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グレーゾーン 〜 白と黒の間に 〜

と黒の間には灰色がある。誰もが知っていることである。しかし、白と黒は一色だが、灰色は明度によって何種類もある。このことに気付いている人は少ない。日本人の心の中には、この灰色の文化があった。グレーゾーンの意識を大切にし、それをうまく生活の中に役立ててきた。それによって秩序が保たれてきた。子供の頃、両親から「人に疑われるようなことはするな。」「怪しまれるようなことをするお前も悪いんだ。」「人様に迷惑をかけるな。」と、よく言われてきた。たとえそれが、法に触れるようなことでなくても、「騙すな。嘘をつくな。約束は守れ。」と、口うるさく言われてきた。このグレーゾーンの教育が、よい面も悪い面も今日の私の礎になっていると思う。
 現代日本は、生活様式や経済活動がアメリカナイズされていく中で、文化の根源である言語も大きく変わってきた。言葉は心の具現化したものである。グレーゾーンの言葉を使わなくなってしまったことは、その意識の衰退を意味している。「MOTTAINAI」という意識は、まだ使えるものを捨ててしまうことに罪悪感を持ち、生まれた言葉ではないのだろうか。ケニア人に再認識させられているようでは、日本人の心も地に堕ちたものだ。「世間様に申し訳ない」も、sorryやpardonとは少しニュアンスが違っているように思う。他にも、「義理(英語ならduty)」、「恩(kindness)」、「だらしない(loose)※古語では『しだらない』」など、日本語ならではの言い回しがたくさんある。こんな意識が日本の文化と秩序を維持してきた。
 純白の心のままに、一生を終わる人はほとんどない。生まれた時から、心の黒い人間もいないと思う。人はグラデーションされたグレーのどこの明度段階(stage)に立って考え、生きているかによって、倫理感、道徳心、礼節などの社会規範の認識が異なってくる。何をしたら、どこまでしたら、「悪いこと」になるかによって、人の心が白に近い灰色なのか、黒に近い灰色なのか決まってくる。すなわち良心の決定である。グレーのstageは欲望と自制のバランスによって決定され、忍耐と努力によって維持されている。
 何度かこの『グリーン放言』でも、法に触れなければ、何をしてもいい時代になってしまったことを憂いてきた。現在では、グレーゾーンの認識を持たない真っ黒の人間も多くなってきた。そんな世の中に生きていると、少しぐらい悪いことをしても、何とも思わなくなる。世の中がだんだん黒くなってくると、自分の心も少しくらい黒い灰色になっても気付かなくなる。「こんなことぐらいしてもいいだろう。」と、私のような小市民はよく考える。そんな邪心を抑止させるのが、子供の頃から教わってきた倫理、道徳、礼節などの社会規範である。
 ほとんどの人が善悪の基準を持っている。悪いことをしようとしたり、怠けたり、誤魔化そうとする時、「待てよ!これって俺の基準では悪いことになっている。」と、もう一人の自分が制止にはいる。すると、それは中途で終わってくれる。しかし、あまりに欲望が強すぎて自制心が働かず、悪いことをしてしまう場合がある。そんな時は事後に、自己の善悪の判断基準が崩れたことを知り、自己反省をする。適切な反省ができないと、矛盾を排除しようと言い訳を用意する。そして自己嫌悪に陥る。こんなことを繰り返して、グレーゾーンのスパイラルを昇ったり降りたりしている。
 グレーゾーンをある程度悪いことかもしれないと認識している人が、黒のカテゴリーの行為まですることは少ない思う。仮に魔が差してしてしまったにしても、自分の行為を悪いことと認識できる。問題なのは、白と黒の意識しか持たない人間たちである。彼らにはグレーのカテゴリーの行為が他人に迷惑を及ぼすかもしれないという認識はない。思考範囲が狭く、自分の判断基準を絶対であると思い込んでいる。だから、何の罪悪感もなく、何の抵抗もなく平然とルール違反をする。この種の人間は始末に負えない。彼らは人の話をきかない、人の話がわからない人間であることが多い。
 子供には幼い頃から、グレーゾーンのstage認識を教育しておく必要がある。その教育をするのが、親として、大人としての第一の責務であると考える。「自分も同じことをされたらいやだ。」という認識を持てば、「法に触れなければ、何をしてもいい。」という発想にはならない。相手の立場にたって考えることもできるし、社会への迷惑も考えるようになる。TPOをわきまえない携帯電話使用のマナー違反などは、法に触れなければ何をしてもいいという典型的な事例である。それが高じてくると、黒のゾーンに入る。姉歯、小嶋、ホリエモンになる。
 昔の人は「嘘はドロポウの始まり。」と言った。これは、保身のための嘘をつくようになると、黒のゾーンの悪事をしだすという戒めである。現代では、マナーを無視したり、時間を守らないで他人に迷惑をかける人間、あるいは金儲けのために法の隙間を利用して、他人に被害を与える人間が多くなってきた。このようなことをする人間は、これらのことが嘘と同じ明度のグレーのstageである認識を微塵も持っていない。法律というのは法治国家においては、社会の絶対規範である。しかし、それは守るべき最低限のルールにすぎず、「法を犯さなければ、何をしてもいい。」ということではない。大学時代の先生が、「世の中や人の心がいびつになると、それだけ法律が多くなる。」と言った言葉を思い出す。
 一方、このような人間の対極にいる負の行動(何もしないこと)の人間も悪と考えている。自分に甘くなってきた現代社会では、「やる気がしない」「面倒臭い」と言って、行動を起こさない「努力しない」人間が多くなってきた。いわゆる怠慢人間である。彼らの心には、やはり「自分さえよければいい」という考えが宿っている。学ぶことをしない学生、片付けられない女性、大学に来ない教授、税金泥棒の役人‥‥この種の人間は確かに法律違反をしているわけではない。しかし、家、会社、世の中が自分のような人間ばかりになってしまったら、どんな状態になってしまうのか、一度でも考えたことがあるのだろうか。誰にだって、したくないことや億劫な気持ちになることはよくある。そこに義務感や、世間体や、折れそうな自尊心などのグレーの意識が頭をもたげ、楽をしたい誘惑と日々戦って、みんな生きている。
 法律至上主義ではシロかクロかしかない。法に触れていても、見つからなければ、証拠がなければシロである。現代は車の運転と携帯電話の使用法で、その人間のグレーの明度段階がわかる気がする。飲酒運転も違法駐車も一向に減らない。携帯電話の着信音はどこでも鳴っている。街はついでに生きているような若者であふれている。ガキはそこら中をわめき走り回っている。それを見て、母親は知らん振りをしている。平然と嘘を言う生徒も多くなった。大人がグレーゾーンの認識を持ち、子供にその認識を伝えていくことが、マナーや秩序の乱れを正す道ではないかと考えている。

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