフ会議の席で「お前たち、俺、本部ばかりじゃつまらないよ。どこかの班に入れてくれ。」と言って、第12〜14回の3回だけ班に入れてもらった。第15回以降は、そのままスタッフの有志に本部を任せ、私は遊軍的立場でキャンプ全体を管理した。だから、第14回(’86)キャンプの班員は私にとって最後の班の仲間ということで、とても記憶に残っている。その仲間とは、班長が佳子で、班員は将光、岳人、柏岡、加奈子、小宮山であった。(本人の了承は得ていないが、当時の呼び名[実名]で書く。)
 どうして、またキャンプのことを書く気になったかというと、実はこの1年足らずの間に、この班の仲間たちと次から次へと偶然出会うというサプライズが起こったからである。最初に出会ったのは加奈子。20年近く1度も会っていなかったが、昨年の秋口、行きつけの飲み屋で会った。彼女だとすぐ分かった。私が店に入ったときには、すでにかなり出来上がっていた。このことは昨年9月の「グリーン放言」にも書いた。それから2〜3ヶ月して、将光とゴルフ練習場の打席に向かう通路でバッタリ鉢合わせ。二人とも一瞬freeze した。彼とは12〜3年ぶりである。そして、今年の正月、OB会に班長の佳子が来てくれた。彼女とは10年くらい前に 1度会っているが、やはり久しぶりである。4人目は岳人。将光と会った同じゴルフ練習場で先月出会った。最近ゴルフを始めたとのことで、「上手になったら、いつか一緒に回ろう。」という言葉を交わして別れた。彼とは数年前に塾卒業生の結婚式に参列した時に会ったが、テーブルが違っていたので話はしなかった。この8ヶ月間に、班員6人のうち4人と会ったのである。うち3人は偶然に。何と言う奇遇だろう。岳人と逢った後、「ん?俺、死期が近いのかな」と思った。あとの二人は、柏岡と小宮山であるが、この二人とも会いたい気もするが、もしそれが偶然なら本当に死んでしまうかもしれないので複雑な気持だ。4人に会って感じたことがある。みんな、話し方、雰囲気、持っているものが昔と同じなのだ。鮮やかに第14回(’86)キャンプのことが蘇った。ちなみに、その時昭和61年、私は38歳であった。
 その年はキャンプを開催することにはなったが、班長の器量を持つ高一、中三男子生徒の人材が足らなかった。それなら女生徒にやらせてみようということになり、当時中三の佳子に白羽の矢が立った。長いキャンプの歴史の中で、班対抗戦が始まった1年目、2年目には女性の班長もいたが、班対抗戦が本格化、激化してからの女性の班長は佳子しかいない。班対抗戦は、体力、知力、作戦力、企画力の他に、班員を統率する力も必要になり、どうしても女性の班長は不利である。そこで、彼女の補佐をするために私が責任者になったと思う。女性が班長なので、班員は全員、素直で減点の少ない一年生にするよう勧めた。それのが指導しやすいと考えたからだ。しかし、彼女はその考えに初めはあまり乗り気でなかったように記憶している。果たして班長以外全員一年生で、どこまで上級生に対抗できるのか、そのことは私も危惧した。しかも班長は女性(外見は・・・)。しかし、キャンプの班対抗戦はまず班がまとまることが第一であることを知っていた私は賭けに出た。
 私の思惑はうまくいった。結果は素晴らしいものになった。中一生全員が先輩たちに立ち向かった。演芸、歌戦に好成績を残し、一番心配したマラソンも岳人が中一生ながら無事アンカーを務めた。優勝班と1点差の堂々の準優勝。班全員がひとつになって頑張った結果である。全体を管理する上での雑用の多い私は、班単位の活動時の半分も班員の近くにいられなかったと思うが、班長の佳子が持ち前の明るさと、人当たりの良さで、キャンプ初参加の班員を上手にまとめてくれたのだと思う。中一生もみんな明るく、素直で、初々しい班だった。特に柏岡が班の雰囲気を和ませていた。「口の悪い先生がこれほどまでに言うのだから、班長の佳子さんという人はさぞかしMPSの模範生だったんだろうな。」と、彼女のことを知らないほとんどの卒業生は思っているかもしれない。本人の名誉(?)のために言っておく。決してそんなことはない。彼女は高校卒業までの6年間MPSに通ってくれたが、勉強面ではとても世話のかかる生徒だった。否、残念ながら不運にも学年全体がそうだった。(ネー、証人の伊藤君。)ただそれを除くと、明るく、活発なとても素直な生徒だったから、班長になってもらったんだが・・・。(彼女以外の班員も結果的に、5名中4名はそれから6年間、高校卒業まで教えることになる。)
 たとえ4日間でも、ひとつテーブルで同じ飯盒のメシを食べ、一緒に一喜一憂しながら過ごした楽しい日々の思い出を共有した人は、誰にもそういるものではない。あなたの30年、40年を振り返って、とりわけ楽しい思い出の中にいる人たちは、これからいつまでもあなたの記憶に残っていく人たちである。還暦近くになってつくづくそう思う。基礎の時代、選択の時代に、家族だけでなく恋愛、友情、趣味など幅広くたくさんの思い出を作っておきたい。あーそうか、ご免!あなたたちの多くはもうその時代を過ぎてしまったんだ・・・。でもネ、そんなに疲れきった生活をしていないで、もっとアクティブにこれからも生きてください。人は歳を重ねるごとに、いつかは想い出を食べて生きるようになるんだから。子供たちにも若き日々の価値を教えてあげてください。熱く生きることの素晴らしさを話してあげてください。私はこの歳になってもまだ想い出作りに勤しんでいます。多少の向上心も、好奇心もあります。健康でいられることはありがたいことです。明日は何をしよう。どんな誘いがあるだろう。どんなサプライズの出会いが演出されているだろう。そう考えたほうが、人生は楽しいじゃないか。不条理な世の中、楽しいことがあるから生きていられる。他人に迷惑をかけないのなら、義務を果たしているのなら、少しぐらい我が侭でもいいじゃないか。それが人間だもの。(最後は相田みつを語調になってしまいました。)

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